27.要離と孫武
- 1. 春秋篇 第 27 集
三約伐楚(要離と孫武)
要離に不意打ちで刺される元の呉王・僚の子・慶忌
- 2. 第 27 集 三約伐楚(要離と孫武) -春秋篇-
―あらすじ―
専諸によって呉王・僚は殺され、公子・光はようやく王位を射止め、呉王・闔閭(こうろ)
となった。しかし、伍子胥(ごししょ)が望む楚征伐を決行する前に、まだやらねばならない
事が二つあった。一つは、現在亡命中の呉王・僚の子・慶忌(けいき)を殺して後顧の憂いを
除くこと。そして二つ目は、対楚戦を指揮する優秀な兵法家を確保することであった。
1 楚の伯嚭、呉に亡命する
一方、隣国の楚では、平王が亡くなり、元の太子・建のために秦から輿入れした孟嬴(もう
えい)と平王の間にできた子・昭王の代になっていた。そして平王に孟嬴を勧めた例の費無極
(ひむきょく)はまだ健在であった。
当時、費無極は、昭王の寵愛を受けるようになった伯郤宛(はくげきえん)に嫉妬の炎を燃
やしていた。そこで費無極は、また悪だくみをして伯郤宛を罪に落としいれ、彼の邸を焼き払
わせ、伯郤宛を自殺に追いやった。しかし、伯郤宛の子・伯嚭(はくひ)は、郊外に逃れた。
その後、伯嚭は、伍子胥が呉王の寵愛を受けていることを知り、さっそく呉に逃げ、伍子胥
を訪ねる。
楚からの亡命の旅を
終え、伍子胥(中)の胸
に飛び込む伯嚭(右/
背中)
左奥は、その伯嚭の様
子をウサンクサそう
に眺める呉王・闔閭
そして伍子胥の仲介で、共に呉王・闔閭に仕えることになる。
2 要離、慶忌を刺殺する
話はまた呉にもどる。呉王・闔閭は、呉王僚の子・慶忌が北の衛国で、王位を奪回するため
- 7. それを見た孫武、真っ赤になって怒り「命令を無視する者は、軍法において死罪に値する。
(傍らの死刑執行役に向って)こいつ等を連れて行け!」と命じる。
←怒る孫武
その様子を上から眺めていた闔閭は、自分の愛する妃たちが殺されようとしているのに驚き、
慌てて孫武を止めた。すると孫武は「軍の命令が聞かれず、軍法が行われないという噂が広ま
れば、シモジモの者達も真似をし、呉国は滅びるでしょう。これは冗談ではありません。です
から私は軍法を執行いたします」と言う。
しかし闔閭は二人の妃への未練を断ち切れない。そんな闔閭の様子を見て孫武は言う:「呉
王様は私に軍事演習をするよう命令されました。そこで私は散々彼女らに指令を与えましたが、
彼女らは聞く耳をもちません。これは単に軍法を軽視している訳ではなく、呉王様をなめてい
るのです。このような女達になめられた状態で、呉王様は果たして天下の覇者となりうるでし
ょうか?」
この言葉にグッと詰まった闔閭は、結局、孫武に妃らを斬ることを許し、演習を続けさせた。
隊長二人が斬られるのを目の辺りにした女性兵たちは、その後は態度を急変。孫武の命令どお
り、一糸乱れぬ演習を行った。
- 8. 急に、き
ち ん と
し だ し
た 宮 女
部隊
こうして、その実力を見せつけた孫武を軍師に起用し、闔閭は、BC 506 年、伍子胥に六万の
兵を率いさせて楚に攻め入るのであった。
(→「第 28 集 掘墓鞭屍」につづく)
-感想-
今回は、2 要離、慶忌を刺殺する の要離について述べてみよう。
要離は刺客だが、同じ刺客でも前「第 26 集 専諸刺僚」の専諸と決定的に違う点がある。そ
れは、専諸のエピソードは「春秋左氏伝」をはじめ「史記・刺客列伝 / 呉太伯世家 /伍子胥
列伝」などの史書に載っているのに対し、要離の方は全然載っていないのである。
では、要離は架空の人物なのか? と言えば、かならずしもそうではない。
「呉越春秋」とい
う史書には、かなり詳しく要離のエピソードを載せている。たぶん、「東周列国志」は、この
「呉越春秋」から話を取ったのだと思われる。
それでは、なぜ、「左伝」や「史記」と言った権威ある史書は、要離を無視するのだろう。
それには二つの理由があると思う:
先ず一つは、専諸が殺した相手は呉王であり、その事件によって、一介の公子であった光が、