More Related Content
Similar to 14.辛酸をなめた重耳(ちょうじ)、ついに晋の文公となる
Similar to 14.辛酸をなめた重耳(ちょうじ)、ついに晋の文公となる (19)
14.辛酸をなめた重耳(ちょうじ)、ついに晋の文公となる
- 1. 春秋篇 第 14 集
ちょうじ しん
重耳返晋(辛酸をなめた重耳、ついに晋の文公になる)
文公として即位した重耳。この時既に 62 歳。いいお爺さんだ。
- 2. 第 14 集 重耳返晋(辛酸をなめた重耳、ついに晋の文公になる) -春秋篇-
―あらすじ―
斉を出国した重耳ら一行、その後の道のりも決して平坦ではなく、曹や鄭といった小国の君主
から辱められる始末。
そこで、今度は南の大国・楚に向った。楚の成王は、重耳を諸侯並みの待遇で迎えてくれたた
め、重耳はここでやっと人心地つくのであった。しかし、成王の部下・子玉将軍は、重耳が将来、
楚の脅威となることを考え、密かに重耳を殺そうと企てていた。その頃、成王が宴会を催して重
耳を招待したので、子玉将軍は重耳の隙をうかがう。
重耳を諸侯の礼でもてなした成王は重耳に言う:
「重耳殿が将来、晋侯になられた後、このワシ
に何を報いて下さるおつもりかな?」
重耳は「美女や玉や絹といったものは、成王様は既にお持ちですし、羽毛や象牙、なめし革な
ども元々貴国の産物です。ですから私といたしましては、何をお返ししたら良いのか見当がつき
ません」と答えた。
しかし、成王はそれでも強引にお返しを要求する。そこで重耳は言った:
「お陰をもちまして帰
国できましたあかつきには、成王様をお手本に国の繁栄に努める所存です。そして万一、不幸に
も晋楚両国の間で戦争が起きた場合、私は楚王様のために自軍を三舎(90 里)撤退させましょう」
それを横で聞いていた子玉将軍、
「やはり重耳は不穏な考えを持っている」と判断し、早速兵を
集めて重耳殺害を図る。しかし、重耳の傍で控えていた趙衰、とっさに機転をきかせ、この危機
から重耳を救うのだった。
その頃、晋では恵公(夷吾)が重病に陥っていた。そこで晋の狐突大臣は、その旨を楚にいる重
耳に知らせ、晋と国境を接する秦の穆公に援軍をお願いして晋に帰国するよう重耳に手紙を書き
送った。
一方、恵公の腹心である呂省(りょせい)と郤芮(げきぜい)も密かに秦に使者を出し、秦で人質
となっている恵公の太子・圉(ぎょ)に「秦を脱出して晋に戻る」ことを勧める。
最初、圉は秦軍の護衛のもとに帰国しようと考えたが、使者が「そんなにノンビリしていたら重
耳に先を越されますよ」と忠告。圉は急に帰国する気になる。そこで、妻である懐贏(穆公の娘)
に一緒に晋へ行こうと誘う。
が、彼女は「私は父・穆公の命を受けてあなたに嫁いだのです。ここで逃亡したら父の命に背
くことになります。でも、あなたは晋の太子ですから晋侯になられるのは当然のこと。私はここ
- 3. に残りますが、あなたのことは誰にも言いません。安心してお行きなさい」と言う。
↓「もう夜が明けたわ。晋にお行きなさい」と圉(左)に言う懐贏(右/奥)
こうして太子・圉は秦を脱出して晋に至り、恵公の後を継いで懐公となる。
太子・圉が秦を脱出して間もなく、重耳ら一行は秦に入った。そして穆公とその夫人である伯
姫(重耳の腹違いの妹)と挨拶を交わす。
穆公は重耳の謙虚な態度を評価するが、それが単なるうわべだけではないかと疑う。そして本
当に自分に忠実かどうかを試すため、娘・懐贏(重耳の甥にあたる圉の元妻)を重耳に嫁がせたい
と言い出す。甥の嫁と結婚するのはタブーである。重耳は「そんなことをすれば世間の笑いもの
になる」と拒絶しようとした。しかし、そのタブーを犯さなければ穆公の信用が得られない。重
耳の進退は窮まった。
するとそこへ妹である伯姫がやって来て「兄上、笑いものになるのは兄上ではありません。太
子・申生を謀殺した驪姫、恩を仇で返した夷吾、信義にもとる太子・圉、この三人こそ世間の笑
いものです。穆公様は兄上に皇女を嫁がすことによって、兄上の真心を見ようとしておられるの
- 4. です。ですから、個人的な節操にこだわって晋の復興という大業をお忘れにならないで下さい。
晋国の前途はすべて兄上の双肩にかかっているのですよ」と言う。
「夫・穆公が兄上に婚礼を勧めたのは、
秦国と晋国の友好に対する兄上の熱意
を試そうと考えたからなのです」と伯姫
さすがに、こうまで言われては返す言葉もない。重耳はシブシブ、懐贏を娶る決意をする。
しかし、晋の復興のためとは言え、不本意な結婚である。懐贏に対する重耳の態度は常によそ
よそしい。それに気づいた懐贏、重耳の無礼をなじると、重耳は慌てて謝り、ついに「晋のため
に不本意な結婚をした」と本心を打ち明ける。すると懐贏は、意外にもそんな重耳に同情し、形
だけの夫婦でいることに同意する。重耳は、逆にそんな懐贏をいとおしく感じ、二人の仲はかえ
って深まっていくのだった。
急速に仲良くなる
重耳(左)と懐贏
(右)
- 6. 燃え盛る錦山
で、今後のこ
とを話し合う
介子推(右)と
母親(左)
母親は「もう七十を過ぎて、老い先も長くない私が、お前に恥ずかしい思いをさせる訳にはい
かないよ!」と言うなり、介子推の手を振り払い、近くにあった木に頭を打ちつけて死ぬ。母親
の死体を抱えて泣き叫ぶ介子推。
こうして母親を失った介子推は、自分も燃えさかる山中で亡くなる。
この悲惨な結末を知った文公は、錦山のふもとに介子推母子を祭る祭壇を設け、祈りを捧げた。
そして介子推を記念して錦山を介山と改名。また介子推が焼け死んだことを悼んで、その翌年か
ら、火を使わないで食事をする所謂「寒食節」という日をもうけて介子推を偲ぶことにした。
「毎年、この日を寒食節と呼ぶことにする」と
重耳(文公)
(→「第 15 集 文公成覇」につづく)
- 7. ―感想―
今回で、重耳の放浪生活も終わり、やっと帰国できた。めでたし、めでたし!
ところで、その 19 年間の放浪生活の内容をふり返って見るとみると....
43~55 才(12 年間) 狄在住 →衛を通って斉へ
55~60 才( 5 年間) 斉在住 →曹、宋、鄭を通って楚へ
61 才頃 楚在住 →秦へ
62 才頃 秦在住 ⇒晋に帰国
となる。こうして見ていくと、19 年と言っても、その内 12 年間は狄で、5 年間は斉でと、計 17
年間は家族と共に安定した生活を送っている。だから、思ったほど辛い亡命生活とは言えないの
ではないか? 何と言っても重耳は晋・献公の息子だから、それなりの優待は受けていたのだ。
(冷遇された時もあったけれど…)
この重耳の亡命生活に比べれば、孔子(重耳より約 150 年後に誕生)の放浪生活はかなり悲惨だっ
たのではないか? 何しろ重耳と違って身分が低い、だから、そのままだと誰も優遇してくれな
い。孔子は、実力と運がものを言う世界で戦わざるを得なかったのだ。
ためしに、孔子が故郷・魯を離れていた 14 年間の内容を追ってみよう:
56 才~ 衛在住(10 ヶ月) →匡(宋)、衛、曹、宋、鄭を通って陳へ
60 才頃~ 陳在住(3 年間) →衛、(晋)、衛、陳、蔡、葉を通って蔡へ
63 才頃~ 蔡在住(3 年間) →楚、衛を通って魯へ
69 才 ⇒魯に帰国
14 年間の放浪で、一ヶ所に留まった最長記録は、たったの 3 年。あとの国には、平均半年間隔で、
計 7 年間、移動を繰り返していたことになる。
それに比べれば、重耳の放浪生活など、たいした事ではないかもしれない。いやいや、それでも
諸侯の子弟としては、苦労をした方だろう。だからこそ重耳は、春秋の五覇の中でも、斉の桓公
と一、二を争う人物なのだ。