原書「東周列国志」における“死士豫譲”
- 1. 原書「東周列国志」における“死士豫譲”
―あらすじ―
晋では、頃公が即位したころから(BC 525 年-春秋後期-)、六卿(范氏、中行氏、
智氏、趙氏、魏氏、韓氏)の勢力が強くなっていった。そして、頃公の次の代である
定公の時代になると、六卿の間での勢力争いも、激しさを増してくる。
まず、中行氏と范氏が互いに婚姻関係を結び、韓氏、魏氏、智氏らと反目する。ま
た、趙氏の一族である趙午は、中行氏と婚姻関係にあったが、趙氏の当主である趙鞅
が趙午を誅したため、中行氏が激怒する。そして中行氏は、范氏と共謀して趙鞅を討
とうとする。
一方、智氏、韓氏、魏氏は、中行氏と范氏が強大になることを恐れ、晋の定公と共
に中行氏と范氏を討つ。その結果、中行氏と范氏は、朝歌、邯鄲、柏人と、次々場所
を移動して逃げ、最後には斉国に亡命することになる。
柏人では、范氏の家臣・豫譲が、智武子(智氏の当主)の息子である智宣子に捕ま
る。 智宣子の息子である智瑶は、
が、 豫譲を見込んで縄を解いてやる。そして豫譲は、
ついに智氏の家臣となる。
ところで智宣子は、かつて智瑶を自分の後継者立てようと考え、親戚の智果にその
ことを相談した。すると智果は、「貴殿の後継者には智宵がよい」と言う。
その理由を尋ねると、智果は「確かに智瑶は、立派なヒゲと体格を具え、弓道や馬
術に長け、技芸にすぐれ、勇猛果敢で、頭脳明晰という5つの長所がある。しかし、
貪欲で残忍であるという短所もある。この残忍貪欲という欠点は、将来きっと智家を
滅ぼすことになるだろう」と言う。
しかし、智宣子はその意見を取らず、ついに智瑶を後継者に指名した。
一方、趙鞅にも後継者候補が数人いた。その中で、長子を伯魯と言いい、末子を無
恤と言った。ある日、子卿という占い師が晋に来たため、趙鞅は息子達の将来を占わ
せたところ、子卿は「将来、将軍になれる方はこの中にはおられません」と答える。
趙鞅がショックを受けていると、子卿は「私が此処に参ります折、このお屋敷の召使
を従えた少年に出会いました。そのお子様もご子息ではないのですか?」と言う。
- 5. れを否定し、智伯は愚かにもそちらの方を信じてしまう。
その事を後で知った郗疵は、「智伯の命運は尽きた」と嘆き、急病になったと偽っ
て、秦に亡命してしまう。
一方、智伯の言葉に驚いた韓氏と魏氏は、もう猶予ができない悟り、趙氏と共謀す
ることを決意する。そして、彼らは密かにダムを守っている智伯の軍隊に攻め、ダム
の水の向きを、晋陽城から智伯の陣営に変える。
するとたちまち、智伯の陣は水浸しになり、眠っていた智伯も濡れネズミとなる。
そして水かさが更に増し、身動きが取れなくなった頃、豫譲が舟をこいで来、智伯を
救い出す。と、向こうから韓、魏両軍の兵士らも舟に乗ってこちらにやって来る。彼
らは口々に「智瑶を捕かまえろー!」と叫んでいる。
豫譲は智伯に言う:「とりあえず龍山に隠れ、奴らが去った後、秦にお逃げ下さい」
そして、舟を龍山のふもとにつけようとする。ところが趙無恤がそれを予知し、そこ
に兵を伏せさせていた。その為、智伯は捕らえられ、豫譲は戦うが、多勢に無勢、つ
いに只一人になったため、石室山に逃げ込んだ。
趙無恤は、智伯を捕らえると、彼の悪行を数えあげた上で殺した。そして韓氏、魏
氏らと共に智伯の一族を滅ぼし、その土地を三分する。だが、それでもまだ恨みが解
けない無恤は、殺した智伯の頭蓋骨を半分に割った上、漆を塗り、それを尿瓶として
使うのだった。
石室山でその話を伝え聞いた豫譲は涙を流して言う:『知者は己を知る者のために
「
死ぬ』と言う。智伯の領地は奪われ、一族は滅ぼされ、さらに遺骨まで辱められた。
智伯の恩を受けた私が、このまま生きながらえていては、男がすたる」
そこで名前を変え、奴隷になりすまし、匕首を潜ませて趙氏の厠へ潜入。趙無恤が
来たら刺殺してやろうと待ち構えていた。
ところが、趙無恤が厠へ来た時、急に胸騒ぎがしだした。そこで、家来に厠の周囲
を探らせると、果たして豫譲が捕まえられる。懐の匕首を見つけられた豫譲は、観念
し、無恤を刺すつもりだったと自白する。
それを聞いた家来たちは、その場で豫譲を殺そうとするが、趙無恤はそれを止めて