忠義の英傑・関羽、天に帰す
- 2. 第 59 集 走麦城(関羽、魏軍と呉軍の挟み撃ちにあい麦城に敗走)2009.9.7 更新
―「3時間で~」第 59、60 話参照
チャプター① 長江。関羽の烽火台を襲撃するため、商人に化けた呂蒙の兵士たち、船をこぐ~
チャプター② 解説「徐晃が善戦し、樊城の曹仁はこれに呼応、関羽を挟み撃ちにした」~
チャプター③ 敗走を繰り返す関羽軍。解説「追い詰められた関羽は敗残兵と共に荊州に向った
が、呉軍に追撃されたため、とりあえず麦城に避難し…」~
チャプター④ 兵糧の乏しい麦城から脱出しようとする関羽の前に部下・王甫が進み出て、「脱
出を成功させるため、私はここに残ります」と言う~
~雪原。呉軍に捕らえられ、後ろ手に縛られて歩く関羽、関平父子。
本第 59 集のあらすじは以下の通り(1→6):
1関羽は樊城に立てこもる曹仁軍(魏軍)を包囲していたが、曹仁救援に派遣された徐晃軍に襲わ
れ、形勢不利となる。
2しかもその時、関羽の本拠地である荊州が呉の呂蒙に奪われたとの知らせが入った。そこで関
羽は先ず荊州を奪回しようと考え、荊州に近い公安の城を駐屯地にするため公安に向う。
3ところがその時、伝令がやって来て、関羽の部下であった傅士仁(公安の守備隊長)と糜芳(南
郡の守備隊長)が共に呉に投降したと言う。本拠地である荊州だけでなく駐屯地まで失った関
羽は、仕方なくそのまま荊州に向う。
4しかし、何度も呉軍の襲撃にあい、率いる兵もわずか三百人となる。そこで、ひとまず麦城と
いう小城に篭城する。が、その麦城もすぐに呉軍に包囲される。この時すでに成都の劉備には
救援を要請する使者を出していたが、何しろ成都⇔荊州は遠いので、なかなか援軍が来ない。
5そこで、この麦城に近い上庸という城を守備している劉封(劉備の養子)と孟達に援軍を要請す
る。劉封は最初援軍を送ろうと考えたが、孟達に「関羽は以前、劉封殿が劉備殿の跡継ぎにな
ることを反対した事をご存知ないのですか?」と言われたため、怒って援軍を送らなかった。
劉封(右/背中)に関羽救援を拒否するよう
そそのかす孟達(左/正面)
- 4. 武勇に優れた関羽も
雪道には弱い?
こうして関羽は捕らえられ、処刑されてしまう。
ここで関羽の主な敗因を挙げてみたい:
Ⅰ「魏と呉が同時に攻めてきた場合、呉と同盟を結び、魏と戦う」という孔明の忠告を忘れ、呉の
孫権の息子と自分の娘との縁談を、けんもほろろに断った。それによって、孫権に荊州攻撃の
決意を固めさせた。
Ⅱプライドが高じて傲慢になり、油断した(例:
「荊州の対岸・陸口の守備についた若く無名の呉
将・陸遜では荊州を攻撃できまい」と侮り、荊州守備兵の数を減らしてしまった)
Ⅲ同じくプライドが高じて独善的となり、部下の忠告を無視した(例:
「傅士仁と糜芳がやる気を
無くしているので公安、南郡守備を別の人に替えた方がよい」との部下・王甫の忠告を無視)
Ⅳ部下や後輩に対する日ごろの厳しさや冷たさが、裏切りを呼んだ(例:火の不始末をやらかし
た傅士仁、糜芳には棒打ち四十回の刑を与え、劉備の養子・劉封が劉備の跡継ぎになることに
反対。その結果、彼らは全員裏切った)
もちろん、上記以外にも理由は色々あるが、結局、関羽の性格が災いしたところが大きいようだ。