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9.宋襄公、名門意識で墓穴を掘る
- 1. 春秋篇 第 9 集
仁義大旗(宋襄公、名門意識で墓穴をほる)
諸侯の中でも最高の地位・公爵である宋襄公、
南蛮の楚軍に襲われ、捕虜となる
- 2. 第9集 仁義大旗(宋襄公、名門意識で墓穴をほる) -春秋篇-
今回の話は、小国の宋の襄公が、実力もないのに斉の桓公を継ぐ覇者になろうとし、結局、南の
大国・楚の成王から辱められた上、泓水の戦いで大敗するというストーリー。
話の展開にあまり起伏がない割には、場面がよく変わり複雑なので、今回は、分かりやすい箇条
書きスタイル(①~⑦)で書いてみる。
―あらすじ―
①宋襄公、斉孝公を擁立する
斉の桓公が亡くなった後、諸公子による世継ぎ争いが激化した。そこで宋の襄公は同国に亡命し
ていた斉の太子・昭を帰国させ、斉の孝公として即位させる。こうして斉に恩を売った宋の襄公
は、次第に自分こそが斉の桓公の後継者(諸侯を束ねる覇者)であると思い込むようになる。
②睢水での諸侯同盟 ( 宋、滕、曹、邾、曾 )
覇者であるためには諸侯との同盟の主催者であらねばならない。そこで宋の襄公は、手始めに弱
小国である滕、曹、邾、曾を宋の領土である睢水に呼びつけ同盟を結ぼうとする。が、滕侯は同
盟の期日に遅れ、曾侯はやって来ない。怒った襄公は、先ず滕侯を監禁し、ついに現れた曾侯を
川の神への生け贄として殺してしまう。
そしてこのような横暴な行為により、諸侯達の心は次第に襄公から離れていく。
③鹿上での諸侯同盟 ( 宋、斉、楚 )
睢水で横暴な振る舞いをした襄公だが、これで満足した訳ではなかった。彼の目標は、もっと大
きな国の諸侯達を大勢招集した同盟の主催者になることであった。しかし、宋自身が小国であっ
ため、宋単独ではそれは不可能であった。そこで大司馬の公孫固が襄公に「南の強国・楚と組ん
で大勢の諸侯を集め、同盟が成立した後は、逆にそれらの諸侯の力を借りて楚に圧力をかけまし
ょう」と入れ知恵をする。そしてその話に乗った襄公は、さっそく楚と斉に使者を送り、楚と斉
の二大国との同盟を成功させる。
「公・侯・伯・子・男」という身分秩序を
武器にして、子爵の楚成王(右)や侯爵の斉
孝公(左)を差し置いて、鹿上の会を牛耳る
宋襄公(中)
宋襄公が持っているのは実際、牛の耳で、
「牛耳る」という言葉は、この儀式から生
まれた。
- 3. 本来、国力から言えば、宋は斉や楚より遥かに劣るのだが、襄公は自分の公爵という爵位を振り
かざし、同盟の主催者の地位を獲得する。しかしこのことが元で、斉の孝公の心は離れ、楚の成
王は密かに復讐心を募らせるのであった。
④盂邑での諸侯同盟 ( 宋、楚、陳、蔡、鄭、曹、許 )
鹿上での三国同盟に気をよくした襄公は、さらに多くの諸侯を集めた大規模な同盟を結ぼうと考
えていた。そこで盂邑において楚、斉、魯、陳、蔡、鄭、曹、許の八国に召集をかける。この時、
襄公の異母兄で今は臣下となっている公子目夷は襄公に言う:
「小国の宋が、強国を差し置いて多数の諸侯に号令をかけるのは、分不相応です。特に、楚の成
王は野心家であり、信用のおけぬ人物です。今回盂邑ヘ行かれる際には是非、軍隊を伴うべきで
す」
しかし、覇者・桓公を理想とする襄公は、今回の同盟もやはり桓公が行ったのと同様「軍隊なしの
会合」であるべきだと主張し、目夷の話に耳を貸さない。
そして、ついに軍隊を伴わずに盂邑に出かけたが、八諸侯のうち、斉と魯は来ておらず、宋、楚、
陳、蔡、鄭、曹、許の七諸侯の集まりとなった。
さて、襄公が同盟の宣言をしようとすると、いきなり楚の成王が「同盟を行う前に、この会の主
催者をはっきりさせるべきである」と主張。自分が主催者であると思い込んでいた襄公はショッ
クを受けるが、無理に取り繕って言う:
「分かりました。では、(周王室)に功労のある国、もしく
は爵位の高い国が主催者となればよいでしょう」
すると成王は「爵位で言えば、宋は公爵だから諸侯の中で最高ということですな。しかし、我が
楚はもともと子爵だったとはいえ、既に何代にも渡って王号を称して(注1)いる。王というもの
は公爵より更に高い地位だといえると思うが、どうだろう?」と言いながら諸侯達を見渡すと、
楚の威光を恐れた諸侯達は「そうだ、そうだ」と迎合する。それを見届けた成王、
「それでは皆様
のご意向に従って…」と言いながら、自ら主催者になろうとする。
(注1)楚では成王の祖父・熊通が周王に爵位を上げてもらおうとして拒絶され、怒って自ら王(武
王)と称した。そしてそれ以来、王号を僭称していた
それを見てカチンときた襄公、大声で「身の程知らずめ!ワシはご先祖様のお陰で(注 2)公爵の
地位を得た。だから周の天子様ですらワシに賓客の礼を尽くしてくれるのだ。お前は王を称して
いるが、それは爵位の決まりを破って僭称しているだけ。そのお前が今度は同盟の主催者きどり。
これはまさしく、偽王が本物の公爵を押さえつけているというシロモノだ!」
(注 2)宋は、周の前の王朝(殷)の王族の子孫に与えられた国であり、歴代の周王も、先代王朝の
子孫に当たる宋に敬意を表していたと思われる
- 4. 頭に血が逆上した宋襄公、楚成王に向か
って「偽王が本物の公爵を押さえつけて
いる!」と叫ぶ
すると成王は冷笑して言う: 確かにワシは偽王だ。だがな、それならどうしてこのワシを招待
「
したのだ? ワシが本当に偽王かどうか、ここにいる諸侯達に聞いてみようじゃないか」
その時、成王に付き従ってきた子玉将軍が諸侯らに問う:
「皆様方は一体誰のためにここにお集ま
りになられたのですか?」すると諸侯らは口々に「成王のご命令に従ってやって来ました」と言
う。それを聞いた成王、襄公に向かい勝ち誇って「これで分かったろう」と言う。
追い詰められた襄公は「もうよい、それならこの同盟は取り消しだ!」と叫ぶが、成王はそれを
さえぎり、「逃げる気か?!」と詰め寄る。
宋襄公(左/背中)の腕
をグッとつかんで「逃
げ れ ると でも 思 っ て
いるのか?」とすごむ
楚成王(中/青い着物)
と同時に、子玉将軍が持っていた旗をサッと一振りすると、壇の下で控えていた楚の家臣たちが
一斉に着物を脱ぎ捨て、下に着けていた鎧姿で壇上に駆け上る。
- 5. 子玉将軍の旗振りを合図に、一斉に服を脱ぎ
ながら壇上に駆け上ろうとする楚の兵士達
やっと事の重大さに気づいた襄公、
「既にこと遅し」と悟り、傍らの目夷に「早く逃げろ、そして
我らの宋国を守り抜いてくれ」と言いながら、目夷を突き飛ばす。
こうして目夷は辛うじて宋に逃げ戻ることができたが、襄公の方は楚の大軍に囲まれ、生け捕り
にされてしまう。そして子玉将軍は成王の命を受け、襄公をしょっ引いて宋の都・睢陽に向うの
であった。
⑤睢陽城での攻防 ( 宋 VS 楚 )
襄公を人質にとった楚軍は睢陽城の下に結集。まず子玉将軍が城に向って叫ぶ:
「お前達の君主を
生かすも殺すもこちらの自由だ。殺されたくないなら、早く降参して城を明け渡せ!」
楚の捕虜にな
ってしまった
襄公
- 8. 惨めな楚の捕虜であった時とうって変わ
り、えらそうに軍を指揮する宋襄公
襄公曰く「我が宋軍は正義の軍隊だ。
『川を渡っている途中の敵を攻撃する』など卑怯なことが出
来るか!」 「でも、楚軍が渡河してしまえば、我が方が不利になります。我が軍は全滅してしまう
かもしれません」と公孫固。
そうしている間にも、楚軍はどんどん近づいてくる。ジリジリしてきた公孫固はついに「ご反対の
ないようでしたら、進軍させて頂きます」と言うと、襄公は怒って「お前は一時の利を貪るために、
後世に残る仁義を捨てる気か!」と言うなり、側近の者に合図して「仁義」と書かれた大旗を自分の
車に付けさせ、その車に乗り込んで既に渡河してしまった楚の大軍に向って突進。
仁義と墨書
された旗を
戦車に付け、
得意満面で
楚軍に突入
する宋襄公
(赤いマン
ト姿)
- 9. が、結果は大勢の楚兵に取り囲まれ、御者は殺され、自らも剣や矢傷を負い、挙句の果てはその
仁義の旗も奪われてしまう。
楚兵に槍で突か
れ(左)、別の楚
兵(右)に旗を持
ち逃げされる宋
襄公(中央)
そして驚いて駆けつけ、何とか襄公を救い出した公孫固に向い、襄公は弱々しくつぶやく:
「お前や目夷が言う事の方が正しいのかもしれぬ。だが、古書には『君子の戦いは仁義をもってす。
渡河中の敵を撃たず、負傷兵を追い詰めず、年配の捕虜には敬意を表すべし』とあるではないか。
ワシの一体どこが間違っていたと言うのだ…」
―感想―
斉の桓公、晋の文公、秦の繆公、楚の荘王と共に「春秋の五覇」と称される宋の襄公。だが、この
物語を見る限り、全然覇者らしくない。
宋の襄公よりもむしろ鄭の荘公(第 2~3 集に登場、「春秋の小覇者」と呼ばれる)や、もう少し後
に登場する呉王・闔廬や越王・句践(臥薪嘗胆のエピソードの元になった人物/共に第 26~30 集に
登場予定)などの方がよっぽど覇者らしいと思う。
…と書いている途中で、ふと思い立って中国語のサイトで“春秋五覇”と検索したら、
「…もう一つの春秋五覇の定義は、斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉の闔廬、越の句践である」
とあった。 …やっぱり。