More Related Content Similar to イメージ操作シンボル (20) More from Masanori MIzuno (19) イメージ操作シンボル2. 発表の流れ
■ インターフェイスの価値
‣ 東浩紀とシェリー・タークル
■ 身体的,視覚的,記号的
‣ アラン・ケイ「イメージを操作してシンボルを作る」
- イメージのあいまいさを行為によって局所的に限定すること
■ コードを前提としないコミュニケーション理論
‣ D. スペルベル& D. ウイルソン『関連性理論』
- 推論モデルによるコミュニケーションの理解
➡ 「イメージを操作する」ことの可能性
3. インターフェイスの価値
■ シミュレーションの文化へ移行しつつある
‣ 現実を代理するもので現実を置き換えることにより,居心地のよさを感じるよう
になる
‣ こうしたオブジェクトと私との関係では,非現実性といった感覚は感じられな
い.シミュレーションの文化のおかげで,私は画面上に見えるもの (インタ)
フェース・バリュー でとらえるようになったのである.
シェリー・タークル(1995=1998)『接続された心』
■ 1984年マッキントッシュ発売
‣ 表面的なビジュアル表示のレベルに留まる
- ユーザの興味を引く画面構成
• ユーザが画面上を自由に動き回る
4. インターフェイス的主体
■ スクリーンの背後に関心がない
‣ インターフェイス的主体は仮想現実を一方で(目で)虚構だと知りつつも,他方で
(言葉で)現実だと信じる 東浩紀(1998)「サイバースペースは何故スペースと呼ばれるのか」
■ インターフェイス的主体の起源
‣ 1973年パロアルト研究所 Alto
- アラン・ケイらによるオブジェクト指向型プログラミング言語 Smalltalk
• GUI 環境の実装
‣ アラン・ケイのスローガン
- イメージを操作してシンボルを作る[Doing with Images makes Symbols]
アラン・ケイ(1990=2002)「ユーザーインターフェース:個人的見解」
5. 新たな表面の概念と記号様態
■ イメージによってシンボルを操作すること
‣ GUI の開発者たちはむしろ,見えるものと見えないものとが区別されないスクリー
ン,イメージもシンボルもその操作的な効果でしかない「エクリチュール」に満た
された,新たな表面の概念から出発しているように見える.
東浩紀(1998)「サイバースペー
スは何故スペースと呼ばれるのか」
■ 記号のレベルにおけるラディカルな変容
‣ ポストモダン以前,いわゆる近代においては,記号はイメージとシンボルに分割さ
れていた.対してポストモダン化した私たちの世界においては,その分割は崩れ,
世界はイメージでもシンボルでもない新たな記号様態,エクリチュールあるいは
「不気味なもの」の群に満たされている. 東浩紀(1998)「サイバースペー
スは何故スペースと呼ばれるのか」
➡ 新たな表面と記号様態の中で,どのような「操作」が行われているのかということに
関しては,言及されていない
7. パーソナル・ダイナミック・メディア
■ The media is the message
‣ メディアこそが,ほかならぬメッセージである
- ケイ,ゴールドバーグ「パーソナル・ダイナミック・メディア」
‣ コミュニケーション・メディアを理解する上で最も重要な点
- メッセージを受けとることは,メッセージを復元することである
• メディアを内在化しなければならない
➡ コンピュータが能動的であるならば,私たちも能動的にならなければならない
‣ メタメディア
- コンピュータは,他のいかなるメディアにもなりうる
8. 身体的,視覚的,記号的
■ 状況を見ているときと,見えていないときで変わる推論のプロセス
‣ ブルーナーの水を注ぐ実験
- 見えている状況を変化させることで異なる推論を導いてしまう
- 私たちの精神は複数の,分割された異なる性質を持つ精神から成り立って
いるように見える.それらは異なった推論を行い,異なった技能を持ち,
しばしば矛盾する. アラン・ケイ(1990=2002)「ユーザーインターフェース:個人的見解」
■ 3つの精神作用とインターフェイス・デザイン
‣ どの精神(身体的,視覚的,記号的)も単独では思考と問題解決の全範囲に完
全な答を提供することはできないことに気づくのがまず第一歩である.ユー
ザ・インターフェイスの設計は,少なくともブルーナーが螺旋形のカリキュラム
のアイデアで行った程度に統合されているべきなのである.
アラン・ケイ(1990=2002)「ユーザーインターフェース:個人的見解」
9. イメージを操作してシンボルを作る
[Doing with Images makes Symbols]
■ イメージを
‣ アイコン,ウィンドウ/視覚的/認識し,比較し,形をつくり,具体化する
■ 操作して
‣ マウス /身体的/自分がどこにいるかを知る,操作する
■ シンボルを作る
‣ Smalltalk /記号的/長い推論のチェインをつなげる,抽象化する
この標語にはブルーナーが行ったように,具体的な「イメージを操作する」という
ところから始まり,そしてもっと抽象的な「シンボルを作る」というところへつな
がるという意味がある. アラン・ケイ(1990=2002)「ユーザーインターフェース:個人的見解」
10. イメージとコミュニケーション
■ アイコンの特徴
‣ 知らせるものとしてのはっきりとした効率性
- 事実とプロセスを覚える必要がない
‣ 巣を作る鳥のような前後の関係
- イメージ間の結合は,正しく解釈されないことが多い
- モードがなく文脈の自由さを大きな特徴とする領域の中にどのように文脈
を持ち込むか
■ アイコン化コミュニケーションの難題
‣ 活発に組み立てられているイメージがいかにわかりやすいかという点と,自分が
組み立てたものでもそれがいかにあいまいかという点の間に,なぜこれほどの
相違があるのか. アラン・ケイ(1990=2002)「ユーザーインターフェース:個人的見解」
11. ケイの成功と挫折
■ イメージの直観的利用
‣ オーバーラップ・ウィンドウ・システム
■ 記号的思考をアイコンでするという強すぎる誘惑
‣ イメージのあいまいさをつないでいくことの難しさ
だれもアイコン化言語の良いものを設計することができなかったからと言って,「ア
イコン化言語は使いものにならない」と言うのは適当ではない.しかし上記の説明は
真実に近い. アラン・ケイ(1990=2002)「ユーザーインターフェース:個人的見解」
■ アイコン化言語は良いものを設計できなかったが,GUI は成功したことの意味
‣ イメージをつなげて単一のシンボルを生じさせることは難しいが,そのあいまいさ
を行為によって局所的に限定することはできる
- あいまいさを受け入れるコミュニケーションの考え方
12. コードを前提としないコミュニケーション理論
■ 関連性理論
‣ 関連性理論の中枢をなす主張は,あらゆる発話に対して唯一の意図された解釈を自
動的に生成するような機械的な手順はないということである.その代わりに,聞き
手には可能な解釈を生成する手順の集合体と,いったん意図された解釈が生成され
ると,それを認識するための規準が備わっている.換言すると,意図された解釈と
は,コード解読されるのではなく,本書が記述しようとしている仮説形成と評価の
過程を経て推論されるのである. D. スペルベル&D. ウイルソン
(1986,1995=1993,1999)『関連性理論:伝達と認知』
‣ コードモデル:メッセージのコード化とコード解読
‣ 推論モデル:証拠の提示と解釈
■ 推論モデルに基づくコミュニケーション
‣ コミュニケーションは程度の問題
- 強い形態のコミュニケーション,弱い形態のコミュニケーション
13. 最適な関連性
■ 認知環境と相互認知環境
‣ 認知環境:その人にとって顕在的である事実の集合体=物理的環境と認知能力の関数
‣ 相互認知環境:誰がそれを共有するかということが顕在的な共有された認知環境
■ 意図明示行為
‣ 意図明示:何かを顕在化しようとする意図を顕在化する行為
- 知覚可能な行為は,すべて無限の想定を顕在化する
■ 最適な関連性の見込み
‣ 意図明示的刺激は受け手がそれを処理する労力に見合うだけの関連性がある
‣ 意図明示的刺激は伝達者の能力と優先事項に合致する最も関連性のあるものである
D. スペルベル&D. ウイルソン(1986,1995=1993,1999)『関連性理論:伝達と認知』
14. 理解のための文脈
■ 文脈
‣ 心理的な構成概念で,世界についての聞き手の想定の部分集合をなす
- 世界の実態よりもむしろ,この想定こそが発話解釈に影響を与える
‣ ある一定範囲の可能な文脈の選択
- 内的情報供給源と物理的環境から得られる情報によって行われる
‣ 特定文脈の選択決定
- 関連性を追求することになされる
心は自分自身の内的情報供給源を含めて,利用可能なあらゆる情報源から初発文脈で
最大の関連性をもつ情報,即ち,最小の処理労力で最大の文脈効果をもつ情報を選び
だそうとするはずである.
D. スペルベル&D. ウイルソン(1986,1995=1993,1999)『関連性理論:伝達と認知』
15. 最適な関連性を求めたイメージの配置と私たちの行為
■ デスクトップ・メタファー
‣ 現実のオフィス空間との類似
- それだけでは,イメージはあいまいなままである
• イメージのあいまいさを限定するものが必要
ゴミ箱がゴミ箱に見えるためには,いらなくなったものをそこに持っていったとき
に,パシュッと消える場所であることを繰り返し体験させる必要がある.その出来
事によって初めてゴミ箱が出現するのです. 藤幡正樹(2007)「不完全さの克服:イメージと
メディアによって創り出される,新たな現実感」
■ 「そこへ持っていく」という行為
‣ イメージに行為を介在させることで生じる限定された推論
- その繰り返しから,ある規準を備えた認知環境が生まれる
17. 「イメージを操作してシンボルを作る」が意味すること
■ 「これ」「ここ」によるコミュニケーション
‣ 私たちの行為:マウスでカーソル[→]を動かし画面上を「これ」「ここ」と指示する
‣ コンピュータの行為:私たちに推論を形作らせるようにイメージを提示し,私たち
の行為に同期して,イメージを変化させる
‣ 私たちの行為:イメージに基づき新たな推論を行い,マウスでカーソルを動かす
■ 「イメージを操作する」ことの可能性
‣ 関連性が最大になるようにイメージを画面上に配置
‣ 「ここ」「これ」という行為を伴う指示によって文脈を拡張する
➡ イメージに私たちの行為を結びつけることで推論を生み出すシステム
➡ イメージのあいまいさを行為で局所的に限定して,私たちに推論を促す認知環
境を作り出すこと
Editor's Notes \n \n それまでのパソコンとは違って,“マック”はユーザーが表面的なビジュアル表示のレベルにとどまることを奨励し,内部にあるメカニズムのことを感じさせない.マッキントッシュのすごいところは,魅力のあるシミュレーションと画面のアイコンに力を借りて,プログラムやデータへのアクセスをわりやすくしていることだった.ユーザーは興味を引かれるような画面が与えられ,その上で自由に動きまわる.必死で探求しなければならないようなことはないのだ.\n \n イメージによってシンボルを操作すること --- つまり,スクリーンの上の記号,エクリチュールを操作して「見えないもの」を扱うこと,この単純な発想は,おそらく見た目よりはるかに大きな認識論的な変化を通過している.ラカンは前述のように,イメージをシンボルへ飜訳することだけを考えていた.「見えるもの」を「見えないもの」によって,つまり経験されたもの(現象)を超越論的条件によって基礎づけようとするその企ては,哲学的伝統にきわめて忠実なものだ.しかし GUI の開発者たちはむしろ,見えるものと見えないものとが区別されないスクリーン,イメージもシンボルもその操作的な効果でしかない「エクリチュール」に満たされた,新たな表面の概念から出発しているように見える.\n しかし筆者はここで,その変化(シンボルの機能不全)とは別に,あるいは相補的に,もうひとつの変化が --- 世界のなかを流通し満たす記号のレベルにおいて,きわめてラディカルな変容が進んでいたと考えてみたいと思う.ポストモダン以前,いわゆる近代においては,記号はイメージとシンボルに分割されていた.対してポストモダン化した私たちの世界においては,その分割は崩れ,世界はイメージでもシンボルでもない新たな記号様態,エクリチュールあるいは「不気味なもの」の群に満たされている.デリダの『グラマトロジーについて』とケイの「Smalltalk」は,ともにその変容のなかで構想されたのだーー記号を用いた行為:コミュニケーションのレベルにおいても変化が起こっているのではないだろうか?\n コミュニケーション・レベルでの変化を探るためのヒント\n記号レベルでの変容と行為・操作レベルの変容\n \n 人間の認知の能力が,行動の精神,イメージの精神,シンボルの精神で成り立っているという事実に同意するならば,私たちの構築するどのようなユーザ・インターフェイスもそこにあるメカニズムでまかなわれるはずである.しかしどうやって? どの精神も単独では思考と問題解決の全範囲に完全な答を提供することはできないことに気づくのがまず第一歩である.ユーザ・インターフェイスの設計は,少なくともブルーナーが螺旋形のカリキュラムのアイデアで行った程度に統合されているべきなのである.--互いに能動的なヒトとコンピュータとのインターフェイスでは,この3つの精神をどのように結びつけるかが問題.とくに,変化するイメージと,行為との関係.\n 能動性=身体性\n記号操作する機械としてのコンピュータを,イメージを操作する機械とした.\nインターフェイスを独立させる.\nヒトとコンピュータとインターフェイスの三項関係.\nヒトとコンピュータとの媒介者としてのインターフェイス\nインターフェイスとコンピュータとの媒介者としてのヒト\nインターフェイスとヒトとの媒介者としてのコンピュータ\n 活発に組み立てられるイメージ:行為を伴っているイメージ\n組み立てられたイメージ:行為後の,行為が伴っていないイメージ(かつて,それは,操作された,イメージ)\n 記号レベルの変化とコミュニケーション・レベルの変化の噛み合なさ\nオーバーラップ・ウィンドウ:シンプルゆえに,いじくりまわすことを許容する\nイメージを行為によって基礎づける\n \n そうすると,顕在的であるためには,知覚可能もしくは推論可能でなければならない.個人の総合的認知環境とは,その当人が知覚したり推論したりすることのできる事実すべての集合体,即ち当人に顕在的な事実全部の集合体ということである.個人の総合的認知環境とは,当人の物理的環境と認知能力の関数である.それは当人の物理的環境の中で当人が認識している事実全部だけでなく,認識可能な事実全部から構成されている.個人が実際にしている事実の認識,即ちこれまでに習得した知識は,もちろんさらに事実を認識する能力に貢献する.記憶された情報は認知能力の一部である.(p. 46)\n\nもし人間が認知環境を共有するとすれば,それは明らかに人間が物理的環境を共有し,同様の認知能力を持っているからである.物理的環境は決して厳密に同一になることはないし,認知能力は以前に記憶した情報に影響されて,ひとりひとり様々な点で異なるので,全認知環境を共有することは不可能である.さらに,2人の人間が認知環境を共有するといっても,同じ想定を作り出すということを意味するのではない.単にそれが可能だということだけである.\n\n 発話の解釈に用いられる前提集合(当該の発話がなされたという前提を除く)は一般に文脈(context)として知られているものを構成する.文脈は心理的な構成概念(psychological construct)で,世界についての聞き手の想定の部分集合をなす.もちろん,世界の実態よりもむしろ,この想定こそが発話解釈に影響を与えるのである.この意味での文脈とは,その場の物理的環境やすぐ直前の発話だけに限らない.将来に関する期待,科学的仮説,宗教的信仰,逸話的記憶,一般的な文化的想定,話し手の心的状況に関する確信,がすべて解釈の中で役割を果たす可能性がある.(p. 18)\n\nここまで我々は,推論過程一般,特に,理解のための文脈の選択は,どの時点においても演繹装置の記憶の内容,汎用短期記憶装置の内容,百科事典(的記憶装置)の内容,それに物理的環境から直接手に入れることができる情報によってある程度決定されるということを言ってきた.これらの要因は,単一の文脈を決定するのではなく,ある一定範囲の可能な文脈を決定するのである.それでは,その範囲の中から特定の文脈の選択を決定するのは何であろうか.特定文脈の選択決定は関連性を追求することでなされる,というのが我々の答えである.(p. 171)\n\nこの事例は,単に発話解釈においてだけでなく,思考過程一般における関連性の役割に示唆するところがある.それぞれの思考過程は,心(mind)を最初に与えられた文脈と可能な文脈拡張によって特徴づけられる状態にする.もし,人間の一連の思考が最大の関連性の追求によって舵取りされていると考えて正しいのであれば,心は自分自身の内的情報供給源(internal resources)を含めて,利用可能なあらゆる情報源から初発文脈で最大の関連性をもつ情報,即ち,最小の処理労力で最大の文脈効果をもつ情報を選びだそうとするはずである.そのような情報は,百科事典的記憶を含むものであれ,短期記憶装置を含むものであれ,環境を含むものであれ,文脈を拡張して呼び出させる情報の中に求めるべきものである.従って,関連性理論は,思考が次々と生じる生じ方についての仮説と,個人が関連性のある情報を求めるのにどの時点で自分自身の内的情報供給源依存から環境依存に切り換えるかについての仮説を生み出す.\n \n 文脈を拡張する3つ目の方法は,その文脈に直ちに観察できる周囲の環境についての情報を加えることである.人は周囲の環境とあまり,もしくは,全く関係のない概念的な事柄を処理しながら,絶えず周囲の環境を監視している.このような潜在的注意によって監視される情報はどこに貯えられるのであろうか.これもよくわからないのだが,次のような見当はつけることができる.このような情報はすべてごく一時的に専用の短期知覚記憶装置(short-term perceptual memory store)に保持され,そこからその一部が汎用短期概念記憶装置や演繹装置の記憶に移される.発話の解釈のために聞き手が周囲の環境に関する情報を選び,そして,それを文脈に加える必要があるときに特にこのようなことが起こる.\n 関連性を最大するためのイメージの選択\nイメージに行為を結びつけるシステムを作り上げる\nあいまいさを取り入れる\n環境依存の文脈作り\n「もの」を指示することで「こと」を作り出す\n見ているだけではだめ、常に行為を介在させる\n--\n私たちとコンピュータとの行為の連鎖コンピュータの行為:イメージを提示する私たちの行為:マウスを動かすコンピュータの行為:マウスの動きに合わせて画面上のカーソルを動かす私たちの行為:アイコンにカーソルを重ねるために,マウスを動かすコンピュータの行為:カーソルを動かし,アイコンが示すデータを表示するためにウィンドウを開く--アラン・ケイの「イメージを操作してシンボルを作る」は,イメージとの関わりの中で,私たちの行為,操作をコミュニケーションに取り込んだ\n\n ところが,コンピュータの中でさまざまな可能性を検討しているときは,こうした発想が山ほど出てきます.それは物質性をともなっていないので,机に石をネジ止めすることができませんが,その代わりにそれを石と思わせることもできません.つまり,問いかけが成立しない.どうしたら前述したように「ゴミ箱」がゴミ箱に見えるのかということに意味を見出していかなくてはならないというところがある.で,結論としては,ゴミ箱がゴミ箱に見えるためには,いらなくなったものをそこに持っていったときに,パシュッと消える場所であることを繰り返し体験させる必要がある.その出来事によって初めてゴミ箱が出現するのです.要する,インタラクティブな体験が起こることによって,初めてただのイメージがシンボル(オブジェクト)になるのであり,記号として発生して立ち上がっていくんだと思うんですね.こういう出来事が,言語による体験とは異なった場所で,非常に具体的にユーザー自身が起こしていくということで発生しているということが,面白くてしょうがないのです.\n Doing with Images makes Symbols が行ったこと:内的情報供給源から環境依存へ\n 発話の解釈に用いられる前提集合(当該の発話がなされたという前提を除く)は一般に文脈(context)として知られているものを構成する.文脈は心理的な構成概念(psychological construct)で,世界についての聞き手の想定の部分集合をなす.もちろん,世界の実態よりもむしろ,この想定こそが発話解釈に影響を与えるのである.この意味での文脈とは,その場の物理的環境やすぐ直前の発話だけに限らない.将来に関する期待,科学的仮説,宗教的信仰,逸話的記憶,一般的な文化的想定,話し手の心的状況に関する確信,がすべて解釈の中で役割を果たす可能性がある.(p. 18)\n\nここまで我々は,推論過程一般,特に,理解のための文脈の選択は,どの時点においても演繹装置の記憶の内容,汎用短期記憶装置の内容,百科事典(的記憶装置)の内容,それに物理的環境から直接手に入れることができる情報によってある程度決定されるということを言ってきた.これらの要因は,単一の文脈を決定するのではなく,ある一定範囲の可能な文脈を決定するのである.それでは,その範囲の中から特定の文脈の選択を決定するのは何であろうか.特定文脈の選択決定は関連性を追求することでなされる,というのが我々の答えである.(p. 171)\n\nこの事例は,単に発話解釈においてだけでなく,思考過程一般における関連性の役割に示唆するところがある.それぞれの思考過程は,心(mind)を最初に与えられた文脈と可能な文脈拡張によって特徴づけられる状態にする.もし,人間の一連の思考が最大の関連性の追求によって舵取りされていると考えて正しいのであれば,心は自分自身の内的情報供給源(internal resources)を含めて,利用可能なあらゆる情報源から初発文脈で最大の関連性をもつ情報,即ち,最小の処理労力で最大の文脈効果をもつ情報を選びだそうとするはずである.そのような情報は,百科事典的記憶を含むものであれ,短期記憶装置を含むものであれ,環境を含むものであれ,文脈を拡張して呼び出させる情報の中に求めるべきものである.従って,関連性理論は,思考が次々と生じる生じ方についての仮説と,個人が関連性のある情報を求めるのにどの時点で自分自身の内的情報供給源依存から環境依存に切り換えるかについての仮説を生み出す.\n 記号レベルの変化とコミュニケーション・レベルの変化の噛み合なさ\n \n \n そうすると,顕在的であるためには,知覚可能もしくは推論可能でなければならない.個人の総合的認知環境とは,その当人が知覚したり推論したりすることのできる事実すべての集合体,即ち当人に顕在的な事実全部の集合体ということである.個人の総合的認知環境とは,当人の物理的環境と認知能力の関数である.それは当人の物理的環境の中で当人が認識している事実全部だけでなく,認識可能な事実全部から構成されている.個人が実際にしている事実の認識,即ちこれまでに習得した知識は,もちろんさらに事実を認識する能力に貢献する.記憶された情報は認知能力の一部である.(p. 46)\n\nもし人間が認知環境を共有するとすれば,それは明らかに人間が物理的環境を共有し,同様の認知能力を持っているからである.物理的環境は決して厳密に同一になることはないし,認知能力は以前に記憶した情報に影響されて,ひとりひとり様々な点で異なるので,全認知環境を共有することは不可能である.さらに,2人の人間が認知環境を共有するといっても,同じ想定を作り出すということを意味するのではない.単にそれが可能だということだけである.\n\n \n 関連性を最大するためのイメージの選択\nイメージに行為を結びつけるシステムを作り上げる\nあいまいさを取り入れる\n環境依存の文脈作り\n「もの」を指示することで「こと」を作り出す\n見ているだけではだめ、常に行為を介在させる\n \n \n \n この事例は,単に発話解釈においてだけでなく,思考過程一般における関連性の役割に示唆するところがある.それぞれの思考過程は,心(mind)を最初に与えられた文脈と可能な文脈拡張によって特徴づけられる状態にする.もし,人間の一連の思考が最大の関連性の追求によって舵取りされていると考えて正しいのであれば,心は自分自身の内的情報供給源(internal resources)を含めて,利用可能なあらゆる情報源から初発文脈で最大の関連性をもつ情報,即ち,最小の処理労力で最大の文脈効果をもつ情報を選びだそうとするはずである.そのような情報は,百科事典的記憶を含むものであれ,短期記憶装置を含むものであれ,環境を含むものであれ,文脈を拡張して呼び出させる情報の中に求めるべきものである.従って,関連性理論は,思考が次々と生じる生じ方についての仮説と,個人が関連性のある情報を求めるのにどの時点で自分自身の内的情報供給源依存から環境依存に切り換えるかについての仮説を生み出す.\n