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⑨復活
- 3. Ⅰ . 死と生に対する聖書的概念 死人を葬ることは死人に任せておくがよい ( ルカ 9:60 ) 死人 死んだ人たち ① 肉身の 寿命が 切れた 肉身の 生理的 機能維持 ② サタン主管圏内 落ち込んだ 神の愛の 主管圏内 み言のとおり活動 死 死 生 生
- 4. 神 主管圏 サタン 主管圏 生きている人 ( ヨハネ 11:25 ) 死んだ人 ( 黙 3:1 )
- 5. 霊人体 肉身 Ⅱ . 堕落による死 創造原理 : 無形世界で永生 土の中で 永存できない
- 6. 肉身 地上 霊人体 無形世界 完成人間 肉身 地上 堕落人間 永遠に生きるところ 強い 未練 分からない
- 7. 堕落による死 = 善悪の果を取って食べる 「 それを取って食べるときっと死ぬであろう 」 ( 創 2:17) 肉身生活継続 , 子孫を繁殖
- 9. 聖書の例 ヨハネⅠ 3:14 『 愛さない者は、死のうちにと どまっている 』 ロマ書 6:23 『 罪の支払う報酬は死である … 』 ロマ書 8:6 『 肉の思いは死であるが … 』
- 10. Ⅲ . 復活の意義 堕落による死 ( 今までの解釈 ) 死 肉身 復活
- 12. 『 わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわさ れたかたを信じる者は、 永遠の命 を受け、 またさばかれることがなく、 死から命に 移っているのである 』 神 イエス 復活 ヨハネ 5:24 生命 死亡 サタン 人間
- 13. 霊人体 肉身 霊人体 肉身 Ⅳ . 復活は人間にどんな変化を起こすか 心霊の変化 外形は不変 復活 神の宮 サタンの住まい 不安 恐怖 サ 神
Editor's Notes
- 復活 というのは、 再び活きる という意味である。再び活きるというのは、死んだからである。 復活の意義 を知るためには、まず、死と生に対する 聖書的な概念 をはっきり知らなければならないのである。
- ルカ福音書九章 60 節 の記録を見れば、イエスは 死人 を葬ることは、 死人 に任せておくがよいと言われた。 このイエスのみ言の中で、死と生に対して互いにその意義を異にする二つの概念があるということを知ることができる。 ① 第一は、葬られなければならない、その弟子の父親のように、 肉身の寿命が切れた 「死」に対する生死の概念である。このような死に対する 生 は、その 肉身が生理的な機能 を維持している状態を意味する。 ② 第二は、その死んだ父親の葬式をするために、集まって活動している人たちを指摘していう「死」に対する生死の概念である。この 死 は、神の愛の懐を離れて、 サタンの主管圏内に落ちこんだ ことを意味する死のことなのである。 これに対して 「生」の意義は、 神の愛の主管圏内 において、神のみ言のとおりに活動している状態をいうのである。
- その肉身が活動しているといっても、それが神の主管圏を離れて、 サタンの主管圏内 にとどまっているならば、彼は創造本然の価値基準から見て、 死んだ人 であるといわなければならない。 黙示録三章 1 節 に、不信仰的なサルデスにある教会の信徒たちに、「あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる」と言われたのを見ても分かる。 反面、 イエスが、 ヨハネ福音書一一章 25 節で 「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」と言われたのは、イエスを信じて、神の主管圏内で生きる者は、寿命が切れて、その肉身が土の中に葬られたとしても、その霊人体は依然として 神の主管圏内 にいるので、彼は 生きている者 であるという意味である。
- では、そのうちのいずれが、人間始祖の堕落によってもたらされた死なのだろうか。 神は本来、人間が堕落しなくても、老衰すればその 肉身は土 に帰るように創造されたのである。 創造原理によれば 、肉身は老衰すればそれを脱いで、その 霊人体だけ が 無形世界に行って、永遠 に生きるように創造されたからである。 物質からなる生物体の中で永遠性をもつものは一つもない。それゆえに、人間の肉身といえども、 永存することはできない のである。もしも人間が地上で肉身のまま永存するとすれば、霊人体の行くべき所である無形世界は、最初から創造される必要もなかったはずである。
- 本来、無形世界は堕落した人間の霊人体が行ってとどまるために、人間が堕落した以後に創造されたものではなく、既に、人間が創造される前に、 創造目的を完成した人間 たちが、 地上 で生活したのち、肉身を脱いだ霊人体が行って、 永遠に生きる所 として創造されているということを知らなければならない。 堕落人間 が、肉的な命に 強い未練 をもつようになったのは、人間が元来、肉身を脱いだあとには、地上よりも一層美しく、かつ永遠なる無形世界に行って、永遠に生きるように創造されているという事実が、堕落によって 分からなくなった からである。
- 堕落による死とは 、すなわち、人間始祖が 善悪の果を取って食べる ことによって招来した、その死を意味するのである。 創世記二章 17 節 を見れば、神がアダムと エバに善悪の果を 取って食べるときっと死ぬであろう と言われた。 そ れゆえに、彼らは取って食べたその「日」を期して、必ず死んだと見なければならない。しかしながら、その死んだアダムとエバは、依然として地上で 肉身生活を続けながら、子孫を生み殖やして 、ついには、今日の堕落した人類社会を形成するまでになったのである。
- それで 堕落によって招来したその死 は、 肉身の寿命が切れて死ぬ ことを意味するのではなく、 神の善の主管圏から、サタンの 悪 主管圏 に落ちるという意味での死をいうのである
- ヨハネⅠ三章 14 節 に、「 愛さない者は、死のうちにとどまっている 」と言われた。 これは 神の愛の中で、隣人を愛することを知らない者は、いくら地上で生活をしているといっても、彼はあくまでも死んだ者であるという意味である。 これと同じ意味で、 ロマ書六章 23 節 には、「 罪の支払う報酬は死である 。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」と言われ、 また、 ロマ書八章 6 節 には、「 肉の思いは死であるが 、霊の思いは、いのちと平安とである」と記録されているのである。
- 我々はこれまで、人間の寿命が切れて、その 肉身 の 土 に帰ることが、 堕落からきた死 であるとばかり考えていた。 したがって、このような 死 から再び生きることが、聖書の意味する復活であると解釈してきたので、既に他界した信徒たちの 復活 は、すなわち土に分解されてしまったその肉身が、再び原状どおりによみがえることによって成就されるものと信じていた。 しかし 土に分解されてしまった肉身が、再び原状どおり復活することは不可能であるばかりでなく、霊界に行って永遠に生きるようになった霊人体が、再び肉身をとる必要もないのである。
- ゆえに、復活は人間が堕落によってもたらされた死、すなわち サタンの主管 圏内に落ちた立場から、復帰摂理によって 神の直接主管圏内 に復帰されていく、その 過程的な現象 を意味するのである。 したがって、罪を悔い改めて、昨日の自分よりきょうの自分が少しでも善に変わるとすれば、我々はそれだけ 復活 したことになる。
- 聖書で、復活に関する例を挙げてみれば、 ヨハネ福音書五章 24 節 に「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、 永遠の命 を受け、またさばかれることがなく、 死から命に移っているのである 」と記録されている。 これは、 イエス を信じることによって、 サタン の懐から離れ、 神 の愛の懐に移ることが、すなわち 復活 であるということを意味するみ言である。
- 善悪の果を取って食べて堕落したアダムとエバが、死んだのは事実であった が 、外形的には何らの異変も起こらなかったのである。変わったことがあるとすれば、 不安と恐怖 によって、瞬間的に彼らの顔色が変わる程度であっただろう。 ゆえに、堕落した人間が善悪の果を取って食べた以前の人間に 復活 するとしても、その 外形上には 何らの変化も起こらない。 イエスは創造目的を完成した人間として来られたことは事実であるが、外形から見たイエスは堕落人間と比べて何の差異もなかった。 堕落人間が復活によって、 神 の主管を受けるようになれば、必然的に、その 心霊に変化 を起こすようになるのである。このような心霊の変化によって、人間の肉身も サタンの住まい から 神の宮 へと、事実上聖化されていくのである。