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⑦終末
- 6. 6
1. 天と地を滅ぼして
新しい地をつくられる
【ペテロⅡ 3:12, 創 6:13 】
【黙 21:1, ペテロⅡ 3:13, イザ
ヤ 66:22 】
•「地は永遠に変わらない」 ( 伝 1:4)
•「とこしえに基を定められた地のように
建てられた」 ( 詩
78:69)
サタンの主権を滅ぼし ,
神主権下の新しい天地を復帰
サタンの主権を滅ぼし ,
神主権下の新しい天地を復帰
- 11. 11
日 , 月が光を失う : 新約のみ言の使命期間
が 終わる
日 , 月が光を失う : 新約のみ言の使命期間
が 終わる
5. 日と月が光を失い星が空から落ちる
【マタイ 24:29 】
ヨセフの夢 ( 創
37:9~)
日 月 星父 母 子女
イエス 聖霊 聖徒
再臨
イエス
星が落ちる
不信 , つまず
き
新約
新しい
み言
Editor's Notes
- サタン主権の罪悪世界がメシヤの降臨を転換点として、神主権の創造理想世界に転換される時代を終末(末世)という。
したがって終末とは、地上地獄が地上天国に変わるときをいうのである。
- それゆえに終末はキリスト教信徒たちが信じてきたように、天変地異が起こる恐怖の時代ではなく、創世以後、人類が唯一の希望としてこいねがってきた喜びの日が実現されるときなのである。
- 神は人間の堕落以来、創造本然の世界を復帰するための摂理を、幾度もしてこられたのであった。しかしそのたびごとに人間はその責任分担を完遂し得ず、その目的が成就されなかったので、終末が幾度もあったかのように記されている。
ノアのときも終末であった。神はサタンを中心とする堕落世界を、一六〇〇年の罪悪史を一期として、洪水審判をもって滅ぼし、ノア家庭を立てることにより理想世界を、復帰なさろうとしたのであった。(創6:13)
イエスのときも終末であったのである。神はイエスを送ることにより、サタンを中心とする罪悪の世界を滅ぼして、神を中心とする理想世界を復帰なさろうとしたのであった。(ヨハネ5:22)
イエスの再臨のときもまた終末である。イエスは、再臨して初めて、霊肉合わせて救いの摂理の目的を完遂され、地上天国を復帰するようになる。(マタイ24:29)
- 多くのキリスト教信徒たちは、聖書に記録されている文字どおりに、終末には天変地異が起こり、人間社会においても、想像することもできない異変が起こるであろうと信じている。
しかし、人類歴史が、復帰摂理歴史であるということを理解するならば、聖書に記録されている終末の徴候が、そのまま実際に、文字どおりに現れるのではないということを知ることができるのである。
それでは、終末に関するすべての記録は、各々何を象徴したのであろうかということに関して、調べてみることにしよう。
- 創世記六章13節を見れば、ノアのときも終末であったので、地を滅ぼすと言われたのであるが、実際においては滅ぼされなかった。
伝道の書一章4節に「世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない」と言われたみ言、あるいは、詩篇七八篇69節に、「神はその聖所を高い天のように建て、とこしえに基を定められた地のように建てられた」と言われたみ言を見ても、地は永遠なるものであるということを知ることができる。
天と地とを滅ぼすということは、それを主管しているサタンの主権を滅ぼすことを意味するのであり、新しい天と新しい地をたてるということは、神主権下の新しい天地を復帰するということを意味するのである。
- ペテロ三章12節を見ると、終末には「天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」と記録されている。
また、マラキ書四章1節以下を見れば、イエスのときにも、火をもって審判なさると預言されている。さらに、ルカ福音書一二章49節には、イエスは火を地上に投じるために来られたとある。
しかし実際はイエスが火をもって審判なさったという何の痕跡も、我々は発見することができないのである。
ヤコブ書三章6節に「舌は火である」と言われたみ言からすれば、火の審判は、すなわち舌の審判であり、舌の審判は、すなわちみ言の審判であるということを知ることができるのである。
- ヨハネ福音書一章3節に、人間はみ言によって創造されたと記録されている。したがって神の創造理想は人間始祖がみ言の実体として、み言の目的を完遂しなければならなかったのであるが、彼らは神のみ言を守らないで堕落したのである。
それゆえに、神は再びみ言によって、堕落人間を再創造なさることにより、み言の目的を達成しようとされたのであるが、これがすなわち、真理(聖書)による復帰摂理なのである。
ヨハネ福音書一章14節には、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」と記録されている。このようにイエスは、み言の完成者として再臨なさり、その目的のための審判もみ言でその基準を立てて行われなければならないのである。
- マタイ福音書二七章52節以下を見ると、イエスが亡くなられるとき、「墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。…」と記録されているのであるが、これは、彼らの肉身が、再び生き返ったということを意味するものではないのである。
これは旧約時代の霊人たちが、再臨復活のために地上に再臨したのを霊的に見て記録した言葉だったのである。
墓とはイエスによって開かれた楽園から見れば、旧約時代の霊形体級の霊人の世界は、より暗い世界であるために、そこを称して墓と言ったのである。
- ここに記録されている空中とは、空間的な天を意味するのではない。
聖書において、地は堕落した悪主権の世界を意味し、天は罪のない善主権の世界を意味する。
それゆえに、空中で主に会うということは、イエスが再臨されてサタンの主権を倒し、地上天国を復帰されることによって、その善主権の世界で信徒たちが主と会うようになるということを意味するのである。
- 創世記三七章9節以下を見れば、「ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言った、『わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました』。彼はこれを父と兄弟たちに語ったので、父は彼をとがめて言った、『あなたが見たその夢はどういうのか。ほんとうにわたしとあなたの母と、兄弟たちとが行って地に伏し、あなたを拝むのか』」と記録されている。
これは、日と月は父母を、星は子女たちを象徴したものだということを知ることができる。
ところでイエスと聖霊はアダムとエバの代わりに、人類を重生させてくださる真の父母として来られたのであり、日と月はイエスと聖霊を、星は子女に該当するキリスト教徒たちを象徴しているのである。
それゆえ、日と月が光を失うということはイエスが再臨されて新しいみ言を下さるようになれば、イエスと聖霊によって 新約のみ言はその使命期間が過ぎ去るということであり、星が落ちるというのは、多くのキリスト教徒たちがつまずき落ちるようになる、ということを意味するのである。