SlideShare a Scribd company logo
1
日本東渡以前の玉澗「瀟湘八景図」
-「三教弟子」印考
衣若芬
一 はじめに:ふたつの印章の「異境」の旅
宋末元初の画僧玉澗が描いた「瀟湘八景図」は、14 世紀末から 15 世紀はじめに日本に流
伝した。この作品は本来 8 幅あったが、現存するのはわずかに「洞庭秋月図」(東京/文化
庁蔵)「山市晴巒図」(東京/出光美術館)「遠浦帰帆図」(名古屋/徳川美術館)である。
玉澗「瀟湘八景図」に対する研究は、主として以下の数方面に集中している。
1 画家玉澗について1
2 玉澗作品の様式的特色2
3 玉澗作品の日本への東伝および日本における流伝経過3
4 玉澗画風が日本水墨画に与えた影響4
画家玉澗に関して、鈴木敬教授が指摘するのは以下のとおりである。すなわち、宋末元
初に「玉澗」と号する画家は四人おり、彬玉澗と瑩玉澗は宋代、若芬玉澗は宋末、孟玉澗
は元代に、それぞれ活動している。画家が仏教と密接に関係していることや、作品の様式
から考察し5
、鈴木敬教授は、日本に現存する玉澗伝称の「瀟湘八景図」の作者が若芬玉澗
に相当するとみなしている6
。
玉澗「瀟湘八景図」の各幅には「三教弟子」朱文方印が捺され、このうち「洞庭秋月」
には「北山文房之印」も捺される。しかし、このふたつの印章がいずれに帰属されるもの
なのかは、これまで深く追求されずにきた。
1 鈴木敬「瀟湘八景図と牧渓・玉澗」『古美術』2、1963 年 7 月、頁 41~45。鈴木敬「玉澗
若芬試論」『美術研究』236 期、1964 年 9 月、頁 79~92。
2 戸田偵佑『牧谿・玉澗』東京:講談社、1978 年。
3 高木文『玉澗牧谿瀟湘八景絵と共伝来の研究』(東京:聚芳閣、1926 年)。塚原晃「牧谿・
玉澗瀟湘八景図―その伝来の系譜」『早稲田大学大学院文学研究科紀要別冊』17 巻、1991
年 1 月、頁 155~165。
4 鈴木廣之「瀟湘八景の受容と再生産―十五世紀を中心とした絵画の場」『美術研究』358
号、1993 年 12 月、頁 299~319。板倉聖哲「探幽縮図から見た東アジア絵画史―瀟湘八景
を例に」『講座日本美術史』東京:東京大学出版会、2005 年、第 3 巻、頁 111~138。
5 孟玉澗は僧侶ではない。瑩玉澗は西湖浄慈寺の僧である。元・夏文彦『図絵宝鑑』(『叢
書集成初編』本、拠津逮秘書本影印、北京:中華書局、1985 年)巻四、頁 66 に「瑩玉澗師
恵崇画山水」とある。
6 鈴木敬「玉澗若芬試論」。戸田偵佑「牧谿序説」、『牧谿・玉澗』頁六六を見よ。一般的に、
僧侶の号は通常姓あるいは名の後に置かれるため、「若芬玉澗」と称するべきである。ただ
し、鈴木敬教授は「玉澗若芬」と称しているため、研究者は一般的にこの名称を踏襲して
いる。
2
「三教弟子」印は一般的に、玉澗がその画に自賛する際に用いられたものであるとされ
てきた。例えば山上宗二(1544~1590)は、その茶道に関する著作である『山上宗二記』
で、「玉澗山市晴嵐墨絵紙讃玉澗朱印横絵八幅の巻軸」と記している7
。しかし、天台の僧
である玉澗若芬8
が、なぜ「三教弟子」を自称するのであろうか? 「北山文房之印」につ
いては、一般的には「瀟湘八景図」を所有していた足利義満(1358~1408)の鑑蔵印であ
るとされている。足利義満は 1397 年に京都北山に北山第を築いており、この名が印章の「北
山」の名称と符合する。だが、現在知られる足利義満の印章や足利義満に収蔵鑑賞された
作品中9
、同様の印章は出てこない。
印とは本来、モノの作者あるいは所有者を証すものであり、作品とヒト相互の関係を記
念するものであった。しかし、そうした意識が途切れてしまった現在では、意味の抜け落
ちた符号、謎多きマークとなってしまっている。失われた記憶の中で、「三教弟子」と「北
山文房之印」は、あたかも瀟湘の異境で迷って、中華の地より外へとさすらい出て、日本
の将軍や大名屋敷での茶席から、企業財団や政府の美術館の展覧会場へと流れついたかの
ようである。このふたつの印章がなんであれ、玉澗の芸術的成果に影響することはまった
くないかもしれない。しかし、もしそれらの印章の詳しいいきさつを探ることができたな
らば、その意外な過去の細部を知ることで、玉澗「瀟湘八景図」流伝の物語に、ちょっと
したエピソードを加えることができるだろう。
二 三教弟子−玉澗か、鮮于枢か
現存する玉澗の画蹟と関連史料は非常に少なく、「瀟湘八景図」のほかには「廬山図」
(岡山県立美術館蔵)があるのみである。「廬山図」は佐久間将監真勝(1570~1642)の
収蔵時、茶掛けの便宜のため、1653 年に 3 幅に裁断された。現在目にすることのできるも
のは右段で、上に玉澗の題詩と署名がある。その題詩には以下のようにある。
過渓一笑意何疎、千載風流入画図。回首社賢無覓処、爐峰香冷水雲孤。
7 出光美術館編『茶の湯の美』(東京:出光美術館、1997 年)頁 110。川上涇「牧谿・梁楷・
玉澗―中国宋元美術展から」『みづゑ』675、1961 年 8 月、頁 22~34。竹内順一「『山上
宗二記』の名物(11)玉澗の水墨画(遠浦帰帆図)」『茶道の研究』42、1997 年 11 月、頁
33~35。
8 元代呉太素編『松斎梅譜』(約 1351 年刊)に「僧若芬、字仲石、号玉澗、婺州金華人。
著姓曹氏子、九歳得度、著受業宝峰寺。幼穎悟、学天台教、深解義趣、受兲為臨安天竺寺
書記。」とある。元・呉太素編『松斎梅譜』(拠日本静嘉堂文庫排印、上海:上海書画出版
社、1993 年)巻 14、頁 702 上を見よ。
9 足利義満が常用する印章の印文は「天山」(京都大徳寺所蔵の牧谿筆「猿鶴図」など)「道
有」(牧谿「瀟湘八景図」など)である。臼井信義『足利義満』(東京:吉川弘文館、1989
年)頁 281 を参照。
3
この詩中、玉澗は廬山に関連するふたつの故实を引いている。ひとつは陶淵明(365〜427)、
慧遠(334〜416)、陸修静の「虎渓三笑」の伝説で、もうひとつは慧遠、劉遺民、宗炳(375
〜443)ら 18 人が「白蓮社」を結んだ「蓮社十八賢」の故事である。「虎渓三笑」と「蓮
社十八賢」は、研究者の考証を経て後世の虚構であることが知られている10
。この故实の萌
芽は唐代に発生し、北宋期に定型化した。北宋煕寧年間の陳舜兪(?〜1076)『廬山記』
は、これに関する比較的整った内容を变述している。
流泉匝寺、下入虎渓。昔遠法師送実過此、虎輒號鳴、故名焉。時陶元亮居栗里山南、陸
修静亦有道之士、遠師嘗送此二人、与語道合、不覺過之、因相与大笑。今世伝「三笑図」、
蓋起於此。〔……〕遠公与慧永、 慧持、曇順、曇恒、竺道生、慧叡、道敬、道昺、曇
詵、白衣張野、宗炳、劉遺民、張詮、周続之、雷次宗、梵僧仏䭾耶■十八人者、同修浄
土之法、因号白蓮社十八賢。11
儒仏道を象徴する陶淵明、慧遠、陸修静が、道行きに紛然とするあまり、虎渓を過ぎな
いという執着を破ってしまい笑い合ったというこの物語は、三教一致の思想を鮮やかに有
するものである12
。陳舜兪以前では、天台の高僧である孤山智圓(976〜1022)が「三笑図
賛并序」において以下のように指摘している。
昔遠公隠于廬山、送実以虎渓為界、雖晋帝万乗之重、桓玄震主之威、亦不能屈也。及送
道士陸脩静、儒者陶淵明則過之矣。既覚之、乃攜手徘徊、相顧辴然。噫!得非道有所至、
而事有所忘乎?人到于今、写共形容、謂之「三笑図」、止為戯翫而已、豈知三賢之用心
邪。於是作賛以明之。
孤山智圓の賛には以下のようにいう、
釈道儒宗、共旨本融、守株則塞、忘筌乃通。
莫逆之交、共惟三公、厥服雖異、厥心惟同。
見大忘小、過渓有蹤、相顧而笑、楽在共中。13
10 湯用彤『漢魏両晋南北朝仏教史』(北京:中華書局、1983 年)頁 255~264。
11 宋・陳舜兪『宋槧本廬山記』(台北:大通書局、1986 年)巻一「敘山北第二」、頁 6627
~6628。また、この 18 人に仏陀跋陀羅が入るのは、宋・陳舜兪『廬山記』(『叢書集成初編』
本、拠守山閣叢書本排印、北京:中華書局、1985 年)巻二、頁 9 を見よ。
12 虎渓三笑の故事と三教一致の思想については孫昌步「慧遠與“蓮社”傳説」(『五台山研
究』2000 年 3 期)頁 9~17、曹虹「慧遠與廬山」(『中国关籍與文化』2000 年 3 期)頁 11
~18 を参照。宋代の「虎渓三笑図」を紹介したものとしては、国立故宮博物院編輯委員会
編『宋代書画冊頁名品特展』(台北:国立故宮博物院、1995 年)頁 270~271 を参照。
13 『閑居編』(『卍続蔵経』第 101 冊、台北:新文豊出版社、1993 年)巻十六「三笑図賛並
4
玉澗は孤山と同じく天台の僧であるから、「廬山図」に「虎渓三笑」の故实を結びつけ
て三教一致の思想を暗示していることは、理解できるものでもある。これより、従来いわ
れるように「三教弟子」印を玉澗と結びつけることは、あり得ないことではない。
しかし、筆者は玉澗の時代よりもやや下る書家鮮于枢(1246~1302)14
の作品に、字体
と大きさ(約3センチ四方)が玉澗「瀟湘八景図」とまったく同じ「三教弟子」印を発見し
たのである。鮮于枢は字を伯機、祖籍は漁陽(現在の河北省涿鹿県)、汴梁の生まれ15
で、
困学民・直寄老人・虎林陰吏と号した。筆者が閲した「三教弟子」印の捺された鮮于枢の
書蹟は2点ある。ひとつは1291年に書かれた「王安石雑詩巻」(遼寧省博物館蔵)、もうひと
つは年代不詳で、中年期の佳作とみなされている「老子道徳経」(北京故宮博物院蔵)16
で
ある。
「王安石雑詩巻」は、題跋以外では、鮮于枢の伝世する書蹟のなかで最初期の年記を持
つ17
。ここには王安石の詩が併せて四首書かれ18
、落款には「至元辛卯二月八日、過君錫19
真
序」頁 0099 上。潘桂明・呉忠偉『中国天台通史』(南京:江蘇古籍出版社、2001 年)頁
617~643。
14 戴立強「《鮮于府君墓志銘》与鮮于枢生年」『文物季刊』1999 年 1 期、頁 84~91。邱樹
森主編『元史辞关』(済南:山東教育出版社、2002 年)頁 1122。
15 戴立強「鮮于枢的名字和祖籍考」『書法研究』1999 年 5 期、頁 98。
16鮮于枢の「老子道徳経巻」は成熟俊健、書風は虞世南に近いとみなし、鮮于枢中年の作で
あるとの指摘がある。楊伯達主編、楊新・単国強副主編『故宮文物大关』(福州:福建民出
版社、1994 年)法書編、頁 688 を見よ。
17 戴立強「鮮于樞傳世墨迹考釋」『書法研究』2000 年 3 期、頁 79〜97。
18 すなわち王安石「題侍郎山水図」「招約之職方并示正甫書記」「示元度」「奉酬約之見招」
である。
19 この「君錫」は、南宋の方逢辰(1221〜1291)であるとする説がある。方逢辰は字を君
錫、淳祐十年(1250)の進士、『蛟峰文集』の著作がある。『蛟峰文集』には方逢辰の弟方
逢振著『山房遺文』が附され、そのなかの「茶兲一贄鮮于伯機」詩には、「伯機卓犖美少年、
好官不做自取廉。床頭月俸無一銭、手続陸羽経三篇。」とある。『蛟峰先生文集』(『北京図
書館古籍珍本叢刊』本、北京:書目文献出版社、1988)巻 11、頁 12b を見よ。この詩は『文
淵閣四庫全書』本『蛟峰文集』では「手續陸羽経二篇」とする。この説を採る研究には楊
桁「鮮于枢及共『王安石雑詩巻』」『書法叢刊』47 期(1996 年 8 月)頁 69〜83 や、清宮散
佚国宝展特集編輯委員会編『清宮散佚国宝展特集』(北京:中華書局、2004)「書法巻」、頁
464 がある。また、「君錫」を張君錫(?〜1 3 1 4〜1 3 2 0 間)とする説もある。これは柳
貫(1270〜1342)が杜敬(1255〜1324)のために撰した「夷門老人杜君行簡墓碣銘并序」
によるもので、これによれば張君錫は延祐初め(1314 前後)大楽署业となった。彼と杜敬
はいずれも「以汴人而皆実杭最久」で、高克恭・鮮于枢・趙孟頫・喬簣成や鄧文原などの
人士との交遊があり、鑑古に精しかった。(元)柳貫撰、(明)宋濂等編『待制集』(『文淵
閣四庫全書』本、台北:台湾商務印書館、1983)巻 11、頁 13〜14a を見よ。鮮于枢の跋語
では君錫を「所收秘笈在諸家法帖上」と称しているが、方逢辰は書画の收蔵にまったく著
名でなかったこと、そして方逢辰の卒年が、鮮于枢が「王安石雑詩巻」を書いた 1291 年で
あることから考えて、筆者は張君錫こそが「君錫」に相当すると見なしている。張君錫的
收蔵品には、北宋步宗元「朝元仙仗図」などがある。(元)湯垕『画鑑』(『文淵閣四庫全書』
本、台北:台湾商務印書館、1983)頁 21a を見よ。また、趙孟頫「鵲華秋色図」上には、
5
味堂、出紙命書、遂為尽此。君錫書法得前人之正、又所収秘笈在諸家法帖上、亦須拙筆、
亦愛忘共醜之意耶。鮮于枢記。」とある。「記」字の下には「鮮于」「虎林隠吏」印、左側
には「伯機印章」「三教弟子」印が捺される。「老子道徳経」には、各段の縫合印として「三
教弟子」印が捺される。
玉澗と関連する印の記録が全く存在せず、「三教弟子」印が鮮于枢の所有にあることが認
められる状況のもとでは20
、玉澗と鮮于枢がたまたま字体と大きさの一致する「三教弟子」
の印章を持ってでもいないかぎり、我々は鮮于枢が玉澗「瀟湘八景図」を所蔵していたこ
とが可能であるかどうか、そして彼がなぜ「三教弟子」を自称するのかを推測せざるを得
ない。
鮮于枢の生涯の事蹟を考察すると、その経歴と書芸の発展から、大きく三つに分けるこ
とができる21
。
1 20才の時監河掾を任ず。その後十年余の間北方を遊歴、北方の書家王庭筠(1151〜
1202)22
、張天錫、姚枢(1201〜1278あるいは1203〜1280)などの筆法を学ぶ。
2 32才の時揚州に赴任。33才(1277)前後に趙孟頫(1254〜1322)と知り合う23
。両人
はお互いを重んじ、終生の文友の契りを結ぶ。45才(1290)まで、1285年から1286年の2
年間大都にいた以外では江南におり、主に杭州に居住する。この時周密(1232〜1298)、
王子慶、郭天錫(約1227〜1302)24
、喬簣成、白珽(1248〜1328)、仇遠(1247〜1326)、
鄧文原(1258〜1328)ら鑑蔵に長けた文化エリートと交際し、雅集や文会の中で切磋琢磨
する。鮮于枢も名帖の収蔵を開始し25
、晋唐書風の古法高意を体得、書芸が大いに進む。
楊載(1271〜1323)が 1297 年に君錫の崇古斎で題した跋語があり、当時「鵲華秋色図」
が張君錫家にあったことがわかる。
20 楊仁愷『中国書画鑑定学稿』(瀋陽:遼海出版社、2000)頁 294。
21 楚黙「鮮于枢書法評伝」劉正成主編『中国書法全集』(北京:栄宝斎出版社、1993)第
45 冊、頁 1〜3。
22 李宗慬『新編王庭筠年譜』(台北:秀威資訊科技公司、2005)。
23 楚黙「鮮于枢与趙孟頫的交遊」『中国書法全集』第 45 冊、頁 27〜32 による。鮮于枢と
趙孟頫は、1287 年 8 月に杭州で知り合ったとの説もある。単国強「趙孟頫信札繋年初編」
上海書画出版社編『趙孟頫研究論文集』(上海:上海書画出版社、1995)頁 547 を見よ。傅
申教授は、鮮于枢と趙孟頫が知り合ったのは 1280 年以前であるとしている。傅申『書史与
書蹟─傅申書法論文集(二)』(台北:国立歷史博物館、2004)頁 72〜73 を見よ。
24 郭天錫の生卒年は不詳である。本文の生卒年は楊仁愷『中国書画鑑定学稿』頁 293、黄
惇『中国書法史 元明巻』(南京:江蘇教育出版社、2002)頁 167 による。徐邦達氏は、趙
孟頫題王羲之「思想帖」後で諸題跋者が年齢順に排列しており、そのなかで郭天錫の題跋
は周密(生於 1232)と張伯淳(師道、生於 1242)の間に位置していることを根拠に、郭天
錫は 1232 以降、1242 以前に生まれたと推測している。徐邦達「書画家名字相同或相近致
二人誤混為一考弁」『歴代書画家伝記攷弁』(上海:上海人民美術出版社、1983)頁 90〜93
を見よ。また、喬簣成が 1313 年に跋した「真書曹娥誄辞巻」には、当時「祐之没十有余年」
であったとすることより、郭天錫は 1300 年前後に死去したことがわかる。
25 鮮于枢が収蔵した晋唐名家の作品には、伝王献之「保母磚帖」、顔真卿「祭姪文稿」、楊
凝式「夏熱帖」などがある。
6
3 1291年から世を去る1302年まで、杭州と金華26
を主要な活動範囲とする。鮮于枢の一
生の仕途は多難で、興趣を書芸に寄せ、趙孟頫はその書芸を「妙入神品、僕所不及」27
と誉
め称えた。南方の文人は鮮于枢の筆蹟に「凡得数字、伝玩以為希有」28
であったという。
鮮于枢が同好の士と広範な交流を持ち、その蔵品が互いに行き来しているという状況や、
玉澗が晩年「帰老家山」29
した婺州金華の職に鮮于枢が就いているという、人的・地理的な
要因からすれば、彼が玉澗の「瀟湘八景図」を所蔵していたということは決して不可能な
ことではない。さらに、現存する鮮于枢の散曲套数には、瀟湘八景を歌った内容の作品が
存在するのである。
〔仙呂〕八声甘州
江天暮雪。最可愛青帘。搖曳長杠。生涯閑散。占断水国漁邦。煙浮草屋梅近砌。水繞柴扉
山対窗。時復竹籬旁。吠犬汪汪。
〔么〕向満目夕陽影裡。見遠浦帰舟。帆力風降。山城欲閉。時聴戍鼓韸韸。羣鴉噪晚千万
点。寒雁書空三四行。画向小屏間。夜夜停釭。
〔大安楽〕従人笑我愚和戇。瀟湘影裡且粧呆。不談劉項與孫龐。近小窗。誰羨碧油幢。
〔元和令〕粳米炊長腰。鯿魚煮縮項。悶攜村酒飲空缸。是非一任講。恣情拍手棹漁歌。高
低不論腔。
〔尾〕浪滂滂。水茫茫。小舟斜纜壊橋樁。綸竿蓑笠。落梅風裡釣寒江。30
作者は曲の端々に、漁隠の生活の満足と喜びを充満させている。彼は項羽と劉邦、孫臏
と龐涓の間で行われた互いを喰い合う俗事には関心を示さず、また高官が乗る碧色の幕の
車をうらやんでもいない。たとえ人の嘲笑に遭おうとも、その楽しみを改めようとはしな
いのである。このうち、「画向小屏間、夜夜停釭」の句から、この一篇が燈火を執って絵
画を詠んだ題画の散曲であることがわかる。これは玉澗「瀟湘八景図」上の題詩と参照す
べきものであるが、後に詳述することにしよう。
26 鮮于枢はおよそ 1295〜1298 年には金華にいた。王褘(1322-1374)跋鮮于枢「杜工部詩
行次昭陵詩巻」(北京故宮博物院蔵)には「公元貞中(1295〜1296)嘗任帥幕、宦居於婺、
故婺之士大夫家有共書、褘往往及見之」とある。また 1297 年に鮮于枢と李溥光(釈溥光、
号雪庵)は金華智者寺で、雲屋閒禅師のために「二老亭」の作図賦詩をしている。1298 年
9 月、鮮于枢は金華で玉成先生王(1247〜1324)に「杜甫茅屋為秋風所破歌草書巻」(藤井
有鄰館蔵)を書いている。戴立強「鮮于枢伝世墨跡考釈」『書法研究』2000 年 3 期、頁 79
〜97 を参照。
27 趙孟頫の 1294 年跋鮮于枢大字の記述による。
28 1301 年、鮮于枢は任仲美に「千文」一巻を書し、後に跋語を記す。
29 (元)呉太素編『松斎梅譜』頁 702。
30 隋樹森編『全元散曲』(北京:中華書局、1964)頁 86〜87。元代楊朝英編『楽府新編陽
春白雪』と明代郭勛選輯『雍熙楽府』、陳所聞編『北宮詞紀』などが收録する本曲の内容に
は異同が見られる。詳しくは(元)楊朝英選、隋樹森校訂『新校九巻本陽春白雪』(北京:
中華書局、1987)頁 118〜119 を参照。
7
三 鮮于枢と三教とのつながり
古人の別号には、通常その人物の志向やアイデンティティーが現れるものである。鮮于
枢の別号には「困学民」「虎林隠吏」「直寄老(道)人」などがある。「困学民」は『論
語 季氏』の「孔子曰、生而知之者、上也。学而知之者、次也。困而学之、又共次也。困
而不学、民斯為下矣」を关拠としており、鮮于枢の自己願望を見て取ることができる。彼
が銭塘に居を定めた時、室を建て「困学斎」と名付けている。その友人である戴表元(1244
〜1310)は「困学斎記」を著し、彼が「将収放心而求寡過焉(将に放心を収めて過ち寡な
からんことを求む)」31
ものであるとしている。また「虎林隠吏」の号は、杭州の古称「虎
林」にちなむものであり、「大隠隠於市」の精神の反映である。1299年前後の鮮于枢退官後、
「困学斎」のかたわらに「直寄未暇亭」を建て、そこに老松を一株植えた。これは後に「支
離叟」と命名されるもので、これは『荘子 人間世』の「支離疏」より引いている。亭の
名である「直寄」もまた『荘子 人間世』からの出关で、これらはいずれも、無用の用を
もって天より与えられた命を養うという意味である。
現存する鮮于枢の文集で、後人が編輯した『困学斎雑録』には、「老氏・釈氏、吾有取
乎?曰:有。老氏吾取共佳兰不祥;釈氏吾取共戒殺。」32
との語が見られる。また、唐代玄
奘大師「八識規矩頌」33
の記では、「地水火風、聚一区之仮合。生住異滅、成四像之遷移。
三縁和合而縁生、為身為體、五藴滅謝而入死、惟識惟神。」34
という。陶宗儀(1316〜1403)
『説郛』中に編集された、『鉤玄』と題される著作については、内容に重複が見られるこ
とから、戴立強氏はこれを『困学斎雑録』の別の版本であるとみなしている35
。戴氏は、『鉤
玄』「李仁卿胎息之説」条で、道教と仏教の修練の術を論じる際に引用しているのは、宋
31 (元)戴表元撰、(明)周儀輯編『剡源戴先生文集』(『四部叢刊』本、台北:台湾商務印
書館、1979)巻 2、頁 12a。
32 (元)鮮于枢『困学斎雑録』(『文淵閣四庫全書』本、台北:台湾商務印書館、1983)頁
14b。
33 (元)鮮于枢『困学斎雑録』頁 16b には「浩浩三蔵不可窮、淵深七浪景為風。愛(闕)
特種根身立、去後先来作主翁。不動地辺才捨蔵、金剛道後畢然空。大圓鏡智成無漏、普照
十方塵刹中」とあり、これはすなわち玄奘大師「八識規矩頌」の第八識頌「 性唯無覆五遍
行、界地隨他業力生、二乗不了因迷執、由此能興論主争。浩浩三蔵不可窮、淵深七浪境為
風、受薰持種根身器、去後来先作主公。不動地前才舍蔵、金剛道後異熟空、大圓無垢同時
発、普照十方塵剎中。」に対するものである。
34 (元)鮮于枢『困学斎雑録』頁 17a。
35 戴立強「鮮于枢『困学斎雑録』浅論」『文献季刊』2002 年 1 期、頁 73〜81。
8
代の晁迥(明遠 951〜1034)の三教調和の説であると指摘している36
。これらの記述は、
鮮于枢が「三教弟子」を自称する証左となろう。
また、鮮于枢が交遊していた僧侶の釈溥光とその宗教的傾向を探ることからも、鮮于枢
のなかにある三教一致の様子を見つけだすことにする。
釈溥光は字を玄暉、雪庵と号す。俗姓は李、大同(現在の山西省大同市)の人で、元貞・
大徳年間に昭文館大学士を受封し、圓通玄悟大師の号を賜った。陶宗儀『書史会要』によ
れば、「溥光為詩沖澹粹美、善真・行・草書、尤工大字、国朝禁扁、皆共所書。」37
とあり、
「永字八法」を二十四勢に変え、『李雪庵大字法』(または『雪庵字要』。1308年序)を
著してもいる。山水画は関仝に学び、墨竹は文同の湖州竹派に属した。「雅尚儒素、游戲
翰墨、所交皆当代名流」38
であった溥光は、王惲(1227〜1304)39
、程鉅夫(1249〜1318)
40
、鄧文原41
らと親交を結んでもいる。
釈溥光は、仏教の分派である頭陀教の第十一代教主である。「頭陀」は梵語dhūtaの音訳
で、「教規の遂行」を意味する。頭陀教は、劉紙衣によって天会年間(約1130年)に燕京で
創立したと伝えられ、戒律の厳守と苦行の遂行を掲げるものである。頭陀教の僧尼は寺院
に住さず、乞食
こつじき
によって生活し、その信徒には工商階層が多くを占めた。この頭陀教は、
万松行秀(1166〜1246)や耶律楚材(1190〜1243)らによって「糠禅」として排斥され、
1188年に禁教となっている42
。元代に頭陀教は再興し、釈溥光が掌教の時に最盛期を迎えた
(「世祖皇帝嘗問(溥光)宗教之源、師援引経綸、忚対称旨。至元辛巳(1281)、賜大禅
師之号。」43
)が、頭陀教第十二掌教の釈溥照の後、またもや邪教との指摘を受け禁教とさ
れ、ついにそのまま廃れてしまった。
釈大訢(1284〜1344)によれば、鮮于枢と釈溥光は、かつて金華智者寺の雲屋間禅師(1231
〜1312)の「二老亭」のために画を描き詩を賦したとされる44
。鮮于枢には「遊智者寺」な
36 (宋)晁迥『道院集要』(『文淵閣四庫全書』本、台北:台湾商務印書館、1983)巻 3「禅
道同功修養訣并序」頁 14a、(宋)晁迥『法蔵砕金録』(『文淵閣四庫全書』本、台北:台湾
商務印書館、1983)巻 10、頁 29a・巻 5、頁 6a を見よ。
37 (明)陶宗儀『書史会要』(『国家図書館蔵古籍芸術類編』本、北京:北京図書館出版社、
2004)巻 7、頁 23b。
38 (元)熊夢祥『析津志輯佚』(北京:北京古籍出版社、1983)頁 74。
39 (元)王惲「有懐雪菴禅師雪菴」『秋澗集』(『文淵閣四庫全書』本、台北:台湾商務印書
館、1983)巻 5、頁 7 b〜8a。
40 (元)程鉅夫「李雪菴詩序」『雪楼集』(『文淵閣四庫全書』本、台北:台湾商務印書館、
1983)巻 15、頁 23〜24a。
41 「雪菴長語詩序」、(元)鄧文原『巴西集』(『文淵閣四庫全書』本、台北:台湾商務印書
館、1983)巻上、頁 67a〜68。
42 連立昌、王見川「金元時期之“糠禅"初探」『圓光仏学学報』3 期(1999.2)、頁 141〜
153。程群、邱秩浩「萬松行秀与金元仏教」『法音』2004 年 4 期(総第 236 期)第 19 頁。
43 (元)熊夢祥『析津志輯佚』頁 74。
44 「金華智者寺雲屋閒禅師塔銘」(代仏智師作)、(元)釈大訢『蒲室集』(『大蔵経補編』本、
9
る詩がある。
四囲松是祇園樹、三面山開舍衛城。遊子心隨仙境化、老禅詩似石泉清。
幾人解后有今日、半載趦趄成此行。安得尽 身外事、長年来此学無生。45
智者寺は526年、南朝梁步帝の勅建で、金華の「芙蓉峰之西、乃北山南嶺之首」46
に位置
する。玉澗が晩年「建閣対芙蓉峰」47
したとの呉太素の記述からすれば、智者寺と玉澗の居
所である宝峰寺はそう遠くなかったであろう。北宋の淳化〜至道年間(990〜997)、智者寺
の香火はなお盛んで、太宗は智者寺に「両降御書一百二十巻」をしている。南宋に至ると
智者寺は頽廃し、陸游(1125〜1210)が1203年に著した「智者寺興造記」48
には、その重
修の過程が記録されている。1636年に徐霞実(1587〜1641)が智者寺を遊歴した時には、
陸游手書の「智者寺興造記」碑を得たのみであった。元代の智者寺は、雲屋間禅師の主持
のもと、三教調和の風潮が非常に色濃かった。許謙(1270〜1337)によって語られる智者
寺は以下のようである。
梁朝旧蘭若、雄拠北山南。衲子分諸榻、詩翁老一龕。登台生遠興、引酒縦清談。更有黄
冠叟、玄玄得兯参。49
許謙が雲屋間禅師に与えた詩では、禅師を、韓愈(768〜824)と交遊のあった大顛和尚
(732〜824)50
に擬えている。
聡明大顛老、儒行墨共名。伝道千灯続、論文四座驚。雲和虚室白、山与此心清。禅味真
堪 、何煩酒更傾。51
「儒行墨共名」の句は、韓愈「送浮屠文暢師序」より引いている。
台北:華宇出版社、1986)巻 12、頁 3〜6a。
45 (清)陳焯編『宋元詩会』(『文淵閣四庫全書』本、台北:台湾商務印書館、1983)巻 72、
頁 18b。
46 徐弘祖『徐霞実遊記』(上海:上海古籍出版社、1987)巻 2 上、頁 102。
47 (元)呉太素編『松斎梅譜』、頁 702。
48 (宋)陸游『渭南文集』(『四部叢刊正編』本、台北:台湾商務印書館、1979)巻 20、頁
9〜11a。
49 「遊智者寺」二首之二、(元)許謙『白雲集』(『文淵閣四庫全書』本、台北:台湾商務印
書館、1983)巻 1、頁 35b。
50 大顛和尚の俗姓は陳、法号宝通、河南穎川の人で、大顛和尚と自号した。潮州霊山禅
院に弘法。韓愈は潮州貶時に参訪している。
51 (元)許謙「贈閒雲屋一首」『白雲集』巻 1、頁 35b〜36a。
10
人固有儒名而墨行者、問共名則是、校共行則非、可以与之游乎? 如有墨名而儒行者、
問之名則非、校共行而是、可以与之游乎? 揚子雲称、在門牆則揮之、在夷狄則進之、
吾取以為法焉。52
韓愈は柳宗元(773〜819)の依頼を受け、柳宗元の友人である詩僧釈文暢のために序を
書いている。文暢は、馬祖門下である南泉普願の弟子で、韓愈は彼を、その名こそ仏徒で
あるが、その品行は儒者のそれであるとしている。孟簡に擬託される『大顛別伝』53
・宋代
志磐の『仏祖統紀』54
などに伝わる大顛のイメージも、韓愈が伝える「聡明識道理」のとお
りの、儒仏双方に通じた学問僧の姿である。
『荘子 人間世』のいう「瞻彼闋者、虚室生白、吉祥止止。」とは、人が清浄無為で欲念
に惑わされなければ、悟道の境を体得できるということの比喩である。許謙は、禅師の修
養と道行のありさまを際だたせるために、荘子の「虚室生白」の关故を用いて智者寺の自
然の美しさを形容しているのである。
雲屋間禅師に対するそれとまったく同じように、鮮于枢と親交のあった釈溥光もまた、
元代の任士林に、韓愈の詞句を借用し、「儒名而墨行者」であるといわれている(「昭文館
大学士雪菴李公溥光、以翰墨之遇、行釈氏之学、儒名而墨行者乎。」55
)。
大顛和尚は石頭希遷(773〜819)のもとで開悟した。石頭希遷の伝世する著作には『参
同契』、「草庵歌」があり、釈溥光は草書「石頭和尚草庵歌」(上海博物館蔵)を書いてい
る。鮮于枢は釈溥光の肖像画に題詩しているが、これはあたかも彼の生涯にわたる旅とそ
の達成の注釈ともいうべきものとなっている。
(上闕)鉅榜照九州、千金一字人争醻。帝開昭文礼巣由、帰来毳衣臥林丘。一朝泚筆賦
遠遊、南踰五嶺東閩甌。濤江瘴海靡不周、会稽禹穴為少留。山君川后護駅舟、駿奔方伯
走郡侯。謇予自浪窮海陬、解追針芥縁相投。総角問道今白頭、始知斗擻為清修。題詩画
像真自謀、託名紙尾三千秋。
52 (唐)韓愈撰、(宋)朱熹考異、(宋)王伯大音釈『朱文公校昌黎先生文集』(『四部叢刊
初編』本、台北:台湾商務印書館、1965)巻 20「送浮屠文暢師序」、頁 3a。
53 羅香林「大顛惟儼与韓愈李翱関係考」『唐代文化史』(台北:台湾商務印書館、1974、4
版)頁 177〜193。
54 (宋)釈志磐『仏祖統紀』(『続修四庫全書』本、上海:上海古籍出版社、1997)巻 41、
頁 561 下。
55 「頭陀福地甘露泉記」、(元)任士林『松郷集』(『文淵閣四庫全書』本、台北:台湾商務
印書館、1983)巻 2、頁 4a。
11
「始知斗擻為清修」句の「斗擻」とは、頭陀教の「頭陀」のことである。元代熊夢祥の『析
津志』では、頭陀教の教旨を以下のように解釈している。
頭陁之義、華言抖擻也。抖擻世縁若塵然。共学以慈倹為宗、真实為拠、伏妄想為切務。
以為飲食不可以生愛也、故宅幽以遠俗;衣服不可以生愛也、故敚縕以燠体;処不可以生
愛也、故宅幽以遠俗。啓三摩解脱之関、拔六根清浄之蠹。56
鮮于枢が「総角問道今白頭、始知斗擻為清修」と述べていることより、彼が頭陀教の信
者であったことは明らかである。また、鮮于枢が釈溥光の肖像画に題写した「行書詩巻」
(または「行書贈継栄古詩巻」。上海博物館蔵)の後に書かれた元代陸居仁(?〜1377 年
前後)57
による 1311 年の次韻詩跋には、釈溥光の「四列三教十九流」が直に述べられてい
る。
伊蒲何来入薊幽、四列三教十九流。忘身忘世無所求、眇眍軒冕同浮漚。
頃都下榻延周球、千鈞椽筆実汗牛。大書城顔絢皇州、有時賦詩相唱酬。
教伝表莫知来由、不飛羽衣過丹丘。不打双履身喜遊、衲為衣裳瓦為甌。
非釈非老非荘周、無適無莫挽即留。身如不鰲隨波舟、交無襍実皆王侯。
観海忽過東南陬、名香厚幣烏来投。斉眉短髪不満頭、攝心孤坐常清修。
澹然不作声利謀、静看日月搬春秋。
以上が、釈溥光を通して探り得た鮮于枢「三教弟子」のあらましである。前述のとおり、
鮮于枢は瀟湘八景の散曲を題写している。その子鮮于去矜にも「中呂 普天楽」なる散曲
がある。この両者の内容は相似しており、玉澗「瀟湘八景図」に書かれた情況と画面のそ
れとに一致するのである。
四 映りこむテクスト−玉澗と鮮于枢父子
鮮于去矜は字を必仁、苦斎と号す。鮮于枢の第三子で、元英宗至治年間(1321~1323)
前後に活動した58
。彼は楽府に長け、書法は鮮于枢の家風を継承した。鮮于去矜と鮮于枢の
56 (元)熊夢祥『析津志輯佚』、頁 73。
57 陸居仁は字を宅之、華亭(今の上海松江)の人。詩経をもって泰定丙寅(1326)の郷試
に挙げられるも、隠居して終生学生の教育につとめた。雲松野褐と自号し、また巣松翁、
瑁湖居士と号し、楊維楨(1296〜1370)・銭惟善と唱和している。(清)顧嗣立編『元詩選』
(北京:中華書局、1987 )「三集」、巻 14 を見よ。
58 鮮于去矜に関する生平の資料は少なく、僅かに楊梓(?〜1327)の息子との交流が知ら
れる。楊梓は明代四大声腔の一「海塩腔」の改良者である。楊梓に関しては、楊鐮『元代
12
瀟湘八景の散曲を比較すると、彼と鮮于枢の語句の用い方の相似が見られ、鮮于去矜の学
習の痕跡がはっきりとうかがえる。
鮮于枢 鮮于去矜
占断水国漁邦 了吾生占断漁邦(遠浦帆帰)
水繞柴扉山対窗 柴門紅樹村(漁村落照)
向満目夕陽影裡 斜陽景(影)裏(漁村落照)
寒雁書空三四行 雁陣驚寒埋雲岫(平沙落雁)
悶攜村酒飲空缸 酒盈小壺、飲尽重沽(漁村落照)
落梅風裡釣寒江 晚天昏、寒江暗(江天暮雪)
鮮于去矜が父を倣って瀟湘八景の散曲を創作することは特別なことではないし、もし鮮
于枢が題写した「瀟湘八景図」が、玉澗の描いたものであるとするのであれば、鮮于去矜
が鑑賞した作品が、家蔵の玉澗「瀟湘八景図」であることは大いにありえよう。鮮于枢が
作った散曲は「瀟湘八景」各景の形象をいちいち变述していないため、我々は鮮于枢散曲
の「最可愛青帘、搖曳長杠」から「山市晴巒(嵐)」に玉澗が題写した「最好市橋官柳外、
酒旗搖曳実思家」を想起したり、「是非一任講」より玉澗「遠浦帰帆」題画詩の「老翁閑
自説江南」を想起したりすることしかできない。だが、鮮于去矜の瀟湘八景散曲は、玉澗
の詩作との対忚ができるのである。これを表に示すと以下のようになる。
作品 作者 玉澗 鮮于去矜
洞庭秋月 四面平湖月満山、一阿螺髻鏡中看。岳
陽楼上聴長笛、訴盡崎嶇行路難。
水無痕、秋無際。光涵贔屭、影浸玻璃。
龍嘶貝闕珠、兔走蟾宮桂。萬頃滄波浮
天地、爛銀盤寒褪雲衣。洞簫謾吹、篷
窗静倚、良夜何共。
煙寺晚鐘 鐘送斜陽出暮山、遙知煙寺隔前湾。山
翁莫怪帰来晚、欲待峰頭月上還。
樹蔵山、山蔵寺。藤蔭杳杳、雲影参差。
疏鐘送落暉、倦鳥催帰翅。一抹煙嵐寒
光漬、問胡僧月下何之?逐朝夜時、扶
筇到此、散歩尋詩。
江天暮雪 萬里江天萬里心、飄飄花絮灑平林。橋 晚天昏、寒江暗。雪花黤黤、雲葉毿毿。
文学編年史』(太原:山西教育出版社、2005)頁 340 を参照。鮮于去矜は 1298 年に生まれ
たとの研究もある。趙義山「元散曲家陳草庵・鮮于必仁考略」『文学遺産』1993 年 3 期、
頁 82〜85、陳定謇「関於「鮮于必仁生活時代考」的一点補正」『文学遺産』1995 年 4 期な
どを参照。但し、鮮于枢「杜甫茅屋為秋風所破歌草書巻」(日本藤井有鄰館蔵)には、去矜
の 1309 年の跋語があり、もし彼が 1298 年に生まれたならば当時の年齢は 12 歳であるが、
その書法と措辞はおよそ 12 歳の少年のものには見えない。鮮于枢の長子鮮于必強は 1278
年揚州に生まれていることから、去矜は 1278 年以降の出生である。
13
横路断馬蹄滑、更説藍関転不禁。 漁翁倦欲帰、久実愁多憾。浩汀洲船著
纜、玉蓑衣不換青衫。閒情飽愔、高眠
酔酣、世事休参。
瀟湘夜雤 古渡沙平漲水痕,一篷寒雤滴黄昏。蘭
枯蕙死無尋処、短些難招楚実魂。
白蘉洲、黄蘆岸。密雲堆冷、乱雤飛寒。
漁人罷釣帰、実子推篷看。濁浪排空孤
燈燦、想黿鼉出没共間。魂消悶顔、愁
舒倦眼、何処家山。
平沙落雁 点点隨群旧処栖、蓼花蘆葉暗長堤。天
寒水冷難成宿、猶自依依怨別離。
稲粱收、菰莆秀。山光凝暮、江影涵秋。
潮平遠水寛、天闊孤帆瘦。雁陣驚寒埋
雲岫、下長空飛満滄洲。西風渡頭、斜
陽岸口、不尽詩愁。
遠浦歸帆 無邊刹境入毫端、帆落秋江隠暮嵐。残
照未収漁火動、老翁閑自説江南。
水雲郷、煙波蕩。平洲古岸、遠樹孤荘。
軽帆走蜃風、柔櫓閑鯨浪。隠隠牙檣如
屏障。了吾生占断漁邦。船頭酒香、盤
中蟹黄、爛酔何妨。
山市晴嵐 雤拖雲脚歛長沙、隠隠残紅帯晚霞。最
好市橋官柳外、酒旗搖曳実思家。
似屏囲、如図画。依依村市、簇簇人家。
小橋流水間、古木疏煙下。霧歛晴峰銅
鉦掛、鬧腥風争買魚蝦。塵飛乱沙、雲
開断霞、網曬枯槎。
漁村落照 一紅晴日満沙汀、売与魚来酒半醒。簑
笠未乾榔板静、一声横竹数峰青。
楚雲寒、湘天暮。斜陽影裏、幾個漁夫。
柴門紅樹村、釣艇青山渡。驚起沙鷗飛
無数、倒晴光金縷扶疏。魚穿短蒲、酒
盈小壺、飲尽重沽。
鮮于枢の用詞を模倣したようには直接的でないながらも、鮮于去矜と玉澗の作品を比較す
ると、両者の関係性の糸口を見出すことができる。瀟湘八景各景の標題として必然的に現
れる語句をのぞいても、玉澗題詩に使用される語を鮮于去矜の諸散曲にも見ることができ
る。「煙寺晩鐘」を見てみよう。玉澗詩では「鐘送斜陽出暮山」とあるが、鮮于去矜散曲で
は「疏鐘送落暉」とあり、ともに「送」字を用いている。「山市晴嵐」では、玉澗詩には
「雤拖雲脚歛長沙」、鮮于去矜散曲では「霧歛晴峰銅鉦掛」とあり、ともに「歛」字をも
って収束している。
景致の形容や、心境の比喩といった部分ではどうだろうか。例えば「瀟湘夜雤」では、
玉澗「一篷寒雤滴黄昏」、鮮于去矜「実子推篷看」とあり、また玉澗「短些難招楚実魂」
に対して、鮮于去矜は「魂消悶顔」としている。「遠浦帰帆」では、玉澗「帆落秋江隠暮
嵐」とあり、鮮于去矜は「隱隱牙檣如屏障」としている。また玉澗は「老翁閑自説江南」
というが、鮮于去矜は「柔櫓閑鯨浪」としている。「洞庭秋月」では、玉澗は湖水の平穏
14
さと澄明な様子を「鏡」に擬えているが、鮮于去矜は「玻璃」としている。また玉澗は洞
庭湖の仙人が鉄笛を吹いた故事を用いているが、鮮于去もまた「洞簫謾吹」としている。
さらに玉澗「瀟湘夜雤」首句に見られる「古渡沙平漲水痕」は、鮮于去矜「洞庭秋月」の
「水無痕」、「平沙落雁」の「西風渡頭」、また「遠浦帰帆」の「平洲古岸」と、それぞ
れに同様の表現が見られる。
現存する玉澗「瀟湘八景図」の画面より見てみると、鮮于去矜の「洞庭秋月」と「遠浦
帰帆」にもまた、玉澗画をよりどころにしている点が認められる。例えば、「遠浦帰帆図」
には、鮮于去矜の書く「遠樹孤荘」「隠隠牙檣如屏障」の光景がまさに描かれている。画
幅左方の一隻の小舟の上のふたりは、鮮于去矜がいう「船頭酒香、盤中蟹黄」に舌鼓を打
っている最中である。
こうした字句の相互関係と画面の裏付けをもってしてもまだ我々を鮮于去矜と玉澗「瀟
湘八景図」との関係を近づけることができないとするなら、それは宋代以来の瀟湘八景図
の題写が規格化・定形化してしまったことの結果によるものであろうかと思われる。「山
市晴嵐図」に焦点を合わせて再び細部の考察をすることで、このことを更に明らかとする
ことができよう。
玉澗瀟湘八景図中の「山市晴嵐」には、その他の「山市晴嵐」作品とは顕著な相違があ
る。晩景の表現を採っているのである。玉澗の題詩は以下のとおりである。
雤拖雲脚歛長沙、隠隠残紅帯晚霞。最好市橋官柳外、酒旗搖曳実思家。
玉澗よりも以前に瀟湘八景図に題写した北宋の恵洪(釈徳洪)(1071~1128)の詩では、
このように書いている。
朝霞散綺仗天容、無際山嵐分外濃。風土蕭条人跡静、林蹊花木自鮮穠。59
「朝霞」であるからには疑う余地なく、時間は早朝である。恵洪が題詠した「瀟湘八景図」
の作者である宋迪の画作時、「山市晴嵐」は早朝の光景であったのである。
宿雤初収山気重、炊煙日影林光動。蚕市漸休人已稀、市橋官柳金絲弄。
隔谿誰家花満畦、滑唇黄鳥春風啼。酒旗漠漠望可見、知在柘岡村路西。60
「宿雤」の語は「山市晴嵐」図を描写する際にしばしば用いられる61
が、「宿雤初収」の時
59 「瀟湘八景」之「山市晴嵐」、北京大学古文献研究所編『全宋詩』(北京:北京大学出
版社、1991)冊 23、巻 1341、頁 15300。
60 「宋迪作八境絕妙人謂之無声句演上人戯余曰道人能作有声画乎因為之各賦一首」、『全宋
詩』冊 23、巻 1334、頁 15162。
15
分が夕暮れ時の筈はない。恵洪詩中の「市橋官柳金絲弄」は、杜甫(712~770)「市橋官
柳細、江路野梅香。」62
を关拠としている。玉澗もまた「最好市橋官柳外」と、同じく「市
橋官柳」をもって「山市晴嵐」を表現していることからすれば、これは偶然の一致のはず
はなく、玉澗は間違いなく恵洪詩を読んでいただろう63
。
「山市晴嵐」の題詩者のほとんどは、恵洪と同じく暁の景をもって詠じている。例えば
劉克荘(1187~1269)は、
暁霧軽綃捲、嵐光抹黛新。蕭条数家聚、三両趁墟人。64
と詠んでいる。
趙汝■(金+遂)の詩には、
朝氛呑吐影模糊、嫩日隱見光捲舒。湘巒滴翠石徑滑、遠近憧憧人趁虚。
天風作意扶霽色、嘘拂昏翳半明滅。槿籬彷彿橘林隔、一竿斜插酒旗揭。
嗟此何景兮山市晴嵐、丹青欲尽良独難。65
とある。
楊公遠(1228~?)は、
橫嵐髣髴抹高岡、村市人家釀秫香。渓上暁来争渡急、裏塩沽酒趁虚忙。66
とする。
元代の戴良(1317~1383)詩には、
巌上光已合、林端曙未分。暫出猶衣溼、況乃趁虚人。67
61 (元)陳孙(1240〜1303)「瀟湘八景」之「山市晴嵐」には、「茅屋八九家、小橋跨流水。
市上何所有、寒浦縛江鯉。犬吠樵翁帰、家家釜煙起。兯喜宿雤收、霞明乱山紫。」とある。
『陳剛中詩集』(『文淵閣四庫全書』本、台北:台湾商務印書館、1983)巻 2、頁 12b〜14a
を見よ。
62 「西郊」、(唐)杜甫著、(清)楊倫編『杜詩鏡詮』(台北:廣文書局、1979)上冊、巻 8、
頁 560。
63 衣若芬「漂流与回帰:宋代題「瀟湘」山水画詩之抒情底蘈」『中国文哲研究集刊』21 期
(2002.9)頁 1〜42。
64 「詠瀟湘八景各一首」之「山市晴嵐」『全宋詩』冊 58、巻 3052、頁 36400。
65 趙汝■(金+遂)「八景歌」『全宋詩』冊 55、巻 2865、頁 34210。
66 「瀟湘八景八首」之「山市晴嵐」『全宋詩』冊 67、巻 3523、頁 42084。
67 (元)戴良「題瀟湘八景」之「山市晴嵐」、『九霊山房集』(『叢書集成初編』本、金華叢
16
とある。
「山市晴嵐」図を晩景として詠じる例は、元代の王惲(1227~1304)詩に、
墟落人家半夕暉、太行天上倚煙霏。喚回二十年前夢、兯伯城西載酒帰。68
とあるほかは、程鉅夫(1249~1318)に、
旂亭新酒熟、下馬試従容。頗勝老兰対、夕陽三両峰。69
がある程度で、非常に少ない。
鮮于去矜の瀟湘八景散曲に話を戻すと、その「山市晴嵐」中には兲体的な時間の表現は
なされていないが、「雲開断霞」の句より黄昏時であることは明らかである。天空の雲彩
の形容としての「断霞」は、詩賦では通常晩霞を指す。例えば、「残暑避日尽、断霞逐風
開」70
「怪得仙郎詩句好、断霞残照遠山西」71
「遠岫長渓千里碧、断霞残照半天紅」72
「精神
爽逸無余事、看残陽補断霞」73
「断霞斜照互明滅、詩成欲掃雲間屏」74
などがそうである。
したがって、鮮于去矜の「山市晴嵐」は、玉澗詩と同じく晩景なのである。鮮于去矜の散
曲における「断霞」は、玉澗詩中の「晩霞」の語を変化させて用いているのである。
玉澗「山市晴巒図」の画面構成より見てみると、鮮于去矜が書く「依依村市」「簇簇人
家」「小橋流水」「古木疏水」などの景物は、それぞれ玉澗画中にうかがわれる。先述の
とおり、玉澗詩の「雤拖雲脚歛長沙」に対して、鮮于去矜散曲では「霧歛晴峰銅鉦掛」と、
「歛」字を転用しているが、ほかにも玉澗「市橋官柳」に対して、鮮于去矜は「小橋流水」
としている。さらにひとつ注意すべきは、玉澗詩の「雤拖雲脚歛長沙」が、鮮于去矜の筆
下では「塵飛乱沙」に変成しているのだが、これは玉澗詩にあわせて「沙」字を用いるこ
書本排印、北京:中華書局、1985)巻 27、頁 392。
68 (元)王惲「山市晴嵐」『秋澗集』、巻 26、頁 5a。
69 (元)程鉅夫「題仲経家江貫道瀟湘八景図」八首之「山市晴嵐」『雪楼集』巻 27、頁 6a
〜7a。
70 張正見「還彭沢山中早発詩」、逯欽立輯校『先秦漢魏晋南北朝詩』(北京:中華書局、1998)
「陳詩」巻 3、頁 2498。
71 徐鉉「和太常蕭少卿近郊馬上偶吟」『徐公文集』(『四部叢刊初編』本、台北:台湾商務印
書館、1967)巻 3、頁 16a。
72 (宋)李綱(1085-1140)「雑興三首」之三『梁谿集』(『文淵閣四庫全書』本、台北:台
湾商務印書館、1983)巻 5、頁 15b。
73 (元)耶律楚材(1190-1244)「西域従王君玉乞茶因共韻七首」之七、『湛然居士文集』(『四
部叢刊正編』本、台北:台湾商務印書館、1979)巻 5、頁 16a。
74 (元)張養浩(1269-1329)「白雲楼賦」、『帰田類稿』(『文淵閣四庫全書』本、台北:台
湾商務印書館、1983)巻 14、頁 2a。
17
とに気を配りすぎるあまり、「山市晴嵐」が描出する基本的な姿に反してしまっているの
である。
「山市晴嵐」の「嵐」字は山中の霧の意である。玉澗題が「山市晴巒」としたのは、「巒」
字の音が「嵐」に近いからで、おそらくは瀟湘八景の流伝の過程で発音がお互い大差ない
ために変容したものであろう。例えば、元代の陳旅「題陳氏瀟湘八景図」では、その中の
一首を「山市晴巒」としている。
百貨集亥市、莫猺偏買塩。山日出未高、翠雤溼酒帘。75
しかし、「晴嵐」であれ「晴巒」であれ、ともに雤後に空が晴れわたり、山谷の雲霧の湿
潤たる有様が表現されているとするならば、鮮于去矜の形容するように「塵飛乱沙」する
はずはない。これは、玉澗の「沙」字と結びつけるだけでなく、さらには押韻のため76
、鮮
于去矜が前後の矛盾という問題をおろそかにしてしまっているために起きたことである。
こうした事態は、山中の人が市にかけつけて「鬧腥風争買魚蝦」するが、最後の一句で、
普通「漁村夕照」を描写する際の情景である「網曬枯槎」が現れ、はなはだしく調和がと
れていないことからも明らかである。
以上のような図像と文との対忚は、いずれも鮮于去矜が玉澗と同調することを明確に示
すものである。しかし、鮮于去矜「山市晴嵐」の冒頭で「似屏図、如図画」とあることは、
これが題画の作ではないのではないかとの疑いを抱かせるものでもある。筆者はかつて、
宋人が用いる「江山如画」と、元人の詠じる「画裡江山」より、宋元の「瀟湘」山水画詩
における観念の異同を比較分析したことがあった。それより得た結論のあらましは以下の
通りである。
「江山如画」は、宋人の「以我観物」の概念を明示すものである。これにより江山は人
間の文化の傾向を帯び、また絵画はそもそも人為の産物であるから、さらに個人の私情
をも含むものとなる。それに対して、「画裡江山」とは「以物観物」で、元人の現实に
即した思想と、「発乎情、止乎礼儀」の観念に結びつけられるものである。このように、
「江山如画」と「画裡江山」には、歴史的思惟を含んだ兯通観念の相違が表現されてい
るのである。77
鮮于去矜が「山市晴嵐」で「似屏図、如図画」ということは、一読したところでは、宋
75 (清)顧嗣立編『元詩選』(北京:中華書局、1987)、「初集 安雅堂集」巻 37「題陳氏
瀟湘八景図」頁 1308。
76 玉澗詩中の押韻「沙」「霞」「家」字は、いずれも鮮于去矜散曲中の韻脚である。
77 衣若芬「「江山如画」与「画裡江山」:宋元題「瀟湘」山水画詩之比較」『中国文哲研究集
刊』23 期(2003.9)頁 33〜70。
18
人の「江山如画」の観点を踏襲しており、詩人が賞美するのは大自然の实際の「山市晴嵐」
であるかのように見える。しかし、玉澗の各「瀟湘八景図」題詩との対忚と、そのロジッ
クからの逸脱の原因を解釈することによって、鮮于去矜が書いたのは、その眼に触れた实
景ではないことがわかっている。いわゆる「似屏図、如図画」とは、「画裡江山」を再び
原状に立ち戻すだけのものにすぎないのである。なぜならこれは声に出して詠うことので
きる曲であり、単に画幅の上に書かれた文字ではなく、図画に従属する必要のあるもので
はないのだから。鮮于枢の散曲もまた同様である。いいかえるならば、鮮于枢父子の「瀟
湘八景」散曲は、「絵のために作る」という題画詩の書写慣習のコンテクストから故意に
乖離しているため、玉澗「瀟湘八景図」との関係が断絶してしまい、それが後人の探索時
に、幾重にも重なりあう困難を引き起こすこととなったのである。
五 結語
本論では玉澗「瀟湘八景図」上の「三教弟子」印を検討し、思いがけず、想像を超えた、
前代未聞の物語を述べることとなった。書芸と古物の鑑蔵に通じていることで世に知られ
た鮮于枢は、おそらく玉澗が活動した杭州、もしくは玉澗が帰老した故郷の金華でこの「瀟
湘八景図」を手に入れ、そこに「三教弟子」印を捺したのであろう。そして、鮮于枢と彼
の第三子である鮮于去矜は、散曲で玉澗「瀟湘八景図」に対する歌を作ったのである。こ
れは彼らの文を仔細に閲し、玉澗の題詩や画と比較することで、その間に少なからず通じ
合う箇所が見られることから理解される。玉澗「瀟湘八景図」が海を渡る前にも、このよ
うなうずもれた過去があったことには驚かされる。
「三教弟子」印が本当に鮮于枢のものだとするならば、鮮于枢と親密な交流をしていた
郭天錫78
こそが「北山文房之印」の持ち主なのかもしれない。郭天錫は字を祐之(「右之」
「佑之」ともする)、北山と号し、鮮于枢の『困学斎雑録』では「郭北山御史」79
と称され
ている。郭天錫は大徳二年(1298)八月に著の「臨済慧照玄公大宗師語録序」80
において「北
山居士郭天錫」と自称している。
78 元代には墨竹画家の郭畀(1280〜1335)がおり、当時の人は彼を郭天錫と称していたこ
とより、字が祐之の郭天錫との混同がしばしば見られる。郭畀、字は天錫、晩年に退思と
号する。京口(今の江蘇鎮江)の人で、『郭天錫日記』(『実杭日記』とも)の著作がある。
詳しくは徐邦達「書画家名字相同或相近致二人誤混為一考弁」『歷代書画家傳記攷辨』(上
海:上海人民美術出版社、1983)頁 90-93、翁同文「郭畀字天錫非郭祐之字北山考」郭畀
『郭天錫日記』(『知不足斎叢書』本、台北:芸文印書館、1966)頁 1〜17 所収、宗关「弁
郭畀非郭祐之及共偽画」『文物』1965 年 8 期、頁 36〜39 を参照。
79 (元)鮮于枢『困学斎雑録』頁 29。
80 (唐)慧然集『鎮州臨済慧照禅師語録』(『大正新脩大蔵経』本、台北:新文豊出版公司、
1983)第 47 冊、頁 0495 中の「臨済慧照玄公大宗師語録序」題署に「前監察御史郭天錫焚
香九拝書」とある。
19
郭天錫は、鮮于枢と同じく杭州に長く暮らした「北人」で、原籍は金城(現在の山西省
忚県)。王羲之「快雪時晴帖」(今日伝世する唐の模本ではない)を所蔵していたことか
ら、杭州の居所を自署して「快雪斎」と名付けていた。彼の所蔵品には「真書曹娥誄辞巻」
(遼寧省博物館蔵)欧陽詢「仲尼夢奠帖」(遼寧省博物館蔵)伝馮承素「蘭亭序帖」(神龍
本「蘭亭序」とも。北京故宮博物院蔵)米芾「珊瑚復官二帖」(北京故宮博物院蔵)などが
ある。『困学斎雑録』や周密『雲煙過眼録』81
には郭天錫の所蔵品の記録があり、周密の『志
雅堂雑鈔』にも郭天錫の居所で書画と古物を賞玩したとの事蹟が記載されている。
現存する郭天錫の印には、白文方印「天錫」「北山珍玩」、朱文方印「審定真蹟」「金
城郭氏」「快雪斎」があるが、「北山文房之印」は残念ながら見当たらない。「北山文房
之印」とは、明らかに南唐李後主の鑑蔵印「建業文房之印」を想起させるものである。「北
山文房之印」の「文」字は古体で、右側に三撇(訳者注:3 本の斜線「彡」)を加えており、
「建業文房之印」の「文」字と相似している。「建業文房之印」を摸す例には、伝懐素「自
序帖」に捺された北宋邵叶の「邵叶文房之印」82
がある。郭天錫の収蔵品、あるいは彼が鑑
賞した書画には、「建業文房之印」の捺された作品があるはずである83
。だとすれば、伝世
する「○○文房之印」の用例が極めて少なくとも、郭天錫も「建業文房之印」を仿した「北
山文房之印」を持っていたのかもしれない。
本論の推測は、完全に正しいと断定できるものではない。玉澗「瀟湘八景図」が日本に
姿を現わしてからおよそ 600 年来、日本におけるたゆまぬ研究の成果は誰の眼にも明らか
である。しかし、未だすべての謎が解明されたわけではない。この謎が、さらに多くの大
胆な推測によって少しずつでも解明され、最終的にその真相が明らかになる日が来るので
あれば、本稿がまずその叩き台としての役割を果たせることこそ、願ってやまないことな
のである。
81 (宋)周密『雲煙過眼録』巻 2。
82 傅申『書法鑑定:兴懐素自敘帖臨床診断』(台北:关蔵芸術家庭、2004)頁 265。
83 例えば『困学斎雑録』には、郭天錫が「孫過庭千文」を所蔵していたとの記載がある。
遼寧省博物館所蔵の孫過庭「千字文第五本」には「建業文房之印」の押印があるが、この
両者が同一本であるかは不詳である。また郭天錫所蔵の欧陽詢「仲尼夢奠帖」、伝馮承素「蘭
亭序帖」は、いずれも南宋理宗の娘(周漢国公主)の駙馬都尉(訳者註:公主の夫)楊鎮
より購入している。楊鎮収蔵品の多くは南宋内府の伝来である。

More Related Content

Similar to 「三教弟子」印考(日文)

いきの構造
いきの構造いきの構造
いきの構造
soryu34
 
『いきの構造』まとめ
『いきの構造』まとめ『いきの構造』まとめ
『いきの構造』まとめ
Koji Naruta
 
土曜会ツアー@「パロディ、二重の声」
土曜会ツアー@「パロディ、二重の声」土曜会ツアー@「パロディ、二重の声」
土曜会ツアー@「パロディ、二重の声」
じょいとも
 
世界を美術館にかえよう-日本画の伝統と革新-7/10 池上紘子
世界を美術館にかえよう-日本画の伝統と革新-7/10 池上紘子世界を美術館にかえよう-日本画の伝統と革新-7/10 池上紘子
世界を美術館にかえよう-日本画の伝統と革新-7/10 池上紘子
askaerugrass
 
人魚たちのいた時代
人魚たちのいた時代人魚たちのいた時代
人魚たちのいた時代
博行 門眞
 
Sainsbury institute occasional papers #001
Sainsbury institute occasional papers #001Sainsbury institute occasional papers #001
Sainsbury institute occasional papers #001
Ryoko Matsuba
 
トリエンナーレ作家を学ぼう!トリ勉リターンズ「五十嵐太郎研究会」使用スライド
トリエンナーレ作家を学ぼう!トリ勉リターンズ「五十嵐太郎研究会」使用スライドトリエンナーレ作家を学ぼう!トリ勉リターンズ「五十嵐太郎研究会」使用スライド
トリエンナーレ作家を学ぼう!トリ勉リターンズ「五十嵐太郎研究会」使用スライド
Arts Audience Tables ロプロプ
 
120102 Literature in the Meiji period slides
120102 Literature in the Meiji period slides120102 Literature in the Meiji period slides
120102 Literature in the Meiji period slidesTomonari Kuroda
 
70分でわかる古事記
70分でわかる古事記70分でわかる古事記
70分でわかる古事記雀 古都
 

Similar to 「三教弟子」印考(日文) (10)

いきの構造
いきの構造いきの構造
いきの構造
 
『いきの構造』まとめ
『いきの構造』まとめ『いきの構造』まとめ
『いきの構造』まとめ
 
土曜会ツアー@「パロディ、二重の声」
土曜会ツアー@「パロディ、二重の声」土曜会ツアー@「パロディ、二重の声」
土曜会ツアー@「パロディ、二重の声」
 
世界を美術館にかえよう-日本画の伝統と革新-7/10 池上紘子
世界を美術館にかえよう-日本画の伝統と革新-7/10 池上紘子世界を美術館にかえよう-日本画の伝統と革新-7/10 池上紘子
世界を美術館にかえよう-日本画の伝統と革新-7/10 池上紘子
 
人魚たちのいた時代
人魚たちのいた時代人魚たちのいた時代
人魚たちのいた時代
 
Sainsbury institute occasional papers #001
Sainsbury institute occasional papers #001Sainsbury institute occasional papers #001
Sainsbury institute occasional papers #001
 
トリエンナーレ作家を学ぼう!トリ勉リターンズ「五十嵐太郎研究会」使用スライド
トリエンナーレ作家を学ぼう!トリ勉リターンズ「五十嵐太郎研究会」使用スライドトリエンナーレ作家を学ぼう!トリ勉リターンズ「五十嵐太郎研究会」使用スライド
トリエンナーレ作家を学ぼう!トリ勉リターンズ「五十嵐太郎研究会」使用スライド
 
VoicesFromJapan
VoicesFromJapanVoicesFromJapan
VoicesFromJapan
 
120102 Literature in the Meiji period slides
120102 Literature in the Meiji period slides120102 Literature in the Meiji period slides
120102 Literature in the Meiji period slides
 
70分でわかる古事記
70分でわかる古事記70分でわかる古事記
70分でわかる古事記
 

More from lofen

衣若芬生平與寫作大事記- Life & Writing I Lo-fen2021
衣若芬生平與寫作大事記- Life & Writing I Lo-fen2021衣若芬生平與寫作大事記- Life & Writing I Lo-fen2021
衣若芬生平與寫作大事記- Life & Writing I Lo-fen2021
lofen
 
I Lo-fen CV & Publication
I Lo-fen CV & PublicationI Lo-fen CV & Publication
I Lo-fen CV & Publication
lofen
 
帝都胜游
帝都胜游帝都胜游
帝都胜游
lofen
 
帝都勝遊:朝鮮本《北京八景詩集》對《石渠寶笈續編》的補充與修正
帝都勝遊:朝鮮本《北京八景詩集》對《石渠寶笈續編》的補充與修正帝都勝遊:朝鮮本《北京八景詩集》對《石渠寶笈續編》的補充與修正
帝都勝遊:朝鮮本《北京八景詩集》對《石渠寶笈續編》的補充與修正
lofen
 
印刷出版與朝鮮「武夷九曲」文化意象的「理學化」建構
 印刷出版與朝鮮「武夷九曲」文化意象的「理學化」建構 印刷出版與朝鮮「武夷九曲」文化意象的「理學化」建構
印刷出版與朝鮮「武夷九曲」文化意象的「理學化」建構
lofen
 
朱熹《武夷棹歌》與朝鮮理學家李退溪的次韻詩
朱熹《武夷棹歌》與朝鮮理學家李退溪的次韻詩朱熹《武夷棹歌》與朝鮮理學家李退溪的次韻詩
朱熹《武夷棹歌》與朝鮮理學家李退溪的次韻詩
lofen
 
鍾梅音在南洋
鍾梅音在南洋鍾梅音在南洋
鍾梅音在南洋
lofen
 
瀟湘八景:東亞共同母題的文化意象(抽印本)
瀟湘八景:東亞共同母題的文化意象(抽印本)瀟湘八景:東亞共同母題的文化意象(抽印本)
瀟湘八景:東亞共同母題的文化意象(抽印本)
lofen
 
兰亭流芳在朝鲜
兰亭流芳在朝鲜兰亭流芳在朝鲜
兰亭流芳在朝鲜
lofen
 
東坡體詩
東坡體詩東坡體詩
東坡體詩
lofen
 
遊觀與求道:朱熹〈武夷櫂歌〉與朝鮮士人的理解與續作
遊觀與求道:朱熹〈武夷櫂歌〉與朝鮮士人的理解與續作遊觀與求道:朱熹〈武夷櫂歌〉與朝鮮士人的理解與續作
遊觀與求道:朱熹〈武夷櫂歌〉與朝鮮士人的理解與續作
lofen
 
소상팔경(瀟湘八景) : 동아시아 공통 모티프의 문화형상
소상팔경(瀟湘八景) : 동아시아 공통 모티프의 문화형상소상팔경(瀟湘八景) : 동아시아 공통 모티프의 문화형상
소상팔경(瀟湘八景) : 동아시아 공통 모티프의 문화형상
lofen
 
19世纪20—30年代虎标永安堂药品的“反仿冒”广告
19世纪20—30年代虎标永安堂药品的“反仿冒”广告19世纪20—30年代虎标永安堂药品的“反仿冒”广告
19世纪20—30年代虎标永安堂药品的“反仿冒”广告
lofen
 
19世纪20—30年代虎标永安堂药品的“反仿冒”广告
19世纪20—30年代虎标永安堂药品的“反仿冒”广告19世纪20—30年代虎标永安堂药品的“反仿冒”广告
19世纪20—30年代虎标永安堂药品的“反仿冒”广告
lofen
 
画杀满川花
画杀满川花画杀满川花
画杀满川花
lofen
 
商品宣傳與法律知識
商品宣傳與法律知識商品宣傳與法律知識
商品宣傳與法律知識
lofen
 
翁方綱舊藏本《施顧註東坡詩》研究 衣若芬
翁方綱舊藏本《施顧註東坡詩》研究 衣若芬翁方綱舊藏本《施顧註東坡詩》研究 衣若芬
翁方綱舊藏本《施顧註東坡詩》研究 衣若芬
lofen
 
東坡體(刊出文)K
東坡體(刊出文)K東坡體(刊出文)K
東坡體(刊出文)K
lofen
 
蘇軾對高麗「瀟湘八景」詩之影響
蘇軾對高麗「瀟湘八景」詩之影響蘇軾對高麗「瀟湘八景」詩之影響
蘇軾對高麗「瀟湘八景」詩之影響lofen
 
衣若芬:李齐贤八景诗词与韩国地方八景之开创(《中国诗学》第9辑,人民文学出版社2004)
衣若芬:李齐贤八景诗词与韩国地方八景之开创(《中国诗学》第9辑,人民文学出版社2004)衣若芬:李齐贤八景诗词与韩国地方八景之开创(《中国诗学》第9辑,人民文学出版社2004)
衣若芬:李齐贤八景诗词与韩国地方八景之开创(《中国诗学》第9辑,人民文学出版社2004)lofen
 

More from lofen (20)

衣若芬生平與寫作大事記- Life & Writing I Lo-fen2021
衣若芬生平與寫作大事記- Life & Writing I Lo-fen2021衣若芬生平與寫作大事記- Life & Writing I Lo-fen2021
衣若芬生平與寫作大事記- Life & Writing I Lo-fen2021
 
I Lo-fen CV & Publication
I Lo-fen CV & PublicationI Lo-fen CV & Publication
I Lo-fen CV & Publication
 
帝都胜游
帝都胜游帝都胜游
帝都胜游
 
帝都勝遊:朝鮮本《北京八景詩集》對《石渠寶笈續編》的補充與修正
帝都勝遊:朝鮮本《北京八景詩集》對《石渠寶笈續編》的補充與修正帝都勝遊:朝鮮本《北京八景詩集》對《石渠寶笈續編》的補充與修正
帝都勝遊:朝鮮本《北京八景詩集》對《石渠寶笈續編》的補充與修正
 
印刷出版與朝鮮「武夷九曲」文化意象的「理學化」建構
 印刷出版與朝鮮「武夷九曲」文化意象的「理學化」建構 印刷出版與朝鮮「武夷九曲」文化意象的「理學化」建構
印刷出版與朝鮮「武夷九曲」文化意象的「理學化」建構
 
朱熹《武夷棹歌》與朝鮮理學家李退溪的次韻詩
朱熹《武夷棹歌》與朝鮮理學家李退溪的次韻詩朱熹《武夷棹歌》與朝鮮理學家李退溪的次韻詩
朱熹《武夷棹歌》與朝鮮理學家李退溪的次韻詩
 
鍾梅音在南洋
鍾梅音在南洋鍾梅音在南洋
鍾梅音在南洋
 
瀟湘八景:東亞共同母題的文化意象(抽印本)
瀟湘八景:東亞共同母題的文化意象(抽印本)瀟湘八景:東亞共同母題的文化意象(抽印本)
瀟湘八景:東亞共同母題的文化意象(抽印本)
 
兰亭流芳在朝鲜
兰亭流芳在朝鲜兰亭流芳在朝鲜
兰亭流芳在朝鲜
 
東坡體詩
東坡體詩東坡體詩
東坡體詩
 
遊觀與求道:朱熹〈武夷櫂歌〉與朝鮮士人的理解與續作
遊觀與求道:朱熹〈武夷櫂歌〉與朝鮮士人的理解與續作遊觀與求道:朱熹〈武夷櫂歌〉與朝鮮士人的理解與續作
遊觀與求道:朱熹〈武夷櫂歌〉與朝鮮士人的理解與續作
 
소상팔경(瀟湘八景) : 동아시아 공통 모티프의 문화형상
소상팔경(瀟湘八景) : 동아시아 공통 모티프의 문화형상소상팔경(瀟湘八景) : 동아시아 공통 모티프의 문화형상
소상팔경(瀟湘八景) : 동아시아 공통 모티프의 문화형상
 
19世纪20—30年代虎标永安堂药品的“反仿冒”广告
19世纪20—30年代虎标永安堂药品的“反仿冒”广告19世纪20—30年代虎标永安堂药品的“反仿冒”广告
19世纪20—30年代虎标永安堂药品的“反仿冒”广告
 
19世纪20—30年代虎标永安堂药品的“反仿冒”广告
19世纪20—30年代虎标永安堂药品的“反仿冒”广告19世纪20—30年代虎标永安堂药品的“反仿冒”广告
19世纪20—30年代虎标永安堂药品的“反仿冒”广告
 
画杀满川花
画杀满川花画杀满川花
画杀满川花
 
商品宣傳與法律知識
商品宣傳與法律知識商品宣傳與法律知識
商品宣傳與法律知識
 
翁方綱舊藏本《施顧註東坡詩》研究 衣若芬
翁方綱舊藏本《施顧註東坡詩》研究 衣若芬翁方綱舊藏本《施顧註東坡詩》研究 衣若芬
翁方綱舊藏本《施顧註東坡詩》研究 衣若芬
 
東坡體(刊出文)K
東坡體(刊出文)K東坡體(刊出文)K
東坡體(刊出文)K
 
蘇軾對高麗「瀟湘八景」詩之影響
蘇軾對高麗「瀟湘八景」詩之影響蘇軾對高麗「瀟湘八景」詩之影響
蘇軾對高麗「瀟湘八景」詩之影響
 
衣若芬:李齐贤八景诗词与韩国地方八景之开创(《中国诗学》第9辑,人民文学出版社2004)
衣若芬:李齐贤八景诗词与韩国地方八景之开创(《中国诗学》第9辑,人民文学出版社2004)衣若芬:李齐贤八景诗词与韩国地方八景之开创(《中国诗学》第9辑,人民文学出版社2004)
衣若芬:李齐贤八景诗词与韩国地方八景之开创(《中国诗学》第9辑,人民文学出版社2004)
 

「三教弟子」印考(日文)