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「なつかしのマッチ物語」ー昭和30〜40年代の青森市内喫茶店等マッチラベルー

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平成27年10月1日(木)〜同年12月27日(日)まで、青森まちかど歴史の庵「奏海」(青森市本町2丁目)において開催され同展の展示パネルをスライドショーにしたのもである。
解説文字は、スライドにはうまく出なかったので、文字部分と平行してお楽しみください。

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「なつかしのマッチ物語」ー昭和30〜40年代の青森市内喫茶店等マッチラベルー

  1. 1. 「ラスキン」と寺山修司  寺山修司は、青森高校在学中(昭和26∼29年)、青 森市上新町成田本店向かいの北谷書店2階にあった「ラ スキン」という喫茶店に時々行っていた。  「ラスキン」は青森市内の喫茶店の中で、老舗中の老 舗で、北谷書店の主人が経営していたジャズなどを聞か せる洒落た店だった。  野脇中学校時代、寺山は堤にあった国際劇場で、江利 チエミのジャズボーカルを聞いている。後年、「ジャズ は焼跡を通りすぎる福音というか、何となく「うらやま しい」彼岸のものだった。とても音楽なんかじゃなかっ た。」と回想している。ちなみに、彼の遺作は「ジャズ が聴こえる」であった。  「ラスキン」のマッチラベルは、寺山研究に貴重な資 料となる。 北谷書店/昭和40年代 寺山修司「ジャズってのはやっぱ り、黄色いけむりが立ちのぼるダン スホールから流れてくるんだね。そ ういう頽廃的な感じと、オンリーか 何かやっているおふくろの笑い声。 リズムの狂うドラム」(「日付のあ る表現へ」「ユリイカ」1976年1月 号) 堤川でボートに乗る寺山
  2. 2. 「越中屋」と寺山修司  最盛期に青森市内に三店舗を構えて いた「越中屋」は、市民に馴染みの店 だった。現在の「アウガ」のところに 本店があった。駅を出てすぐのところ に「駅前支店」(上写真)があり、 青 森高校在学中(昭和26∼28年)の寺山 修司は、よくここで「寂光」の句会が 開かれ、京武久美らと参加した。  当時は青森市内に進駐軍がいた時代 であり、新町通を米兵が闊歩してい た。戦争で父親を失った寺山は、どの ような思いで、彼らを見ていたのだろ うか。  越中屋から東に少し行った北谷書店 2階には、「ラスキン」という喫茶店 があり、流行りのジャズなどを聞いて いたようだ。いずれにしても、青森市 は「寺山ワールド」の原点といえる街 である。 青森高校時代の京武久美(左)と寺山修司 「手袋赤し母の買ひ籠持ちたくて」 寺山修司 (昭和28年1月6日午後6時 青森駅前 越中屋句会にて)
  3. 3. 「コロナサイダー」と寺山修司  「コロナサイダー」と書かれ たマッチラベル。その名前は、 青森市民にはあまり馴染みがな い。これを作っていた店は、塩 町にあった歌舞伎座(現モルト ン迎賓館)のすぐ東側にあっ た。  写真家藤巻健二氏の証言によ れば、実はこのサイダー、歌舞 伎座に下宿していた寺山修司が 青森高校時代(昭和26∼29 年)に親友とそこで映画を見る ときに、よく飲んでいた銘柄だ とわかった。「おい川浪( コ ロナサイダー経営者川浪慶一の 息子)、家からサイダーもって こいじゃ!」と藤巻氏が言う と、川浪氏が密かに運んできた という。  寺山たちは色々な映画を見て いるが、その一場面を藤巻氏が 撮影している。歌舞伎座は洋画 専門館、男優と字幕が映ってい る。昭和28(1953)年に日本 で公開されたハリウッド映画 「終着駅」で、男優はモンゴメ リー・クリフトであることがわ かった。写真で寺山が見た映画 を特定できた最初かもしれな い。  たかがマッチラベル一枚と軽 んじると、大事なことを見逃 す。 戦後再建された歌舞伎座の外観 寺山たちが歌舞伎座で見た映画の一場面
  4. 4. 棟方志功とマッチラベル 棟方志功夫妻と鹿内仙人(昭和33年8月) 酸ヶ湯温泉の千人風呂/鹿内仙人が笛を吹いている  版画家の棟方志功は、青森市内酸ヶ湯や 椿館などに逗留し、多くの作品を残した。 マッチに使われた作品は、縦横の比率が マッチにきちんと収まるようになされてい ることから、マッチ専用に制作されたと考 えられる。  椿館のマッチには、「志功」のサインが 入っている。酸ヶ湯温泉のそれにはサイン はないが、ひと目で志功作品とわかる独自 性が目を引く。  求めに応じてマッチデザインまで手がけ る、志功の気さくな人柄がうかがえる。 昭和36年以前?
  5. 5. レコードコンサート  戦後暫くは、レコードと再生機器が 高価だったこともあり、レコードコン サート・名曲喫茶・ラジオ放送などで 音楽に親しんでいた。  写真左(青森県立図書館蔵)は昭和 20年代中頃に、青森県立図書館仮庁舎 で行われたレコードコンサートの様子 である。大型の音響機器を備え付けた 会場に、大勢の聴衆が集まり、解説者 の話に耳を傾けている。街が焼きつく された青森空襲から、10年も経過して いないことに驚かされる。  写真中は昭和37(1962)年に、青森 市民会館で行われた青森市純喫茶店組 合主催のレコードコンサートのプログ ラム(「ブルーノート」提供)。今の人 気タレントのコンサートと同じくらい 大勢の人が駆けつけたという。 昭和34年 ビクターステレオ
  6. 6. 青 森 県 庁  現庁舎は昭和36(1961) 年1月に竣工。著名な建築家 谷口吉郎の設計。当初、南棟 と同じく6階建ての予定が、 予算の都合で5階に減階。そ の後、部署が増えたこともあ り、昭和46(1971)年に6 階部分を増築 。建築後50年 以上経過した 建物は、耐震補 強の一環として、5階へ減階 される計画。年数を経て、6 階→5階→6階→5階と昔へ 帰っていく。  パンフレットからは、電話 番号は、局番無しの4桁、冬 期間の執務時間は午前8時30 分から午後4時まで。土曜日 (夏は正午までの半ドン)は 午後3時まで。東棟は、「県 庁別館」と呼ばれていた、そ の別館には教育委員会が入室 していた、本館屋上には「展 望室」があった、などなど。 新築前
  7. 7. 市 民 会 館  青森市役所前駐車場西側 には、かつて青森市民会館 があった。昭和36 (1961)年に竣工してい る。各種行事、演劇、歌謡 ショー等の会場となった。 しかし、使い勝手も悪さな どから、野脇中学校跡地に 文化会館が昭和57年に、新 たに作られた。  食堂部が併設され、宴 会、披露宴などに使われ、 「レストラン丸大」の直営 であったことが、マッチラ ベルから分かる。   柳町ロータリー付近/昭和36年頃、市民会館屋上から撮影 左=市役所、中=市民会館、右=日銀/昭和40年代?
  8. 8. 食堂など 青森駅前 中新町山手側 松木屋西向 善知鳥神社東側
  9. 9. 服地のひらやま  青森市古川ニコニコ通りにあった「服 地のひらやま」。写真は昭和30年代前半 期、マッチラベルもその頃のものか?  敗戦から10年位で、目覚ましい復興を 遂げたことが分かる。マッチラベルに描 かれた女性の洋服のデザインは、時代を 反映している。既成品が高価で服地を購入 し、手作りしていた時代。
  10. 10. sadsa 歌舞伎しるこ 橘家  ここはなんといっても、店の主人が歌舞伎 の口上を言うので有名だった。  「お客様お待っちなせぇ∼」とか言いなが ら、マッチ箱と灰皿を持ってくる。  「∼∼番町皿屋敷、はい皿∼」と言って、 皿を持ってくる。  ご主人は余程、歌舞伎が好きだったのか? 市内にはかつて、歌舞伎座という映画館も あったし、ねぶたの題材にも歌舞伎は多数登 場する。
  11. 11. 夜店通り・昭和通り   現在も夜店通りで、ご夫婦で営業 している「ブルーノート」、その店名 の由来はジャズファンなら言わずもが な。マッチのデザインは、マスターの 岡本さん自らしたという。昭和35 (1960)年に開店、途中休店もあっ たが、馴染客の要望で、平成10 (1998)年に再開。毎日、店内では 常連さんの四方山話に花が咲いてい る。  八代金物店から海手へ数軒先に、 喫茶店「アマンド」があり、昭和通 には「白十字」があった。街全体に 活気がみなぎっていた。 夜店通り/昭和33年9月 中三の東向角にあった
  12. 12. 国道・長谷川ビル付近   青森市長島の国道山手角 に、長谷川ビルがあった。そ この1階に「レストランはせ川 =長谷川ビル食堂」、2階に 「サブリナ」というモダン ジャズを聴かせる喫茶店があっ た。  その山手に、喫茶店「エル ム」があり、同伴席が有名 だったそうな。
  13. 13. 上 新 町  青森駅に近い上新町 は、大勢の人で賑わっ た。4階建ての「自治会 館」ができたのは、昭和 30(1955)年12月。写 真のように、高さが人際 目立っていて、ねぶた撮 影のポイントとなった。 屋上には、ビアーガーデ ンがあった。また、当時 としては珍しい洋食を提 供した。今はパサージュ 広場となっている。  純喫茶「メキシコ」 は 、古くからありラテン 音楽を聞かせていた。  「柿源」は大正7 (1918)年の創業、現在 も営業している。作家太 宰治は、旧制青森中学校 時代に店の前を通り過ぎ たかもしれない。
  14. 14.  野辺地町出身の野坂氏が創業。新町本店は 弟、国道支店は兄。蓮華寺南側に国道支店が あったことは、あまり知られていない。  戦前はパンが珍しがられ、合浦公園での桜祭 りには売れに売れたという。  戦時中は物資不足から、開店休業状態だっ た。  現在は夜店通りで、1店舗で伝統を守り続け ている。 栄 作 堂 国道支店(東青薬局西側)/昭和11年頃 新町本店/昭和15(1940)年 国道支店/昭和30年代?
  15. 15. 「喜久寿司」と「とんかつの亜希」  青森市の中心街は、昭和20 (1945)年7月28日の青森空襲で殆 どが焼失した。上写真(昭和30年) に見える「喜久寿司」の2階建物は、 戦後に中新町角に建築されたと考えら れる。  その後、4階建てに建て替えられ る。現在、その後を引き継いだ「とん かつの亜希」は、昭和44(1969)年 5月から同地で営業している。  傷痍軍人が街頭で募金をお願いして いる下写真は、昭和44年以前、アー ケード建設後(昭和34年)というこ とがわかる。  1枚のマッチラベルを丹念に追跡し ていくと、新発見がある。 2階建ての喜久寿司/昭和30年
  16. 16.  青森市中新町、今の「千成」の東隣 にあった。昭和40年代には、上新町の 成田本店向かい側へ移転したという。  マッチラベルに書かれている電話番 号からすると、昭和36(1961)年以前 のものが多い。「オノデラ」の文字を 組み合わせたシンプルなマークと洒落 たデザインで、幾種類ものラベルを 作っている。 洋品のオノデラ 昭和28(1953)年、新町「角弘」付近
  17. 17. 歌声喫茶「どん底」  昭和29年頃から全国 的に「歌声運動」が広 がり、青森では、昭和 32(1957)年5月柳町 通りの西側に珈琲&カ クテルの店「どん底」 が開店した。通称「歌 声喫茶」とも言われ た。  レンガと白壁のお洒 落な山小屋風の建物 に、ぜいたくな吹き抜 けがあり、中程の小さ なステージ塀では、ア コーディオンの伴奏で 歌や歌唱指導が行われ た。店内は、100人以上 の愛好家で大いに盛り 上がった。  薄暗い中で「どん底 歌集」を開き、アコー ディオンの伴奏で流行 のロシヤ民謡をはじ め、世界中の歌を全員 で合唱する気軽さも あった。  「どん底」は、約7年 間、青森の音楽文化を 支え幕を閉じた。 制作=平井潤治
  18. 18. 純毛の今勝  中新町にあった「絨毛の今勝」 が、元来、夜店通りにあったとい うことがマッチから分かる。 戦 後まもなくは、既製品が高価で、 各家で服地や毛糸を購入し、手作 りしていた。  「当時のギャル達」が下駄を履 いて 店の前を闊歩する 貴重な写 真(昭和30年代前半)。
  19. 19. 松 木 屋  平成15(2003)年に閉店し、 現在はマンションに生まれ変わっ た「松木屋」は、旧青森市内では 戦前からある老舗の百貨店だっ た。松木屋のバラ模様の包装紙に 包まれた季節の贈り物は、特に好 まれた。「松木」を図案化したロ ゴマークは、ねぶた名人千葉作龍 の父・千葉作太郎によって発案さ れたもの。  あるアンケートによると、「家 族で一緒に行った大食堂」、「屋 上の遊技場」、「エレベーターに 乗れること」など、様々な思い出 の場所だった。 昭和30年頃
  20. 20. 松木屋周辺のお店  井上帽子店は、松木屋東隣で帽子 専門店として、市民に愛された。  「ガトーしろたえ」は、善知鳥神 社南隣に洋菓子店として、昭和43 (1968)年開業。その後、東京に進 出。現在は、「赤い林檎」となる。  セ・シ・ボンは松木屋店内と善知 鳥神社前と2店舗を構えた。  民芸の店「むらた」は、中新町に 店を構えていた。マッチデザイン は、画家の小館善四郎である。
  21. 21. 「つしま本店」と「芝楽」  「芝楽」の創業者は、津島勲。津島は昭 和26(1951)年に、中新町角に「寿司康」 を開く。次に、昭和28年に善知鳥神社西側 に、「芝楽」を開く。芝楽は、寿司康の支 店として始まった。その意味で、つしま 「本店」だった?  どちらも、寿司・天ぷらなどの和食料 理。中でも、芝楽の「釜飯」は一番人気。  芝楽は平成7(1995)年、42年の歴史に 幕を閉じた。(中園裕「アーケード時代の 青森市」『新青森市史』現代参照) 「バス通り裏」のロケ:十朱幸代 /昭和37年
  22. 22. 「芝楽」と暖簾分け  「芝楽」のマッチラベルのデザインは、 味わい深い。ひと目で、どこのお店かがわ かる。ラベルの右隅を見ると、「古川」の 文字が読み取れる。洋画家の古川孝八郎 (こがわこうはちろう)が書いたものとい う。芝楽の創業者=津島勲と親交があっ た。店内のメニューも古川が書いた。  芝楽では多くの職人も修行していて、人 気にあやかり、「芝」の文字をもらい独立 していった。それらの店のマッチのデザイ ンも古川に依頼したのか、「古」のサイン が入り、「芝楽」の伝統の継承をアピール していた。(中園裕「アーケード時代の青 森市」『新青森市史』現代参照) アラスカ会館傍 橋本
  23. 23. 青森コロンバン  昭和40年代頃の青森市内の女子 高生の楽しみの一つに、昭和24 (1949)年に創業した「青森コロ ンバン」のソフトクリームを食べる ことがあった。「銀座コロンバン」 から暖簾分けしただけあって、美味 しさは格別だった。  コロンバンが高校生に人気があっ たのには訳がある。市内で高校生が 制服で入れる喫茶店は、数店と限ら れていたからである。  某調査によると、「青森コロンバ ン」人気ベスト3は、1位=クリスマ スケーキ、2位=ショートケーキ、3 位=ソフトクリーム。  波瀾万丈の歴史を刻み、昭和63 (1988)年、39年の歴史に幕を閉 じた。 新町店2階
  24. 24. 青森コロンバン2
  25. 25. キャバレー「ゴールド」  戦後復興期から高度成長 期にかけてキャバレーは、 喫茶店とともに大人気だっ た。 青森市内随一の規模を 誇ったキャバレー「ゴール ド」は、中高年の男性には 懐かしのお店。鍛冶町→柳 町→本町ジャスマックビル と場所を変えている。  生バンドの演奏で洋装の ホステスと踊れる、開放感 あふれる社交場であった。 近隣市町村からタクシーで 駆けつける猛者までいたと いう話もある。
  26. 26. 「大観堂」と「フロリダ」 堤界隈・大観堂が左手に見える/昭和33(1958)  青森市の中心部と東部地区を つなぐ拠点であった堤界隈は、 飲食・娯楽施設等が多数あっ た。現「ホテル青森」近くに は、ボーリング場「オリンピア ガーデン」があった。  大観堂書店は、その中でも中 心的店であった。創業者は鈴木 大観で、大正2年の創業。戦後 一時、マッチにあるように2階 に食堂を併設した。寺山修司 は、ここで本を立ち読みしてい た。平成20年4月に、惜しまれ つつ閉店した。  国道山手にあったキャバレー 「フロリダ」は、戦後まもなく この地で開業し、昭和41年に割 烹を併設した。結婚披露宴や大 宴会などに利用された。
  27. 27. 老舗名店だった「八百膳」  青森市東部に位置する合浦公園は、古くから市 民の憩いの場所であった。戦前は、園内に3軒の 料亭があったという。鰻の百川は、八百善近くに 戦前にあり、大いに賑わったという。  青森空襲で焼失し、戦後も営業したのは八百善 だけ。「釜めし」の八百善として、市民から愛さ れた。 鰻の百川(合浦公園内)/昭和初期 合浦公園/昭和30年代前半
  28. 28. 浜丁 松月 幾代 百代  かつて、浜町周辺には多くの料亭 があった。浜町という町名が示すよ うに、桟橋があり、多くの旅行客な どで賑わった時代の伝統を引いてい た。  四軒の料亭のマッチラベルデザイ ンに共通するのは、華美にならず、和 風の高級感を感じさせるものになっ ていること。特に、「浜丁」のそれ には店名と電話番号しか印刷されて いない。  政治や商取引など色々な方面で活 用された料亭は、激減した。これも 時代の流れなのであろう。
  29. 29. 浅虫温泉
  30. 30. 浅虫ヘルスセンター  かつて、東北大学付属浅虫水族館が あった頃、傍に「浅虫ヘルスセンター」 があった。昭和37(1962)年に開業し た。温泉施設と遊園地=キディランドか らなり、青森市民には大いに利用され た。  昭和52(1977)年には、「あすなろ 国体」開催にあわせて、キディランドに フィールドアスレチックが増設された。 その後も、本格的なジェットコースター を取り入れ、観光客誘致に力を入れた。 浅虫水族館/昭和30年代中頃 海側から見た建物外観
  31. 31. マッチ色々ー1
  32. 32. マッチ色々ー2 抽選番号付
  33. 33. マッチ色々ー3

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