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読書カード 5 [感覚]
五感 混合体の哲学
ミッシェル・セール著
米山親能訳
法政大学出版局
[下線部読者]
p566
[ ] 中村雄二郎の『共通感覚論』によれば、ヨーロッパ中世世界[ 『言語の生物学的基礎』、『完全言語の探求』参照]
においては、もっとも洗練された感覚、優れて知覚的な感覚は聴覚であり、視覚は触覚の後の三番目の位置を占めていたに
すぎなかったが、近代のはじめになって転倒が起こり、目が知覚の最大の器官となり、近代文明においては視覚が独走し、
専制支配を確立したとのことである。「一望監視施設パノプチコン」に象徴されるように、「見ること」「知ること」が他の人間を
支配する権力となったのだった。このような視覚の優位は、現代心理学や、知覚心理学によっても根拠づけられ、いっそう
揺るぎないものとなっているようである。(中村雄次郎、『共通感覚論』、51−54ぺージおよび284ページ参照)
 ところがセールによれば、このような視覚の優位は、現代の情報化社会にあっては、苦もなく覆されることになる。「一望
監視施設」の護り神である百眼のパノプテスは、メッセージの神であるヘルメスによって、完膚なきまでに打ち負かされる
からだ。世界中に張り巡らされたメッセージもしくは情報の回路網は、もはや監視者を必要とはしない。情報は光の速さで
世界中を駆け巡り、そのざわめきで世界を満たす。われわれは回路網の発するメッセージと雑音の大喧噪のなかに没して
生きているというわけだ。
[ ] 中村雄二郎の言うように、近代文明における視覚の独走および専制支配は、近代の科学技術の発展に大きく寄与した
反面、見るものと見られるものの分離、つまり主体と対象の分離を引き起こし、[ ]ひいては支配するものと支配されるも
のとの社会的分離を引き起こした。
[ 、 →「S+V」に対する視覚の加担]
[ →社会史へ]
 「近代文明の視覚の独走、あるいは視覚の専制支配に対して、ずいぶん前から多くの人々によって、色色の形で[ ]触覚の
復権
が要求されてきた」(中村、前掲書、54ページ)のだが、セールも先人にならってまず触覚の復権を試み、さらには、[ ]
「精神的なものを少しももたない感覚」
「肉体的、物質的で、想像力になんら語りかけない感官」として蔑まれてきた味覚([ ]ルソー、『言語起源論』第15章およ
び『エミール』第2篇
)や嗅覚の復権をも試みる。
[ 、 →内部の触覚としての固有知覚、特に鰓弓領域については「細川論文」、「グレイ」参照]
[ の中で感覚の階級性はどう考えられてきたか。→感覚と言語がどのようにからみあいながら発達してきたか。→ 参照]
 セールは、皮膚が人間というブラック・ボックスの一番外側の(あるいは宇宙的視点から見れば一番内側の)受容器官
をなし、諸感覚を包含する共通感覚として作用していると説く。(こうした共通感覚の問題や場所の問題について、語り口
はまったく異なるが、セールと中村雄二郎は共通した関心をもっているように思われる。『共通感覚論』、岩波書店、『場所』、
弘文堂、他参照)。優れた共通感覚である皮膚をはじめ、味覚や嗅覚は、久しい以前から視覚や聴覚の優位によってないが
しろにされてきたわけだが、しかしセールによれば、
共通感覚としての皮膚を麻痺させ、味覚や嗅覚の器官である舌や口蓋を言語のみに隷属させてきた張本人は、視覚でも聴
覚でもなく「ことば」なのである。[この部位は単なるレトリック。あまり意味はない。]
 ヨーロッパの中世社会では、もっとも洗練された感覚、すぐれて知覚的な感覚、世界とのもっとも豊かな接触をうち立て
る感覚とは、なにかといえば、それは聴覚であった。そこでは視覚は、触覚のあとに第三番目の位置を占めていたにすぎな
い。つまり五感の序列は、聴覚、触覚、そして視覚の順であった。ところが近代のはじめになって、そこに転倒が起こり、眼が
知覚の最大の器官になった。見られるものの芸術であるバロックが、そのことをよく示している。では、中世世界ではなぜ
聴覚が優位を占め、視覚が劣位におかれていたのであろうか。それは一方で、キリスト教会がその権威をことばという基盤
の上においており、信仰とは聴くことであるとしていたからである。[音声言語と視覚言語とのからみ。印刷技術などの発達
は?]
聴覚の優位は十六世紀においても、神学に保証されてまだ強かった。神ノ言葉ヲ聴クコト、ソレガ信仰デアル auditurn
verdi Dei,id est fidem.「耳、耳だけが〈キリスト教徒〉の器官である」とルターもいっている。それだけではない。それととも
に他方で、視覚は触覚の代理として官能の欲望に結びつくものと考えられたからである。[視覚は触覚の代理]
スペインの聖者ファン・デ・ラ・クルスの先駆者たちの一人は、自分の眼で見るものをなんと五歩以内のものに限り、そ
れを越えてはものを眺めてはならない、としていた。イメージにはなにか自然のままのもの、つまり規律的な道徳を破ると
ころがあると考えられていたのであった(R・バルト『サド、フーリエ、ロヨラ』)。
 ルネッサンスの〈五感の階層秩序〉のなかで聴覚と視覚の位置が逆転し、視覚が優位化したことは、たしかに自然的な感
性としての官能が解放されたことに結びついている。ところが、近代文明は、触覚と結びついたかたちでの視覚優位の方向
では発展せずに、むしろ触覚とは切りはなされたかたちでの視覚優位の方向で展開された。[触覚(原始的な対象化)と切り
離された視覚(先進的な対象化)]
近代文明にあっては、ものや自然との間に距離がとられ、視覚が優位に立ってそれらを対象化する方向を歩んだのである。
近代透視画法の幾何学的遠近法や近代物理学の機械論的自然観、それに近代印刷術は、その方向の代表的な産物である。と
同時に、その方向を強力に推し進めたものであるといえるだろう。そうしたなかで、時間も空間もすべて量的に計りうるも
のだと考えられるようになり、その結果、人間の時間も空間も宇宙論的な意味を奪われ、非聖化された。
 たしかに視覚が優位に立った近代文明は、私たち人間に多くのものをもたらした。もしそのような近代文明がなかった
ならば、科学や技術の発達はこれほどにはならなかったであろうし、人間のための自然の利用もこれほどには達しなかっ
たであろう。また、知識や思想の伝播もこれほどにはならなかったであろう。しかしながらその反面で、視覚が優位に立っ
ただけでなく独走した近代文明は、見られるものを見るものから、知られるものを知るものから、対象を主体から引きはな
したのであった。そしてやがて、見られるものや知られるものはすべて物体化され、抽象化される一方、見るものや知るも
のは、そのように見られるものや知られるものを物体化し、支配せずにはおかない、冷ややかなまなざしになったのである。
 感覚というと、一般に身体的な、したがってまたしばしば動物的なものと考えられている。事実、感覚において人間は他
の動物と共通するところが多い。人間の感覚は人類の歴史的所産として動物の感覚とはちがっている。とはいえ、広い意味
での動物としては人間もやはり動物と共通するところがある。そこで、両者の異同を明らかにすることは、私たち人間の感
覚と知覚を考える上に少なからず役立つだろう。
 人間の感覚と動物の感覚との違いはどこにあるかといえば、なによりもまずそれは、下等動物にくらべて人間では、感覚
がすぐれて分節化されていると同時に中心化されていることにある。下等動物では未分化であった感覚機能は、人間では
多様な諸感覚に分化し、分節化するとともに、それらが統合され、中心化されているのである。そのような感覚の統合と中
心化は、一般に、もっぱら視覚を核としそれによって行われているものと考えられている。しかし果たしてそうなのであろ
うか、あるいはそんなに簡単にそうだといえるのであろうか。たとえ視覚の重要性は否定しえないとしても、他の諸感覚の
働きと特性とをもっと考えるべきではなかろうか。視覚を含めての諸感覚の相互関係をもっと考えるべきではなかろうか
 人間の感覚の分節化と中心化とは、人類における脳と手の相関的な進化・発達と結びついている。脳と手の相関的な発
達によってはじめて、人間は人間になったとさえいうことができる。手は四足獣の場合のような歩行の器官であることを
やめ、その働きから解放されて把捉の働きを、そしてさらにはものを加工してつくり出す働きをするようになった。また手
のそのような発達は、口を把捉の器官であることから解放し、直立歩行のよる脳の発達と結びついて、人間に分節言語をも
たらしたのであった。[咀嚼筋の固有感覚の発達との関係]
読書ノート35
ポール・M・チャーチランド
『認知哲学』
p250
生命を可能にする分子の組織および生命を現実のものにする化学的機能を、実際に約束通り記述してみせなければならな
い。
(中略)
われわれに何が想像でき、何が想像できないかに基づいて、実質的な内容をはらむ理論的問題に決着をつけようとするこ
とは、疑わしいやり方である。とくにそのような問題が現時点ではかならずしもわれわれに理解できるとは限らない場合
は、そうである。
p252
しかしながら、ライプニッツは次の点を見落としている。すなわち、たとえ思考や感情が脳の物理的要素のある巨大な配置
と同一であったとしても、それらが認識されることはやはりありそうもないだろう。なぜなら、われわれはそのときダニの
ようなミクロな視点をもつにもかかわらず、眼前に見える複雑な活動を認識するのに必要な理解力を欠いているからであ
る。訓練されていない人を脳の中に入れるのは結構だが、その人が何を認識し何を認識しないかは、客観的にそこに何があ
るかということによるだけではなく、それと同じくらいの比重で、その人が前もってどんな知識をもちどんな訓練を受け
たかということにもよる。むろん、ライプニッツは単純に、知覚の予想通りの不成立は目標の現象の不在を反映しているの
であって、それを認識する能力の欠如を反映しているのではない、と仮定している。しかしながら、この仮定は、少しばかり
装いを変えてはいるものの、元の係争点にほかならない。つまりライプニッツは論点を先取りしているのでいるのである。
(中略)
また、あなたとわたしがたまたま、どの活性化ベクトルがどの感覚を構成するかを知っており、そしてそのようなベクトル
をどこで、どのように探せばよいかも知っているならば、わたしたちはダニの視点からそのような感覚が生起するのを認
識できるだろうという可能性も残されている。精通した観察者は未訓練の観察者が把握できないようなことを把握できる
のである。
p256
 ここにふたたび、ひとつの間隙が存在するようにみえる。すなわち、生物の脳という物理的な実在と、一人称の意識経験
という心理的な実在との間隙である。前者を知り尽くしても、後者を知り尽くすことはできないようにみえる。ここからネ
ーゲルは、意識現象に純粋に物理的な説明を与えることは不可能だという結論を引き出す。
 この議論は、人間の脳からコウモリの脳へ話が変わっただけで、実質的にはライプニッツの論点先取の論法と同じだと
思われるかもし r ない。しかし、そうではない。その議論をより興味深いものにしている決定的な違いがある。ライプニッツ
とは対照的に、ネーゲルは、神経科学の訓練を受けた観察者がコウモリの脳を見たとき、その観察者がコウモリの心的状態
の流れをあるがままに認識することはないだろう、という必要はない。じっさい、その観察者はコウモリの脳に現れる特定
の神経活動から、その心的状態を読み取ることができるかもしれない。ネーゲルの論点は別のところにあると思われる。す
なわち、たとえコウモリの神経解剖学的パターンを追跡することによってその経験を追跡することができたとしても、わ
れわれはそれらがどのようなものかを、それらの持ち主であるコウモリの独特の視点から知っているわけではないだろう
その、感じられた経験としての内在的性格は、われわれにはなお知られないだろう。したがって、純粋に物理的な科学はあ
る限界をもっているようにみえる。それは意識内容の主観的性格のところでその限界に達するようにみえる。
p257
一般的に言えば、われわれは各自、自分自身の感覚に対して、自分以外の者がもたないような独特の接近方法をもつ。これ
は、コウモリも含めて、われわれが各自、自分自身の脳神経系の感覚活動に対して独自の密接な因果的結合を有するからで
ある。つまり、各個体は自分だけがもつ特異な神経経路を通じて、自分自身の感覚活動について情報を得ているのである。
もちろん、他の者もまた同様の経路をもつが、それはかれらの感覚活動とかれらのそれ以外の脳の部分を結合するもので
ある。このような結合はすべて、つねにひとつの脳内、またはひとつの体内で形成される。
 このことは、それぞれの生き物がそれ自身の感覚状態について他の生き物がもたないような独自の知り方をもつという
ことを意味する。おそらく他の者は、わたしの感覚状態について、わたしの周囲の状況やわたしの行動からの推察によって、
あるいは電極や PET を用いてわたしの脳の中をのぞきこむことによって知ることができよう。このような方法はわたしの
感覚状態について知る別の方法である。しかし、わたしがある独自の情報経路を通じてわたしの感覚状態を知るのに対し、
他の人はそのような経路を通じてそれを知ることはできない。なぜならそのような経路をもつのはわたしだけだからであ
る。それらはわたし自身の脳神経系の構成要素となる経路であり、わたし自身のニューラルネットワークの階層を構成す
る成分となる経路である。このニューラルネットワークは、わたし自身のシナプスの重みの配置と、わたし自身の活性化空
間のわたし自身の分割を備えた、わたし独自のものである。ようするに、わたしは、自分自身の感覚状態およびその他の認
知状態を自分の内部で表現する手段をもち、それらの状態に対して他人がもたないような因果的結合をもつのである。
p259
わたしの脳だけがわたしの身体に対してそのような因果的結合を有するからである。
p260
ある現象に対して本人専用の一人称的な認識的接近が存在することは、その接近される現象が本質的に非物理的だという
ことを意味するわけではない。
(中略)
各人が自分自身の現在の物理的状態について自己結合的な知り方を有するということを意味する。この知り方は、その人
が見たり聞いたりできることとは独立に、またかれが使えるかもしれないいかなる最先端の走査装置とも独立に、さらに
かれが書物から得たかもしれないどんな科学的知識からも独立に機能する。自分自身の内部状態に関するこの独特の、自
己に焦点を合わせた知り方は非常に重要であり、クラゲから上のすべての生き物がある程度それをもっている。それは生
き物の体内にある身体調節系の一部であり、身体の維持に不可欠なものである。
 しかし、このような自己結合的な知り方は、真正で重要だり、動物界を通じてほぼ普遍的に見られるとはいえ、それが知
の対象としているものは、他の個体がときに「他者結合的な」知り方によって知るのとまったく同じ明らかに物理的な事物
や状況である。わたしが自分の赤面を知ることと他人がわたしの赤面を知ることとの違いは、知られることがらにあるの
ではなく、知り方にある。わたしは自己結合的な手段(わたしの体性感覚系)で知るのに対し、他人は他者結合的な手段
(その人の視覚系)で知る。赤面それ自体はもっとも典型的に物理的である。
p262
それらの感覚状態の内在的性質はコウモリにより、自己結合的経路を用いて、きわめて特異な仕方で識別され表現されよ
う。われわれの科学的営みは、たしかにそれらを(微小電極によって)検出し、(科学の言葉で)表現するけれども、その
ようなきわめて特異な、独特な仕方で検出し表現することはない。
p263
自己結合的経路が生物学的進化の通常の選択的圧力のもとで誕生したのは、感覚面と運動面の両方を含めて、われわれの
内部の生理的活動の関係諸側面をすべて統合するためではなかったのだろうか。
読書ノート42
音楽と認知
p131
1つは、ここでは音楽というときもっぱら調性音楽(tonal music)つまり古典的な西洋音楽を指す、ということである。音楽
についての議論が紛糾するひとつの原因は、われわれが音楽一般を論じているのか、それともわれわれにとって最も身近
であるような特定の音楽(例えば調性音楽)を論じているのかはっきりしないというところにあると思われる。もちろん
究極的には、音楽の認知的理論は、調性音楽以外をもカバーすべきものであるが、研究上の方略としては、従来最も理論化
が進んでいる特定の様式の音楽をとりあげ、そこで見出された知見を他の様式の音楽にも適用してみる、というように進
むことが生産的なのではないか、と筆者は考える。(もう少し限定するなら、調性音楽の楽曲でも単旋律を扱うのがよいの
ではあるまいか。旋律は単に音高の系列ではなく、リズム構造や和声的な構造を暗に含んでいる。その意味でこれは単純な
がら完結した本当の楽曲ということができると思う。)
 もう1つは、認知科学の研究一般にいえることであるが、音楽の認知的研究のためには、様々な方法を、いわば便宜主義
的(oppotunistic)に組み合わせて用いるのが最も有効だ、という立場をとる。例えば音楽理論は、人間の認知とはひとまず独
立に、音楽のシンタックスやセマンティクスを扱ったり、それを利用しつつ特定の楽曲の構造を分析するものであるが、実
はその際、暗に聴き手・演奏者・作曲家の認知を想定していることが少なくない。こうした暗黙の過程をより明示的にし、
しかもそれを心理的に実在性のあるものに近づけていくということは、音楽の認知的研究の一方法としてきわめて有望で
あるように思われる。
(中略)
それと同時に、人々がおこなう活動(何らかの意味で観察可能な認知過程の表われといってもよい)を手がかりとして、
その過程を推論するといった伝統的な実験心理学的手法も、おおいに活用されるべきである。
(中略)
さらに認知科学では、コンピュータを利用することによって、ある認知的なシステムが次のようなことができるためには、
それはどのような知識をどのような形でもっていなければならないかを論じることがある。そのような知識をもつ認知的
なシステムが直ちに人間のモデルになるか、ということは疑わしいが、システムに付与される情報処理機構や知識の心理
的実在性を高めるように努力することによって、これもまた重要な方法になりうる
人は楽曲をいかに表象するか
 さて、そうした便宜主義的な方法論に頼りつつ、調性音楽に含まれている情報処理過程というものを考える時に、いくつ
か中心になる概念をおかなければならない。まず第一に必要とされるのは表象という概念であろう。つまり、ある楽曲がい
かに人々の心の中に表象されていると想定するかが、認知的研究の出発点である。
 編者には、少なくとも楽曲の3種の内的表象を想定することが必要であると思われる。第1は、楽譜に書かれた形に近い、
いわば記譜された形の楽曲の表象であって、これを記譜法的表象(notational representation)とよぶことにしよう。第 2 は、
音響的表象(acoustic representation)である。ここで音響的といってわざと音楽的といわないのは、いわば心の中で鳴って
いる未分化な音の流れと、それが適切に区切られ、意味づけられた時とを区別して、しかも両方を含めたいからである。後
者はまさに音楽的表象(musical representetion)とよぶことが適当であると思われる。第3の内的表象は、より運動的なも
の(motor representation)であり、通常、楽器演奏者はこうした形でも楽曲を表象しているとみられる。
p134
のパージング楽曲
  の のなかで も いのは、 がどのように されているか つまり となって表象 問題 最 興味深 音響的表象 構造化 ( 音楽的表象
いるか ということであろう。 の と に、われわれが に、あるいは の で の れを) 自然言語処理 場合 同様 物理的 心 中 音 流 聴
いた に、その れは らかの で られ、 され、 の と づけられるであろう。 いかえると、時 流 何 仕方 区切 簡約化 他 部分 関係 言
われわれが っているある の は なんらかのしかたで されているに いない。その がい持 楽曲 音響的表象 通常 構造化 違 構造
くつかの をもつ なものだと えることも を ていると われる。水準 階層的 考 当 得 思
 ここで になるのは、 が しく しているように、 の には にあたるような、いわば の問題 平賀氏 正 指摘 音楽 場合 単語 自然
れ がないということ、したがって にあたる パージングの がより を むということであろ切 目 構文解析 音楽的 過程 困難 含
う。 の は、この で きな を えてくれる。 がマイヤーその を きにして くところによれば村尾氏 主張 点 大 示唆 与 彼 他 下敷 説 、
の れはいくつかの でグループ される。このグループは にはアクセントのある あるいは音 流 水準 化 基本的 音( 音群)1
つに して、アクセントのない の あるいは が びつけられるという でおこる。アクセントは、対 数個 音( 音群) 結 形 拍子
がはっきりしている の には、 ないしは の り からもきまってくるが、それだけでなく、そ楽曲 場合 拍子上 小節線 区切 上
の が っている さとか さにも する。さらにまた、 だった が する、という で音 持 長 高 依存 進行中 傾向 停止 意味 構造上重要
な もアクセントを つ。これら のアクセントが にかさなったり、 に になったりして、 々な の音 持 3種 時 時 不一致 様 程度
さをもったグループ が じるのだ、というのが の な え である。明確 化 生 村尾氏 基本的 考 方
p135
つまり、 の が、 からはじまるのと じような で、 の は、グループ からはじまるといっ文 理解 構文解析 同 意味 楽曲 理解 化
てもよいのではあるまいか。 この に、 において が に くのと じように、 にある( 際 構文解析 意味処理 促進的 働 同 楽曲 耳
れたパターンが まれていることは、 なグループ を すると えてよいであろう。慣 含 適切 化 促進 考 )
 さて、 な を につくり えていく で かせないもう原初的 音響的表象 音楽的表象 変 上 欠 1 つの は、 の れのな認知過程 音 流
かでいくつかの ないし を することである。 グループ のなかでも、これなしでは しないも旋律線 旋律進行 識別 ( 化 成立
のがあることはすでに べた りである。述 通 )
(中略)
つの をとりあげてみても、そのなかにはいくつかの された がありうる。それぞれの は、 にどのよ1 単旋律 隠 進行 進行 次
うな がでてくるのかを に する。しかしそのような がすぐにあらわれるとは ずしもいえず、むしろしば音高 暗 意味 音高 必
らく れて するのが、 な の である。 き の からいえば、ひとつの のなかに、いくつかの遅 実現 魅力的 旋律 常 聴 手 側 旋律 進
、 の を りれば、 よいつながり を する を する の を じとるこ行 島岡 表現 借 「 」 形成 「原音」(旋律原型 構成 音) 連鎖 感
とができなくてはならない。このような で、 をいくつかの ー の として することもま仕方 旋律 暗意 実現関係 合成体 表象
た、 の の な であると えられる。楽曲 理解 本質的 一側面 考
 スロボーダが いているように嘆 (Sloboda, 1985, p.65)、マイヤーにはじまる ー の を暗意 実現関係 心理的実在性 実験的
に した はまだない、といわざるをえない。 に が しているようなやり ある のオリジナルと吟味 仕事 実際 彼 示唆 方( 旋律
それを したものが、それぞれどのような を させるか、 きを らせたり、いくつかの きを一部改編 後続 「期待」 続 作 続 与
えてどれが もよく するかを させる を って、 々が どれほど やかに どのように を に最 調和 判断 ) 使 人 ( 速 ) 楽曲 音楽的 表
するかを するのが、 の な であるに いない。 が している の象 検討 心理音楽学 中心的 課題 違 阿部氏 報告 「終止音導出」
を、こうした にさらに させることを したい。実験 方向 発展 期待
における の音楽 理解 諸側面
  が わかる とひとくちにいっても、それには 々な があることはまちがいない。いまみたように、 の音楽 「 」 様 側面 音 流
れが にグループ されること、その にいくつかの ー が つけられることは、 らかに わかる適切 化 中 暗意 実現関係 見 明 「 」
ことの であるが、それだけでゃないであろう。一部
 こうしたいわば な に して、もっと な というものもありうるように われる。それは、構造的 理解 対 「内容的」 理解 思
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ものである。マイヤーは原構造 archetype とよんでいる にあてはめて する、といったものである。 えば を) 理解 例 跳躍
んだ は、その び した をうめるように、 の に いてくるという が い。 の をとれば、含 旋律 飛 越 部分 逆 方向 動 場合 多 別 表現
き は、 があった に、それがそれに く の への によってうめられる、という をもつわけで聴 手 跳躍 時 続 反対 方向 進行 期待
ある。そ r がその り たされれば、そこで わかった という じを つと われる。 いて にわかる通 満 「 」 感 持 思 (聴 簡単 音楽 、
か をしながら に ける というのは、こうした のパターンをたくさん んでいる であり、また何 仕事 気楽 聴 音楽 既知 含 楽曲
された ー が ないものだといえるのかもしれない。隠 暗意 実現関係 少 )
  の が にそうであるように、 が わかる というのも、すでにみただけでもけっこう な だが高次 理解 常 音楽 「 」 大変 仕事
を く するとか、 しむというためには、そこで こっていることだけでなく、そこに の からい音楽 深 理解 楽 起 (様式 制約
って こるかもしれなかったこと)起 (what might have been presented)がわからなければならないというのにいたっては、
これは いただけでは だと わざるをえない。1回聴 無理 思
読書カード 15[言語]
隠喩としての建築
柄谷行人
講談社
1983
p9
” ”幾何学が諸科学の基礎であり、幾何学的な記述が厳密なものと思われたのは、それがもはや 自然 に負うことのない建築性
をもつと思われたからである。
F・M・コーンフォードは、ギリシャの思想家をほぼ二つに分けている。一つは、進化論的なもので、世界は生命のように
生まれ成長するという見方[ ]であり、もうひとつは、創造説的なもので、世界は芸術作品のようにデザインされている
という見方[ ]である(『書かれざる哲学』)。
p20
ヴァレリーはいっている。
 私はこの拾い物(貝殻)を生まれて初めて眺める。
[中略]
 いったい誰がこれを作ったのか、と素朴な精神は私に問う。私の精神の最初の動きは作るということに思いをいたすこ
とであった。
 作るという観念は、最初の、そして最も人間的な観念である。「説明する」ということは、作る一つの方法を述べること以
外のなにものでもない。すなわち、それは思考によって作りなおすことにほかならないのである。この観念の要求するもの
にほかならぬ、なぜ及びいかにしてという問いは、ことごとに割りこんできて、何をおいてもこれに満足な答えを与えよと
命ずるのだ。形而上学と科学のなすところはこの要求を無際限に発展させること以外のものではない。(「人と貝殻」)
だが、この問いに「答えて」はならない。「誰が作ったのか」という問いは、作るという視点が必然的に要請するみせかけの問
いだからである。[たとえば、ヘーゲルにとって、あるものを知るということは、それを知覚したり概念と結びつけたりす
ることではなくて、それを思考によって作りなおすことにほかならなかった。
[中略]
科学は科学=建築への意志そのものを、その危機的な反復を意識しないからだ。
[中略]
 たとえば、マルクスはいっている。≪人間は自分自身の歴史を作る。だが、思うままにではない。自分の選んだ環境のもと
でではなくて、すぐ目の前にある、あたえられ、もちこされてきた環境のもとで作るのである≫(『ブリュメール十八日』)
[中略]
たとえば、ここで、誰が「環境」を作ったのかと問うてみよう。「環境」は、「貝殻」と同じく、その意図・目的・主体がわからない
のだ。マルクスはヘーゲルにおける「構造」(建築)が、そのつど多様な過剰な偶然的な何かに先行されていることを指摘して
いる。
[中略]
 歴史的に考えるということは、歴史主義的に考えることではなく、ある構造あるいはある建築が自立したものではなく、
それがつねに任意の選択にほかならないことをみることなのだ。その意味で、ニーチェは徹底的に歴史的であった。
[この部分は非常に示唆に富む。発生学、比較解剖学が、他の現代生物学と比べて、その研究手段において異なるニュアン
スを放つのは、進化の過程が、歴史的すなわち、任意の選択であり、この過程に構造をもちこんで説明する=思考によって
作りなおすのはナンセンスであって、過程そのものをトレースすることが唯一の手段であるからだろう。]
p24
論理学でいうトートロジー、すなわち、命題間の関係がつねに妥当するように結びつけられた命題[中略]
科学が数学に基礎づけられるということは、たんに狭義の数学的表現をとることではなく、ものごとの「説明」をするのに
トートロジーに訴えるということである。
 グレゴリー・ベイトソンは、記述と説明を区別する。記述は、諸現象に内在するすべての事実をふくむが、それらの現象
にそれらをより理解させるようないかなる種類の関係をも示さない。
[中略]
科学は、これら二つのタイプのデータの組織(記述と説明)を、トートロジーによって結びつける。科学における「説明」
は、記述の諸片をトートロジーによって説明しなおすことである。≪説明は、したがって、諸結合の妥当性をできるだけよ
く保証しその結果が自明にみえるようなトートロジーを建築することに存する。[中略]≫(「精神と自然」)。
「説明するということは思考において作ることだ」とヴァレリーはいったが、いいかえれば「思考において作る」ということ
は、トートロジーを建築するということである。
[中略]
コンシステント(無矛盾的)であろうとする「建築への意志」は、それ自体背理を露呈してしまうほかないのだが、それを
” ”嘲笑することはできない。人間が作ったものと 自然 が作ったものはどうちがうのかというヴァレリーの問いは、「建築へ
の意志」が極限に見出す背理にかかわっている。
p30
[中略]ツリーは、複雑なものをユニットに分割する単純で明晰な方法を与えてくれるので、われわれは、自然の構造がつ
ねにセミ・ラティスであるにもかかわらず、それをツリーに還元する傾向がある。[中略]ちなみにウンベルト・エーコ
による建築の記号論は、完全にツリーである(「記号論」)。
p32
 われわれは、この考えを、自然言語や神話に適応できるだろう。実際に、ヤーコブソンやレヴィ=ストロースが考えたこ
とは、ツリー的思考からみれば混乱でしかないものが、実はセミ・ラティスであり、オーダリーであるということにほかな
らない。西洋的な思考はツリー的であって、自然的なものの構造をつねにツリーに還元し明瞭化(分節化)してきたとい
うことができる。ヘーゲルの弁証法はツリーであり、また進化論は文字通り系統樹にもとづいている。それゆえに、構造主
義がそれらに対する根本的な批判としてあらわれたことが理解できるだろう。しかし、そこにさらに問題がある。
[中略]
アレグザンダーの視点の新しさは、多くの点で構造主義と共通する−前者は集合の順序的構造に注目し、後者は集合の代数
的(群論的)構造に注目している。−けれども、われわれの文脈でいえば、それは「自然が作ったもの」を「思考によって作り
なおす」ことにほかならない。そして、そこには、多様なものをめざしているかにみえて、それに対する根本的な敵意がある
[中略]
ソシュールがアナグラムの問題にこだわったのは、テクストが思考によって作られた「構造」以外の構造を不可避的にもっ
てしまうという直観からだといってよい。ヤーコブソンは、それを逆に言語学的に未成熟なものとして見、ソシュールが乱
雑な諸関係として放置した音韻組織を、二項対立の束としてとらえることによって秩序化できると考えたのである。
[中略]
とにかく、適当にいくつかの分類基準を選べば、対象がどんなものであっても−音韻であろうと神話であろうと−、数学的に
は同じ構造に到達する。一定の構造を前もって想定すれば、どんなんものでもそこに変形できるだろうが、その構造はすで
に「人工的なもの」であり、何か過剰なものを排除することにおいて成立している。
[中略]
 数学的構造は正確な枠組みと、便利な演算の手段を提供するが、しかし、人はわれわれが今学んだ構造について、その語
彙とその「シンタクス」の乏しさにおどろかされるであろう。自然言語のシンタクスの複雑さは、人間の諸科学の構造の豊
かさと、数学者の構造の一般的な乏しさとの対照を示す極端な場合である。この対比から、数学的モデルのきわめて大きな
有効性は、それが適用される現象を、人間科学のなかでまれにしか遭遇しないような単純さに還元するという犠牲をはら
って得られているのだという事実が明らかになる。[中略](マルク・バルビュ「数学における≪構造≫という言葉の意
味について」伊藤俊太郎訳)
p36
 たとえば、ヤーコブソンはこういっている。 の における の たちは、どうして の が、≪音響学 領域 現代 専門家 人間 耳
これほど くの、 できないほど な を なく するのかと に い、 している。だが、この数多 知覚 多様 言語音 難 区別 不審 思 当惑
、 に なのは、 に であろうか いや、 にそうではない われわれがディスクールのな場合 本当 問題 純粋 聴覚的能力 ? 完全 !
かに めるのは、 そのものの ではなく、 が する の である。つまり、 の はもた認 音 差異 言語 利用 慣用上 差異 固有 表意作用
ないが、 のレベルの を いに するのに いられる である と につい上位 実在体(形態素・語) 互 判別 用 差異 ≫(「音 意味
ての 。六章」)
 つまり は、 のレベルを したときに としてはじめて するものであり、 や も、さらに音素 上位 前提 差異性 存在 形態素 語
も、それぞれ のレベルを するときにのみ としてとりだされるのである。ソシュール ラングは文 上位 前提 差異性 自身、「
ではなく ただ る のなかにしか しない といっている はなんらかの をあらわすという実在体 、 語 主体 存在 」 。記号 意味 伝統
な え を ソシュールはしりぞけている す にとって があるときには ずその を する的 考 方 、 。「話 主体」 意味 、必 意味 弁別 形式
があるが その はなりたたないからだ な の がもはや なのではなく を たらしめるもの、 逆 。外在的 記号 種類 問題 、記号 記号
が となるのはそのためでああって ソシュールはそれを にみいだすのである問題 、 差異性 。
[中略]
いいかえれば、ラングの は、 す の からはじめる な において するのであって言語学 「話 主体」 意識 現象学的 還元 成立 、
なコギトあるいは に じこめられており、その はつねに を する な[中略]結局現象学的 現在 閉 構造 上位 前提 目的論的
ものである。
p38
 厳密にはまだその数もわかっていない数千の諸言語−なぜかくも多様なのかは問われない−をべつに調べたわけでもな
いのに、ヤーコブソンが、「どんな特定言語」も「二元的対立に完全に解離される」と断定するのはなぜか?一つには、この操
作が数学的だからであり、さらに、彼がひそかに情報理論を前提しているからである。チョムスキーの普遍文法の場合はな
おさらそうである。しかし、こうした独断(スペキュレーション)を支えているのは、けっして理論ではない。
[中略]
” ”「構造主義」とは、経験的な多様性に対する 嫌悪 以外のなにものでもないからである。
[中略]
レヴィ=ストロースにおける構造主義は「建築への意志」そのものである。実際に、それはサイバネティックスの創始者ノ
ーバート・ウィーナーが率直にいうように、「信仰」とよばれるべきものである。≪科学における信仰の必要について私が
のべたことは、純粋に因果的な世界や、確率が支配する世界にもひとしくあてはまる。純粋に客観的な個々の観察をいくら
大量にあつめても、確率という概念が正当であることを証明することはできない。いいかえれば、論理学における帰納法の
法則は、演繹によって樹立されることはできない。帰納的論理、すなわちいいかえればベーコンの論理は、われわれが証明
しうる種類のものではなく、われわれが行動の土台にしうる種類のものであり、それに基づいて行動するということは、信
仰の最高の表明である≫
読書ノート36
筒井康隆
文学部唯野教授
p200
だからハーシュがそう言うのも当然といえば当然。意味というのは言葉以前にあるものだ。意味が言葉によって固定され
るのはそのあとのことだっていうんだけどさ。じゃあ君たち、ちょっと、言葉を使わないで、頭の中で何か何か意味するこ
とを考えてくれるかい。できましたか。そりゃまあ、あんな感じ、こんな感覚、言葉で言いにくいものはあるだろうけど、そ
れはまだ意味ができていないからだよ。言葉と意味を切りはなすなんてことは、ドーナツを食べたら穴がなくなるのと同
じことなの。では一方ハイデガーはどうかというと、『存在と時間』の中で彼は、言語が可能になる『語り』というのは、世界
に耳を傾けることでもあると言ってたよね。そもそも人間は、時間によって構成されているのと同じで、言語によっても構
成されているのだってわけ。つまり言語はコミュニケーションの手段でもないし、意味を表現する手段でもない。それ以前
に世界を生み出し、人間を生み出したのが言語だっていうの。言語によってはじめて人間は人間になれる。言語は、人間が
自分の全体性をそっくりそのまま提示するための場所として、ひとりひとりの人間よりも先に存在していて、それによっ
て人間は成長するにつれ人間らしくなっていくのだというの。こうした言語への考え方は、いずれお話しすることになる
構造主義の理論と同じなんです。そしてガダマーにとっても言語は、ハイデガーがいう通り、世界と人間とが対話するよう
に、時間と人間が対話するように、やっぱり人間が対話する相手だったの。だから文学作品に対してもそれと対話し、自分
が問いかけられるようにしなければならないってわけ。
p280
ロトマンは を しました。 の のことばというのは、ひとつの の、 の との 、または に えば詩 分析 詩 中 言語 他 言語 差異 逆 言
、そうしたものの みあわせでもってはじめて があらわれるというわけだけど、これはソシュールと じだ類似性 組 意味 同
よね。さらにまた の での、ふたつの の とか が、 との の でさらに づけられるというんだ詩 中 言語 差異 類似 他 関係 中 印象
けど、おや、 ってなんだろうね。ソシュールは を、 の だと ったよね。ロトマンは の というの他 言語 記号 体系 言 詩 言語
を、 の といったような、たったひとつの ではなく、もっといろんな から り っている だ『記号 体系』 体系 体系 成 立 言語
と ったの。その なものを つほど いましょうか。まず の 。こいつはわかるよね。ソシュールが言 主 四 言 『語義 体系』 言
ったのと じやつで、ほかの との によってその の がわかるというやつです。 が の同 語 差異 語 意味 次 『造型的形象 体系』 。
これはおそらくあれでしょ。 の とか べ でしょ。それから の 。これはリズムとか を むとか文字 形 並 方 『韻律 体系』 韻 踏
いったもの。 の の ってのは のもっている だけど、これはソシュールがいやがって り した、最後 『音素 体系』 語 音 切 離
の、 む の まで まれているのかもしれないね。つまりロトマンは、ページの に した が り す例 読 時 音声 含 上 印刷 文字 作 出
リズムや や や や の べ まで に れて、そのひとつひとつが だって ってるの。そうするとこ韻 反復 音 文字 並 方 勘定 入 体系 言
れ、ちょっとすごいことになってくると わないかい。 の の というたったひとつの の だけでも、思 語 意味 体系 体系 中 差
があったり、 があったり、 したり が じたり、 したり きついたりしてるのに、さらにその異 類似 衝突 緊張関係 生 無視 抱
と が、これまた えず の でと じような を させるわけだものね。 をあげて いましょうか体系 体系 絶 体系 中 同 関係 発生 例 言 。
にリズムが まれ、くり され、これが にのってパターンになりそうになってくると、これを しようっての詩 生 返 調子 邪魔
が、 とか とかいったやつです。 がおかしくなっちまう。それを けようとするとリズムが われ、せっか文法 構文 文法 避 失
くいい でやっていたそのくり しが れる。 の がありきたりで、あまりにもありふれたものになりそうな調子 返 壊 詩 内容 時
には、 にリズムが して を にしようとする。そうした の からいいものが まれ、つまり逆 妨害 意味 目茶苦茶 緊張関係 中 生
には けあいってことになるんだよね。しかもそうしたことが に に、 の でいっぱい っている結果的 助 常 同時 各体系 間 起 。
このように はロトマンにとって たくさんの の でした。 たくさんの の といってもいいね。詩 『 体系 体系』 『 関係 関係』
おまけにそれらが、ロトマンによればまとめて されてるんだから い。 の がもう、いつも なく『圧縮』 凄 言語 意味 過剰
らいに されてるってわけでさあ、ぎゅうぎゅう めに された ってことになる。 のコミュニケーション決定 詰 圧縮 情報 現代
だと、 に が すればコミュニケーションは するって われてるでしょ。たとえばぼくがぺらぺ理論 一般 情報量 増大 減少 言
ら れば るほど たちはぼくが を ってるのかよくわからなくなる。だけど の は の さしかな喋 喋 君 何 言 詩 場合 必要最小限 長
い。なのに はほかの の より かにメッセージを み している。だから でも み せるのだ。そうで詩 言語 形式 豊 生 出 何回 読 返
ない は い だってロトマンは いました。ロトマンにとって は である ってわけ。これに えてロトマン詩 悪 詩 言 『情報 美 』 加
は、あるものが けていることによっても が じたり、 が られることによってもすぐれた が み欠 意味 生 期待 裏切 効果 生 出
されたりすると っています。 マイナス って うらしいんだけどね。 っていうのは、 と言 『 手法』 言 結局文学作品 期待 裏
り、 と 、 と 、 なパターンとその 、その の の な だってわけ。切 規制 偶然 規則 逸脱 日常的 異化 両方 間 複雑 相互作用
読書ノート49
神の名
p20
アリストテレスはものが本性敵に存在しているのに対し、ことばは習慣により定められているとして、両者を厳しく区別
する。トマスもまたこのようなアリストテレスの立場を受け継いでいる。
P25
アウグスティヌスは「ことば」の意味を拡大し、知と対応するのは、われわれの精神の内に形成されることばであると考え
なけらばならなかった。内なることばによってわれわれは知っていることを知っているとおりに語ることができる。これ
に対し、この内なることばをさらに、音声としてのことば、文字としてのことばでどのように表現するかは、別の問題であ
る。
読書ノート 5

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