「意味の意味って、何だろう?」
小さい頃私が母親に向けて発したこの「意地悪」な問いについて、それが意地悪なものであることを私はすでに自覚していた。「意味の意味」。それを問うた時点で、人間にとっての意味という機能は臨界点に到達し、無限の爆発を起こすことを直感的に知っていたからだ。意味とは一般的に、他の何かを指し示す権能であるからだ。
この問いには力がある。大人は誰も答えることができない。それは大人の言葉の強さすらひっくり返せる問いである。であるから、私はこの問いを文字通り幼心に刻み込み、大人になるまで大切にしておいたのだ。
20年ほどの時を経て、我々の前には「空疎な政治家」が現れる。小池百合子などもその例であるが、やはりその代表格は小泉進次郎であろう。メディアによって取り上げられた彼の発言をいくつか列挙してみる。
「今のままではいけない。だからこそ、日本は今のままではいけないと思っている」
「約束は守るためにありますから約束を守るために全力を尽くします」
(記者「今後半年や1年間で石炭火力発電をどうやって減らしていく?」)
小泉進次郎「減らす」
(引用元:https://matome.naver.jp/odai/2158396428158630101)
映像の例はこちら:
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テロップによってテレビの映像上に文字化された彼の言葉は、私が抱いたままにしておいた幼心に強く響く魅力を持っている。こうした魅力は、最近の商品にはなかなか見出せないような新しさと懐かしさを同時に備えていた。
近代批判によって人間を意味付ける大いなるものが疑われ尽くした結果、最近は皮肉にも、「人生に意味なんてない」という言葉が意味深いもの、「心に響く商品」として流通するようになった。だが「正真正銘の無意味」を「体を張って体現」(これも進次郎構文だ)できる小泉進次郎は、結局は意味に捉われている我々を、あくまで「残念な」形で嘆きながら、いよいよ意味の拘束の外へ連れ去ってくれる「かもしれない」ようにも思うのだ。
本記事では、「意味の意味」という問題意識を使って、小泉進次郎を「読む」ことを試みる。