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読書ノート
- 3. れる全ての場合に同一の object を refer しなければならないということになる。(今の
ところ、John Smith と呼ばれる人が何人かいるかもしれないということは忘れておく
ことにする。)このような constancy を保証するには何が必要であろうか。後々の議論
に備えるためには、name は a principle of identity と関連づけておかねばならないだ
ろうし、そのためには“cat"のような common noun を考えてみるのが best である。
“Tom"は常に同一の“cat"を指しているならばその機能を正しく果たしていることにな
るだろう。(proper name である“Tom"は正しく refer している。)このとき、“Tom"と言
うだけで特定の“cat"のことを言っていることになるから、proper names はある種の
common nouns を含んでおり、その結果としてある種の descriptions も行っていると
考えることもできるだろう。
以上が正しいとすると、common nouns も proper names も、refer と describe の両方
を行うことになる。にもかかわらず、common nouns と proper names は semantically
にはっきりと異なる。どう異なるかを調べていかねばならない。]
読書カード 3 [言語]
宗教入門
中沢新一
マドラ出版 1993
95p
p86l13~
キリストは、高次元な神の領域が、いつも自分の中に体験され、生きていることを感じ
たとき、自分は「神の子」だと表現しました。これは、自分は二次元の世界に差し込まれ
たスプーンとしての高次元知性なんだということを言うために選んだ表現です。一方
ブッダは、二次元の世界と、それを取り巻く高次元の真実の世界とは、同じように、真
実の世界として一体であるという認識を持ちます。そしてそれを、のちに「色即是空
空即是色」という大乗仏教の表現が生まれてくるような形にして、表現しました。 だ
けど二人とも、自分たちはこの人間の世界に差し込まれた、高次元世界からのスプー
ンに触れているということを強く意識していました。
- 4. [宗教とは、高次元世界の存在を仮定して、そのスプーンとの接触という体験を手持ち
の demension で表現していこうとする活動なのかもしれない。例えば数学的表現で
は、足し算や引き算といった演算では新しい demension は生まれないが、掛け算や割
り算といった演算ではそれが可能である。しかし 、高次元の体験を手持ちの
demension の組み合わせから表現していこうとするとき、圧倒的に多彩な表現が可能
なのはやはり言語的表現だったのではないか。
日本語を例にとって考えてみる。『A は B だ。』この短い文だけでも様々な内容が表
現できる。A と B が同じ demension に属しているとすれば、この 2 つは「A」と「B」とい
う別の名前を持ってはいるが実は同一であることになる。A と B が異なる demension
に属しているとしたら、『A は B だ。』という文は、A が属している demension と B が
属している demension が、A と B をトンネルの入り口と出口のようにして対応してい
るということを表現している。
ブッダの『色即是空 空即是色』の場合は、『色』と『空』は demension そのもの
を表しているので、前者を拡大して、『色』と『空』は別の名前を持ってはいるが実
は同一の demension であるということなのだろう。そこで、]
p71l9
仏教が、「色即是空 空即是色」と言った場合、その「空」というのは、生命システムに限
定されない、ウイルスの中でも、人間の大脳の中でも働いている、純粋な意識そのもの
だと言いました。有機体が死んでもそれは死なない、
読書カード 4 [言語]
雪片曲線論
中沢新一
青土社 1985
p21
もちろん、密教も仏教思想のひとつのかたちには違いないから、言葉やさまざま
な記号が織りあげる言語的リアリティというものに対する、鋭い問題意識を、ほか
の大乗仏教のスタイルとも共有している。仏教はこの世界を、たえまのない変様の
場(フィールド)として捉えている。この変様の場は、意識と身体をともどもに巻
き込みながら、無限の拡がりを持つ連鎖をかたち作っている。そのため、この世界
にあるいかなるものもことも、それ自体の同一性を保ったまま存在しているものな
ど、ひとつとしてないのだ。どんなものもことも、無限の連鎖のなかでたえまなく
変様をつづけている場(フィールド)に生起する出来事として、もともと「空」な
のである。ところが人間は言葉を習得する過程で、無意識のなかに蓄えられている
- 11. 読書カード6 [言語]
批評空間 1993 No.11
音声と文字/日本のグラマトロジー
子安宣邦、酒井直樹、柄谷行人
福武書店 1993
281p
酒井 [中略]「18 世紀の言説空間」が行ったことは、つまり仮名と漢字というものの在
り方を、一方では漢字が中国では仮名と同じ在り方をしているという立場と、日本の
なかでは、仮名と漢字が違った機能をもっているという形で区分して定式化するとい
うことだと思います。そこで一つの転倒が起こると思うのです。
漢字も仮名も内在的に表意性をもったり、表音性をもつわけではなく、どのように漢
字や仮名を使うかを決定する実践系によって決まってきます。
にもかかわらず、仮名も、よく考えてみたら漢字と同じように扱い得るという可能性
をむしろ切ってしまうからです。
逆に言うと、仮名というのがフォネテイックな文字であるのに対して、漢字がイデオ
グラフィ、表音文字対表意文字という形で定式化されます。その区別を、一方で厳格
に、非常に融通性のない形でだしてくる。これは、表音性や表意性といった範疇の間に
混血が起こらないように区別を設け、その区別に固執する態度、すなわち音声中心主
義と言えないでしょうか。
[中略]表音対表意の対立は、話し言葉対書き言葉の対立とはまったく別のものである
にもかかわらず、この二つの対立の間に混同と横すべりが起こってくる。[中略]
柄谷 話すことと書くことは、根本的に違いますね。書くことが話すことのあとから始
まったというわけではない。第一、脳の文字中枢というのは、すでに人類としての進化
の段階で形成されているのであって、文明化以後の短い期間にそんなものができるは
- 17. 読書カード 11 [言語]
完全言語の探求
U.エーコ
平凡社 1995
p50~51
しかしながら、自然言語の働きは、たんに統辞論と意味論にもづいているだけではな
い。それは語用論```にももとづいている。すなわち、記号を発信するさいの状況とコン
テクストを考慮した使用規則にもとづいている。そして、この使用規則こそが言語の
レトリカルな使用の可能性を成立させるのである。しかも、レトリカルな使用によっ
てはじめて、単語や統辞論的構成物は多様な意味を獲得することができるのである
(たとえば隠喩がそうである)。
実際には言葉による言語はあらゆるものを言表できるわけではないので(バーベナと
ローズマリーの香りのちがいを言葉にあらわそうとしてみればよい)
読書カード 13 [言語]
言葉と物
ミシェル・フーコー
渡辺一民・佐々木明訳
1974 新潮社
p102
古典主義時代における言語ランガージュの実在は、至上であると同時に、目だた
ないものである。 至上のものであるというのは、語が「思考を表象する任務と能
力をあたえられたからだ。だが、表象するとは、この場合、翻訳すること、可視的
なかたちに訳出すること、思考を身体の外側において正確に再現しうるような物質
的複製をつくること、を指すのではない。
[中略]
古典主義時代においては、表象にあたえられないものは何ひとつとしてあたえられ
ぬ。