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読書カード 1[感覚][言語]
身ぶりと言葉
*下線引用者
第11章 価値とリズムの身体的な根拠
感覚の装備
 動物における最も単純な行動は、感覚という見地から三つの面にまとめられる。
一つは、有機体がみずから同化できる物質を取り扱い、体の機能を確実にたもつ栄
養摂取の行動、一つは種の遺伝的な生存を確立する生理的な感情性、一つは他の二
つを可能にする生活空間での統合の面である。これらの面は、種が進化する度合い
に応じて枝分かれしていくが、個体相互および個体と環境についての、三つの照合
次元に対応しており、人間の場合にも、この次元から生まれてくる美的な係わり合
いは、依然としていちじるしい。この三つの生理学的な美学面は、さまざまな割合
で、内臓感覚、筋肉感覚、味わい、嗅覚、触覚、聴覚と均衡、視覚などのいろいろ
な感覚メカニスムの器官を働かせる。
 その器官はそれぞれ、動物から人間にいたるまで、同じような主要構造をもつ一
つの完全な生命体のなかに統合されている。栄養を摂取する行動には、原動力とし
て内臓のリズムがあり、知覚部として嗅覚と味わいおよび触覚がある。感情行動は、
筋肉の作動感覚と触覚、嗅覚、視覚のあいだで均り合っている。時間・空間的な位
置どりの行動は、平衡器官や空間における体の知覚に支えられ、人間では視覚の助
けを借りており、他の種では嗅覚、触覚、聴覚といった主要な感覚の助けを借りて
いる。外界関係の三つの面は、どれ一つとして、肉体のリズム性と照合装置との組
み合わせなくしては考えられない。味覚は、栄養を摂取する活動がなければ抽象で
あり、また同情や攻撃感情の働きも、知覚によって決定される動機と知覚とのきず
なのなかにしか存在せず、生理的な肉体が空間を知覚する度合いに応じてのみ、空
間での統合がある。いいかえれば、運動が形に結びつくというのは、あらゆる積極
的な行動の第一の条件なのである。
 動物であれ人間であれ、行動の主体は、運動の網の目のなかにとらえられている
が、その運動の網の目は、外界またはみずからの体組織に由来し、その形は感覚に
よって解釈されるのである。もっと広くいえば、その知覚は、外部のリズムとそれ
にたいする運動として示される反応とのあいだに割りこんでいる。海の環形動物は、
潮のリズムのままに反応しながら上下しているが、味わいの感覚や温度や振動を感
じる触覚・知覚から自分の運動を統合する源を汲みとっている。栄養摂取の行動お
よび、時間・空間的な統合というのは、まさにそれが属する環境へ合体することに
他ならない。 [知覚とは環境との"合体" 人間の場合はその間に表象(言語もその一
種?)が介入する。]ひじょうに高い段階ではあるが、哺乳類にしても、匂いや音の継起
する領域で、昼夜の温度や視覚像の変化の動きにつれて、リズムや形、外界からの
誘惑、その解釈とその反応などの同時作用のなかで存在していることに変わりはな
い。
 人間の次元でも、状況が表象の網の目のなかに反映され、したがって状況そのも
のと向かい合わされうるという違いはあるが、それを除いては、もちろん同じであ
る。リズムと価値は、人間に反射して、その進化を通じて人間独特の時間と空間を
つくりだし、目盛と音階の市松模様のなかで、行動をがんじがらめにし、最も限定
された意味での一つの美学として具現化しようとする。しかし生物としての基礎が
全権を保っているのであり、そこには芸術的な、上部構造の意のままになる他の手
段はない。人間に反映された表現においても、美学はあいかわらずそれが出てきた
世界の性格そのままであり、動物学上の進化によって、視覚と聴覚は、われわれの
空間を確かめる感覚に仕立てあげられ、そこでも優先している。もし触覚や、振動
の微妙な知覚や、嗅覚が、われわれの主要知覚であるとしたなら、われわれの美学
がどんなものになったかを想像すれば、〈交触曲〉(交響曲でなく)や〈嗅ぎ絵〉
など、匂いの絵や接触の交響楽の可能性も十分考えられるだろう。また、たえず振
動する建築とか、塩分や酸味をもった詩なども、われわれには手が出せないわけで
はないが、われわれの芸術に控え目な場所しか持たなかったあらゆる美的な形を垣
間見るには十分である。しかし、美に係わった生の根底に、これらの場所を維持し
ておくことができなかったら、憂うべきことになるだろう。
読書カード 2 [言語]
NAMES OF THINGS
p3 下から 5 行目
A.NAMES
[我々が議論している names の種類はその semantic function によって区別され
る。proper names は refer する words の例である。proper names はいわば objects に
reach out し、comment のために objects を designate する。common nouns もまた
refer するということは明白ではないが、起こり得る興味深いことである。common
nouns が describe するのは確かである。 “ Tom is a cat." と言うとき、“ Tom"は a
particular creature を refer している。“cat"は彼を describe している。description は
その object に関して正しいかもしれないし、間違っているかもしれない。 (“cat"は
“Tom"に関して正しいかもしれないし、間違っているかもしれない。)
proper names もまた describe するのだろうか。最初は proper names は describe で
はなく、refer するためだけに現れる。しかし、ある proper name が様々な場合に使わ
れ、そしてその referring という仕事をするとなると、一つの proper name が、使用さ
れる全ての場合に同一の object を refer しなければならないということになる。(今の
ところ、John Smith と呼ばれる人が何人かいるかもしれないということは忘れておく
ことにする。)このような constancy を保証するには何が必要であろうか。後々の議論
に備えるためには、name は a principle of identity と関連づけておかねばならないだ
ろうし、そのためには“cat"のような common noun を考えてみるのが best である。
“Tom"は常に同一の“cat"を指しているならばその機能を正しく果たしていることにな
るだろう。(proper name である“Tom"は正しく refer している。)このとき、“Tom"と言
うだけで特定の“cat"のことを言っていることになるから、proper names はある種の
common nouns を含んでおり、その結果としてある種の descriptions も行っていると
考えることもできるだろう。
以上が正しいとすると、common nouns も proper names も、refer と describe の両方
を行うことになる。にもかかわらず、common nouns と proper names は semantically
にはっきりと異なる。どう異なるかを調べていかねばならない。]
読書カード 3 [言語]
宗教入門
中沢新一
マドラ出版 1993
95p
p86l13~
キリストは、高次元な神の領域が、いつも自分の中に体験され、生きていることを感じ
たとき、自分は「神の子」だと表現しました。これは、自分は二次元の世界に差し込まれ
たスプーンとしての高次元知性なんだということを言うために選んだ表現です。一方
ブッダは、二次元の世界と、それを取り巻く高次元の真実の世界とは、同じように、真
実の世界として一体であるという認識を持ちます。そしてそれを、のちに「色即是空
空即是色」という大乗仏教の表現が生まれてくるような形にして、表現しました。 だ
けど二人とも、自分たちはこの人間の世界に差し込まれた、高次元世界からのスプー
ンに触れているということを強く意識していました。
[宗教とは、高次元世界の存在を仮定して、そのスプーンとの接触という体験を手持ち
の demension で表現していこうとする活動なのかもしれない。例えば数学的表現で
は、足し算や引き算といった演算では新しい demension は生まれないが、掛け算や割
り算といった演算ではそれが可能である。しかし 、高次元の体験を手持ちの
demension の組み合わせから表現していこうとするとき、圧倒的に多彩な表現が可能
なのはやはり言語的表現だったのではないか。
日本語を例にとって考えてみる。『A は B だ。』この短い文だけでも様々な内容が表
現できる。A と B が同じ demension に属しているとすれば、この 2 つは「A」と「B」とい
う別の名前を持ってはいるが実は同一であることになる。A と B が異なる demension
に属しているとしたら、『A は B だ。』という文は、A が属している demension と B が
属している demension が、A と B をトンネルの入り口と出口のようにして対応してい
るということを表現している。
ブッダの『色即是空 空即是色』の場合は、『色』と『空』は demension そのもの
を表しているので、前者を拡大して、『色』と『空』は別の名前を持ってはいるが実
は同一の demension であるということなのだろう。そこで、]
p71l9
仏教が、「色即是空 空即是色」と言った場合、その「空」というのは、生命システムに限
定されない、ウイルスの中でも、人間の大脳の中でも働いている、純粋な意識そのもの
だと言いました。有機体が死んでもそれは死なない、
読書カード 4 [言語]
雪片曲線論
中沢新一
青土社 1985
p21
 もちろん、密教も仏教思想のひとつのかたちには違いないから、言葉やさまざま
な記号が織りあげる言語的リアリティというものに対する、鋭い問題意識を、ほか
の大乗仏教のスタイルとも共有している。仏教はこの世界を、たえまのない変様の
場(フィールド)として捉えている。この変様の場は、意識と身体をともどもに巻
き込みながら、無限の拡がりを持つ連鎖をかたち作っている。そのため、この世界
にあるいかなるものもことも、それ自体の同一性を保ったまま存在しているものな
ど、ひとつとしてないのだ。どんなものもことも、無限の連鎖のなかでたえまなく
変様をつづけている場(フィールド)に生起する出来事として、もともと「空」な
のである。ところが人間は言葉を習得する過程で、無意識のなかに蓄えられている
言語シンタックスにむかおうとする潜勢力がしだいに強くわきあがり、強固なかた
ちを与えられるようになる。言語シンタックスが、すでに無意識のなかに潜在して
いる二元論化にむかう傾向を媒介して、それを大きく成長させるわけである。こう
して無限変様の場は言語的意識によって構造化がほどこされる。私たちの身体も含
めて無限変様の場はすぐそこにあるのに、あたりまえにしているだけではもはや捉
えられないものになってしまう。そこで仏教思想はそのことをはっきりさせるため
に、さまざまなテクニックを開発してきたのである。
 哲学的ディスクールを使うやり方では、そのラジカルさにおいて、中観仏教の右
に出るものはないいだろう。中観仏教の論争方法がその後の仏教思想全体に大きな
影響を与えたことは、よく知られている。中観仏教、とくに竜樹の『中論』が焦点
を合わせたのは、言語の[S+V]構造(主語+動詞構造)である。シンタックス
はそのもっとも基底的なレヴェルで[S+V]構造を持っている。このうちS(主
語)は、この世界から名辞の単位を切り出してくる働きをする。Sのおかげで
「私」「木」「山」などが、同一性を持った不連続な単位として捉えられるように
なる。経験の世界には無数のSのピンが打たれ、無限の多様性をはらみながら変様
をつづける生の流れのいたるところに、同一性や実体性のいくつもの小島が浮かび
あがってくるようになるのだ。だが、私たちの知覚は、一方ではこの世界をたえま
ない変様の場として経験しつづけている。つまり、固定した名辞の積み重ねによっ
ては、どだいこの世界のリアリティを捉えることは不可能なこと、そのためこの世
界に「静止」の相を持ち込むSの体系は必然的にパラドックスを産み出さざるを得
ないことを、経験が教えているのだ。そこで、Sが世界に「静止」の相を持ち込ん
だそのとたんに、言語は「動態」を表示するVを求めることになるわけである。V
はSの体系が産み出すパラドックスや生の経験との食い違いを解消するために働く。
そして言語シンタックスはS(静止)とV(動態)の対によって、経験が捉えてい
る世界のありさまをシミュレートし、それがこの世界のリアリティなのだと教え込
もうとするわけだ。だが、これは幻想だ、と中観仏教は主張するのである。そこで
本当に起きているのは、無限変様の場たるありのままの世界を[S+V]つまりは
[静止−動態]の弁証法的構造にすりかえてしまうという大掛かりな隠蔽にほかなら
ない。この地点から、中観仏教は他のいっさいの哲学的ディスクールの徹底的な解
体作業にとりかかるのである。
 竜樹が『中論』で駆使し論理は、この世界が実体を持っていると主張するような
いっさいの哲学的ディスクールが、最終的に[S+V]のシンタックス構造と同型
の構造に還元でき、それらの論理がけっきょくのところは、たえず運動し変化して
やまない世界に「静止」の相を持ち込もうとしるニヒリズムから逃れられない、と
いうことを暴くやり方を取った。この世界がカテゴリーの体系からできているとい
う静態的な考えは言うにおよばず、それを実体とそんぽ運動の弁証法的なプロセス
として(つまりは「静止−動態」のプロセスとして)もっと動態的に捉える思想でさ
えも、無限変様の場たるありのままの「空」の世界を覗き込むことを恐れているの
だ。こうして中観仏教は[S+V]構造の明確なインド=ヨーロッパ語の特質を生
かして、いっさいの言語的パラドックス(実体論的なすべての哲学的ディスクール
は、必然的にパラドックスを内在させている)、いっさいのニヒリズム([S+
V]のシンタックス構造は世界が「空」であることに対する恐れをはらんでいる)
から逃れた無限変様の場に、徹頭徹尾肯定的な態度で踏み込んでいけるような、直
観の鍵を手渡そうとしたわけである。
p41
ところが古代の自然哲学者たち、とくに物理学の最初の形成をしめすエピキュロス
やルクレティウスなどにとって、事態はまったく逆だった。彼らにとって、自然の
哲学はまさしく渦や乱流の観察、風の動き、炎のゆらめき、複雑に変化する水気の
状態変化などのしめす繊細なプロセスのていねいな観察から出発すべきものであっ
たからだ。矛盾をはらまない整合的な数学や論理の形式というものが先にあって、
そこから宇宙のプロセス全体を論理的に説明していこうとするのではなく、形式や
構造そのものを押し上げていく力がしめす乱流や渦巻きや星雲状の動きとか、不規
則なジグザグを描いていく軌跡の方から、自然を記述していくこと。
仏教の思想3 空の論理
108p
 ある作用とその主体ち対象とん0お三者の関係も『中論』においてしばしば論じ
られている主題である。
111p
377p
[今、日本文法の本を読んでいるのは、S+V といった文法上の構造が、人間が外界をどう
とらえるかということと深い係わりを持っていると思うからである。このような考え
のヒントとなったのは、中沢新一の『雪片曲線論』である。この中で彼は空海の禅宗
の思想と流体力学や書との関連について書いている。ここで以下のようなことを思い
ついた。古典的な力学では「A が B に力を及ぼす」あるいは「A が B を押す・引っ張る」や
「A が B に押される・引っ張られる」といった表現が出て来るが、これらの表現は明ら
かに S+V という文法構造を基盤にしている。中沢新一の言葉を借りれば、世界から S
という単位を切り取ってきて V で動かす、そういった外界の捉え方をしているのだ。
では S+V という構造を持たない言語ではどのような捉え方が可能なのであろうか。大
乗仏教の『中論』の中にそのヒントがありそうである。また、中沢新一の『東方的』
で、ハンガリーの言語について書いている箇所があったが、日本文法の本を読み終わ
ったら、これも絡めて検討したい。時枝の本は面白い。「てにをは」の箇所は本質をつい
ているように思う。]
読書カード 5 [感覚]
五感 混合体の哲学
ミッシェル・セール著
米山親能訳
法政大学出版局
[下線部読者]
p566
[ ] 中村雄二郎の『共通感覚論』によれば、ヨーロッパ中世世界[ 『言語の生物
学的基礎』、『完全言語の探求』参照]
においては、もっとも洗練された感覚、優れて知覚的な感覚は聴覚であり、視覚は
触覚の後の三番目の位置を占めていたにすぎなかったが、近代のはじめになって転
倒が起こり、目が知覚の最大の器官となり、近代文明においては視覚が独走し、専
制支配を確立したとのことである。「一望監視施設パノプチコン」に象徴されるように、
「見ること」「知ること」が他の人間を支配する権力となったのだった。このよう
な視覚の優位は、現代心理学や、知覚心理学によっても根拠づけられ、いっそう揺
るぎないものとなっているようである。(中村雄次郎、『共通感覚論』、51−54
ぺージおよび284ページ参照)
 ところがセールによれば、このような視覚の優位は、現代の情報化社会にあって
は、苦もなく覆されることになる。「一望監視施設」の護り神である百眼のパノプ
テスは、メッセージの神であるヘルメスによって、完膚なきまでに打ち負かされる
からだ。世界中に張り巡らされたメッセージもしくは情報の回路網は、もはや監視
者を必要とはしない。情報は光の速さで世界中を駆け巡り、そのざわめきで世界を
満たす。われわれは回路網の発するメッセージと雑音の大喧噪のなかに没して生き
ているというわけだ。
[ ] 中村雄二郎の言うように、近代文明における視覚の独走および専制支配は、近
代の科学技術の発展に大きく寄与した反面、見るものと見られるものの分離、つま
り主体と対象の分離を引き起こし、[ ]ひいては支配するものと支配されるものとの
社会的分離を引き起こした。
[ 、 →「S+V」に対する視覚の加担]
[ →社会史へ]
 「近代文明の視覚の独走、あるいは視覚の専制支配に対して、ずいぶん前から多
くの人々によって、色色の形で[ ]触覚の復権
が要求されてきた」(中村、前掲書、54ページ)のだが、セールも先人にならっ
てまず触覚の復権を試み、さらには、[ ]「精神的なものを少しももたない感覚」
「肉体的、物質的で、想像力になんら語りかけない感官」として蔑まれてきた味覚
([ ]ルソー、『言語起源論』第15章および『エミール』第2篇
)や嗅覚の復権をも試みる。
[ 、 →内部の触覚としての固有知覚、特に鰓弓領域については「細川論文」、「グレイ」
参照]
[ の中で感覚の階級性はどう考えられてきたか。→感覚と言語がどのようにからみあ
いながら発達してきたか。→ 参照]
 セールは、皮膚が人間というブラック・ボックスの一番外側の(あるいは宇宙的
視点から見れば一番内側の)受容器官をなし、諸感覚を包含する共通感覚として作
用していると説く。(こうした共通感覚の問題や場所の問題について、語り口はま
ったく異なるが、セールと中村雄二郎は共通した関心をもっているように思われる。
『共通感覚論』、岩波書店、『場所』、弘文堂、他参照)。優れた共通感覚である
皮膚をはじめ、味覚や嗅覚は、久しい以前から視覚や聴覚の優位によってないがし
ろにされてきたわけだが、しかしセールによれば、
共通感覚としての皮膚を麻痺させ、味覚や嗅覚の器官である舌や口蓋を言語のみに
隷属させてきた張本人は、視覚でも聴覚でもなく「ことば」なのである。[この部位
は単なるレトリック。あまり意味はない。]
 ヨーロッパの中世社会では、もっとも洗練された感覚、すぐれて知覚的な感覚、
世界とのもっとも豊かな接触をうち立てる感覚とは、なにかといえば、それは聴覚
であった。そこでは視覚は、触覚のあとに第三番目の位置を占めていたにすぎない。
つまり五感の序列は、聴覚、触覚、そして視覚の順であった。ところが近代のはじ
めになって、そこに転倒が起こり、眼が知覚の最大の器官になった。見られるもの
の芸術であるバロックが、そのことをよく示している。では、中世世界ではなぜ聴
覚が優位を占め、視覚が劣位におかれていたのであろうか。それは一方で、キリス
ト教会がその権威をことばという基盤の上においており、信仰とは聴くことである
としていたからである。[音声言語と視覚言語とのからみ。印刷技術などの発達は?]
聴覚の優位は十六世紀においても、神学に保証されてまだ強かった。神ノ言葉ヲ聴
クコト、ソレガ信仰デアル auditurn verdi Dei,id est fidem.「耳、耳だけが〈キリス
ト教徒〉の器官である」とルターもいっている。それだけではない。それとともに
他方で、視覚は触覚の代理として官能の欲望に結びつくものと考えられたからであ
る。[視覚は触覚の代理]
スペインの聖者ファン・デ・ラ・クルスの先駆者たちの一人は、自分の眼で見るも
のをなんと五歩以内のものに限り、それを越えてはものを眺めてはならない、とし
ていた。イメージにはなにか自然のままのもの、つまり規律的な道徳を破るところ
があると考えられていたのであった(R・バルト『サド、フーリエ、ロヨラ』)。
 ルネッサンスの〈五感の階層秩序〉のなかで聴覚と視覚の位置が逆転し、視覚が
優位化したことは、たしかに自然的な感性としての官能が解放されたことに結びつ
いている。ところが、近代文明は、触覚と結びついたかたちでの視覚優位の方向で
は発展せずに、むしろ触覚とは切りはなされたかたちでの視覚優位の方向で展開さ
れた。[触覚(原始的な対象化)と切り離された視覚(先進的な対象化)]
近代文明にあっては、ものや自然との間に距離がとられ、視覚が優位に立ってそれ
らを対象化する方向を歩んだのである。近代透視画法の幾何学的遠近法や近代物理
学の機械論的自然観、それに近代印刷術は、その方向の代表的な産物である。と同
時に、その方向を強力に推し進めたものであるといえるだろう。そうしたなかで、
時間も空間もすべて量的に計りうるものだと考えられるようになり、その結果、人
間の時間も空間も宇宙論的な意味を奪われ、非聖化された。
 たしかに視覚が優位に立った近代文明は、私たち人間に多くのものをもたらした。
もしそのような近代文明がなかったならば、科学や技術の発達はこれほどにはなら
なかったであろうし、人間のための自然の利用もこれほどには達しなかったであろ
う。また、知識や思想の伝播もこれほどにはならなかったであろう。しかしながら
その反面で、視覚が優位に立っただけでなく独走した近代文明は、見られるものを
見るものから、知られるものを知るものから、対象を主体から引きはなしたのであ
った。そしてやがて、見られるものや知られるものはすべて物体化され、抽象化さ
れる一方、見るものや知るものは、そのように見られるものや知られるものを物体
化し、支配せずにはおかない、冷ややかなまなざしになったのである。
 感覚というと、一般に身体的な、したがってまたしばしば動物的なものと考えら
れている。事実、感覚において人間は他の動物と共通するところが多い。人間の感
覚は人類の歴史的所産として動物の感覚とはちがっている。とはいえ、広い意味で
の動物としては人間もやはり動物と共通するところがある。そこで、両者の異同を
明らかにすることは、私たち人間の感覚と知覚を考える上に少なからず役立つだろ
う。
 人間の感覚と動物の感覚との違いはどこにあるかといえば、なによりもまずそれ
は、下等動物にくらべて人間では、感覚がすぐれて分節化されていると同時に中心
化されていることにある。下等動物では未分化であった感覚機能は、人間では多様
な諸感覚に分化し、分節化するとともに、それらが統合され、中心化されているの
である。そのような感覚の統合と中心化は、一般に、もっぱら視覚を核としそれに
よって行われているものと考えられている。しかし果たしてそうなのであろうか、
あるいはそんなに簡単にそうだといえるのであろうか。たとえ視覚の重要性は否定
しえないとしても、他の諸感覚の働きと特性とをもっと考えるべきではなかろうか。
視覚を含めての諸感覚の相互関係をもっと考えるべきではなかろうか。
 人間の感覚の分節化と中心化とは、人類における脳と手の相関的な進化・発達と
結びついている。脳と手の相関的な発達によってはじめて、人間は人間になったと
さえいうことができる。手は四足獣の場合のような歩行の器官であることをやめ、
その働きから解放されて把捉の働きを、そしてさらにはものを加工してつくり出す
働きをするようになった。また手のそのような発達は、口を把捉の器官であること
から解放し、直立歩行のよる脳の発達と結びついて、人間に分節言語をもたらした
のであった。[咀嚼筋の固有感覚の発達との関係]
読書カード6 [言語]
批評空間 1993 No.11
音声と文字/日本のグラマトロジー
子安宣邦、酒井直樹、柄谷行人
福武書店 1993
281p
酒井 [中略]「18 世紀の言説空間」が行ったことは、つまり仮名と漢字というものの在
り方を、一方では漢字が中国では仮名と同じ在り方をしているという立場と、日本の
なかでは、仮名と漢字が違った機能をもっているという形で区分して定式化するとい
うことだと思います。そこで一つの転倒が起こると思うのです。
漢字も仮名も内在的に表意性をもったり、表音性をもつわけではなく、どのように漢
字や仮名を使うかを決定する実践系によって決まってきます。
にもかかわらず、仮名も、よく考えてみたら漢字と同じように扱い得るという可能性
をむしろ切ってしまうからです。
逆に言うと、仮名というのがフォネテイックな文字であるのに対して、漢字がイデオ
グラフィ、表音文字対表意文字という形で定式化されます。その区別を、一方で厳格
に、非常に融通性のない形でだしてくる。これは、表音性や表意性といった範疇の間に
混血が起こらないように区別を設け、その区別に固執する態度、すなわち音声中心主
義と言えないでしょうか。
[中略]表音対表意の対立は、話し言葉対書き言葉の対立とはまったく別のものである
にもかかわらず、この二つの対立の間に混同と横すべりが起こってくる。[中略]
柄谷 話すことと書くことは、根本的に違いますね。書くことが話すことのあとから始
まったというわけではない。第一、脳の文字中枢というのは、すでに人類としての進化
の段階で形成されているのであって、文明化以後の短い期間にそんなものができるは
ずがない(笑)。困難は、書くこと(文字)と話すこと(音声)の結合にあったと思うんです。
表音文字といっても、それは、音を文字で表すのではなく、文字をどう音で読むかとい
うことから生じています。これはどこでもそうです。ところが、「表音文字」のごときも
のが出来上がると、あたかも文字は音声を写すものであるかのような観念が生じる。
また、話すことと書くことの差異が、表音文字と表意文字の差異にすり替えられてし
まう。これはどこでも生じることです。また、それが思想的な問題の核心になること
も、日本だけではない。西洋でも十八世紀にそれが生じています。西洋では、漢字に当
たるのがラテン語ですね。それに対して、各地の俗語が、身体的な直接的な言語(話し
言葉)として立てられる。しかし、この場合、文字としてはアルファベットだから同じ
です。
日本の場合が特異なのは、やはり漢字仮名交用ということを歴史的に続けてきたか
らだと思うんです。つまり、概念は漢字で、テニヲハは仮名で書くという歴史的な慣習
があった。そうすると、本来はどこでも共通する事柄なのですが、日本では、それが、文
字の差異という問題に、また、宣長が、「玉の緒」と言ったように、漢字で書ける部分と
仮名でしか書けない部分の差異という問題に転化されている。そして、それが漢意と
大和心の差異にまで転化される。
[時枝の一連の論文参照]
酒井 [中略]漢字が、いわゆる言語の表現であるという前提というのは、必ずしもすぐ
には出てこないのではないでしょうか。つまりグラフィックなものというのは、いろ
んな形であるわけですね。ですから普通に言われている記号をすべて音声化する人は
いないわけですね。道路の標識を一義的に音声化しようなんていう人もいないし、す
べての記号が言語学でいう文法にしたがって分節化されなければいけないという人
もいないと思う。そうすると、漢字が音声化や統辞法の規則に従って分節化されるべ
き種類の記号以外の記号として受け入れられる可能性も同時にあり得るわけです。た
とえばヨーロッパやアメリカに行きますと、人々は漢字は読めませんから、漢字はた
とえば空手の看板だとか、東洋ふうの化粧品の装飾にしかならない。それと同時に、化
学記号のようなものも、数学の数式のようなものもある。日本でもヨーロッパ語のア
ルファベット表記が装飾として使われる例の多いことは周知の通りです。言語学で言
われている言語には還元できないような記号の層というのはたくさん文化のなかに
あって、そういう意味では、私たちはいろんな種類の記号の体系と共存しているんで
すけれども、そのなかで漢字が、表意文字として、本来ならば仮名に対応するものだと
いう発想が出てくるためには、どこか言語の在り方に対する概念化が一つ起こってい
ないと、いまのような議論がでてこないような気がします。つまり、言説の変化に伴っ
て言説内の言語の位置が変更され、それまでとは違った仕方で言語的表現と非言語的
表現が区別されるようになる結果、「和訓」のようなものが排除されるようになってく
る。
柄谷 順序としてはそうですね。国学者に抜けていたのは、あるいはいまでも言語学者
に抜けているのは、書くこと(文字)と話すことが決定的に異質だということです。文字
はすべて、ある意味では象形文字であって、それは音声と必然的に結びついていない。
中国では、漢字はそのようにあったし、いまもある。のみならず、漢字は東アジアでそ
のようにあったわけです。それは、必ずしも漢字の性質によるとは思えない。中性のヨ
ーロッパにおけるラテン語もそうでしょう。各地で違う発音で読んでいたはずです。
そもそも本来の発音がないわけだし、最終的に書けば通じるのだから。
したがって、漢字かアルファベットかという差異は、さほど問題ではなくて、そうし
た標準的な文字の在り方に問題がある。ラテン語や漢文は、各地で日常話されている
ものと違って、どこでも妥当する「超越的な意味」を担うものとしてあったわけです。
近代に起こってきたのは、この超越的な意味の否定ですね。たとえば、宗教で言えば、
中性のキリスト教はまさにカソリック(普遍的)ですが、プロテスタンティズムでは、神
は個々人の内面にのみある。外的な形式は問題ではなくなる。ところが、ルターの場合
に重要なのは、それが『聖書』を俗語に訳すということと切り離せなかったことで
す。もちろん、それはアルファベットで書かれています。しかし、ラテン語の在り方と
根本的に違う。このナショナルな言語への翻訳では、ラテン語にあったようなカソリ
ック的な「超越的な意味」が奪われて、それが自己に直接的な現前的な音声(内的言語)
に内面化されている。
その場合面白いことは、そのようにして失われていった超越的なシニフィエあるい
はカソリシズムを回復しようとした人がいたということです。それはライプニッツで
すが、彼は漢字はすばらしいと言うわけですね(笑)。彼の記号論理学は漢字をヒントに
している。どんな音声で、どんな日常語で読んでもいいような記号。しかし、これは漢
字でなくてもよい。事実、ライプニッツはアルファベットでそういう記号を考えたわ
けです。だから、漢字と表音文字という対比には意味がない。大事なのは、朱子学が一
種のカソリシズムとしてあったということ、そして、それに対する批判として音声=内
面=身体の直接性を重視するということがあたかも漢字への批判であるかのように表
象せれたということではないでしょうか。
読書カード 7−1 [言語]
ケルビムのぶどう酒
中沢新一
43~44p
あらゆる言語はもともとローカル・ランゲージとして発生しるけれど、それはいつし
か自分のなかにあった何かを捨てて、共通言語のほうにジャンプしていこうとする傾
向を、潜在的にもっている。それは言語の本質のほとつにネガティヴィティ(否定性)と
いうものが、潜んでいるからだ。言語は自然のプロセスを否定しながら、観念的なもの
を表現できるための自由さを得るために、ジャンプを敢行した。そうして、まず言語は
ローカル・ランゲージとして発生する。しかしその否定性の運動はそれだけでは、おさ
まらない。大地とのつながりをさらに断ち切って人間をもっと抽象的なレヴェルでつ
なぎあわせるための道具として、共通言語をつくりだそうとするのだ。だからそこで
は、共通言語と国家とは、深いつながりをもつことになる。国家はローカルなものの自
立性を、なんとか否定して、自分のなかに異質なものをたくみにとりこんでしまおう
としてきた。共通言語は教育や政治的な強制を通じて、ローカル・ランゲージを否定す
ることによって、言語にひそんでいた否定性を、ついには自分が何のために生まれた
のかさえ忘れてしまうぐらいの極端なレヴェルにまでひっぱりあげてしまおうとす
るのだ。言語は自分のなかに矛盾をかかえこんだ、ほとつの運動なのだ。言葉をしゃべ
るとき、ぼくたちはいつもそこで、自然のプロセスやローカルなものの自立性を操作
するための、政治をおこなっている。
読書カード 7−2 [言語]
ケルビムのぶどう酒
中沢新一
p180
 ニュートンのような科学者が、いっぽうでは錬金術的な宇宙観の持ち主でもあっ
たということはよく知られている。しかし、十七、八世紀までのいわゆる古典主義
時代のオカルティズムと近代的なオカルティズムのあいだには、けっしてひとまと
めにできないちがいが存在していることもたしかなのだ。もちろん古典主義時代の
ヨーロッパにだってたくさんの心霊術師や超能力者がいて、さまざまな驚異にみち
た活動をおこなっていたはずだ。しかし、見えない力をあつかおうとする彼らの活
動そのものが、その時代の文化の「表の顔」を決定するような働きはもっていなか
ったのではないだろうか。古典主義の時代、文化の「表の顔」をかたちづくってい
たのは、じつは強力な「表象」の力だったのである。自然の力も、超自然の力も、
しっかりとした「表象の体系」のなかにおさめられていた。不定型な力がその体系
からあふれだし、社会の表面におどりだすなどという事態がけっしておこらぬよう
に、その時代の「表象の体系」はしっかりと働きつづけていた。だから、そこでは
けっしてオカルト的なるものは、文化のキャンバスから排除されてしまうようなこ
とはなかったのだけれど、つねになんらかの「表象の体系」のなまにおさえこまれ、
奔放な力として活動しだすことをおさえられていたのである。
 自然科学はこの時代、博物学というかたちをとった。自然はひとつの大きな書物
のようなものだったのである。自然にあるものも、あるいは超自然の現象も、つね
になにかの「表象」としてあらわれた。科学者の仕事は、そういう「表象」をうま
く体系づけることのできるインデックスをつくることにほかならなかった。偉大な
合理性に輝く時代だ。合理性とは力を表象化できるという自信にほかならない。こ
ういう知のシステムのなかにも、もちろんオカルト的なものは存在することができ
る。しかし、そこでは、オカルトは力の現象ではなく、なんらかの表象によって捕
獲され、ピンで刺しとめられた百科全書的な知識となっていく。
読書カード 8 [感覚]
アリストテレスから動物園まで
P.B.メダワー/J.S.メダワー
みすず書房
328p
感覚の作用について私たちが知っている全ては感覚的証拠に基づくので生理学的に
バークレー哲学の観念論から救ってくれと訴えても役に立たない。その観念論によれ
ば、外界は私たちが心の中で組み立てる観念のゆえに存在する。私たちはサミュエル・
ジョンソン以上にうまくやることはできない。ジョンソンは自分自身が逆にはねとば
されるほど激しく大きな石をけりながら「私はこのようにこいつを否定するのだ」と
言った。ジョンソンは「このように」と言いながら、ジョージ・バークレーを論駁すると
同時に、サー・アイザック・ニュートンの運動の第三法則(「あらゆる運動には等しい反
作用がある」)を確証してみせた。
[ 表裏一体
石を否定すること=石に否定されること
拒否してやろうとする対象が 石が先に存在して私を拒否するために
まず観念の中に存在する 「拒否される」という感覚が生じる
観念が存在するから外界が存在する 外界が存在するから観念が生じる
バークレーの観念論 ?
実は表裏一体のものだとしてバークレーを論駁 ]
読書カード 9 [感覚]
橋田浩一
視神経と触覚は非常に強い結び付きがあると聞いているんですが、例えば常に「p」と
いう文字を書くという実験がありますね。目をつぶって掌を自分の方に向けた状態で
こうやってなぞられると、これは「p」だとわかる。ところが掌を前に向けて同じように
書かれると、それは「q」だと答えてしまう。額だとどうなるかとか、頭のてっぺんなら
どうなるかとか、背中だとどうなるかとか、そういう話を考えると、どうも触覚と視覚
というのは大脳皮質の上に地理的対応関係を保ったまま結びついているとかいうこ
と以外に、もっと情報のハイレベルの段階で密接な繋がりがあるんじゃないかと。
そういう問題がおそらくほかにも、視覚とか聴覚とか、味覚とか、それから五感のみな
らず問題解決のストラテジーみたいなところまでおそらく深く入り込んで、いろんな
密接な繋がりが出てくるので、単一機能の機械というのは、ひょっとするとそれで打
…ち止めになってしまうことが 。
読書カード 10 [感覚]
視覚の文化
小町谷朝生
p33~34
写真がリアルな描出をするのは、眼と同様に光学的な結像作用をもって、外界の完全
な模像を実現するからである。ところが実はそれには人間の眼の働きと違うところが
ある。イアン・ジェフリーがうまく言い表しているように、写真は「魅力的なまでの脈
絡の無さ」をもって全てを均質に写しとってしまうのである。それに対して人間の眼
の方は見ようとするものを選択して見ているから、その選択性でカメラを誘導しなが
ら使っていく。しかし、それは意識のなかでそう思っているだけで、実際のカメラはき
わめて公平に対象の全てにわたって<なめて>しまっているわけである。その断絶がカ
メラを使う魅力になっていることだろう。
自然的現実とは、一体この脈絡の無さが持ち味であって、脈絡があるように見るのは
人間の側の仕事である。写真的リアリティの本質とは、このように視行為の文脈から
離れている対象を突然ポンと突きつけるところにあるだろう。写真に写された対象を
あたかも目の前にしているように、写真の鑑賞者は視的文脈を自分でつくりあげる。
つまり、自然的現実に対する疑似行為をするわけである。
読書カード 11 [言語]
完全言語の探求
U.エーコ
平凡社 1995
p50~51
しかしながら、自然言語の働きは、たんに統辞論と意味論にもづいているだけではな
い。それは語用論```にももとづいている。すなわち、記号を発信するさいの状況とコン
テクストを考慮した使用規則にもとづいている。そして、この使用規則こそが言語の
レトリカルな使用の可能性を成立させるのである。しかも、レトリカルな使用によっ
てはじめて、単語や統辞論的構成物は多様な意味を獲得することができるのである
(たとえば隠喩がそうである)。
実際には言葉による言語はあらゆるものを言表できるわけではないので(バーベナと
ローズマリーの香りのちがいを言葉にあらわそうとしてみればよい)
読書カード 13 [言語]
言葉と物
ミシェル・フーコー
渡辺一民・佐々木明訳
1974 新潮社
p102
 古典主義時代における言語ランガージュの実在は、至上であると同時に、目だた
ないものである。 至上のものであるというのは、語が「思考を表象する任務と能
力をあたえられたからだ。だが、表象するとは、この場合、翻訳すること、可視的
なかたちに訳出すること、思考を身体の外側において正確に再現しうるような物質
的複製をつくること、を指すのではない。
[中略]
古典主義時代においては、表象にあたえられないものは何ひとつとしてあたえられ
ぬ。
[中略]
表象は世界に根をおろしてそこから自己の意味を借りうけるのではない。
[中略]
それは[古典主義時代の言語は]思考の外的な結果ではなく、思考それ自体にほか
ならない。
p117
三 動詞の理論
命題を分解するやいなや、もはやそこに言説はなく、ただばらばらの素材としての
要素があるだけだからだ。命題以下のところにはたしかに語が見いだされるが、言
語が言語となるのは語のうちにおいてではない。
p136
語形の変様には規則がない。それはほとんど何らの限定もうけず、またけっして安定
しないものである。その原因はすべて外部にある。つまり、発音の容易さ、流行、習慣、
風土−寒さは「唇で吹く音」を、暑さは「喉の気音」を助長するーといったものだ。
これに対して意味の変化は、−絶対的に確実とはいわぬまでもすくなくとも「蓋然的
な」語源学を可能にする程度には制限されたものである以上ーそれと示しうるいく
つかの原理にもとづいている。諸言語の内的歴史を醸成するこれらの原理は、いず
れも空間的なものである。あるものは物と物との目に見える類似や隣接関係にかか
わり、他のものは、言語が蓄積される場所とそれが保存される形態にかかわってい
る。つまり、比喩形象と文字表記に関連するわけだ。
 文字表記には、語の意味をあらわすものと、音を分析して復元するものとの、二
つのタイプが知られている。ある種の民族においてまったくの「天才的思いつき」
から後者が前者の地位を奪ったと考えるにせよ、あるいは、両者がほとんど同時に、
前者は絵を描く民族によって、後者は歌う民族によって(二種類の文字表記はそれ
ほど異質なものなのだ)生みだされたと考えるにせよ、両者のあいだに厳密な分割
線が引かれることにかわりはない。語の意味を図示的に表象することは、起源にお
いては、語の指示する物を正確に描くことである。実をいえば、それはほとんど文
字表記とはいえぬ絵画的模写んすぎず、きわめて具体的な物語以外まず書きうつす
ことはできない。
[中略]
まことの文字表記がはじまるのは、人々が、物それ自体ではなく、それを構成する
要素のひとつ、物がしばしばおかれる状況のひとつ、あるいはまたその物と類似し
た何かべつの物を、表象しはじめるときにほかならない。そこから三種類の技法が
生じる。すなわち、まずもっとも素朴なものとして、「主題に付随する主要な状況
をもって全体のかわりとする」(弓で戦いを、梯子で都市の攻囲をあらわす)エジ
プト人の提喩的象形文字。つぎに、やや進んだものとして、とくに注目すべき状況
を利用する「譬喩的」象形文字(神は全能であるから、すべてを知り、人間を監視
することができる。それゆえ神は眼で表象される)。最後におおかれすくなかれ隠
された類似を利用する象徴文字(昇りつつある太陽は、まるい眼がちょうど水面す
れすれのところにある鰐の頭で象られる)。ここには修辞学における三つの大きな
比喩形象、すなわち、提喩、換喩、濫喩が認められる。そして、象徴的な文字表記
で裏うちされたこれらの言語が発展しうるのは、まさにこれらの比喩形象が規定す
る脈網に沿ってなのだ。言語はしだいに詩的な力をおび、最初の命名がながい隠喩
の出発点となる。隠喩はしだいに複雑となって、やがて、起点となったものを見い
だすことが困難なほどそれから遠ざかる。こうして、太陽が鰐であり、神が世界を
監視する眼であるという迷信が生れ、同様に隠喩を代々つたえる人々(僧侶)のあ
いだに秘教的な知が誕生する。さらに、言説の寓意(もっとも古い文学にあれほど
しばしば見られる)が、そして、知とは類似を認識することだという錯覚が、生れ
るのである。
 しかし、象形文字をもつ言語の歴史はまもなく停止する。そこにはほとんど進歩
の余地がないからだ。記号の数を増すきっかけとなるのが、表象の細心な分析では
なくきわめてかすかな類比関係であるから、助成されるのは民族の反省というより
想像力である。つまり学問ではなく、軽信なのだ。そのうえ、知識を得るには、ま
ず語(これはどの言語の場合でも同じである)、ついで語の発音とは無関係な符号
という、二つのものを習得しなければならない。人生はこの二重の学習にとって長
すぎるとはいえまい。そればかりか、たとえそのうえに何らかの発見をする余裕があ
ったとしても、それを伝達する記号がない。逆にまた、むかしから伝えられてきた記号
は、それが象っている語と内在的な関係をもたぬため、つねに信頼のおけぬものでし
かない。時代から時代へと、おなじ音がおなじ形象に宿っているという確信はけっし
て持ちえないのだ。こうして、創意は不可能となり、伝統は危険にさらされる。だから、
祖先からうけついだ知識の光とその遺産を保存する諸制度にたいして、ただ「盲目的
尊敬」を抱きつづけることが、学者たちの唯一の関心事となる。「彼らは、風習のどのよ
うな変化も言語の変化をもたらし、言語のどのような変化も彼らの学問を混乱させ台
なしにしてしまうと感じている。」ある民族が象形文字しかもたぬ場合、その民族の政
治は、歴史を拒否するもの、すくなくとも過去の純然たる保存でないようなすべての
歴史を拒否するものとなるにちがいない。ヴォルネによれば、東方と西欧との本質的
相違は、まさに空間と言語のこの関係のうちに位置している。それはあたかも、言語の
空間的配置が時間の法則を指定するかのようであり、言語が歴史をつうじて人々に伝
えられるのではなく、逆に人々が彼らの記号体系をつうじてしか歴史に到達できない
かのようなのだ。表象、語、空間(語は表象の空間を表象し、また時間のなかで表象され
る)のこの結び目のなかでこそ、諸民族の運命が沈黙のうちに形成されるのである。
じじつ、アルファベットをもつ場合、人間の歴史は一変する。人々は観念ではなく音
を空間に書きうつすのであって、種
読書カード 14 [言語]
構造人類学
クロード・レヴィ=ストロース
荒川幾男他共訳
みすず書房1972
p63
第一に、ほとんどすべての言語活動は無意識的思考のレヴェルに位置している。わ
れわれが話すとき、われわれは言語の統辞論的・形態論的な法則を意識しない。そ
の上、われわれは、言葉の意味を区別するのにじぶんが用いている音素を、意識的
には認識していない。
p64
言語は、観察者から独立し、しかも統計的資料の長い系列が存在するような社会現
象である。
p76
未開の名で呼ばれる文明の多くでは、言語の使い惜しみともいうべきものが見られ
ます。そこでは、人はいつでも喋り、何についても喋るというのではありません。
言葉による表現は、しばしば、定められた場合だけに限られており、それ以外のと
きには人は言葉を節約するのです。
p103
私の考え方を単純化していえば、言語記号はア・プリオリには恣意的だが、ア・ポ
ステリオリには恣意的ではない。
p105
われわれが語彙を、ア・ポステリオリに、つまりすでに出来あがったものとして考
える場合、語はその恣意性の多くを失う。なぜなら、われわれが語に与える意味は、
もはや約束ごとだけによるものではなくなるからである。それは、問題の語が属す
る意味分野をそれぞれの国語がいかに裁断するかに左右され、近接した意味を表す
他の語が存在するかどうかで決定される。
読書カード 15[言語]
隠喩としての建築
柄谷行人
講談社
1983
p9
幾何学が諸科学の基礎であり、幾何学的な記述が厳密なものと思われたのは、それ
” ”がもはや 自然 に負うことのない建築性をもつと思われたからである。
F・M・コーンフォードは、ギリシャの思想家をほぼ二つに分けている。一つは、
進化論的なもので、世界は生命のように生まれ成長するという見方[ ]であり、
もうひとつは、創造説的なもので、世界は芸術作品のようにデザインされていると
いう見方[ ]である(『書かれざる哲学』)。
p20
ヴァレリーはいっている。
 私はこの拾い物(貝殻)を生まれて初めて眺める。
[中略]
 いったい誰がこれを作ったのか、と素朴な精神は私に問う。私の精神の最初の動
きは作るということに思いをいたすことであった。
 作るという観念は、最初の、そして最も人間的な観念である。「説明する」とい
うことは、作る一つの方法を述べること以外のなにものでもない。すなわち、それ
は思考によって作りなおすことにほかならないのである。この観念の要求するもの
にほかならぬ、なぜ及びいかにしてという問いは、ことごとに割りこんできて、何
をおいてもこれに満足な答えを与えよと命ずるのだ。形而上学と科学のなすところ
はこの要求を無際限に発展させること以外のものではない。(「人と貝殻」) だ
が、この問いに「答えて」はならない。「誰が作ったのか」という問いは、作ると
いう視点が必然的に要請するみせかけの問いだからである。[たとえば、ヘーゲル
にとって、あるものを知るということは、それを知覚したり概念と結びつけたりす
ることではなくて、それを思考によって作りなおすことにほかならなかった。
[中略]
科学は科学=建築への意志そのものを、その危機的な反復を意識しないからだ。
[中略]
 たとえば、マルクスはいっている。≪人間は自分自身の歴史を作る。だが、思う
ままにではない。自分の選んだ環境のもとでではなくて、すぐ目の前にある、あた
えられ、もちこされてきた環境のもとで作るのである≫(『ブリュメール十八
日』)。
[中略]
たとえば、ここで、誰が「環境」を作ったのかと問うてみよう。「環境」は、「貝殻」と同じ
く、その意図・目的・主体がわからないのだ。マルクスはヘーゲルにおける「構造」(建築)
が、そのつど多様な過剰な偶然的な何かに先行されていることを指摘している。
[中略]
 歴史的に考えるということは、歴史主義的に考えることではなく、ある構造ある
いはある建築が自立したものではなく、それがつねに任意の選択にほかならないこ
とをみることなのだ。その意味で、ニーチェは徹底的に歴史的であった。
[この部分は非常に示唆に富む。発生学、比較解剖学が、他の現代生物学と比べて、
その研究手段において異なるニュアンスを放つのは、進化の過程が、歴史的すなわ
ち、任意の選択であり、この過程に構造をもちこんで説明する=思考によって作り
なおすのはナンセンスであって、過程そのものをトレースすることが唯一の手段で
あるからだろう。]
p24
論理学でいうトートロジー、すなわち、命題間の関係がつねに妥当するように結び
つけられた命題[中略]
科学が数学に基礎づけられるということは、たんに狭義の数学的表現をとることで
はなく、ものごとの「説明」をするのにトートロジーに訴えるということである。
 グレゴリー・ベイトソンは、記述と説明を区別する。記述は、諸現象に内在する
すべての事実をふくむが、それらの現象にそれらをより理解させるようないかなる
種類の関係をも示さない。
[中略]
科学は、これら二つのタイプのデータの組織(記述と説明)を、トートロジーによ
って結びつける。科学における「説明」は、記述の諸片をトートロジーによって説明し
なおすことである。≪説明は、したがって、諸結合の妥当性をできるだけよく保証
しその結果が自明にみえるようなトートロジーを建築することに存する。[中略]
≫(「精神と自然」)。
「説明するということは思考において作ることだ」とヴァレリーはいったが、いい
かえれば「思考において作る」ということは、トートロジーを建築するということ
である。
[中略]
コンシステント(無矛盾的)であろうとする「建築への意志」は、それ自体背理を
露呈してしまうほかないのだが、それを嘲笑することはできない。人間が作ったも
” ”のと 自然 が作ったものはどうちがうのかというヴァレリーの問いは、「建築への意
志」が極限に見出す背理にかかわっている。
p30
[中略]ツリーは、複雑なものをユニットに分割する単純で明晰な方法を与えてく
れるので、われわれは、自然の構造がつねにセミ・ラティスであるにもかかわらず、
それをツリーに還元する傾向がある。[中略]ちなみにウンベルト・エーコによる
建築の記号論は、完全にツリーである(「記号論」)。
p32
 われわれは、この考えを、自然言語や神話に適応できるだろう。実際に、ヤーコ
ブソンやレヴィ=ストロースが考えたことは、ツリー的思考からみれば混乱でしか
ないものが、実はセミ・ラティスであり、オーダリーであるということにほかなら
ない。西洋的な思考はツリー的であって、自然的なものの構造をつねにツリーに還
元し明瞭化(分節化)してきたということができる。ヘーゲルの弁証法はツリーで
あり、また進化論は文字通り系統樹にもとづいている。それゆえに、構造主義がそ
れらに対する根本的な批判としてあらわれたことが理解できるだろう。しかし、そ
こにさらに問題がある。
[中略]
アレグザンダーの視点の新しさは、多くの点で構造主義と共通する−前者は集合の順
序的構造に注目し、後者は集合の代数的(群論的)構造に注目している。−けれども、
われわれの文脈でいえば、それは「自然が作ったもの」を「思考によって作りなお
す」ことにほかならない。そして、そこには、多様なものをめざしているかにみえ
て、それに対する根本的な敵意がある。
[中略]
ソシュールがアナグラムの問題にこだわったのは、テクストが思考によって作られ
た「構造」以外の構造を不可避的にもってしまうという直観からだといってよい。
ヤーコブソンは、それを逆に言語学的に未成熟なものとして見、ソシュールが乱雑
な諸関係として放置した音韻組織を、二項対立の束としてとらえることによって秩
序化できると考えたのである。
[中略]
とにかく、適当にいくつかの分類基準を選べば、対象がどんなものであっても−音韻
であろうと神話であろうと−、数学的には同じ構造に到達する。一定の構造を前もっ
て想定すれば、どんなんものでもそこに変形できるだろうが、その構造はすでに
「人工的なもの」であり、何か過剰なものを排除することにおいて成立している。
[中略]
 数学的構造は正確な枠組みと、便利な演算の手段を提供するが、しかし、人はわ
れわれが今学んだ構造について、その語彙とその「シンタクス」の乏しさにおどろ
かされるであろう。自然言語のシンタクスの複雑さは、人間の諸科学の構造の豊か
さと、数学者の構造の一般的な乏しさとの対照を示す極端な場合である。この対比
から、数学的モデルのきわめて大きな有効性は、それが適用される現象を、人間科
学のなかでまれにしか遭遇しないような単純さに還元するという犠牲をはらって得
られているのだという事実が明らかになる。[中略](マルク・バルビュ「数学に
おける≪構造≫という言葉の意味について」伊藤俊太郎訳)
p36
 たとえば、ヤーコブソンはこういっている。≪音響学の領域における現代の専門
家たちは、どうして人間の耳が、これほど数多くの、知覚できないほど多様な言語
音を難なく区別するのかと不審に思い、当惑している。だが、この場合、本当に問
題なのは、純粋に聴覚的能力であろうか?いや、完全にそうではない!われわれが
ディスクールのなかに認めるのは、音そのものの差異ではなく、言語が利用する慣
用上の差異である。つまり、固有の表意作用はもたないが、上位のレベルの実在体
(形態素・語)を互いに判別するのに用いられる差異である≫(「音と意味につい
ての六章」)。
 つまり音素は、上位のレベルを前提したときに差異性としてはじめて存在するも
のであり、形態素や語も、さらに文も、それぞれ上位のレベルを前提するときにの
み差異性としてとりだされるのである。ソシュール自身、「ラングは実在体ではなく、
ただ語る主体のなかにしか存在しない」といっている。記号はなんらかの意味をあら
わすという伝統的な考え方を、ソシュールはしりぞけている。「話す主体」にとって意
味があるときには、必ずその意味を弁別する形式があるが、その逆はなりたたないか
らだ。外在的な記号の種類がもはや問題なのではなく、記号を記号たらしめるものが
問題となるのはそのためでああって、ソシュールはそれを差異性にみいだすのであ
る。
[中略]
いいかえれば、ラングの言語学は、「話す主体」の意識からはじめる現象学的な還
元において成立するのであって、[中略]結局現象学的なコギトあるいは現在に閉
じこめられており、その構造はつねに上位を前提する目的論的なものである。
p38
 厳密にはまだその数もわかっていない数千の諸言語−なぜかくも多様なのかは問わ
れない−をべつに調べたわけでもないのに、ヤーコブソンが、「どんな特定言語」も
「二元的対立に完全に解離される」と断定するのはなぜか?一つには、この操作が
数学的だからであり、さらに、彼がひそかに情報理論を前提しているからである。
チョムスキーの普遍文法の場合はなおさらそうである。しかし、こうした独断(ス
ペキュレーション)を支えているのは、けっして理論ではない。
[中略]
” ”「構造主義」とは、経験的な多様性に対する 嫌悪 以外のなにものでもないからであ
る。
[中略]
レヴィ=ストロースにおける構造主義は「建築への意志」そのものである。実際に、
それはサイバネティックスの創始者ノーバート・ウィーナーが率直にいうように、
「信仰」とよばれるべきものである。≪科学における信仰の必要について私がのべ
たことは、純粋に因果的な世界や、確率が支配する世界にもひとしくあてはまる。
純粋に客観的な個々の観察をいくら大量にあつめても、確率という概念が正当であ
ることを証明することはできない。いいかえれば、論理学における帰納法の法則は、
演繹によって樹立されることはできない。帰納的論理、すなわちいいかえればベー
コンの論理は、われわれが証明しうる種類のものではなく、われわれが行動の土台
にしうる種類のものであり、それに基づいて行動するということは、信仰の最高の
表明である≫
読書カード 16[言語]
宗教から哲学へ ヨーロッパ的思惟の起源の研究
F・M・コーンフォード著
廣川洋一訳
東海大学出版会
1987
p2
哲学において明確な定義と明白な陳述に到達する思考のもろもろの様式は、すでに神
話の非合理的直感の中に内在していました。
p159
私たちの結論は、彼らがピュシスと呼び、世界がそれから生じてきた究極の生きた素
材として考えた表現が宗教そのものよりも確かにもっと古く、呪術の時期にまでさか
のぼって跡づけられうるということでした。
[中略]
ここにおいて「自己自身ではないあるもの」についての最初の概念が形づくられるこ
とになります。
p178
自然の構成について表現を為すことはそれに対して支配力をもつことです。事物を分
類することはそれらを名づけることであり、事物の名、あるいは一群の事物の名はそ
の魂です。それらの名前を知ることはそれらの魂を支配することなのです。集団精神
の巨大な産物たる言語は真実体の構造全体についての写しすなわち影魂(シャドウ・
ソウル)です。言語は、人間的なものであれ超人間的なものであれ、いかなるものもそ
の範囲におさまらないものはないのですから、人間の力の最も効果的で最も包括的な
道具です。言葉はロゴスです。そしてこれは、神話が祭儀上の動作に対してもつのと全
く同じ関係を宇宙に対してもっています。それは真なるものの全海面を描く海図なの
です。
初期の科学は、原因と結果の相関の法則よりもむしろ世界についての知的な表現つ
まり説明(ロゴス)-ミュートスに代わってロゴスを追求しています。
初期の科学は説明的表現と発生過程の間に常に明確な区別を設けているとは限りま
せん。初期の科学は、世界を細かく分解するそれ独自の分析という手続きを、世界
の最初の生成を仮定する手続きへと安易に逆転させて、宇宙生成論コスモゴニイと
宇宙論コスモロジイの間を揺れ動いています。こうして、初期の科学がどのように
して宇宙が存在するようになったかを記述しているように思われるときでさえも、
それの関心はじっさいには現在みられるままの世界を分析すること−その原因論的ロ
ゴスにあるのです。それは、現代科学のうちに顕著となっている因果関係の時間的
問題よりもむしろ構造、配置、秩序の静的な相に主眼を置いています。
読書カード 17[言語]
偶然と必然
J・モノー
みすず書房
1972
p115
西欧哲学は、約三千年前にイオニア諸島で誕生して以来ずっと、お互いに反対な二
つの態度に分裂しているように見える。そのうちの一方によれば、宇宙のほんとう
のしかも最終的な実在は、全然変化することのない、本質的に不変な形状のなかに
しかないという。これに反して、もう一方の哲学によれば、運動と進化のうちにこ
そ宇宙のただひとつの実在があるという。
読書カード 18[言語]
ソクラテス以前以後
F・M・コーンフォード著
山田道夫訳
岩波文庫
1932
p13
 われわれはこの話から、ソクラテスが失望したのはなぜかを推察することができ
る。この早い時期の自然学においては、ある物理的な事象が(いわば)ばらばらに
分解されて、それに先行するかあるいはそれを構成している他の物理的事象によっ
て記述されるなら、それで「説明される」ことになるのだと想定された。そのよう
な説明はその事象がどのようにして生起したかということにより詳細な描像を提供
する。しかしそれはなぜ生起したかをわれわれに教えはしない、とソクラテスは考
えた。ソクラテスが求めていた種類の原因説明は「なぜ」という問いへの理由づけ
だった。
p19
 この時代をわたしは「自然の発見」という言葉で語った。だがこれは説明を要す
る言葉だ。わたしが言おうとするのは、われわれの感官がそれについての何らかの
知識を提供するところの外的世界の全体は自然的なものだということ、すなわちあ
る部分は自然的で、ある部分は超自然的だというのではなくて、すべてが自然のも
のだということの発見だ。この宇宙はひとつの自然的全体であり、それ自体として
の不変なありかたをもっている、すなわち人間の理性によって認識されうるが、し
かし実際行動による支配は及ばぬようなありかたを有していることが理解されると
き、科学は始まる。
 こういう視点への到達は大変な到達だといえる。それがどれほど大きな達成なの
か測定したいちいうのであれば、そこに至るまでの科学以前の時代の諸特徴をいく
つか振り返って眺めておかなければならない。それは、(一)外的事象からの自己
の切り離し、すなわち対象の発見ということ、(二)知性はその対象への対処のた
めに必要な、さまざまの実際的行動にもっぱらかかずらわっているということ、
(三)その対処されるべき対象の内部あるいは外部に存在する、目には見えない超
自然的な諸力への信念ということである。
 (一)第一点、すなわち対象からの自己の切り離しについて言えば、もし個体が
いまもなお種の歴史を集約的に反復しているのだとすると、われわれはいまこの点
において、人類の進化のきわめて遠い昔にさかのぼるある事柄に関わっている。人
間の赤ん坊が独我論者であって、自分の周囲の世界を自分自身の一部であると思い
込んでいるのは、その生涯の最初の数週間にすぎない。この嬰児の哲学はすぐに懐
疑によって動揺させられる。何かが変だ。おなかが空いても、食物はそれに応えて
ただちに補給されないじゃないか。赤ん坊は怒りと困惑で泣き叫ぶ。かれは、まわ
りの世界に自分の望みどおりのふるまいをさせようと努力しなければならない。独
我論の夢はすぐに粉砕される。
 一カ月かそこいらで、かれは自分自身の外部に他の事物が存在し、それらを相手
にお上手を言ったり罠にかけたりしなければならないことに気付くだろう。[中
略]自己と外的世界とのあいだに亀裂が拡がり始めたのである。
 外的対象が独立に存在していることへのこの発生期の信念が常識哲学の基礎であ
って、嬰児はみずからの未熟な独我論の破綻によってこれを強制される。人類の発
展においては、自己の外にさまざまな事物が存在することの発見は、すでに述べた
ように、はるか遠く溯った時期に位置しなければならない。しかし、この発見をな
すことと、それら外的対象がそれら自身の、人間本性とは異なる本性をもっていて、
人間の情念や欲求に対して共感も敵意も抱きはしないという観念に達することとは
まったく別の事柄である。[この記述は非常に示唆に富んでいる]自己と対象とを
分ける境界線が、科学が引くのと同じ場所に引かれて、対象が完全に切り離される
までには、じつに長い時間が過ぎ行かねばならない。
 (二)なぜそうかというと、それは知性がこの長い期間にわたって行動上の関心
に没頭しつづけ、利害を離れた思索のための閑暇を持たないからである。このこと
が科学以前の時代の二つめの特徴だ。
 一般に高等動物においてそうであるように、人間においても、理知的能力の最初
の行使は、ただちには為し遂げられない実際的目的を達成するための手段を考案す
ることである。猿にバナナを差し出せば、猿はそれを取ってすぐに食べ始める。そ
こには何の考慮も要らない。しかし手の届かないところにバナナを吊るしておけば、
行動は保留される。横槍を入れられた欲求の充足を助けるために知性が召喚されね
ばならない。行動が回復される前に休止があるのである。休止後になされる行動を
観察すれば、その休止の時間には原初的な一連の推理があったと考えられる。猿は
つぎのような考慮をなしたものと想像されよう。「どうやってあのバナナを手に入
れたらよいのだろう。ここにいくつかの箱がある。これを積んで上に登ったらあれ
に手が届くだろう」というようなものである。
 むろん猿の頭のなかで実際に何が起こったのかはわれわれにはわからない。けれ
ども人間が行動へのおもいがけない障壁をのり越えるために知性を用いたというこ
と、そしてありとあらゆる種類の道具や器具を考案するによって、みずからの自然
的能力を自然的な手段を用いて拡張してきたのであり、そしていまも拡張しつつあ
るということは、われわれにははっきりわかっている。かくして知性はいついかな
る時も行為の諸目的のために奉仕する。そしてそれは最初はただもっぱらそのよう
な目的にのみ仕えたというのがわれわれの推測である。
 何らかの実際目的に転用されるがゆえに注意をひく事物にだけ知性が限局されて
いるというのは、いまでも未開人種に特徴的に見られることだ。[中略]わたしは
しばしばかれらが自分たちにとって重要な若干の対象だけを切り取り、それ以外の
ものは単なる背景として扱う傾向があることに気付いて印象深く思った。[中略]
(三)さてそこで、当初、思考のおよぶ範囲は差し迫った行動上の必要によって限
界づけられていた。外的事物は人間の活動の内部に参入する度合いに応じて、選択
的に注意を引いた。それらはそれら自体のありかたゆえに興味深いのではなくて、
われわれが何らかの関与をなしうる事物として、あるいはわれわれに働きかけるこ
とのできる事物として興味深かったのである。では、このふたつめの能力の点で、
すなわちわれわれに働きかけるものとして、それらの事物を考察してみることにし
よう。
 バナナを取ろうとする欲求に横槍を入れられて行動休止中のあの猿にもどってみ
る。行動がおあずけを食った休止期間中に、猿は事物がなにかそれ自身の対抗意志
によって自分の欲求に反対しているという感じをもつだろうと想像できよう。これ
はかれが自分の兄弟猿たちを相手にする場合におよく経験することだ。打ち負かさ
なければならない抵抗、かれ自身の力によって巧みに屈服させるべき力が存在する。
そして目的を達成するには箱が助けになるだろうということに気付くとき、猿は世
界が全面的に自分に対して敵対的ではないのを感ずる。かれの願いに共感し、推し
進めてくれる好意的な事物もまた存在するのである。
 こういう好意や悪意、行動を促進したり妨害したりするこのような目に見えない
力が、人格性の断片的要素である。それは人間が考慮ということをし始めた時に、
そこから超自然的世界をつくりあげる元になった原材料である。
[中略]
 これらの断片的な人格性の要素ははじめはたんに事物のうちにそなわっているだ
けである。ある意味ではそれらは人間の自我から対象のなかに投射されたものだと
も言えよう。しかしそれらを何か意識的な理論の所産だと考えてはならない。未開
人が国勢調査の用紙に自分の宗教を「アニミズム」、あるいは「前アニミズム」と
さえ記入したなどとはとても考えられない。
 有益もしくは有害な事物が人を助けたり害したりする意志をもっているという想
定が無反省のうちになされるのは、子供が指をはさんで扉をけっとばしたり、ゴル
ファーがスライス・ボールを打ってクラブに八つ当たりするのと同じだ。そのよう
な人がもし論理的なら、試合開始前に自分のクラブに祈るだろう。あるいは真っ直
ぐ当たってくれますようにと、クラブをなだめすかすまじないを呟くことだろう。
こういう投射された人格的要素が呪術の本来の対象だからである。そのふるまいが
規則的で計算可能なものではないという意味で、それらは超自然的である。それら
がどんな行動をとるのか、炎に触れたら火傷するだろうことが確かなようには、確
かな予測はつかない。呪術というのはこういう超自然的な力を一定の制御のもとに
もたらすための術策の全集成を含んでいる。そしてそれらが統御されるべきなら、
それらの本性と習性について知っていればいるほど良い。
 この要求を超自然的なものの系譜を作りあげることによって満たし、そして見え
ざる諸力をもっと明確な形姿のうちに固定し、より具体的な実質を付与するという
効果をもつのが神話である。諸力は最初に宿っていた事物から引き離され、完全な
人姿へと拡充される。そのように呪術と神話は、未知なるものの広大な外域を占有
して、通常の事実的知識の小さな領野を取り囲んでいる。超自然的なものは自然的
なものの内部にも外部にも至るところに存在している。そしてこの超自然的なもの
の知識を人がみずから所有していると思う場合、それは普通の直接的経験から引き
出されるものではないから、別のもっと高次の知識であるように思われる。それは
啓示であって、霊感を受けた人、あるいは(ギリシア人の言い方だと)「神的」な
人−呪術師や祭司や詩人や予言者−だけが近付くことを許される。
 さてギリシアにおける科学の誕生は、この経験と啓示という知識の二系列間の区
別、およびそれらに対応する二系列の存在、すなわち自然的存在と超自然的存在と
の間の区別を暗黙のうちに否定することにおいて画然と示される。
読書カード 19[言語]
ホワイトヘッド著作集第6巻
科学と近代世界
A・N・ホワイトヘッド
上田泰治 村上至孝 訳
松籟社1981
p3
 近代人の精神に加えられたこの新しい色合とは、一般原理と、原理にまで還元し
難い頑固な事実との関係に対して寄せられる、この上もなく熱烈な興味である。全
世界にわたりあらゆる時代をつうじて、「原理にまで還元し難い頑固な事実」に魂
を打ちこんでいる実地の人というものがあった。また全世界にわたりあらゆる時代
をつうじて、一般原理を織りなすことに魂を打ちこんでいる哲学的傾向の人があっ
た。細かな事実に対する熱烈な興味と、抽象的概括に対する等しく熱烈な愛情との
結合こそ、現代社会の新しさをかたちづくるものである。
p5
 まず第一に、広く人びちの間に、事物の秩序、特に自然の秩序の存在に対する本
能的確信がなければ、生きた科学はありえない。
p8
だが実際のところギリシア人は、科学運動の土台を築いたけれども、近代ヨーロッ
パが示したような集中した興味をもって運動を持続させはしなかった。
p9
地中海の東岸地方に自然についての観想に深い興味を寄せていた、イオニアを舞台
とする哲学者たちの学派が非常に栄えていた。彼らの観念は、プラトンおよびアリ
ストテレスの天才によって豊かにされて、われわれに伝えられてきている。しかし
アリストテレスを除けば、−彼は大きな例外をなしている、−ギリシアの思想家たち
は完全な科学的精神には到達していなかった。[中略]どこまでも普遍性を突きと
めようとする考えが彼らの頭に浸みわたっていた。[中略]だがそれはわれわれの
理解している意味での科学ではなかった。辛抱強い綿密な観察はそれほどめだって
行われなかった。彼らの天才は、帰納法による概括に成功する前に必要な、想像の
暗中模索状態には適していなかった。彼らは明晰な思索と透徹した推理とを行うひ
とであった。
p10
ギリシア人の自然観、少なくとも彼らから後代に伝えられたあの宇宙観は、本質に
おいて演劇的なものであった。そうだからといって必ずしも誤っているわけではな
いが、いちじるしく演劇的であった。したがって自然というものは、劇の進行に見
られるように、その各部分が、それぞれ一般観念を例証しながら最後の目標に結集
していくように、結びつけられたもの、と考えられた。自然はあらゆる事物にそれ
ぞれ固有な目標を与えるように分化させられた。重いものには運動の目標として宇
宙の中心があり、その本性上、上昇するものには運動目標としてそれぞれの天球が
あった。天球は生成もしなければ消滅もしないもののためにあり、下層の領域は生
成もすれば消滅もするもののためにあった。自然はおのおのの事物が一役演ずるひ
とつの劇であったのである。
読書カード20[言語]
アポロの杯
三島有紀夫
新潮文庫
昭和57年
所収
存在しないものの美学−「新古今集」珍解
p222
新古今の叙景歌には、風景という「物」は何もない。確乎とした手にふれる対象は
何もない。言語は必ず、対象を滅却させるように、外部世界を融解させるように
「現実」を腐蝕するようにしか働かないのである。それなら、心理や感情がよく描
かれているかというと、そんなものを描くことは目的の外にあったし、そんなもの
の科学的に正確な記述などには詩の使命はなかった。それならこれらの叙景歌はど
こに位置するか。それは人間の内部世界と外部世界の堺目のところに、あやうく浮
遊し漂っているというほかはない。それは心象を映す鏡としての風景であり、風景
を映す鏡としての心象ではあるけれど、何ら風景自体、心象自体ではないのである。
それならそういう異様に冷たい美的構図の本質は何だろうかと云えば、言葉でしか
ない。但し、抽象能力も捨て、肉感的な叫びも捨てたその言葉、これらの純粋言語
の中には、人間の魂の一等明晰な形式があらわれていると、彼らは信じていたにち
がいない。
読書カード21[言語]
漱石をよむ
岩波セミナーブックス48
1994
第一講 漱石の作品世界
柄谷行人著
p17
三人称客観小説は、そのあとに出現します。そこでは、旧来の小説のように三人称
で書かれながら、語り手が消えている。したがって、主人公には知りえないことが
書かれているのに、読者は、主人公=「彼」の中に直に入り込めるような気がしま
す。いうまでもなく、これは近代小説の装置なのです。それに慣れてしまいますと
当たり前になりますけれども、人工的な装置です。
 たとえば映画でも、一つのショットと次のショットが非連続であるにもかかわら
ず、そこに何らかのつながりや因果を読みとります。しかし、映画ができた当初は、
観客にはそれは理解できないものでした。映画を見慣れているうちに、そういう映
像の文法のようなものを習得してきたわけです。近代小説も同様で、それに慣れる
と、それが新しい装置だということを忘れてしまいます。ごく自然に見えるのです。
[中略]
p20
 近代小説の特質としての三人称客観描写ということにかんして、もう一つ言って
おくことがあります。それは三人称客観描写では、語尾が必ず「た」で終るという
ことです。それはフランス語でなら単純過去ですが、日本語には本質的には過去形
というのはないわけで、文末に過去を指示する文末詞をつけます。旧来の文語では、
それがさまざまにありました。「つ」とか「ぬ」とか「けり」のように。それらは、
それぞれ意味合いが違います。西洋文法でいえば、完了形にあたるものとか、また、
「けり」のように伝聞を意味するものもあります。それが言文一致において「た」
に統一された。これは、実は、言文一致の小説においては、フランス語の単純過去
に対応するものです。この「た」によって、全体を回想できるような超越的視点が
確保されるのです。三人称客観描写では、語り手が消えると言いましたが、それは
このような「た」によって可能になるのです。
 それに対して、写生文というのは、ほとんどが現在形なんですね。「た」という
のを使う場合もないわけではない。しかし、基本的には常に現在なんです。現在進
行形といってもいいですけど、英語の進行形じゃなくて、たえず現在として事態が
あるということです。内容が過去のことでも、それはたえず現在として書かれてい
ます。けっして終りから回想するというかたちで書かれていない。
読書カード22[言語]
係り結びの研究
大野晋
岩波書店
1993
p336
 日本語の文は、英語・ドイツ語などのような「主語−述語」という基本的構造があ
るものと考えると、適切な把握はできない。日本語の文には、実は基本的に二つの
型がある。一つはあらかじめ題目語あるいは条件を立てて、それについての説明を
その下に加えるという(「我は忘れず」のような)型である。いま一つは、前もっ
て題目を設定することなしに、生起する現象をいきなり描写し、記述するという
(「萩の花咲けり」のような)型である。題目語は主格でも目的格でも補格でも差
支えない(「妹は忘らじ」(書紀歌謡五)の場合、文脈から見て「妹」は目的格で
ある)。つまり題目は格にはかかわらないという基本的性格をもっている。この点
が英語・ドイツ語などと根本的に相違する点の一つである。ここにいう、題目を立
てるということは話の場を設定するともいえるのだが、その役目を、ハ・モ・コソ
という係助詞が担っていた。
読書カード23[言語]
比較神話学の展望
松原孝俊 松村一男編
青土社
1995
p9
人間以外の生物はすべて、生まれつきもっている本性に完全に従って、自然な生き
方をしているから、本能のままにしている行動の意味や理由を説明し、自分たちに
納得させる必要がない。それと違って人間のしている文化的な営みは、本能にその
まま従ったものではなく、自然から明らかに逸脱している。だから人間は、それぞ
れの文化の中で形づくられている。どれも反自然的な制度や習俗などが、なぜ必要
で尊ばれまもられねばならぬかを説明する神話をもたずには、文化を維持していく
ことができない。
p277
これにより、まず起源を明らかににし、ついで起源からの進化の過程を明らかにす
ることで、事物の本質が解明されるという十九世紀の学問のスタイルが確立するの
である。
 もちろんこれはキリスト教の世界観、自然観、人間観に大きな影響を与えた。ミ
ューラーはこの適者生存の理論を受け入れている。しかし同時に、彼は「こうした
〔自然の〕法則は、創造者が意図をもっていることを我々に示している」[中略]
と述べて、神の存在も認めている。彼にとって進化論のパラダイムによって神話と
宗教の起源を探る試みは、科学と信仰を両立させる試みでのあった。
[中略]
単語の比較によって原言語を比較するというその手法をさらに一段進めて、語彙の
比較からインド=ヨーロッパ語族の言文化を再建しようとする試みも現れてくる。
[中略]このように、宗教と神話の研究は原初の姿の再建を目的として、その手法
は単語の比較による再建という比較言語学的なものとならざるを得なかった。
[中略]固有名詞の語源解釈によって、神話の神々、伝説の英雄、昔話の悪霊いず
れもの起源、つまり本質を明らかにできると考えられたのである。
ミューラーにおいて比較神話学と比較宗教学とが同一のものと見なされていたこと
は、現在の目からは奇異に映るかもしれないが、ミューラーにおいてもグリム兄弟
の場合と同様に、言語、宗教、神話、哲学は同一の問題として捉えられていたので
ある。彼は自らの仕事をこれら四つの「科学」として区分し、これらが人間の発展、
進化の段階であり、次第に歴史的に展開し、進化していくと考えていた。
 言語ほど古いものはない。人間の歴史とは、石器やピラミッドのような石の神殿
ではなく、言語をもって始まるのである。第二の段階は、自然現象を思考に置き換
える最初の試みである神話によって代表される。第三の段階は宗教である。これは
道徳の力、そして究極的にはすべての自然の背後とその上に存在する「道徳力の一
者」を認識することである。最後の第四の段階は哲学、つまり経験による資料に対
して正しく働きかける理性の批判的な力である。(Contributions to the Science of
Mythology,2 vols.,London,1987,vol.1,p.v)
[中略]
ミューラーによれば、原初の人類は言語に抽象的概念を欠いていたので、日の出、日没
といった天体現象から受ける大きな驚きを表現するのに、現在では詩においてのみ意
図的に使用されるような人格的な表現を用いざるを得なかったが、後になるとそうし
た用法が誤解され、人間的な神々の物語として神話が誕生したとされる。インド=ヨー
ロッパ語では単語は男女のジェンダーをもつから(中性は後に生じる)、それもまた神
話として物語化されるのに貢献したとされる。
読書カード 24
丸谷才一批評集第 6 巻
日本語で生きる
p226
言葉の働きには概念の提出と対象の描写という二つがあって、言語はその両者を時に
応じさまざまの割合で含むことで社会的な機能を果す
p372
井上 [中略]彼らの言語観が実に単純なのでびっくりしました。人間の喋ることは全て
記録に残せると信じていたようですね。
丸谷 一種、楽天的というか、無邪気な考え方ですね。だいたいアメリカ流の言語学と
いうものが無邪気なもので、彼らは話し言葉と書き言葉はまったく違うものだという
認識をもっていない。まあ言語学者というものは言葉の微妙な感触を扱うことが嫌い
で、その反対に、意味というものが好きでしかたがない(笑い)。
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心因性めまい1例と頭部外傷後のめまい1例
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読書ノート