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人文社会系/医学系大学院
実験音声学
聴覚障害Ⅱ
聴覚中枢研究のパラダイム
保健センター耳鼻咽喉科
狩野章太郎
聴覚検査法の意義とその根拠
 画像診断や電気生理学的検査の進歩の結果、聴覚医学を含む認知科学の領域が医学、生物学のみ
ならず、心理学、言語学、情報科学といった多分野にまたがる学際領域として発展を続けている。
中枢聴覚路の障害を呈した患者に遭遇すると、そもそも音が聴こえるとはどういうことなのか、何
をもって聴こえたと確認できるのか、さらに、言語や音楽を聴いて理解することとは、単に音を聴
くこととどこが異なるのか、といった根源的な問いが生まれる。
 聴覚障害の概念を確立しなければ、各種検査法の意義と根拠を示せない。聴覚検査の大部分は機
能検査の意義が確立していないために、まず解剖学的の名称で診断名を定め、今後の検査法の発展
に伴って機能検査の意義を確立修正してきている。
 どのような研究手法をとるかという立場さえ明確にして、精神と物質の関係をめぐる哲学的議論
から現代の認知科学までの対応関係を示すことができればと考えている。
認知科学の基本的なパラダイム
まず、認知研究における研究手法について、神経科学や心理学といった領域からのアプローチを
整理したい。というのは聴覚医学が広い意味での認知科学に含まれることは当然であるが、脳損傷
による認知障害に注目したのは耳科学よりも精神神経科学や神経心理学が早かったからである。研
究手法そのものの検討については、聴覚研究よりも Marr のような視覚研究者の方が論考が充実して
いるので、こちらを足がかりにしたい。
オッカムの剃刀と知覚の閾
 節減則とも呼ばれるこの規約は事実に適する諸仮定のうち、最も簡単なものをベストとする。研
究者は知覚に基づいて予想し仮説をたて、それを検証するわけだが、知覚に基づく以上、閾に限定
されるのは免れない。閾下にあるものは予想することができず、入手可能な知識の量はその時代が
持っている知覚手段に固有な閾によって決定される(顕微鏡、望遠鏡など)。
モジュール性
 モジュール性とは、認知機構がいくつかの特殊化され相互に自立した情報処理系から成り立って
いるという仮定である。ここで特殊化というのは処理する情報の型が特定のものに限られているこ
とを指し、自立とは下位システムの各々が他との関係なしに情報処理を行う遮蔽性があることを意
味する。さらに、各々の下位システム自体がさらなる下位成分の集まりである、とみなされる。
 このモジュール性に基づいた研究手法には、正常および病理的知見を比較することによって正常
機能と障害像とをただ一つの枠組内で説明しようとする狙いがある。すなわち、脳に損傷を受けた
患者の示す行動は下位システムあるいは下位システム間の結合に部分的損傷を受けた情報処理シス
テムが「正常に」機能した結果として解釈できる、ということである。具体的には、認知の構成成
分のどれが損傷されるときに患者の呈するようなエラーパタンが生まれ、逆に、どの成分の損傷な
らそのエラーが生まれないのかということを吟味するのである。
階層構造
何を知りたいのか、どのように説明されると納得するのか整理しておくことが肝要である。科学
が数学に基礎づけられるということは、たんに狭義の数学的表現をとることではなく、ものごとの
「説明」をするのにトートロジー(tautology 類語反復)に訴え、命題間の関係がつねに妥当するように
結びつけられた命題を用いるということである。
 グレゴリー・ベイトソンは、記述と説明を区別する。記述は、諸現象に内在するすべての事実を
ふくむが、それらの現象にそれらをより理解させるようないかなる種類の関係をも示さない。科学
は、これら二つのタイプのデータの組織(記述と説明)を、トートロジーによって結びつける。科
学における「説明」は、記述の諸片をトートロジーによって説明しなおすことである。「説明は、した
がって、諸結合の妥当性をできるだけよく保証しその結果が自明にみえるようなトートロジーを建
築することに存する」(「精神と自然」)。
 Marr は、それまでの視覚研究は視覚が何であるのかということを全体的に理解しようとせずに、
もっぱら知覚特性と知覚能力の分析に集中し、表現の問題を積極的に取り上げなかったと警鐘を鳴
らした。つまり、神経生理学や精神物理学ではもっぱら細胞や被験者の振舞いを記述することに専
念し、それを説明しようとしなかったのである。大脳の視覚領では実際に何がなされているのか、
説明されねばならない問題は何なのか、またどのような水準での記述を説明すべきなのだろうかが
重要なのである。すなわち、ある情報処理課題を理解するためにはその情報処理課題そのものと、
それを実行している装置の両者を研究しなければならないと指摘したのである。
 Marr は情報処理機構の特徴を理解するためには以下の3つの水準での説明が必要と指摘した。
a) 最も高次のレベル、つまり機能レベル(計算論レベル)ではその装置が何(what)をするのか、そし
てなぜ(why)そうするのかを情報処理課題として分析する。プログラムがどんな機能(関数)を実
現するか、入力と出力を結ぶ関係の記述にかかわる問題である。知覚における情報処理課題の特
性は、頭の中でそれを実現している特定の機構や構造とは独立に、この水準で分析し、理解しな
ければならない。このような分析はより下位の水準における理解を排除するものではなく、それ
らを補うために必要なものなのである。この水準を考慮しなければ、全てのの神経細胞の機能を
真に理解することはできない、と Marr は警告している。この説明水準では例えば、購入された品
目の価格を結合して最終的な勘定書きを得るためにキャッシュ・レジスタはなぜ加算を実行し、
乗算など他の演算を実行しないか、の理由も答えなけらばならない。それは、個々の価格を結合
するのに適切であると直感的に感じる演算規則が、実際に加法という数学的演算と一致するから
である。
b) 処理過程が実際に機能するには、その処理過程が取り扱う実体の表現を選択しなければならない。
中間レベル、つまりアルゴリズムレベルでは、(1)入力と出力の表現、および(2)入力を出
力に変換するのに用いられるアルゴリズム(表現に対する操作規則)が決定される。このレベル
で入力から出力にいたる情報の流れを処理する諸段階が記述される。第1水準で何となぜを問う
とすれば、この第2水準ではどのように(how)を問うことになる。ある機能を実現するアルゴリズ
ムはしばしば複数あり、与えられた課題の変化や被験者の記憶能力、年齢、熟達度などによって
アルゴリズムが変化することもある。例えば、加算の場合は、入出力がどちらも数で構成されて
いる。しかし例えばフーリエ変換の場合、入力の表現が時間であっても、出力の表現は周波数と
なる。
c) 最も低次レベルとして機械レベル(ハードウェアレベル)、つまり脳のレベルがある。ここでは
中間レベルで記述された規則や表現が大脳でどのように物理的に実現されるのか、どんな物質的
基盤のうえで表現されるのかが具体的に記述される。神経解剖学や神経生理学が説明する、シナ
プス機構、活動電位などはこの水準である。
 前述した3つの水準は互いに影響し合う。アルゴリズムの形式によってそれに合う物理的基礎も
異なり、アルゴリズムの選択はこの第3の水準に依存する。また逆に、同じアルゴリズムが全く異
なる技術によって実現されるということもある。
 一方で、各水準の説明には他の二つの水準とかなり独立しているので、異なる現象は異なる水準
で説明される必要がある。Marr は、表現される情報の種類や実現すべき処理過程が明らかになるま
では、殊に第2水準、すなわち使用されているアルゴリズムや表現についての推論を行なう際に細
心の注意を要すると警告している。例えば、脳は並列的であり計算機は直列的であるから脳と計算
機は全く異なっているという議論に対する答は、並列性と直列性との差はアルゴリズムの差であり 、
それは決して第1水準の差ではないということになる。
 視覚研究の研究手法を再検討していた Marr は、知覚を神経細胞の研究(第3水準)のみによって
理解しようとすることを、鳥の飛行を羽の研究(第3水準)のみによって理解しようとすることに
例えている。「鳥の飛行を理解するためには、空気力学(第1水準)を理解しなければならない。
そうしてはじめて羽の構造(第3水準)が理解でき、異なる形状の翼の意味(第2水準)がわかる
ようになるのである。プログラムが何を行なうかということ(第1水準)とプログラムがそれをど
のように行なうかということ(第2水準)との間に存在する差の重要性があまり認識されてこなか
ったのである。
研究手法としてのボトムアップとトップダウン
 認知科学の研究手法を上昇型(ボトムアップ)と下降型(トップダウン)の2つに大別すること
がある。上昇型では、神経生物学的事象の単純な行動記述(第3水準)から出発し、それがより複
雑な行動と関連した神経活動の記述や理解に役立てられるようにしようとする。下降型では、行動
の機能記述(第1水準)から出発してそのシステムの機能実現のための成分構成を練りあげ(第2
水準)、最後にそのようなアルゴリズムを可能にする下部構造や物質的機能(第3水準)を中枢神
経系に探し求める。
 どちらの視点を取るかは動物モデルによる考察が可能な領域かどうかによって大きく左右される 。
事実、動物で研究する伝統が根強い認知領域(たとえば視覚や単純な学習)では上昇型が数多くみ
られ、人間特有の認知領域(たとえば言語)では下降型を多く見かける4)。
また言語にかかわる認知機能の研究に下降型の視点がとられるもう1つの理由として、「言語に
おける表現と内容の不可分離性」という、言語学領域で主張されてきた考え方がある。
言葉とその意味の問題は古くから考察されてきているが、アリストテレスはものが本性的に存在
しているのに対し、ことばは習慣により定められているとして、両者を厳しく区別する。トマスも
またこのようなアリストテレスの立場を受け継いでいる。
Saussure は、言語における表現と内容の不可分離性を明るみに出すことによって、言葉以前にア・
プリオリに存在すると想定されていた指向対象という発想を斥けた。つまり、まず意味をもたぬ対
象が知覚され、ついでこれに何らかの意味が付与されるといったものではなく、知覚されるものは
同時に意味であり対象であって、この二つが不可分離であると主張した。これが「意味=現象以外の
事象は知覚されず存在しない」、さらには「言語の存在なくしては思考や普遍的な観念も存在し得
ない」という Merleau-Ponty に連なる。
すなわち言語は世界を差異化する過程であって、非物体的な存在であるため、実質的存在にのみ
関わる自然科学的アプローチ(第3水準)は言語の本質に迫ることができないと考えるのである。
人間は言語によって過去と未来、空間を差異化し、「今、ここ」という時空を超えた延長を作り出
し、「非在の現前(la presence du non- treê )」が可能となり、約束したり、嘘をついたりすることが可能
となった。このように、言語とは生物学的働きによって可能になるものであるが、生物学的機能と
いうより、差異化や意味作用といった社会的機能として捉えられると考えられる。
 
認知機構の中のボトムアップとトップダウン
 研究手法ではなく、聴覚認知機構そのものにもボトムアップ処理とトップダウン処理の両者が共
存するという考え方もある。すなわち、末梢聴器で入力した情報を上向性に分析、合成を重ねてい
く過程がボトムアップ処理であり、これとは逆に既に学習によって記憶されている高次の情報に照
らして判断・推理し、末梢からの情報を分析、合成する過程がトップダウン処理である。
聴覚認知障害の概念と検査法
 この項では、前述した認知科学の基本的手法に沿って、聴覚認知障害の概念を整理し、実際に行
われている諸検査の意義を検討する。
 モジュール性という考え方を広めた Fodor は、推論、意思決定機構、信念などの機能はモジュール
的でないが、感覚系の情報処理過程はモジュール的であると述べている。「一般的に言って、ある
機構が知覚分析過程の周辺に位置するほど-たとえば早期に作動するほど-それが機能単子(モジュー
ル)である可能性が増す傾向にある。」という指摘は聴覚にも適用できると考えられる。
 古典的な神経心理学では、障害と脳の損傷部位の関係に法則を打ちたてることが目的であった。
この際、モジュール性に基づいて障害を分類し、障害の各モジュールと脳の解剖学的部位とを結び
付けていたのである。
 松崎は聴覚系を「物理的分析過程」と「精神的統合過程」とに二大別して、多くの聴覚検査法の
データの得方が刺激から反応までのすべての過程を必要としているので、その成績には分析と統合
の両過程の障害が投影されてしまうと指摘している。純粋に分析段階での障害を知るためには統合
過程が正常であることが前提条件であり、逆に統合過程での障害を知るためにはその前の分析段階
が正常であることが必要であると述べている。聴覚の情報処理機構を2段階に分けることの妥当性 、
またその2段階を視床以下と大脳皮質という解剖学的構造に担わせることの妥当性の評価は難しい
が、松崎のいう「物理的分析過程」を研究対象とするときには Marr の第2、第3水準による説明が
主体であり、「精神的統合過程」を研究対象とするときには Marr の第1水準による説明が主体であ
ると考えれば、感覚系を研究対象とするにはその説明の水準に注意すべきであるという視点は Marr
に通じるものがある。すなわち、松崎は種々の聴覚検査法のなかには、その結果の解釈において説
明の水準が異なるものが混在していることを意識している。さらに彼は分析器と統合器のどちらか
一方を単独に診断する困難さを述べている。
純音聴力検査
 純音聴力検査では、被験者は一般的に音圧レベルの小さい音よりも、音圧レベルの大きい音を聴
こえたと判断してボタンを押す可能性が高いという前提(第1、第2水準)に基づいて、物質的基
盤が障害されているかどうかを第3水準で説明する。
 具体例として、両側聴皮質あるいは両側聴放線損傷の場合には、「音はわかるが言葉は全く聴き
取れない」、「言葉も音楽も聴き取れないが音はわかる」というのが訴えであるが、純音聴力検査
を行うとほとんどの例は正常か軽度の閾値の上昇を示すだけで、上記のような患者の訴えを理解す
る手助けにはならない。片側聴皮質あるいは片側聴放線損傷の場合にも同様である。
言語の認知と語音聴力検査
聴覚障害に関しては、言語、音楽、環境音といった「音の種類」の各々に対応して、「処理する
情報の型が特定のものに限られ」「相互に自立し」「互いに遮蔽性のある」モジュールが存在する
ことを前提とした議論が多い。
言語のモジュール性はあくまで仮説であるが、アイディアを出したのがチョムスキーで、文法は
そういうモジュール性を持っているということを主張している。チョムスキーを中心とする言語学
の理論では、人間の言語能力を、さらに統語論、意味論、音韻論といった言語知識の異なる要素に
対応した「モジュール」に分けている。
 言語による聴力検査の場合には言語音の認知の段階までの全過程の障害が投影されてしまう、と
いう松崎の指摘は、言語音認知の障害は純音聴力の物理的基盤(第3水準)が正常という前提の下
で、第1、第2水準の議論をしないと意味がない、と言い換えることができよう。
 語音知覚においては、それを発する人の声によって、また同じ人でもそれを発する際の調子や抑
揚によって、音声刺激の物理特性としてはその都度異なった性状を呈するにもかかわらず、知覚は
安定して同一の記号として機能し、その障害も明瞭に出現するという特徴がある。この特徴こそ第
1、第2水準で考察すべきところである。言語の聴覚認知を扱うときは、音声、音韻、語彙、文脈
といった異なるレベルでの考察が行われる。特に語彙以上のレベルを考える際には、前述したよう
に、言語の生物学的機能(第3水準)によって可能になる、差異化と意味作用の機能(第1・第2
水準)に特に着目することになるのである。
 標準語音聴力検査では、単音節語音表を用いて語音弁別能(最高受聴明瞭度)を測定し、数字語
音表を用いて50%明瞭度が得られる語音聴取レベルを測定する。単音節語音の認知は音韻を、数
字語音の認知は音韻に加えて語彙を対象としている。さらに、言語認知の検査用語一覧表(図3)
や、Token test は文脈の理解までを対象としている。また、標準失語症テストや Western Aphasia Battery な
どの各種失語症検査を用いて、聴覚的理解の判定に加えて、「話す」・「読む」・「書く」といっ
た聴覚認知以外の言語機能の障害を除外することも行われる。
これらの検査の結果はいずれも第1、第2水準上のものであり、生物学的機能(第3水準)を解
明するのを助けるが生物学的機能そのものを示してはいないことに注意が必要である。このように
考えると、例えば古典的失語理論として有名な Wernicke-Lichtheim の図式は、脳構造内にはっきり定義で
きる特定機能の中枢と、中枢間の連絡をになっている連合路を分離しようとして、構造という第3
水準上でのモジュールと、「概念」・「音声」・「文字」といった第1・第2水準上でのモジュー
ルを一致させようとしている点に無理があることが理解できる。
両耳聴検査
 両耳合成能現象(binaural integration)とは、両耳の入力情報を1つの情報に統合し、単一の音像を聴
取する現象である。この現象はさらに
① 両耳加重現象(binaural summation):両耳に同時に同一刺激を与えることにより、その閾値 、
loudness、あるいは明瞭度に変化を呈する場合
② 両耳融合現象(binaural fusion):両耳に与えた同種刺激に位相差、時間差があるが両耳聴では単一
音源として感受する場合、および両耳に同時に異なる刺激を与えて単一音源と受け取る場合
の2種に分けられる。両耳融合現象を利用した検査として、方向感検査、両耳歪み語音明瞭度検査
を挙げる。
 一方、両耳分離能現象(binaural separation :binaural differentiation, interaural discrimination)とは、左右の耳に
まったく異なる2つの種類の音が入力されたとき(狭義の dichotic listening)に、これらを別々の情報と
して聞き分ける能力のことである。
 
a)方向感検査
 方向感の検査法としては自由音場での diotic の検査(音源定位の検査)と、各耳にイヤホンを挿入
しての dichotic の検査(音像定位の検査)とがある。音源定位の検査は無響室を必要とし、臨床的に検
査することが難しいため音像定位の検査が一般的で、これは左右の耳に達する音の強度差と音の到
達時間の差(純音では位相差)の検出によって行われる。強度差と時間差は互換可能であることを
利用したのが ITD(interaural time differnce)調整装置で、その測定原理は両耳間の強度差を0として、時
間差のみによって音像の偏奇を判定させ、刺激音に対する微細な時間因子の把握能力を検出すると
いうものである。
 低周波数帯域では時間差が、高周波数帯域では強度差が方向感に大きく関与するといった第2水
準の研究があり、また、聴覚伝導路損傷例の方向感検査の知見は伝導路のどこの障害かといった第
3水準の議論に成果をあげつつある。しかし、方向感検査で被験者は何を答えるかと問えば(第1
水準の問い)、音の来る方向が右寄りか左寄りかという文字通り「方向」を答えるということであ
り(動物によっては視覚にも匹敵するような聴空間認知能を持つものもある)、この稿で取り上げ
た他の聴力検査とは一線を画すものである。すなわち他の聴力検査は、音が聞こえるか聞こえない
かという「音の存在の有無」のモジュール、あるいは言語音や環境音を認知できるかという「音の
種類」によってさらに細分されたモジュールで答えるものである。純音に対する方向感が最も悪く 、
複雑な音の方向感は良好であるという結果があるが、方向感というモジュールは「音の存在の有
無」というモジュールと独立して並列されるべきモジュールであることに注意する必要がある。
 
c)Dichotic Listening Test
 人間は両耳に与えられた異なった情報を別々に感受する能力を持っている。両耳に異なった語音
を与えるのが DLT(dichotic listening test)である。左右の成績を比較して、大脳半球優位側の決定や脳梁
の機能解明といった主としてトップダウン型の研究に用いられている。
 例えば、非交叉線維よりも交叉線維の方が数が多いという神経解剖学的検討を背景として、側頭
葉損傷患者における DLT で対側から入力された語音の認知能力が低下したという検査結果から、聴
覚伝導路では非交叉路よりも交叉路のほうがより強く活動していると考えられている。別の例とし
ては、小児では右耳側の語音聴取が左より良好であること、左側頭葉障害患者における右耳の語音
聴取の方が、右障害における左耳の語音聴取の成績よりも悪いこと、音楽や無意味語音を用いた両
耳分離能検査では左耳優位であること、これらの結果から一般に言語音は主として右耳ー左側頭葉
の経路で、非言語音は左耳ー右側頭葉で認知されると推察されている。
音楽の認知検査
音楽の認知的研究のためには、様々な方法を便宜主義的に組み合わせて用いている。例えば音楽
理論は、人間の認知とはひとまず独立に、音楽の Syntax や Semantics を扱ったり、それを利用しつつ特
定の楽曲の構造を分析するものであるが、実はその際、暗に聴き手・演奏者・作曲家の認知を想定
していることが少なくない。こうした暗黙の過程をより明示的にし、しかもそれを心理的に実在性
のあるものに近づけていくことが、音楽の認知的研究の一方法である。
調性音楽に含まれている情報処理過程を考える時に、ある楽曲がいかに人々の心の中に表象され
ていると想定するかが、認知的研究の出発点である。音響的表象がどのように構造化されているか
を考える必要がある。自然言語処理の場合と同様に、われわれが物理的に、あるいは心の中で音の
流れを聴いた時に、その流れは何らかの仕方で区切られ、簡約化され、他の部分と関係づけられる
であろう。その構造がいくつかの水準をもつ階層的なものだと考えることもできる。ここで問題に
なるのは、音楽の場合には単語にあたるような、いわば自然の切れ目がないということである。
音の流れはいくつかの水準でグループ化される。このグループは基本的にはアクセントのある音
(あるいは音群)1つに対して、アクセントのない数個の音(あるいは音群)が結びつけられると
いう形でおこる。アクセントは、拍子がはっきりしている楽曲の場合には、拍子上ないしは小節線
の区切り上からもきまってくるが、それだけでなく、その音が持っている長さとか高さにも依存す
る。さらにまた、進行中だった傾向が停止する、という意味で構造上重要な音もアクセントを持つ 。
これら3種のアクセントが時にかさなったり、時に不一致になったりして、様々な程度の明確さを
もったグループ化が生じると考えられている。
 音楽的表象をつくり変えていくもう 1 つの認知過程は、音の流れのなかでいくつかの旋律進行を識
別することである。それぞれの進行は、次にどのような音高がでてくるのかを暗に意味する。聴き
手の側からいえば、ひとつの旋律のなかに、いくつかの進行、原音の連鎖を感じとることができな
くてはならない。このような仕方で、旋律をいくつかの暗意-実現関係の合成体として表象すること
もまた、楽曲の理解の本質的な一側面である。しかし暗意-実現関係の心理的実在性を実験的に吟味
した仕事はまだない。終止音導出の実験を発展させる必要がある。脳損傷例に限らずとも、例えば 、
協音程が物理的には単純な振動数の比で表されるというのは第2水準で説明されるが、なぜそれが
協和して(心地よく)聴こえるかという第1水準の問いについても十分な議論が尽くされていない
のが現状である。
脳損傷により音楽の認知ができなくなった症例の報告は以前からあった。メロディ、ハーモニー 、
リズムといった音楽の構成要素について検査を試みた報告もある。例を挙げると、音高弁別、強弱
弁別、楽器音の弁別(楽器音と楽器名のマッチング)、メロディ認知(既知の唱歌の曲名あて、2
つのメロディの異同弁別)、2つのリズムの異同弁別、リズム譜との異同弁別などが行われている 。
これらの検査に答えられるかについては、むろん第1水準での説明が必要である。さらに言語認知
との違いや障害の解釈といった研究の展開が待たれる。
聴性誘発電位・聴性磁場反応
 前述の如く、Marr は第2水準、すなわち使用されているアルゴリズムや表現についての議論には
細心の注意を促している。聴性誘発電位の検出する波形の異常は第3水準に基づくものであり、そ
の結果を電気信号に変換された聴覚刺激の伝導障害と解釈するのは第2水準である。何をもって聴
こえたと確認できるのか、言語や音楽を聴いて認知するとはどういうことかといった中枢聴覚路の
障害特有の問いに答えるには細心の注意が必要である。近年研究の盛んな事象関連電位の一つであ
る p300 や N400 や聴性磁場反応は、2種類の音を弁別や次の音刺激に対する期待といった第1水準
の課題を設定できるという点で高次聴覚障害の検査法を開拓する可能性がある。
画像診断
 CT、MRI といった画像診断の進歩により、聴覚認知障害の物質的基盤(第3水準)を検出するこ
とがきわめて容易になった。しかし、聴性誘発電位の項でも述べたように、高次聴覚障害の検出と
解釈のためには前述した種々の第1水準の機能検査の重要性は変わらない。SPECT、PET や functional
MRI は語音を聴覚刺激に用いることにより、第1水準の課題を設定できる。

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実験音声学 2003