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1
統計分析法 a
人の精神状態と受診抑制の関係性についての検証
13fb704d 清水潤子
1、研究目的
昨今健康格差や医療の不公平性を、人々の受診抑制の実情から指摘している研究を目にする。
国民皆保険の理念のもと、医療の均てん化を図ろうとしている日本の医療システムにおいて、
人々が病識がありつつも「受診を抑制する」という事実の存在は、現在の医療システムの存続
と、国民の健康的な生活の保持との関係に大きな影を落としていると言える。実際、どのよう
な人たちが医療機関の受診を控えているかについて、近藤(2005)や、NPO 法人「日本医療
政策機構」の「医療政策に関する 2007 年世論調査」では低所得者層・低学歴層に受診抑制が
強く見受けられることが指摘されている。また埴淵(2010)は、JGSS-2008 のデータに基づ
く調査によって全体で 4 割に上る人が何らかの理由で受診抑制をしているという現状を指摘し
ている。
しかし、所得や社会的地位の低さや物理的な医療機関へのアクセス方法、価値観等の問題だ
けでは説明できないものとして、近年看過できない現象がある。それは、セルフネグレクトに
よる受診抑制である。
津村はセルフネグレクトとは、在宅で「高齢者が、通常一人の人として生活において当然行
うべき行為を行わない、或いは、行う能力がないことから自己の心身の安全や健康が脅かされ
る状態に陥ること。」と定義している。例えば、認知症などのような疾患から適切な判断力が欠
けていたり、様々な事情で生活意欲が低下していることから自己放任のような状態になってい
る場合(無意図的)と、判断力や認知力が低下していないが、本人の自由意志によって自己放
任のような状況になっている場合(意図的)を示している。定義では高齢者を想定しているが、
適切な判断が欠けていたり、様々な事情で生活意欲が低下すること、抑うつ状態やうつ症状を
呈する気分障害は、高齢者に限らずどのようなライフステージでも起こりうるものであり、実
際日本うつ病学会もあらゆる世代階層において近年、気分障害患者が増加していることを指摘
している。
人々は医療サービスへアクセスする際、通常は「自身の健康状態を省みて、受診の是非を総
合的に判断」しているのであるが、本研究では Socio-economics の視点に加え、精神面の安定
性や、精神不安を引き起こすストレッサーが受診抑制とどのように関係しているかについて検
討することとした。
2
2、先行研究
2-1. 経済状況や学歴等が受診抑制に影響することに関する研究について
近藤らが 2005 年に報告した「日本の高齢者―介護予防に向けた社会疫学的大規模調査 高
齢者の心身健康の社会経済格差と地域格差の実態」によると、所得を 3 区分した上で男性高齢
者における健診受診と社会経済的地位の関係をみたときに、高所得層では「受診していない者」
は 16.1%だが、低所得層では 24.1%に増えていることが明らかとなった。また、教育年数でみ
ても、13 年以上群の未受診率 14.5%に対し、6 年未満群では 34.6%と 2 倍も多く、低所得、低
学歴群に受診を控える傾向があることを示唆されている。この言及は、2007 年に NPO 法人「日
本医療政策機構」が行った「医療政策に関する 2007 年世論調査」において、費用がかかると
いう理由で過去 12 ヶ月以内に「具合が悪いところがあるのに医療機関に行かなかったことが
ある」という人の割合が、高所得・高資産層(収入 800 万円以上かつ純金融資産 2,000 万円以
上)では 16%であるのに対して、低所得・低資産層(収入 300 万円未満かつ純金融資産 300
万円未満)では 40%に上ったという実情と一致する。また、経済的・学歴以外の医療アクセス
を妨げる理由を考えたときに、埴淵(2010)が JGSS-2008 を用いて行った医療アクセス分析
の結果、4 割以上の回答者が何らかの理由で受診を抑制した経験があることが明らかとなった。
また分析結果の中で、「病院にいくほどの病気・ケガではないと判断した」という回答を除くと、
「忙しくて時間がない」「待ち時間が長い」「費用がかかる」「病院にいくのが好きではない」と
いった時間的、経済的、心理的理由が多く見られたが、他方「病院が近くに無い」「交通手段が
無い」という理由による受診抑制は限定的であった。もっとも、どれくらいの待ち時間が「長
い」とされるかや、病院に行くことがが好きか嫌いかという判断は、個人的な価値観に由来す
るものであり、単一の社会問題として考えることは難しいが、「病院に行きたくても行けない状
況があった」という点では、国民のヘルスポロモーションや健康の質を向上させる上で看過で
きないものであろう。
2-2. 人々の精神状態が社会階層やその人の行動に与える影響について
AGES(Aichi Gerontological Evaluation Study 愛知老年学的評価研究)という高齢者ケア政
策の基礎となる科学的知見を得る目的で、愛知県の 2 自治体を対象に 1999 年度から行われて
いる調査研究によると、人々の精神状態と社会階層や行動との関係性において、いくつかのモ
デルが読み取れることを近藤(2005)が指摘している。まず、社会階層別のうつ状態の分布は、
男女とも高齢なほど、教育年数が低いほど、世帯所得が低いほど、うつ状態が多かった(すべ
て p< .001)。また、社会階層が低い人ほど「閉じこもり」が多いというデータがあり、厚生労
働省が用いている「外出頻度が週 1 回未満の者」の男性における割合を、等価所得別、教育年
数別に示すと、低所得、低学歴層に「閉じこもり」高齢者が多いことが示唆された。教育年数
と所得と抑うつ状態に関しては、教育年数が短くなるほど抑うつが強いという結果が指摘され
3
た。これらのデータから、人々の精神状態が人々の行動に少なからず影響し、またさらに社会
的地位や経済状況と抑うつ状態に因果関係があると読み取ることができるだろう。
3、仮説
先行研究によると、相対的に低所得で教育年数が短い方が未受診率が高く、抑うつ状態であ
ることが多かった(近藤 2005)。そのため、抑うつ的な心理状態にある人は、その病態や程度
にもよるが、状況判断能力の低下や、意欲低下により受診を控える傾向にあるのではないかと
推測される。また、抑うつ状態や精神的な不安を引き起こすストレッサーとして、近年の内に
トラウマ体験の経験している人の方が、トラウマ体験をしていない人よりも、その傾向が強く
なる可能性が高いと仮定する。これはソーシャルワークにおける危機介入理論を根拠にした推
論である。ここでいう「危機」とは、普段の対処能力が損なわれて、通常の安定した状態に起
こる急性の感情的混乱と定義される(Turner 1999)。人が配偶者や親密な関係の人との離死別
や、失業、病気やけがの発症、災害等のライフイベントにおける大きな喪失を体験した際、個
人の能力や他者との関係性の中で、喪失体験に対処できなかった場合に、長い昏迷や精神的な
病をわずらう可能性が高くなることが指摘されている。そのためソーシャルワークの領域では、
適切なタイミングで個々の危機状況(ライフイベントにおいて喪失を体験し、一時的に本人の
問題解決能力が下がっているという状況)へ介入することが、対人援助の過程で重要だとされ
ているが、本研究においてはこの視点から、トラウマ体験という大きな喪失を体験していると
いう要素も一定の抑うつ状態と結びつき、判断能力等の低下から受診抑制に繋がっている可能
性があると仮定した。
4、データおよび分析方法
4-1. データ
本稿では JGSS(日本版 General Social Surveys)2010、「第 8 回生活と意識についての国際比
較調査」B 票を使用する。標本数 4,500 人、有効回収数 2,496 人。標本は日本全国を 6 ブロッ
クに分け、市群規模によって 4 段階に層化、600 地点を抽出した層化 2 段階無作為抽出法であ
る。住民台帳を抽出台帳とし、各地点において等間隔抽出法により、15 名前後を抽出するよう
設定している。回収率 62.1%。調査時点は 2010 年 2 月~4 月、調査方法は留置による自記式
である。
4-2. 変数
JGSS-2010 では、「過去 1 年間に、病気やケガにもかかわらず、医師の診断を受けることを
控えたことがありますか。風邪や虫歯の場合も含めてお答えください。」という質問項目があり、
4
質問に対して「控えたことがある」「控えたことはない」「過去 1 年間に病気・ケガはしていな
い」という 3 つの選択肢が用意されている。今回の研究では、過去 1 年間に医師の診断を受け
ることを「控えたことがある」と「控えたことがない」という回答を、受診抑制の経験の有無
と判断し、二値化した変数を用いた。なお、「過去 1 年間に病気・ケガはしていない」という回
答と、無回答を欠損値として処理した。
その他、性別、年齢、婚姻状態(有配偶=現在配偶者がいる、離婚を前提に別居中、同棲中
/離死別=離別、死別/未婚の三値化)を人口学的変数として利用した。また、学歴(初等教
育=旧制尋常小学校・旧制高等小学校・新制中学校/中等教育=旧制中学校・高等女学校、旧
制実業学校・商業学校・新制高校/高等教育=旧制師範学校、旧制高校・旧制専門学校、高等
師範学校、旧制大学・旧制大学院、新制高専、新制短大、新制大学、新制大学院の三値化)、世
帯の収入レベル、主観的健康観(よい=1,2,3/わるい=4,5 に二値化)、医療費支払いへの不安
(医療費の不安がある=医療費を払えないことが非常に不安、やや不安/医療費の不安がない
=医療費を払えないことにあまり不安ではない、まったく不安はないで二値化)、精神的健康:
落ち込んだ気分(過去 1 ヶ月間おちこんで憂うつな気分だった=いつも、ほとんどいつも、と
きどき、まれに/全然落ち込まなかった=ぜんぜんないに二値化、)、トラウマ経験(トラウマ
経験あり=1 回~4 回/トラウマ体験なし=0 回で二値化)を用いた。
4-3. モデル
受診抑制を過去 1 年に経験をした人の度数分布を確認した上で、受診抑制の有無を従属変数
としたロジステック回帰分析を行った。モデル 1 には、年齢、婚姻状態、性別とった人口学的
変数に加え、過去の研究をもとに学歴、世帯収入のレベル、医療費への不安を投入し、受診抑
制と学歴、経済状況との関係性を見た。モデル 2 はモデル 1 に加え、精神的健康が受診抑制に
どのように対応しているかを確認し、モデル 3 では、ストレッサーとなっている可能性の高い
トラウマ体験の有無を加えてデータの検証を行った。なお、男女間での差を比較できるよう、
すべてのモデルにおいて男女のデータを分割した上で検証を行った。
5、分析結果
5-1. 受診抑制の実態
過去 1 年間に受診を控えた経験があるかという質問への回答分布は表1の通りだった。
システム欠損値の中には過去 1 年間に病気・けがはしていないという回答と無回答が含まれ
ている。度数分布の状況から見ると、男性で控えたことがある割合が 27.4%、女性で控えたこ
とがある割合が 32.1%であった。いずでも JGSS-2008 の際の調査と比べて、受診を控えた割
合は多少減少しているが、未だに 3 割前後の人が何らかの理由で受診を控えたということが明
らかとなった。
5
性別 度数
有効パーセ
ント
医師の診察を控えたことはある 263 27.4
医師の診察を控えたことがない 698 72.6
合計 961 100.0
医師の診察を控えたことはある 365 32.1
医師の診察を控えたことがない 771 67.9
合計 1136 100.0
表1 過去1年間に医師の診察を控えた経験の有無
男
女
5-2, 受診抑制の関連要因
表 2、3 は受診抑制の有無(抑制なし=1)を従属変数とした男女別のロジステック回帰分析
の結果である。
表2 受診を控えたことが無いに対するオッズ比(男性)
B Exp(B) B Exp(B) B Exp(B)
年齢 20歳~89歳 .042 *** 1.043 .041 *** 1.042 .041 *** 1.041
婚姻状態 有配偶
離死別 .276 1.318 .288 1.334 .289 1.336
未婚 .456 * 1.578 .489 * 1.631 .493 * 1.637
本人学歴 初等教育
中等教育 -.094 .911 -.096 .909 -.102 .903
高等教育 .101 1.106 .110 1.116 .104 1.110
世帯収入 平均よりかなり少ない
平均より少ない -.005 .995 .027 1.027 .028 1.028
ほぼ平均 .204 1.226 .195 1.216 .206 1.229
平均よりかなり多い -.136 .873 -.181 .835 -.226 .798
主観的健康観 良い
悪い .337 * 1.401 .282 1.326 .306 1.358
医療費の支払いに 不安がない
不安がある -.812 *** .444 -.811 *** .444 -.830 *** .436
精神的に落ち込んで いない
いる -.494 ** .610 -.290 .748
トラウマ経験が ない
ある .183 1.201
n
Nagelkerke R
注: *p<.05 **p<.01 ***p<.001
0.158 0.159
モデル1 モデル2 モデル3
957 957 957
0.155
6
表3 受診を控えたことが無いに対するオッズ比(女性)
B Exp(B) B Exp(B) B Exp(B)
年齢 20歳~89歳 .048 *** 1.050 .046 *** 1.048 .047 *** 1.048
婚姻状態 有配偶
離死別 .122 1.130 .142 1.152 .149 1.161
未婚 .689 ** 1.992 .696 ** 2.005 .692 ** 1.997
本人学歴 初等教育
中等教育 -.157 .854 -.175 .839 -.166 .847
高等教育 -.202 .817 -.241 .786 -.234 .791
世帯収入 平均よりかなり少ない
平均より少ない .470 * 1.601 .461 * 1.586 .464 * 1.590
ほぼ平均 .613 ** 1.845 .628 *** 1.874 .623 ** 1.864
平均よりかなり多い .575 1.778 .465 1.592 .463 1.588
主観的健康観 良い
悪い .248 1.282 .165 1.179 .153 1.165
医療費の支払いに 不安がない
不安がある -.776 *** .460 -.728 *** .483 -.726 *** .484
精神的に落ち込んで いない
いる -.494 ** .610 -.483 ** .617
トラウマ経験が ない
ある -.113 .893
n
Nagelkerke R
注: *p<.05 **p<.01 ***p<.001
0.198 0.208 0.208
モデル1 モデル2 モデル3
1126 1126 1126
ロジステック回帰分析の結果から、今回の JGSS-2010 のデータからいくつかの特徴が明ら
かとなった。まず、モデル 1 については先行研究にもとづき、人口学的変数と社会経済的地位
と受診抑制の結果についての状況を確認した。男女ともに年齢が高くなるにつれて、受診抑制
をしなくなるという結果は、埴淵(2010)の分析結果とも一致した。どのモデルにおいても有
意な結果となり、年齢の増加に伴い疾病の発生率が上がることが理由として考えられるだろう。
また婚姻状態と受診抑制との関係については、男女ともに有配偶者に比べて未婚者の方が受
診を抑制するということが分かった。加えて、男性よりも女性の方がその傾向が強かった。有
配偶者の方が受診を控えないという結果については、おそらく世帯・家族をもつことによって、
人の社会的役割が増加したことに由来し、疾病やけがによって社会生活が妨げられることが、
同居家族に与える経済的・衛生的影響を考慮した結果だと推測される。学歴に関しては、今回
の分析から有意なデータは得られることができなかった。また主観的健康観に関しては、モデ
ル 1 で男性のみ主観的健康観が悪い人の方が受診を抑制しないというデータで有意な結果が得
られたが、限定的なものであった。
経済的な状況と受診抑制の関係性については、男女のどのモデルにおいても、医療費の不安
がない人に比べて、ある人たちの方が受診を抑制するということが有意であるという結果が得
られ、先行研究の内容と合致する結果となった。ただし、個々人の主観的な世帯収入の判断と
受診抑制の関係性については、女性において、世帯収入が平均よりかなり少ないと認識してい
る群に比べて、世帯収入が平均よりやや少ない・平均とほぼ同じという群の方が受診を抑制し
ないというデータが得られ、これはより経済的に豊かな状況にある人の方が受診をしやすいと
7
いう構図を表しているようにもうかがえるが、全体において有意ではなく、個々人の収入意識
と受診抑制との関係を部分的に説明しているに過ぎなかった。
モデル 2 ではモデル 1 に加えて、「過去 1 か月の間におちこんで憂鬱な気分であったか」と
いう変数を加えたモデルを作ったが、男女ともに抑うつ状態にあった人の方が、受診を抑制し
ているという結果が明らかになった。病的な度合はデータから知ることはできないが、抑うつ
的な状態が意欲低下や判断能力の低下等の理由と結びつき、受診を抑制したという状況が推測
される。
モデル 3 では、抑うつ状態のストレッサーとなっている可能性の高いトラウマ体験の有無を
加えてデータの検証を行ったが、男女ともにトラウマ体験の有無と受診抑制との関係性につい
ては有意なデータが得られなかった。データは割愛するが、今回の JGSS-2010 のデータを用
いて、抑うつの状態の有無とトラウマの有無の関係性をダミー変数を用いて行ったロジステッ
ク回帰分析の結果からは、抑うつ状態が無い人に比べて、抑うつ状態がある人の方がトラウマ
体験をしていることが分かった(男女ともに p<.01)。そのため、抑うつ状態の有無とトラウマ
体験有無の変数の関係性が近いことを想定して、抑うつ状態の有無の変数を除いた上でトラウ
マ体験の有無を問う変数を投入したロジステック回帰分析を行ったが、トラウマの有無と受診
抑制の関係性は証明されなかった。
モデル 1 からモデル 3 までの解析結果からは、従来の経済不安や学歴のみで統制したモデル
1に比べ、抑うつ状態を問う変数を加えたモデル 2 の方がわずかではあるが、モデルの当ては
まり度が上昇しており、女性の方がより大きな上昇を示した。モデル 2 とモデル 3 との間では、
モデルの当てはまりに関する指標はほぼ変化しなかった。
6、考察
今回、学歴や経済状況に加えて、抑うつ状態等を代表する精神的な落ち込みが受診を抑制す
る要因の 1 つであることが分かった。この現象はおそらく、経済的な状況と深く関係して、抑
うつ的や不安感が個々人の「今自分には治療が必要で、受診に行くべきだ」という判断や認識
に関して何かしらの影響を与えているというように考えられる。ここで述べていることは、精
神的に落ち込んでいる状況にある人が、精神科受診をためらうということではなく、病気や疾
患の種類に関わらず、抑うつ状態という心理・精神状態が、自分に受診が必要だと思ったり、
自身が病識を持っているにも関わらず、適切なタイミングでの受診判断を妨げ、結果受診抑制
につながっているのではないかという視座である。実際、個々人が「今の自分にとって治療が
必要だ」という判断をする際の病気・疾患の状態、病識、緊急度合、病気に伴う個々人の不快
感等によっても受診の判断は分かれるものである。しかし、受診を妨げている理由のひとつに
人々の抑うつ的な心理・精神状態があることがわかったことは、人々の医療アクセスへの課題
が、医療保険制度や年金制度の仕組みや物理的なシステムの問題だけでは解決できないことが
8
示唆された本研究はある一定の意味をもつものとなっただろう。殊に、医療保健福祉の実践家
においては、本人の希望(want/demand)だけでなく、本人の真のニーズ(needs)を客観的に判断
し、既存のシステムの中では拾いきれない、本当は医療を必要としている人々たちの医療への
アクセスを、Bio-Psycho- Social の側面から保障し、医療アクセスを妨げる要因に対してのア
プローチが必要である。顕著な例が冒頭で述べたセルフネグレクトの状況にある人々への支援
である。JGSS-2010 のデータにおいて、セルフネグレクト下にある人から調査データを得るこ
とは難しいことであるため、今回の要約統計量の中にその要素が含まれていることは想定しが
たい。またセルフネグレクトの定義からは、セルフネグレクトの状態を客観的にみて治療が必
要だと判断されることを前提としており、今回の研究は「あくまでも本人に病識があったにも
関わらず、何らかの理由で治療を控えた」という問いに対しての回答であるため、そもそも病
識が無い可能性を孕んでいるセルフネグレクトの人々へモデルを応用することには限界があっ
た。しかしながら、今後の日本社会のあり方を考えた際に、急速に進む高齢化と、独居世帯数
の増加が見込まれる中で、本当に医療が必要な人が必要な治療を受けられるという権利を保障
するためには、画一的でシステマチックな制度・システムに基づくだけでなく、人と人の繋が
りの中で困っている人の生きたニーズを拾い出し、人々の健やかな生活が維持される地域づく
りを市民レベルで実現していくことが必要になるだろう。
7、参考資料
近藤克則,2005,『健康格差社会―何が心と健康を蝕むのか―』医学書院.
埴淵知哉,2010,「医療と健康の格差―JGSS-2008 に基づく医療アクセスの分析―」『日本版総
合的社会調査共同研究拠点 研究論文集[10]』大阪商業大学 JGSS 研究センター編:
2010 年 3 月大阪商業大学 JGSS 研究センター 発行
NPO 法人日本医療政策機構「医療政策に関する 2007 年世論調査」
津村智恵子,2009「セルフ・ネグレクト防止活動に求める法的根拠と制度的支援」『高齢者
虐待防止研究』
フランシス-J-ターナー,1994,『ソーシャルワーク・トリートメント上』中央法規
日本うつ病学会 http://www.secretariat.ne.jp/jsmd/qa/pdf/qa1.pdf

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  • 1. 1 統計分析法 a 人の精神状態と受診抑制の関係性についての検証 13fb704d 清水潤子 1、研究目的 昨今健康格差や医療の不公平性を、人々の受診抑制の実情から指摘している研究を目にする。 国民皆保険の理念のもと、医療の均てん化を図ろうとしている日本の医療システムにおいて、 人々が病識がありつつも「受診を抑制する」という事実の存在は、現在の医療システムの存続 と、国民の健康的な生活の保持との関係に大きな影を落としていると言える。実際、どのよう な人たちが医療機関の受診を控えているかについて、近藤(2005)や、NPO 法人「日本医療 政策機構」の「医療政策に関する 2007 年世論調査」では低所得者層・低学歴層に受診抑制が 強く見受けられることが指摘されている。また埴淵(2010)は、JGSS-2008 のデータに基づ く調査によって全体で 4 割に上る人が何らかの理由で受診抑制をしているという現状を指摘し ている。 しかし、所得や社会的地位の低さや物理的な医療機関へのアクセス方法、価値観等の問題だ けでは説明できないものとして、近年看過できない現象がある。それは、セルフネグレクトに よる受診抑制である。 津村はセルフネグレクトとは、在宅で「高齢者が、通常一人の人として生活において当然行 うべき行為を行わない、或いは、行う能力がないことから自己の心身の安全や健康が脅かされ る状態に陥ること。」と定義している。例えば、認知症などのような疾患から適切な判断力が欠 けていたり、様々な事情で生活意欲が低下していることから自己放任のような状態になってい る場合(無意図的)と、判断力や認知力が低下していないが、本人の自由意志によって自己放 任のような状況になっている場合(意図的)を示している。定義では高齢者を想定しているが、 適切な判断が欠けていたり、様々な事情で生活意欲が低下すること、抑うつ状態やうつ症状を 呈する気分障害は、高齢者に限らずどのようなライフステージでも起こりうるものであり、実 際日本うつ病学会もあらゆる世代階層において近年、気分障害患者が増加していることを指摘 している。 人々は医療サービスへアクセスする際、通常は「自身の健康状態を省みて、受診の是非を総 合的に判断」しているのであるが、本研究では Socio-economics の視点に加え、精神面の安定 性や、精神不安を引き起こすストレッサーが受診抑制とどのように関係しているかについて検 討することとした。
  • 2. 2 2、先行研究 2-1. 経済状況や学歴等が受診抑制に影響することに関する研究について 近藤らが 2005 年に報告した「日本の高齢者―介護予防に向けた社会疫学的大規模調査 高 齢者の心身健康の社会経済格差と地域格差の実態」によると、所得を 3 区分した上で男性高齢 者における健診受診と社会経済的地位の関係をみたときに、高所得層では「受診していない者」 は 16.1%だが、低所得層では 24.1%に増えていることが明らかとなった。また、教育年数でみ ても、13 年以上群の未受診率 14.5%に対し、6 年未満群では 34.6%と 2 倍も多く、低所得、低 学歴群に受診を控える傾向があることを示唆されている。この言及は、2007 年に NPO 法人「日 本医療政策機構」が行った「医療政策に関する 2007 年世論調査」において、費用がかかると いう理由で過去 12 ヶ月以内に「具合が悪いところがあるのに医療機関に行かなかったことが ある」という人の割合が、高所得・高資産層(収入 800 万円以上かつ純金融資産 2,000 万円以 上)では 16%であるのに対して、低所得・低資産層(収入 300 万円未満かつ純金融資産 300 万円未満)では 40%に上ったという実情と一致する。また、経済的・学歴以外の医療アクセス を妨げる理由を考えたときに、埴淵(2010)が JGSS-2008 を用いて行った医療アクセス分析 の結果、4 割以上の回答者が何らかの理由で受診を抑制した経験があることが明らかとなった。 また分析結果の中で、「病院にいくほどの病気・ケガではないと判断した」という回答を除くと、 「忙しくて時間がない」「待ち時間が長い」「費用がかかる」「病院にいくのが好きではない」と いった時間的、経済的、心理的理由が多く見られたが、他方「病院が近くに無い」「交通手段が 無い」という理由による受診抑制は限定的であった。もっとも、どれくらいの待ち時間が「長 い」とされるかや、病院に行くことがが好きか嫌いかという判断は、個人的な価値観に由来す るものであり、単一の社会問題として考えることは難しいが、「病院に行きたくても行けない状 況があった」という点では、国民のヘルスポロモーションや健康の質を向上させる上で看過で きないものであろう。 2-2. 人々の精神状態が社会階層やその人の行動に与える影響について AGES(Aichi Gerontological Evaluation Study 愛知老年学的評価研究)という高齢者ケア政 策の基礎となる科学的知見を得る目的で、愛知県の 2 自治体を対象に 1999 年度から行われて いる調査研究によると、人々の精神状態と社会階層や行動との関係性において、いくつかのモ デルが読み取れることを近藤(2005)が指摘している。まず、社会階層別のうつ状態の分布は、 男女とも高齢なほど、教育年数が低いほど、世帯所得が低いほど、うつ状態が多かった(すべ て p< .001)。また、社会階層が低い人ほど「閉じこもり」が多いというデータがあり、厚生労 働省が用いている「外出頻度が週 1 回未満の者」の男性における割合を、等価所得別、教育年 数別に示すと、低所得、低学歴層に「閉じこもり」高齢者が多いことが示唆された。教育年数 と所得と抑うつ状態に関しては、教育年数が短くなるほど抑うつが強いという結果が指摘され
  • 3. 3 た。これらのデータから、人々の精神状態が人々の行動に少なからず影響し、またさらに社会 的地位や経済状況と抑うつ状態に因果関係があると読み取ることができるだろう。 3、仮説 先行研究によると、相対的に低所得で教育年数が短い方が未受診率が高く、抑うつ状態であ ることが多かった(近藤 2005)。そのため、抑うつ的な心理状態にある人は、その病態や程度 にもよるが、状況判断能力の低下や、意欲低下により受診を控える傾向にあるのではないかと 推測される。また、抑うつ状態や精神的な不安を引き起こすストレッサーとして、近年の内に トラウマ体験の経験している人の方が、トラウマ体験をしていない人よりも、その傾向が強く なる可能性が高いと仮定する。これはソーシャルワークにおける危機介入理論を根拠にした推 論である。ここでいう「危機」とは、普段の対処能力が損なわれて、通常の安定した状態に起 こる急性の感情的混乱と定義される(Turner 1999)。人が配偶者や親密な関係の人との離死別 や、失業、病気やけがの発症、災害等のライフイベントにおける大きな喪失を体験した際、個 人の能力や他者との関係性の中で、喪失体験に対処できなかった場合に、長い昏迷や精神的な 病をわずらう可能性が高くなることが指摘されている。そのためソーシャルワークの領域では、 適切なタイミングで個々の危機状況(ライフイベントにおいて喪失を体験し、一時的に本人の 問題解決能力が下がっているという状況)へ介入することが、対人援助の過程で重要だとされ ているが、本研究においてはこの視点から、トラウマ体験という大きな喪失を体験していると いう要素も一定の抑うつ状態と結びつき、判断能力等の低下から受診抑制に繋がっている可能 性があると仮定した。 4、データおよび分析方法 4-1. データ 本稿では JGSS(日本版 General Social Surveys)2010、「第 8 回生活と意識についての国際比 較調査」B 票を使用する。標本数 4,500 人、有効回収数 2,496 人。標本は日本全国を 6 ブロッ クに分け、市群規模によって 4 段階に層化、600 地点を抽出した層化 2 段階無作為抽出法であ る。住民台帳を抽出台帳とし、各地点において等間隔抽出法により、15 名前後を抽出するよう 設定している。回収率 62.1%。調査時点は 2010 年 2 月~4 月、調査方法は留置による自記式 である。 4-2. 変数 JGSS-2010 では、「過去 1 年間に、病気やケガにもかかわらず、医師の診断を受けることを 控えたことがありますか。風邪や虫歯の場合も含めてお答えください。」という質問項目があり、
  • 4. 4 質問に対して「控えたことがある」「控えたことはない」「過去 1 年間に病気・ケガはしていな い」という 3 つの選択肢が用意されている。今回の研究では、過去 1 年間に医師の診断を受け ることを「控えたことがある」と「控えたことがない」という回答を、受診抑制の経験の有無 と判断し、二値化した変数を用いた。なお、「過去 1 年間に病気・ケガはしていない」という回 答と、無回答を欠損値として処理した。 その他、性別、年齢、婚姻状態(有配偶=現在配偶者がいる、離婚を前提に別居中、同棲中 /離死別=離別、死別/未婚の三値化)を人口学的変数として利用した。また、学歴(初等教 育=旧制尋常小学校・旧制高等小学校・新制中学校/中等教育=旧制中学校・高等女学校、旧 制実業学校・商業学校・新制高校/高等教育=旧制師範学校、旧制高校・旧制専門学校、高等 師範学校、旧制大学・旧制大学院、新制高専、新制短大、新制大学、新制大学院の三値化)、世 帯の収入レベル、主観的健康観(よい=1,2,3/わるい=4,5 に二値化)、医療費支払いへの不安 (医療費の不安がある=医療費を払えないことが非常に不安、やや不安/医療費の不安がない =医療費を払えないことにあまり不安ではない、まったく不安はないで二値化)、精神的健康: 落ち込んだ気分(過去 1 ヶ月間おちこんで憂うつな気分だった=いつも、ほとんどいつも、と きどき、まれに/全然落ち込まなかった=ぜんぜんないに二値化、)、トラウマ経験(トラウマ 経験あり=1 回~4 回/トラウマ体験なし=0 回で二値化)を用いた。 4-3. モデル 受診抑制を過去 1 年に経験をした人の度数分布を確認した上で、受診抑制の有無を従属変数 としたロジステック回帰分析を行った。モデル 1 には、年齢、婚姻状態、性別とった人口学的 変数に加え、過去の研究をもとに学歴、世帯収入のレベル、医療費への不安を投入し、受診抑 制と学歴、経済状況との関係性を見た。モデル 2 はモデル 1 に加え、精神的健康が受診抑制に どのように対応しているかを確認し、モデル 3 では、ストレッサーとなっている可能性の高い トラウマ体験の有無を加えてデータの検証を行った。なお、男女間での差を比較できるよう、 すべてのモデルにおいて男女のデータを分割した上で検証を行った。 5、分析結果 5-1. 受診抑制の実態 過去 1 年間に受診を控えた経験があるかという質問への回答分布は表1の通りだった。 システム欠損値の中には過去 1 年間に病気・けがはしていないという回答と無回答が含まれ ている。度数分布の状況から見ると、男性で控えたことがある割合が 27.4%、女性で控えたこ とがある割合が 32.1%であった。いずでも JGSS-2008 の際の調査と比べて、受診を控えた割 合は多少減少しているが、未だに 3 割前後の人が何らかの理由で受診を控えたということが明 らかとなった。
  • 5. 5 性別 度数 有効パーセ ント 医師の診察を控えたことはある 263 27.4 医師の診察を控えたことがない 698 72.6 合計 961 100.0 医師の診察を控えたことはある 365 32.1 医師の診察を控えたことがない 771 67.9 合計 1136 100.0 表1 過去1年間に医師の診察を控えた経験の有無 男 女 5-2, 受診抑制の関連要因 表 2、3 は受診抑制の有無(抑制なし=1)を従属変数とした男女別のロジステック回帰分析 の結果である。 表2 受診を控えたことが無いに対するオッズ比(男性) B Exp(B) B Exp(B) B Exp(B) 年齢 20歳~89歳 .042 *** 1.043 .041 *** 1.042 .041 *** 1.041 婚姻状態 有配偶 離死別 .276 1.318 .288 1.334 .289 1.336 未婚 .456 * 1.578 .489 * 1.631 .493 * 1.637 本人学歴 初等教育 中等教育 -.094 .911 -.096 .909 -.102 .903 高等教育 .101 1.106 .110 1.116 .104 1.110 世帯収入 平均よりかなり少ない 平均より少ない -.005 .995 .027 1.027 .028 1.028 ほぼ平均 .204 1.226 .195 1.216 .206 1.229 平均よりかなり多い -.136 .873 -.181 .835 -.226 .798 主観的健康観 良い 悪い .337 * 1.401 .282 1.326 .306 1.358 医療費の支払いに 不安がない 不安がある -.812 *** .444 -.811 *** .444 -.830 *** .436 精神的に落ち込んで いない いる -.494 ** .610 -.290 .748 トラウマ経験が ない ある .183 1.201 n Nagelkerke R 注: *p<.05 **p<.01 ***p<.001 0.158 0.159 モデル1 モデル2 モデル3 957 957 957 0.155
  • 6. 6 表3 受診を控えたことが無いに対するオッズ比(女性) B Exp(B) B Exp(B) B Exp(B) 年齢 20歳~89歳 .048 *** 1.050 .046 *** 1.048 .047 *** 1.048 婚姻状態 有配偶 離死別 .122 1.130 .142 1.152 .149 1.161 未婚 .689 ** 1.992 .696 ** 2.005 .692 ** 1.997 本人学歴 初等教育 中等教育 -.157 .854 -.175 .839 -.166 .847 高等教育 -.202 .817 -.241 .786 -.234 .791 世帯収入 平均よりかなり少ない 平均より少ない .470 * 1.601 .461 * 1.586 .464 * 1.590 ほぼ平均 .613 ** 1.845 .628 *** 1.874 .623 ** 1.864 平均よりかなり多い .575 1.778 .465 1.592 .463 1.588 主観的健康観 良い 悪い .248 1.282 .165 1.179 .153 1.165 医療費の支払いに 不安がない 不安がある -.776 *** .460 -.728 *** .483 -.726 *** .484 精神的に落ち込んで いない いる -.494 ** .610 -.483 ** .617 トラウマ経験が ない ある -.113 .893 n Nagelkerke R 注: *p<.05 **p<.01 ***p<.001 0.198 0.208 0.208 モデル1 モデル2 モデル3 1126 1126 1126 ロジステック回帰分析の結果から、今回の JGSS-2010 のデータからいくつかの特徴が明ら かとなった。まず、モデル 1 については先行研究にもとづき、人口学的変数と社会経済的地位 と受診抑制の結果についての状況を確認した。男女ともに年齢が高くなるにつれて、受診抑制 をしなくなるという結果は、埴淵(2010)の分析結果とも一致した。どのモデルにおいても有 意な結果となり、年齢の増加に伴い疾病の発生率が上がることが理由として考えられるだろう。 また婚姻状態と受診抑制との関係については、男女ともに有配偶者に比べて未婚者の方が受 診を抑制するということが分かった。加えて、男性よりも女性の方がその傾向が強かった。有 配偶者の方が受診を控えないという結果については、おそらく世帯・家族をもつことによって、 人の社会的役割が増加したことに由来し、疾病やけがによって社会生活が妨げられることが、 同居家族に与える経済的・衛生的影響を考慮した結果だと推測される。学歴に関しては、今回 の分析から有意なデータは得られることができなかった。また主観的健康観に関しては、モデ ル 1 で男性のみ主観的健康観が悪い人の方が受診を抑制しないというデータで有意な結果が得 られたが、限定的なものであった。 経済的な状況と受診抑制の関係性については、男女のどのモデルにおいても、医療費の不安 がない人に比べて、ある人たちの方が受診を抑制するということが有意であるという結果が得 られ、先行研究の内容と合致する結果となった。ただし、個々人の主観的な世帯収入の判断と 受診抑制の関係性については、女性において、世帯収入が平均よりかなり少ないと認識してい る群に比べて、世帯収入が平均よりやや少ない・平均とほぼ同じという群の方が受診を抑制し ないというデータが得られ、これはより経済的に豊かな状況にある人の方が受診をしやすいと
  • 7. 7 いう構図を表しているようにもうかがえるが、全体において有意ではなく、個々人の収入意識 と受診抑制との関係を部分的に説明しているに過ぎなかった。 モデル 2 ではモデル 1 に加えて、「過去 1 か月の間におちこんで憂鬱な気分であったか」と いう変数を加えたモデルを作ったが、男女ともに抑うつ状態にあった人の方が、受診を抑制し ているという結果が明らかになった。病的な度合はデータから知ることはできないが、抑うつ 的な状態が意欲低下や判断能力の低下等の理由と結びつき、受診を抑制したという状況が推測 される。 モデル 3 では、抑うつ状態のストレッサーとなっている可能性の高いトラウマ体験の有無を 加えてデータの検証を行ったが、男女ともにトラウマ体験の有無と受診抑制との関係性につい ては有意なデータが得られなかった。データは割愛するが、今回の JGSS-2010 のデータを用 いて、抑うつの状態の有無とトラウマの有無の関係性をダミー変数を用いて行ったロジステッ ク回帰分析の結果からは、抑うつ状態が無い人に比べて、抑うつ状態がある人の方がトラウマ 体験をしていることが分かった(男女ともに p<.01)。そのため、抑うつ状態の有無とトラウマ 体験有無の変数の関係性が近いことを想定して、抑うつ状態の有無の変数を除いた上でトラウ マ体験の有無を問う変数を投入したロジステック回帰分析を行ったが、トラウマの有無と受診 抑制の関係性は証明されなかった。 モデル 1 からモデル 3 までの解析結果からは、従来の経済不安や学歴のみで統制したモデル 1に比べ、抑うつ状態を問う変数を加えたモデル 2 の方がわずかではあるが、モデルの当ては まり度が上昇しており、女性の方がより大きな上昇を示した。モデル 2 とモデル 3 との間では、 モデルの当てはまりに関する指標はほぼ変化しなかった。 6、考察 今回、学歴や経済状況に加えて、抑うつ状態等を代表する精神的な落ち込みが受診を抑制す る要因の 1 つであることが分かった。この現象はおそらく、経済的な状況と深く関係して、抑 うつ的や不安感が個々人の「今自分には治療が必要で、受診に行くべきだ」という判断や認識 に関して何かしらの影響を与えているというように考えられる。ここで述べていることは、精 神的に落ち込んでいる状況にある人が、精神科受診をためらうということではなく、病気や疾 患の種類に関わらず、抑うつ状態という心理・精神状態が、自分に受診が必要だと思ったり、 自身が病識を持っているにも関わらず、適切なタイミングでの受診判断を妨げ、結果受診抑制 につながっているのではないかという視座である。実際、個々人が「今の自分にとって治療が 必要だ」という判断をする際の病気・疾患の状態、病識、緊急度合、病気に伴う個々人の不快 感等によっても受診の判断は分かれるものである。しかし、受診を妨げている理由のひとつに 人々の抑うつ的な心理・精神状態があることがわかったことは、人々の医療アクセスへの課題 が、医療保険制度や年金制度の仕組みや物理的なシステムの問題だけでは解決できないことが
  • 8. 8 示唆された本研究はある一定の意味をもつものとなっただろう。殊に、医療保健福祉の実践家 においては、本人の希望(want/demand)だけでなく、本人の真のニーズ(needs)を客観的に判断 し、既存のシステムの中では拾いきれない、本当は医療を必要としている人々たちの医療への アクセスを、Bio-Psycho- Social の側面から保障し、医療アクセスを妨げる要因に対してのア プローチが必要である。顕著な例が冒頭で述べたセルフネグレクトの状況にある人々への支援 である。JGSS-2010 のデータにおいて、セルフネグレクト下にある人から調査データを得るこ とは難しいことであるため、今回の要約統計量の中にその要素が含まれていることは想定しが たい。またセルフネグレクトの定義からは、セルフネグレクトの状態を客観的にみて治療が必 要だと判断されることを前提としており、今回の研究は「あくまでも本人に病識があったにも 関わらず、何らかの理由で治療を控えた」という問いに対しての回答であるため、そもそも病 識が無い可能性を孕んでいるセルフネグレクトの人々へモデルを応用することには限界があっ た。しかしながら、今後の日本社会のあり方を考えた際に、急速に進む高齢化と、独居世帯数 の増加が見込まれる中で、本当に医療が必要な人が必要な治療を受けられるという権利を保障 するためには、画一的でシステマチックな制度・システムに基づくだけでなく、人と人の繋が りの中で困っている人の生きたニーズを拾い出し、人々の健やかな生活が維持される地域づく りを市民レベルで実現していくことが必要になるだろう。 7、参考資料 近藤克則,2005,『健康格差社会―何が心と健康を蝕むのか―』医学書院. 埴淵知哉,2010,「医療と健康の格差―JGSS-2008 に基づく医療アクセスの分析―」『日本版総 合的社会調査共同研究拠点 研究論文集[10]』大阪商業大学 JGSS 研究センター編: 2010 年 3 月大阪商業大学 JGSS 研究センター 発行 NPO 法人日本医療政策機構「医療政策に関する 2007 年世論調査」 津村智恵子,2009「セルフ・ネグレクト防止活動に求める法的根拠と制度的支援」『高齢者 虐待防止研究』 フランシス-J-ターナー,1994,『ソーシャルワーク・トリートメント上』中央法規 日本うつ病学会 http://www.secretariat.ne.jp/jsmd/qa/pdf/qa1.pdf