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19.“鳴かず飛ばず”だった楚荘王
- 1. 春秋篇 第 19 集
一鳴驚人(“鳴かず飛ばず”だった楚荘王)
今までの自堕落な生活を改め、明日から親政を行う
と宣言する楚・荘王
- 2. 第 19 集 一鳴驚人(“鳴かず飛ばず”だった楚荘王) -春秋篇-
―あらすじ―
今度は楚の国の話。楚では、宋の襄公を痛めつけた成王(第9集仁義大旗 参照)が、既に在位
して 46 年にもなっていた。
成王の長男・商臣(しょうしん)は軽薄、陰険な人物で、かつて自分が太子になるのを反対し
た家臣・闘勃(とうぼつ)を恨んでいた。そこで、父・成王の前で「闘勃が敵国の賄賂を受け取
ったらしい」と嘘をつき、
ついに闘勃を自殺に追いや
ってしまう。
「闘勃将軍のお給料を増や
してあげて下さい」と言っ
て、あたかも闘勃が給料の
少なさに不満をもち、敵
国・晋から賄賂をもらった
とにおわせる商臣
後で事実を知った成王は、太子・商臣を憎み、直ちに太子を末子・職に変えようと考える。が、
それを事前に商臣に知られぬよう、秘密裡にことを進めていた。
一方、商臣の方も、父から恨まれていると感じるが、果たして太子の地位を剥奪されるかどう
かまでは分からない。そこで守役の潘崇(はんしゅう)に相談すると、潘崇は商臣に次の様な策
を授ける:
「今、成王様のところに妹君(江羋/こうぴ)がおいでです。成王様は江羋様と仲が良いので、必
ずあなた様の話もなさるでしょう。ですから、この江羋様を食事に招けば、きっと成王様が何を
なさろうとしているか聞きだせましょう」
そこで商臣は江羋を食事に招待すると、わざと無作法な態度で応対した。案の定、江羋は怒り、
思わず「ひどいものだわ。兄上(成王)が太子の地位を取り上げて、職に譲られるのも、もっと
もなことね!」と言う。
- 6. 頭の良い荘王は直ぐに、
「申無畏が言っているのは自分のことだ」と気づいた。そこで、荘王は
こう答える 「その鳥は、
: 三年間飛ばなかったが、一旦飛ぶと雲を突いて高く飛びあがるであろう。
三年間鳴かなかったが、一旦鳴きだすと、人々を驚かす程大きな声で鳴くであろう」
それを聞いた申無畏、荘王が今までの放蕩な生活を捨て、政務を顧みるようになると思い、大喜
びで帰っていく。
ところが、その後も荘王の生活態度は変わらず、相変わらず野山に出ては狩猟に明け暮れてい
た。そしてその間の政務は、令尹の闘越椒が全て処理していた。そのため、闘越椒の権限は日増
しに大きくなっていく。
その闘越椒の独裁に、我慢が出来なくなった家臣の蘇従、ある時、敵国である晋に対して譲歩
を重ねる闘越椒のやり方を非難する。が、闘越椒は「自分は荘王に一任されている」とばかりに
蘇従を無視。
だんだん増
長してくる
闘越椒→
怒り狂った蘇従は、ついに死を覚悟で荘王を諌めに向うのであった。
ちょうどその頃、弓の名手・養由基は、荘王の側近になることを断わり、他国に行こうとして
いた。また荘王の妃の一人である樊姫も、荘王が政務を顧みず頻繁に猟に出かけることを嫌い、
荘王の猟の獲物を断わっていた。
- 7. 楚荘王の寵愛をうけるために媚をう
ることを潔しとせず、逆に彼の狩猟に
明け暮れる生活を諌める妃の樊姫
そこへ乗り込んできた蘇従、追い討ちをかけるように、
「このままでは、楚は内乱と外敵の侵入
によって滅びてしまいます!」と荘王に訴える。この三人の反抗に一瞬ムッとする荘王、兵士を
呼びつけ、まずは蘇従を処刑すると思いきや、意外にもニッコリ笑い、この三人の忠誠心を褒め、
三人を取り立て、その翌日から本当に政務に励むのであった。
こうしてやっと真面目に政治を顧みるようになった荘王、またたくうちに内政を整え、外敵を
討ち、その軍勢は周王室の拠点・洛陽に迫るほどであった。
そしてその知らせを聞いた周の定王、慌てて大夫・王孫満(おうそんまん)を派遣して荘王の
陣を見舞わせた。王孫満が荘王の軍隊を賞賛すると、気をよくした荘王、おもむろに次の様に尋
ねる:
「王孫満殿は、周王に長く仕えられ、ご見識もおありなのでお尋ねします。昔、禹が全国の銅や
鉄を集めて九つの鼎を作り、九つの州の象徴としました。そして、これらの鼎は夏、殷、周の三
王朝に伝わり、現在、この洛陽にあると聞いております。ところで、これらの鼎の重さ、大きさ
は如何ほどのものなのでしょう?」
これを聞いた王孫満、荘王の「周に代わって天下を取ろう」という野心を見抜き、次のように
諭す:
「荘王様は先ほど、夏、殷、周の三王朝に伝わった鼎の話をされましたが、この三王朝に伝わっ
た宝とは、実は鼎でなく、“徳”なのです。
禹が天下を治めた際、彼に徳があったからこそ、九つの州の長たちが銅や鉄を納め、それで九つ
の鼎を作ったのです。
- 9. 闘越椒の反
乱を鎮めて
喜ぶ楚荘王
(中)と養由
基(左)
(→「第 20 集 荘王治楚」につづく)
―感想―
「鼎の軽重を問う」荘王に対し、王孫満は、
「周の成王が周王朝の命運を占わせると、『700 年
間続く』と出た」ことを根拠に、荘王の野心をはねつけた。
では、本当に周王朝は成王の時から 700 年続いたのだろうか? 以下、検証してみる:
成王の在位時期はだいたい BC1100 年
荘王が鼎の軽重を問うたのが BC 607 年
つまり、まだ 500 年しか経っていない。では 700 年後に周は本当に滅んだのか?
700 年後と言えば、BC400 年頃。そのころの出来事としては…
BC403 年、晋の大夫だった韓氏、魏氏、趙氏が晋を滅ぼし、周王から諸侯に認められている
そして、この事件が「戦国時代の幕開け」となる。つまり、周は存続しているものの、この頃か
ら死に体となるのである。(正式に周が滅びるのは BC256 年)
だから、周・成王の占いは、半分当たっていたと言えるだろう。