【近代文學史】期末報告:川端康成
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川端康成《雪国》
陳怡安
1 川端康成の紹介
1899 年(明治 32 年)6 月 14 日、大阪府大阪市に、長男として誕生。7 か月
の早産だった。4 歳上には姉・芳子がいた。
図 1 川端康成の生誕地
康成が 1 歳 7 か月となる 1901 年(明治 34 年)1 月に、父親が結核で死去し
た(32 歳没)。母親も翌 1902 年(明治 35 年)1 月 10 日に同病で亡くなった(37
歳没)。幼くして両親を失った康成は、祖父・川端三八郎と祖母・カネに連れ
られて、原籍地の大阪府三島郡に移った。
康成が 3 歳の時、7 歳の芳子は、秋岡家に預けられ、芳子と康成の姉弟は離
ればなれとなった。
幼い頃の康成には一種の予知能力のようなものがあり、「神童」と呼ばれる
こともあった。また、康成は父親の虚弱体質を受け継いだ上、月足らずで生れ
たため、生育の見込みがないほど病弱で食が細く、祖母に大事にに育てられて
いた。
1906 年(明治 39 年)4 月、三島郡豊川尋常高等小学校に入学した。康成は
学校を休みがちだった。小学校時代の旧友によると、康成の成績はよく、作文
が得意で群を抜いていたという。しかし、小学校に入学した年の 9 月 9 日に優
しかった祖母・カネが死去し(66 歳没)、祖父との 2 人暮らしとなった。別居
していた姉・芳子も翌 1909 年(明治 43 年)7 月 21 日、誕生日前に 13 歳で夭
折した。川端にとってしか会ったことのない姉の姿は、祖母の葬儀の時のおぼ
ろげな一つの記憶しかないという。
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1912 年 4 月に大阪府立茨木中学校入学した。康成は中学 2 年頃から作家に
なることを志し文芸雑誌を読み始めた。中学 3 年となった 1914 年(大正 3 年)
5 月 25 日未明、寝たきりとなっていた祖父・三八郎が死去した(73 歳没)。
両親、祖父母、姉の全ての肉親を失った康成は、母の実家・黒田家の伯父・
秀太郎(母の実兄)に引き取られた。1915 年(大正 4 年)3 月から、中学校の
寄宿舎に入った。同級生の清水正光の作品が、地元の週刊新聞社『京阪新報』
に載ったことから、康成は、『文章世界』などに短歌を投稿するようになった
が、落選ばかりでほとんど反応は無く、失意や絶望を感じた。この年の 9 月に
は、康成と同じ歳の中条百合子が『中央公論』に処女作を発表し、〈田舎者の
私〉である康成を驚かせ、次第に康成の内に、中央文壇との繋がりを作りたい
という気持ちが動き出していた頃であった。
1917 年(大正 6 年)3 月、康成は茨木中学校を卒業した。首席で入学以来ど
んどん席順の下がったことへの屈辱や、一高への進学を決意した。9 月に第一
高等学校の文科第一部乙類(英文科)に入学した。翌 1918 年(大正 7 年)秋、
康成は寮の仲間の誰にも告げずに初めての伊豆への旅に向かった。伊豆旅行か
ら帰った後から、一高文芸部の機関誌『校友会雑誌』に、伊豆での旅芸人との
体験と絡めて、「ちよ」を処女作として発表した。
1920 年(大正 9 年)7 月に第一高等学校を卒業し、9 月に東京帝国大学文学
部英文学科に入学。翌 1921 年(大正 10 年)2 月に第 6 次『新思潮』を創刊し、
「ある婚約」を掲載。7月の『新思潮』第 2 号には、父母の死後について描い
た自伝的作品「油」を発表した。夏休みが終わり、康成は上京の途上伊藤初代
(当時 15 歳)のいる岐阜県を訪ねた。初代と親しくなれた康成は秋に結婚を
決意し、初代と結婚の約束を果たした。1921 年(大正 10 年)11 月 8 日、岐阜
にいる伊藤初代から婚約破棄の手紙を受け取り読んだ。11 月 24 日に永久の「さ
やうなら」を告げる最後の別れの手紙を受け取った。裏切った川端は、様々な
努力をするが、初代は川端の前から姿を消してしまった。初代はカフェ・アメ
リカの支配人の中林忠蔵と結ばれ、結婚することになったのであった。川端と
初代の間には肉体関係はなく、恋愛はに終わった。
1922 年(大正 11 年)6 月に英文学科から国文学科へ移籍した。これは、英
文科は出席率がやかましかったためと、講義にほとんで出ない川端は試験も受
けなかったため、英文科で単位を取れずに転科を決めた。また、この年の夏に
は、失恋の痛手を癒すために再び伊豆に赴き、草稿『湯ヶ島での思ひ出』を執
筆し、自分を拒み通した伊藤初代とは違い、無垢に好意を寄せてくれた伊豆の
踊子や小笠原義人の思い出を綴った。
1923 年(大正 12 年)5 月には、〈葬式の名人〉と従兄にからかわれた時に感
じた〈身に負うてゐる寂しさ〉を綴った自伝作品「会葬の名人」(のちに「葬
式の名人」と改題)を同誌に発表。7 月には、伊藤初代との一件を描いた「南
方の火」を『新思潮』(8 月号)に発表した。
1924 年(大正 13 年)3 月に東京帝国大学国文学科を卒業。卒論『日本小説
史小論』の序章を「日本小説史の研究に就て」と題して、同月『芸術解放』に
発表。10 月には、横光利一ら 14 人で同人雑誌『文藝時代』を創刊。同人は「新
感覚派」と評論家・千葉亀雄により命名されようになった。
1926 年(大正 15 年・昭和元年)1 月と 2 月に「伊豆の踊子」「続伊豆の踊子」
を『文藝時代』に分載し、一高時代の伊豆の一人旅の思い出を作品化し発表し
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た。4 月から川端は、住み込みの松林秀子と同じ屋根の下に住み実質的な結婚
生活に入った(正式入籍はのち 1931 年(昭和 6 年)12 月 2 日)。6 月には、掌
編小説を収録した初の処女作品集『感情装飾』が金星堂より刊行された。妊娠
していた妻・秀子が、慶応病院で出産するが、子供(女児)はすぐに亡くなっ
た。8 月から『中外商業新報』に初の長編新聞小説「海の火祭」を連載開始す
る。
1931 年 12 月 2 日には妻・秀子との婚姻届を出した
1937 年(昭和 12 年)6 月に書き下ろし部を加えて連作をまとめ『雪国』を
創元社より刊行し、第 3 回文芸懇話会賞を受賞した。
1949 年 9 月からも同様に、『山の音』の各章の断続的発表が開始された。『山
の音』は、戦争の時代の傷が色濃く残る時代の家族を描いた名作として、戦後
文学の頂点に位置する作品となる。
1968 年。10 月 17 日、日本人として初のノーベル文学賞受賞が決定した。受
賞理由は、「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々
に深い感銘を与えたため:"for his narrative mastery, which with great
sensibility expresses the essence of the Japanese mind."」であった。12
月 10 日、川端康成はノーベル賞授賞式に紋付き袴の正装で文化勲章を掛けて
出席した。翌々日の 12 日にスーツ姿で受賞記念講演『美しい日本の私―その
序説』を日本語で行なった。この講演は、道元、明恵、西行、良寛、一休など
の和歌や詩句が引用され、エドワード・G・サイデンステッカーにより同時通
訳された。
1970 年 11 月 25 日、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地において割腹自決し
た(三島事件)。細川護立の葬儀のため上京中だった川端はすぐに現地へ駆け
つけたが、すでに現場検証中で遺体とは対面できなかった。
4 月 16 日の 2 時 45 分過ぎ頃、川端は「散歩に行く」と家人に告げ、夜になっ
ても自宅に戻らないので、異変に気づいた。川端はマンションの自室で、長さ
1.5 メートルのガス管を咥え絶命しているところを発見され、ガス自殺と報じ
られた。72 歳で永眠。川端の死亡推定時刻は午後 6 時頃でガス中毒死であっ
た。遺書らしきものはなかったという。その突然の死は国内外に衝撃を与えた。
*引用元:川端康成 – Wikipedia から節録する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90
2《雪国》の紹介
12 月初め、島村は雪国に向かう汽車の中で、病人の男に付き添う恋人らし
き若い娘(葉子)に興味を惹かれる。島村が降りた駅で、その二人も降りた。
旅館に着いた島村は、芸者の駒子を呼んでもらい、朝まで過ごす。
島村が駒子に出会ったのは去年の新緑の 5 月、山歩きをした後、初めての温
泉場を訪れた時のことであった。芸者の手が足りないため、島村の部屋にお酌
に来たのが、三味線と踊り見習いの 19 歳の駒子であった。次の日島村が、女
を世話するよう頼むと駒子は断ったが、夜になると酔った駒子が部屋にやって
きて、二人は一夜を共にしたのだった(以上、回想)。駒子はその後まもなく
芸者になっていた。