ゼミ研究成果物

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  • 1. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』 20101208 現在 明治 以来 100 年を はるかに 越える期 間、日本 における 「公(お おやけ= 大きな家)」を担っていたのは官や政治家、あるいは公的な機関であると考えられてきた。しかし、懇意地そういった考え方に対して批判がなされ「公」 、 とみなされていた ものがそのまま公共性を体現するものとされていた状況が揺らいでいる。こういった状況において、一方では「公」 「私」 と の境界線を再び明確にし、従来の「公」の権威の復権を目指す国家的公共性論を提唱する者もいる。彼らは「公共性」 、 は第二次世 界大戦後の 日本社会 において 個人主義 や私生活 主義の進 展によっ て破壊さ れたと考えるため 公共性」 、 「 の空洞化に対抗するためには「祖国のために死ぬ」覚悟を核心 に含んだ市 民=公民 としての 徳性が国 家によっ て啓蒙的 に作り出 されるべ きであると主張する。(上からの公共性論) 90 他方では、 年代からボランティア団体、NGO (非政府組織)、NPO( 非営利組織 ) などの自発的に結成される団体の「新しい社会運動」が注目を集め「私」 、 から の公共性論が注目を浴びている。こういった公私二元論ではない下からの新しい公共性論が提唱され、これに実体を与えるものとして討議デモクラシーの理論と制度が注目を浴びている。 日本においては「公」 「公共」 = と混同されがちであるが 公共」 、 「 とは本来は「公」と「私」の中間領域に位置するものである。このディスカッションでは、討議デモクラ 1
  • 2. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』シーを通して公共性を再考する。そして、討議デモクラシーの射程を見極めつつ制度を構想することで、下からの新しい公共圏に意味を与えていきたい。論点1 公的な機関への批判は何が考えられるでしょうか論点 2  討議デモクラシーのメリットと問題点は何が考えられるでしょうか論点 3 討議デモクラシーの制度を構想する際に考えるべきことは何でしょうか① 参加者の決定方法はどういったものが望ましいでしょうか② 主催者は誰が望ましいでしょうか③ 実際の討議の場においてどういったルールを設けますか 2
  • 3. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』④ 討議の結果の合意はどういった形を目指すべきでしょうか資料~討議デモクラシー 理論~●用語説明 4~5 ページ●討議デモクラシーとは何か 6~8 ページ●討議デモクラシーの主張・拡大・応用 6~8 ページ●討議デモクラシーが要請される背景 8~11 ページ●代議制の問題点 11 ページ~討議デモクラシー 実践~●合意の類型 12~13 ページ~公共性~●用語説明 制作中●「私」の分析 制作中●「公」の分析 制作中●公私二元論への批判 制作中●公私二元論に基づく保守派の公共性論 制作中●様々な角度から見る下からの公共性論 制作中●制度構想用紙 27~28 ページ 3
  • 4. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』●参考文献 29~30 ページ ~討議デモクラシー 理論~ 【用語説明】共通善 共通善の概念や特徴は主に三つあると考えられる。 第一にはすべての実態主義的定義から解放され、現実政治の批判基準ないしは現在と将来の目標であるという定義である。つまり、共通善は現実の政治を批判し鼓舞し方向付けるものとして理解される必要のあるものであり、決して完全な実現には到達しえない、常に前方に横たわる地平やフロンティアである。 第二には共通善とは、歴史的に政治社会の成員たちによってそのつど定義され、必要であれば是正されていくもの として、つまり歴史の中で変化し続けるものとして捉え返されるべきものである。共通善は問題が生じた際のおりおりに提示され、政治の試案的な基準及び目標として措定される。そしてそれぞれの地点で共通善に照らして、様々な具体的な立法や政策が採用され実施に移されていく。たとえば、現代日本社会の当面の共通善として、人権尊重主義の拡充、エコロジカルに持続可能な発展や災害防備の拡充、社会的に困難な立場にある人々への優先的な福祉などの選択肢が議論されることになる。 第三には、従来のように単一的な「共通善」(the common good)として捉えられるので 4
  • 5. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』はなく、むしろ複数形で種々の「共通善」 common goods )として多元的価値の共存 (として認識されていく必要がある。 『ラディカルデモクラシーの地平 自由・差異・共通善』 千葉眞市民明確な定義はないが市民とはアメリカの政治学者ダールの言う「それなりの市民」を指す場合が多い 古代の良き市民」 「近代の良き市民」 。 「 とも とも違う。なぜなら、現代社会は複 雑で規模も大きい。その上、マスコミの操作性も考えると、完全な判断のできる市民を期待しても無理であるからだ。民主社会においては「それなりの市民」 、 が増えていけばよいの であって、完全な市民というイメージを想定したら、市民などは存在しなくなってしまう。「それなりの市民」 問題が発生したときに政治に参加し、 は、 継続しなくても、パートタイム的であればよいともされる。 『市民の政治学 討議デモクラシーとは何か』 篠原一市民 「庶民」は政治的に表現すれば、支配権力―それが君主、天皇、政治体制のそれであれ―に従順かつ受動的な「臣民」という側面を色濃く付帯してきた歴史的経緯がある。現代において「庶民」 必要な時には支配の過剰権力や不当な権力行使に異議申し立てをする は、 「市民」たらざるを得ない。環境危機等の地球規模の焦眉の問題郡は、日本の一般民衆をして「庶民」にとどまることを許さず、自ずと世界の人々と連帯を模索する「市民」たるべく促さずにはおかないからである。こうして 「市民」とは個人の私的関心を追求するとともに公共的関心をないがしろにできない公的人間のことを言う。その意味で「市民」とは、各人のおかれた職位や役割やアイデンティティに忠実でありつつも、公的世界への責任を回避することのない21世紀の「歴史的実存」の主体となるべき存在であるといえよう。こうして「市民」とは、私民でありつつも、同時に公民でもあるような二重の性格を背負った存在であることになる。1970 年代以降の「新しい社会運動」(トレーヌ)を構成するとさ 5
  • 6. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』れる環境問題、少数民族のアイデンティティ承認の問題、フェミニズム運動、核軍備反対運動等は、実際に私民と公民という二重の社会的役割を自分のものとした「市民」によって担われてきたことは、しばしば指摘されるところである。こうして「市民」 今日的状況にお は、いては私的かつ同時に公的な存在として規定できるであろう。というのも 市民」 自 分 、 「 は、自身の歴史的及び社会的アイデンティティ、役割、仕事、課題に忠実でありつつも、公的世界への責任を無視することのできない存在だからである。千葉眞「市民社会・市民・公共性」佐々木毅・金泰昌編『公と私の社会科学』東京大学出版 会 2001市民参加 従来、政治家や官僚、少数の専門家、産業界代表者に占められてきた政策決定の場に、それ以外の様々な立場の市民が参加すること。度重なる政策の失敗による政府の信頼低下や、社会問題の複雑化が背景にある。行政・企業と市民の批判的だが協働的な関係を目指すものでもある。高度な専門性を要する科学技術が関連する分野でも 1990 年代半ば頃から、コンセンサス会議など参加型テクノロジーアセスメントを中心に、世界的に取り組みが進んでいる。その意義は三つある。第一に、政治参加は民主主義社会における市民の当然の権利だという規範的意義(normative rationale)、第二に、多様な立場の人々が参加することは対立を減らし、参加者間の合意や信頼を得やすいという道具的意義( instrumentalrationale)、政策決定に必要な知識は科学技術の専門知識に限られず、市民の様々な知識、経験、価値観が加わることによって決定の質が高まるという実質的意義( substantiverationale)である。 『歴史政治学とデモクラシー』 篠原一 【討議デモクラシーとは何か】 討議デモクラシーとは、人々の間の理性的な討議を通じて自己の利益だけでなく他者の利益をも認識し、自己の選好を変容させることで合意を志向する。そして、 々 人の意見が対立し、しかも社会全体として統一した決定が要求される問題、つまり集合的問題の解決を目指し、代議制における政策過程に影響力を行使しようとするものであり、ここでの正当性根拠は討議の過程に求められる。討議デモクラシーは科学 6
  • 7. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』技術の脅威に対して専門家を交えて討議するコンセンサス会議や、少人数グループの討議を繰り返す計画細胞といった形で実際に試みられており、もはや理論にとどまらない。 (1) (2) 討議デモクラシー論の特徴は、 人々の選好が討議の過程で変容しうること、 討議の過程で人々が合意を形成していると考える点で、単なるバラバラの個人の選好の集計とは異なること、(3) 民主主義的決定の正統性は、討議の過程を経たという手続き的な正当性に依拠することだとされている。 『歴史政治学とデモクラシー、『市民の政治学 討議デモクラシーとは何か』篠原 一 』 『熟議の理由 民主主義の政治理論』 田村哲樹 【討議デモクラシーの主張・拡大・応用】① 国境を越える 独立した複数の国家と様々な民間組織や市民運動が入り乱れる国際社会においては、法的拘束力を持つような主権者が存在しないため紛争の解決はそれらの勢力の間の熟議/討議によって図られなければならない。 EU はその典型例であり、討議デモクラシーは「トランスナショナル・デモクラシー」の様相を帯びる。 『歴史政治学とデモクラシー』 篠原一② アソシエーティブデモクラシーとの接合 様々なアソシエーションの中には各種の原理主義団体やカルト宗教団体などの他の組織との共生に関心を持たない排他的、閉鎖的組織である可能性が高いので、熟議/討議デモクラシ ーの制度 を適用す ることで アソシエ ーション の質的区 別やアソ シエーション間の水平的な関係の調整を図ることができる。 『熟議の理由 民主主義の政治理論』 田村哲樹③ 人々への教育的効果 一般市民の経験や実践の機会を保障しながら、それ以外では習得しえない思慮や実践知の体得を討議によって目指す。『市民の政治学 討議デモクラシーとは何か』 篠原一 7
  • 8. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』④ 二回路モデルの構築 二回路モデルが必要になる理由をハーバーマスは「核軍拡競争への懸念、原子力発電のリスク、ゲノムなどの先端科学技術の問題点、諸々のエコロジー的危機などの社会争点はほとんどどれひとつとして、国家組織、社会的機能組織などの指導者の側から最初に持ち出されることはなかった」からであると主張する。 『市民の政治学 討議デモクラシーとは何か』 篠原一⑤ 選好の変容「選好の変容」の前提は,自己利益に基づく「私的選好」とそうではない「公的選好」とを区別することである 私的選好」 。 「 とは,自己利益を表現する選好である。したがって,「公 的選好」とは,自己の利益以外の要素を考慮に入れた選好ということになる。換言すれば,それは,他者あるいは複数の観点を考慮に入れた選好である。このような2種類の選好を持つ諸個人を,公・私二元論的個人と呼んでいる。公・私二元論的個人といっても,多くの人びとは,通常,「私的選好」に基づいて生活している。その場合,各人の「公的選好」は潜在的には存在するが,顕在化していない状態にあると考えられる 。とりわけ,自己利益の肯定を特徴とする現代に生きる私たちにとって,日常の生活において「公的選好」を表出することは容易ではない。しかし,討議デモクラシーが行われる場においては,状況は変化する。他の討議参加者からの意見や討議の場で提供される情報は,自らの意見・考えを反省的に問い直すための契機となる。ジェームス・ボーマンは,討議において,各参加者は,互いにより応答的になり,他者の観点を自分自身の観点に組み込んだり,自分自身の観点から他者の観点を再解釈したりするようになると述べる。その結果として,討議参加者達は,次第に,以前は用いなかったような表現を用いたり,かつてならば支持しなかったような発言を自ら行うことも見られるようになるのである。このように述べると,元々は「私的選好」のみしか有していなかった諸個人が討議の過程で「公的選好」を持つようになる,といった印象を与えるかもしれない。しかし,そのような説明は不十分である。なぜなら,他者の観点を組み込んだり,再解釈したりすることができるためには,そのような志向性が当該個人に(少なくとも潜在的に)備わっていることが前提となるからである 公的選好」 。 「 には,あらかじめ諸個人に(少なくとも潜在的に)備わってい る,自己利益追求ではない志向性あるいは判断の基準といった次元も含まれる。以上を踏まえると,討議における「選好の変容」とは,おおむね次のような2段階のプロセスであると言えよう。まず,討議への参加によって,諸個人が(潜在的に)有している自己利益追求 8
  • 9. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』ではない志向性としての「公的選好」が表出される。これを,「公的選好①」と呼ぼう。次に,討議参加者たちは,この「公的選好①」の視点から,自らの「私的選好」および他者の諸選好を考慮に入れたり,解釈したりする。その結果として,各自の「公的選好①」はさらに反省を加えられた選好になる。これを,「公的選好②」と呼ぼう。このような区別の意味を理解するためには,「不偏性(impartiality)」を考慮に入れることが有用であるように思われる。 「公的選好①」の段階でも,単なる「私的選好」とは異なることは確かである。しか し,この段階では,その「公的選好①」 「不偏性」 が を獲得しているかどうかは定かではない。それは,あくまで各人の個人的な選好に止まっているからである 公的選好①」 。 「 が不偏性 を獲得するためには,討議において他者の観点等を踏まえた「公的選好②」へと変容するプロセスが必要なのである田村哲樹「熟議民主主義とベーシック・インカム 福祉国家「以後」における「公共性」という観点から」2004 年 【討議デモクラシーが要請される背景】① アイデンティティを巡る争点の浮上 妊娠中絶規制や同性愛者などの国論を二分するような社会的道徳に関する争点が浮上し、賛成派と反対派両者が納得する決定方式を模索する必要が生じた。この場合、イニシアティブやレファレンダムのような直接民主主義が事前の討議抜きに賛成、反対という二者択一を迫っていた。 『熟議の理由 民主主義の政治理論』 田村哲樹② マイノリティへの保護 議会内の一定議席をマイノリティに割り当てるなど議会内に多様性を確保する制度化によって討議の過程でマイノリティの意見を汲み取る必要が生じた。 『ポスト代表性の比較政治 熟議と参加のデモクラシー』 小川有美③ 選挙の危険性の指摘 現在の民主主義の理論と現実が民主主義の核心を「投票」に求めている。これは民主主義 9
  • 10. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』を人々の私的な選考が多数決によって集計されるプロセスとしてとらえる。ここでは 人 々が討議を 行う過程 が抜け落 ちている ため自己 の選好を 変容させ る機会を 与えられず、集合的問題に関心を持てず私的な「生の声」が政策決定に影響を及ぼしてしまう。 『ポストリベラリズムの対抗軸』 有賀誠 『市民の政治学 討議デモクラシーとは何か』 篠原一④ デモクラシーのラディカル化への志向 現 在 の政 党 制 を中 心 と する デ モ クラ シ ー は自 己 統 治と い う 原則 か ら 外れ て い るものであるため直接民主主義へと回帰するべきとするものである。 『ラディカルデモクラシーの地平 自由・差異・共通善』 千葉眞⑤ ポストモダン社会という時代診断 ポストモダン社会とは従来「伝統「当然」 、 」 と思われていたことについても様々 な情報に基づいて選択、判断、意思決定をする必要があり、 「理由」 その の提示を求められる社会である。そのため、この社会は共通基盤が解体した社会であり紛争が多発する。この社会においては紛争解決のためのあらかじめ定められた共通基盤は存在しないため、自明のものに頼らないで、諸個人の意思決定間の調整を試みねばならない。また、自明性の解体の中、人々が前提とする共通の事柄への関心が薄れ、各自の私的な利益追求として政治を理解する政治の私化が問題になっている。政治の私化に対抗するものとして、所与の自明性に頼らず共通の事柄への関心を喚起し、合意を形成しようとする討議デモクラシーが注目されている。そのため討議に重点を置く調停方法が必要とされるようになった。それ以外の方法(「神学 権威 全体主義 専門技術」 」 「 」 「 」 「 )では自明性への依存度 が高すぎるか、あるいは新たな自明性を確立しようとする志向性が強すぎて、自明性に合意できないものへの排除をもたらす。従って政党制も例外ではなく問い直され続けなければ存在できなくなってしまう。この時代診断は単なる仮定ではなく、市民陪審制、知る権利の制定、パブリックコメント制、インフォームドコンセントの導入といった社会の流れを汲み取っている。田村哲樹「熟議民主主義とベーシック・インカム 福祉国家「以後」における「公共性」とい う観点から」2004 年 10
  • 11. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』 『熟議の理由 民主主義の政治理論』 田村哲樹 『市民の政治学 討議デモクラシーとは何か』 篠原一⑥ リベラルデモクラシーの正統性の危機 マックスウェーバーは支配の形態として、伝統的支配、カリスマ的支配、合法性的支配の三つの類型をあげた。政治的支配は物理的強制力の行使によってのみ維持しうるものではなく、市民の側の服従あるいは支配を容認する姿勢を必要とする。これを支配の正当性根拠という。これら支配の諸形態は必ずしも排他的なものではないが、デモクラシーは主として合法性に基づく。しかし、デモクラシーの場合、ある場合は合法的だが、しかし正統性を欠くということはしばしばある。政党制を中心とするリベラルデモクラシーについても実質的な討議を欠いた多数決、市民を無視した政治家の決定は合法性の形をとっても、市民からは正統とは認められない。 『ポストリベラリズムの対抗軸』 有賀誠⑦ 代議制デモクラシーの危機 代表制が人々の意見を代表できなくなったのではないかという問題提起である。代表制が発達した時代は 18 世紀から 20 世紀前半までの産業化の時代と重なっている。そこでは産業化の恩恵に与れる層とそうでない階層とで不均衡が生じ、階層闘争的な対立軸が生まれやすく政党も人々の利害を意識しやすかった。しかし、産業化がさらに推し進められていくと、以前の対立軸そのものが一元的であった時代から、対立軸そのものが多元化する時代となった。つまり、ある対立軸では一致する人々が別の対立軸では交差してしまうのである。こうした事態に従来の政党が対応しようとすれば分裂し、断片化するか、すべての対立軸を収集しようとして政党間に差異を見出せなくなってしまう 。 『政治学』 久米郁夫、川出良枝、古城佳子、田中愛治、真淵勝⑧ 市民社会の復興に伴う市民への期待の高まり 11
  • 12. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』 きっかけは、1980 年代から 90 年代初めに起きた東欧諸国の民主化であるここでの民主化の推進役は協会や自主管理労働組合、自発的な市民の組織といった集団であり、これらの集団は 56 年のハンガリーや 68 年のチェコスロバキアのように党や国家権力自体の打倒や変革を目指すのではなく、党や国家の支配から自由な組織として交渉を行った。ここに市民社会への注目が集まり、それと同時に市民が政治に参加することを肯定的に捕らえる論説が登場し始めた。こういった市民の能力への肯定的な意見はボランティアや NGO の増加といった傾向とも重なり合う。 『市民の政治学 討議デモクラシーとは何か』 篠原一  ⑨ 情報化社会の到来による情報の氾濫 個人が情報を得ることは容易になっている一方で、情報の氾濫によって、獲得した情報を吟味する時間を確保できないという問題点が浮上しているというものである。こういった状況では討議の要素が含まれることはなく、従って自分以外の利害を認識することなく判断を下さざるを得ない。⑩ 利益集団リベラリズムへの批判 政治を自己利益の追求、達成と見る政治像は、集合的なニードや目標に取り組むこと、およびその課題を共に実行する他者の存在を考慮しないという意味において、政治の「私化」に外ならない。これに対して討議デモクラシーは政治を「公的なものを創出する過程」と見る。つまり、自己利益中心の政治像を批判し、共通善の実現としての政治像を提起するのだ。 『熟議の理由 民主主義の政治理論』 田村哲樹⑪ 参加デモクラシーの克服 単に政策決定過程への市民の直接参加やパブリックコメント制度の普及を重視する「参加型民主主義(participatory democracy)」では、そうしたメカニズムで集められた見解が果たして公共的な利益(公益)を代表するものなのかどうか、またそれを反映した政策が、果たして公益を実現するものなのかどうかという問題が棚上げにされている 12
  • 13. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』と考えられている。そのため「参加」 、 の要素に加えて「討議」の要素に焦点を当て公益 の実現を目指そうとする。 『ポスト代表性の比較政治 熟議と参加のデモクラシー』 小川有美 【代議制の問題点】① 大衆民主主義の到来 20 世紀には普通選挙が実現をして、マス・デモクラシー(大衆デモクラシー)と言われる時代に入った。その結果、たとえば 20 歳以上の成人が全員投票できることになり、これ自体は望ましいことであるが、逆にいえば政治について関心が無い人、情報を持っていない人たちも、投票できることになった。そのため政治的決定の基礎を成す投票が、普段は政治に関心を持っていない人たちの一時的な動向によって左右されてしまう、という危険性が指摘されるようになる。たとえば第二次大戦の原因となった、ナチズムなどのファシズムにおいては、この問題点が最悪の形態であらわれて、カリスマ的な力を持ったデマゴーグが、非常に巧妙に人々を扇動する。人々の方は十分な情報を持って理性的に投票するのではなく、その時のムードとかカリスマ的指導者の扇動によって投票してしまい、それがファシズムの台頭になってしまったという経験がある。 『政治学』 久米郁夫、川出良枝、古城佳子、田中愛治、真淵勝② 選挙の問題 小選挙区制の導入をはじめとする選挙制度改革による二大 政党化に よって政 策が相手陣営の 票の獲得 をねらっ てマニフ ェスト作 成に挑む ためほと んど政策 間の差があいまいになり、インターネットの普及によって情報が得られても、判断しかねるという状況がある。 『政治学』 久米郁夫、川出良枝、古城佳子、田中愛治、真淵勝③ 選挙の問題 小選挙区制導入によって選挙区で一人しか当選しないので、死票が増える。つまり、様々 13
  • 14. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』な民意が反映されなくなり、二大政党が重視しない争点が選挙で表出されにくくなり、政府の問題解決能力に対して問題視される。 『政治学』 久米郁夫 ~討議デモクラシー  実践~ 【合意の類型】① 紛争的合意 「あなたの思想には反対だがあなたの考えは尊重する」という思考方法をとり、進行している対決過程における一時停止。 『都市政府とガバナンス』 武智秀行② 紛争の次元に関する合意 人びとは,結論レベルにおける同意にいたることができなくても(あるいはこの意味での同意が望ましいものではないとしても),紛争の次元,すなわち「何が争われているのか?「何が問題なのか?」 」 といった次元については同意することができる。この次元 についての同意は,結論レベルにおける同意と比較するならば,穏当なものである。しかし,その効果は,想像以上に大きいと考えられる。深刻な意見対立は,しばしばこの紛争の次元についての見解の相違に由来することが多いからである。田村哲樹「熟議民主主義とベーシック・インカム 福祉国家「以後」における「公共性」という観点から」2004 年③ 不合意に対する合意 不合意のありかを顕在化させる。不合意という現状の維持を決定とする。 『都市政府とガバナンス④ 支配による合意 14
  • 15. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』 何らかの資源による一方の他方に対する勝利である。説得による合意を目指し、多数派は選好を変更しないが少数派は変更する。 『都市政府とガバナンス』 武智秀行⑤ 妥協による合意 差異の解決として日常利用する少しずつ譲歩し獲得する方法であり是認されている取引による妥協を目指し、したがって参加者の選好を変更するもの。 『都市政府とガバナンス』 武智秀行⑥ 統合による合意 当事者の意図を二者択一的な状況にあるとは考えずに第三 の方法を 発見しよ うとすることである 。第三の方法によって変更されるがそれが当初の選好を実現するなら変更されないもの。 『都市政府とガバナンス』 武智秀行⑦ 異なる理由に基づく合意 討議デモクラシー論者の中には,妥当な同意理由は1つでなければならないとする見解も存在する。しかし,討議を踏まえた上での,結論レベルにおいて複数の「異なる理由に基づく同意」というものが可能である。それは,熟議によって吟味された複数の理由に基づくという点において,単なる「妥協」とは区別される。 一例としてメルボルン郊外の製紙工場における有害な廃棄レベルの規制の事例がある。この規制は、健康や美観に関心を持つ反対運動、廃棄レベルの提言を興味深い技術的挑戦という観点から支持する工場の技術者、および善き法人市民としての企業イメージをアピールしたい広報スタッフなどの、異なる理由に基づいて廃棄レベルの規制に賛成する諸アクターの行動によって実現した。有害な廃棄レベルの規制という結論レベルの合意での合意は健康や美観(反対運動)、技術的挑戦の機会(工場の技術者)、およびイメージの向上 15
  • 16. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』に役立つ(広報スタッフ)といった、異なる理由によって達成された。 田村哲樹「熟議民主主義とベーシック・インカム 福祉国家「以後」における「公共性」と いう観点から」2004 年 『都市政府とガバナンス』 武智秀行 ~公共性~【公共圏の変容】 ハーバーマスが最初に議論の素材に乗せる公共圏は、17 世紀後半から 18 世紀にかけて登場した文芸的な公共圏である。イギリスでのコーヒーハウス、フランスでのサロン、ドイツでの読書サークルで展開された、文化や芸術に関する討論としての文芸的公共性を現代社会における公共性の原点とみなす。これらの場への参加は身分を問わない。とくに、コーヒーハウスはそうで、コーヒー一杯のお金さえ払えば、いかなる身分の人も参加することができ、文化の在り方や芸術に関して様々な議論を行うことができた。これらの公共圏は市民社会が国家から分離する過程で形成されたのであり、国家権力と対置された形で政治世論を形成する場である。この文化的公共性は資本主義経済の領域が拡大するにつれて、議論の主題が政治性を帯びるようになる。そこでハーバーマスは、公衆や公論による、市民欲求の国家への媒介機能としての公共性を「政治的公共性」と呼んで文芸的公共性から区別する。公論を通じた政治的公共性の重要性は、1960 年代から 70 年代にかけて市民社会 16
  • 17. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』論との関連で盛り上がりをみせた。しかし、こうした公共性の問題は、福祉国家の充実や大衆デモクラシーの浸透がなされることで、自律的な討議の場としての公共圏が切り崩され、公共性の問題が国民の関心から遠のいていった。佐々木毅・金泰昌編『公と私の社会科学』東京大学出版会 2001 年【文芸的公共圏】 文芸的公共圏は公共討議の学習をする場であり自己を啓蒙するプロセスの場でもある。またそこは人間形成の場でもあり、中心となった知識層としての市民がリードし相互の人間関係による自己理解を目指した。啓蒙の媒介を促したものとして当時の文芸作品や小説などがあり、生活の場においてシミュレーションしながらカフェなどの空間において盛んに討議された。 小説の中の人間関係を批判し模倣することがこれに当たる。当然討議には主題が必要であり、主題は都市社会の中から生まれる文化的素材が中心となる。カフェ、サロン以外に劇場や音楽堂が文芸的公共圏の機能を補完した。これら文芸的公共圏には以下3 つの制度的基準があるとする。① 平等性:社会的地位を意識せずに単なる一市民として対等に討議すること② 自律性:文学や小論など文芸における解釈も権威に委ねることなく自律的合理的に相互理解をすることで意味形成を進めること③ 公開性:全ての私人が「公衆」として討議対象と最低限の言語使用による討議教養を持ち得れば参加は可能となること佐々木毅、金泰昌『日本における公と私』東京大学出版会 2002 年 【用語説明】公共圏と公共的空間の違い 大きな枠組みとして公共的空間があって、その中にある小さな空間として公共圏がある。 『公共性』 齊藤純一公共性の学問的な二つの区別 17
  • 18. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』① 規範的(normative)公共性:「べきもの」としての公共性。第三討論会では規範的公共性に焦点を当てて下からの公共圏の輪郭を浮き彫りにしていく。② 記述的(descriptive)公共性:かっこつきで表されるものであり 「である」 、 ものと しての一般的に使われているが見直されるべきものとしての公共性。公共性と公共圏の違い ある空間の正当性判定基準として公共性という言葉が使われ、公共性の性質を含んだ空間を公共圏という。 『新しい公共性』 山口定公私二元論 「公私二元論」によると「公領域」とは政治や司法などの領域や国家の税金で賄われる組織などを指し、政治家や公務員などそれに携わる職も該当します。そしてそれ以外の領域、たとえば個人の幸福追求や家庭はもとより、経済や宗教などは「私(プライベート)領域」とみなされます。このような公私観に立ちながら、公領域で追求されるのは、主に権利、義務と正義を中心とした法や政治であって、個人の幸福追求、および経済や宗教や家庭は私領域に属するというのが基本的考え方です。この公私二元論は、たしかに滅私奉公的な公一元論や全体主義の危険性を免れ、個人の私有財産権やプライバシーを擁護する点で、一定の評価に値します。とくに、基本的人権に関わる個人のプライバシーへの公権力の不当な介入を批判し、個人の権利を守ると同時に、公領域では正義を追求するという思想は過小評価されるべきではないでしょう。 山脇直司『公共哲学とは何か』筑摩書房 2007 年 18
  • 19. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』公共的問題 私たちは日々の生活の中で数多くの問題や困難に直面するが、それらは以下の三つに大別できよう。 第一は、私たちが個人(あるいは家族)として対処するほかなく、またそれが不可能でも不適切でもないような、純然たる私的関心ごとである。 第二はさまざまな営利あるいは非営利の個別的団体に固有の、当該団体の構成員にとってのみ共通であるにすぎないような問題である。 第三は、個々人や個別的団体の努力ではどうすることもできなかったり、彼らにその処理をすべて委ねることが必ずしも適切でないと考えられる したがって、その適切な処理のためには、個々人や個別的団体を超えたより包括的な社会単位における集合的検討と、その社会単位を構成するすべての個人や団体を拘束する取り決めが必要な問題である。足立幸男「公共政策の理念としての公共哲学」佐々木毅 金泰昌  21 世紀公共哲学の地 『平』東京大学出版会 2002 年活私開公 戦前の日本では、個人を犠牲にして公に尽くすという意味の「滅私奉公」が叫ばれました。このような精神は、戦後のキャッチアップポリシー(追いつき追い越せ政策)においても企業戦士などの形で残存したと思います。過労死、過労自殺などは滅私奉公が引き起こした現代的悲劇といってもいいでしょう。その一方で、自分ひとりの世界に閉じこもり、他者感覚を喪失した人間が(若者だけでなく大人も含めて)増加してきているとの実態を、多くの方が抱いているのではないでしょうか。そのようなライフスタイルは「滅公奉私」と呼ぶことができます。 こうした事態を打開すべく、個人を活かしつつ公共性を開花させる新しい思考への要請を「活私開公」(金泰昌の造語)と呼び、個々人の「自己理解」 「他者」 が への理解を導くという考え方があります。 山脇直司 『公共哲学とは何か』 筑摩書房 2004 年 19
  • 20. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』 【「私」の分析 】 日本社会において日本人は過剰に権利を主張しているのか。私はそうではないと思います。日本の場合、世の中に溢れかえっている自己主張というのは権利の要求ではなくて、むしろ特権の要求であると私は考えています。権利とは、憲法によって保障された人間にとって不可欠なものであり、多数決によっても奪うことはできません。これに対して特権とは、政策によって付与された様々な権益、利益のことです。その時時の多数派が法律や予算を作ることによってこの種の権益を設定します。具体的には特定の地域や業界のための補助金、租税の減免などです。こうした利益、権益を要求、維持するという動きは大変活発であります。活発どころか戦後はそういった政策によって付与された特権の配分を最大の支持調達の原動力にしてきたということが言えるのではないかと思います。したがって、日本の保守派が唱える権利の概念は非常に矛盾しているということができます。自己中心主義を甘やかすことをしながら、他方で市民に対して権利の過剰を批判するという矛盾を犯していました。山口二郎「戦後民主主義の政策形成における公共性」西尾勝、小林正弥、金泰昌『自治から考える公共性』 東京大学出版会 2004 年 最近例えば、住民基本台帳ネットワークで個人のプライバシーが侵害されるのではないかといったような議論がありました。あるいは 1999 年の通常国会では国旗国歌法、通信傍受法、住民基本台帳法など、基本的人権を制約しかねない法律が通されました。こうした法律はまさに権力対個人いう対立の軸にかかわる争点です。この対立軸において個人の権利を擁護する議論は実に弱体でありました。これらの法律の審議過程においても、小規模なデモが起こる程度で、法案は楽々と国会を通過したわけであります。これ以外にも、リストラの名のもとに労働者がいとも簡単に解雇されるという雇用の問題、女性差別やマイノリティの権利の問題など、様々な人権問題が世の中には存在していますが、それらの問題について人々が自分の権利を守れているかといえば、全然そんなことはないと思います。山口二郎「戦後民主主義の政策形成における公共性」西尾勝、小林正弥、金泰昌『自治から考える公共性』 東京大学出版会 2004 年 20
  • 21. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』滅公奉私の蔓延 滅公奉私とは最近では俗にミーイズムとかジコチューとか呼ばれているものとほぼ同じで私生活中心主義を指します。つまり、自分の私生活を楽しめばそれでよく、人々との生活は無視してよいという考え方やライフスタイルを意味します。このような意味での滅公奉私には、身内以外の他者感覚が喪失しており、他者を大切にするという発想のみならず、他者によって自分が生かされているという発想があらません。これが無害なうちはまだいいのですが、他者への配慮不足から人に迷惑をかけたり不快感を与えたりするようでは問題です。また、他者とのコミュニケーション拒否が行き過ぎて、いわゆる「ひきこもり」現象になれば自分自身をも崩壊させかねません。 山脇直司『公共哲学とは何か』筑摩書房 2007 年 【「公」の分析 】 「政治がダメでも官僚が優秀だったから近代化が達成された」との言説が一般化するほど戦後近代化過程において行政官僚制に対する社会の信頼状況はかなり高い水準にあった。しかし、1990 年代以降、官僚機構に対する評価は一転した。とりわけ 2001 年の秋以降、いかにこの国が「虚偽」に満ちた社会であるかを物語る事件が続出している。それらの事件は単なる私人(私的法人)の行為ではない。かつて「優秀」とされた官僚機構が介在しているものばかりである。①2001 年の BSE(いわゆる狂牛病)感染牛の発見1986 年にイギリスで BSE 感染牛が発見され、 年にイギリス政府が 96 「人間にも感染する」と公表した後も農水省は「日本は BSE とは無縁の国」と言い続けた。この第一号の BSE 感染牛にしても、この牛を検査した農水省管轄の動物衛生研究所は「シロ」とした。その後千葉県家畜衛生試験所の獣医が行った検査で感染が疑われ、イギリスでの検査によって感染がようやく確認されたのである。農水省がこの程度の事実を把握していなかったはずはな 21
  • 22. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』いのである。 EU にもかかわらず、 調査委員会への調査協力を拒否した。この理由はいまだに農水省から明確に説明されていないが、EU 調査委員会の報告書草案が、日本の牛にも感染の可能性が高いと予測していたため畜産業や飼料メーカーへの打撃を恐れて、協力を拒否したのが真相のようだ。②2002 年の東京電力による原子力発電所の検査結果の「偽造」「虚偽 」東京電力は、福島第一、第二原子力発電所と柏崎刈羽原発の 9 基におよぶ原子炉の自主ならびに法定検査結果を偽造ないしは隠ぺいしていた。そして冷却水の再循環系やシュラウド(炉心隔壁)にヒビなどの損傷があるにもかかわらず運転を続けてきた。一方、経済産業省原子力安全・保安院の前身である通産省資源エネルギー庁は、2000 年 10 月に東電の損傷隠しについての内部告発文書を受け取りながらも、積極的に検査に立ちあがろうとしてこなかった。それどころか、内部告発者の氏名と内容を東電に通告していた。経済産業省原子力安全・保安院は、メディアの大規模な報道を受けて重い腰をようやくあげたにすぎない。これらの事態は昨今の典型的病理にすぎない。近代化のベールの陰では、政官業の複合体が絶えず再生産され、「公共圏」は「私的利益空間」に変質してしまったとみてよい 。新藤宗幸 = 「公 「行政官僚制」批判」西尾勝、小林正弥、金泰昌『自治から考える公共性』 東京大学出版会 2004 年滅私奉公の残存 第二次世界大戦後の日本においても「滅私奉公」の精神は残存しているように思えます。それは過労死や過労自殺などの多さといった、公の対象が国家から会社に変わっただけという現状が物語っています。また、森前首相が在任中に自分の好きな言葉として「滅私奉公」を挙げました。以外と今も公共性というとこの言葉を連想する人が少なくないかもしれません。 山脇直司『公共哲学とは何か』筑摩書房 2007 年 【公私二元論への批判】 公私二元論の限界とは、何よりもまず、経済や宗教や家庭を私領域にだけ閉じこめて論じることはできないという基本認識から生じます。たとえば、市場経済を動かす私企業の活動といえども、独占禁止法や経済系法の存在が示すように、公共的ルールの枠内にある 22
  • 23. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』ことが忘れられてはなりません。またプライベートな空間といえる家庭生活ですら、ドメスティックバイオレンスや児童虐待の問題が起こったときは、その公共的次元が露わになります。教育は他者との関係性の中で生きる力を育むという点で、科学技術は公開性や公益性と関わる点で、たとえその組織母体が私立と呼ばれていても公共性と直接関わります。このように公私二元論は社会全体の諸相を認識するうえで、明らかな限界をもっているのです。 山脇直司『公共哲学とは何か』筑摩書房 2007 年 現代の日本では公私が二極に分かれていく傾向があり、これは政治的な意味での公共性が衰退しつつあることを意味する。公私の分離が進む結果として、 私と同様に公も閉じた 「閉域をなしていくこと」 反対に と、 「公が開けっぴろげの公となっていくこと」という二つの可能性がある。前者の例は日本の歴史に多く見られる、国家権力が公的領域を独占するというケースである。後者の例は社会が全体主義化するケースである。公的権力が私的領域を侵し、個人の内面にまで入り込む「ファシスト的公共性」である。現代日本における公私の分離という問題に即して公共性を論ずるという課題を設定する場合、公共性をなによりも空間として論じなければならない。社会は自閉化の傾向を強めている。グローバル化やインターネット化は社会の開放を促進しているように見えるが、前述の「開けっぴろげ」化を促進しているにすぎず、そうなると個人はいっそう私化する「その反動で、 。 家族― 共同体―国家という三位一体が息を吹きかえす 」 。 このような趨勢を食い止めるに は「分離する公と私をその境界部において再結合あるいは新たに創造するほかない」として提起されるのが公共空間である。間宮は公共空間を次のように特徴づける。それは私的空間と公的空間の間に現れる。それは私人の主体的参与なしには存在しない。それはまた活動なしには存在しえない。活動が公共空間を作るとも言える。このような公共空間の再建・創造は現代日本において焦眉の課題である。間宮陽介 」 山口定・神野直彦編『2025 年日本の 「グローバリゼイションと公共空間の創設 、構想』2000 年 【公私二元論に基づく保守派の公共性論】 近年の傾向の中心に、 「私」 人の 性に対抗的に「公」の復権を唱えるものが在る。最も顕著な事例は佐伯啓思、小林よしのりである。ここでは、まず発言そのものを確認したい。 23
  • 24. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』第一に、 「私」性を、経済学の「消費者(主権)」概念に合せうるかたちで「消費者」として も規定しつつ、それを否定して端的に「公」の復権が説かれている。1) 「エゴだけの個人」と「公共心のある個人」がいる2) 日本の個人はまるで消費者なのだ佐伯啓思「国家・国民・公共性」佐々木毅、金泰昌『国家と人間と公共性』東京大学出版会2002 年第二に、「公」という関係態として「国家」が想定される 。3) 現在 「国民でなく市民の時代だ」と政治家やマスコミは言うが、これは間違いであって、「公」とは「国」のことなのだと説かれる。佐伯啓思「国家・国民・公共性」佐々木毅、金泰昌『国家と人間と公共性』東京大学出版会2002 年第三に、「共和主義」的側面をもって「国家のための死」が説かれる 。4) 祖国のために死ぬ覚悟のない現代の人々など“私民”にすぎない5) 自己犠牲の崇高さを知り/英雄の出現に感動することができた佐伯啓思「国家・国民・公共性」佐々木毅、金泰昌『国家と人間と公共性』東京大学出版会2002 年第四に、「共同体主義」的主張がなされている 。6)「少年事件」などは戦後日本が「国家」を否定し「公」の基準を見つけられぬままにあらゆる共同体を否定して個人主義に向かっていった帰結である。大人から子供までの徹底した「公共性」の喪失だ佐伯啓思「国家・国民・公共性」佐々木毅、金泰昌『国家と人間と公共性』東京大学出版会2002 年 24
  • 25. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』同時に、その系列として以下の発言がなされている。7) ヨーロッパ人は プライバシーの観念が強く 個を強烈に持っているが 国家や共同体への帰属意識は強い。この点では日本人と比較してよきものである「ヨーロッパ人」のこの「帰属意識」の核心として 公」 、 「 の範囲は歴史の共有で決まるとして「共有の歴史」が強調 される。因みに 新しい歴史教科書」 、 「 運動が行われてもいるのである。小林の「理論的」支柱 の一人に西部邁がいる。彼は、主体の側に即して「公共性」 、 を「私的欲望」との対比におい て「公的欲望」と規定しつつ、共同体主義を明示して次のように説いている。8) 私的欲望は自分のうちにある「私人的」な性格にもとづき、したがって主に感情的種類のものである。それにたいし公的欲望は自分のうちにある「公人的」な性格にもとづき、したがってそれは、公人として掲げるべき価値や守るべき規範にかかわるのである以上、どちらかというと、論理的に組み立てられる。9)公的欲望の根底には、……集団の歴史が、歴史によってつくり出された集団の慣習が、そして慣習の示唆する(ルール意識をはじめとする)集団の伝統が横たわっている。それらは……自分が何者であるかを規定してくれる根本的な価値意識であり規範感覚である。公的欲望に関する意見とは、その根本的な(それゆえ潜在的な)価値・規範を 自分」 、 、 「 が現実の状況に合わせて、顕在的に表現したものにすぎない。佐伯啓思「国家・国民・公共性」佐々木毅、金泰昌『国家と人間と公共性』東京大学出版会2002 年 25
  • 26. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』 仮に「国家」を外して 市民社会」 、 「 の中で「公共性」を定義しようとすると、どうしても 私」 「から出発するので、全体の利益・関心とはならない 公共性」 「私」 。 「 は である個々人と、 合 集的な国家をつなぐものであり、その具体的な主体を「国家を背負った市民」と考えたい。国際舞台で握手するにせよ配慮するにせよ、そこには国家という「主体」がなければならないとして、いわば第一に対内的に、第二に対外的に「国家」に即して「公共性」を考える。また同様に「なぜ市民が 、 「祖国のために死ぬ」べきなのか……そもそも社会の成立の発端にた ちかえってみれば、彼らの生命や財産を共同で防衛し、安全にするということであろう。として 国家のための死」 、 「 の側面から共和主義を 国家は、 、 「 確かに、その核に「公共性」をもっ ていると言うべきであろう。そして、それが可能なのは……まさに国家の基底に「共同性」があり、それが「公共性」を支えるからである。エルシュタインは、デモクラシーが機能するためには、人々の間に何らかの「共通の文化」がなければならないことを強調している 」 し 。とて共同体主義を説いている。佐伯啓思「国家・国民・公共性」佐々木毅、金泰昌『国家と人間と公共性』東京大学出版会2002 年 佐伯啓思『「市民」とはだれか 』PHP 新書、2004 年「公共性」とは国家の背後にはグローバリズムやコスモポリタリズムなどがあるが、そういったものから国家を内から支え、かつ国家を引き裂こうとしているものに対して国家がどのようにバランスを取るかを認識し、議論することで「共通の関心」を明らかにすることである。佐伯啓思「国家・国民・公共性」佐々木毅、金泰昌 「『国家と人間と公共性』東京大学出版 会2002 年【ハーバーマス批判】 ハーバーマスは市民社会の中で「公共性」を定義しようとする。しかし、そうするとどうしても「私」から出発するので、全体の利益、関心とはならない。そこで、事項の内容ではなく、ある部分的な関心、利益を調整する制度的なメカニズム、自由な言論や討論を保証するメカニズムそのものを公共性という他ないが、この形式的合理性に基づく制度的条件ではやはり「公共性」としては力が弱い。討論が保証されたからといって共通の問題意識や理解が形成されるとは限らないからだ。佐伯啓思「国家・国民・公共性」佐々木毅、金泰昌『国家と人間と公共性』東京大学出版会2002 年 26
  • 27. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』【ハイデッガーの公共性批判】 人間は情緒的なものの中で、その日暮しをしている。そこで他人とのおしゃべりや好奇心を満たすことで時間を費やし、ただ他人と同調して生きようとするところで作り出されているのが「公共性」である。佐伯啓思「国家・国民・公共性」佐々木毅、金泰昌『国家と人間と公共性』東京大学出版会2002 年【ニーチェの「私」への批判】「近代市民」とか、近代的な自由な個人とか、民主的な人間とか言うけれど、そういうものは要するに弱者の抑圧されたルサンチマン(恨み)のはけ口である。あるいは弱者の権力意欲の集団的な表れである。だから彼らが唱える「正義」は一種の裏返された権力欲に他ならない。佐伯啓思「国家・国民・公共性」佐々木毅、金泰昌『国家と人間と公共性』東京大学出版会2002 年【公共圏の問題点】① 公共圏の持つ家父長的な性格により、政治的公共圏においては未だ女性排除が構造的な力を有している事実② ブルジョア公共圏ほどの前提条件ではないにしても、知識や討議能力を要求される資源所有の不平等問題である。ハーバーマスが少数の知識人に期待する半面、残された大多数の公衆が参加できなくなる事実③ マスメディアが公共圏の支配的位置を占める現状、体制に組みする組織体質は変化せずむしろ助長されているといっても過言ではない事実花田 達朗『公共圏という名の社会空間―公共圏、メディア、市民社会』 木鐸社 2002 年 27
  • 28. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』 【様々な角度から見る下からの新しい公共性論】【利益から見る公共性】 日本語の「公共性」は利益という意味を内包し 特定の個人に与える利益ではなく、 特 、 「 不定多数の人々におよぶ利益、あるいは国家という団体にもたらされる利益、要するにあるものの与える利益が広範囲におよぶとき、そのものは公共性をもつといわれる 」 。 この意 味での公共性は公共の利益の名の下に少数者の利益を損なう可能性を含んでいる。これに対して、ドイツ語の O¨ ffentlichkeit の訳語としての公共性は、内部に秘匿されていたものが外部にあらわになること、公開性を意味する。利益についての公共性は狭い・広いという量的広がりに関するものであったが、この公共性は内と外という二つの領域の関係に関わる。間宮陽介 」 山口定・神野直彦編『2025 年日本の 「グローバリゼイションと公共空間の創設 、構想』2000 年【民法学から見る公共性】 法律学においては、伝統的に公法と私法が峻別され、私法を扱う民法学は国家の公共性から自らを遮断することによって、自律性を確保しようとしてきたが、いまは国家的公共性でなく、市民的公共性を確立し「国家に多くを依存しない、 、 市民社会の自律的な秩序 形成とその維持・確保」を図ることが求められている。その具体例として、市場における公正な競争秩序を維持することは、国家による規制を規定する独占禁止法などによってのみ実現されるべき価値ではなく、市場秩序を民法上の公序(90 条)に取り込み、これに違反する取引の効力を否定することが必要になる、というケースがある。 28
  • 29. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』 吉田克己「民法学と<公共性>の再構成」『創文 』444 号 創文社 2002 年【「支援」から見る公共性 】 社会学者の今田高俊は「支援」 、 をキーワードにして新しい公共性の成立を論じている 。彼によれば、ボランティアや NPO などによる支援活動は、自己実現という私的性格をもつが、配慮という形で他者性とつながっている点で、新しい公共性を開く契機となる。このような市民主体の公共性は、国家による管理としての公共性が行き詰まっている現在において、特に重要になっているとされる。今田高俊「社会学の観点から見た公私問題」 佐々木毅・金泰昌編『公と私の社会科学』東京大学出版会 2001 年 【環境問題から見る公共性】 現在の環境問題は、1960 年代の公害問題と比較すると多元化しているが、それらはまったくバラバラではなく いずれも現代の政治経済システムから生まれるもので、 、 「 連続し 共通する性格をもっている 」 。 ところが「日本の環境政策は深刻な公害を発生し国内で大 き 、な社会問題となった有害物質の規制についてはすすんでいる。つまり対症療法主義である。しかし、事件にならない環境問題については、先見的な予防や総合的な地域計画をつくる力がない 」 。 これを改めるには、環境アセスメントに環境政策に関するアセスメ ントを含めることが必要であり、国土・地域開発計画、公共事業、産業政策において、環境政策を最優先させ、この政策決定に責任をもつ行政の仕組みをつくらねばならない。また、「これまでの環境政策は市民の公害反対や環境保全の世論と運動に支えられた公共的介入の成果である」 近年は市民主体の運動そのものに停滞が見られる。 が、 これは日本の保守化の傾向にもよるが 環境問題の多元化とともに市民運動も多元化し、 、 「 相互の連帯と全体 的な前進ができていない」ことにもよる。日本では、活動的な市民組織が政府と協働するのは難しいが、前述のように、分権化と自治体の民主化がすすめば、自治体と市民組織との協働が可能になるのではないか。 宮本憲一『日本社会の可能性』岩波書店、2000 年 29
  • 30. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』【他者との出会いから見る公共性】 自己の価値観の普遍性を主張し他者にその受容を強要する姿勢は、自己中心的だとして批判される。そして、この自己中心的な態度への嫌悪感は、しばしば、人には様々な立場があるとして、他者に干渉せず、また他者からの干渉をも拒否する立場を生み出す。自己中心主義と価値相対主義は対立しているかに見えて、実はともに〈他者〉を欠落させているのではないか。前者において、他者は自己に同化されることで解消され、後者でもまた、外部社会と自己の世界が切断されるために、外部から遮断された〈ワタシ〉の世界はその限りで絶対的世界へと転化する。ワタシの住む心理的空間が物理的に拡大されるか、縮小されるかの相違はあるとしても、外部世界が実質的に消去されるという点において両者は異なるところがない。2003 年 9 月 9 日みんなの問題はワタシの問題ではない!?――「公民」教育――寿卓三(愛媛大学)【中間団体から見る公共性】 内面戦争を生きる自己は、断片化の危険性にさらされるが、ウォルツァーは、分割と断片化とを区別し、凝集性を持つ公衆がいなければ、社会批判はその意味を失ってしまうように 凝集した自己」 、 「 が存在しなければ、自己批判もその意味をなくしてしまうと主張す る。自分に向 けられた 批判に対 して冷静 に判断し 対応して いく強さ と賢明さ を是非とも獲得しなくてはならないと主張されるのである。そして、このような強さと賢明さを合わせ持つ「濃密で分割された自己」の存在を支える基盤として 濃密で、 化 、 「 分した、多元的社会」の存在が要請されることになる。サンデルが、無力感にさいなまれる自己の救済には、国家主権を分化し、国家と個人を媒介する多様な中間共同体を形成する必要性を説いているように、ウォルツァーも、分割された自己が無意味な苦痛を甘受せずに生きるためには、社会が分化し多元化していくことが必要だと考えているわけである。 30
  • 31. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』2003 年 9 月 9 日みんなの問題はワタシの問題ではない!?――「公民」教育――寿卓三(愛媛大学)【ヒューム 道徳感情と公共性】 ヒュームは、利己心のほかにもさまざまな情念をもつ人間という前提から出発し、人々の利害や快苦といった経験的事実に基づいて社会や道徳を説明している。その際、共感の原理がきわめて重要な役割を担う。それは私的利害をもった人々の間に共感を介して成立する公共性である。ただし、共感は原理上偏りのあるものなので、それ自体では「社会全体に開かれている」という公共性の要素を満たさないが、人々が共通の観点にともに立 ( )つこと「一般的観点」 によって共感はある種の公共性を成立させうる。もちろん、一般的観点に立つ動機は何か、利己心が公共性を破ることをいかに防ぐかといった実践上の問題は残されている。2003 年 9 月 9 日社会をつくる人間とはどのようなものか――イギリス経験論に即して奥田太郎(南山大学社会倫理研究所) 【制度構想用紙】 討議デモクラシーが政治理論にとどまらず、現実的意味を持つものとなるためには、理論の完結性を求めるだけではなく、具体的実践ないし制度化が行われなければならない。デモクラシーは常に未完の過程であって、この過程において実践と理論が相互に作用しあいながら、ともに向上していかなければならない。 31
  • 32. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』 そのため、ここまでの議論を踏まえた上で、討議デモクラシーが、個人が自己の利益を追求しつつ、集合的問題に取り組む場となり、 「公共圏」を形成する場となるにはどういった 制度が望ましいかを考えたい。① 参加者の選定方法② 主催者は誰が望ましいか③ 実際の制度の場においての発言にルールを設けるか④ 討議の結果の合意はどういった形が望ましいか 32
  • 33. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』⑤ 名称⑥ その他 33
  • 34. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』 【参考文献】 ・田村哲樹「熟議民主主義とベーシック・インカム 福祉国家「以後」における「公共性」と いう観点から」2004 年 ・田村哲樹『熟議の理由 民主主義の政治理論』勁草書房、2008 年 ・篠原一『歴史政治学とデモクラシー』岩波書店、2007 年 ・篠原一『市民の政治学 討議デモクラシーとは何か』岩波新書、2004 年 ・小川有美『ポスト代表性の比較政治 熟議と参加のデモクラシー 、2007 年 』 ・有賀誠『ポストリベラリズムの対抗軸』ナカニシヤ出版、2007 年・泰松範行『現代市民社会における討論集会の試み 討論民主主義 熟慮の重要性を検証す る 、1999 年 』・若尾信也『討論民主主義理論の実証分析 「熟慮」過程の政策選好への影響』一藝社、2000 年 ・佐伯啓思『「市民」とはだれか 』PHP 新書、2004 年 ・佐伯啓思「国家・国民・公共性」佐々木毅、金泰昌『国家と人間と公共性』東京大学出版会 2002 年 ・佐伯啓思『現代民主主義の病理』NHK ブックス、1999 年 ・久米郁夫、川出良枝、古城佳子、田中愛治、真淵勝『政治学』有斐閣、2007 年 ・杉田敦『デモクラシーの論じ方~論争の政治』ちくま新書、2007 年 ・川崎修、杉田敦『現代政治理論』有斐閣アルマ、2007 年 ・千葉眞『ラディカルデモクラシーの地平 自由・差異・共通善』新評論、1995 年 ・千葉眞『デモクラシー』岩波書店、2000 年 ・齊藤純一『政治と複数性 民主的な公共性に向けて』岩波書店、2008 年 ・齊藤純一『親密圏のポリティクス』ナカニシヤ出版、2003 年 ・齊藤純一『公共性』岩波書店、2000 年 ・佐々木毅、金泰昌『日本における公と私』東京大学出版会、2002 年 ・山口定『新しい公共性』有斐閣、2003 年 ・山口定『市民社会論 歴史的遺産と新展開』有斐閣、2004 年 ・武智秀行『都市政府とガバナンス』中央大学出版部、2004 年 ・宮本憲一『日本社会の可能性』岩波書店、2000 年 34
  • 35. 『討議デモクラシーの挑戦~下からの公共圏へ向けて~』・今田高俊「社会学の観点から見た公私問題」佐々木毅・金泰昌編『公と私の社会科学』東京大学出版会 2001 年・吉田克己「民法学と<公共性>の再構成」『創文 』444 号、創文社、2002 年・間宮陽介 」 山口定・神野直彦編 『2025 年日本 「グローバリゼイションと公共空間の創設 、の構想』2000 年・新藤宗幸「公= 「行政官僚制」批判」西尾勝、小林正弥、金泰昌『自治から考える公共性』 東京大学出版会 2004 年・山口二郎「戦後民主主義の政策形成における公共性」西尾勝、小林正弥、金泰昌『自治から考える公共性』 東京大学出版会 2004 年・佐々木毅、金泰昌『日本における公と私』東京大学出版会 2002 年・山脇直司『公共哲学とは何か』筑摩書房 2007 年http://mizukami.info/modules/archive/index.php?page=singlefile&cid=1&lid=1 35