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本来の広報のかたち考える
―ジャック・エリュールの広報論を起点にして
鈴木幹久
1.はじめに
広報は組織体のマネジメント機能として論じられ、企業のコミュニケーション活動と同
義で扱われることも多いが、かつては国家および社会運営の方略そのものであった。社会
運営の方略としての広報とは、すなわちいかに社会的意思決定を行っていくのかという問
題であり、民主的社会の集合的意思決定の技術としての広報のあり方を問うことになる。
民主的な社会の意思決定における市民の直接の関与は、間接民主主義の形態においては選
挙が中心となる。選挙のための社会的コミュニケーションとしては、選挙における判断材
料となる情報提供が重要と考えられており、現在ではマスメディアがその役割を担ってい
るというのが一般的な理解である。しかし、このマスメディアと選挙を通じた社会的意思
決定は、本来的な民主主義と呼べるのだろうか。或いはそもそも、本来的な民主的な社会
とはどのような社会だろうか。本稿では、1960 年代にこの問いに対峙し思考したジャッ
ク・エリュールの広報論 1)を手がかりに、新しい広報論を検討する。エリュールの描く民
主主義は理想的であり、洞察する広報は現実的でグロテスクでもある。理想はつい見捨て
られがちであり、現実はつい目をそむけがちである。本稿では、理想的で本来的な民主的
社会のかたちを確認し、それに資する広報を実現する方法を考える。
2.エリュール広報論の概説
エリュールの論理は極めて複雑であり、時事問題と、それを報じるメディアの影響力を洞
察し、丁寧に分析し批評を重ねていく姿勢は、今日広く行われている米国流の経営学的広報
論、簡潔な線形モデルや 2 次元の広報理論とは全く異なるものである。実証研究を科学的
アプローチとして評価しながらも、ギリシャ時代から現代までの広報に同一性も見出し、地
理的にも本国フランスにとどまらず、アルジェリアから中国までをひとまとめに論じてし
まう型破りの広報論議から、今日の広報研究者が対峙することを止めてしまった「広報と民
主主義」、「広報宣伝と教育の違い」、「イデオロギーと広報」といったテーマに真正面から平
然と取りかかる姿は強烈だ。人間の生き方にまで立ち戻って民主主義を再考し、現実の時事
ニュースを吟味しながら広報を論じる知的探求心の旺盛さは並大抵のものではない。ゆえ
に、そこから紡ぎ出される論述は複雑さとともに迫力が生じる。広報を為政者の統治手段や
社会心理学的手法と捉える専門家は多くあっても、情報受容者が広報を求めているという
情報発信者と受容者の共犯性を語る識者は少ない。その原因を現代大衆社会の孤独や不安
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に求め、広報が大衆の孤独や不安を促進し、その孤独や不安がさらなる広報を渇望するとい
った病理学的詳述は、ぞっとする恐ろしさを感じさせるが、こうした記述こそエリュールの
真骨頂である。一方で、エリュールの語りは、読後感として「心の温かさ」を感じさせる。
デストピア的不気味な悲観論ではなく、将来に対する温かい励ましがある。ビッグブラザー
による国家の監視を描いたオーウェル、官僚機構による情報管理と人々の脆さを描いたカ
フカ、娯楽と快楽による管理社会を描いたハクスリーのような世界観が一読すると浮かび
上がるが、エリュールは恐怖や不安による啓発を意図しておらず、ただ現実を直視する強さ
を読者に求めているだけである。文中現れる短くも含蓄のある豊かな比喩が、エリュールの
現実的でありながらも楽観的な力強さの証左と言える。
一方で幾つかの限界にもあらかじめ言及しておく。まず、民主主義とマスメディアが協立
しないという致命的な指摘に対して、エリュールは何の対策も提示できていない。致命的な
現実を直視すべきとの主張はあるものの、それに対して民主主義の制度をどう変えていく
のか、或いは技術によってメディアを変革していくのかといった手だてが示されていない
ため、今後のあり方は読者に委ねられている。また、欧州知識人らしい論理の組み立てとし
て二項対立による議論の組み立てが、全体のフレームワークを成しているが、いずれもエリ
ュール独自の二項対立であり、自身の洞察に基づいた命題設定ではあるものの、学術的知見
としての広報論や社会心理学の研究に必ずしも根差したものではない。エリュールが技術
論を専門とする論客であるために生じる綻びと考えられる。例えば、キリスト教と広報に関
する論述において、広報がカソリック布教の用語であり原理として端を発しているという
広報学の基礎的知識をエリュールが持ち合わせていないことは明らかである。エリュール
は広報の専門家ではない。それ故に逆に、広報論において異彩にして特筆すべき本著が実現
できたと言うこともできる。そう考えれば、こうした限界はそれほど大きな意味を持たない
かもしれない。重要なことは、エリュールの示す現実と正面から向き合うことである。
2-1.広義で捉える広報論
エリュールが捉える広報の範囲は広い。まず、空間的に広い。国家体制に関わらず、あら
ゆる国家が用いようとするものとして広報を捉えようとする。従って、米国もアルジェリア
も、ヒトラーのドイツも、毛沢東の中国も同じ視点から論じることになる。また、時間的に
広い。アウグストゥスなどの時代から連綿と続くものとして広報を捉えている。広報はここ
数十年、つまり第一次大戦あたりから始まったものとしては捉えておらず、また数百年の単
位のものとしても、つまりキリスト教の布教に始まる歴史観も採用していない。現代的広報
はかつてのものとは様相が異なるものの、まだ発展の諸段階にあり、これから大いに科学的
に発展するものとして広報を捉えている。この点が、もう一つの広さにつながる。エリュー
ルは広報を属人的な職人芸の技法としてではなく、新たな科学の発展、特に心理学や社会学
の発展の応用によって為される科学的手法と考えている。エリュールは、こうした分野の科
学者が広報を応用科学として認めていないことを踏まえた上で、物理学が原子力という応
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用を生み出していることを例示して、その偏狭な視野を笑う。このようにエリュールは非常
に広い意味で広報を捉えている。彼の広報の定義は、「心理学的操作を通して結合し、ある
組織に組み込まれた人々の集団的行動において、積極的或いは受動的な参加を引き起こそ
うとする組織化された集団が用いる一連の手法」(Ellul, 1973)というものである。これは、
現在の主要な広報の定義である「組織体とその存続を左右するパブリックとの間に、相互に
利益をもたらす関係性を構築し、維持をするマネジメント機能である」(カトリップ, センタ
ー&ブルーム, 2008)と近しいが、情報、教育、人権の研究と広報の研究には本質的に違いは
ないと考えるエリュールの視座は、他に見ない深遠さを呈し、情報操作といった狭義の広報
論ではなく、メディア産業や社会情勢、人間そのものの性質も含めた広義の広報論となって
いる。本稿ではこれに則り、広報を広義に捉えて、エリュールの語る propaganda と同義の
言葉として扱うことにする。双方向性が現代広報論の特徴とされることもあるが、エリュー
ルは、情報発信者と市民や社会の共犯性を前提とした「積極的参加」を広報の範疇としてお
り、双方向性もエリュール広報論の主要な論点になっていることは明らかである。このあた
りは第3項で詳述する。
2-2.4 つの二項対立
エリュールは、2 つの対比的な広報を 4 セット論じながら、広報の本質に迫ろうとする。
そのうえで、広報が機能主義に基づいている点を徹底的に追及する。広報の目的は、その影
響力にあるとして、効果のない広報は広報ではないと切って捨てる。為政者による大衆操作
こそ、広報の基本であることを本著冒頭、明確に述べている。
まず、政治学的広報と社会学的広報である。権力の機能として広報を捉え、それを政治学
的広報と呼びながらも、それと異なる広報として社会学的広報というものがあると主張し
ている。社会学的広報は土地を耕す作業として、政治学的広報は種を撒く作業として、収穫
を得るにはいずれも不可欠であると言っている。ニュースの流れと社会の基礎的変化を波
と海の関係に例え、多くの人が広報研究において、波に関心を向け過ぎ、海を見ることや、
波と海との関係性を見落としていると指摘する。めったに議論されない海の議論こそ社会
学的広報であり、それは社会的文脈という手段によるイデオロギーの浸透であり、意図的な
広報の結果ではなく、自発的に湧き上がってくるものとエリュールは考えている。この意味
で、エリュールの広報論は、誰かが意図的に引き起こすものとしての広報という考え方を超
越している。いずれにしても、この長期的潮流である社会学的広報は、意図的な広報である
直接的広報に接続されることで効果を発揮する。バーネイズの工学的アプローチとはこれ
であると述べている。
2 つ目の対比は扇動の広報、統合の広報である。扇動の広報に関する記述は、最もグロテ
スクな広報の現実を記述している。こうした現実の直視こそ、人類や社会の基礎であるとエ
リュールは述べているのだから、よく見てみることにしよう。突然夢にも思わなかったよう
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な理想が目の前に広がり、その可能性とそれを実現するための行動が提示される。爆発的な
熱狂であり、それはその性質上短期間しか持続しない。人は極限の緊張、犠牲、献身をそれ
ほど持続できず、そのためヒトラー、レーニン、毛は注意深く緊張と弛緩を組み合わせてい
るという。人には平時の穏当さや休息が必要なのである。この扇動の広報は憎しみを燃料に
燃え上がり、その恰好の餌食は教育をあまり受けていない、知識の程度の低い人であり、興
味深いことにこの扇動の広報には、マスメディアは必要がなく、自己増殖的なかたちで人々
を次々と巻き込んでいくという。扇動の広報と相対する統合の広報が最も重要だとエリュ
ールは言う。これは扇動の広報とは逆に、知識人に向けられる。扇動の広報は言ってみれば、
暴動誘発の広報であるが、もしそれが成功したならばすぐさま統合の広報によって秩序を
取り戻す必要がある。
3 つ目の二項対立は、垂直的広報と水平的広報である。垂直的広報は群衆を形成する個人
を孤立させておく手法であり、連想すべきは熱狂や暴動であり、個人間の対話などはまった
くない。エリュールは、ヒトラーやスターリンだけでなく、今日のフランス政府も米国政府
もこの垂直的広報を徹底していると指摘している。効果は陳腐化しやすく、その意味で垂直
的広報は扇動の広報に相当する。水平的広報は、垂直的広報と比べてより高度な技法である。
機械的でない、自発的な支持を創出する必要があるからだ。小集団が統率され、それぞれ自
発的で活発な議論が行われている社会を想起されたい。垂直的広報はマスメディアを、水平
的広報は組織化をそれぞれ必要とする。水平的広報は成果を得ることは難しいが、得られた
場合の成果は大きい。小集団の形成にあたっては、家族のような伝統的な集団は解体される。
4 つ目の対比は非理性的広報と理性的広報である。非理性的広報は感情に訴えかけ、早急
な行動に訴えかける。対して理性的広報は、統計や分析などを用いて理性的に働きかけ、短
期的な爆発力はない者の持続力がある。この広報は大量の情報で人々の判断力をむしろ失
わせ、批判する力を減じるので、有効である。以上 4 つの二項対立は別表にまとめているの
で参照されたい。
3.広報を必要とする社会
広報の成功には個人主義社会と大衆社会という要件が求められる。この二つは相互に補
完的である。個人は家族、村などの共同体、教区、アソシエーションが解体されるために、
より個人的な存在になる。つながりを失った個人は依るべきところを失い、あいまいな大衆、
社会、人々といった概念にすり寄っていく。帰属していた小集団を失った個人は広報を受け
やすく、広報は不安や孤独をかき立てる。不安や孤独に陥った個人は、広報にその不安や孤
独を解消する大きな理想やその実現のために努力の方法を提示され、無力感を感じていた
人々はある種の英雄主義的な鼓舞によって勇気づけられながら、結果として大衆という巨
大な群れの一員に加わって行動していくことになる。人は自分が重要でないという感覚に
耐えられず、広報が語る物語は自分が相当な人物になることができるから、手放しで広報を
受け入れてしまうのが人の性だとエリュールは考える。この過程で広報実務家は、現代人が
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求める友情や自信といった欲求と、競争や敵対といったストレスを交互に使い分ける。そし
て幻想の解決を提示する。この使い分けは、扇動の広報と統合の広報に対応する。群衆は大
きければ大きいほど個人の孤独は大きく、共同体に属したいという欲求は大きくなる。広報
はこの欲求に応え、集団的イデオロギーを提供し、神話を語りかける。
大規模な社会で形成される世論は、かつて小集団が形成していた集団的意見とは明確に
異なる。顔なじみの人々によるお互いの背景までも知り得た上での集団的意見と区別して、
横のつながりや相互作用のない大衆社会の世論に対して、エリュールは極めて否定的な立
場を取っている。大衆社会によって成立する世論というもの自体にまったく懐疑的である。
個人的知己に基づく集団的意見と、マスメディアによる情報伝達およびそこにおいて付随
する象徴の操作を、まったく異質なものと捉える。個人は家族的な意見と、社会的な意見の
矛盾に直面して、社会的な意見を採用するのである。崇高な理念のために死ねると言ってい
る人は、基礎的な知的分別を消失してしまっていると指摘している。広報が人に与える英雄
主義は、家族よりも国家を優先するよう働きかける。人は正義や平和といった大義のために
行動したいが、そのやり方が分からない。或いはないのかもしれない。広報はその方法も提
示する。そして人はそれに飛びつく。この提示は集団に対して与えられるからその行動は集
団的なものになる。こうして広報実務家は成果を上げ、勝利を手にするのである。
3-1.人々が求める広報
エリュールの広報論の最大の特徴の一つは、情報発信者から受信者への情報伝達におけ
る線形モデルを採らず、両者の相互依存関係を鋭く指摘している点が挙げられる。線形モデ
ルにおいては権威主義的支配者と受動的群衆という前提であり、それゆえに為政者は群衆
を自由に操作できる、或いは広報は簡単に見破ることができ全く効果がないといった主張
の二極につながる。これに対してエリュールは、情報受信者は広報の犠牲になる純朴な市民
ではなく、大衆社会のなかで自ら広報を求める広報成立の共犯者として論じる。馬を水辺に
引いていくことはできても、水を飲ますことはできないと比喩を使う。邪悪な広報実務家の
標的になる純粋な市民という市民像を否定し、心から広報を求める身も蓋もない市民とい
う市民像を描く。エリュールが描く広報実務家は、謎の魔法使いでも悪魔的権謀家でもない。
情報受容者である市民の共犯者であり、より踏み込んで言い換えれば市民の要求に応える
執事なのである。
もちろん、エリュールは市民が「広報が足りない」などと渇望の声を上げることなどない
ことは知っている。逆に、市民は自分を成熟した市民とみなし、にもかかわらず無自覚にも
自分の直面する緊張や混乱を和らげるべく、声を上げることなく広報を求めていると考え
る。この鋭い指摘に対して、自分はそうではないと即座に切り返すことができる人がどれほ
どいようか。
大量の情報が散布されると、人は事実や分析よりも、価値判断やあるべき態度を、情報に
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求めるようになる。これは人々の怠惰であると同時に、人の能力の限界、つまりあらゆる情
報を短時間で処理し結論を出すという不可能性の観点から論じられる必要があるとエリュ
ールは考えている。別な比喩としては、人は日々幾千もの光が輝く万華鏡のなかにいて、そ
の変化と不規則さに耐えられず、一貫性を求めるというのである。全く無秩序な情報の散乱
のなかで、人はそれらを整理する考え方の枠組みや、一貫性のある包括的な回答を必要とす
る。この必要性に応えるかたちで広報は、起きているすべての事象を通底する大きな概念の
体系を提供するのである。人はこれにより、内的矛盾、緊張、自信喪失が緩和される。大衆
のなかで、世論のなかで、人は安定した秩序ある世界を手に入れ、安心と満足を結果として
感じることができる。しかし、この安定と満足の代償は小さくない。彼の世界は大幅に単純
化される。人は安定と満足を求め、その源泉となる世界に固執するので、新しい概念に対し
て閉鎖的になる。単純化され整理された世界は、あいまいさや柔軟さがなく、非理性的なも
のである。しかし、この世界への批判は受け入れがたく、この世界への攻撃を自分の人格へ
の攻撃と捉えるようになる。ある広報の成功は、他の広報に対して排除的な作用を起こすの
であり、他者の異なる概念体系を広報と呼ぶ者は、ある広報の産物であるとエリュールは指
摘する。
このとき、人の思考は停止し、何かを語るとしてもそれは広報の受け売りであり、広報の
世界で右から左へと伝達する経路に陥ってしまう。人は思考しないが、広報にかき立てられ
て行動する。つまり、思考なき行動というものが発生する。エリュールはこの思考なき行動
を現代の最も不穏な事象と考えている。広報が提示する世界を受け入れず、直面する世界と
そのまま対峙し判断するのは、大変な労力である。プロパンガンダは安逸の源泉であるが、
それはアルコール中毒者が肝臓の痛みを紛らわすために酒を重ねるような行為だとエリュ
ールは喩える。
3-2.広報が求められる背景
人が広報を求める社会的背景として、今日の我々が、あまりにも長時間の労働、多大な義
務、多額の税金に圧迫されていて、義務のためだけに働く奴隷ではなく、自由と尊厳をもっ
て労働と向き合う我々にはその労働の正当性が必要になるとエリュールは言う。そのため、
広報は我々の労働に対して、より高次の充足の源泉を与える。戦争に際しても、家族や自国
の保護だけでは兵士を鼓舞することができず、大きな犠牲を得るにはこれまでと異なる必
要性を与える必要があるという。日々の生活においても、明確な目的の欠如や個人の匿名性
を受け入れるストレスといった個人的な困難や、騒音、住宅不足といった社会的な困難があ
り、こうした生活に耐える心理的な支えが人々には必要となる。これらの必要性を充足する
ものが、広報ということになる。
新聞を買い、テレビを家に設置し、広報を受けるのは情報受信者の積極的な行動である。
そのようなメディアを得て人々は批評的精神を養うのだというような主張をエリュールは、
単純で現実離れした自由主義的理想と退けて、現実にそこにおいて機能する広報に目を向
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ける。従って、エリュールの広報成立要件には、広報実務家の優れた創造とともに、社会の
集団的欲求がある。この主張をさらに進めて、情報受信者は一般的には平均的な階級に最も
現れやすいと指摘する。最貧困層はメディアを買うことができないからだ。もちろんこうし
た階層は、扇動広報を受け入れやすく、無料のメディアによってアプローチはできるものの、
平時には自分の生活で手いっぱいの階層には広報は到達しづらいのである。
情報受容者側の考察としては教育にも触れている。初等教育なかでも非識字率の低下は、
読むことには自由の確立につながるとしながらも、何を読んでいるのか、それを批判的に識
別するという初等教育以上の能力が情報受信者には必要であり、大多数の人々はそうした
知性を用いていないと指摘する。19 世紀、20 世紀の初等教育は人を、広報を受けやすく変
え、知的水準は向上しておらず、むしろ広報の技術が人々の推論能力よりも早く進展してい
ると言う。広報は人に知的能力を改善させないが、人々の政治経済、芸術、文化等の領域を
形成して、知識人にも接触する。例えば、資本主義の矛盾、経済危機、植民地主義批判等の
広報に最も触発されるのはこの階層である。知識や批判応力は広報に対抗する武器となる
が、自分の優秀さを信じているがために知識人は広報に脆弱になるという。この場合の広報
は統合の広報である。
知識が及ぼす広報の機能とはどういうものなのか、具体的な例が挙げられている。例えば、
労働者にとって賃金交渉は個人的な、或いはその会社内の問題である。しかし、社会に同じ
問題を抱えた人が多数要ることを告げられ、その政治的、経済的、社会的文脈が与えられる
と、大きな行動が生まれてくるということである。エリュールはこれを同志の連帯とは捉え
ない。ある主唱者による大衆誘導、つまり広報としてこれを捉えるのである。
4.広報と民主主義
エリュールの広報論の主眼は、広報が民主主義と相容れないこと、そしてその広報は新し
い技術を用いながらも現代人が求めることなしでは成立しないこと、現代国家は広報とい
う統治手段を用いなければ成立しないこと、こうしたことを直視する必要性である。逆に言
えば、民主主義を広める広報もあるという幻想、広報は行う人だけが悪いという幻想、広報
を受ける人も悪いがそれは回避でき自分は回避しているという幻想、このような幻想を断
ち切ることを促している。しかし、その後の処方箋は提示されていない。市民的公共性を回
復する熟議型民主主義、アソシエーションや中間集団の諸機能を重視する立場、共同体を基
礎とする社会関係資本論のような対応策は一切述べられていない。しかし、起点となる問題
的を決定的に詳述している点、エリュールの広報論は、21 世紀広報論の基礎となる論考で
ある。特に、広報論に通底する機能主義を鋭く指摘し、理想的であり本来的なあり方として
のプラグマティズム的民主主義論を展開している点は、大きな手掛かりとなる。
4-1.機能主義による目的志向の追及
エリュールが描写する広報とは、成果のない広報は広報ではないという認識に基づく、機
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能主義的議論である。この機能主義的議論に基づいて導き出されるのが、イデオロギーの広
報の従属である。まず、エリュールは目的と手段に関して、レーニンやヒトラーは手段が目
的に優先すると考え、この優先順位が 20 世紀の決定的な転換であったと述べる。目的はイ
デオロギーであり、手段が広報である。かつて広報はイデオロギーを伝播する手段であった
が、レーニンとヒトラーは広報のためにイデオロギーを用いたと言う。2) ここにおいて、イ
デオロギーは広報の下位概念となる。そしてヒトラーの敗北を受けてもその傾向は変わら
ず、今日まで続いていると考える。どのようなイデオロギーであるかは関心対象から外れ、
少なくとも広報実務家にとっての関心事は広報の効果であり、そのために適宜種々のイデ
オロギーは用いられるのである。イデオロギーと広報の関係性をエリュールは機能主義の
徹底という観点から克明にその転換を描いている。
4-2.理想としてのプラグマティックな民主主義と、それを脅かす方略
エリュールは、事実が最上位の概念として強調され、価値観が事実の下位概念になってい
ることに疑問を呈す。事実と価値についてこのように疑義を唱える点、エリュールはプラグ
マティストである。宣言される事実があって、あとはその事実は信じられるかどうかである
ということ、これはエリュールにとって受け入れがたい現象である。議論によって育まれる
真理をエリュールは希求しているのである。広報は伝達と行動を生むが、相互作用を生まな
い。エリュールは問題や判断の複雑さ、意見の多様さ、微妙な差異、暫時的な移行を大切に
考える。個人の考えはこの源泉であり、小集団による議論はこれを育むものである。広報は
マスメディアを通じて、公的な意見として単純さ、分かりやすさ、早急さでこれに挑んでく
る。マスメディアは表明できる個人の意見の数を劇的に減らす。公衆の意見が個人の意見に
優先されるようになる。公衆の意見とは、単純で早急な非理性的な意見であるにも関わらず
である。広報は細部や微妙な差異、協議による洗練という過程を排除し、二大政党制を促進
し、多党制を消失させると予言する。世論が単純化する流れのなかでは必然である。エリュ
ールの思い描く民主主義は明らかにプラグマティックであり、現実に拡がるマスメディア
と選挙の民主主義を否定している。
エリュールは必要性と正統性はまったく区別して考えるので、「必要だからやらなければ
ならないし、やってもよい」などとは考えない。必要かもしれないがやるべきでなないこと
もあると考える。よって、事実に基づき必要性を主張することを弱さと捉え、そのような世
界は人間を否定する世界だと考える。必要性は権力が生むものであり、正統性という人間的
な価値に優先するなどということはないと考える。このことは、本著の主題である広報と民
主主義の共立不可能性の問題につながる。プラグマティズム的民主主義観が基本にあり、ゆ
えに機能主義的広報が完全に否定するということになる。エリュールは全人類への脅威と
して広報を捉え、その現実を直視することを人々に求めている。ここまで強烈にかつ緻密に、
広報の脅威を警鐘した人はいない。大きな概念として広報を捉えたうえで、その危険性を高
度に抽象的で原理的なレベルで詳述するという離れ業を見事にやってのけている。まずは
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エリュールの要求に我々は応える必要がある。つまり、人類の本来的な在り方や民主主義と
相容れないものとして広報を正確に理解することである。
広報は効果を志向し、その効果は常に決定的であることが望まれるから、広報は議論を認
めず、複雑さという世界の本質を認めない。ゆえに、広報は民主的ではないし、多彩で複雑
な人間の本質に対して融和的でない。現代的広報の特徴として、その目的が観念の形成では
なく、行動の誘発にあるとエリュールは指摘する。広報は知的位相を標的としない。知的な
道のりは長期的で不確実なため、短期的で確実な行動には結びつかないからだ。従って広報
は憎しみや空腹を、愛や公平性に優先させ、歴史的な事実や形而上学的な課題よりも、今日
的な出来事を重視することになる。ニュースの表層に人々の関心を向けさせ、思想や熟考を
許さないことに広報の肝要の一つがある。従って、結果として人々は歴史や時間を消失し、
思考停止した虚ろな目で日々のニュースを見て、一喜一憂することになる。大量の情報を
人々に浴びせ、情報の多さのためにそれらの情報について一貫性を見出すことができず、人
は忘却という手段に至るとエリュールは指摘する。人は自分の連続性を否定し、日々の断片
的な存在に陥ることになる。
4-3.直視すべき現実
エリュールは非理性的な多数派による世論は、理性によって行われる民主主義と相容れ
ないものと考えている。世論は市民の権利を行使する能力がない人によって構成されてい
るからだ。広報は非現実的な概念を提示して、人の批判的精神や思考の応用を制限するとエ
リュールは言う。大衆社会によって求められる広報によって形成する世論に批判的精神な
どあるはずがなく、そもそも批判的精神とは個人の宿るものであり、集団的な批判的精神な
どというもの自体存在するわけがないとエリュールは考えている。ここに、大きなジレンマ
に直面する。政府は世論の動向を受け止め、政策に反映しようとする。しかし、その世論は
流動的で理性的でない。世論は不適格な者たちの意見であるから、政府は従うわけには行か
ないが、逃げ出すこともできない。大衆がなければ政府は成立しないが、政府は大衆に従っ
てはその維持は困難になるのである。国家はそのイデオロギーの如何に関わらず、広報を統
治の手段として用いなければならなくなっているとエリュールは指摘する。
では、政府は広報を放棄できるのか。政府は、国家間の広報競争があり、また資源が限ら
れているためにそれができない。他国の広報に脅かされることがなく、優れた教師が十分に
時間をかけて市民的徳を構築していくなら、政府は広報を放棄することができるかもしれ
ない。しかし、現実には、他国からの広報は止むことがなく、手元の資源は限られているの
で、広報という装置に手をつけざるを得ない。限られた資源で大きな効果が期待できるから
だ。
エリュールの決定的な指摘は、「広報は人格や自由を破壊する」というものである。民主
主義の価値と人格を尊重した広報など有害な幻想であると切って捨てている。表現の自由
として展開される広報が幾つか並行することで互いの力を相殺するとの意見に対しては、
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右フックでぐらついたボクサーが左フックで正気を取り戻すことはないと取り合わない。
エリュールは、議論を尊重する民主主義と、広報は決して相容れることはないと考える。民
主主義を普及する広報があるのではないかとの指摘は米国において広く流布していて、多
くの報道関係者や時事解説者の前提になっているとしながらも、あまりに表面的で現実離
れしていると考えている。
エリュールの民主主義は、微妙な意味合いや議論の展開における真理の柔軟さが根底に
あり、さらにその深層には人類への尊厳がある。唯一の真実などなく、敵対する者にも多少
の正しさ、正義、良識があるはずだという尊厳である。こうした尊厳は効果的な広報と決定
的に相容れない。民主主義の基礎的部分は広報の効果を無効にするので、民主的な広報など
成立し得ないのである。広報は価値中立的に用いることができ、民主主義の伝播にも用いる
ことができるという意見に対しては、放射線学者はラジウムをその影響を受けることなく
扱うことができるだろうかと、一蹴する。エリュールにとって民主主義は意見の表出と議論
という不断の実践であり、信念でも信条でもなく、いわずもがな広報される神話ではないの
である。むしろ民主主義という神話を創造することは、民主主義への攻撃であると述べてい
る。もっと言えば、エリュールにとっての民主主義は、政治形態でもイデオロギーでもない。
生き方なのである。その生き方とは、少数派や多様性、複雑さに対する寛容であり、変化や
程度、あいまいさの尊重である。広報は、単純な問題とその明確な解決、標語によって、こ
の生き方を脅かそうとする。緊張や不安、矛盾に満ちた世界から、安定的で一貫性のある世
界への誘いである。広報が唯一創ることができないものが、民主主義的生き方ということに
なる。他者を理解すること、少数派の尊重、自分の意見を再検討すること、独断主義でない
こと、こうした民主主義的特質は広報からは生まれない。民主主義を叫ぶ全体主義者による
広報を、我々は幾つも知っている。それらは例外なく、エリュールの考える意味での民主主
義ではないはずである。
5.広報再考
エリュールの広報論や民主主義論の基礎にあるプラグマティズムは、20 世紀初頭に米国
で発展したパース~ジェームズ~デューイと連なる哲学である。プラグマティズムは、主観
と客観、事実と価値といった二分法に対して、客観性や事実といったものが必ずしも主観や
価値に優先しないと考える。プラグマティズムは時に実用主義と訳されるように、実践的・
実務的性質を帯びており、広報という実務を考察するうえで援用するには親和性が高いと
いえる。また、デューイは、先駆的な広報実務家であり研究者だったリップマンの『世論』
(Lippmann, 1922)に対抗するかたちで『公衆とその問題』(Dewey, 1927)を発表している。
広報とプラグマティズムはすでに 20 世紀前半の時点で、第一次世界大戦と第二次世界大戦
の戦間期において交錯していたのである。本稿では、デューイの影響を受けプラグマティズ
ムをさらに発展させたネオプラグマティストであるパトナムやローティの論考から、新た
な広報論を模索する。
11
5-1.収斂せず、複雑に鮮明になる世界観
パトナム(2002)は原則的に、価値や規範性はすべての経験に優先すると主張する。すなわ
ち、価値は主観的であり、科学は客観的であるとの前提を誤りと考え、科学の客観性は唯一
性・単純性・一貫性といったある種の規範に上に成り立つものとし、事実の知識は価値の知
識を前提とすると考える。世界の正しい記述は客観性にあるとの考えを離れ、認識的価値を
認め、現象学を重んじる。このとき、世界は相対的であり事物は流動的な存在だから、あら
ゆる物事の確定的な事実の存在は否定される。すなわち、可謬主義が導き出される。可謬主
義は、判断の誤りを受け入れるから(というよりも正確な判断というものを認めないから)、
集団的な意思決定に関しては、協力的で民主主義的な志向を採ることになる。プラグマティ
ズムは、現象学とほど近い思考ながら、エポケー(判断停止)ではなく、積極的な議論と、
その後の判断、そして修正を志向することになる。まさにプラグマティズムの実践的・実務
的性質の真骨頂である。つまりプラグマティストは、「真理は客観的で硬く普遍であり、つ
いに誤謬に勝利する。真理が人々の外にあってどこかで我々を待っており、いつか発見され
る」と考えない。「真理は収斂しない。むしろ議論を経てその複雑が鮮明になる」と考える。
その真理観は、探求の末についに発見される普遍の真理ではなく、議論を通じてその複雑さ
が鮮明になる真理なのである。
ローティ(1999)も同様に真理を自然や科学と同一視せず、人文学だけが主観的で相対的で
あるとする見解は否定して、客観性とは間主観性のことであると考える。この世界観は言い
換えれば、人生の活動の目的を「真理を獲得した後の休息」に置かずに、「継続的で共同的
な人間の探索作業そのもの」に見出すことになる。客観性への願望を棄て去って、自分がい
る共同体を超えるような実在に触れてみたいという願望を、連帯への願望に置き換える。プ
ラグマティストは探求の目標を、強制によらない合意と、容認しうる見解の相違との適当な
混合物を獲得することにあると考えるのである。
機能主義的広報論は、科学的に真なる事実や理論が存在するとの前提のもと、最善の実務
を設計しようというものである。機能主義的広報論者は、社会心理学的に正しい広報施策は
社会がいかにあるべきかという社会的規範論とは無関係だと考えた。このとき、保留された
社会的正義や規範といったものは別途設定されることになり、広報実務者はその実務の効
果や円滑さのみに責任を負うことになる。広報実務の正しさと、社会的な正しさは明確に切
り分けられた。これに対してプラグマティストの立場は、事実に先立つ規範の存在を認める
から、社会がいかにあるべきかという規範的な議論なしに広報は存在しえない。社会的厚生
の増大と広報の成功は不可分なのである。例えば、サブリミナル効果を用いた広報は、その
効果が高ければ機能主義的広報論者にとって是となる。原発の拡大キャンペーンは、その広
報により人々の支持を大いに集めたので、望ましい成功という評価になる。これに対してプ
ラグマティストの広報論は、規範と理論を切り分けないため、人々を蒙昧のうちに導こうと
するサブリミナル効果を用いた広報はよくないと判断する。原発キャンペーンは原発拡大
12
の目的やその結果、キャンペーンの手法などを含めて評価されることになる。
プラグマティズムは、真理は収斂せず、複雑に鮮明になると考える柔らかい真理観に立ち、
可謬主義を導き出す。議論を勧奨し、民主主義に基づく議論の拡大を志向する。そして、そ
の後の中庸による選択を説く。つまり、このとき広報は、新たな語彙を増殖して際限のない
議論を促進する民主主義実現の一機能を担う存在となる。プラグマティズムの哲学からの
検討は、広報研究に民主主義との接点や公共性に関わる議論を与える一つの経路となる。
これはまさにエリュールの描く民主主義の世界と重なるものである。20 世紀の広報は、
効果と必要性を念頭に置いた、マスメディアを前提とする広報の世紀だった。効果と必要性
の前提は、エリュールやプラグマティズムが前提とする民主主義にとって、まったく相容れ
ない広報を迫ってくることになる。テレビやラジオといった 20 世紀に興隆したマスメディ
アに代わる、新しいメディアの可能性はいかに導き出されるのだろうか。
5-2.民主主義と広報は今世紀、情報技術によって新たな様相を示す
さまざまな悲観的な事象を積み上げて帰納的推論を展開したのがエリュールであった。
しかし、それでは行き詰った民主主義と広報の協立不可能性を詳述することはできても、そ
の打開策を見出すことは難しい。また、ハーバーマスは民主主義の原理を考察し、演繹的に
その可能性を模索した。その実践が熟議型民主主義であり、市民討議会である。もはやメデ
ィアの前提とせず、対話による民主主義を行う試みであるが、十分に成功しているとは言い
難い。ここでは、プラグマティズムの創始者であるパースが提唱した、帰納的推論でも演繹
的推論でもない第3の推論、仮説的推論により事態の打開策を検討してみたい。仮説的推論
は、正しい 3 段論法になっておらず、演繹(規則⇒事例⇒結果)、帰納(事例⇒結果⇒規則)
と比べて、論理的には弱い推論である。しかし、仮説的推論は直接には観察できない何かを
創造するという発展性を持つ点に魅力がある。3つの推論の違いは別表のとおりである。こ
の大胆な推論を用いて、以下のとおり論理を展開した。
・情報技術は次々と新しい社会のかたちを示している。(規則)
・民主主義と広報は今世紀、新たな様相を示す。(結果)
・ゆえに、民主主義と広報は今世紀、情報技術によって新たな様相を示す。(事例)
導き出される仮説とは、新しい技術が 20 世紀型のマスメディアでは実現できなかった新
しい民主主義を実現し、その実務的手続きである広報は、そのようなかたちで新しい民主主
義との協立を可能にするのではないか、というものである。
パースの直系であるデューイは、20 世紀の初頭に興隆するマスメディアに危うさを察知
し、マスメディア実務家であるリップマンの諦観に対し、マスメディア民主主義の協立不可
能性を緩和するべく、プラグマティズムに基づく教育論を展開した。しかし、時代の趨勢は
13
リップマンや、同じくマスメディア実務家であるバーネイズを支持した。というよりも、ま
だその時代はマスメディア時代の幕開けの時期に過ぎなかった。第二次世界大戦の国際宣
伝戦や総動員体制の支援、大衆消費社会の創出と促進というかたちで、マスメディアは 20
世紀の主役的地位に君臨した。インターネットという新しいメディアによって、それが実現
するという仮説は甚だ日和見的ではある。インターネットが含意する双方向性、脱中心性、
創発生は、ラジオやテレビといった無線の登場時点でも盛んに論じられていた。その新しい
社会の到来という可能的様態時代の夢想は、政治的、経済的、社会的要請にもとづく制度化
の過程を経て、今我々が知るかたちであるところの現実的様態に落ち着いてしまった。
しかし、この仮説は多くの人に支持され、検証されている。ここでいう検証とはインター
ネット等の情報技術を基盤とした技術の応用によって、新しい民主主義を実現しようとい
うものである。敢えて大別するならば、ここで想定している試みというのは、既存のマスメ
ディアを想定しないことはもちろんのこと、既存の民主主義を前提としていないというこ
とが重要である。つまり、既存の民主主義とは、選挙に基づく代表制、一人一票の原則、多
数決などであり、つまり、公平なるメディアによって構築された議論を傾聴した賢明なる人
民は適切と考えられる代表者に投票し、多数
決によってその代表者は選出され、代表者は
議論の上、重要な公共的意思決定を行うは、
その過程はメディアによって、ひいては人民
によってしっかりと監視されているため、適
切な意思決定が行われる、というものであ
る。この考えが、マスメディアの機能の本質
を直視できていないこと、民主主義とは何か
ということについて詰めて考察ができてい
ないということについてはすでに述べた。具
体 的 な 新 規 の 取 組 は 、 Civic tech や
Personalized Democracy といった一連の流
れに見ることができる。情報技術による民主
主義の本来性回帰は、すでに起こっている未
来である。インターネット技術を使ったパー
ソナライズド・メディアやユーザー・ジェネ
レイテッド・メディアが描く概念がまさにそ
れである。
5-3.本来の広報が志向する社会
ここまでの議論を踏まえて、我々の本来の世界を改めて記述してみよう。
3つの推論の違い
演繹
(1)この袋の豆はすべて白い(規則)
(2)これらの豆は、この袋の豆である(事例)
(3)ゆえに、これらの豆は白い(結果)
帰納
(1)これらの豆は、この袋の豆である(事例)
(2)これらの豆は白い(結果)
(3)ゆえに、この袋の豆はすべて白い(規則)
仮説
(1)この袋の豆はすべて白い(規則)
(2)これらの豆は白い(結果)
(3)ゆえに、これらの豆はこの袋の豆である(事例)
14
相互の連関の中で、絶えず変化する社会こそ本来的であり、その社会のかたちこそを民主主義
と呼ぶ。話し合いに基づき、物事が決定するが、その決定は投票や多数決では決して決まらない。
一人はその他の成員すべてを反映し、その他の成員も同様に、自分以外の存在を反映する。一人
ひとりはそれぞれ違うから、実に多様な世界である。一人の存在が失われたとき、社会はあまり
大きなかたちの変化を見せずにそのままあり続けるが、かけがえのない一人を失った社会は少
し寂しい世界になる。個は重なって、個の単純な重なりからは想像しえない全体を作り出す。個
は全体の部分として全体の一部を構成せず、個は全体が少しだけより鮮明に見えるように全体
に貢献する。多数から成る全体は、一部を失っても全体としてのかたち(機能とも言い換えられ
る)を決定的には失わない。ただし、その魅力はほんの少しだけ減ぜられる。全体はよりよい全
体のために、かけがえのない一部を大切にする。
部分は、その様相と異なったかたちで全体の様相に貢献する。部分は全体を把握できない。
人は社会を把握できず、ある特定の概念は宇宙という全体、言い換えれば究極の知を得るこ
とはできない。この不可知論は、プラグマティズムと通底するものである。(プラグマティ
ズムは不可知論から可謬主義を展開し、その結果積極的な生の哲学を主張する)。全体は部
分が把握できないかたちで、全体的なパースペクティブを提供する。全体に貢献する部分の
数が減少すると、全体の鮮明さは減少する。多様な個の存在が全体を豊かにする。
21 世紀の広報論はこうした社会観を基礎に成立するとよいと思う。幾つかの要件を今一
度整理して示してみることにしよう。部分は同一であってはならない。多様性の原則である。
部分は全体を把握できずに間接的に全体に貢献する。部分は全体に対して全体的に貢献す
る。部分は全体の一部の機能という役割を担わない。部分は無知のヴェールの暗闇のなかで
全体的な役割をうっすらと果たすことになる。この不可知論は、見えざる手と同じ論理であ
る。見えざる手は、部分の最適化が、まったく別の位相で全体の最適化に貢献するというも
のだが、ここでは最適化ではないが、個々の生的で多様な活動は、全体として部分とは異な
る位相で、全体の豊かにつながるというものである。
また、互いの相互依存は、互いの存在そのものに関わる、決定的な相互依存である。ゆえ
に、社会の理想像という意味での民主主義は、変化を前提とするし、対話を尊重するし、一
切の存在を包含するので必然的に少数派を擁護することになる。20 世紀のマスメディアの
かたちでは、この要件を満たすことができない。部分は全体の一部である。全体なしに部分
はないが、部分がなくても全体は機能する。対話の優先順位は低く、多数決によって少数派
は軽んじられる。情報発信者、メディア、情報受信者という線形モデルはあまりにも世界の
本来のかたちと異なっている。エリュールは情報発信者とそれを受ける情報受信者という
構図では広報は成立しないと指摘した。情報受信者の必要性が広報成立の要件であること
を指摘したのである。これは鋭い指摘ではあるが、我々はこれをさらに進めて、二者の決定
的な相互依存関係を確認した。
我々は部分がそれぞれ多様であることを確認した。このことから部分はそれぞれに違い
15
が明かであることが明確である必要があるものと考えられる。例えば、部分にはそれぞれ異
なる名称があることは好ましいことのように思われる。先に我々は投票という手続きに否
定的な見解を示したが、無記名投票という現代において一般的な投票方法を、投票という手
続きを否定的に論じる論拠の一つに加えることができそうである。投票はそもそも無記名
であることが自明の理ではない。議論という過程は、多くの場合は成員による意見は自らの
名の下で行われる。このことは、我々が議論という過程を重視する新たな論拠となる。従っ
て、我々は匿名を軽んじる。匿名は奴隷であり、市民には名前があるとアレントは論じた。
従って、我々は匿名による議論は虚しいと考え、匿名でない投票には意義を見出すことにな
るのかもしれない。いずれにしても、こうした複雑な世界を成立させるメディアの成立には、
新たな情報技術が重要であるということが本稿の現状打開策に関する結論である。
マスメディアの基本的な機能は、ある点から多数の点への情報の伝達である。もし、新し
いメディアがインターネット技術を用いてその逆の機能を果たしたならどうだろうか。よ
り具体的な仮説、つまり社会実験の要領は、住民からの要望や問題意識に対し、議員や行政
が一一答えていく仕組みを作るというものである。その時、メディアの機能はもちろんのこ
と、民主主義は新しい様相を示すことができるのではないだろうか。選挙制度や国のあり方
が劇的に変わらなくてもである。
現状の民主主義とマスメディアは、世界を固く、粗いものにする。これは本来的な世界で
はない。制度や技術が、世界本来のしなやかさや細やかさをなくしてしまっている。新しい
民主主義とメディアは世界を少ししなやかで、細やかにするはずである。現状の民主主義と
マスメディアは中心点をその周辺の多数の点に反映することができる。新しい民主主義と
マスメディアは、あらゆる一点がそのほかのすべての点の要素を持つことになる。したがっ
てある点はすべての点に自らの要素を反映させるということでもある。
6.まとめ
本稿ではエリュールの指摘を起点に、本来の民主主義のかたちを確認するとともに、それ
がマスメディアおよび広報そのものと相反するものであることを確認した。次に理想であ
るプラグマティックな民主主義を実現するための基礎となる広報のあり方を探索し、最後
に情報技術が鍵となるという仮説を打ち立て、改めて我々の本来的な世界のあり方につい
て確認した。思索と実践の無限の連関こそプラグマティズムの本文である。今後は、具体的
な実践活動を通じて知見を深めていきたい。
注
1)ジャック・エリュール(1912-1994)は、フランスのボルドーで活躍した学者であ
り、知的活動家である。ボルドー大学がエリュールの拠点であった。「プロパガン
16
ダ」が出版された 1962 年時点のボルドーの人口 25 万人であり、人口が分散している
フランスにあっては、人口数でみると 10 位以内に入るものの、日本に置き換えてみ
れば、政令指定都市には及ばない、平均点な地方都市を連想してよいだろう。一般的
な地方都市で、目まぐるしく変化する世界情勢に目を凝らし、メディアの動向に耳を
傾け、超世紀的な洞察を展開した知識人である。「グローバルに思考し、ローカルに
行動する」(Think Globally, Act Locally / Penser globalement, agir localement)の
主唱者の一人として知られているが、文字通りそれを実践していた人である。エリュ
ールの「プロパガンダ:人々の態度の形成」は 1962 年にフランス語で刊行された。別
表にまとめた時代背景の通り、テレビがメディアとして力を持ち始めながら、東西冷
戦構造における世界各所での紛争が勃発し、それに呼応するかたちで人工衛星の開発
競争が本格化する時代である。技術論を専門とするエリュールにとって、メディアや
宇宙開発の技術革新と、国際情勢の激動が連動する時代は極めて刺激的な毎日だった
に違いない。同時に、フランスの植民地独立など自国との連関の中で生じる国際政治
のダイナミズムを、地元にとどまり洞察したが故に掴むことができた核心は、表層的
で虚ろいやすいメディア論や国際政治論とは一線を画すものである。地に足のついた
広報論は、地域で社会を生き、人々と暮らしているからこそ分かる社会のリアリティ
の肌感覚によるものと考えられる。技術論や国際関係論が、人々のリアルな社会心理
と相まって、他にない広報論が成立しているのだろう。描き出す世界は目を背けたく
なる異様さに溢れるが、エリュールの人類愛や困難に立ち向かう力強さによって、嫌
みのない読後感を残すのも本著の魅力の一つである。
2) エリュールの描く現代的広報や広報実務家の典型は、例えば我が国においては 20
世紀最も影響力のあった広報研究者の一人である小山栄三の広報実務家像を見れば明
らかである。小山はどこまでも徹底的にその効果に焦点を当てている。まさにエリュ
ールが広報の関心事とはその効果であり、効果のない広報は広報ではないとしたこと
と一致する。こうした論考のなかで、小山は完全に規範論を棚上げする。小山が戦
前・戦中は日本政府の下で、戦後は GHQ の下でその力を存分に発揮したのは、小山自
身によるこうした広報テクノクラート論の実践ともみることができる。
小山広報論の機能主義の源泉は、小山の視点が一貫して情報発信者、主として政府の
パースペクティブに置かれていることにある。メディアやジャーナリズムなどの議論
はあくまで媒介者という限定的な地位にとどめる。また、情報受容側に対しては、広報
実務の対象として十分な調査と配慮なしに広報施策の成功はないとしながらも、「指導
されるべき大衆」との見方は揺ぎない。
情報発信者として科学を志向する小山は、必然的に規範論に消極的であり、広報はあ
くまで機能である。広報による社会変革が社会にとって有意義であるか否かは広報研
究の範疇になく、いかに有効に機能するかが広報研究の関心事であると機能主義論を
17
主張する。規範的議論を排し、科学的により確かな施策を体系的・理論的に選択し実施
するという、広報テクノクラート的理想が小山の思想の基礎をなしている。つまり、広
報実務の結果に伴う倫理的評価は、その主たる実施主体が負うべき責任であり、広報は
あくまで外在する社会的価値を実現する手法にすぎないのである。広報技術者として
の立場を徹底した主張ではあるが、規範論を徹底的に回避した小山の見解は、終戦に伴
う広報研究の見直しのなかで、戦後少なからず批判を招くこととなった。民衆の愚昧を
前提とするエリート主義的態度や、倫理的議論を回避し施策の効果にのみ責任を負う
とする広報テクノクラート的態度に対してバランス感覚の欠如を指摘されたのである。
小山にとって人々とは、選民によって作られた政策を理解するために情報を受容し理
解するだけをする存在であり、民主主義に関する思考は目立って少なかった。
小山栄三は戦前においては、大日本帝国政府の広報や、国家覇権による他民族の併合
という文脈におけるコミュニケーションや社会学的アプローチとして優生学に従事し
た。それは激動の時代にあってバランスの取れた考察だったが、結果的に民族同化政策
を推進する立場をとった。小山は、広報の社会的機能の源泉は世論を形成する力にあり、
広報の成功によって世論や社会はより統一的になるべきと考えていた。抽象的な観念
は、人々を把握して組織して民衆の行動を拘束するうえで重要と考えており、広報をそ
うした特定の思想や観念を人々の行動において実現する必須の手段と捉えていた。小
山にとっての広報は、人々の批判的能力を発達させるというよりはむしろ鈍らせるも
のであり、集団反応の操縦方法だったのである。このような観点から、国内向けにはエ
リートによる民衆指導を、国外に対しては諸民族の同化を是とし、それほど明確ではな
いにして優生学的民俗研究に傾斜したのである。戦後においては、GHQ の下で、世論調
査などの大衆に係る業務に従事した。広報テクノクラートとして効率主義を一貫し、規
範論を棚上げし続けた。20 世紀の広報実務のリアリティはこのように機能主義で一貫
していたことが明らかである。
参考文献
Civic tech http://civictechforum.jp/
Ellul, J., Translatoration Kellen, K &, Lerner, J., Propaganda: The Formation of Men's
Attitudes (Propagandes; original French edition: 1962), New York, VINTAGE
BOOKS, 1973.
H.パトナム 著, 藤田晋吾・中村正利 訳(2011)『事実/価値二分法の崩壊』法政大学出版
局
J.デューイ著, 植木豊 訳(2010)『公衆とその諸問題』ハーベスト社
小山栄三(1954)『広報学 : マス・コンミュニケーションの構造と機能』有斐閣
S.M.カトリップ・A.H.センター・G.M.ブルーム著, 日本広報学会 監修(2008)『体系 パブ
リック・リレーションズ』 ピアソンエデュケーション
18
R.ローティ 著, 冨田恭彦 訳(1988)『連帯と自由の哲学』岩波書店
W. ジェイムズ 著, 桝田啓三郎 訳(1957)『プラグマティズム』岩波書店; 改版
W.リップマン著, 掛川トミ子訳(1987)『世論 上・下』岩波書店
米盛裕二(2007)『アブダクション 仮説と発見の論理』勁草書房
Personl Democracy Forum http://go.personaldemocracy.com/
19
400 字以内の和文要旨
ジャック・エリュールの広報論を起点に、広報の本質について考える。組織体の双方向のコ
ミュニケーションという今日的な機能主義的目的の限界を指摘したうえでそれを放棄し、
民主的社会のための合意形成こそが本来の広報の目的であることを確認する。この時、民主
的社会とは究極目標であり、すなわちラディカルデモクラシーの立場を採ることになり、抽
象的にはプラグマティズムの世界観が理想的な社会像になる。それに対して、マスメディア
の技術システムはその実現には力とならず、20 世紀はその反省材料が山積している。翻っ
て今世紀重要な進展をみせるインターネット等の新しい情報技術が、本来的広報の理想を
実現し、本来的な社会を実現する可能性があると考える。以上の事柄について詳述した上で、
最後にその具体的方略についても検討する。
100 語以内の英文要旨
This paper considered the substance of public relations from PR theory of Jacques Ellul
who pointed out the negative relationship between democracy and PR. This study
abandoned the general functionalism approach, and confirmed that the radial purpose
of public relations is to form social consensus toward better democratic society. By
adopting the pragmatic world view and the logic, the internet was confirmed to be able
to replace mass media that had generated many problems in the last century to fulfill
the radical purpose.
和文キーワード 5 つ
広報、マスメディア、民主主義、プラグマティズム、インターネット
英文キーワード 5 つ
Public Relations, Mass Media, Democracy, Pragmatism, Internet

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