沼津街中ウォッチング
沼津史談会 2016年第2回「沼津ふるさと講座」
20116年(平成28年)5月8日 13:30~ 於沼津市立図書館
本会会員 上本通り商店街理事 長谷川徹
沼津の発展のナゾにせまる
*基礎はどのようにきずかれたか
*城に代わり沼津が選択したもの
*近代的なマチの形成と交通
資料作成: 長谷川徹・匂坂信吾・渡邉美和
1. 現在の沼津市街地の地形
■ 沼津城のあった位置
標高8mの等高線
標高12mの等高線
標高4mの等高線
愛鷹山と箱根の鞍部に形成された扇状地地形の末端に沼津の
城、そしてマチが作られた。
このような扇状地形の形成には、三島溶岩流・御殿場泥流などのほか、
河川による作用などいろいろな意見もある。
この辺りの不自然さは工場設置による整地
2. 三枚橋城の築城 天正5年夏(1577)
扇状地地形の末端に三枚橋城が築かれる。
内堀と外堀を伴った、砦ではない本格的な城
としての建設。
内堀
狩野川も外堀として利用
外堀
発掘された石垣
現リバーサイドホテル地下
上図で「外堀」矢印の付近
乱積みではあるが、「落とし込み」と
呼ばれる強固さを有した石垣であっ
たことがわかる。
同じ時代に設けられた旧清水市の江尻城とは、規模や川沿いなどの類似点も多い。
3.明治維新頃の城跡の状況
外堀
内堀
東海道
馬場 沼津病院や兵学校関連施設
払い下げ前の沼津城二の丸御殿
(城主水野屋敷:後に兵学校校舎)
「太鼓櫓から二の丸御殿を望む」
4. 明治維新後の城の様子
太鼓門はココ!
太い矢印の方向
を向いてここで
撮ったか? この辺りは石垣らしきもの
この辺りは単なる土塁
これが太鼓櫓か?
太鼓門か?
慶應四年
八月 沼津城を徳川氏に明け渡す(沼津藩家臣団内訳:沼津在住・侍小
屋百五軒・惣長屋五十六棟・世帯三百八十五軒・男千百八十一
人・女千百八十八人・江戸在住・世帯九十七軒・男百七十人・女
百五十六人)
明治元年
九月十二日 旧幕臣子弟の教育のため、添地の長屋(八幡神社北東あたり)の
一屋を「代戯館」と名付け授業が始まる
十月 代戯館が片端に移る
十月二十二日 西周助(四十歳)江戸を発し沼津に向かう
十月二十二日 西周助・塚本明毅・大築尚志ら徳川家兵学校(沼津兵学校)教授
陣が任命される
十月二十四日 西周助夫妻が沼津宿本町近江屋旅籠に着く
十一月十五日 西一家、片端十九番屋敷に移住
十二月 兵学校掟書(西周助起草)・附属小学校掟書(赤松大三郎起草)制定
十二月八日 徳川家兵学校附属小学校(代戯館を引き継ぎ)開校
(校舎は城の西南隅太鼓門外の長屋をあてる)
明治二年
一月八日 徳川家陸軍兵学校が沼津城二の丸旧城主水野邸を使用して
開校 (明治二年八月沼津兵学校と改称)
三月十七日 陸軍医所(沼津病院)を沼津西條町五に開設
(杉田玄端陸軍医師頭取)建物は江戸の旧薩摩藩屋敷を移設
(二階建て硝子窓、スロープ)
八月 兵学校附属沼津病院と改称
街中ウォッチング 沼津兵学校・附属小学校・沼津病院関連資料 平成28年5月8日
参考資料 1
明治三年
一月 静岡藩小学校に改称(徳川家兵学校附属小学校から)
四月十九日 静岡藩小学校は丸馬出門外の片端に
洋風、二階建(赤松大三郎設計)新築移転する
九月 沼津兵学校頭取西周、明治政府の徴命により上京(明治二十三年
貴族院議員、明治三十年男爵を授けられる)
明治四年
七月 廃藩置県 静岡藩が静岡県となる
九月 陸軍医学所閉所
十一月 沼津小学校に改称(静岡藩小学校から)
十二月十六日 沼津兵学校(明治四年九月廃校)より
沼津出張兵学寮と改称
明治五年
五月十一日 沼津出張兵学寮(沼津兵学校)廃止
五月 附属沼津病院、廃止となるも、杉田玄端が徳川家に嘆願し
「私立沼津病院」として明治五年八月より経営する。
八月 学制が設定される
十月 沼津城静岡県によって分割売却始まる(明治六年十二月廃城)
明治六年
一月 城内町々立小学集成舎(沼津小学校の後身)
沼津城廃城後は宿場町と城内(城郭・武家屋敷)を一体として沼津駅と呼称される
参考資料 2
5. 明治維新後の城跡の活用-1
6. 明治維新後の城跡の活用-2
現在の地図へ当時の施設を落とし込んでみると・・・・・
兵学校だけでなく近代病院の先駆けである「沼津病院」も設置される。
(前略)現時余が経営する駿東病院は、今日こそ無名の一地方病院であるが、其起原に溯て見る
と、帝大よりも古く由緒ある史蹟保存的病院である。沼津兵学校附属病院であって、明治二年三月
徳川家の創立にかヽり、建物は薩摩屋敷の建物を海路運搬し来り杉田元(玄)端先生を頭取として
錚々たる蘭医を以って組織したものである。始めは軍医養成の目的であったが、兵学校の方は東
京に移り今日の陸軍士官学校の前身となったが、附属医学校は軍医養成所に到らず、紆余曲折の
経路を経て、遂に今日の私立になり終ったのである。
余は就任後内部を改造したが、どことなく武家長屋と云ふ観があり。頭取室の長押には古びた槍
と薙刀が掛って居ったので其余斑は推して知るべしだ。只独り珍とすべきは、明治初年以来引継ぎ
使用して居る舶来の外科及産科器械の具備し居る事である。杉田六蔵氏(杉田元端の六男)の言に
よると新知識吸収に最も熱心であった徳川慶喜公が、幕末長崎の和蘭商館の手を通して購入して
置いたのを杉田先生が陸軍医師頭取として沼津に赴任する際、公が先生に贈与したとの事である
が、外科器械は仏国巴里製の極めて精巧なる切断刀、両刃刀、弓鋸等の類にて、余は今尚之を愛
用して居る。恐らくは現今こんな歴史的貴重品が揃って居る所は他にないと思ふ。和蘭の医学書も
倉庫に山程積み重ねあったが、明治十四年長与専斎先生が本病院を視察した際、国宝的価値の
あるものは一纏めにして東京に持ち帰へられたと云ふ事である。
由緒ある病舎は古りぬ夏木立
以上は日本医事新報第壱千七十八号 所載也 《昭和18年5月29日発行》
(佐々木貞氏所蔵) (「図録 近世・近代沼津医療事情」明治史料館・平成十八年)
7. 兵学校と並ぶ沼津の近代施設-沼津病院・駿東病院
「沼津駿東病院」佐々木次郎三郎 沼津市駿東病院長
沼津病院 頭取 杉田玄端
の六男・杉田六蔵氏が、昭和16年に沼津
郷土史研究談話会の創始者・大野虎雄に
依頼されて揮毫したもの。
8. 沼津病院の遺構の顕彰は温められてきた
記念碑が実現しないまま、
大野宅で永い眠りについて
いた。
沼津病院頭取室
9. 写真から見る沼津病院
沼津病院で用いられていた当時の手術用医療器具
沼津にとって、「沼津病院」は兵学校に劣らず歴史的に重要な存在だったと見られる。
大正時代と思われる沼津病院
(「駿東病院」と記載されている)
(駿東病院画像は明治41年発行「沼津の
栞」より転載)
「沼津町西の條」と所在地が書かれ、
現在の西条町は当時「西の條」と呼ば
れていたことがわかる。
写真からは木造2階建てだったこと
や、車寄せらしき玄関が写っている。
10. 兵学校と並ぶ沼津の近代施設- 附属小学校
明治元(一八六八)年九月に創立された代戯館から同年
十二月に沼津兵学校附属小学校となる。現在の沼津市
立第一小学校であり、明治三(一八七〇)年に沢田学校
所として設立され沼津兵学校附属小学校第一分校と
なった現在の沼津市立金岡小学校が、直接には沼津
兵学校附属小学校を引き継いで存続して来ている。
現在の沼津市立第一小学校 現在の沼津市立金岡小学校
日本でも初期の小学校で、洋式算数教育を実施する嚆矢となった。
左写真が第2代沼津兵学校頭取の塚本明毅による算数教科書『筆算訓蒙』。
11. 兵学校附属小学校の洋式算数教育は日本の嚆矢
初級 ・数字 ・加減 ・乗除
一級 ・度量権衡・諸等加減乗除・分数全部
二級 ・比例式全部
三級 ・開平開立 ・雑題復讐・算盤用法
また、「算術ハ級数対数表之用法等教授致し可遣事」と付記
され、学習を終えた者で希望があれば、「級数対数の表の用
法」まで教えている。
入学は七八才から十八才だが、以下のような例題がある。これが沼津の江戸時代直後の
小学校の算数の問題。あなたは簡単に解けるかな?
教科書として用いられていた「筆算訓蒙」の設問で特徴的なのは、この時代の数学書の設問として
の応用問題より更に広い知識が同時に得られる点。設問の背景には、日本地理・世界地理・歴史・
天文学・物理なども登場し、生徒はそれだけでもワクワクしながら授業を受けていた様子がしのば
れる。例えば、「諸等加減乗除」の設問としては次のようなものがある。
「第一 京都は英国グリニッヂ天文台よりも天体の南中時刻は九時間三分五秒早い。東京は九時
間十九分十九秒早い。その時、京都と東京と時刻の差はどの程度か」(渡邉美和訳)
塚本明毅
12. 東海道線開通直前の沼津停車場道路の建設
現在の駅前通り
城内の道路建設が進んでいる。
カギ型の城の道路の様子は次々と
失われる。
ただしこの図は予定線か?
当時はまだこのような直線で幅広
ではなかったと思われる。
外堀は既に明治維新頃から
埋め立てが進んでいる。
下の図は明治20年ころの沼津城内絵図。幅広い直線道路の、城跡への建
設が推進。 外堀・内堀も埋立てが進む。→ 物流に寄与、商業の発展。
13. 東海道本線開通直後と明治40年頃の沼津停車場
開通直後の初代駅舎
明治40年頃
よく見ると形が異なる。
現在の南口駅前コンビニの辺。
現在のイーラdeのある場所。
13-2 大正2年沼津大火前の停車場通り
東海道線沼津停車場
駿豆電気鉄道電車
通りは6㍍程の幅員で土であった。
尚大火後の道路拡張で広くなった。
電
車
の
軌
道
ニ
ワ
ト
リ
14. 明治39年には駿豆電気鉄道の軌道が開通
大正中期の軌道
現在の駅前通りも既に
城跡を穿って開通。
電車の線路がココだが、2枚の地図では微妙に
ルートが異なっている。
良く知られているような現在の大手町交差点で90度
方向を変える線路はなったのは、大正時代に旧国道
1号線が城跡を貫いて建設されてからのようだ。
直線の広い道がどん
どん建設される。
大正12年追手町停留所・沼津測候所
東海旭日新聞市制施行記念誌(写真集)より
15. 何度もの大火や戦災を経て昭和30年代後半
駅内に店の入る駅舎形式も比較的早かった。 西武の開業は昭和32年。
現在の駅前通り
16. 商店街防火帯ビルの建設 昭和30年代
先陣を切ったのはアーケード街。 今も続く正秀も見える。
何度もの大火被災から、大正年間に防災マチづくりが始まるとともに、防火帯としての
道路拡幅もはじまったか?
この間の沼津のグランドデザインについては、今なお調査中 請うご期待 !
アーケード街建設のための仮営業店舗
17. アーケードの商店街は広がり、沼津のマチの特徴に
浅間町ビル 上土センター街
幅広く安心で快適にショッピングを楽しめる完備された歩道も沼津の特徴。
→ マチ全体が、「ショッピングモール」
18. 沼津のマチのナゾと私達
現在に続く沼津は、扇状地地形の突端という城づくりの基本を
ベースとして始まった。
城と商業(集散地)は共に歩んだ(城の無い期間に集散地機能は
却って高まった)。
明治維新に際して沼津は城との関係を断ち切った。その代わり
に城内に近代施設と道を作った。
道の拡充は、更に商業機能を高めた。
大正15年の大火が契機となり、沼津は昭和2年に始まる道路
拡張計画を逸早く採用した。
沼津のマチには、こうした歴史遺産が残っている!
さあ、街中ウォッチングへ
昭和51年の沼津商店街
19. 参考資料 沼津商店街-1
昭和61年駅前通り商店街(現大手町商店街)
仲見世商店街・駅前名店街
20. 参考資料 沼津商店街-2
沼津上本通り商店街
上土・センター街
21. 参考資料 沼津商店街-3
アーケード名店街
新仲見世商店街・銀座通り商店街
22. 参考資料 沼津商店街-4
本町商店街・大門商店街・御成橋商店街
香貫商工振興会
23. 参考資料 沼津商店街-5
リコー通り商店街
24. 参考資料 沼津商店街-6
中央通り商店街・新宿町商店会
おしまい ご清聴感謝

沼津街中ウオッチング渡邉確定 Z