沼津ふるさと講座四方氏と仙石氏が解説
沼津郷土史研究談話会(沼津史談会)は十
四日、フレッシュ 150(沼津兵学校百五十周
年記念事業)の一環として、「沼津ふるさと
講座」を市立図書館講座室で開催。約四十
人が参加した。
結核転地療養先に沼津も
沼津に生涯を捧げた佐々木
史談会では、明
治の初めに沼津兵学校に併設された沼津病
院(後の駿菓病院)の顕彰事業を計画してい
る。これにちなみ、元国士舘大学教授の四
方一彌(よも・かずみ)氏が「沼津の医と文化」、
郷土史家で医師の仙石規(せんごく・ただし)
氏が「沼津に生涯を捧げた医師佐々木次郎
三郎」というテーマで、それぞれ話した。
医と文化四方氏は明治時代の沼津におけ
る医療環境の特色として、外科などを扱う
一般的な病院と、患者が環境の良い場所で
静養する転地療法のための病院の二系統が
あったことを解説した。前者の代表が駿東
病院で、後者の代表が志下の静浦海浜院。
当時、海水浴は健康法の一つと見なされ
ていて、各地に海水浴場が整備され始めて
いた。この動きを進めた一人が内務省に勤
務する医師の長与専斎(ながよ・せんさい)
で、明治十七年(一八八四)に神奈川県の鎌倉、
翌年に同県大磯に海水浴場を建設した。こ
の動きの影響を受ける形で沼津でも海水浴
場が開設されたという。
このころ、国内では結核の流行が始まっ
ていた。結核の治療には転地療法が採用さ
れたため、沼津にも多くの結核患者が訪れ
たという。その中には文化人も含まれてい
て、こうした人々との交流は沼津の地域文
化にも影響を与えたと四方氏は指摘した。
佐々木次郎三郎仙石氏は、駿東病院の院
長を務めた佐々木次郎三郎(一八六九~一
九四六)の生涯を解説した。
佐々木は現在の岩手県南部の一関(いち
のせき)藩の藩士の家に生まれ、同藩士の
佐々木家の養子となった。現在の東京大学
医学部を卒業して母校に勤務したが、教授
や内務官僚の後藤新平らの勧めもあり、明
治三十年(一八九七)に駿東病院の院長とし
て沼津に赴任することを決めた。
赴任当初、佐々木が若かったこともあり、
当時の沼津の人々からは冷たい仕打ちを受
けることも多かったという。佐々木もこれ
に対抗し、沼津以外の患者を優先的に診療
するようなこともあった。
しかし、佐々木は徐々に沼津の人々から
の信望を得ることとなり、ドイツへ留学す
ることになった際には、帰国後も沼津で医
師を続ける決意をしていたという。後に駿
東郡医師会の会長を務めたり、沼津市議に
三回選出されたりなど、地域の名士として
も活躍した。
また、病院の運営に当たっては、看護婦
の養成を進め、入院料制度を整えるなど、
病院発展に尽力した。
このほか仙石氏は、佐々木の人となりに
ついて、講道館で柔道を学んだり、生前の
清水次郎長と面会したりと、独特の気風の
持ち主だったこと、趣味として釣りや俳句
に打ち込み、沼津の花柳界でも人気のある
有名人だったことなどを話した。
【沼新平成 28 年 8 月 21 日(日)号】

沼津ふるさと講座四方氏と仙石氏が解説