東海道沼津宿
往時(むかし)は三枚橋(駅路鈴に三枚橋は古昔車返と謂うと)より北に折れ
五反田に通じ官道(車返)を置きしも弘治年間(1555 年)車返の古道を廃し三
枚橋より今の本街地を通じ駅道(わきごう)を置く。
則ち寛文年(1661 年)間迄は沼津村(乗運寺鐘文に曰ふ寛文十二年壬子修景
宿又曰大日本帝國駿州駿東郡金持荘沼津村とあるにあり)と称せるも元禄(1688
年)の初年沼津宿と更め、同五年(1693 年)沼津駅と改称す。
其登時(このごろ)は今の新田町(東見付)より三枚橋、志多(下)町、川
廓(川車)町、上土町、通横町、上本町、下本町、浅間町、出口町(西見付)。
迄にして戸数六百十戸、内、本陣二、脇本陣五、旅籠屋九十二、農家五百十戸
なりし。此地由來東海道の要衝衝に方(あた)ると、列代武將が各其の臣を駐
めつつありし故以て駿府以東の都會たり、徳川氏の此地を領する實に二百八十
七年慶應の変に至ら遂に城籍を奉還す、王政革新朝廷更に徳川家達公を駿遠参
(すんえんざん)の七十万石に封じ水野(沼津)本多(田中)瀧脇(小島)三氏を房総
の地に移封し旗下の領地は悉く没収して之を賜はる、明治二年静岡藩と称し公
を以て藩知事に任す、仝年公藩籍を奉還せり、初(はじ)め公の封に就くや家
臣の從ひ來て移住する者多く戸口頓に増加し田園変じて邸宅となり質樸(しつ
ぼく)の風漸く華奢に靡(なび)くに至る。
(「沼津の華」明治三十四年十月十三日発行:駿東郡沼津町本町 蘭溪者)

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