Kamakuranumadunennpu
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平安末期から鎌倉期の文献(吾妻鏡等)
に見る沼津界隈の出来事に関する年譜
『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。鎌倉幕府の
初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180)から文永3
年(1266 年)までの幕府の事績を編年体で記す。成立時期は鎌倉時代末期の正安2年(1300)頃、編纂者は幕
府中枢の複数の者と見られている。後世に編纂された目録から一般には全 52 巻(ただし第 45 巻欠)と言わ
れる。 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
』より)
本年譜は、平安末期から鎌倉期末(幕府終焉まで)にかけて沼津周辺でどのような出来事があったかに焦
点を当て、吾妻鏡の記述を中心に他の文献等(記録・史書)も併せて沼津界隈の地名の記述部分を探りながら
辿ってみました。
原文(編釈を含む)は極端な抜粋であり意を解さない部分があるかと思うので、その意釈と背景について多
少の編注(*印箇所)を付して要旨記述を加えてみました。
来年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の 13 人」で、主人公北条義時(江間小四郎)をベースにして進むスト
ーリーです。義時は頼朝の旗揚げから源平の戦い、頼朝上洛の随行、頼朝死後は鎌倉幕府を支え、執権と
して活躍し、執権政府の礎を確立したこの時代の重要な人物です。登場人物・時代背景など、ほぼ同時期
の沼津界隈の出来事も垣間見ることが出来ます。
〔参考文献〕 『吾妻鏡・全5巻』1997 記念復刊岩波文庫、
『沼津市史 史料編 古代・中世』平成8年沼津市、
『北条時政』
小野眞一著 2000 年叢文社、その他ネット調査情報。
★2021/2/14★ 編集作成:沼津史談会 編集部長 飯田善行
*ご意見・ご教示いただければ幸いです。Mail:n-shidaniida@ca.thn.ne.jp
年 月 日 出所 文 献 記 述(抜粋)
・*要 旨 注:…箇所は中略の意
永暦元年(1160)12 月 9 日 清獬眼抄 「配二流公卿殿上人一事、…去九月戌午、於近江国一頼朝被レ搦、上
洛了、…」
*永暦元年(1160)2 月 9 日、頼朝は近江国で捕えられ京の六波羅へ送られるが、清盛の継母池禅尼の嘆願により死一等を
減じられ、3 月 11 日に伊豆国(韮山の蛭が小島)へと流される。頼朝 14 歳。
*頼朝の父源義朝は、平治の乱(平治元年(1159)12 月 9 日)で平清盛に敗れ、再起を図るべく東国へ逃れる途中、尾張
国野間で長田忠致の裏切りに遭い入浴中を襲われ殺害された。
永暦元年(1160)末頃 平治物語 「…駿河国かつらと云所に有りけるを、母方のおぢ内匠頭朝忠と云
者、搦とりて平家へ奉りしを、名字なくては流さぬならひにて、希義と
付られて、土佐国きらと云所にながされておはしければ、きらの冠者
と申けり、希義は南海土佐国、頼朝は東国伊豆国、兄弟、東西にわ
かれ行、宿執ほどこそむざんなれ、…」
*平治の乱の後、頼朝の同母弟の希義は、父義朝の家来に連れられ東国に逃げ、駿河国の香貫付近(沼津)に潜伏している
ところを、母方の叔父範忠(熱田大宮司季範の嫡男)に捕らえられ、六波羅に送られ土佐国に流罪となっている。
*駿河国かつらとは、他の文献では香貫とある。朝忠は範忠のこと。きらは、高知県高知市介良のこと。きらの冠者=土佐
冠者と云われた。配流の時は9歳。 *20 年後、非業の死を遂げる。
〈寿永元年(1182)9月 25 日の項参照〉
治承4年(1180)8月 17 日 吾妻鏡 頼朝旗揚げ、山木兼隆の郎党の留守を狙い急襲する。
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「…兼隆の郎党、多く以て三嶋社の神事を拝せんが為に参詣す、其
後黄瀬川宿に到り留まりて逍遥す…」
*治承4年4月 27 日、頼朝の叔父源行家により以仁王(後白河天皇の第三皇子)の平氏追討の令旨が頼朝の元に届く。
*同年8月 17 日旗揚げ決行、この時、山木兼隆(伊勢平氏出身・頼朝の監視役)の山木館は手薄で兼隆の郎党らは三島大
社に参詣し、その帰り木瀬川宿にて遊女らと遊興している。
*北条義時も父時政、兄宗時とともに旗揚げに加わっている。兄宗時は石橋山の戦いの後、父・弟義時とも離ればなれにな
り、伊豆の国平井郷(函南町平井)付近にて平氏伊東祐親の軍勢に包囲され討死にしている。
治承4年(1180)8月 28 日 吾妻鏡 石橋山の戦い、敗走後の頼朝軍の末路。
「廿十八日、戌申、光貞、景廉兄弟、駿河国大岡牧に於て各相逢
ふ、悲涙更に襟を濕ほし、然る後、富士山麓に引籠る…」
*敗走後の源氏軍は悲惨である。加藤光貞・景廉兄弟は箱根山中ではぐれて彷徨
さ ま よ
い、大岡牧(庄)で兄弟は再会している。
その後、富士山麓に潜み、共に甲斐国に甲斐源氏の武田氏を頼り逃れている。
*頼朝は真鶴岬(岩の浦)より小舟で敗走、29 日安房国に上陸、9月に房総で再起する。これにより多勢の坂東武士らが
頼朝のもとに結集している。8月 28 日敗走から 10 月 6 日鎌倉入り、まさに電光石火の1か月半である。
*北条時政・義時父子は、頼朝を安房へ逃した後、共に頼朝の意を受けて甲斐国(武田氏)へ向っている。
治承4年(1180)9月 20 日 吾妻鏡 「土屋三郎宗遠、御使いとして甲斐の国に向ふ、…、駿河国に至っ
て平氏の発向を相待つ可し、早く北條殿を以て先達と為し、黄瀬河
辺に来り向はる可きの旨、武田太郎信義以下の源氏等に相触る可き
の由と云々、」
*頼朝は、甲斐源氏の武田信義宛の使者として土屋宗遠を甲斐国に遣わした。安房・上総・下総の武士達は全て頼朝に従っ
たので上野・下野・武蔵の精兵を引き連れて駿河に向かい平家軍を迎え撃つつもりである。武田信義以下、甲斐・信濃源
氏等に伝えて、北条時政・義時を先達として、急いで木瀬川(沼津市)に来るように、との伝言を託した。
治承4年(1180)10 月1日 吾妻鏡 「…今日多く以て武衛の鷺沼の御旅館に参向す、又醍醐禅師全成、
同じく光儀有り、令旨を下さるるの由、京都に於て之を傳聞し、潛か
に本寺を出て、修行の體を以て下向の由之を申さる、武衛泣いて其
志に感ぜしめ給ふと云々、」
*安房で再起後、頼朝の兵力の大部分は鷺沼(現在の習志野市役所付近)の宿営地に集まった。同じく醍醐禅師(頼朝の異
母弟今若丸・後の阿野全成・沼津阿野庄)も修行を装って醍醐寺を抜け出して駆け付けたため頼朝は感涙を流した。
治承4年(1180)10 月 17 日 *玉葉
(記述伝聞
要旨)
*10 月 17 日朝、平維盛の下に甲斐源氏の棟梁・武田信義から使者が来
た。両軍が富士山麓の浮島原に出向き、そこで合戦しようという挑戦状
だが、藤原忠清(平家方の武将)は書状の内容が気に障ったのか、兵法
にそむき二人の使者を斬ってしまった。
治承4年(1180)10 月 18 日 吾妻鏡 頼朝、20 万騎の精兵を率いて黄瀬川宿に着く。「…治承四年十
月十八日 晩に及びて黄瀬河に著御、…」
*平氏追討を控え木瀬川宿に本営(本陣)を置く。大岡庄一帯を中心に、三島・裾野方面まで源氏方の軍勢が犇
ひし
めき合った
と思われる。10 月 20 日、富士川岸で戦い開始。平氏軍5万、源氏軍 20 万と言われている。平氏軍遁走。
*この時、北条時政・義時父子も信濃源氏等と甲斐源氏の武田信義軍と共に2万余騎を率いて木瀬川に参陣している。
〔編者史論〕石橋山の戦・富士川の戦には、編者の始祖である相模の国の住人、飯田五郎家義も郎党6騎を従え参陣してお
り、平氏の武将を討ち取り手柄を立てている。後の恩賞ではあるが大岡荘の北東の一部(門池周辺)の地を鎌倉幕府より
賜(地頭職)り、土着・帰農化して現在も脈々と続いている。
治承4年(1180)10 月 20 日 *源平
盛衰記
「…源氏はかやうに大勢招き集めて、足柄山を打越えて、伊豆の国府に
着きて、三島大明神を伏拝み、黄瀬川宿・車返・富士の麓野・原中宿・
多胡宿・富士川のはた・木の下・草の中にみちみちたり、其軍勢二十万
六千騎とそ注したる…」
*平氏を迎撃する源氏軍 20 万6千余騎が、木瀬川・車返(三枚橋付近)・富士の麓野(根方道)・原中宿らに満ち溢れた。
治承4年(1180)10 月 21 日 吾妻鏡 黄瀬川の頼朝本陣での軍議。
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「…然れば先づ東夷を平ぐるの後、関西に至る可しと云々、之に依り
て黄瀬河に遷宿せしめ給ふ、…」
*頼朝は平氏追討を命じるが、千葉・三浦一族等の坂東武士達は、まず常陸の国佐竹氏等、源氏に従わぬ平氏を平定すべき
と主張して諫める。よって上洛することを諦め木瀬川の陣に留まる。同日、奥州よりの弟義経と木瀬川で対面する。
*頼朝の黄瀬川対陣は、吾妻鏡によると 23 日までの6日間である。
治承4年(1180)10 月 23 日 吾妻鏡 「相模の国府に著き給ふ、始めて勲功の賞を行はる、…信義…以
下、或は本領を安堵し、或は新恩に浴せしむ…」
*この時、頼朝は木瀬川の陣を発し相模の国府に着いている。恩賞の沙汰も行われ、甲斐源氏の武田信義が、沼津一帯を含
む駿河国の守護人となっている。これは暫定措置(治承4年~元歴1年(1184))の4年間のみである。其の後、駿河国
の守護職は北条時政に代わり、以後、義時・泰時と続き、文治元年(1185)より鎌倉時代末期の元弘3年(1333)まで、
家督として北条一門による守護職の継承が続いている。
治承4年(1180)12 月 22 日 吾妻鏡 「…駿河国千本松原に於て、長井齊藤別當實盛、瀬下四郎廣親等
相逢ひて云う、東国の勇士は、皆武衛に従い奉り畢んぬ、而るに吾
等二人者、先日平家と約諾を蒙る事有るに依て、上洛する之由、之
を語り申す。…」
*斎藤・瀬下両氏は富士川の戦いの平氏軍の残党、千本松原で逢い京都へ帰る途中の様子。齊藤別當實盛は坂東武士だが、
この時平氏軍の参謀役で、平氏敗走の後尾(しんがり)を務め勇敢に防ぎ戦っている。何故、富士川の戦いから2か月後
までこの地に留まって居たのかは不明だが、東国の武士は頼朝(武衛)に従って帰ってしまっており、平家との約諾もあ
り、頼朝軍の内情偵察のため潜んでいたものとも思われる。
寿永元年(1182)9月 25 日 吾妻鏡 「…土佐冠者希義者、武衛が弟也…去る永暦元年、…當國介良庄
于配流之處、近年、武衛東國に於て義兵を擧げ給ふ之間、合力の
疑い有りと稱し、希義を誅す可し之由、平家下知を加う。…蓮池權守
家綱、平田太郎俊遠功を顯はさん爲、希義を襲はんと擬す。希義、
日來夜湏七郎行宗、与約諾之旨有るに依て介良城を辞し、夜湏庄
于向ふ。時に家綱、俊遠等吾河郡年越山于追い到り、希義を誅し
訖。行宗者又、家綱等希義を圍む之由、之を聞き及び、相扶けんが
爲、件の一族等馳せ向う之處。野宮邊に於て希義誅被る之由を聞
き、空しく以て歸り去る…」
*頼朝様の弟土佐冠者希義は、去る永暦元年(1160)平治の乱の後、土佐の国介良庄へ流罪になっていた。最近、兄頼朝が
東国で蜂起されたので、一緒に蜂起するに違いないと言って、希義を殺すように平家は土佐の国の豪族に命令を出した。
そこで、蓮池家綱や平田俊遠ら平家方の土佐の国の豪族が手柄を立てるために、希義に攻撃を仕掛けた。
*希義は、常日頃から夜須七郎行宗(*)と打ち合わせておいたことがあるので、介良城を退去して、夜須庄へ向かった。行
宗は、家綱たちが希義を襲い囲んでいると聞いて、助けようと一族と共に馳せ参じたが、既に野々宮のあたりで、希義が
殺されてしまったと聞き、空しく引き上げる。沼津香貫で捕らえられてら 20 年後、この時希義 29 歳である。
*伝聞:源希義の一子八郎希望は、母とともに難を逃れて鎌倉に赴き、源頼朝の知遇を受けて吾川郡弘岡(現:高知市春野
町弘岡)で三千貫の地を賜わり土佐吉良氏の祖となったと伝えられている。
(*)夜須七郎行宗は、土佐国夜須荘の豪族。源家再興のため希義を助けるが、希義が殺害された後、逃れて頼朝のもとに馳
せ参じる。後に源平の壇ノ浦の戦いなど海戦で手柄を立て活躍する。
元歴元年(1184)正月中旬 *源平
盛衰記
「明日の辰の年の始に近江国住人佐々木四郎高綱、佐殿館(頼朝)
に早参して、…駿河国浮島原の辺にては追付きなんと思ひて十七
騎にて…相模河を打渡り、…其日は二日路を一日路に黄瀬河宿に
着きにれり、…尋ねれは、大勢駿河国浮島原に控えたりと云ふ、…
佐々木四郎高綱は、…浮島原を西へ向けてそ引かせたる、原中の
宿を過く、…」
*佐々木高綱が、郎党含め 17 騎を従え、先発の木曽義仲追討の幕府軍に追い着くため、鎌倉を出発。木瀬川宿に赴き幕府
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軍の情報を尋ねると、大軍が浮島ヶ原についていると言う、浮島ヶ原を西へ向けて引かせる。
(注:この時の状況は、
幕府軍に追い着いたが、
富士の雪水の増水で富士川東岸に幕府軍は留まっていたと思われる。
佐々
木高綱は郎党らと浮島ヶ原・原中宿に一端引き上げている。)
元歴元年(1184)4月5日 久我文書 「源頼朝安堵状案 池大納言家沙汰 …大岡庄…右荘薗拾柒箇
所、載ニ没官注文一…為ニ彼家沙汰一、為ㇾ有ニ地行一、勒ㇾ状如ㇾ件
寿永三年四月五日」
*源頼朝が平治の乱後に捕らえられた時に、
自分の命を助けてくれた池禅尼の恩に報いる為、
禅尼の子の平頼盛の所領とし
て安堵した。平氏から没収した領地の中の一部の 17 箇荘を池大納言(平頼盛)に与えている。この中に大岡庄を含む。
元歴元年(1184)8月 21 日 玉葉 「…伝聞、頼朝出一鎌倉城一来二着木瀬川伊豆与駿河之間云々辺一暫逗
留、進二飛脚申云、己所二上洛仕一也…先三河守範頼蒲冠者是也、
令ㇾ相二具数多之勢一、…直可ㇾ向二四国一之由所仰含一也云々」
*これは伝聞による記述だが、頼朝は鎌倉を出て、木瀬川に暫時逗留している。飛脚の情報により平家追討の先発隊として
弟の源範頼は多数の軍勢とともに京都に進出している。この時平家は京都を離れ四国(讃岐国)に逃れている。
文治元年(1185)5月 10 日頃
(元歴2年)
源平
盛衰記
「…田子の浦を過き行けは、富士の高嶺を見給ふに、…浮島原に着
きぬ…駿河国千本松原打過ぎて、伊豆国三島社に着き給ふ、…」
*源義経が平家方の捕虜(平宗盛・清宗父子)を護送して鎌倉に向かう途中、霊峰富士の高嶺の残雪を望みながら浮島ヶ原
を過ぎ、千本松原を通過する様である。この後、鎌倉入りを前に義経には悲劇的な事(*)が待っております。
(*)義経が後白河法皇より無断で任官したため、兄頼朝は義経の鎌倉入りを許さず腰越に留め置かれます。
(腰越状)
文治元年(1185)11 月1日 吾妻鏡 「…駿河國黄瀬河驛に着き御ひ、御家人等に觸れ仰せ被て云はく。
京都の事を聞き定めん爲、暫く此の所于逗留可し。其の程に 各 乘
馬并びに旅粮已下の事を用意可しと云々、…」
*頼朝様は上洛の途次、駿河国木瀬川の宿へ到着して、御家人達に京都の情勢を仕入れるため、暫くここに逗留する。その
間に馬の手入れや自分の兵糧などを用意しておくようにと指示を出している。
文治元年(1185)11 月7日 吾妻鏡 「…黄瀬河宿に逗留し給ふ之處、去る三日行家、義經中國を出で
西海へ落る之由、其の告有り、…」
*京都の情勢を把握するために、木瀬川宿に逗留していたが、先日の三日に行家と義經の両人が都を出て四国・九州方面へ
落ち延びていったとの、情報が入る。この時の背景(情報)(*)には、意外な情報も含まれている。
(*)朝廷の後白河法皇は、頼朝追討の宣旨を発している。さらに源行家に四国総地頭、義経に九州総地頭に任じており、
四国九州の武士達にも、両人に従うようにと命令書も持たせている。
文治元年(1185)11 月8日 吾妻鏡 「大和守重弘、 一品房昌寛等 使節と爲し黄瀬河自り上洛す、行
家、義經等の事を欝し申被る所也、又、彼等已に都を落る之間、御
上洛之儀を止め、今日鎌倉へ歸ら令め給ふと云々。」
*大和守山田重弘と一品坊昌寛は、
頼朝様が行家と義経の件をとても怒っていると伝えるため、
木瀬川から京都へ出発した。
又、行家達が既に都落ちして居なくなっているので、頼朝は京都へ上るのは止めにして、今日鎌倉へ向けて帰られた。
*大和守山田重弘は頼朝家臣の武士。一品坊昌寛は頼朝の秘書役(祐筆)的な人物である。
文治4年(1188)6月4日 吾妻鏡 「所々の地頭沙汰之間の事、條々を注し、…八條院領…駿河国大
岡牧…時政地頭にて、他の人の沙汰入る不可之樣に聞こし召しか
ハ、言上の沙汰に及不、…」。
*大岡牧は、
文書紛失や平家の支配や土地の増減など実態が不明のため確認と詳しい調査が必要であるが、
ここは地頭の北
條時政が正確に処理していると思うので特に申し上げることはない。
*大岡牧は現在の沼津市大岡から木瀬川の上流部を含む。この官牧の荘官が牧宗親(北條時政の後妻牧の方の父または兄)
であり、荘園領主は朝廷の鳥羽天皇の皇女八条院暲子内親王の所領であったことが伺える。
建久元年(1190)12 月 26 日 吾妻鏡 「亥刻、黄瀬河宿に著せしめ給ふ、御馬乗替等、多く以て此所に儲
く、北條殿御駄餉を献ぜらると云々、」
*頼朝は 11 月6日に上洛し、
1か月以上滞在し 12 月 14 日に京都を発している。
その帰途に木瀬川宿に立ち寄った様子
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である。亥の刻(22時前後)に木瀬川宿に到着して替馬が用意され、北條時政が糧食等を準備した。
建久4年(1193)5月8日 吾妻鏡 「將軍家富士野藍澤の夏狩を覽爲、駿河國へ赴か令め給ふ。…」
*将軍頼朝は、富士の鮎沢(現・御殿場)で、夏の巻狩候補地の獲物の状態を見るために、駿河国へ出かけた。
建久4年5月 15 日 吾妻鏡 「今日者、齋日爲に依て御狩無く、終日御酒宴也。手越、黄瀬河已
下近邊の遊女群參令め、御前に列し候。」
*今日は、仏教の戒(殺生禁断)を守る日の「六斎日」なので狩はしないで、一日中宴会を催す。静岡の手越、沼津の木瀬川
を始めとする近辺の遊女達が、稼ぎ時とばかり群集ってきて、頼朝様の前へ並んで挨拶をした。
建久4年5月 28 日 吾妻鏡 「小雨降。日中ば以後霽。子剋。故伊藤次郎祐親法師が孫子の、曾
我十郎祐成、同じく五郎時致、富士野の神野の御旅舘于推參致し、
工藤左衛門尉祐經を殺戮す。…爰に祐經、王藤内等交り會は令む
所之遊女、手越少將、黄瀬川之龜鶴等叫喚す。此の上、祐成兄弟
父の敵を討つ之由 高聲に發す。…」
*曽我兄弟の仇討の場面である。
仇の工藤祐経や王藤内らに混ざって居合わせた遊女の手越少将と木瀬川の亀鶴達が悲鳴を
上げた。その上、兄弟が「父の敵を討ったぞ!」と大きな声で怒鳴ったので、皆大騒ぎになった。
建久5年(1194)7月 12 日 経筒銘 「建久五年甲虎七月十二日 上津池剛嶽山三明寺 散位藤貞宗
同伴宗長 源守包 散位紀家重」
*藤原貞宗らが、三明寺に経筒等を埋納する。上津池は門池のこと。三明寺(沼津市大岡)三明寺経塚と呼ばれ、享保 19
年(1734)2月4日、暴風のため倒れた老松の下から偶然発見された。
*経筒銘には、
他に「奉施人 百部妙法経銅筒一 大施主散位伴宗長 女施主橘氏 建久七年大歳丙辰九月廿四日」、「…大施主散
位源守包 女施主藤原氏 建久七年大歳丙辰九月廿四日」、「…大施主散位紀家重 女施主源氏 建久七年大歳丙辰十月四日」、
「…大施主散位藤原貞宗 縁友藤原氏 建久七年大歳丙辰…」とあり、数度に渡り埋納したものと思われる。
建久6年(1195)7月6日 吾妻鏡 「黄瀬河驛に於て、駿河、伊豆兩國の訴への事等、條々善政を加へ
令め給ふと云々。」
*将軍家は上洛の帰途、木瀬川宿に立寄り駿河国と伊豆国両国で起きている訴訟事について良き裁きを加え処理した。
*将軍頼朝は、2月 14 日に鎌倉を発し、3月初めに上洛している。鎌倉へ向け京都を発したのは、6月 25 日であるので
4か月ちかく滞在している。配流前の十数年、父母とともに過ごした懐かしき地である。
*その帰路、7月1日に尾張国熱田大宮の参拝し、7月6日に木瀬川宿着いている。ここで自ら様々な訴訟の処理をしたの
であろう。翌々の8日には鎌倉に帰っている。吾妻鏡には「八日、庚虎、申剋、将軍鎌倉に著御と云々、」とある。
建久9年(1198) 後京極殿
御自歌合
*この年に、藤原良経が浮島ヶ原の和歌を詠む。
「足柄の関路越え行くしののめに 一村かすむうき島の原」
*藤原良経とは、鎌倉初期の 恭敬・歌人・書家でもあり、摂政・従一位太政大臣となり、後京極殿と称される。
元久元年(1204)4月 22 日 九条家
文書
「九条兼実置文 月輪殿自筆御処分状…伊豆国三津御厨…右堂
舎家地庄園等、永所ㇾ奉ㇾ附ニ属宜龝門院一也…摂政」
*摂政の九条兼実が、伊豆国の三津御廚を娘の宜龝門院任子に譲るという沙汰状。三津御廚は現在の沼津市内浦三津。
承元2年(1208)4月2日 吾妻鏡 「二日、辛未、神宮ヤ寺ノ造営ノ材木ヲ、伊豆ノ国狩野山奥ヨリ沼津
ノ海ニ出ス」
*沼津という地名の最初の出所。 現在は狩野山の名称はないが修善寺付近の中流から上流にかけての支流に沿った山林
の総称と見るべき。大見川の上流など数ヶ所に「筏場」の地名が残っている。切り出した材木を、沼津の海に運び船で鎌
倉の鶴岡八幡宮等、神社・寺などの造営のため運んでいた様子がうかがえる。
建保3年(1215)4月 25 日 高山寺
文書
*大岡牧年貢布送進状 「大岡牧 運上 山御年貢布事 合 四丈
白布弐佰段 負駄肆疋 葦毛 鹿毛一疋 白皮毛一疋 各在光子
鉄焼 右、且進上如ㇾ件、 建保三年四月廿五日 ― 花押」
*大岡牧の年貢の布が、
京都高山寺に送られることを伝えている。
大岡牧は沼津市北東部から裾野市桃園にかけて所在した
牧の事である。布皮などを運搬する馬には、目印として焼き印を付けていたのであろうか。
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建保3年(1215) 内裏名所
百首
*この年、浮島ヶ原が、
「建保名所百首」に詠まれる。
「あしがらの関ぢはれ行く夕日影 みぞれにくもる浮島のはら」
承久元年(1219)2月 15 日
(建保七年)
吾妻鏡 「申剋、駿河國飛脚參、申云、阿野冠者時元〔法橋全成子、母遠江守
時政女〕、去十一日引率多勢、搆城郭於深山、是中賜 宣旨、可管
領東國之由、相企云々」
*午後四時頃に駿河国の伝令が来て申しあげました。阿野冠者時元〔法橋全成の子、母は北条時政の娘〕が、先日の 11 日
に大勢を率いて、砦を深山(*)に構えました。それは天皇家から命令を貰ったと云っています。関東を支配しようとする
陰謀を計画しているようです。(*)深山とは、阿野庄の飛地か、裾野市須山の大泉寺のことか。
承久元年(1219)2月 19 日
(建保七年)
吾妻鏡 「禪定二品之仰せに依て、右京兆、金窪兵衛尉行親以下の御家人
等於駿河國へ差遣は被る。是、阿野冠者を誅戮せん爲也。」
*政子様
(禅定ニ品)
の命令で、
北条義時は金窪兵衛尉行親を始めとする御家人を駿河へ派遣した。
それは阿野冠者時元
(全
成の子)の追討が目的である。
承久元年(1219)2月 22 日 吾妻鏡 「發遣の勇士駿河國安野郡于到り、安野次郎、同三郎入道之處を
攻める。防禦利を失い、時元并びに伴類皆 悉く敗北也。」
*派遣された兵士たちは駿河国阿野郡に着いて、阿野次郎頼高・三郎入道頼全の陣地を攻め、守る方は力を失って、時元と
その仲間は全て敗れた。阿野次郎頼高・三郎入道頼全・時元は兄弟、阿野全成の子である。
承久元年(1219)2月 23 日 吾妻鏡 「酉刻、駿河國の飛脚參着す。阿野自殺する之由、之を申す。」
*午後六時頃、駿河国の伝令が鎌倉に到着して、阿野時元が自殺したとの報告をした。
承久3年(1221)7月 12 日 吾妻鏡 「按察卿〔光親。去月出家す。法名は西親〕者、武田五郎信光之預りと爲
し下向す。而るに鎌倉の使い駿河國車返邊于相逢い、誅す可き之
由觸れるに依て、加古坂に於て梟首し訖。」
*後鳥羽上皇の近臣藤原光親(按察卿・先月出家して法名は西親)は、武田五郎信光の預かり召人として京都から下り出ま
したが、幕府の使いが駿河国車返しで逢って、死刑にするように命令が出てると伝えたので、籠坂峠で殺しました。
*後鳥羽上皇は、この年5月に幕府の混乱に乗じて倒幕の兵を挙げる。
(承久の乱)戦後処理の一環として、上皇の近臣た
ちを鎌倉に召喚している。その途次の出来事である。
承久3年(1221)7月 13 日 吾妻鏡 「…今日、入道中納言宗行、駿河國浮嶋原を過ぎ、荷負の疋夫一
人、泣いて途中于相逢い、黄門之を問う。按察卿が僮僕也。昨日梟
首之間、主君の遺骨を拾い。皈洛之由答う。…黄瀬河宿に休息之
程、筆硯有るに依て之次に 傍に 註し付く。
今日スクル身ヲ浮嶋ノ原ニテモツ井ノ道ヲハ聞サタメツル
…黄瀬河に至り和歌を詠う。一旦之愁緒を慰むと云々。」
*中納言宗行は、
駿河国浮島原(静岡県沼津市原)を過ぎて、
荷負の人足一人が泣いているのに出会ったので、
質問をした処、
藤原光親の下働きです。
「昨日首を斬られた主人の骨を拾って京都へ帰る途中です」と答えた。…木瀬川宿(沼津市大岡字
木瀬川)での休憩の時、近くに筆と硯があったので、和歌を詠み傍らに記す。ひと時でも悲しみを慰められました。
貞応2年(1223)4月1・
5日
海道記 「浮島が原をすぐれば、名は浮島と聞ゆれども、まことは海中とはみえ
ず、野路とはいひつべし、草むらあり木樹あり、…車返しといふ処を過
ぐ…木瀬川の宿に泊まりて萱屋の下に休す。ある家の柱に、またかの
納言(宗行卿のこと)和歌一首よみて一筆の跡をとどめられたり。…
十五日、木瀬川を立つ。…」
*「海道記」の作者が浮島ヶ原・車返を通り木瀬川に泊まっている。
先々年、
中納言宗行卿が休憩したのと同じ宿であろう。
柱に刻まれた宗行卿の和歌を書き写している。半月ちかくも長く滞在している。
*『海道記』
(かいどうき)とは、貞応 2 年(1223 年)成立と考えられる紀行文。中世三大紀行文(ほかに『東関紀行』
、
『十
六夜日記』
)のうちの一つ。作者不詳(源光行?白河の侘士なる者?)
- 7. 7
嘉禄元年(1225)2月下旬 信生
法師集
「…返事 今更に花をすつとも何かけふ いろをのかれし身とはしらすや
車かへしの松に書付侍…」
*塩谷朝業信生が、京都から関東に下る途中、車返などで和歌を詠む。塩谷朝業(しおのや ともなり)は、宇都宮成綱の子。
下野国(栃木県)塩谷荘の領主で、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・御家人・歌人。源実朝に近臣として仕
えており、実朝の死を機に出家している。
嘉禄4年(1238)2月1日 吾妻鏡 「嘉禎四年(1238)二月大一日丁丑。天晴風烈し。 申一點 車返①の
牧御所に着き御う。」
*空は晴れているが風が強い日です。将軍藤原頼経が、上洛の途中、午後三時過ぎに沼津市三枚橋の車返しの牧の御厨の宿
に着きました。この時の大岡庄の領主(守護)は北條泰時に替わっています。以後、鎌倉末まで北条執権家が継承。
嘉禄4年(1238)10 月 26 日 吾妻鏡 「丁卯 晴 未の刻車返の牧御宿」
*2月1日上洛通過時の帰路である。未刻(14時前後)に車返の牧宿に入っている。前泊の蒲原からは 26 キロの道程。
嘉禄4年(1238) 新和歌集 京よりくたり侍りけるに、いけたの傀儡かめつる、きせかはまてあひつ
れて侍りけるか、それよりかえし侍るとて
*藤原(笠間)時朝が、京都からの下向途中、木瀬川で和歌を詠む。笠間時朝は常陸国の武将。宇都宮氏の一族で鎌倉幕府
の諸行事にも出仕、後嵯峨天皇の供奉役人として上洛奉仕している。歌人でもある。
延応元年(1239) 洞院摂政
家百首
「あしからの山うりこゆる夕暮れの 波のふもとや浮島がはら」
*この年以前、高倉経通が浮島ヶ原を和歌に詠む。権大納言。嘉禎 2 年
(1236 年)には出家している。
延応元年(1239 年)10 月 13 日薨去。
享年 64。この地に下った形跡はない、いつ頃詠んだ歌かは不明。
仁治3年(1242)8月中頃 東関紀行 「浮島か原は、いつくよりもまさりて見ゆ、北は富士の麓にて、西東へ
はるはると長き沼あり、布をひけるか如し、…影ひたす沼の入江に富
士のねの けむりも雲も浮島かはら やがてこの原につきて千本の松原
といふ所あり…見わたせは千本の松の末とほみ みとりにつつく波の上
かな 車返しといふ里あり…」
*8月中頃、
「東関紀行」の作者が、鎌倉へ行く途中、浮島ヶ原、千本松原、車返を通過する際の旅日記である。
*『東関紀行』
(とうかんきこう)は、仁治 3 年末頃の成立と考えられる紀行文。作者不詳。
寛元2年(1244)2月 29 日 十八道私
記奥書
「香貫郷於二尺迦堂北僧坊一書写了、」
*駿河国香貫郷の釈迦堂北僧坊で、
「十八道私記」が書写される。
*尺迦堂(釈迦堂)は上香貫霊山寺のことと考えられる。
寛元4年(1246)7月 13 日 吾妻鏡 「十一日、入道大納言御歸洛、今曉令進發給、…寛元四年七月大
十三日己巳、木瀬河」
*将軍職を退いた藤原頼経が、帰路途中、木瀬川に着く。この年の5月、鎌倉幕府で宮騒動が発覚し、将軍頼経が追放とな
り 11 日に京都へ向け鎌倉を出立する。執権には北条時頼が就任(20 歳)している。
建長4年(1252)3月 28 日 吾妻鏡 「三月小十九日癸夘、今曉、三品親王 關東御下向也、…三月小廿
八日壬子、晝蒲原、夜木瀬河」
*三品親王(宗尊親王のこと・後嵯峨天皇の子・鎌倉幕府6代将軍)が、将軍職就任のため鎌倉下向の途中、木瀬川に着く。
弘長2年(1262)2月 24 日 関東
往還記
「朝之程休息、中食之後、渡二富士河一、於二同国見付宿一儲ㇾ茶、
過二浮嶋原一、着二原中宿一、」
*西大寺叡尊が、浮島ヶ原を過ぎて原中宿に着く。叡尊は、鎌倉時代中期に活動した僧で、真言律宗を興した開祖。
*同国見付宿とは、東海道吉原宿の前身ともいえる地域の中世期の地名である。ここで茶を一服して東へ向っている。
建治2年(1276) 光長寺
由緒記
「光長寺由来者、文永年中、日蓮此所江入来、境地被二見立一、草
庵を結、御弘通、…日春・日法両師、昔文永年中駿州岡宮草庵地
アリ、往二彼法花一本当(堂)可二造立一由被ㇾ仰付…」
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*この年、日春・日法が、日蓮上人の意をうけて、駿河国岡宮の地に光長寺を創建したと伝えられている。
弘安2年(1279)7月 日蓮本尊 「沙門日授二与之一 弘安二年大才己卯七月 日」
*日蓮が、岡宮光長寺日法に本尊を授ける。続けて弘安3・4・5年にも同様に本尊を授与している。
延慶2年(1309) 久我文書 「一条摂政実経家所領目録案 年貢魚貝海藻 伊豆国三津御厨」
*この年の一条実経の家領の中に、三津御厨の名がみえる。魚・貝・海藻を年貢として納めていた。
元弘元年(1331)7月下旬 太平記 「俊基朝臣再関東下向事 …浮嶋ヵ原ヲ過行ヵハ、塩干ヤ浅キ船浮
テ、ヲリ立田子ノ自モ、浮世ヲ遶ル車返シ…」
*後醍醐天皇の近臣、日野俊基が幕府の六波羅探題に召捕られ、鎌倉へ護送される途中、浮島ヶ原・車返を通過する。
正慶2年(1333)7月 19 日 由良文書 「後醍醐天皇綸旨 …駿河国大岡庄 奉家法師跡…右、所々地頭
職、可ㇾ令二管領一者、…仍執達如件、…兵部大輔殿」
*後醍醐天皇が、北条氏の遺領である駿河国大岡荘ら 10 ヶ荘の地頭職を岩松経家(兵部大輔)に給与する。
建武2年(1335)3月 15 日 丸子神社・
浅間神社
文書
脇屋義助願文写 「今度為二鎌倉追討一、当所丸子神社天暦任ㇾ霊、
行光造太刀一振寄二進之一武運長久篠塚五郎承ㇾ之、宮仕子神尾
蔵人於二神前一永代祈祷可ㇾ有者也、…脇屋次郎 源義助花押」
*新田義貞の弟、脇屋義助が、尊良親王の副官として、鎌倉幕府追討に向かう際に、丸子神社(沼津市浅間町・浅間神社)
に立ち寄り、戦勝祈願のために行光(鎌倉時代後期の名工)の太刀を奉納した。篠塚五郎は脇屋義助の家臣か、神尾蔵人
は、丸子神社の神主と思われる。
建武2年(1335)12 月 13 日 梅松論 「義貞残勢僅にして冨士河を渡しけるとそ聞えし、…今日十三日、足
柄・箱根の両大将
(足利尊氏・直義兄弟)
一手に成て、府中より車返し・
浮嶋に至まて陣を取すといふ所なし、」
*足利軍が箱根・竹之下の合戦(新田勢惨敗)の後、沼津付近の車返・浮島ヶ原などに布陣している。尊良親王を奉ずる新
田勢は、伊豆府中(三島の国府)
・車返・浮島ヶ原で小競り合いをしながらも西に敗走して行く。
延元元年(1336)11 月7日 *諸説はあるが、建武式目の制定により、武家政権が認められ、室町幕府の実
質的な成立時期とされている。
〈以下省略〉
- 9. 9
小野眞一著 『裏方将軍 北条時政』 (2000 年1月1日刊)の記述メモより
故小野眞一氏(平成 28 年 11 月7日逝去・享年 88 歳)は、沼津市文化財保護審議委員、加藤学園考古学
研究所長、常葉学園短期大学教授などを勤め、
『沼津市史』等の編纂にも携わっており、県東部の考古学
の研究に多大な貢献をしたほか、講演活動も行い郷土史家として著名な人物である。
著者は古代史が中心でしたが晩年は中世史の研究にも興味を持たれ、本書は、地元に関わりの深い北条
時政を題材にして、伝記史記として綴られた名著とも言えます。内容は、時政の時世にとどまらず、後裔
の義時・泰時・時頼・時宗まで史実を探りながら纏められています。まさに大河ドラマの時代背景も多く
含まれ、時代考証の書とも言えます。
下記、記述メモは、沼津界隈の記述部分のみの抽出としました。
該当頁 内 容・*要旨
19 「駿河では…橘遠茂(目代、平氏郎等)…」
*橘遠茂は、平氏から遣わされた沼津地域の役人(目代=代官)。治承4年 10 月 13 日、目代橘遠茂・長田入道
ら平家方駿河勢は、甲斐源氏勢を撃滅すべく甲斐国に攻め込もうとする。翌 14 日に鉢田(富士川沿いの駿
河・甲斐国の国境近く)に進軍した駿河勢は、黄瀬川の頼朝の陣に向かうべく武田信義・信光、北条時政ら
率いる甲斐軍と遭遇する。戦いは平家方の敗北となり橘遠茂は捕らえられている。
21 「郷里集落の名称…三津御厨…」
25 荘と郷と在地武士一覧表(平安末期~鎌倉初期)
「三津御厨 三津(郷) 沼津市三津・他 内
浦・西浦地区…三戸次郎 建長二年道家処分帳」
26 「茂光は当時三津荘(沼津市内浦)の三戸次郎と敵対関係にあり、…」
*茂光は隣の荘の狩野家(現:修善寺町牧の郷)の者。
38 「…時政の先妻は伊東氏、後妻は駿河大岡荘の荘官牧氏(平頼盛家人)から出ており…」
54 「また後妻は駿河国大岡荘の荘官牧三郎宗親の女牧の方…牧宗親は関白藤原道隆から五代の孫
の宗家の子で姉宗子は平忠盛(清盛父)の妻池禅尼であり、…」
106 「兼隆の郎党の多くは三島神社の祭典に行き、その後、西方の黄瀬川宿(沼津市木瀬川)で遊
女達と興じていた。…」 *吾妻鏡治承4年8月 17 日之条。
125
~126
「晩に至って黄瀬川駅に到着し、
」 「伊東祐親…天野藤内遠景に捕えられ、黄瀬川の頼朝の陣
へ連行された。…二十日には頼朝も黄瀬川を立って西進し、浮島ヶ原を経て富士郡の賀島(富
士市)
、すなわち富士川の東岸近くまで進出した。
」 *治承4年 10 月 18~20 日富士川の戦い。
141 「全成は、…駿河阿闍梨…阿野法橋と呼ばれ…兄頼朝が挙兵…これに応じて協力…その功によ
って駿河国阿野庄を与えられ、北条時政の女と結ばれ…阿野庄は沼津市愛鷹地区西半から原・
浮島地区…中央部の井出郷(沼津市井出)…居館跡(阿野館)…菩提寺(大泉寺)…」
*治承4年 11 月頃か。 〈阿野庄:後記参照〉
142 「五男希義は頼朝の挙兵の影響で、駿河国香貫郷(沼津市)で捕えられ、土佐国(高知県)に
流されて処刑された。
」 (平治物語)
*源希義(源義朝の五男・頼朝の弟)は、頼朝が伊豆配流の永暦元年(1160)3 月頃、香貫郷にて母方の伯
父の藤原範忠によって平氏に差し出され土佐国に流される。土佐国で「土佐冠者」と名乗り成人していたが、
治承4年(1180)の8月に伊豆で兄頼朝が挙兵したために土佐の地で処刑される。 〈希義:後記参照〉
174 「十一月一日、頼朝は思い出の駿河国黄瀬川駅に到着し、ここで京都の様子を聞き定めるため
しばらく逗留することにした。
」
*義経・行家両名の申請に基づく頼朝追討の院宣が朝てぃり下り、これに激怒した頼朝が大軍を率いて上洛を
決め進発し、懐かしい黄瀬川宿に到着する。しばらく留まり京の情勢を探る。
210 「二十六日黄瀬川宿(沼津市)に到着した。
」
*1190 年(建久元年)10 月3日、頼朝は一千余騎の精兵をひきつれて鎌倉を発ち 11 月7日に入洛します。
12 月 14 日京を出発、その帰途、12 月 26 日、黄瀬川宿に立ち寄る。ここで北条時政が出迎える。上洛中、
- 10. 10
後白河法皇の院、後鳥羽天皇の内裏等に参上した。この時、朝廷からは征夷代将軍は認められなかったが、
権大納言・右近衛大将に任じられ、守護・地頭の設置も認めさせている。
221 「黄瀬川宿(沼津市)の亀鶴や、…等の遊女が群集したこと、…曽我兄弟の仇討…」
*吾妻鏡建久4年5月 15 日之条。 〈亀鶴:後記参照〉
274 「十月十八日、武田信義以下甲斐源氏二萬騎と共に駿河国黄瀬川に到来し、…」
*治承4年の富士川の戦い時の甲斐源氏の合流の状況である。
292 「謡曲「鉢の木」の題材になったぬり、…現在の沼津市大岡地区の三枚橋にある臨済宗蓮光寺
の寺記に「…牧之御所あり、…この付近の大岡牧及び大岡荘を支配した牧一族の所縁の地…」
」
*嘉禎四年(1238)、鎌倉幕府4代将軍の頼経(藤原頼経=源頼経)も宿泊している。
343 「建保七年(1219)二月には、政子の命で駿河国阿野庄の阿野時元(全成子・頼朝甥)兄弟を討
伐している。
」
小野眞一著 『裏方将軍 北条時政』 (2000 年1月1日刊) (株)叢文社発行 ℡03-3513-5285・在庫僅少
注:版元に本書の在庫を照会した結果、絶版であり在庫も新装状態ではなく僅少とのことです。古書市場でも多少は見受け
られますが、価格は古書値で全て定価以上です。版元―沼津マルサン書店経由(*)での取寄せ購入も可能と思われます。
(*)沼津マルサン書店仲見世店(大手町 5-3-13)電話 055-963-0350
【後記/附論】
黄瀬川の遊女亀鶴 鮎壺の滝まつわる伝承 (沼津市ホームページより)
その昔、黄(木)瀬川の里に小野政氏という長者がおった。子供がないため里の観世音に夫婦で祈願をした
ところ、霊験あらたかに婦人は懐胎し、玉のような女児をもうけ、鶴や亀のような長寿をと願い、亀鶴と名付
けた。生まれつき容姿明眸に恵まれたが、幼くして両親を失い、悲哀の情に堪えず、日夜観音菩薩にもうで読
経や写経にひたすら父母の冥福を祈っていたが、18 歳になるころ無常を感じて身を滝に投じた。
一説には、源頼朝が富士の巻狩の際、その美貌を聞き招こうとしたが、亀鶴は応ぜず身を滝に投じたとも、
黄瀬川宿の遊女であった亀鶴が、曾我兄弟の仇討ちの場から逃れて滝に身を投じたともいわれている。
沼津香貫で捕らえられ土佐に配流 非業の死を遂げた武将・源希義
― 源頼朝に知られざる弟がいた…「忘れ去られた人物」
29 歳で生涯を閉じた武将・源希義の足跡【高知発】 ―
高知市の介良川沿い。 小高い山に向かう細道を登っていくと……草木がうっそうと生い茂っていて、道なき
道を歩いている感じです。道幅も狭くて険しいですね 歩くこと
3分ほど…木立に囲まれ、ひっそりと佇むのが源希義の墓。 平
安時代末期。
平治の乱で、
父・義朝が武将・平清盛に敗れた翌年、
兄・頼朝は伊豆へ、希義は〔*付記:駿河国香貫(沼津市)で捕らえ
られ京に送られ〕
土佐に流された。 実に9歳のときのことだった。
その後 20 年間、希義はこの地で〔*付記:土佐の冠者と称され〕
暮らしていたと言われているが、詳細は分かっていない。 1180
年、頼朝の呼びかけに応じて、打倒平家のために立ち上がった希
義だが……高知・南国市の鳶ケ池中学校の正門付近です。源希義
という文字が見えます。希義公はこの辺りで平家の軍勢の襲撃にあったといわれています 希義は、幼くして離
れ離れになった兄・頼朝との再会は叶わぬまま、29 歳という若さで生涯を閉じた。
そんな悲運の武将を偲び、1992 年 顕彰会が鎌倉にある頼朝の墓と、希義の墓の土と石をそれぞれ交換した。
800 年もの時を経て、「再会」を果たすことが出来た。
- 11. 11
忘れ去られた人物…「その足跡を知ってほしい」
この日は年に一度の“墓前祭”。 知られざる戦国武将を慕う人々が玉ぐしを捧げた。 源希義公顕彰会・近
森正博さん: 一般の方には忘れ去られた人物ですので、
なんとかこの方
(希義)
の足跡を知っていただきたい。
新資料も出てきていますので、気長にやっていきたい 源頼朝、そして義経の兄弟・希義。 戦国の世、ここ土
佐の地で非業の死を遂げた 1 人の武将の生涯を、苔むした小さな墓石が語り伝えている。
(高知さんさんテレビ 1/26(火) 17:31 配信・石井愛子アナウンサー取材)
鎌倉時代の黄瀬川宿
古代以来の東海道が伊豆国府(三島)に入る直前の西側に位置し、鎌倉・箱根方面と伊豆国・駿河国・甲斐国
を結ぶ要衝に置かれており、鎌倉幕府は軍事面からも当地を重視した。
中世/大岡庄 (荘・牧)・阿野荘について
「延喜式」巻 28 兵部省式に「駿河国岡野馬牧」が見え、愛鷹山一帯の大岡・金岡・愛鷹各地区にわたってい
たとされ、これが中世の大岡牧・大岡荘(庄)に転化していった。
〔注*〕岡野牧―大岡牧―大岡荘(庄)と転化していったことは間違いないと思われる。牧とは馬の生産地でもあり、大和朝
廷時代に軍馬の供給地として重要視されていた。 延喜式=平安中期に編纂された古代史研究史料。
「吾妻鏡」治承4年(1180)8月 18 日の条に大岡牧の名がみえ、ついで寿永3年(1184)4月6日の条には大岡
荘が平家没官領から除外された旨が見え、大岡牧は大岡荘と混用されている。ということは、すでに牧から荘
園への転化が促進されていたことになる。当荘は平清盛の異母弟平(池)頼盛の荘園(久我文書)で、源頼朝
はいったん没収したが、
かつて頼朝の助命運動をしてくれた池禅尼の恩に報いるために頼盛に返還している
(寿
永3年4月5日の源頼朝下文)
。その荘官として牧三郎宗親が任命されていた。なお、牧宗親の娘がのち北条時
政の後妻となって権勢をふるった牧の御方である。頼盛と宗親は主従関係を結んでいたといえる。
門池の前身上津池がすでに建久元年(1190)には存在しており、この地域の溜池としてすでに利用されていた
公算が強く、農業生産力の飛躍的な増大があったと思われる。牧堰の「牧」は、荘官である牧氏からか大岡牧
の水田に水を引くために、当時堰を気づいた名残なのか。
鎌倉期にはこの地域の交通はますます重要視され、京と鎌倉を結ぶ東海道の要衝として栄えたが、なかでも
黄瀬川宿は、源頼朝が富士川の合戦の時に布陣したところとしてしられ、奥州から戻った弟義経と対面した場
所でもある。 車 返
くるまがえし
とともに交通上・軍事上の要地となっていた。市域は牧氏滅亡後、執権北条氏の得宗領と
なったが,のち公藤右衛門尉の所領となり、それが建武3年(1336)足利尊氏によって収公されてからは曽我時
助に与えられ、沼津郷はその後しばらく曽我氏が支配していた。
〈以下、室町期以降の記述は省略〉
駿河国阿野荘(沼津市井出)
治承四年(1180)頼朝挙兵後その傘下に加わり、源平の争乱後駿河の阿野荘(沼津市今沢から富士市吉原にか
けて阿野庄と言った)を賜って阿野全成と呼ばれるようになる。北条時政の娘と結婚している。
建仁三年(1203)5月、全成は謀反の疑いをかけられ源頼家の命により鎌倉で捕えられ、常陸に配流されたの
ち6月 23 日に誅殺される。
阿野全成(あの ぜんじょう/ぜんせい)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶で、
源義朝の七男。
源義経の同母兄、
源頼朝の異母弟。阿野氏の祖。通称醍醐禅師、もしくはその荒くれ者ぶりから悪禅師とも呼ばれた。