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三枚橋城に関する年譜考
—築城(砦)より終焉までを見る—
三枚橋城の築城年代には諸説〔*〕がありますが、『沼津市史-通史編-』では、「天正7年(1579)
8月に武田勝頼が高坂源五郎他に命じて築城させた。」ことが定説となっている。
〔*〕文明 11 年頃、駿河今川氏の東国進出支配のため今川氏親の重臣伊勢新九郎(後の北条早雲)が興国
寺城に入り、伊豆への進出の拠点に三枚橋付近にも砦(出城)を築いたとも思われる。元亀元年頃には
勝頼の父信玄が信州衆に命じ縄張り程度の修築普請を行ったとの説もある。
筑城後は、この城のことを当時の住民に「お城」と呼ばれ、戦国大名は「沼津の城(おしろ)」「三枚橋
の城(おしろ)」と呼ばれていたようである。但し、「三枚橋城」という記述の古文書は見当たらないが本
稿では「三枚橋城」として統一し記述した。別名、観潮城とも呼ばれていた。
天正 10 年(1582)2月 28 日、北条氏直の軍勢の侵入によって落城、後に織田軍の武田攻めに
よって徳川家康が駿河に入り、三枚橋城を手中に治めた。武田氏滅亡後は徳川氏の家臣松平康
親に2万5千石を与えて三枚橋城主とした。その後豊臣秀吉の小田原城攻め〔*〕により北条
氏も滅亡し、家康の関東への転付により一時、秀吉の家臣中村氏が入ったが、関ケ原の戦いの
後は、新たに徳川の臣大久保忠佐が2万石で封ぜられた。この頃から沼津城と呼ばれるように
なったと言われている。武田氏時代にはまだ近代城郭の要素はなく土を掘り、積み上げ土塁と
したものが城壁の中心であったと思われる。
〔*〕天正 18 年3月、豊臣秀吉の北条攻めの際、一時期三枚橋城は秀吉本陣として使われている。
三枚橋城の範囲は、東は「むじな川」から狩野川を境とし、北・西・南に堀をめぐらし、中
を三重の堀と土居石垣で固めた広大なものであった。(沼津史談第9号)今の駅前から御成橋の手
前まで、上本通りからアーケード一帯と第一小学校・子持川までを含む範囲とされている。川
廓・上土の二町は外郭となっていたため、街道は三枚橋より城の北側を迂回して西方(駅方面)
に通じていたという。喰違門と本丸下には大きな掘(池状の水溜り)があり、細い水路が狩野
川まで続いている。ここには船留りもあり水陸交通の要ともなっている。また、この城の城郭
内には一部町場を抱え込んだ構造(城の縄張内)になっていたともいわれる。
〔*〕北・西方面は、子持川べりが外濠と見られ、安永の新城より規模の大きさがうかがえる。
慶長 18 年(1613)、大久保忠佐が死去すると、忠佐に子がないため大久保家は断絶し、城は
廃却・廃城となる。以後は幕府の天領となり代官支配となる。以後、160 年間沼津には城はな
く、安永6年(1777)水野出羽守忠友が初代沼津藩主となり、三枚橋城の跡地に新城(沼津城)
を築城する。
<調査・編者:沼津史談会会員 飯田善行>
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三枚橋城に関する年譜
*関連年譜は、『沼津市史 通史編・史料編』やその他史書等により、三枚橋城関連のものを抽出した。概要につい
ては、史書や参考文献等により要旨記述をしました。★史料編のみ頁を示した。
年次(西暦) 概 要 (主な出来事と城主就任)
室町時代 南北朝内乱後の室町幕府は、関東(鎌倉府)の抑えとして駿府の今川氏を駿河守護に任じ、こ
の地沼津郷の支配を今川氏御家人の曽我氏を領地として与えていた。
文明11年(1479) 伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)、今川氏親のため東の守りを固くするため興国寺城(善得寺城・
根古屋城)に入る。さらに後に三枚橋付近に出城を築いたとも推測できる。
文明 19 年
長亭元年(1487)
伊勢長氏(北条早雲)が興国寺城主となる。(今川家譜・今川記・北条五代記)
*興国寺城を拠点に、これより黄瀬川を渡り伊豆への進出の準備に入って行く。三枚橋砦は今川家の最
前線の基地でもあり、早雲の伊豆進出の足掛かり的な役割を果たしていたものと思われる。
明応2年(1493) 明応の政変。北条早雲、伊豆に攻め入る。足利茶々丸を廃して、韮山城に本拠を移す。
永禄11年(1568)
★史料編 371
武田信玄、駿河に進攻、今川氏真を破って東駿河を略す。
「12 月 28 日、由良成繁が武田軍の駿河国進攻を上杉家臣松本景繁に伝え、北条氏が沼津に陣
を置いたことなどを知らせる。」(由良成繁覚書案・上杉文書)
*この時、今川氏と同盟関係にあった北条氏が 12 日に駿河へ軍勢を派遣し、沼津(三枚橋)に陣所を置
いたことを伝えている。
永禄12年(1569)
★史料編 372
386
393
甲斐武田氏と相模北条氏との甲相同盟が破綻し、北条氏康は武田信玄と薩埵山に戦う。この
時期、三枚橋城は北条方の砦として再築城されていたが北条方敗北により武田方の有に帰す。
「正月上旬、北条氏康・氏政が駿河国に進み、三枚橋城や興国寺城を乗っ取り、武田信玄と
戦う。」(北条五代記) *この時は武田信玄、一時甲州に退く。
「6月2日、駿河国に進出した武田信玄は、三枚橋城、興国寺城などに六千の兵を残して、
伊豆韮山城を攻める。」(武徳編年集成)
「6月 19 日、北条氏康は、洪水のため甲州へ退いた武田信玄に代って、三枚橋城、興国寺城
に三万余の兵を籠め置く。」(武徳編年集成・北条五代記)
「この冬、武田信玄が、蒲原・興国寺・三枚橋の三城を奪い、他の城も落とさんとするが、
望みを果たさず。」(北条五代記)
元亀元年(1570)
★史料編 399
-400
武田信玄、馬場美濃守信房に最前線の防備を固めるため三枚橋城を修繕させ、高坂源五郎昌
宣(*)にこの城を守らせ、北条氏の韮山城の監視に当たらせる。
(*)この昌宣は後の信達の父。信玄・勝頼に仕えた武田四天王の一人、前名春日虎綱、長篠の戦で討死し
た高坂昌澄は昌宣の長男で信達の兄。
(*)武田氏の沼津への進出は、自国(甲斐国)への塩の輸送上の必要にも迫られていたとも思われる。
「4月 14 日、武田信玄が高坂虎綱に沼津・吉原より伊豆に出撃することを命ずる。」(武田信
玄書状写・武家雲箋)
*この時点では、沼津(三枚橋付近)は武田方の前線基地の役割を果たしていたと考えられる。
*但し、北条方の5月 23 日・6月1日・8月 12 日の記録(北条五代記・北条氏政書状)によると三枚橋の
北西の興国寺城は、まだ小田原北条方が在番している。8月 12 日頃には、武田勢は黄瀬川に陣取り、
連日、興国寺城や韮山城に攻撃を仕掛けている。
元亀2年(1571)
★史料編 407
「正月3日、武田方が深沢城籠城の北条綱成に矢文を送る。この中に前年5月の武田信玄沼
津出陣のことが見える。」(深沢城矢文写)
*武田方は前年末 12 月に深沢城を攻撃しており、矢文を送った後の元亀2年正月 16 日に降伏し開城し
ている。この戦いにより北条方の駿河撤退は時間の問題となっており、武田・北条の対決は武田の勝
利で収束することとなる。この頃、武田信玄は三枚橋砦の周辺に在陣し全軍の指揮をしていたとも思
われる。
元亀3年(1572)
★史料編 416
「正月8日、武田信玄が小幡全賢と小幡上野介に、北条氏と和睦し興国寺城を受け取ったこ
とを伝える。」(武田信玄書状写)
*興国寺城が武田方に帰す。
天正元年(1573) 4月 24 日、武田信玄陣中にて病死する。
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天正3年(1575) 5月、武田勝頼、長篠へ出張って織田・徳川連合軍に大敗する。
天正5年(1577) 武田家の臣高坂源五郎(*)、北条方の狩野川東南岸の戸倉城に対抗するため三枚橋城主となる。
(*)この時の高坂源五郎は、高坂昌宣の次男の信達。別名春日信達。「天正5年の夏、勝頼は家臣高坂源
五郎に命じて沼津に三枚橋城を築かせた。」(沼津市誌上巻 391 頁)
天正7年(1579)
★史料編 459
-467 頁
3月頃、信濃国海津城代の春日信達(高坂源五郎)、三枚橋城の城代になっている。武田勝頼、
8月より翌8年2月まで、駿河・伊豆の最前線の拠点として三枚橋城を再度修築(*)する。
(*)築城担当者4名⇒昌宣弟高坂源五郎信達・小幡山城守・駒沢右京允・真田安房守昌幸
「9月 17 日、武田勝頼が安中七郎三郎に三枚橋城の普請が終わったことを伝える。」(武田勝
頼書状・慈雲寺文書) 「9月 17 日、武田勝頼が上杉景勝に三枚橋城の普請が終わったことを
伝える。」(武田勝頼書状・上杉文書)(定説の三枚橋城築城)
「9月 19 日、武田勝頼が徳川氏によって放火された浅間神社などの煙を三枚橋城から見る。
また黄瀬川を隔てて対陣する北条氏に一戦を決しようと申し出るが、北条氏はこれを拒否す
る。」「三千ヲ沼津二止、僅一万二千余ヲ率テ 神君二向ハントス」(武徳編年集成 巻之十八)
(*)この頃勝頼は、三枚橋城を守備するため 3,000 の兵を沼津に置き、本人は信濃・甲斐衆の兵 12,000
余を率いて富士川を渡河し駿府の徳川方に向け出陣している。9月 13 日頃、北条方は武田方に対抗し
て三島に陣を取る。
「10 月 25 日、北条氏の軍勢が黄瀬川を隔てて三島に在陣し武田の軍勢が三枚橋に陣取り対陣
する。」(信長公記巻十二)
(*)9月 13 日、武田勝頼は軍勢1万6千余を従えて駿河の沼津に出兵し、伊豆の三島まで出陣してきた
北条氏政軍と対陣した時、城はまだ完成していなかったので、土屋右衛門に命じて工事を急がせ終わ
らせた。(沼津市誌上巻 392 頁)
(*)武田軍は黄瀬川に陣を引き、北条軍は3万6千余の大兵を率いていたといわれている。この戦いは、
容易に決着がつかずに北条氏政は黄瀬川を渡れずにいた。本格的な戦いがあったとは思われない。
天正8年(1580)
★史料編 479
-480
5月、武田勝頼、北条氏政と木瀬川及び香貫山ノ根に戦う。武田方の勝利。信州伊那郡松尾
城主小笠原信嶺、城築城にも携わり在番する。
同時期、武田水軍は北条方の長浜城付近まで攻め込み両軍応戦し駿河湾海戦が始まる。北
条水軍の反撃により武田水軍は退却し、北条方は後を追い武田方は千本松原に陣を敷き応戦
する。両軍の戦いは日暮れまで続いたと云われる。この両軍の戦いは翌年まで繰り返し戦っ
たが、勝敗の有無やどちらが有利に進めたかはっきりした記録は残されていない。
(*)この海戦時、三枚橋城が武田方の陸上部隊の重要な基地の役割を果たしていたことは想像できる。
「9月 15 日、武田勝頼が、北条氏政による三枚橋城の包囲での小幡光盛の戦功を賞する。」(武
田勝頼判物写・駿国雑志巻三)
(*)小幡光盛は、三枚橋城將である高坂源五郎の足軽大将であるという。
天正9年(1581)
★史料編 484
489-490
『北条五代記』によれば、天正 9 年に三枚橋城代春日信達(高坂源五郎)は伊豆国戸倉城代・
笠原政清を調略し武田方に寝返らせたという。
「3月、武田氏が北条の進攻に備えて、三枚橋城に高坂源五郎率いる軍勢を派遣する。」(北条
記) *北条氏の来襲に備え、駿豆国境付近にある武田方の諸城の守りを強化している。
「8月 30 日、武田勝頼が曽根河内守に、三枚橋城の普請を信濃衆に申し付けるよう命ずる。」
(武田勝頼印判状・堀内文書) *曽根河内守は三枚橋城将か、年次未詳
「9月 13 日、北条氏直が金沢与五郎の沼津宿城での戦功を賞す。」(北条氏直感状・漆原文書)
*この時、金沢与五郎が沼津の「宿城」を果敢に攻撃したことに対する戦功を賞している。「宿城」とは、
三枚橋城のことであり、同城は町場を内部に抱え込んだ構造になっていたと思われる。
天正10年(1582)
★史料編 495
486
2月、織田・徳川連合軍の武田進攻が開始。3月 11 日、武田勝頼天目山の戦い敗れて自害し
甲斐武田氏は滅亡する。
2月 28 日の夜、高坂源五郎(春日信達)、三枚橋城を放棄し落城。小笠原信嶺は降伏。
*3月2日に城を放棄、三枚橋城の高坂源五郎は守兵をつれて甲州に帰国する。(沼津市誌上巻 394 頁)
後に春日信達は、天正 10 年7月上杉景勝により川中島にて磔に誅される。
「2月 29 日、北条氏政が北条氏邦に、前日夜半に三枚橋城が落城したことを伝える。」(北条
氏政書状・三上文書)
*織田・武田氏の戦闘が本格化する中で、武田氏不利の情報をつかんだ北条氏が 20 日頃より一挙に攻勢
をかけ、三枚橋城を手中に治めたことを知らせている。
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「2月 29 日、山角康定が滝川一益に、夜半に三枚橋城を攻め落城させたことを伝える。」(山
角康定書状写・近代武将翰墨類聚書翰抜書)
*織田方からのたよりであるが、北条氏が落城させたことを知らせている。
「3月3日、北条氏政が北条氏秀に、2月 28 日夜に三枚橋城が落城したことなどを伝える。」
(北条氏政書状・湯浅文書)
「3月、北条氏直の軍勢が駿河に進み、興国寺・三枚橋の両城が落城、軍勢は浮島ヶ原に陣
取る。」(北条五代記)
「3月、北条氏が織田氏に協力して、三枚橋城付近まで軍勢を進める。」(北条記)
「3月頃、三枚橋城将の高坂源五郎が織田氏により、川中島で殺される。」(甲陽軍艦)
*三枚橋城は、当初北条方の手に落ちたと考えられる。後に織田方に明け渡されたと思われる。
「4月 13 日、織田信長が愛鷹山を遊覧し、興国寺城や三枚橋城のことなどを尋ね聞く。」(武
徳編年集成・信長公記) *2か月後の6月 22 日に本能寺の変が起き信長死す。
「7月4日、徳川家康が、興国寺城を牧野康成に、三枚橋城を松平忠吉と後見の松平康親に
それぞれ与える。」(武徳編年集成)
「8月 12 日、三枚橋城を守る松平康親らの軍勢が、黄瀬川を越えて北条氏規の軍勢と戦い、
勝利を得る。」(武徳編年集成)
*本能寺の変後、東駿河の領有をめぐって、北条氏と徳川氏の争いが続いた。
「8月 14 日、徳川氏が本多重次に、三枚橋城や興国寺城まで飛脚を出すことを命ずる。」(阿
部正勝他2名連署状写・譜牒余禄)
「8月 14 日頃、松平康親が、三枚橋城を出て、戸倉城を攻撃している北条氏を敗走させ、韮
山城まで追撃する。」(武徳編年集成)
「8月 15 日以降、徳川家康が三枚橋城を守る松平康親らの戦功を賞する。」(武徳編年集成)
「9月 25 日、三枚橋城にいる徳川方の軍勢が三島で北条氏と戦い、小笠原安次らが戦死する。」
(藩翰譜)
「9月 25 日、松平忠吉が松平家忠の遺跡を相続して、三枚橋城に入る。」(武徳編年集成)
天正11年(1583)
★史料編 514
516
松平康親、6月死去(享年 63 歳)、沼津の乗雲寺に葬る。以後、康親の長男松平康重が父の
後を継ぎ天正 18 年までの7年間三枚橋城主となる。
「2月 18 日、徳川家康が松平康親に、河東地区の所領と駿東・富士郡の郡代の地位を与え、
三枚橋城での職務遂行を命ずる。」(徳川家康判物・松井文書)
*松平忠吉の後見人として同城を守っていた康親が、その功を賞されて郡代の地位を与えられ、その職
務を三枚橋城で行っていた様子が分かる。
「6月 17 日、松平康親が三枚橋城で死去し、子の松平康重がその跡を継ぐ。」(武徳編年集成)
*松平康重は後の名、この時期は康次と名乗っていた。
天正12年(1584)
★史料編 520
「4月、岡田元次が家康の勝敗を窺うため、三枚橋城より長久手の戦場に赴く」(武徳編年集成)
*岡田元次は松平康重の家臣。
「8月 22 日、三枚橋城主松平康次が、泉之郷に禁制を下す。」(松平康次禁制・泉郷文書)
天正14年(1586)
★史料編 525
「3月 11 日、徳川家康が沼津において北条氏政と対面する。」(当代記・武功雑記・武徳編年集
成) *家康が三枚橋城に立ち寄っており、一時的であれ両将の間で和談したと思われる。
天正17年(1589)
★史料編 534
536
-537
540
-541
「2月5日、大地震があり興国寺城、長久保城、沼津城の塀や二階門などが損傷する。」(家忠
日記) *沼津城は三枚橋城のこと。
「9月 26 日、徳川家康が甲斐国より、長久保城、沼津城に帰る。」(家忠日記)
「11 月 24 日、豊臣秀吉が徳川家康に、北条氏成敗につき相談のため上洛を促し、来春三枚橋
城に出馬する旨を伝える。」(豊臣秀吉書状案・富岡文書)
*秀吉より「駿河大納言とのへ」として宛てられた書状である。
「12 月4日、秀吉の使者富田知信・津田信勝が沼津迄下向する。7日、北条氏直が書状を沼
津に遣わす。」(武徳編年集成)、「12 月7日、北条氏直が、豊臣方によって北条氏の弁明の使者
が沼津で拘留されたことに対し、抗弁の書状を贈る。」(北条氏直条書案写・武家事記)
*父氏政の上洛が遅れたことを秀吉に弁明するとともに、北条の使者が沼津(三枚橋城)で拘留された
ことに抗弁した北条氏直の書状である。宛名は秀吉の使者、富田左近将監・津田隼人正殿。両名三枚橋
城に滞在し、北条方との交渉に当たっていた。
天正18年(1590) 「2月 18 日、豊臣秀吉が豊臣秀次に、三枚橋城に着陣次第注進するよう命ずる。」(豊臣秀吉
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★史料編 545
546
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552
553
554
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559
560
561
562
571
印判状・桑原文書)
「2月 24 日、北条氏直が小幡兵衛尉に、豊臣方が沼津に着陣したことを伝える。」(北条氏直
覚書写・小幡文書) *小幡兵衛尉は小幡信定か。北条氏の家臣。
「2月 25 日、織田信勝が沼津まで出馬する。」(家忠日記)
「同日、織田信勝が勢州の国人等二万余を率いて沼津・三島に進む。」(武徳編年集成)
「2月、豊臣方の先陣が、黄瀬川~沼津に着陣する。」(豊鑑)
「3月3日、豊臣秀次が沼津まで参陣する。」(家忠日記)
*2月末~3月 10 日頃、豊臣・北条両軍、黄瀬川を挟み対陣する。
「3月 16 日、織田信勝が三枚橋に着陣し、東征の先陣は富士の根方の野山に充満する。」(関
八州古戦録)
「3月 18 日、豊臣秀吉が徳川家康に、家臣依田康國の軍功を賞し、三枚橋城に本陣を移すこ
となどを知らせる。」(豊臣秀吉判物・依田文書)
秀吉本隊着陣…「3月 27 日、豊臣秀吉が沼津に到着する。」(家忠日記・武徳編年集成ほか)
*この時本陣を三枚橋城に置き有力諸將を招き小田原北条氏征伐の作戦会議を開いたことかと思われ
る。なお、新たに駆けつけた一部諸將の謁見をも行う。この中に津軽より津軽為信が家臣 18 騎を引き
つれ駆けつけ所領安堵等を賜っている。
6月 24 日小田原城開城し北条氏を滅亡させる。豊臣秀吉は、徳川氏を関八州に移封せしめ、秀吉政
権の重臣(三中老の一人)である中村式部少輔一氏に駿河国を与え、その弟の中村一栄が三枚橋城の城
主となる。中村兄弟を徳川氏の万一に備えとして配したと思われる。石高3万石。
秀吉三枚橋城着陣後の発信文書…「4月1日、豊臣秀吉が上杉景勝に、去る3月 27 日に三枚
橋城に着陣し、直ちに山中城を攻落したことを伝える。」(豊臣秀吉朱印状・島垣文書)
「4月2日、豊臣秀吉が上杉景勝・前田利家に、去る3月 27 日に三枚橋城に着陣したことな
どを伝える。」(豊臣秀吉書状案・堀口文書)
「4月4日、豊臣秀吉が本願寺に、去る3月 27 日に三枚橋城に着陣し、29 日に山中城を攻落゜
したことを伝える。」(豊臣秀吉朱印状・本願寺文書)
「4月7日、豊臣秀吉が鍋島直茂に、三枚橋城に着陣とその後の状況を伝える。」(豊臣秀吉朱
印状・鍋島文書)
「4月8日、豊臣秀吉が加藤清正に、三枚橋城に本陣を置き、山中城・韮山城を攻落したこと
を伝える。」(豊臣秀吉朱印状写・加藤家伝清正公行状)
*注参考:山中城落城…3月 29 日、韮山城開城…6月 24 日。
「7月 10 日、豊臣秀吉が小早川隆景らに、淀殿が来る 15 日に三枚橋城に到着することなどを
知らせる。」(豊臣秀吉印判状・吉川家什書抜萃五)
慶長6年(1601)
2月
関ケ原の戦いの後、徳川家康は家臣の大久保忠佐を上総茂原(5,000 石)から三枚橋城に封じ、
2万石を与え沼津藩が成立した。この時忠佐、三枚橋城を改めて沼津城と唱える。
慶長18年(1613) 忠佐死去、跡継ぎのなかった沼津藩大久保家は断絶となり、翌 19 年(1614) 沼津城(旧三枚
橋城)は廃城となる。廃城後の沼津は、駿府領に編入されて代官支配となり、安永6年(1777)
までの 160 余年間は沼津には城はなかった。忠佐の遺骨は、沼津城の外郭(現沼津第一小学
校東北隅の道喜塚)に葬ったといわれている。
慶長19年(1614) 駿府(静岡)城主徳川頼宜の領地となり、沼津には郡代が置かれた。
元和4年(1618) 頼宜、紀伊に移封し、幕府蔵人地(天領)として代官支配となる。
寛永元年(1624) 駿河大納言徳川忠長が駿河 55 万石の藩主となり、沼津には城代が置かれた。また、忠長は別
邸を本城の址に造り、しばしば来遊していたといわれる。
寛永9年(1632) 前年末、忠長罪ありて甲府に蟄居し、再び代官支配となる。
寛永18年(1641) 大火に見舞われ、忠長の遺邸を含む建物はすべてが消滅し市街も延焼し、城址はすべて荒廃
する。城地は一面田畑になったと伝えられている。
安永6年(1777) 11 月6日、水野忠友が2万石で沼津に城地を与えられ、ここに沼津水野藩が誕生する。
翌年の安永7年(1778)正月より旧城跡地に新規の築城が始まった。
*慶長廃城より 165 年目の新城築城である。
<以下「新沼津城年譜」省略>
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【参考】
〇三枚橋城主(天正5年~慶長 18 年)と以後の城地区支配者 (清水文書他)
城主名 身分 城主となった年代 在職年 支配者 備 考
高坂源五郎 城代 天正5年(1577) 5 年 武田勝頼
松平周防守康親 城主 天正 10 年(1582) 1 年 徳川家康 2万5千石
松平康重 城主 天正 11 年(1583) 7 年 徳川家康
中村一栄 城代 天正 18 年(1590) 11 年 豊臣秀吉 一氏の弟3万石
大久保次右衛門忠佐 城主 慶長6年(1601) 12 年 徳川家康 沼津城と称す
*慶長 18 年、忠佐死去により継嗣なく廃城となる。以後、幕府天領として三枚橋城地は代官支配となる。
長野九郎右衛門 郡代 慶長 徳川頼宜 紀伊藩
佐野平兵衛 代官 元和6年(1620) 幕府蔵人地
安藤弥兵衛 代官 元和6年(1620) 〃
成瀬五右衛門 代官 元和7年(1621) 〃
森川六右衛門 代官 元和8年(1622) 〃
篠原小左衛門 城代 寛永1年(1624) 駿河大納言
長谷川藤左衛門 代官 寛永 10 年(1633) 駿府領 駿府代官支配
野村彦大夫 代官 寛永 19 年(1642) 〃
国領半兵衛 代官 天和2年(1682) 〃
小長谷勘右衛門 代官 貞享4年(1687) 〃
大草太郎右衛門 代官 元禄5年(1692) 〃
外山五郎左衛門 代官 元禄 11 年(1698) 〃
鈴木助次郎 代官 元禄 14 年(1701) 〃 守屋か
能勢権兵衛 代官 宝永3年(1706) 〃
鈴木三郎兵衛 代官 宝永6年(1709) 〃
鈴木小右衛門 代官 正徳2年(1712) 〃
小林又右衛門 代官 正徳4年(1714) 〃
山田次右衛門 享保 11 年(1726) 〃 三島御役所
斉藤喜六郎 享保 14 年(1729) 〃 三島御役所
大屋杢之助 代官 寛保3年(1743) 〃
疋田庄九郎 代官 延享?年(—) 〃
小川新右衛門 代官 宝暦6年(1756) 〃
山本平八 代官 宝暦7年(1757) 〃
宮村孫右衛門 代官 宝暦7年(1757) 〃 原か
会田伊右衛門 代官 宝暦7年(1757) 〃
小田切新九郎 代官 明和1年(1764) 〃
江川太郎左衛門 代官 明和7年(1770) 8年 〃 韮山代官
水野出羽守忠友 城主 安永6年(1777) 水野藩 沼津城-沼津藩
7
○最後の三枚橋城主・大久保治右衛門忠佐
1537(天文 6)年、三河(愛知県)の松平(後の徳川)の家臣大久保忠員の次男として生まれた。忠佐は
各地で奮戦し、勇名をとどろかせた戦国武将であった。有名な大久保彦左衛門の兄である。1601(慶長 6)
年、三枚橋城主となり、のちに入道して道喜といった。1613(慶長 18)年、77 歳で死去し、東間門の妙伝
寺に葬られた。後継者がなかったので大久保家は絶え、三枚橋城は廃城となった。
現在、沼津市立第一小学校の校庭内に忠佐の道喜塚がある。
大久保治右衛門忠佐の墓(妙伝寺)
〇沼津藩の歴代藩主 *冒頭の年度は領主となった年代を示した。
◇大久保家(慶長 6 年(1601 年)-慶長 18 年(1613 年)) 譜代。2万石。大久保治衛門忠佐(ただすけ)
◇水野家(安永 6 年(1777 年)-慶応 4 年(1868 年)) 譜代。2万石→3万石→5万石。
① 1777 年(安永6) 水野出羽守忠友(ただとも)〔小姓組番頭・御側役・若年寄・側用人・老中〕
② 1802 年(享和2) 水野出羽守忠成(ただあきら)〔奏者番・寺社奉行・若年寄・西丸御用人・老中(首座)・勝手用掛〕
③ 1834 年(天保5) 水野出羽守忠義(ただよし)
④ 1842 年(天保 13) 水野出羽守忠武(ただたけ)
⑤ 1844 年(天保 15) 水野出羽守忠良(ただよし)
⑥ 1858 年(安政5) 水野出羽守忠寛(ただひろ)〔奏者番・側用人〕
⑦ 1862 年(文久2) 水野出羽守忠誠(ただのぶ)〔奏者番・寺社奉行・若年寄・老中〕
⑧ 1866 年(慶応2) 水野出羽守忠敬(ただのり)〔江戸城大手御門番・甲府城代〕
〔編集後記〕
編者が三枚橋城に興味を持ったのは、郷土沼津のお城でありその存在(寿命)の短さである。戦国期
には、短命な城は数多くありますが、廃城から 160 年間の空白があり、江戸時代の安永6年水野出羽守
忠友が初代沼津藩主となり、翌7年、三枚橋城の跡地に新沼津城を築城し甦っております。
沼津藩・沼津城関連の文献は単行本化したものを含め数多く見かけますが、この城の前身である三枚
橋城のものは少なく、「沼津市史」や他の史書の頁をめくりながら探さないと見つかりません。
調査・編集にあたっては「沼津市史」や沼津史談会の会報「沼津史談」の中の記事、明治史料館に出
向き閲覧した他の史書類等々も参考にしました。
令和元年8月 <調査・編者:沼津史談会会員 飯田善行>

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  • 1. 1 三枚橋城に関する年譜考 —築城(砦)より終焉までを見る— 三枚橋城の築城年代には諸説〔*〕がありますが、『沼津市史-通史編-』では、「天正7年(1579) 8月に武田勝頼が高坂源五郎他に命じて築城させた。」ことが定説となっている。 〔*〕文明 11 年頃、駿河今川氏の東国進出支配のため今川氏親の重臣伊勢新九郎(後の北条早雲)が興国 寺城に入り、伊豆への進出の拠点に三枚橋付近にも砦(出城)を築いたとも思われる。元亀元年頃には 勝頼の父信玄が信州衆に命じ縄張り程度の修築普請を行ったとの説もある。 筑城後は、この城のことを当時の住民に「お城」と呼ばれ、戦国大名は「沼津の城(おしろ)」「三枚橋 の城(おしろ)」と呼ばれていたようである。但し、「三枚橋城」という記述の古文書は見当たらないが本 稿では「三枚橋城」として統一し記述した。別名、観潮城とも呼ばれていた。 天正 10 年(1582)2月 28 日、北条氏直の軍勢の侵入によって落城、後に織田軍の武田攻めに よって徳川家康が駿河に入り、三枚橋城を手中に治めた。武田氏滅亡後は徳川氏の家臣松平康 親に2万5千石を与えて三枚橋城主とした。その後豊臣秀吉の小田原城攻め〔*〕により北条 氏も滅亡し、家康の関東への転付により一時、秀吉の家臣中村氏が入ったが、関ケ原の戦いの 後は、新たに徳川の臣大久保忠佐が2万石で封ぜられた。この頃から沼津城と呼ばれるように なったと言われている。武田氏時代にはまだ近代城郭の要素はなく土を掘り、積み上げ土塁と したものが城壁の中心であったと思われる。 〔*〕天正 18 年3月、豊臣秀吉の北条攻めの際、一時期三枚橋城は秀吉本陣として使われている。 三枚橋城の範囲は、東は「むじな川」から狩野川を境とし、北・西・南に堀をめぐらし、中 を三重の堀と土居石垣で固めた広大なものであった。(沼津史談第9号)今の駅前から御成橋の手 前まで、上本通りからアーケード一帯と第一小学校・子持川までを含む範囲とされている。川 廓・上土の二町は外郭となっていたため、街道は三枚橋より城の北側を迂回して西方(駅方面) に通じていたという。喰違門と本丸下には大きな掘(池状の水溜り)があり、細い水路が狩野 川まで続いている。ここには船留りもあり水陸交通の要ともなっている。また、この城の城郭 内には一部町場を抱え込んだ構造(城の縄張内)になっていたともいわれる。 〔*〕北・西方面は、子持川べりが外濠と見られ、安永の新城より規模の大きさがうかがえる。 慶長 18 年(1613)、大久保忠佐が死去すると、忠佐に子がないため大久保家は断絶し、城は 廃却・廃城となる。以後は幕府の天領となり代官支配となる。以後、160 年間沼津には城はな く、安永6年(1777)水野出羽守忠友が初代沼津藩主となり、三枚橋城の跡地に新城(沼津城) を築城する。 <調査・編者:沼津史談会会員 飯田善行>
  • 2. 2 三枚橋城に関する年譜 *関連年譜は、『沼津市史 通史編・史料編』やその他史書等により、三枚橋城関連のものを抽出した。概要につい ては、史書や参考文献等により要旨記述をしました。★史料編のみ頁を示した。 年次(西暦) 概 要 (主な出来事と城主就任) 室町時代 南北朝内乱後の室町幕府は、関東(鎌倉府)の抑えとして駿府の今川氏を駿河守護に任じ、こ の地沼津郷の支配を今川氏御家人の曽我氏を領地として与えていた。 文明11年(1479) 伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)、今川氏親のため東の守りを固くするため興国寺城(善得寺城・ 根古屋城)に入る。さらに後に三枚橋付近に出城を築いたとも推測できる。 文明 19 年 長亭元年(1487) 伊勢長氏(北条早雲)が興国寺城主となる。(今川家譜・今川記・北条五代記) *興国寺城を拠点に、これより黄瀬川を渡り伊豆への進出の準備に入って行く。三枚橋砦は今川家の最 前線の基地でもあり、早雲の伊豆進出の足掛かり的な役割を果たしていたものと思われる。 明応2年(1493) 明応の政変。北条早雲、伊豆に攻め入る。足利茶々丸を廃して、韮山城に本拠を移す。 永禄11年(1568) ★史料編 371 武田信玄、駿河に進攻、今川氏真を破って東駿河を略す。 「12 月 28 日、由良成繁が武田軍の駿河国進攻を上杉家臣松本景繁に伝え、北条氏が沼津に陣 を置いたことなどを知らせる。」(由良成繁覚書案・上杉文書) *この時、今川氏と同盟関係にあった北条氏が 12 日に駿河へ軍勢を派遣し、沼津(三枚橋)に陣所を置 いたことを伝えている。 永禄12年(1569) ★史料編 372 386 393 甲斐武田氏と相模北条氏との甲相同盟が破綻し、北条氏康は武田信玄と薩埵山に戦う。この 時期、三枚橋城は北条方の砦として再築城されていたが北条方敗北により武田方の有に帰す。 「正月上旬、北条氏康・氏政が駿河国に進み、三枚橋城や興国寺城を乗っ取り、武田信玄と 戦う。」(北条五代記) *この時は武田信玄、一時甲州に退く。 「6月2日、駿河国に進出した武田信玄は、三枚橋城、興国寺城などに六千の兵を残して、 伊豆韮山城を攻める。」(武徳編年集成) 「6月 19 日、北条氏康は、洪水のため甲州へ退いた武田信玄に代って、三枚橋城、興国寺城 に三万余の兵を籠め置く。」(武徳編年集成・北条五代記) 「この冬、武田信玄が、蒲原・興国寺・三枚橋の三城を奪い、他の城も落とさんとするが、 望みを果たさず。」(北条五代記) 元亀元年(1570) ★史料編 399 -400 武田信玄、馬場美濃守信房に最前線の防備を固めるため三枚橋城を修繕させ、高坂源五郎昌 宣(*)にこの城を守らせ、北条氏の韮山城の監視に当たらせる。 (*)この昌宣は後の信達の父。信玄・勝頼に仕えた武田四天王の一人、前名春日虎綱、長篠の戦で討死し た高坂昌澄は昌宣の長男で信達の兄。 (*)武田氏の沼津への進出は、自国(甲斐国)への塩の輸送上の必要にも迫られていたとも思われる。 「4月 14 日、武田信玄が高坂虎綱に沼津・吉原より伊豆に出撃することを命ずる。」(武田信 玄書状写・武家雲箋) *この時点では、沼津(三枚橋付近)は武田方の前線基地の役割を果たしていたと考えられる。 *但し、北条方の5月 23 日・6月1日・8月 12 日の記録(北条五代記・北条氏政書状)によると三枚橋の 北西の興国寺城は、まだ小田原北条方が在番している。8月 12 日頃には、武田勢は黄瀬川に陣取り、 連日、興国寺城や韮山城に攻撃を仕掛けている。 元亀2年(1571) ★史料編 407 「正月3日、武田方が深沢城籠城の北条綱成に矢文を送る。この中に前年5月の武田信玄沼 津出陣のことが見える。」(深沢城矢文写) *武田方は前年末 12 月に深沢城を攻撃しており、矢文を送った後の元亀2年正月 16 日に降伏し開城し ている。この戦いにより北条方の駿河撤退は時間の問題となっており、武田・北条の対決は武田の勝 利で収束することとなる。この頃、武田信玄は三枚橋砦の周辺に在陣し全軍の指揮をしていたとも思 われる。 元亀3年(1572) ★史料編 416 「正月8日、武田信玄が小幡全賢と小幡上野介に、北条氏と和睦し興国寺城を受け取ったこ とを伝える。」(武田信玄書状写) *興国寺城が武田方に帰す。 天正元年(1573) 4月 24 日、武田信玄陣中にて病死する。
  • 3. 3 天正3年(1575) 5月、武田勝頼、長篠へ出張って織田・徳川連合軍に大敗する。 天正5年(1577) 武田家の臣高坂源五郎(*)、北条方の狩野川東南岸の戸倉城に対抗するため三枚橋城主となる。 (*)この時の高坂源五郎は、高坂昌宣の次男の信達。別名春日信達。「天正5年の夏、勝頼は家臣高坂源 五郎に命じて沼津に三枚橋城を築かせた。」(沼津市誌上巻 391 頁) 天正7年(1579) ★史料編 459 -467 頁 3月頃、信濃国海津城代の春日信達(高坂源五郎)、三枚橋城の城代になっている。武田勝頼、 8月より翌8年2月まで、駿河・伊豆の最前線の拠点として三枚橋城を再度修築(*)する。 (*)築城担当者4名⇒昌宣弟高坂源五郎信達・小幡山城守・駒沢右京允・真田安房守昌幸 「9月 17 日、武田勝頼が安中七郎三郎に三枚橋城の普請が終わったことを伝える。」(武田勝 頼書状・慈雲寺文書) 「9月 17 日、武田勝頼が上杉景勝に三枚橋城の普請が終わったことを 伝える。」(武田勝頼書状・上杉文書)(定説の三枚橋城築城) 「9月 19 日、武田勝頼が徳川氏によって放火された浅間神社などの煙を三枚橋城から見る。 また黄瀬川を隔てて対陣する北条氏に一戦を決しようと申し出るが、北条氏はこれを拒否す る。」「三千ヲ沼津二止、僅一万二千余ヲ率テ 神君二向ハントス」(武徳編年集成 巻之十八) (*)この頃勝頼は、三枚橋城を守備するため 3,000 の兵を沼津に置き、本人は信濃・甲斐衆の兵 12,000 余を率いて富士川を渡河し駿府の徳川方に向け出陣している。9月 13 日頃、北条方は武田方に対抗し て三島に陣を取る。 「10 月 25 日、北条氏の軍勢が黄瀬川を隔てて三島に在陣し武田の軍勢が三枚橋に陣取り対陣 する。」(信長公記巻十二) (*)9月 13 日、武田勝頼は軍勢1万6千余を従えて駿河の沼津に出兵し、伊豆の三島まで出陣してきた 北条氏政軍と対陣した時、城はまだ完成していなかったので、土屋右衛門に命じて工事を急がせ終わ らせた。(沼津市誌上巻 392 頁) (*)武田軍は黄瀬川に陣を引き、北条軍は3万6千余の大兵を率いていたといわれている。この戦いは、 容易に決着がつかずに北条氏政は黄瀬川を渡れずにいた。本格的な戦いがあったとは思われない。 天正8年(1580) ★史料編 479 -480 5月、武田勝頼、北条氏政と木瀬川及び香貫山ノ根に戦う。武田方の勝利。信州伊那郡松尾 城主小笠原信嶺、城築城にも携わり在番する。 同時期、武田水軍は北条方の長浜城付近まで攻め込み両軍応戦し駿河湾海戦が始まる。北 条水軍の反撃により武田水軍は退却し、北条方は後を追い武田方は千本松原に陣を敷き応戦 する。両軍の戦いは日暮れまで続いたと云われる。この両軍の戦いは翌年まで繰り返し戦っ たが、勝敗の有無やどちらが有利に進めたかはっきりした記録は残されていない。 (*)この海戦時、三枚橋城が武田方の陸上部隊の重要な基地の役割を果たしていたことは想像できる。 「9月 15 日、武田勝頼が、北条氏政による三枚橋城の包囲での小幡光盛の戦功を賞する。」(武 田勝頼判物写・駿国雑志巻三) (*)小幡光盛は、三枚橋城將である高坂源五郎の足軽大将であるという。 天正9年(1581) ★史料編 484 489-490 『北条五代記』によれば、天正 9 年に三枚橋城代春日信達(高坂源五郎)は伊豆国戸倉城代・ 笠原政清を調略し武田方に寝返らせたという。 「3月、武田氏が北条の進攻に備えて、三枚橋城に高坂源五郎率いる軍勢を派遣する。」(北条 記) *北条氏の来襲に備え、駿豆国境付近にある武田方の諸城の守りを強化している。 「8月 30 日、武田勝頼が曽根河内守に、三枚橋城の普請を信濃衆に申し付けるよう命ずる。」 (武田勝頼印判状・堀内文書) *曽根河内守は三枚橋城将か、年次未詳 「9月 13 日、北条氏直が金沢与五郎の沼津宿城での戦功を賞す。」(北条氏直感状・漆原文書) *この時、金沢与五郎が沼津の「宿城」を果敢に攻撃したことに対する戦功を賞している。「宿城」とは、 三枚橋城のことであり、同城は町場を内部に抱え込んだ構造になっていたと思われる。 天正10年(1582) ★史料編 495 486 2月、織田・徳川連合軍の武田進攻が開始。3月 11 日、武田勝頼天目山の戦い敗れて自害し 甲斐武田氏は滅亡する。 2月 28 日の夜、高坂源五郎(春日信達)、三枚橋城を放棄し落城。小笠原信嶺は降伏。 *3月2日に城を放棄、三枚橋城の高坂源五郎は守兵をつれて甲州に帰国する。(沼津市誌上巻 394 頁) 後に春日信達は、天正 10 年7月上杉景勝により川中島にて磔に誅される。 「2月 29 日、北条氏政が北条氏邦に、前日夜半に三枚橋城が落城したことを伝える。」(北条 氏政書状・三上文書) *織田・武田氏の戦闘が本格化する中で、武田氏不利の情報をつかんだ北条氏が 20 日頃より一挙に攻勢 をかけ、三枚橋城を手中に治めたことを知らせている。
  • 4. 4 497 498 499 502 503 506 507 509 510 「2月 29 日、山角康定が滝川一益に、夜半に三枚橋城を攻め落城させたことを伝える。」(山 角康定書状写・近代武将翰墨類聚書翰抜書) *織田方からのたよりであるが、北条氏が落城させたことを知らせている。 「3月3日、北条氏政が北条氏秀に、2月 28 日夜に三枚橋城が落城したことなどを伝える。」 (北条氏政書状・湯浅文書) 「3月、北条氏直の軍勢が駿河に進み、興国寺・三枚橋の両城が落城、軍勢は浮島ヶ原に陣 取る。」(北条五代記) 「3月、北条氏が織田氏に協力して、三枚橋城付近まで軍勢を進める。」(北条記) 「3月頃、三枚橋城将の高坂源五郎が織田氏により、川中島で殺される。」(甲陽軍艦) *三枚橋城は、当初北条方の手に落ちたと考えられる。後に織田方に明け渡されたと思われる。 「4月 13 日、織田信長が愛鷹山を遊覧し、興国寺城や三枚橋城のことなどを尋ね聞く。」(武 徳編年集成・信長公記) *2か月後の6月 22 日に本能寺の変が起き信長死す。 「7月4日、徳川家康が、興国寺城を牧野康成に、三枚橋城を松平忠吉と後見の松平康親に それぞれ与える。」(武徳編年集成) 「8月 12 日、三枚橋城を守る松平康親らの軍勢が、黄瀬川を越えて北条氏規の軍勢と戦い、 勝利を得る。」(武徳編年集成) *本能寺の変後、東駿河の領有をめぐって、北条氏と徳川氏の争いが続いた。 「8月 14 日、徳川氏が本多重次に、三枚橋城や興国寺城まで飛脚を出すことを命ずる。」(阿 部正勝他2名連署状写・譜牒余禄) 「8月 14 日頃、松平康親が、三枚橋城を出て、戸倉城を攻撃している北条氏を敗走させ、韮 山城まで追撃する。」(武徳編年集成) 「8月 15 日以降、徳川家康が三枚橋城を守る松平康親らの戦功を賞する。」(武徳編年集成) 「9月 25 日、三枚橋城にいる徳川方の軍勢が三島で北条氏と戦い、小笠原安次らが戦死する。」 (藩翰譜) 「9月 25 日、松平忠吉が松平家忠の遺跡を相続して、三枚橋城に入る。」(武徳編年集成) 天正11年(1583) ★史料編 514 516 松平康親、6月死去(享年 63 歳)、沼津の乗雲寺に葬る。以後、康親の長男松平康重が父の 後を継ぎ天正 18 年までの7年間三枚橋城主となる。 「2月 18 日、徳川家康が松平康親に、河東地区の所領と駿東・富士郡の郡代の地位を与え、 三枚橋城での職務遂行を命ずる。」(徳川家康判物・松井文書) *松平忠吉の後見人として同城を守っていた康親が、その功を賞されて郡代の地位を与えられ、その職 務を三枚橋城で行っていた様子が分かる。 「6月 17 日、松平康親が三枚橋城で死去し、子の松平康重がその跡を継ぐ。」(武徳編年集成) *松平康重は後の名、この時期は康次と名乗っていた。 天正12年(1584) ★史料編 520 「4月、岡田元次が家康の勝敗を窺うため、三枚橋城より長久手の戦場に赴く」(武徳編年集成) *岡田元次は松平康重の家臣。 「8月 22 日、三枚橋城主松平康次が、泉之郷に禁制を下す。」(松平康次禁制・泉郷文書) 天正14年(1586) ★史料編 525 「3月 11 日、徳川家康が沼津において北条氏政と対面する。」(当代記・武功雑記・武徳編年集 成) *家康が三枚橋城に立ち寄っており、一時的であれ両将の間で和談したと思われる。 天正17年(1589) ★史料編 534 536 -537 540 -541 「2月5日、大地震があり興国寺城、長久保城、沼津城の塀や二階門などが損傷する。」(家忠 日記) *沼津城は三枚橋城のこと。 「9月 26 日、徳川家康が甲斐国より、長久保城、沼津城に帰る。」(家忠日記) 「11 月 24 日、豊臣秀吉が徳川家康に、北条氏成敗につき相談のため上洛を促し、来春三枚橋 城に出馬する旨を伝える。」(豊臣秀吉書状案・富岡文書) *秀吉より「駿河大納言とのへ」として宛てられた書状である。 「12 月4日、秀吉の使者富田知信・津田信勝が沼津迄下向する。7日、北条氏直が書状を沼 津に遣わす。」(武徳編年集成)、「12 月7日、北条氏直が、豊臣方によって北条氏の弁明の使者 が沼津で拘留されたことに対し、抗弁の書状を贈る。」(北条氏直条書案写・武家事記) *父氏政の上洛が遅れたことを秀吉に弁明するとともに、北条の使者が沼津(三枚橋城)で拘留された ことに抗弁した北条氏直の書状である。宛名は秀吉の使者、富田左近将監・津田隼人正殿。両名三枚橋 城に滞在し、北条方との交渉に当たっていた。 天正18年(1590) 「2月 18 日、豊臣秀吉が豊臣秀次に、三枚橋城に着陣次第注進するよう命ずる。」(豊臣秀吉
  • 5. 5 ★史料編 545 546 547 552 553 554 558 559 560 561 562 571 印判状・桑原文書) 「2月 24 日、北条氏直が小幡兵衛尉に、豊臣方が沼津に着陣したことを伝える。」(北条氏直 覚書写・小幡文書) *小幡兵衛尉は小幡信定か。北条氏の家臣。 「2月 25 日、織田信勝が沼津まで出馬する。」(家忠日記) 「同日、織田信勝が勢州の国人等二万余を率いて沼津・三島に進む。」(武徳編年集成) 「2月、豊臣方の先陣が、黄瀬川~沼津に着陣する。」(豊鑑) 「3月3日、豊臣秀次が沼津まで参陣する。」(家忠日記) *2月末~3月 10 日頃、豊臣・北条両軍、黄瀬川を挟み対陣する。 「3月 16 日、織田信勝が三枚橋に着陣し、東征の先陣は富士の根方の野山に充満する。」(関 八州古戦録) 「3月 18 日、豊臣秀吉が徳川家康に、家臣依田康國の軍功を賞し、三枚橋城に本陣を移すこ となどを知らせる。」(豊臣秀吉判物・依田文書) 秀吉本隊着陣…「3月 27 日、豊臣秀吉が沼津に到着する。」(家忠日記・武徳編年集成ほか) *この時本陣を三枚橋城に置き有力諸將を招き小田原北条氏征伐の作戦会議を開いたことかと思われ る。なお、新たに駆けつけた一部諸將の謁見をも行う。この中に津軽より津軽為信が家臣 18 騎を引き つれ駆けつけ所領安堵等を賜っている。 6月 24 日小田原城開城し北条氏を滅亡させる。豊臣秀吉は、徳川氏を関八州に移封せしめ、秀吉政 権の重臣(三中老の一人)である中村式部少輔一氏に駿河国を与え、その弟の中村一栄が三枚橋城の城 主となる。中村兄弟を徳川氏の万一に備えとして配したと思われる。石高3万石。 秀吉三枚橋城着陣後の発信文書…「4月1日、豊臣秀吉が上杉景勝に、去る3月 27 日に三枚 橋城に着陣し、直ちに山中城を攻落したことを伝える。」(豊臣秀吉朱印状・島垣文書) 「4月2日、豊臣秀吉が上杉景勝・前田利家に、去る3月 27 日に三枚橋城に着陣したことな どを伝える。」(豊臣秀吉書状案・堀口文書) 「4月4日、豊臣秀吉が本願寺に、去る3月 27 日に三枚橋城に着陣し、29 日に山中城を攻落゜ したことを伝える。」(豊臣秀吉朱印状・本願寺文書) 「4月7日、豊臣秀吉が鍋島直茂に、三枚橋城に着陣とその後の状況を伝える。」(豊臣秀吉朱 印状・鍋島文書) 「4月8日、豊臣秀吉が加藤清正に、三枚橋城に本陣を置き、山中城・韮山城を攻落したこと を伝える。」(豊臣秀吉朱印状写・加藤家伝清正公行状) *注参考:山中城落城…3月 29 日、韮山城開城…6月 24 日。 「7月 10 日、豊臣秀吉が小早川隆景らに、淀殿が来る 15 日に三枚橋城に到着することなどを 知らせる。」(豊臣秀吉印判状・吉川家什書抜萃五) 慶長6年(1601) 2月 関ケ原の戦いの後、徳川家康は家臣の大久保忠佐を上総茂原(5,000 石)から三枚橋城に封じ、 2万石を与え沼津藩が成立した。この時忠佐、三枚橋城を改めて沼津城と唱える。 慶長18年(1613) 忠佐死去、跡継ぎのなかった沼津藩大久保家は断絶となり、翌 19 年(1614) 沼津城(旧三枚 橋城)は廃城となる。廃城後の沼津は、駿府領に編入されて代官支配となり、安永6年(1777) までの 160 余年間は沼津には城はなかった。忠佐の遺骨は、沼津城の外郭(現沼津第一小学 校東北隅の道喜塚)に葬ったといわれている。 慶長19年(1614) 駿府(静岡)城主徳川頼宜の領地となり、沼津には郡代が置かれた。 元和4年(1618) 頼宜、紀伊に移封し、幕府蔵人地(天領)として代官支配となる。 寛永元年(1624) 駿河大納言徳川忠長が駿河 55 万石の藩主となり、沼津には城代が置かれた。また、忠長は別 邸を本城の址に造り、しばしば来遊していたといわれる。 寛永9年(1632) 前年末、忠長罪ありて甲府に蟄居し、再び代官支配となる。 寛永18年(1641) 大火に見舞われ、忠長の遺邸を含む建物はすべてが消滅し市街も延焼し、城址はすべて荒廃 する。城地は一面田畑になったと伝えられている。 安永6年(1777) 11 月6日、水野忠友が2万石で沼津に城地を与えられ、ここに沼津水野藩が誕生する。 翌年の安永7年(1778)正月より旧城跡地に新規の築城が始まった。 *慶長廃城より 165 年目の新城築城である。 <以下「新沼津城年譜」省略>
  • 6. 6 【参考】 〇三枚橋城主(天正5年~慶長 18 年)と以後の城地区支配者 (清水文書他) 城主名 身分 城主となった年代 在職年 支配者 備 考 高坂源五郎 城代 天正5年(1577) 5 年 武田勝頼 松平周防守康親 城主 天正 10 年(1582) 1 年 徳川家康 2万5千石 松平康重 城主 天正 11 年(1583) 7 年 徳川家康 中村一栄 城代 天正 18 年(1590) 11 年 豊臣秀吉 一氏の弟3万石 大久保次右衛門忠佐 城主 慶長6年(1601) 12 年 徳川家康 沼津城と称す *慶長 18 年、忠佐死去により継嗣なく廃城となる。以後、幕府天領として三枚橋城地は代官支配となる。 長野九郎右衛門 郡代 慶長 徳川頼宜 紀伊藩 佐野平兵衛 代官 元和6年(1620) 幕府蔵人地 安藤弥兵衛 代官 元和6年(1620) 〃 成瀬五右衛門 代官 元和7年(1621) 〃 森川六右衛門 代官 元和8年(1622) 〃 篠原小左衛門 城代 寛永1年(1624) 駿河大納言 長谷川藤左衛門 代官 寛永 10 年(1633) 駿府領 駿府代官支配 野村彦大夫 代官 寛永 19 年(1642) 〃 国領半兵衛 代官 天和2年(1682) 〃 小長谷勘右衛門 代官 貞享4年(1687) 〃 大草太郎右衛門 代官 元禄5年(1692) 〃 外山五郎左衛門 代官 元禄 11 年(1698) 〃 鈴木助次郎 代官 元禄 14 年(1701) 〃 守屋か 能勢権兵衛 代官 宝永3年(1706) 〃 鈴木三郎兵衛 代官 宝永6年(1709) 〃 鈴木小右衛門 代官 正徳2年(1712) 〃 小林又右衛門 代官 正徳4年(1714) 〃 山田次右衛門 享保 11 年(1726) 〃 三島御役所 斉藤喜六郎 享保 14 年(1729) 〃 三島御役所 大屋杢之助 代官 寛保3年(1743) 〃 疋田庄九郎 代官 延享?年(—) 〃 小川新右衛門 代官 宝暦6年(1756) 〃 山本平八 代官 宝暦7年(1757) 〃 宮村孫右衛門 代官 宝暦7年(1757) 〃 原か 会田伊右衛門 代官 宝暦7年(1757) 〃 小田切新九郎 代官 明和1年(1764) 〃 江川太郎左衛門 代官 明和7年(1770) 8年 〃 韮山代官 水野出羽守忠友 城主 安永6年(1777) 水野藩 沼津城-沼津藩
  • 7. 7 ○最後の三枚橋城主・大久保治右衛門忠佐 1537(天文 6)年、三河(愛知県)の松平(後の徳川)の家臣大久保忠員の次男として生まれた。忠佐は 各地で奮戦し、勇名をとどろかせた戦国武将であった。有名な大久保彦左衛門の兄である。1601(慶長 6) 年、三枚橋城主となり、のちに入道して道喜といった。1613(慶長 18)年、77 歳で死去し、東間門の妙伝 寺に葬られた。後継者がなかったので大久保家は絶え、三枚橋城は廃城となった。 現在、沼津市立第一小学校の校庭内に忠佐の道喜塚がある。 大久保治右衛門忠佐の墓(妙伝寺) 〇沼津藩の歴代藩主 *冒頭の年度は領主となった年代を示した。 ◇大久保家(慶長 6 年(1601 年)-慶長 18 年(1613 年)) 譜代。2万石。大久保治衛門忠佐(ただすけ) ◇水野家(安永 6 年(1777 年)-慶応 4 年(1868 年)) 譜代。2万石→3万石→5万石。 ① 1777 年(安永6) 水野出羽守忠友(ただとも)〔小姓組番頭・御側役・若年寄・側用人・老中〕 ② 1802 年(享和2) 水野出羽守忠成(ただあきら)〔奏者番・寺社奉行・若年寄・西丸御用人・老中(首座)・勝手用掛〕 ③ 1834 年(天保5) 水野出羽守忠義(ただよし) ④ 1842 年(天保 13) 水野出羽守忠武(ただたけ) ⑤ 1844 年(天保 15) 水野出羽守忠良(ただよし) ⑥ 1858 年(安政5) 水野出羽守忠寛(ただひろ)〔奏者番・側用人〕 ⑦ 1862 年(文久2) 水野出羽守忠誠(ただのぶ)〔奏者番・寺社奉行・若年寄・老中〕 ⑧ 1866 年(慶応2) 水野出羽守忠敬(ただのり)〔江戸城大手御門番・甲府城代〕 〔編集後記〕 編者が三枚橋城に興味を持ったのは、郷土沼津のお城でありその存在(寿命)の短さである。戦国期 には、短命な城は数多くありますが、廃城から 160 年間の空白があり、江戸時代の安永6年水野出羽守 忠友が初代沼津藩主となり、翌7年、三枚橋城の跡地に新沼津城を築城し甦っております。 沼津藩・沼津城関連の文献は単行本化したものを含め数多く見かけますが、この城の前身である三枚 橋城のものは少なく、「沼津市史」や他の史書の頁をめくりながら探さないと見つかりません。 調査・編集にあたっては「沼津市史」や沼津史談会の会報「沼津史談」の中の記事、明治史料館に出 向き閲覧した他の史書類等々も参考にしました。 令和元年8月 <調査・編者:沼津史談会会員 飯田善行>