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ソブリンリスクと財政再建(下)∗
安田 洋祐†
初出:2010 年 3 月 4 日
ポイント
• ソブリンリスク,新しいゲーム理論で分析
• 投資家の情報の取得,現実的な状況を想定
• 不安あおらず,地道に財政健全化進めよ
昨年,民主党が初めて編成した 2010 年度の政府予算は,一般会計の歳出総額が
92 兆円を超える一方,税収見込みは新規国債発行額 44 兆円を下回る 37 兆円にとど
まった.ストック面を見ても,国会財政の逼迫 (ひっぱく) が指摘されている.国と
地方を合わせた長期債権残高は 10 年度末には 862 兆円程度と国内総生産 (GDP) 比
180% を突破する見込みで,経済協力開発機構 (OECD) 諸国中,群を抜いて高い.
これを機に最近,日本でもソブリンリスクに対する懸念が高まっている.ソブ
リンリスクとは本来は「国が対外的に支払い不能となるリスク」のことだが,国
債の 9 割以上を国内投資家が保有している日本の場合,国債価格暴落に伴う財政
破綻のリスクが議論されている.1 月には米大手格付け会社のスタンダード・アン
ド・プアーズが,日本国債の株付け見通しを「引き下げ方向」に修正した.
ただし,こうした現在や過去のデータから日本の財政が危機的状況であると判
断するのは早計かも知れない.一般に国家財政の維持が可能かどうかは,現在の
財政赤字額や過去の国債累積残高だけでなく,今後の財政規律や投資家行動といっ
た「将来」の出来事にも大きく依存するからだ.将来を予測する分析ツールとし
て高い有用性を秘めているのが,「グローバルゲーム (の理論)」と呼ばれる革新的
な考え方である.以下でこの理論を紹介し,ソブリンリスク問題に具体的にどの
ように応用できるか考えたい.
グローバルゲームは,1990 年代にゲーム理論の中から生まれた新しい理論だ.
ゲーム理論は,参加者同士の行動がお互いに影響を与え合っているような複雑な状
∗
本稿は日本経済新聞 (2010/3/4 付朝刊)「経済教室」に掲載された記事を転載したものです.
†
やすだ・ようすけ — 80 年生まれ.東京大経卒,プリンストン大博士.専門はゲーム理論.政
策研究大学院大学助教授.
1
況 (戦略的状況) を数理的に分析するツールとして,経済学をはじめ,政治学,社
会学,計算機科学から生物学に至るまで,幅広く応用されている.
ソブリンリスク問題を考える上でも,資金の借り手である政府と貸し手の投資
家の関係や,投資家同士の関係は戦略的状況にあると捉えられるため,ゲーム理
論を使った分析が過去,進んできた.例えば前者については,財政が破綻した後
に投資家と再交渉できることが,逆に政府に債務不履行 (デフォルト) をより引き
起こそうとする誘惑をもたらすというモラルハザード問題が指摘されている.
また後者については,たとえ経済のファンダメンタルズが健全であっても,多
くの投資家がデフォルトを予想して資金を一斉に引き揚げると,デフォルトが自
己実現してしまう可能性などがいわれている.これらは,参加者同士の戦略的状
況を考えるゲーム理論によってはじめて明らかにされた貴重な成果といえる.
ところが,こうしたゲーム理論によるソブリンリスク分析には深刻な問題がひ
とつあった.理論的な結果予測が複数存在し得るため,どの結果が一番もっとも
らしいか事前に予測することができないという「複数均衡」の問題である.後述
するようにグローバルゲームは,通常のゲーム理論分析の前提をより現実的なも
のへと変えることで,複数均衡の問題を解決し理論予測の精度を高めることに貢
献した.その意義を理解するためにも,投資家の戦略的な行動に焦点をあて,彼
らが引き起こす複数均衡問題を,以下で少し具体的に見ていこう.
いま,政府が今期必要な財政赤字分を補うための新規の国債発行による収入を
充てている状況を考える.国債の潜在的な買い手としては投資家が 2 人いる.1 人
では購入額が不十分なためデフォルトが発生するが,2 人とも購入すればデフォル
トを防ぐことができ,国債購入のリターンが期待できるとしよう.投資家が 2 人と
いう極端な設定は,新規国債に十分な数の買い手が付かない時に政府がデフォル
トの危機に直面する,という現実的な状況を単純化したものだ.投資家の数を増
やして分析を行っても,本質的な結果はほとんど変わらないことが知られている.
この状況で,各投資家の最適な行動は,もう一人の投資家行動に依存すること
がわかる.相手が国債を購入するなら,自分にとっても国債投資のリターンが得
られる購入が最適である.一方,相手が購入しないなら,デフォルトによる損失
を避けるため,自分も購入しない方がよい.結果として2人とも国債を購入して
デフォルトが起きない「良い均衡」と誰も国債を購入せずにデフォルトが実現す
る「悪い均衡」の二つが理論的に予測できることになる.
このように,参加者がお互いに最適な行動を取り合っている状態,いいかえれ
ば,すべての参加者にとり自分一人だけが行動を変えても得できない状態のこと
を,ゲーム理論ではナッシュ均衡と呼ぶ.
ソブリンリスクのゲーム理論分析で自然に生じるこの複数均衡は,通貨危機や
銀行取り付けなど,通常時と危機発生時との間で大きなレジーム転換を伴うよう
なマクロ経済現象の分析でも発生することが知られている.ナッシュ均衡が複数
2
ある場合は,どちらの均衡がもっともらしい結果であるかを先験的には決定する
ことができず,将来が予測できない.複数均衡問題は,研究者や政策担当者の頭
を悩ませる深刻な問題なのだ.では,グローバルゲームは,どのようにしてこの
複数均衡問題を解決したのだろうか.
通常のゲーム理論分析では,参加者は自分たちの置かれた状況をお互いに知り
尽くしていることが仮定される.他方,グローバルゲームでは,各参加者は自分
の置かれた状況を完全には知らない.そのかわり,各人が私的に観察したシグナ
ルを基に,他の参加者が受け取るシグナルをお互いに予想しながら行動を決定す
る,という状況を想定する.
先のソブリンリスク分析に当てはめると,国債投資のリターンが (誰も正確には
知らない) 経済のファンダメンタルズによって左右され,そのファンダメンタルズ
の値に関して個々の投資家が独立に情報を得るという現実的な状況を想定して分
析するわけだ.
ここで,各投資家が相手の行動を正確に予想するためには,ファンダメンタル
ズを予想するだけでなく,他の参加者がファンダメンタルズをどのように予想し
ているか,という他人の予想について次々と深読みをして考えていかなければい
けない.詳細は省くが,この一見すると非常に複雑な状況で,(私的な) 情報の精
度が十分高い場合には,ナッシュ均衡が1つになることが知られている.具体的
には,ファンダメンタルズがある値よりも健全な場合には,デフォルトの起こら
ない「良い均衡」だけが,逆の場合には「悪い均衡」だけがそれぞれ実現するの
である.
グローバルゲームを用いることで,ファンダメンタルズがどんな水準の時に財
政破綻が起こるか,既存のアプローチより高い精度で予測を行うことができる.実
際,国債の発行や償還をなだらかにして財政赤字が平準化すると,破綻リスクが
減ることが確認された.また政府の公開情報と比べて投資家が取得する私的情報
の精度が低い場合,複数均衡が生じて悪い均衡 (デフォルト) が起こる恐れがある
ことが明らかになった.
今後研究が進めば,投資家のサイズの違いや,ファンダメンタルズに関する公
的な情報公開,国債の情報公開,国債の償還期間の設定,金融政策のシフトといっ
た環境や政策の変化が,ソブリンリスクへどう影響するかについても,より精緻
(せいち) な分析が可能となろう.
これらの学術研究は,わが国でも日銀の服部正純氏などが行っているが,研究
成果の政策への反映は国際的にもまだ十分に進展しているとはいいがたい.いた
ずらに財政破綻の不安をあおらないためにも,地道な財政再建を進めるだけでな
く,グローバルゲームを応用したソブリンリスク研究を一段と深め,その成果を
現実の政策に応用することが期待される.
3

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