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榊家の由来並びに父綽(ゆたか)
(通称令輔、号篁邨)、母こうに
ついて
榊家は鎌倉時代方続いた武家。
榊定禅は蒙古襲来のときの功によっ
て1289年(正応2年)筑前の
国、早良郡四箇村に領地を受く。
16代目の善右衛門の時、筑前藩
の黒田忠之(長政の一男)につか
え、綽の父(榊俶の祖父)長右衛
門は21代目にあたる。
父榊綽は1823年12月27
日(文政6年11月18日)に母
の実家相州高座郡下溝に生まれる。
1836年から黒田家に仕えるも、
1841年公金紛失に関わる冤罪
で榊宗家が断絶、失職す。
1849年杉田玄端(1818-89
玄白の子立郷の養子、蘭方医、宗
家玄白の家を継ぐ、一時沼津に滞
在)の塾に入り、蘭学をはじめ、
翌年には杉田成郷(1817-59 立
郷の子で玄端の義兄、蘭方医)の
塾に入り、蘭学を習う傍ら蘭書に
よって西洋画を研究。津藩藤堂公
の肖像を当時珍しい油絵で描いた
ことで藤堂公に仕えることになり、
公の命で海防視察に当り又、米国
使節ペリーの会見場の見聞を絵と
文とをもって報告したりした。
露国使節プチャーチンが185
4年(安政2年)11月下田へ入
港した時、私個人の立場で箕作
(みつくり)阮甫(げんぽ)(東大精
神・神経科3代目教授呉秀三外祖
父、1799-1863、津山藩士、幕臣、
蘭学者、蕃書調所の首席教授、翻
訳に当った分野は医学・語学・天
文・物理・兵法・歴史・地理と多
面にわたりわが国の西洋学問の導
入に多大な貢献)に同伴、この時
銀板写真術を習い、後杉田成郷と
はかって写真器製造の成功をはじ
めロシア語入門書(魯西亜字筌)
を1856年に著すこととなる。
1856年(安政3年)、幕府
の鷹師山田一郎の長女こうと結婚、
翌年に善太郎後の俶がうまれた。
1857年、幕府は外国の学芸
を調査・研究・教育するための教
育機関として蕃書調所を開設。外
国書籍の活版を行うべく召集され、
1858年蕃書調所活字御用出役
を命ぜられ鉛板印刷を行った。こ
の後、開成所(蕃書調所→洋書調
所→)で蘭学・西洋画・印刷の任
に当たり、1867年(慶応2年)
には幕臣旗本格として富士見御宝
蔵番格、開成所活字役となる。
江戸開城に伴い、明治元年(1
868年)10月28日、駿府に
移住し静岡学問所3等教授格に任
命されていたが同年12月沼津兵
学校書記方及び「図学方兼勤」と
して沼津へ転勤を命じられる。3
等教授として明治5年(1872
年)の廃校まで沼津に在勤。
以後東京に移り、海軍省に勤務し
たが、数か月で太政官地誌課に転
じた。幕末より舶来の機械で「石
版の実験」を行い、「活版石版の
我国における始祖」ともいわれる。
1877年2月に地誌課が廃され
て退職した後仕官しなかった。そ
の後、もっぱら博物標本(主に骨
格標本)に従事する他、絵を描き、
謡曲をうたい、幸せな晩年を過ご
し1894年(明治27年)1月
24日満70歳で死去。
著書には「火技全書図(1855)」
「魯西亜(ろしあ)字筌」等、西洋
画・印刷・写真術・ロシア語・測
量・標本作成など多方面に先鞭を
つけた。
榊 綽 妻と息子
榊綽(一八二三~九四)は、沼津兵学校教授に就任した明治二年
(一八六九)当時、四十六歳。頭取の西周よりも六歳年長で、教授陣
の中では最長老だった。それだけに洋学者としての経歴も長く、業
績もあった。筑前黒田藩士の家に生まれたが故あって浪々の身とな
り、貧窮の生活を送っていた彼が再び津藩藤堂家に仕官する好運に
恵まれたのは、ひとえに蘭学の実力によるものだった。
師は杉田玄端、杉田成卿。特に西洋画や写真技術に関心を持ち、
研究を重ねた。安政年間の訳著書として、西洋の工具類を精密に作
図した『火技全書図』、ロシア語の入門書『魯西亜字筌』がある。
さらに抜擢され、津藩士から幕府の蕃書調所活字御用出役に転じた
のは安政五年(一八五八)。以後幕府瓦解に至るまで活版印刷・石版
印刷などの研究を続けた。明治元年十月駿府に移り、静岡学問所三
等教授格に任ぜられるか、翌年沼津に転じ兵学校の図画方・二等教
授並となり、四年には三等教授に進んだ。綽は旧幕時代から通称の
令輔を名乗っていたか、兵学校時代に令一と改名したようである。
兵学校廃止後は上京し、兵部省・海軍省・太政官地誌課に奉職し、
明治十年(一八七七)を最後に官を辞した。
榊家の由来並びに父綽(ゆたか)(通称令輔)
(ゆたか)
母こうは1830年7月28日
(天保6年6月9日)鷹師山田一郎
の長女として駒込千駄木に生まれる。
数え16歳で伏見宮家から降嫁の清
水家後室につかえ、御使番頭をつと
め数え27歳で嫁ぐ。
維新の困難な状況下、三男二女の
母として三人の医学博士及び医学博
士の妻となった二人を育て上げたば
かりか、精神病者慈善救治会を生み
出す母体となった私立大日本婦人衛
生会設立の発起人でもあった。肝の
すわったしっかり者をあらわす性豪
遭のエピソードとして、夫の留守中
に抜刀して乱入した者を一身をもっ
て三児を救い、その者を退去させた
という挿話が残されている。
榊綽と息子たち
父子で沼津兵学校の教授・生徒の間柄であった
長男俶(一八五七~九七)は、江戸で開成所に学んだ後、駿府移住によ
り静岡学問所に入学、さらに沼津兵学校附属小学校に転入した。
東京大学医学部を卒業後、明治十五年(一八八二)ベルリン大学に留
学し精神病学を専攻した。四年後帰国、医科大学教授に就任し、精神
病学教室を開設した。我が国における精神病学のパイオニアである。
次男順次郎(一八五九~一九三九)も明治二年四月に沼津兵学校附属小
学校に入学した経歴をもつ。十六年東京大学医学部別課を卒業、産婦
人科学を専攻し、ドイツに留学もした。
三男保三郎(一八七〇~一九二九)は沼津で生まれた人。明治三十二
年(一八九九)やはり東京帝国大学を卒業。長兄の衣鉢を受け継ぎ精神
病学を専攻し、海外留学から帰朝後、九州帝国大学医学部教授になり、
約二十年間同大学で精神病学講座を担当した。三兄弟とも医学博士で
あり、また長女小梅、次女徳子の婿(緒方正規・岡田和一郎)もそれぞ
れ医学博士であった。優秀な息子たちに囲まれ、紳は幸福な晩年を送っ
たようである。退官後は絵画や謡曲などの趣味に没頭し、特に動物の
骨格標本の製作に取り組んだ。それらの標本類は東京帝国博物館に納
められたという。〈参考文献〉『故榊令輔後練及室幸子略伝』(一九
一六年)、『榊俶先生顕彰記念誌』(一九八七年榊俶先生顕彰会発行)、
榊順次郎「履歴書」(明治二三年榊愛彦氏提供)ほか。
妻こうの存在
榊 綽(さかきゆたか)
徳島藩と鹿児島藩では、御貸人の招聘を機に静岡藩の
小学校制度を取り入れた教育改革を実施している。徳島
藩が四年正月に設置した小学校の規則は、「徳川家兵学
校附属小学校掟書」に倣(なら)ったものだった。鹿児
島藩が同年同月に始めた本学校―小学校・郷校の進級制
度は、兵学校―附属小学校のしくみを取り入れ、「普通
之学問」(資業生の基礎科目相当)の習得に主眼を置いた
ものだった。鹿児島では廃藩後も静岡藩の制度的影響が
続き、八年(一八七五)六月に制定された「変則小学校規
則」は「静岡藩小学校掟書」にそっくりだった(井原政純
「鹿児島藩の学制改革と静岡藩からの影響―(二)『本学
校ー小学校・郷校の制』を中心に―」『国士館大学教育
学論叢』第十七号、一九九九年)。
鹿児島に赴いたのは、沼津兵学校の生みの親ともいう
べき阿部潜(せん)と附属小学校頭取蓮池新十郎らであっ
た。倒幕(とうばく)の張本人たる鹿児島藩への肩入れ
は、相手からも感謝され、戊
辰時の感情的なしこりを解消
する役割も果たしたようであ
る。第二期資業生から鹿児島
藩御貸人となり数学を教えた
堀田維禎は、鹿児島の生徒た
ちに慕われ、死後追悼のため
の記念碑が東京の墓地に建て
られている。
なお、沼津兵学校以外では、
静岡学問所からの御貸人派遣
は少ないが、箱館戦争降伏人と勤番組からの派遣数は極
めて多い。無役の者や帰参(きさん)した者の中にも有
能な人材が眠っていたわけであり、静岡藩では彼らを他
藩へ貸し出すことで、人材の有効利用と食い扶持(ぶち)
の節減との一石二鳥をはかったといえる。
鹿児島藩御貸人 堀田維禎
廃藩後も続いた派遣先の教え子との交情を示すもの
として、鹿児島藩御貸人堀田維禎の墓石脇に建てられ
た碑(東京都豊島区.染井霊園)がある。珍しい史料なの
で以下に掲載しておこう。
この碑文によると、堀田は明治五年に鹿児島の学校
教師を引き受けたとあり、廃藩後も改めて同地で教鞭
をとったことがわかる。<左の碑文参照>
しかし、明治七年(一八七四)十一月八日、帰省中の
東京で二十九歳で病没した。多くの弟子たちに慕われ
たらしく、このような石碑が建立されたのである。
ちなみに、石碑に名前が刻まれた堀田の弟子のうち、
著名な人物は、玉利喜造(一八五六~一九三一)と大島
仙蔵(一八九三年三十五歳で没)の二人である。玉利は、
薩摩藩士の子に生まれ、鹿児島での少年時代には、藩
校造士館、小学校、西兵学寮などで学び、明治八年に
上京、のちに農学博士・東京帝国大学教授・貴族院議
員になった。大島は、奄美大島に生まれ、明治四年鹿
児島の本学校に入学、学力抜群により中学生(助教)
に採用され、八年(一八七五)大山巌に伴われ上京、
工部大学校を卒業しアメリカへ留学、帰国後は鉄道技
師として活躍した。
静岡から鹿児島への御貸人は、はるか後年にこのよ
うな人材の花を咲かせる役割も果たしたのである。市
来四郎が大久保利通へ推薦したことにより阿部潜が大
蔵省に奉職したごとく、御貸人をめぐっては、教育制
度の移植という個面だけではなく、個々の人間的なつ
ながりの形成についても見落とせないのである。
『旧幕臣の明治維新 沼津兵学校とその群像』樋口雄彦著
2005年11月発行より
「沼津兵学校の研究」樋口雄彦著 2007年10月発行より
静岡藩から鹿児島藩への御貸人
留学生と御貸人
わが国工業教育の父といわれる
資料1
手島精一
誕生 1850年1月11日(嘉永2年11月28日)
武蔵国江戸外桜田(現・東京都千代田区)
別名 銀次郎→惇之助
死没 1918年1月23日(68歳没)
墓地 染井霊園(東京都豊島区駒込)
職業 教育者、官吏
国籍 日本の旗 日本
代表作『青年自助論』(1914年)
配偶者 春子(杉亨二長女)
子供 信治(長男)荘吉(次男・田辺貞吉養子)
淳蔵(三男)ふみ(次女・松江春次妻)
丈次(四男)とし(三女・内藤楽妻)
親族 手島右源太(養父)田辺四友(実父)
田辺貞吉(実兄)
資料2
沼津藩出身明治人物小伝
嘉永二年江戸藩邸に生まれる。
幕末には藩主水野忠誠の側近く仕えた。維新後江
戸の藩校洋学局に学び、明治三年にはアメリカ留
学の機会に恵まれた。帰国後は、開成学校・文部
省などに奉職し、主として博覧会・博物館関係の
役職を歴任した。工業教育振興を鼓吹し、東京職
工学校ー東京工業学校(現東工大)の校長・文部省
実業教育局長などをして、工業教育に大きく貢献
した。晩年には工業教育の育英事業として、財団
法人手島工業教育資金団を設立した。
わが国工業教育の父といわれる。大正七年没。
〈参考〉『手島精一先生伝』ほか。
(明治史科館通信Vo1.1No.4通巻第4号
「沼津藩出身明治人物小伝」より)
手島精一(せいいち)
資料3
沼津藩(静岡県)藩士・
田辺四友の次男として江戸
藩邸で生まれる。
12歳で同藩士・手島惟敏
の養子となる。藩校明親館
で洋学を学び、明治3年(1
870年)に藩から学費を借
りて渡米。建築学および物
理学を学ぶつもりだったが、
廃藩置県で送金がなくなり、
岩倉遣外使節団の訪米時の
通訳を務め、さらにイギリ
スに随行。
明治7年(1874年)末に
帰国。翌年東京開成学校
(東大の前身)監事に就任。
1876年(明治9年)製作学
教場事務取締を兼勤、翌年、
教育博物館長補となる。フィ
ラデルフィアおよびパリ万
国博覧会を視察し、工業教
育の重要性を認識し、九鬼隆一、浜尾新らとともに、
1881年(明治14年)東京職工学校(現・東京工業大
学)を設立。
明治14年(1881年)東京教育博物館長に就任。民
衆の啓蒙教育に貢献。明治19年(1876年)に「実業
教育論」を発表、井上毅の文部大臣時代(明治26年
(1893年) - 明治27年(1894年))の実業教育法制
に理論的根拠を与えた。また、東京職工学校(明治2
3年(1890年)に東京工業学校、明治34年(1901年)
に東京高等工業学校と改称、現東京工業大学)の創
設(1881年)にも尽力し、明治23年(1890年)に同
校校長に就任。明治30年(1897年)文部省の普通学
務局長、明治31年(1898年)同実業学務局長を務め
た以外は、大正5年(1916年)9月22日にその職を辞
するまで東京高等工業学校長として日本における工
業教育の発展に貢献した。また校長退職と同時に、
東京高等工業学校名誉教授の称号を授けられた。191
6年(大正5年)には、政界、財界、教育界等の諸名
士が発起人となって「財団法人手島工業教育資金団」
が設立され、90年あまりの間、学生への奨学金、若
手研究者への研究助成の事業を行った。
国勢調査の先駆け「駿河国人別調」の試み
「駿河国沼津政表・原政表」
静岡藩には、西洋の新知識を有した人材を活かし、教
育面のみならず一般行政面においても、斬新な政策を実
行した一面があった。近代的な国勢調査(センサス)の先
駆けと評価される政表(統計)の作成である。
その提唱者は、幕府開成所で洋学を教えた杉亨二であ
り、当時静岡藩では府中奉行の配下(沼津兵学校員外教授)
となっていた。明治二年、杉は、沼津奉行阿部潜と府中
奉行中台信太郎を説き、新しい領地を治めるためには領
民の人口調査が必要であること、そしてそれを古い人別
調方式で行なうのでなく、西洋の統計学に基づく方法で
(「駿河国人別調」として)実施したい旨を伝え、了解
を得た。
まず駿府市中の名主全員を呼び出し趣旨を聞かせ、家
毎の調査票を配布した。駿府の次は江尻宿・清水湊・沼
津宿・原宿へと調査地区を拡大した。しかし、同年六月
版籍奉還の結果、このような調査を自藩だけが行なうと
いうのは政府に憚られるという俗論から、折角進められ
ていた調査は中止されてしまう(世良太一『杉先生講演集』、
一九〇二)。
しかし、駿府に比較し町の規模が小さかった沼津宿と
原宿の調査だけは完了し、結果がまとめられた。それが、
「駿河国沼津政表」「駿河国原政表」である。
沼津の調査は二年五月一六日から六月一日までに実施
されたもので、男女別の人口、年齢構成、既婚・未婚・
再縁・死別等の人数、生国調べ、宗派調べ、持家.借家等
の数値、工商等の業種別人員、出稼・入稼の人員など、
詳細を極めた内容となっている。原宿の調査は、六月二
二日から二八日に実施されたもので、やはり同様の内容
となっている。
江戸時代の人別調が、もっぱら百姓の移動防止やキリ
シタン禁制・賦役を目的に作成されたものだったのに対
し、沼津・原政表は、武士身分の者が調査対象になって
いないなど不十分な点もあるが、住民の実態を総合的に
捉えた人口調査といえるものであった。
(『沼津市史 通史編 近代』平成19年3月31日発行の
第1章第2節より引用。カッコ内の太字は補足)
杉 亨二 (すぎこうじ)
杉亨二胸像
杉亨二胸像は、杉の没年・大正6年(1917年)から50年目の
命日、昭和42年(1967年)12月4日に、杉亨二先生顕彰会が杉
の出身地、長崎市の長崎公園内に設置した。近年その複製が沼
津藩士・田辺四友の子孫、田辺俊一氏から沼津市明治史料館に
寄贈されたが、そのミニチュア像の背面には次の字句が刻まれ
ている。「大正六年複製 杉亨二生年八十九時大正五年十二月
六日是成誡父之遺言子孫必守之 寄贈者手島春子」
誡父(かいふ)とは厳しい父の意と思われるが、寄贈者の手
島春子は杉の長女で、田辺四友の次男・手島精一(東京工業大
学の創設者)の妻である。
杉は明治4年に太政官正院大主記(現在の総務省統計局長)
に就任し、日本初の統計年鑑『辛未政表』(しんびせいひょう)
などを発行し、「駿河国人別調」での経験を踏まえ、将来の国
勢調査実施に向けて、山梨県で「甲斐国現在人別調」を実施し
た。また在職中から有志と共に民間の統計研究団体を設立し、
官界引退後は統計制度拡充のため、終生研究活動を継続した。
上の胸像写真は、『沼津兵学校とその時代』(平成26年12月
6日、沼津市明治史料館発行)より複写・転載した。
(前略)
嘉治隆一は、田口の研究範囲は「経
済、金融、財政等の実学に及んだの
みならず、更に史学、文学、哲学、
宗教、社会学、言語学、人類学、民
俗学、考古学などなど、往くとして
可ならぬはなかった。もと維新の初
めには、医学或は薬剤学を志し、物
理学、化学などを究め、英語にも熱
中していた」とその該博な学問を指
摘している(『日本開化小史』解説岩
波文庫 2001.7.P.224)が、とりわけ
経済・歴史には造詣深く、「大綱」
期は名著『日本開化小史』や『経済
策』を発刊した時期であった。
まず「経済」について云えば田口
24 歳で彼の名を不朽ならしめた『自
由交易日本経済論』を出版し、翌年
には『東京経済雑誌』を創刊するな
ど早くから経済に関する多くの著作・
論文を発表し、大井道明編著『日本
全国新聞記者評判記』(明治 15 年刊、
松野尾前掲書P.95 所収)では「議論
経済ノ法ニ通達セルコト、方今其比
ヲ見ルコト少シ」と評され、当代第
1 の経済理論家としての評価が高かっ
た。彼は明治 16 年に再版された
『自由交易日本経済論』で「筍も人
間の皮を被むり此地上に立つものは
宜しく活眼を開きて社会の真状を考
察し、吾人の最も制馭を受くるもの
は政府に非ずして経済世界の衆書に
在る事を尋思せよ」(『全集第 3 巻
p.11』)と人間だれしもが経済世界に
生存せざるを得ないと説いている。
とはいえ 14 年 6 月、「東京府会常
置委員四大意見」(『全集』第 5 巻)
の 1 つに庶民夜学校の廃止論を唱え、
職工丁稚などは学校に通って文字を
知り物理や修身を学ぶ必要のないこ
と、徳川の時代には帳簿の記入法(簿
記)や大工の物差しの測り方をこと改
めて学ばなくとも平常の談話で知識
を了解するものである。必要が生ず
ればみずから商売や経済のことも学
ぶので義務的に文字学習をさせる必
要はない。しかし財産に余裕ある者、
取引の激しい商人、学者や交際の多
い政治家など指導的立場に立つもの
には学校教育の必要性を説いている。
即ち経済活動が不可欠な当時の日本
の社会的状況のなかで、「経済学の
眼を以て社会を見る」ために「経済
学の要旨」を知ることは「経済の真
理に由りて国家の富強を致す方法」
と経済学の必要を力説する(「経済学
の要旨」『全集』第 3 巻 p.255)。
13 年に府議会は東京府の商法講習
所廃止を決定したが、商業の活動こ
そ商権を内外に確立し国益に繋がる
との認識から東京商法会議所会頭の
渋沢栄一や府会議員の福地・沼間・
田口らはこれに反対し、農商務省に
補助金を申請し、その廃止をまぬが
れ、17 年には東京商業学校と改めて
継承することに尽力した(麻生誠『大
学と人材養成』P.89~P.92)。このよ
うに商業経済活動を重視する田口ら
が、中学校教則に経済の充実を図ろ
うとしたであろうと推測することは
不当とは思われない。因みに福地源
一郎は明治四年にウェイランドの経
済書の一部を『官版会社解』として
翻訳出版し、犬養毅は明治 17 年か
ら 21 年にかけてアメリカ人ケーリー
の書を『圭氏経済学』として翻訳し
ており、常置委員等の中には経済学
に強い関心をもつものが多くいた。
『自由貿易日本経済論』で経済学
者としての地位を固めた田口は 10
年から発刊した『日本開化小史』に
より史学者としても地歩を不動のも
のとした。12 年には『大英商業史』
を翻訳し、16 年には『支那開化小史』
の第 1 巻を刊行(20 年完結)、24 年
には『史海』を創刊している(前掲
『田口卯吉』P.221)。さらに 26 年
には『群書類従』の活字印刷本の刊
行を開始(同 p.222)、29 年には『国
史大系』の編纂をも始めている(同 P.
224)。このように早くから歴史に関
心をもち、バックルやギゾーの影響
をうけながら経済的視点に立って文
明史的著作や論文を執筆し、歴史学
習の必要性を説いた田口は 24 年 8
月には「官私学校に於て日本歴史講
究を密にするを要す」を『東京経済
雑誌』に発表し、小学校で教える日
本歴史はきわめて粗末なものであり、
小学校を卒業すると高等中学校進学
準備のため英仏独の学問を専修し、
高等中学校にすすめば国史眼を養成
するものは読まない。大学に入れば
例えば法律を学ぶものは外国の法律
の沿革を学んでもわが国の法律の沿
革は学ばない。「外国の事情に明に
して国事に疎きことは、今日の学制
に於て其欠点ある事を見るなり」と
わが国学校での外国偏重の弊を指摘
し、「去(ママ)れば此諸氏先づ国
史を検究して、以て之を子弟に教ゆ
る事は最も我教育制度の上に於て希
望すへき要件にあらずや」と小学校・
中学校における国史教授の必要性を
強調するのである(『全集』第 2 巻
P.591~3)。たしかに本論文は「大綱」
期を過ぎたものであるが、田口の早
い時期の歴史重視からみれば、当時
すでに抱いていた学校教育への要請
であったとみても妄言とは言えない
であろう。
東京府は、文部省「大綱」の教授
時間数「一例」に比して歴史・経済
併せて 15 時間と大幅に増加を図っ
たほか地理・物理に各 1 時間を加え
た。そのため算術 2 時間及び英語・
幾何・植物の各 1 時間を削減したほ
か和漢文には 12 時間という大幅な
減少を行なったが、いずれもその理
由を明示した史料は現在まで見当た
らない。経済のところでも記したが、
教育の義務化を否定し自由教育を強
調する田口は文字・文学の学習は貨
財が増殖して知識が必要となれば自
ずと学ぶものであるとして文字学習
の強制的学習に消極的な態度を示し
ており(「改正教育令」『全集』第 2
巻)、歴史・経済の増加分を和漢文
の削減で調整を図ったのではないか
と推測する。
田口卯吉の多彩な業績
田口 卯吉(第6期)
安政2年江戸に生まれる。幼くして父を失い、幕府瓦解後は一時横
浜で商業に従事したが、乙骨太郎乙の勧めで明治2年に沼津兵学校
に入学した。
兵学校で学ぶかたわら、乙骨に英学を、中根淑に漢学を学んだ。
途中医師を志望して静岡病院でも学んだ。廃藩後は上京して大蔵省
翻訳局に入った。その後官を辞し、以後在野の学者・ジャーナリス
ト・政治家として活躍。経済雑誌社を設立して独自の経済論を展開
したほか、嚶鳴社に参加して自由民権論を鼓吹した。衆議院議員に
も当選し、政治家としても活動、東京市会議員・東京市参事会員な
どにもなっている。明治32年には法学博士に挙げられた。政治・経
済関係以外に歴史学に造詣が深く、歴史雑誌『史海』を主宰したほ
か、「国史大系」や『群書類従』を編纂し、日本の近代歴史学の発
展に寄与した。また実業家としても、東京株式取引所肝煎となった
ほか、両毛鉄道株式会社を設立したり、南島商会を経営して南洋貿
易に先鞭をつけたりした。明治38年没。
(昭和61年8月1日発行「沼津兵学校」46頁)
田口卯吉の二十世紀論
『東京経済雑誌』(明治三十三年一月十三日号)。
「明治三十三年を迎う」
余輩は明治三十三年の文壇に上るに当り、読者諸君とともに振古(しんこ)無比
の昭代〔よく治っている世〕に遭遇したるの幸福を祝せざるを得ざるなり、今さら
事新く申すも恐れ多き事ながら、中興の天子にして御宇三十三年の久きに及びたま
えるは余輩未だこれを聞かざるなり、(中略)去れば陛下の御宇は正しく創業と守成
とを兼ぬるものなり、今にしてこれを思うに明治元年より明治十年に至るの間は封
建を打破したまうの時にてありき、明治十年より二十三年に至るまでは国会開設の
準備として財政を整理し法律を制定したまうの時にてありき、二十三年以後国会開
設し国民始めて其意志を政治上に伸ぶることを得て、而(しか)して今日に至る迄
(まで)一事の成功せしものなし、もしこれありと云わば則ち征清(せいしん)の
一挙これのみ、爾来軍備拡張の事あり、財政紊乱(びんらん)ほとんど拾収すべか
らず、内閣為に数々交迭(こうてつ)し、議会ために数々解散し、第十三議会に於
て増税の目的を遂ぐるに至るまでは、実に静寧の望を得るあたわざりしなり、され
ば御宇三十三年の久き国家治平にして人民その沢に浴する少なからずといえども、
立憲制度の政治史に於ては今日に至るまでは実に創業時代に属するものありしなり、
明治三十三年は実に守成時代の第一期に当れり、故に吾人またよろしく時弊を洗除
し良制を画策し昭代の美を翼賛し奉ることを期すべきなり。
田口卯吉の経済観・歴史観・国語観 明治 14 年政変と東京府中学校規則(中等教育史研究・第 13 号)四方一瀰
田口卯吉(たぐちうきち)

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