Watanabemitotonnerusiryou1. 伊豆長岡町史 中巻 編集発行 伊豆長岡町教育委員会 H12.3
第 5 章 古奈温泉と農間の稼ぎ 第 3 節 馬士の活躍
pp472-476
魚荷運搬請負
江戸では、江戸湾近海で捕れた鯛が高級とされ、江戸っ子の食膳を賑わしたといわれる。
江戸湾での鯛の不漁のときは仕方がないので伊豆西海岸の鯛を食べたとされている。この
真偽のほどは定かではないが、伊豆西海岸の鯛が江戸に大量に送りこまれたことは事実で
ある。
それでは、この鯛がどのようなルートを通って江戸まで送られたのであろうか。伊豆西海
岸で漁獲されたといっても、内浦・西浦地方(現 沼津市)である。この地方は漁村であり、
鯛ばかりではなく、鮪・イルカなどさまざまな漁獲物があった。これら漁獲物を船に載せ
て江戸まで輸送した。内浦・西浦から直接船で江戸へ運び来んだのではなく、ここから馬
背につけて韮山中村道を通り田中山を越えて東海岸まで運び、宇佐美・網代から船に載せ
輸送した。この漁荷物を陸路で運ぶ運送業者を「馬士」といった。原木村(現 韮山町)・江
間村・古奈村などの農民が農業の合間に馬士として活躍した。このルートでいつから運搬
されるようになったのかは、まだ明らかにされていないが、文化・文政期(1804~26 頃)に江
戸で江戸前寿司が食べられるようになり、食生活が豊かになると、韮山の多田家が幕府の
活鯛御用を勤めるなど、伊豆の魚がしきりに江戸へ送り出された。遅くとも文政四年(1821)
以前に付け送りを開始していたことがわかっている(『韮山』五下)。
江戸市場における生鮮魚は、近世前期のおわりごろには、伊豆西海岸にも供給を仰ぐよう
になった。輸送には享保以前から網代(押送船)→相州飯島(馬背で二里)→武州野島(押送船)
→江戸という順路を拓いて、海路だけの三崎廻りより早く江戸に着くようにしたのである。
これを成し遂げたのは網代商人の代表である御木半右衛門である。かれは、将軍御用の活
鯛を上納する権利を持ち、漁商として大いに伸びていった。将軍御用の鯛は、古くから駿
河・伊豆の定まった村々から納めさせることになっており、御肴役所を経由することにな
っていた。それで浦々に対して、猟師から買いとって江戸に運ぶ商人が江戸の御用肴問屋
によって指定された。この者たちが江戸に運びこんだうえ、この御用肴問屋の指示に従い
役所に納めた。網代で幾日間か活囲いにされた鯛は、江戸についてから、さらに、二か所
の御囲所と相模の楠ヶ浦にある下治所に活囲いにされた。そして、鯛の大小によって規式
御用と日常料理御用とに分けられた。
内浦や西浦の鮪や鰤も馬背で網代まで運ばれ、ここから江戸に運ばれた。また、十月から
翌正月までの間にとれた上魚の鯛や鮃も、とくに活囲いの設備をもった押送船で江戸仕切
の二割の運賃をとって送られ、江戸市民の嗜好を喜ばせた(『熱海市史』418 頁)。
内浦・西浦から出る魚荷は、口野村の魚荷物出口世話人に一旦集められ、原木村・塚本村・
北条村・北江間村・山木村の馬世話人が荷物の差配をして、馬士が運搬するという流れに
7. 静岡県田方郡伊豆長岡町 「古奈、天野、小坂、長瀬、戸沢、花坂、墹之上。地名考」
水口豊 著・発行、平成 9 年 2 月(非売品)
大字小坂
28 網代海道 811~866 番地 p99
東京電力天野変電所が建っている地であり、北側は『屋敷台』.『久津巻』に、西側は『込
和田』と『水落』が、南側は『中河原』が、東側には狩野川が隣接して、農耕地に住宅が
混在している地である。
往古、網代(熱海市)と口野(沼津市)を往き来する海の幸、山野の幸の商いの道として主要
な街道であったので『網代海道』と呼ばれたのであろう。
網代海道
まだ三津トンネルの未開のおり、伊豆半島東西よりの海山の幸(田方平野の農産物と西海
岸、東海岸の海産物)の交換商人の往来はなかなかの賑わいであったという。
賑わいを見せた韮山中区『内中』の奉祠する火神社.沼津市口野金桜神社の祭典には熱
海市網代港―韮山中台『台』(反射炉の南)―同町南条区『中村』~狩野川渡し船(南条前の
渡し)~小坂『網代海道』―長岡小学校前―長岡ホテル前―長岡温泉神社前―大黒堂前―丸
山麓―小坂『桜田』―長瀬出鼻下―戸沢剣刀神社下―『中入』―『細山田』―『入山』―
大洞(大堤)山―口野金桜神社下―口野港の順路で田方一円の善男善女が集まった。(渡邉
注;現在の金桜神社は海岸にほぼ接し、海岸道路から約 150 段の階段を上ったところにあ
るが、これは昭和 35 年にそれまで金桜山にあった同神社を移設したとの表示が現金桜神社
にある。或いは、これが著者に混同されている可能性もある)
31 南条前 987~1050.1082 番地 p100-101
南条前の渡し
【川西村沿革誌】に「対岸ノ交通ヲ為セン個所ハ従来五渡船場ナリキ」とあり、その五つ
の中に南条前渡しは、南条と小坂飛地(原飛地)を渡船したことが記されている。
網代海道の一部として狩野川を渡り、また、対岸の南条村の人々との日常的な交通手段
の一部であったことであろう。
明治 8 年廃止された。
大字長瀬
10 三津坂 98~105 番地 p123-125
トンネル東側と戸沢山(『西山『)(渡邉注;原文のママ)の間に位置し、東側は『水口』に、
西側は沼津市の山岳が、南側には『月ケ洞山』が隣接する山麓の地である。
三津と往来する仮道となっているので『三津坂』と呼ばれたのであろう。
8. 三津坂隧道(トンネル)
トンネルは沼津市に位置しているが、「長さ 172.89 米(96 間)幅 3.6 米(2 間)竣工明治 29 年 8
月 31 日、工事費 8 千 5 百 2 拾円、施工者日吉宗七(小海宗雄)」と【三津の覚書】(山本三郎)
の中で言っている。
昭和 3 年 12 月長岡自動車では、三津浜海水浴場までバスを走らせた。昭和 21 年(このころ
から現在の伊豆箱根バス株式会社)夏のこと、トンネルの中には、川端康成が「天井から水
玉がポポ落ちてゐた」と【伊豆の踊子】に著述していると同じく天井から水が落ち、地面
ではあちらこちらに水溜りがあった。歩いているうちにバスに出遭うと、ハネを飛ばしな
がら一目散にトンネルの外に出るか、中でバスの撥ねる水が掛らないように岩肌にへばり
つきパスの通り過ぎて行くのを待つかであった。
今このトンネルは中央に水が溜り、通り抜け不可能となっている。昭和 36 年 2 月に北側に
新しく掘られたトンネルは、44 年 8 月 8 日にナトリウム灯が付けられ明るいうえに、水玉
の掛ることや水溜りも気にせずに、車も歩行者も快適に通り抜けていく。
・行き斃れの死屍が領域を変えた話
もともと村と村の境界線は山の嶺を境とするのが常である。しかし、トンネル付近旧三
津村と長瀬村の境界線は、トンネルの上の分水嶺を境とせず、長瀬より『一ノ洞』の嶺と
『水口山』の嶺を結ぶ線が村境とされ、長瀬に入り込んで決まっている。何故このように
きまったのか訳を長老に尋ねたら、「昔この辺りの村境で、互いに行き斃れとなった死屍を
移動したことで長瀬村と三津村の人たちで小競りあいがあった。
それはどちらかの村の人が先に動かしたかは定かでないが、三津村の人は長瀬村の領域
に死屍を置いてくる、逆に長瀬村の人は三津村の領域に死屍を置いてくる。といった同じ
ことが繰り返された。
了いに、死屍は長瀬の領分に置かれたままとなった。ところが長瀬の人たちは死屍を葬る
こともせずにそのまま放置していた。
遂に、見兼ねた三津村の人たちは、よそ村にある死屍を葬ることは詭弁を弄することとな
るが兎にも角にも死屍を丁寧に葬って一見落着かにみえた。
その後、ある晩秋の昼下がり、厥木(注;「かちき」とルビ)(枯木や草)を採りにやってきた両
村の人たちが領域を主張しあい、互いに譲らなかった。遂に争いとなりその場にいた三津
村の、一番年のいった老人が長瀬の人たちに向かって、≪此所は以前、三津村の人たちが
行路病者を始末してやった所ではないか、仏をなおざりにするような奴等にこの場は任せ
られない、此所は三津村で管理する≫と声も荒々しく言った。この言葉に長瀬村の人たち
は誰一人返答できずに境界線は決まり、領域も変わってしまった。」と話された。
いまでも漁に出たときに海上で死屍に遭遇し、持ち帰ると近くで漁をしていた他の舟は坊
23. 大仁町誌編纂資料第十一輯「神島・中島村史」
神島・中島村史編纂委員会編集、大仁町教育委員会発行、平成 5 年 9 月
-「近世の村」(一)神島地区の沿革、五 渡船場 P19
岩崎の渡し 川幅三五間、下田往還の吉田村から右折して三津村に至る道を結ぶ場所に
ある渡しである。川に綱を架して船を渡す方法である。
住吉の渡し 城山の下にある渡船場で、村人が山野などに出かけるための渡しである。
-「近世の村」(二)近世の神益中島村・神益村、四 渡船と船橋 P27-28
当村は狩野川で村が分断された状態にあるので通行の手段としての渡し船が設置されて
いる。既に指摘しておいたように、渡し船は吉田村から三津村に通ずる道路を結ぶ岩崎の
渡しと村民の日常通路としての住吉の渡しがあった。狩野川の舟運についての記録は寛政
四年(1792)の瓜生野村「村差出帳」に大仁村と瓜生野村とで組合を作り「五日宛両村ニ而番
替リニ相勤申候」と、各村が一艘づつ(渡邉注;原文のママ)渡し船を所有し、渡し守には給
金を支給したことが書かれている。また、文政年間の「伊豆日記」にも大仁渡船を「綱ぐ
り船」と呼んでいる。木村喜繁の「天保三年伊豆日記」はこの綱ぐり船の様子を。「夫へ乗
れば三十才位の女、其縄を引たぐれば、夫らしき男棹さして向ひの岸へ着たり」とリアル
に描写している。
当村では既に元禄時代に渡し守次兵衛の名が記されている。原氏所蔵の絵図には渡し場の
位置がはっきりと示されている(渡邉注;未見)。住吉の渡しはいわゆる綱ぐり船ではなく、
船橋であった。元文元年(1736)の文書に、大仁村の秣道として船橋を建置したが、洪水のた
め一時渡し船にしたという。文書には次のように書かれている。
「大仁村秣道之義、吉田、中嶋、神益右三ヶ村御用水土手欠落候ニ付、吉田村より古川ヘ
切落シ候故、川筋悪敷罷成、仮橋掛通路仕候。右場所之義、御地頭内藤政五郎様御知行所
ニ御座候故橋ニ而通行難成節、船渡シニ致可申候間、船杭為打可被下候。船橋掛候場所其
節繕致通行可仕候。右船橋之義、大仁村秣道通路之ためニ致候間、如何様之義御座候共、
船橋之義ニ付少も御苦労掛申間敷候。為之一札如此御座候。以上。
大仁村名主(以下略)
[宛名虫食いにより不明]
船橋については現在も神島地区に保存されている写真に近い姿をしていたことであろう。
24. 田中村誌
田中村編、大正 2 年 6 月
-(九)交通
下田街道ハ本村中央部ヲ南北ニ貫通シ九大字ノ内七大字ハ實ニ之レカ沿道ニ連擔シ伊東街
道ハ大仁ヨリ分岐シ網代街道ハ三福ヨリ分岐シ内浦街道ハ御門ヨリ分岐シ以テ本郡東西両
海ニ連續シ駿豆電氣會社伊豆線(元伊豆鉄道會社ヲ買収ス)ハ下田海道ト併行シテ時ニ交錯
シ村内田京大仁ノ二驛ヲ設ケ運輸交通ノ便益甚大ナリ殊ニ大仁驛ハ終点驛トシテ伊豆國ニ
於ケル交通ノ中樞ニ當ルト云フモ過言ニアラザルナリ
25. 豆州内浦漁民史料 上巻
澁澤敬三編、アチツク ミューセアム発行、昭和 12.8、pp8-13
編者が昭和 7 年 2 月に現沼津市長浜の大川四朗左衛門翁から聞いて書き留めたもの。
主語は大川翁としている。
網度の内では小脇網度が一番魚の来るところであつたので魚の大群が来た場合には、小
脇を守つて居た組が「見掛寄合」と声を掛けると日繰りを毀して一斉に共同して魚をとり、
その魚の水揚げが済むと又次の日繰りに移りました。見掛寄合は小脇網度だけが持つ特権
で外の網度からは之が云へませんでした。
魚群は淡島とナガイ崎との間の水道から内浦湾内に入り、多くは小海・三津の沖を廻つ
て小脇につつかゝり、それから重須の沖を通つて又外へ出て行くのでした。魚群が来ると
海面の色が変りますので之を常に注視するために宮戸の山の中腹に魚見小屋があります。
之を峯と云ひ此処を特に大峯と唱へ峯の総元締をして居ました。小脇から網代へかけて高
い丘や松の木の梢や或は櫓を作つて沢山峯が出来て居ます。之を助け峰と云つて魚を網で
圍ふ場合上からその様子を見て海で働く者に夫々指図をします。之の信号法にも特別に面
白いものがありました。
魚が網で圍はれると津元は蜻蛉笠を被つて手に竹の杖を持ち舟に乗つて、その魚の水揚
げの世話をしました。魚を満載した舟は岸へ着く時は、きつと舳の方を岸へ向けて勢よく
漕いで来て、どんと岸へ打つけました。すると舟の中の魚は一辺岸の方へ動いてから反動
で艫の方へぎつしり詰ります。舟が着くと女や子供が大勢出て来て網子と一所になつて魚
を岡へ運びます。それをヘラトリが一々数へます。津元は舟の上に頑張つて居て之を監督
して居ました。中には夕方薄暗くでもなると魚を盗むものも出て来るので津元は見張つて
居てあまり程度のひどいのが見付かると手に持つて居る竹の杖で擲ることも稀にはあつた
様ですが、それで通つて居たから驚いた時勢もあつたものです。之を「盗み魚」と云つて
少々ばかしは大目に見て居たのです。大部分の魚が陸揚げされると舟の中は魚の血で赤く
なつた潮水の中に魚が隠れて仕舞ひます。それを津元は足で探がして足に魚が当ると、ま
だあるぢやないかとヘラトリを督励します。この時津元は決して手で探さないのが定則で
した。ヘラトリは、もういいでせうと云つて津元が許すと先に述べた舟の艫に、ぎつしり
詰つて居た魚を引出します。之を「艫の魚」と云って網子の特別賞与見たいなものにしま
した。私の若い頃には先に述べた盗み魚も随分あつて翌朝山際の竹藪の中から大きな鮪が
何本となく現れた事さへ何回もありました。
また見掛寄合などして沢山魚が網で圍つてある時などは水揚げをするのに十日も二十日
も掛つた事があり、こんな時の夜などは魚が怖ぢてはいけないと燈火も点けず、騒ぐどこ
ろか遠慮して、一村しんとして番をして居た事も何度かありました。
魚が五十両も獲れると津元の家では津元膳と云つて御飯の外に鱠を造つて網子に振舞ひ
ました。百両以上の時は御飯や鱠の外に酒が出て俗に云ふ大盤振舞をしました。尤も津元
28. 復刻改訂版 田中山開発史
勝呂昭典著、復刻版編集発行 柴田恒彦、平成 13 年 10 月発行
3 東海岸に出る古道 p30
韮山北条の地内より、鳴滝・女塚・浮橋を通り、峠越えで網代や宇佐美へと出る道路は、
源平時代すでに開かれていた古道であるという。源頼朝が伊豆に兵を挙げた当時、源平の
軍兵たちが盛んにこの道を通ったことであろう。
江戸時代には、伊豆の東西を結ぶ要路であった。田方平野の米や西海岸の海産物を人馬
で東海岸に運び、さらに海路江戸に送ったのである。
明治に入っても、鉄道(今の御殿場線)が引ひかれるまでは、人馬の往来がひんぱんであっ
た。入植当時でさえも(渡邉注;田中山のあたりは当時の開墾地)、その光景を見ることがで
きた。茶屋も北条辻の付近にあり、明治二十年代にも経営していた。明治初期の浮橋は、
この街道の宿場であり、「酒屋」には荷馬が五十頭もつないであったという。
入植者たちも、この道わ往来する人馬の姿を見て居る。酒・米・野菜・魚などを馬に着
けたり背負ったりして、田中山地内を登っていく人夫たちは皆大力であり、酒四斗樽をか
ついだまま水をすくって飲んで、入植者を驚かしたという。
明治の初め頃、文蔵という馬子が東から荷を馬に着けて越してきたが、酒を飲んでいた
ので眠くなって、北条辻付近の松の木の下に寝てしまった。馬だけは家に着いたので、家
人は驚き、探しに着たら、既に凍えて死んでいたという哀話も残っている。この松の木は、
今、文蔵松と言っている。