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伊豆長岡町史 中巻 編集発行 伊豆長岡町教育委員会 H12.3
第 5 章 古奈温泉と農間の稼ぎ 第 3 節 馬士の活躍
pp472-476
魚荷運搬請負
江戸では、江戸湾近海で捕れた鯛が高級とされ、江戸っ子の食膳を賑わしたといわれる。
江戸湾での鯛の不漁のときは仕方がないので伊豆西海岸の鯛を食べたとされている。この
真偽のほどは定かではないが、伊豆西海岸の鯛が江戸に大量に送りこまれたことは事実で
ある。
それでは、この鯛がどのようなルートを通って江戸まで送られたのであろうか。伊豆西海
岸で漁獲されたといっても、内浦・西浦地方(現 沼津市)である。この地方は漁村であり、
鯛ばかりではなく、鮪・イルカなどさまざまな漁獲物があった。これら漁獲物を船に載せ
て江戸まで輸送した。内浦・西浦から直接船で江戸へ運び来んだのではなく、ここから馬
背につけて韮山中村道を通り田中山を越えて東海岸まで運び、宇佐美・網代から船に載せ
輸送した。この漁荷物を陸路で運ぶ運送業者を「馬士」といった。原木村(現 韮山町)・江
間村・古奈村などの農民が農業の合間に馬士として活躍した。このルートでいつから運搬
されるようになったのかは、まだ明らかにされていないが、文化・文政期(1804~26 頃)に江
戸で江戸前寿司が食べられるようになり、食生活が豊かになると、韮山の多田家が幕府の
活鯛御用を勤めるなど、伊豆の魚がしきりに江戸へ送り出された。遅くとも文政四年(1821)
以前に付け送りを開始していたことがわかっている(『韮山』五下)。
江戸市場における生鮮魚は、近世前期のおわりごろには、伊豆西海岸にも供給を仰ぐよう
になった。輸送には享保以前から網代(押送船)→相州飯島(馬背で二里)→武州野島(押送船)
→江戸という順路を拓いて、海路だけの三崎廻りより早く江戸に着くようにしたのである。
これを成し遂げたのは網代商人の代表である御木半右衛門である。かれは、将軍御用の活
鯛を上納する権利を持ち、漁商として大いに伸びていった。将軍御用の鯛は、古くから駿
河・伊豆の定まった村々から納めさせることになっており、御肴役所を経由することにな
っていた。それで浦々に対して、猟師から買いとって江戸に運ぶ商人が江戸の御用肴問屋
によって指定された。この者たちが江戸に運びこんだうえ、この御用肴問屋の指示に従い
役所に納めた。網代で幾日間か活囲いにされた鯛は、江戸についてから、さらに、二か所
の御囲所と相模の楠ヶ浦にある下治所に活囲いにされた。そして、鯛の大小によって規式
御用と日常料理御用とに分けられた。
内浦や西浦の鮪や鰤も馬背で網代まで運ばれ、ここから江戸に運ばれた。また、十月から
翌正月までの間にとれた上魚の鯛や鮃も、とくに活囲いの設備をもった押送船で江戸仕切
の二割の運賃をとって送られ、江戸市民の嗜好を喜ばせた(『熱海市史』418 頁)。
内浦・西浦から出る魚荷は、口野村の魚荷物出口世話人に一旦集められ、原木村・塚本村・
北条村・北江間村・山木村の馬世話人が荷物の差配をして、馬士が運搬するという流れに
なっていた。
田中山を越えるのは、暑い昼間を避けたので、当然夜間の通行が多くなる。特に冬季を除
くと当然である。暗がりの中を歩くには明りが必要となる。しかし、松明は山火事の原因
である。このことについての取決めが文政四年四月に行われた(『韮山』五下-二三〇号)。
・魚荷物は多少に限らず夜通行の分は、一夜につき火の番賃銭五〇〇文を出口世話人口野
村彦平衛に差出し、彦平衛が田中村の山元である中村に渡すこと。七月までの分、十一月
までの分と二回に分けて差し出すこと。
・田中山御林の通行に際しては、大雨の時以外は松明を使用しないこと。使用した時は過
料銭三貫文。
・夜越荷物駄数は先馬が口野村彦平衛からの書付を名主宅に提出して知らせること。
・夜越馬士は必ず提灯・蝋燭を持ち歩くこと。持たない馬士は差留められても承知の上の
ことである。
この取決めは前述の馬世話人と魚荷物出口世話人である口野村彦平衛らが中村(韮山町)
の村役人に差し出しているものである。四月に提出し、十一月までの火の番賃銭を差出す
ということは、十二月から三月までは魚荷が動かないのか、勘定方法が十二月から七月、
八月から十一月までというのか、または冬季(旧暦では春も含んでいるが)なので夜間の通行
がなかったという可能性もある。しかし、村方勘定の類は、盆前・盆後のように半年単位
のものがかなりあるので、この年が取決め一年目で、四月ということを考え、この年だけ
のものとも考えられる。
このような取り決めの後、文政七年(1824)正月二十四日、古奈村の清七が雇っている馬士
重助が通行中煙草の火を落とし、それが風にあおられて大火事となってしまった。近村の
名主立入りで田中元村である中村(韮山町)名主友右衛門に対して詫書を提出している(『韮
山』五上-一六四号)。また、文政八年三月一日にも仁田村(函南町)の馬主庄左衛門・馬士勘
兵衛、多呂村(三島市)の馬主弥助が伊東まで軽尻で運搬したその帰り、松明法度にもかかわ
らず松明の使用が発覚して、やはり山元村である中村名主宛てに詫書を提出している(『韮
山』五下-二三三号)。
前記史料の中で原木村・北江間村に馬世話人惣代がいることが書かれている。両村とも
伊豆の東西通行の要地にあたり、このため、惣代を両村に置いたのだろうか。また、火事
の詫書でもみられるように、馬主に雇われた馬士がいて、馬主は馬世話人ともなって、馬
士の差配をしたと思われる。そのため、馬士は一人でいるわけではなく、原木村・北江間
村・南江間村などには馬士が多かった。たとえば、天保十四年(1843)の北江間には七人、南
江間には一三人、合せて二〇人の馬士がいた。そして、この時、馬士から取った証文(津田
家文書)によるとこの馬士たちは山火事対策ばかりでなく、次のような取決めを両江間村の
名主に提出している。
・魚荷付送りに関しては今までの取決め通りに守ること
・両江間に対しては当然、他の村人や魚荷商人に対しても無作法をしない
・諸駄賃はもちろん魚荷駄賃も正当に受け取ること
・道筋にある作物を食い荒らしたり踏み荒らしたりしないこと
・村の中はもちろん、途中の道筋でも松明はともさず、火事を出さないように気を付ける
こと
このように、馬士たちが取決めを村役人に提出しているので、農間余業とはいえ、馬士
を職業としているものが両江間村を中心に居住していたことがわかる。この証文には六人
だけが押印をし、あとのものは爪印の仕様である。
伊豆内浦・西浦から江戸へ鮮魚を送り出す輸送方法は、田中山を越えるルートばかりで
なく、他に少なくとも二通りの方法があった。ここでは、本題でないので簡単に紹介して
おこう。一つは、伊豆の南廻りで、生簀に入れて運ぶ方法である。あと一つは、東海道を
利用して、江戸まで馬を付け通し一気に運搬する方法で、駿東郡伏見に鯛荷屋という仲買
請負人がいて、日本橋小田原町の魚河岸へ運びこんだことが現在知られている(清水町史だ
より)。
pp477-478
馬士の活動
(前略)
他にも三福村(現 大仁町)の農民が農業の合間に、天城山で焼出した炭を江戸へ送るため、
三津の港まで馬で付け送りした記録もある(三福有文書)。天保五年(1834)、天城山で焼き出
す御用炭が年季明けとなった。しかし、韮山代官江川氏を通じてそのまま継年季で焼き出
すように指示があり、韮山代官の手代小川半蔵から湯ヶ島村炭会所へ幕府三役人の印形の
ついた書類を持参するという廻状がまわされた(津田家文書「天保五年村用御用留帳」)。天
保八年二月には長瀬村から天保の飢饉で苦しいので三島役の免除と合せて、天城山御用炭
の運搬も免除してほしい旨の訴えがあった。これによると、二月であるので、これから始
まる田畑の仕付けに肥え草等を刈り入れなければならないのに牛馬を炭の運搬用に出され
てはかなわないというものである。また、利用状況は一か月に一〇日間で馬一疋につき九
〇俵の付け出しをするというものであった(長瀬 内田家文書)。
金櫻神社と三津・長瀬・戸沢
三津
三津坂隧道
入山 川西村全図による
長瀬
中入 川西村全図による
現在の金櫻神社
三津
金櫻神社 旧地
金櫻山
「幻の料亭 日本橋『百川』」
小泉武夫著、新潮社刊、2016.10 pp115-117
「百川」は明和・安永(1764-81)頃、日本橋で創業した料亭。以下の記事中の「小田原河岸」
は、最近、移転で話題になった築地魚市場がまだ築地に移転する前に日本橋にあったころ
の河岸の名前。「山手連」とは太田南畝、山東京伝、山東京山、谷文晁、酒井抱一、歌川広
重などが寄り合っていた狂歌を中心としたサークル。注記は渡邉による。
鮪は今でこそ高級魚であるが、江戸ではほとんど食べられていなかった。古くは「しび」
と呼ばれ、「死日」に通じることから忌み嫌われたのである。室町時代になると、目の周り
が黒いところから「目黒」と呼ばれるようになり、やがて、そのメグロがマグロと訛った。
この鮪ほど、昔と今とで評価が変った魚も稀だろう。
江戸時代前期の「古今料理集」には「鮪下魚也、食翫に値せず」(鮪は下魚だから、高貴
な人にすすめたり賞味するものではない)と記されている。また、「本朝食鑑」でも「鮪は武
士以上の人は食べないもの」としている。
「百川」が開業する頃は、ぼつぼつ食べられるようになってはいたが、とにかく江戸っ
子は、魚といえば白身であり、鮪のように濃厚で脂肪がコテコテと乗った魚は敬遠したの
である。
ちょうど「百川」で「山手連」が賑やかに会合していた時期と出版が重なる柴村盛方の
「飛鳥川」にも、「鮪を食いたるを、人に物語りするにも、耳に寄せてひそかに咄たるに」
と記されている。
その後、天保三年(1832)に江戸前で獲れる近海鮪が記録的な豊漁となり、大変な安値にな
って、鮪は大衆魚に位置付けられることになった。魚屋が鮪を扱い出したのはこの頃から
のようだ。
「まぐろ売り安いものさとなたを出し」というぐらいで、鮪は鉈でぶつ切りにして売ら
れていた。醤油づけにした切り身を鮨種にするようになって「づけ」の名が生まれたのも
この頃である。
曲亭馬琴は、随筆集「兎園小説余録」で、「天保三年壬辰の春二月上旬より三月に至りて、
目黒魚最も下値なり。何れも中まぐろにて、二尺五六寸、或は三尺ばかりのもの、小田原
河岸の相場、一尾二百文なりなど聞えしが、後には裁売りも片身百文、小さきは八十文に
売りたり。巷路々々にまぐろ裁売りをなす者多くあり。わずかに二十四文ばかり費せば、
両三人、飯の合せ物にしてなお余あり」と記している。蕎麦一杯が十六文の時代だから、
その安さは驚くほどである。
その鮪の食べ方として、江戸の庶民の間では、葱と鮪を煮て食べる「ねぎま鍋」の人気
が高かった。当時は赤身しか食べず、脂肪の多い大トロや中トロは捨てられていた。しか
し、そのトロと葱を一緒に煮て食うと、その美味さは格別であったので、好事家たちは人
目を避けるようにして、北叟笑(注;「ほくそえ」とルビ)んで「ねぎま鍋」を食べたのであ
る。
斜(注;「はす」とルビ)がけにした葱と、薄く小さく切ったトロを、出汁、日本酒、味醂、
砂糖、醤油を加えた鍋に入れ、トロがまだ少し生っぽい半煮えのところで葱と一緒に取り
皿にとり、そこに粉山椒あるいは胡椒を振って食べる。トロには葱の甘味が付き、葱には
トロの濃厚なうま味が付いて、その双方が合わさると、口の中は収拾のつかないほどの美
味の混乱状態に陥ってしまう。(注;この部分は江戸時代の再現ではなく、現代の著者小泉
武夫による料理と感想とみられる)
吉原の入り口近くや土手八丁、浅草の川向あたりには、この「ねぎま鍋」を食べさせる
茶屋が多くあった。吉原でしこたま遊んでの朝帰りに、そこらの茶屋に寄って熱燗で「ね
ぎま鍋」をつっつくと、その美味さは尋常ではなく、疲れた体も一気に回復し、なかには、
気が付いたらまた吉原に戻っていたという目出度い奴もいたという。とはいえ、一流料亭
でもある「百川」が、鮪を客に出すはずはなかった。
静岡県田方郡伊豆長岡町 「古奈、天野、小坂、長瀬、戸沢、花坂、墹之上。地名考」
水口豊 著・発行、平成 9 年 2 月(非売品)
大字小坂
28 網代海道 811~866 番地 p99
東京電力天野変電所が建っている地であり、北側は『屋敷台』.『久津巻』に、西側は『込
和田』と『水落』が、南側は『中河原』が、東側には狩野川が隣接して、農耕地に住宅が
混在している地である。
往古、網代(熱海市)と口野(沼津市)を往き来する海の幸、山野の幸の商いの道として主要
な街道であったので『網代海道』と呼ばれたのであろう。
網代海道
まだ三津トンネルの未開のおり、伊豆半島東西よりの海山の幸(田方平野の農産物と西海
岸、東海岸の海産物)の交換商人の往来はなかなかの賑わいであったという。
賑わいを見せた韮山中区『内中』の奉祠する火神社.沼津市口野金桜神社の祭典には熱
海市網代港―韮山中台『台』(反射炉の南)―同町南条区『中村』~狩野川渡し船(南条前の
渡し)~小坂『網代海道』―長岡小学校前―長岡ホテル前―長岡温泉神社前―大黒堂前―丸
山麓―小坂『桜田』―長瀬出鼻下―戸沢剣刀神社下―『中入』―『細山田』―『入山』―
大洞(大堤)山―口野金桜神社下―口野港の順路で田方一円の善男善女が集まった。(渡邉
注;現在の金桜神社は海岸にほぼ接し、海岸道路から約 150 段の階段を上ったところにあ
るが、これは昭和 35 年にそれまで金桜山にあった同神社を移設したとの表示が現金桜神社
にある。或いは、これが著者に混同されている可能性もある)
31 南条前 987~1050.1082 番地 p100-101
南条前の渡し
【川西村沿革誌】に「対岸ノ交通ヲ為セン個所ハ従来五渡船場ナリキ」とあり、その五つ
の中に南条前渡しは、南条と小坂飛地(原飛地)を渡船したことが記されている。
網代海道の一部として狩野川を渡り、また、対岸の南条村の人々との日常的な交通手段
の一部であったことであろう。
明治 8 年廃止された。
大字長瀬
10 三津坂 98~105 番地 p123-125
トンネル東側と戸沢山(『西山『)(渡邉注;原文のママ)の間に位置し、東側は『水口』に、
西側は沼津市の山岳が、南側には『月ケ洞山』が隣接する山麓の地である。
三津と往来する仮道となっているので『三津坂』と呼ばれたのであろう。
三津坂隧道(トンネル)
トンネルは沼津市に位置しているが、「長さ 172.89 米(96 間)幅 3.6 米(2 間)竣工明治 29 年 8
月 31 日、工事費 8 千 5 百 2 拾円、施工者日吉宗七(小海宗雄)」と【三津の覚書】(山本三郎)
の中で言っている。
昭和 3 年 12 月長岡自動車では、三津浜海水浴場までバスを走らせた。昭和 21 年(このころ
から現在の伊豆箱根バス株式会社)夏のこと、トンネルの中には、川端康成が「天井から水
玉がポポ落ちてゐた」と【伊豆の踊子】に著述していると同じく天井から水が落ち、地面
ではあちらこちらに水溜りがあった。歩いているうちにバスに出遭うと、ハネを飛ばしな
がら一目散にトンネルの外に出るか、中でバスの撥ねる水が掛らないように岩肌にへばり
つきパスの通り過ぎて行くのを待つかであった。
今このトンネルは中央に水が溜り、通り抜け不可能となっている。昭和 36 年 2 月に北側に
新しく掘られたトンネルは、44 年 8 月 8 日にナトリウム灯が付けられ明るいうえに、水玉
の掛ることや水溜りも気にせずに、車も歩行者も快適に通り抜けていく。
・行き斃れの死屍が領域を変えた話
もともと村と村の境界線は山の嶺を境とするのが常である。しかし、トンネル付近旧三
津村と長瀬村の境界線は、トンネルの上の分水嶺を境とせず、長瀬より『一ノ洞』の嶺と
『水口山』の嶺を結ぶ線が村境とされ、長瀬に入り込んで決まっている。何故このように
きまったのか訳を長老に尋ねたら、「昔この辺りの村境で、互いに行き斃れとなった死屍を
移動したことで長瀬村と三津村の人たちで小競りあいがあった。
それはどちらかの村の人が先に動かしたかは定かでないが、三津村の人は長瀬村の領域
に死屍を置いてくる、逆に長瀬村の人は三津村の領域に死屍を置いてくる。といった同じ
ことが繰り返された。
了いに、死屍は長瀬の領分に置かれたままとなった。ところが長瀬の人たちは死屍を葬る
こともせずにそのまま放置していた。
遂に、見兼ねた三津村の人たちは、よそ村にある死屍を葬ることは詭弁を弄することとな
るが兎にも角にも死屍を丁寧に葬って一見落着かにみえた。
その後、ある晩秋の昼下がり、厥木(注;「かちき」とルビ)(枯木や草)を採りにやってきた両
村の人たちが領域を主張しあい、互いに譲らなかった。遂に争いとなりその場にいた三津
村の、一番年のいった老人が長瀬の人たちに向かって、≪此所は以前、三津村の人たちが
行路病者を始末してやった所ではないか、仏をなおざりにするような奴等にこの場は任せ
られない、此所は三津村で管理する≫と声も荒々しく言った。この言葉に長瀬村の人たち
は誰一人返答できずに境界線は決まり、領域も変わってしまった。」と話された。
いまでも漁に出たときに海上で死屍に遭遇し、持ち帰ると近くで漁をしていた他の舟は坊
主(漁のないこと)で帰ってきても、死屍を拾った船は大漁旗をなびかせて港に帰ってくると
言われている(渡邉注;同様な話は平成 20 年頃に静浦出真の同級生からもきいたことがあ
る)。
漁業で生活を立てている三津村の人々は、好んでほとけを拾った訳でもあるまいが、海に
活きる人々の当たり前の所作であった。
行き倒れの死屍が領域を変えてしまった逸話であろうが、この話の知る由を土地の人に訪
ねたが、明治生まれの老人くらいが知り置き、初老や若者からは「そんな話は聞いたこと
があるが詳しくはしらない。」とか「初めて聞いた。」の返事が返ってきた。
三津坂随道調査報告書
(所 見)
平 成16年3 月
静岡県立沼津工業高等学校
教諭 青木昭吾
p.1
文献および現地調査からの考察
内浦街道改良ノ内三津坂随道工事仕様帳とは、現在でいうところの設計書および仕様書に
相応するものである。当時の単位系は尺が基本であり、また、土木用語も現在とは違う。
そのため、勘違いなどを避けるために単位系や用語を現在のものに置き換えることから
始め、当時の様子を探ることにした。この仕様帳に記された内容と現地調査を踏まえ、
幾つかの疑問点を考察した。
① 設計書はいつの時代のものか?
設計書に記される各工程の全体数量が、現状から予測できる数量と同等であること
から、当設計書は、随道工事が行われた当時のものであると思われる。しかし、
設計書に記される数量が余りにも精度が良すぎることから、施工後に、発注者と
請負者の両者が出来高清算のために作られたものではないかと推測している。今でも
土木工学は『やってみなければ分からない工学』といわれているが、当時の技術で
随道を掘ろうとすれば、出来高清算が妥当だと思う。具体的にその理由を記せば、
明治20年代の技術では、地層を知るための電気探査はなく、数カ所を垂直に採取する
ボーリングで地層を推測していた時代である。そのため、「この辺で岩がでるな」と
いう予測は出凍ても、「陸運口から何メールは強い岩で、何メートル行くと弱い岩に
なる」といった詳細まで喀分からない。よって、施工前の設計段階で、石巻延長を
正確に設計数量として計上することは不可能であったと思われる。
② 隠遁掘削と石巻は同時に行われたのか?
当時の技術でも随道口付近は崩れやすいため補強が必要であるということは分かって
いたと思われる。また、随道掘削に併せて切石や石工の数量が計上されていること
から、面壁の石組や随道の巻石は、随道掘削と同時に行われたものと思われる。
③ 長岡側と三浦側の醸造口付近巷石延長が異なる理由?
当時の技術ではJ正確な力学解析をする
というよりも、大きな土圧のかかる随道口
付近を巻石にして補強し、土庄のかかりに
くい中央部は素掘りのままで良いという。
どちらかといえば『技術屋の勘』として
山  元讐雷露悪望め、
隆道に大き な土庄を
この部分は締固手うてい■      かける。
随遭l;大きな土庄をかけない
11‥1、1・ ̄1・ ̄1 ̄・1−’
素掘   蔓 石巻 隠遭口
設計をされていたものと思われる。随道口の巻石延長は、随道口上部の山の地形
からも大まかな推測は出来るが、実際には、随道を掘りながら岩質を見て決めたの
ではないかと思われる。長岡側と三津側の随道口付近の石巻延長が異なるのは、
そのためであると推測している。
p.2
④ 随道は長岡側と三澤側のどちらから掘り進んだのか?
掘削しながら出る地下水の排水を考えれば、低い方から高いほうに向かって掘る
のが一般的である。現地調査では詳細な縦断測量を行っていないが、全体的には
長岡側から三津側に向かって緩やかな縦断勾配になっていることから、三津側から
長岡側へ向かって掘り進んだものと考えられる。もし、両側から同時に掘ったと
すれば、隊道中央付近の床の高さが一番高く、随道口に向かって低くなるはずである。
また、測量精度の低さを解消するために、平面線形も随道の中心を境に『くの字型』に
なるはずである。しかし、現地は真っ直ぐであるため、片側からの掘削であった
可能性が高い。もう山一つの可能性としては、三津側から掘り始め、大きな破砕帯や
地下水がないことを確認の上、施工終盤頃に長岡側からも掘り進み、どこかで貫通
した可能性もある。もしそうであるとすれば、その貫通箇所の床の高さが一番高く
なっているはずである。この貫通箇所が⑤の巻石の途切れた理由かもしれない。
⑤ 長岡側陸送口付近の巻石は何故途切れているのか?
一つの可能性としては④で記したように、ここが貫通箇所であった可能性がある。
もう一つの可能性としては、ここで施工業者が変わった可能性もある。どちらで
あったかは不詳であるが、随道床部の一番高い箇所が貫通箇所であり、この箇所が、
巻石の途切れた箇所であれば前者、長岡側の随道口であれば後者が考えられる。
㌣■享零、_{石組 兼掘。息
ll T  Trl       l        ll
長岡側 構造の′ ( 丘」.iQ」;L 縦断高さ A B D E F 三浦側 1 (単位:m)
37 5 18.2 45.2 48.8
36.25 」_ 一一盲二う                 ■一9.
ー■う1. 、化 禾測量の 25 桓 定か 円まない )
の変化
p.3
⑥ 隠遁口ではない箇所に巻き石を施しているのは何故か?
設計書に石組みの延長調書が残されていないことから、どの場所が当初からの
巻石箇所であり、どの場所が供用後に施工されたのかを限定出来ない0随道内木枠巻
(型枠および支保工)の総括数量が32間5分6厘(≒59・2m)となっていることから、
施工当初の巻石総延長も同数量程度であったと思われる。実際の巻石設計延長は
現状としては3箇所に点在し総延長は101・8mであり、設計書の数量と整合が取れ
ない。しかし、現状の両側随道ロの石巻延長を合せると56・6mであり、設計数量と
ほぼ一致する。このことから、随道口付近以外の巻石(延長45・2m)は、一度、
工事の清算が終わった後に施工したものと思われる。ただ、現状の石の状態を見る
限りにおいて、全く施工時期が違うとはいえず、供用直後に落盤など何らかの問題が
生じて巻石を行ったものと思われ、平成の時代から見れば、同時に行ったと見て
良いものだと思う。
⑦ 鮭道内の巻石に被覆されたような灰色のブツブツしたものは何か?
巻石をブツブツと覆う灰色のものは、温泉成分が地下水に溶け込み地中の岩を
溶かしたものが随道内に流入したものであると思われる。実際に随道の巻石を溶かして
いる箇所も見られる。この温泉成分が何であるのかは不詳であるが、岩を別の物質に
変えてしまう成分が含まれており、今後の隊道の強度を大きく低下させるものである
ことは確かである。素掘り部に見られる錆茶色のダレた跡も、この温泉成分による
錆であると思われ、岩の亀裂に、この温泉成分が流れ出すと岩ごと滑り出す可能性も
ある。なお、この物質の臭いは無臭に近く、硫黄系の臭いは感じなかった0
⑧ 誰が造ったのか与
現地を見るまでは『雇い外人技師』の仕事ではないかとの予測もあったが、現地に、
その痕跡は見られない。当時の雇い外人技師は、顧問技師が総理大臣の3倍、一般
技師でも日本人技師の3倍以上の給料であったといわれている。そのためプライドが
高く、自分の造ったものに何も痕跡を残さないということは考えがたい。通常・
要石や銘版に痕跡を残すものであるが、実際には何も見られない。また、雇い外人
技師の仕事であったとすれば、郷土史などに残っているはずであるが、それにも
見られない。静岡県内では、これ以前の随道工事には明治トンネル(着工M・14年、
開通M.22年)があり、この時に明治トンネルに関与した日本人技師が造ったので
はないかと思われる。随道口付近の巻石が二重になっていることからも、日本人と
しては高い土木知識を持った技師が設計したものと思われる。少なくとも、知識の
浅い人間が他を模倣して造ったものではないと思われる。
p.4
⑨ 何か持株な工法はあるか?
当時の随道造りは、ボーリングにより全線に渡って岩が出る場所を調査し場所を
決め、掘削を始め、破壊しやすい随道口付近は巻石により補強をするが、工事費の
関係から土庄の影響の少ない中央部は素掘りのまま利用している0本随道も当時の
考えがそのまま生かされた造りで、当時として特に特殊な工法は見られない0敢えて
珍しいといえば、面壁付近の巻石が二重になっていることだろう0面壁付近では
大きな土圧がかかることから、通常部よりも厚めの石材を用いる必要がある。しかし、
クレーンなど無い、人力に頼るほか無かった時代に、使われた石の重量143∼
215kg(設計書より算出)というのは、人間2人削で持てる限界だったと思う0これ●
以上に厚い石を使いたいが、そうすると重くなって施工できないというジレンマが
あって巻石を二重にしたのだと思われる。技術が未熟な時代に、ここに携わった
技師が、それまでの経験から考えうる最大限の(過大な)設計をしたのではないかと
思われる。この随道工事以降、二重巻の随道が見られないのは、この工事を土台に、
一重でも問題がないという結論に達したのではないかと推測している。人間は、
初めての物を作ろうと思えば、その段階で考えうる全ての対策を施し・過大な設計を
するものだと思う。そして、造り慣れてくると問題の起こらない対策を捨て、経済的な
ものづくりになる。日本の土木が経済性を重んじる時代に変わる分水嶺のような工事
ではなかったのだろうか。しかし、現状において三津側随道口付近では巻石が崩れ
補修の跡があること、長岡側随道口付近でも一部巻石のズレが見られるなど、当時の
技師の懸念したことが二重巻においでも起こっている0この部分からも、当時の技師の
経験の高さを感じるとともに、理論が経験に勝てない土木工学の偉大さを痛感する。
(※1当時からの言い伝えで、ものを持つ時に3人だと気が合わないため・2人で持つことを基本に考えたという。)
⑩ 伊豆最古の陳道であるか?
『静岡県の土木史(五月会)』に
よれば、伊豆最古の随道は、河津
町の峰山随道である。しかし、こ
の随道は新しく造られた峰山ト
ンネル施工時に取り壊され現存
しない(河津町役場にて確認)。
現存する随道の中では伊豆最古
といえる。
明冶一昭和前期まで開設された主な道路トンネル
唇可…・ル各 ■ 頑 も 絡     几i 帥 ■■l▼■i
畷檜l年 字■之省 ■■市・■抑 肋.0 11LO 洲.1 ほ52 (占.組)(i帥)
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一弘坪 −37年 呵多古 天.■ t ■●¶・天▲轟ケ■町 l■.0 2.紬 t紹)1∞ 胃■ult(81)
■掛率l字書之も・知事や★〟駕や18・外書・ut■抄■〟伯年鰻魚月・鳴響■■大正。l事坂・lヰ瞳鳥山1■14年宇佐見・川嶋小t中山 ■鶏市・的研■川巾下由布・栓■nA■市■■■け・■■岬■川町伊■市■川市 宅蛤.117.1日且017も.0日381仏.0204.919.11日.31出.8 描出1
¶職は牒日大■廣 ■2■/ヽ■ ・l年■唄 下白市 Ilや_○
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一 日■lt   ■ {伊Eq (豊満)可・…,  l
p.5
⑪ この随道を残して危険はないか?
危険であるか否かの判断を行うにあたって、考慮すべきことは2つある0詳細は
以下のとおりであり、土木的な見地から見れば、今後、この随道を残していくことは
昼墜であると思われる⊥この随道を残そうと思えば、随道口付近の補修、素掘り部
の亀裂調査ならびに対策を講じる必要があると思われる。
〔三津側隠遁口付近の偏土庄〕
随道口付近は、随道上部の土砂がルーズ
なため、大きな土庄がかかりやすく壊れや
すい(そのため石巻がされている)。三津側
随道口付近上の山の地形が正面から見て斜
めになっている。本来、アーチは土圧が均
等にかかってこそ、その能力を発揮するも
のであるが、斜めの地形により偏土圧が働
き、石組にズレが生じ、過去に破壊を受け
補修跡も見られる。現状、その補修跡も破壊を受けている。
〔地下水に含まれる温泉成分〕
多くの箇所で随道内に地下水が流れ込み、巻石の溶けや素掘り部の落盤が起こっ
ている。この地下水のphは4・5以下(試験紙の対応範囲が4・5まで)という強い
酸性を示す温泉成分が含まれており、今後、素掘り部の岩の亀裂に地下水がまわり
こむことで、更なる落盤が懸念される。
出 落
査報告書
(現況調査写真綴り)
平 成16年3月
静岡県立沼津工業高等学校
教諭 青木昭吾
道随坂津三
p.1
現地調査
面壁の詳細図
随道内の変化
石組 ト.り1_   石組      素掘り   ∴組−.lllltllll        ̄l▼
A B D E F
37 5 18.2 45.2 48.8
_ 36.25 _l_ ■■15:17                ▼■9/1
11.25
p.2
口
l).3
目
幣誉薄給料−
_一_、_、 _、__ミ_ _.._ _ _J■一_ .
モルタル部クラック
温
p.4
中中
中
側
≡連側陸蓮膏
モルタル補修した箇所駐㌶㌍F
口
三
大仁町誌編纂資料第十一輯「神島・中島村史」
神島・中島村史編纂委員会編集、大仁町教育委員会発行、平成 5 年 9 月
-「近世の村」(一)神島地区の沿革、五 渡船場 P19
岩崎の渡し 川幅三五間、下田往還の吉田村から右折して三津村に至る道を結ぶ場所に
ある渡しである。川に綱を架して船を渡す方法である。
住吉の渡し 城山の下にある渡船場で、村人が山野などに出かけるための渡しである。
-「近世の村」(二)近世の神益中島村・神益村、四 渡船と船橋 P27-28
当村は狩野川で村が分断された状態にあるので通行の手段としての渡し船が設置されて
いる。既に指摘しておいたように、渡し船は吉田村から三津村に通ずる道路を結ぶ岩崎の
渡しと村民の日常通路としての住吉の渡しがあった。狩野川の舟運についての記録は寛政
四年(1792)の瓜生野村「村差出帳」に大仁村と瓜生野村とで組合を作り「五日宛両村ニ而番
替リニ相勤申候」と、各村が一艘づつ(渡邉注;原文のママ)渡し船を所有し、渡し守には給
金を支給したことが書かれている。また、文政年間の「伊豆日記」にも大仁渡船を「綱ぐ
り船」と呼んでいる。木村喜繁の「天保三年伊豆日記」はこの綱ぐり船の様子を。「夫へ乗
れば三十才位の女、其縄を引たぐれば、夫らしき男棹さして向ひの岸へ着たり」とリアル
に描写している。
当村では既に元禄時代に渡し守次兵衛の名が記されている。原氏所蔵の絵図には渡し場の
位置がはっきりと示されている(渡邉注;未見)。住吉の渡しはいわゆる綱ぐり船ではなく、
船橋であった。元文元年(1736)の文書に、大仁村の秣道として船橋を建置したが、洪水のた
め一時渡し船にしたという。文書には次のように書かれている。
「大仁村秣道之義、吉田、中嶋、神益右三ヶ村御用水土手欠落候ニ付、吉田村より古川ヘ
切落シ候故、川筋悪敷罷成、仮橋掛通路仕候。右場所之義、御地頭内藤政五郎様御知行所
ニ御座候故橋ニ而通行難成節、船渡シニ致可申候間、船杭為打可被下候。船橋掛候場所其
節繕致通行可仕候。右船橋之義、大仁村秣道通路之ためニ致候間、如何様之義御座候共、
船橋之義ニ付少も御苦労掛申間敷候。為之一札如此御座候。以上。
大仁村名主(以下略)
[宛名虫食いにより不明]
船橋については現在も神島地区に保存されている写真に近い姿をしていたことであろう。
田中村誌
田中村編、大正 2 年 6 月
-(九)交通
下田街道ハ本村中央部ヲ南北ニ貫通シ九大字ノ内七大字ハ實ニ之レカ沿道ニ連擔シ伊東街
道ハ大仁ヨリ分岐シ網代街道ハ三福ヨリ分岐シ内浦街道ハ御門ヨリ分岐シ以テ本郡東西両
海ニ連續シ駿豆電氣會社伊豆線(元伊豆鉄道會社ヲ買収ス)ハ下田海道ト併行シテ時ニ交錯
シ村内田京大仁ノ二驛ヲ設ケ運輸交通ノ便益甚大ナリ殊ニ大仁驛ハ終点驛トシテ伊豆國ニ
於ケル交通ノ中樞ニ當ルト云フモ過言ニアラザルナリ
豆州内浦漁民史料 上巻
澁澤敬三編、アチツク ミューセアム発行、昭和 12.8、pp8-13
編者が昭和 7 年 2 月に現沼津市長浜の大川四朗左衛門翁から聞いて書き留めたもの。
主語は大川翁としている。
網度の内では小脇網度が一番魚の来るところであつたので魚の大群が来た場合には、小
脇を守つて居た組が「見掛寄合」と声を掛けると日繰りを毀して一斉に共同して魚をとり、
その魚の水揚げが済むと又次の日繰りに移りました。見掛寄合は小脇網度だけが持つ特権
で外の網度からは之が云へませんでした。
魚群は淡島とナガイ崎との間の水道から内浦湾内に入り、多くは小海・三津の沖を廻つ
て小脇につつかゝり、それから重須の沖を通つて又外へ出て行くのでした。魚群が来ると
海面の色が変りますので之を常に注視するために宮戸の山の中腹に魚見小屋があります。
之を峯と云ひ此処を特に大峯と唱へ峯の総元締をして居ました。小脇から網代へかけて高
い丘や松の木の梢や或は櫓を作つて沢山峯が出来て居ます。之を助け峰と云つて魚を網で
圍ふ場合上からその様子を見て海で働く者に夫々指図をします。之の信号法にも特別に面
白いものがありました。
魚が網で圍はれると津元は蜻蛉笠を被つて手に竹の杖を持ち舟に乗つて、その魚の水揚
げの世話をしました。魚を満載した舟は岸へ着く時は、きつと舳の方を岸へ向けて勢よく
漕いで来て、どんと岸へ打つけました。すると舟の中の魚は一辺岸の方へ動いてから反動
で艫の方へぎつしり詰ります。舟が着くと女や子供が大勢出て来て網子と一所になつて魚
を岡へ運びます。それをヘラトリが一々数へます。津元は舟の上に頑張つて居て之を監督
して居ました。中には夕方薄暗くでもなると魚を盗むものも出て来るので津元は見張つて
居てあまり程度のひどいのが見付かると手に持つて居る竹の杖で擲ることも稀にはあつた
様ですが、それで通つて居たから驚いた時勢もあつたものです。之を「盗み魚」と云つて
少々ばかしは大目に見て居たのです。大部分の魚が陸揚げされると舟の中は魚の血で赤く
なつた潮水の中に魚が隠れて仕舞ひます。それを津元は足で探がして足に魚が当ると、ま
だあるぢやないかとヘラトリを督励します。この時津元は決して手で探さないのが定則で
した。ヘラトリは、もういいでせうと云つて津元が許すと先に述べた舟の艫に、ぎつしり
詰つて居た魚を引出します。之を「艫の魚」と云って網子の特別賞与見たいなものにしま
した。私の若い頃には先に述べた盗み魚も随分あつて翌朝山際の竹藪の中から大きな鮪が
何本となく現れた事さへ何回もありました。
また見掛寄合などして沢山魚が網で圍つてある時などは水揚げをするのに十日も二十日
も掛つた事があり、こんな時の夜などは魚が怖ぢてはいけないと燈火も点けず、騒ぐどこ
ろか遠慮して、一村しんとして番をして居た事も何度かありました。
魚が五十両も獲れると津元の家では津元膳と云つて御飯の外に鱠を造つて網子に振舞ひ
ました。百両以上の時は御飯や鱠の外に酒が出て俗に云ふ大盤振舞をしました。尤も津元
も抜目なくこの時とはかり網子の衆に米を沢山搗かせたりしました。網子はヘラトリから
順に並んで鱈腹食べたり飲んだりした上に鱠を皿に山盛りにして各自の家に持帰つたりし
ました。
昔は津元同志の博打が盛んに行はれたものでした。漁師などは貯蓄心のない仕方のない
もので大漁のあつた時などは袋物が一晩で三百両も売れた事があつたと聞いて居ります。
また大漁の後は津元も網子も舟を押して勇んで沼津の料理屋へ繰込むのが唯一の楽しみで
した。その代り少し不漁が続くと直ぐに困つて仕舞つて網子は皆津元に寄り掛つて居ると
云ふ始末でした。
魚の種類は鮪・メジ・鰹・ハガツヲ・ソウダガツヲなどと言つて鯨に附いて来るために
鯨子と云はれる類即ち浮魚がその主たるものでした。昔はヒラメでもイシナギでも鯛でも
沢山居ましたけれど、これ等の底魚は一本釣で釣つただけで、この浦の漁業としてはさう
大して重要でもなかつた様です。
此の内でもシビやメジが捕れると三津に居るナマシ(生師)が之を買つて江戸へ送りまし
た。それは大部分青竹を割つたもので魚を荷造りして大小に応じて馬の背につけます。馬
は魚がとれると三津の荷宰領や馬頼みが駈足で裏山の奥の長瀬小坂即ち今の長岡温泉あた
りの百姓に触れ歩いて集めるのです。荷が出来ると馬の列が続いて三津坂を越し今の長岡
から湯ヶ島を通つて天城を超えて網代へ出て、そこから押し送り舟で相模灘を乗切り三浦
岬を廻つて江戸へ入りました。私の記憶では一晩にメジが四千七百本、百七十頭の馬に積
んで出たのを覚えてゐます。なんでも夕方の七時頃三津を立つて、その時分は、まだ狼が
出るとか云つて荷宰領は沢山松明を照らして居ましたが、網代へは午前の三時か四時頃着
いたと云ひます。
また或る部分はスキミと云ヒ鮪を大きな切身にして、塩に漬け樽に入れて沼津へ出し、
それから富士川筋を遡つて身延を通り中馬の背を借りて甲州にも入つたさうです。又或る
部分はこの辺の漁師の家族が所謂ボテフリとして近郷へ売り歩いた様です。
生師が魚を買ふ時は皆海岸に集まり、石コロを手拭ひに包んでそれで入札したものでし
た。
捕れた魚の分配は先づ神社やお寺への初尾、船網の諸掛り、峰や網子の手間、津元の賞
与の如きゑびす等を夫々の歩合に応じて引き去つた残りの三分の一は浮役として幕府へ上
納し残りの三分の二の約四分の三を津元がとり四分の一を網子に分けました。網子は之と
網子貰ひとともの魚と盗み魚とが漁のあつた度の収入になつた訳です。又漁猟毎に大凡三
分の一を取り上げてしまふと云ふ税も全く馬鹿にならない金高に昇つたものです。この税
は一般の高の外の特別税だつたのですから韮山の代官所としては誠によい収税の源泉だつ
た訳です。
以下略
注 シビとは「鮪」のこと
注 三津から網代の経路について疑問が残る。この記録は大川翁が語ったものを澁澤が
記録しているが、或いは翁は「三津から三津坂を越え、その後、湯ヶ島へ行く方向から天
城の遠笠山方向で峠越えし、網代に至る」とでも語ったのかもしれない。そのルートなら
山伏峠を越えて網代にまっすぐに通じる経路である。
復刻改訂版 田中山開発史
勝呂昭典著、復刻版編集発行 柴田恒彦、平成 13 年 10 月発行
3 東海岸に出る古道 p30
韮山北条の地内より、鳴滝・女塚・浮橋を通り、峠越えで網代や宇佐美へと出る道路は、
源平時代すでに開かれていた古道であるという。源頼朝が伊豆に兵を挙げた当時、源平の
軍兵たちが盛んにこの道を通ったことであろう。
江戸時代には、伊豆の東西を結ぶ要路であった。田方平野の米や西海岸の海産物を人馬
で東海岸に運び、さらに海路江戸に送ったのである。
明治に入っても、鉄道(今の御殿場線)が引ひかれるまでは、人馬の往来がひんぱんであっ
た。入植当時でさえも(渡邉注;田中山のあたりは当時の開墾地)、その光景を見ることがで
きた。茶屋も北条辻の付近にあり、明治二十年代にも経営していた。明治初期の浮橋は、
この街道の宿場であり、「酒屋」には荷馬が五十頭もつないであったという。
入植者たちも、この道わ往来する人馬の姿を見て居る。酒・米・野菜・魚などを馬に着
けたり背負ったりして、田中山地内を登っていく人夫たちは皆大力であり、酒四斗樽をか
ついだまま水をすくって飲んで、入植者を驚かしたという。
明治の初め頃、文蔵という馬子が東から荷を馬に着けて越してきたが、酒を飲んでいた
ので眠くなって、北条辻付近の松の木の下に寝てしまった。馬だけは家に着いたので、家
人は驚き、探しに着たら、既に凍えて死んでいたという哀話も残っている。この松の木は、
今、文蔵松と言っている。

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