プロパガンダ
ジャック・エリュール
1965
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序
プロパガンダは、我々がそれを何と呼ぶにせよ、現代社会において極めて一般的な現象
になっている。政治体制の違いは大して問題ではなく、社会階層の違いこそ重要である。
そして最も重要なことは国家的な自意識である。世界には今日、3 つのプロパガンダの区
域がある。ソ連、中国、米国である。これらは範囲や深さ、一貫性という意味で最も重要
なプロパガンダ体制である。付随的にこれらは、3 つのまったく異なるプロパガンダの種類
と手法を表出している。
世界中のその他の区域は発展と効果においてさまざまな段階にあるが、これら 3 つの区
域ほどには進んでいない。ヨーロッパやアジアの社会主義共和国の国々、ポーランド、チ
ェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、東ドイツ、北ベトナムは、多少の違いや
理解の不足、資源の不足はあるにせよ、ソ連のプロパガンダをモデルにしている。西ドイ
ツやフランス、スペイン、エジプト、南ベトナム、韓国は、手が込んでいない、どちらか
というと散漫なプロパガンダのかたちである。イタリアやアルゼンチンのような国々は、
かつて強力なプロパガンダ体制を持っていたが、もはやこの武器を保持していない。
国や手法の違いがどうであれ、プロパガンダは一つの変わらない特質も持っている。効
果への関心である。プロパガンダはまずもって、行動への意思のために作られた。効果的
に政策を操り、意思決定に不可避の権力を与えるためである。この道具を用いるものは誰
でも素朴に効果というものが気になるはずだ。これは最上位の法則であり、プロパガンダ
が分析される時、決して忘れてはならない。効果のないプロパガンダはプロパガンダでは
ない。この道具は技術的な普遍性があり、特質を共有しており、分かちがたく効果の観点
と直結している。
プロパガンダは技術であるだけでなく、技術的な発展と技術的な文明の成立の不可欠な
条件でもある。そして、すべての技術がそうであるように、プロパガンダも効果の原則に
従っている。しかし、プロパガンダは比較的簡単に正確な技術を学ぶことができ、その範
囲を定義できるにも関わらず、プロパガンダの研究は尋常でない障害のなかにある。
このような端緒からこの現象自体に大変な曖昧さがあることは明らかである。先験的な
道義的、或いは政治的な概念からまずは始まるものである。プロパガンダは通常“悪魔”
と見なされていて、そのことが研究を難しくしている。何かを適切に研究するには、倫理
的な判断を切り離さなければならない。おそらく客観的な研究は我々を倫理の向こう側に
導き、その後においてのみ事実を十分に認識できるだろう。
第二の混乱の原因は、プロパガンダが嘘という手段によって撒き散らしたほら話を多く
含んでいるというのが、これまでの経験に基づく一般的な認識である。この見解に則るこ
とは、過去のプロパガンダのかたちとは全く異なる実際の現象について理解することから
遠ざかってしまう。
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これらの障害が取り除かれた時でさえ、我々の世界において何がプロパガンダを形成し
ているのか、何がプロパガンダの性質であるのか理解することが非常に難しいことには変
わりがない。なぜなら、プロパガンダは秘匿の行動であるからだ。このとき、ジャック・
ドリエンコートが“すべてがプロパガンダである”と主張していることに賛同したくなる
誘惑は倍になる。政治的或いは経済的領域においてあらゆる者がこの力によって浸透され
形成されているように見えるからだ。或いはプロパガンダは正確さをもって定義できない
ために、現代の米国の社会科学者がプロパガンダという言葉を完全に捨て去ってしまった
からだ。いずれも許しがたい知的放棄である。いずれの態度を取ることも、実在し定義が
望まれている現象の研究を放棄することになってしまう。
我々は、定義することの極度の困難さに直面した。
我々は、マーブリー・B・オグルスがいう“プロパガンダは意見や態度を変えるあらゆる
努力のことである。・・・プロパガンディストとは聴取者に影響を与えようという意図を
もって確信の観念を語る誰しものことをいう”というような単純な定義を即座に棄却する
ことができる。このような定義は、教師、牧師、何かの話題について誰かと会話している
いかなる人をも包括することになる。このような広い定義はプロパガンダの特質を理解す
ることの助けにはまったくならない。
定義に関しては、米国における特徴的な進展がある。1920年からおよそ1933年にかけて
、主要な意見というのは、プロパガンダは、心理学的に聴取者が関知しない目的を持った
心理学的なシンボルの操作であるというものであった。
ラスウェルの研究が登場して以来、別の手段による、表明された目的を伴うプロパガン
ダも有り得ると見なされるようになった。関心はプロパガンディストたちの意図に集中し
ていた。より最近の書籍では、特に政治的、経済的、社会的問題に関して教え込もうとい
うような意図は、プロパガンダの典型であるとみなされている。このような論及の枠組み
のなかでは、こんな人とこんな人がプロパガンディストであり、それゆえに彼の言葉と行
動はプロパガンダであるといったようにプロパガンディストを注視すれば、何がプロパガ
ンダを成しているのかを特定できる。
しかし、米国の著述家たちは次第にプロパガンダ分析研究所によって与えられ、ラスウ
ェルに触発された定義を受け入れるようになった。
“プロパガンダは、あらかじめ定められた目的のために、また心理学的操作を通じて個
人や集団の意見や行動に影響を与えるという観点で、個人や集団によって意図的になされ
る意見や行動の表出である”
我々は、次のような定義も引用できよう。イタリアの著述家アントニオ・ミオットは,
プロパガンダとは“社会的圧力の技巧であり、検討すべき個人の情緒的で精神的な状態の
単一性に拡がる統合的な構造をもって、心理学的或いは社会的集団を作り出すことができ
、”と言っている。著名な米国人専門家のレオナルド・W・ドゥーブにとって、プロパガン
ダは“特定の社会や時間において非科学的とみなされ、或いは疑わしい価値の目標に関連
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づけて、人格を形成し、個人の行動を操作しようという試み”である。
そして我々は、もしこの主題に関してドイツやロシアの文献を調査すれば、もっと違っ
た定義を見出すこともできる。
私はここで自分なりの定義をしようとは思わない。私はこの問いにおける専門家たちの
間の不明瞭さを示したかっただけだ。私は既存の社会学的現象として、プロパガンダの性
質の研究を続けることはより意味のあることだと考えている。このことに下線を引いてお
くはおそらく適当だろう。我々は過去と現在の形式のプロパガンダを検証することになる
。明らかなことだが、我々はヒトラーのドイツ、スターリンのロシア、そしてファシスト
・イタリアの高度に発達したプロパガンダを研究せざるを得ない。これは明白なことでは
あるが、多くの著述家はこうした接近に賛同しないだろう。彼らはプロパガンダの印象や
定義を確立していて、彼らの定義に沿うものの研究を進めている。或いは科学的研究への
魅力に従いながらも、彼らは小集団や少量の単位である特定のプロパガンダの手法を実験
しようとしている。その時点で、それはプロパガンダではなくなってしまっているのだが
。
プロパガンダを研究するために、我々は心理学者にならずにプロパガンディストになら
なければならない。我々は試験集団ではなく、現実に効果のあるプロパガンダの影響下に
ある国全体を調べなければならない。もちろん、このことはすべてのいわゆる科学的(つ
まり統計的)研究手法を排除することになるが、しかし少なくとも我々は、自分たちの研
究対象を大切する。厳格な観察手法を確立しつつ、かつ応用しようとする多くの今日的専
門家が、研究すべき対象を見失ってしまっているようなことはしない。むしろ、我々はプ
ロパガンダが用いられるいかなる場所においても、効果への懸念が支配するいかなる場所
においても、プロパガンダの本質が何であるかを考える。
最後に、我々は最大限広い意味でプロパガンダという用語を用いる。なぜならそれは以
下のような領域を包括するからだ。
心理学的行動: プロパガンディストたちは純粋な心理学的な手段によって意見
を形成しようとしている。多くの場合、プロパンガンディスト
は準教育的な目的を追求し、仲間の市民たちに話しかけようと
している。
心理戦: ここにおいてプロパガンディストは、外国の敵に対処しようと
している。プロパガンディストは敵が自分の信条や行動の有効
性に疑問を持ち始めるよう心理学的な手段によって敵の士気を
取り乱そうとする。
再教育と洗脳: 囚人に対してのみ使うことができる、敵を仲間に変える複雑な
手法。
公的・人的関係 :これらはプロパガンダに必ず含まれなければならない。このこ
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とは読者にショックを与えるかもしれない。しかし我々は、プ
ロパガンディストは個人をある社会・生活様式・行動に当ては
めようとするので、これらの関係性はプロパガンダであると見
なすことになる。プロパガンディストは人を心地よくさせるべ
く力を尽くし、それはすべてのプロパガンダの目的なのである
。
プロパガンダは広い意味において、これらすべてを包括する。狭い意味においてプロ
パガンダは機構的な特質として特徴づけられる。我々はプロパガンダを心理学的影響力
の技巧とみなし、その技巧は組織や人々を動員する技巧と、引き起こす行動の狙いとを
組み合わせたものである。この時、プロパガンダは我々の質問に溢れる広大な領域とな
る。
この網羅的なプロパガンダの全体観のなかから、私は慎重に多くのプロパガンダ研究
に見られる以下の対象を取り除いた。
プロパガンダの歴史的な説明 : 特に 1914 年或いは 1940 年のプロパガンダとい
った近代のもの
実体としてのプロパガンダと世論: その形成などを大きな問題としてプロパガン
ダを考えること、意見を形成し変化させる単
純な道具として、小さな問題のようにプロパガ
ンダを考えること
プロパガンダの心理学的な基礎 : プロパガンディストが弄ぶ偏見や衝動、動機
、情熱、固定観念とは何か、プロパガンディ
ストが成果を得るために活用する心的な力と
は何か
プロパガンダの技法 : いかにプロパガンディストは心的な力を行動
に変えるか、いかにプロパガンディストは人
々に接触するのか、いかにプロパガンディス
トは人々を行動への誘うのか
プロパガンダのメディア : マスコミュニケーション・メディア
これら 5 つはあらゆるところでみられる章の見出しである。ヒトラー、スターリン、米
国などのプロパガンダの優れた事例の特徴に関する研究というのはそれほど多くない。こ
れらの事例はこれまでしばしば研究されてきたので、ここでは明確に割愛する。私は代わ
りにほとんど扱われてこなかったプロパガンダの側面を検証しようと思う。正統でない観
点を採用する。私は時折既存の研究に頼りながらも、抽象的でも統計学的でもない方法を
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用いる。読者はプロパガンダの百科事典を触るのではなく、心理学的基礎や技法、手法へ
の精通を前提としながら、人を条件づけ規定する現象であるプロパガンダに現代人がより
関心を持つよう尽力するという作業に関わることになる。
一方、私はプロパガンダを総体として考えている。手段として捉えたプロパガンダに後
退し、倫理的判断を下すことはよくある。例えば民主主義は正しく、独裁主義は悪い。技
法として独裁主義に加担するプロパガンダとまったく同一であっても、民主主義に力を貸
すプロパガンダは正しい。或いは、社会主義は正しく、ファシズムは悪く、プロパガンダ
は社会主義者の手の中にあってはまったく悪くなく、ファシストの手の中にあっては全面
的に悪いといったようにである。私はこうした態度を否定する。現象としてのプロパガン
ダは中国においてもソ連においても米国においてもアルジェリアにおいても本質的に同じ
である。技法はそれらを互いに結びつけるものである。組織の有効性の高低は、伝播する
メディアの発達度やメディアを直接に扱っているかどうかによる。しかしそのことは問題
の核心を変えはしない。プロパガンダの原則を受け入れ、それを活用しようと決めた者は
、必ずより効果的な組織や手法を用いようとする。もっと言えば、本著の前提は、プロパ
ガンダが何を引き起こそうとも、最も高潔な人物であろうと、最も意図的な人であっても
、共産主義やヒトラー主義、西洋の民主主義という同様の結果に至っており、個人や集団
に不可避の影響を与えていて、プロパガンダによってなされた公言された教義や支援され
た体制が違うだけのことということである。言い換えると、政治体制としてのヒトラー主
義はある効果を持っていて、ナチスによって使われたプロパガンダはある特定の性質を持
っている。多くの分析家はこの特質を分析するにとどまるが、私はより一般的な性質、す
べての事例やすべてのプロパガンダの手法に一般的な効果を見出すために、そうした特質
の分析を止めることにする。だから私はその他の技法を研究するのと同じように、プロパ
ガンダ研究においても同じ観点や同じ手法を採用する。
私は、プロパガンダが誰によっても避けがたく必要なものになっているという事実に多
くの頁を割くことする。こうした人々とプロパガンダの関係性のなかで、私は多くの誤解
の元に出くわした。多くの現代人が崇拝する“事実”、つまり現代人は事実を究極の現実
として受け止める。現代人は何が正しいことかを確信している。現代人は事実は証拠や証
明をもたらすものと信じていて、価値観を事実の下位概念にしようとする。信じるものよ
りも必要性を優先する。この固定観念化したイデオロギー的な態度は、必ず確率の判断と
価値の判断の間の混乱をもたらす。事実は単なる基準だから、それはよいものに違いない
。結果として、事実を語るものは誰でも、事実に基づく判断をすっ飛ばしてさえ、事実に
賛同すると考えられる。共産主義が選挙に勝つと(単に確率の判断を述べながら)主張する
者は誰もが皆、即座に共産主義賛成者と見なされる。人間の活動はますます技術に支配さ
れていると語る者は誰もが皆、“テクノクラート”やの類いにみなされる。
現代の世界におけるプロパガンダの不可避の影響力と、プロパガンダの社会の全構造と
の関係性を考察するために、我々がプロパガンダの発展について研究を進めるにつれて、
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読者もプロパガンダを認めたくなるだろう。プロパガンダは必要に応じてなされるもので
あるから、このような仕事はそれゆえに著者にプロパガンダをさせ、助長させ、強めさせ
るだろう。私の精神から遠く離れたものなどないと私は強調したい。そのような想定は事
実と権力を崇拝する者たちによってのみあり得ることだ。私の意見としては、必要性が正
統性を確立することは決してあり得ず、必要性は弱さの世界であり、人間を否定する世界
である。私にとって、ある現象が必要な手段だなどと言うことは、人間の否定である。必
要性は権力の証明であり、優秀性の証明ではない。
しかしながら、必要性に迫られたとき、もし必要性をうまく操りたいのなら、人はそれ
を気にするほかない。人はある現象の必然性を拒む限り、ある現象と対峙することを避け
る限り、道に迷ってしまうことになる。“にも関わらず”、人は自由であるかのようなふり
をしながら、自由であると主張するので、事実上必要性に服従することで自分自身を欺く
ことになる。人は自分の欺きを悟ったときのみ、欺きを逃れ現象を公平に見つめ、元々の
事実に分解するという悟りの作業のなかで、本物の自由の始まりを体験することができる
。
プロパガンダの力は、人類への直接的な攻撃である。尋ねたいのは、どれほどその力が
大きいと危険を伴うのかということである。多くの答えは、認識していない先験的な教義
によって異なる。人間性を信じず、人間の条件を信じる共産主義者は、プロパガンダは全
面的に強力でかつ(彼らがそれを行う場合は常に)正当であり、人類の新種を作る上で助け
になると考える。米国の社会学者は、民主主義の基石である個人が非常に不安定なものに
なり得るという発想を受け入れることができず、人類への究極的な信頼を持ち続けるので
、プロパガンダの有効性を科学的に軽視しようとする。私も個人的には人類の卓越、付随
的に人類の頑健さを信じがちである。しかし、私は多くの事実を観察するなかで、人が大
変に従順で自分自身に確信を持てず、喜んで多くの助言を受け入れて従い、およそあらゆ
る教義の風に揺れ動いていることが分かった。しかし、本書を通じて私が人類に対するプ
ロパガンダの最大の力を明らかにするとき、人格における最も深刻な影響をお見せするま
さに入口へと進むことは、私が反民主主義であるということを意味するのではない。
プロパガンダの威力はもちろん、最も危険な民主主義の綻びの1つである。しかし、そ
のことが私の意見をどうこうするということではない。もし私が民主主義を選ぶなら、私
はプロパガンダが民主主義の真の実行を不可能にすることを悲しむだけのことだ。しかし
、私は、真の民主主義とプロパガンダが共存するという幻想をもてはやすとはより悪いこ
とだと思う。夢の世界に住むことほど危険なことはない。危険な政治制度が継続すること
に警告を発することは、それを攻撃することを意味するのではなく、人がその制度に捧げ
ることができる最大の奉仕である。同じことは人に対しても当てはまる。その人の弱さを
指摘することは、その人を破壊しようというものではない。むしろその人が自らを強くす
るよう励ましているのだ。私は高慢な貴族的な知識人に何の共感も覚えない。彼らは、自
分たちがその時代の破壊的な力にはまったく動じないと信じていて、侮辱的にも普通の人
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々のことを、人が人である最もくつろいだ局面でのプロパガンダの実行によって誘導され
形成されるべき蓄牛だと考えている。私がこのような警告をすることは人類を守る行為で
あり、オリンポスの神々のような堂々たる超然さをもって断定などしておらず、私自身、
身をもってプロパガンダの威力の衝撃を被り体感しながら分析しているのである。プロパ
ガンダを、全人格を脅かす脅威として語りたいのだ。
プロパガンダの真の様相を描き出すために、我々はプロパガンダを常に文明という文脈
のなかで考えなければならない。おそらく、この主題に関するほとんどの研究の最も基本
的な欠陥は、一つの隔離された現象としてプロパガンダを研究しようとしていることにあ
る。このことは、社会的、政治的現象を互いに切り離して、部分の関係性を確証しない考
えや、さまざまな制度の有効性を取り扱う研究者たちを安心させる考え方と符合している
。例えば民主主義は、まるで国民が国家から独立した主体であるかのように、世論は“そ
れ自体のもの”であるかのように研究する。そのなかにあっては、世論やプロパガンダの
科学的研究はその他の専門家たちに頼ることになり、世論の専門家は民主主義のための適
切な法的枠組みを定義する法律専門家に頼ることになる。技術社会の問題が、精神的で感
情的な生活に対して起こり得る影響に触れることなく研究される。例えば労働運動は、心
理学的手段などによって引き起こされた変化には関心を示さずに検証される。
繰り返すが、プロパガンダの研究は技術社会の文脈のなかでなされなければならないと
私は強調したい。プロパガンダは技術社会によってつくられた問題を解決するために、調
整の失敗を何とかするために、人々を技術的な世界と結びつけるために必要である。プロ
パガンダはかなりの部分で体制の政治的武器というよりも(それもそうなのだが)、人間全
体を包括し完全に統合された社会になる傾向がなる技術社会の影響である。現在、プロパ
ガンダは最も内側にあり、最も捉えづらいこうした傾向の現れなのである。プロパガンダ
は国家の増大する力、そして政府や行政の技法の中心として見られるべきものである。
“国家の何がしらに依るすべてのものはプロパガンダを使っている”と人々は言い続けて
いる。しかし、もし我々が本当に技術的な国家を理解したなら、そうした主張は無意味な
ものとなる。増大する機械化と技術的な組織の中心では、プロパガンダは単に、これらの
ものをあまりに抑圧的だと感じさせずに、人を潔く折れるよう説得するための手段である
。人がこの技術社会に完全に適応するとき、熱狂とともに従い、彼が強いられているやる
べきことの素晴らしさを承服するとき、もはや組織の制約条件を感じなくなる。事実、制
約されないので警察はやることがなくなる。市民的で技術的な善意、正しい社会的神話へ
の情熱はいずれもプロパガンダでつくられたものだが、ついに人類の問題を解決してしま
うだろう。
ジャック・エリュール
1962
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目次
第1章 プロパガンダの特質
1.外的特質
個人と大衆
総力的プロパガンダ
プロパガンダの持続とその期間
プロパガンダの組織
正当な実践
2.内的特質
心理学的領域の知見
社会における基礎的潮流
時間軸
プロパガンダと無党派層
プロパガンダと真実
事実の問題
意図と解釈
3.プロパガンダの分類
政治学的プロパガンダと社会学的プロパガンダ
扇動のプロパガンダと統合のプロパガンダ
垂直的プロパガンダと水平的プロパガンダ
理性的プロパガンダと非理性的プロパガンダ
第2章 プロパガンダの成立条件
1.社会学的条件
個人主義社会と大衆社会
意見
大衆メディア
2.プロパガンダ全体の客観的条件
平均的生活水準の必要性
平均的文化
情報
イデオロギー
第3章 プロパガンダの必要性
1.国家の必要性
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現代的国家のジレンマ
国家とその機能
2.個人の必要性
客観的状況
主観的状況
第4章 プロパガンダの心理学的影響
心理学的純化
プロパガンダを通じた疎外
プロパガンダの心的分離効果
プロパガンダを求める欲求の創造
ミトリダート化
感作
心理学的効果のあいまいさ
第5章 社会政治的効果
1.プロパガンダとイデオロギー
伝統的な関係性
新しい関係性
2.世論の構造への効果
世論の構成要素の調整
意見から行動へ
3.プロパガンダと集団形成
集団の分断
政党への効果
労働界への効果
教会への効果
4.プロパガンダと民主主義
民主主義におけるプロパガンダの必要性
民主主義的プロパガンダ
国際プロパガンダの効果
国内プロパガンダの効果
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第 1 章 プロパガンダの特質
真の現代的プロパガンダは現代の科学的体系の文脈のなかでのみ機能できる。しかし、
真の現代的プロパガンダとは何であろうか。多くの観察者は、プロパガンダは一連のまや
かしとも多少の重要な実務とも捉えている。さらに心理学者や社会学者はこうした実務の
科学的特質をほとんどの場合受け入れずにいる。我々はプロパガンダが科学というよりも
技法であるとの考えに賛同する。しかし、それは“現代的”技法であり、つまりプロパガ
ンダは一つまたは幾つかの科学の分野に基礎を置くものである。プロパガンダはこうした
科学分野の表出であり、科学分野とともに動き、その成功を共有し、その失敗の目撃者を
生む。プロパガンダが個人に対する感化や技巧、或いは洗練されていないまやかしの使用
であった時代は過去のものとなった。我々が四つの観点から明らかにするように、今や科
学はプロパガンダに進出してきている。
第一に、現代的プロパガンダは心理学や社会学の科学的分析に基づいている。徐々にで
はあるが、プロパガンディストは人の知識や傾向、欲求、必要性、心的機能に基づいて、
深層心理学と同程度に社会心理学に基づきながら、技法を構築している。集団の形成や解
体の法則、大衆への影響、環境的限界の知識に基づいて、その方法が構築されている。現
代の心理学や社会学の科学的調査なしに、プロパガンダは存在し得ない。或いは、むしろ
我々はペリクレスやアウグストゥスの時代にも存在したプロパガンダの原始的段階に、い
まだにいるのかもしれない。もちろん、プロパガンディストたちは科学の諸分野に不完全
なかたちで組み込まれているかもしれない。彼らは科学の諸分野を誤解し、心理学者たち
の注意深い結論を越え、実際には応用などまったくしていないのに、心理学的発見を応用
していると主張するかもしれない。しかし、それらのことはすべて新たな方法を見つけよ
うという努力のようにも見える。たった 50 年ほどの間だが、人類は心理学的、社会学的科
学を応用しようとしてきた。重要なことは、プロパガンダが科学に従属し科学を利用する
と決めたことである。もちろん、心理学者は怒り、それは科学の誤用であるというかもし
れない。しかし、同じ議論は物理学者と原子爆弾にも当てはまるし、この主張はあまり重
みを持たない。科学者は世界のなかで生きていて、そこにあって彼が発見したことは応用
されるということを理解すべきである。プロパガンディストは否応なしに社会学や心理学
をもっと理解するだろうし、より正確に用いるだろうし、結果としてより影響力を増すだ
ろう。
第二に、プロパガンダは一連のやり方を厳格に、かつ正確に検証されたものにしようと
するので、それは単なる方法でなくなり、すべてのプロパガンディストに強いるほどのも
のになり、プロパガンダが自分の一時的な感情に従うといったことはますます少なくなる
という点において、プロパガンダは科学的である。プロパガンディストは、適切な訓練を
受けた者によって適用されたある正確な公式をより多くかつ正確に用いなければならない
。科学に明確に基づいた技法の本質である。
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第三に、今日求められるものは、プロパガンダに従属する環境と個人両方の正確な分析
である。もはや才気ある人物が手法、アプローチ、主題を定めるのではない。すべては今
や計算されている(或いは計算されていかなければならない)。それゆえ、プロパガンダの
かたちは、ある場面においては最適でも、別の場面ではまったく役に立たないことが分か
る。有効なプロパガンダ作戦を実行するためには、科学的、社会学的、心理学的分析を端
緒にして、これから一層明らかになるであろう科学の諸分野を活用する必要がある。ここ
に繰り返すが、適切な訓練は、科学の諸分野を完全に効果的に用いようとする者にとって
不可欠なものである。
第四に、最後の特徴は現代的プロパガンダの科学的特質を明らかにする。つまりプロパ
ガンダを操り、その結果を測り、その効果を定義しようという試みがますます増えている
ことである。これはとても難しいことだが、プロパガンディストたちはもはや一定の成果
を収めることや、収めたと信じるだけでは満足しない。彼らは明確な証拠を求めている。
良い結果に終わった政治的成果ですらプロパガンディストを完全に満足させることはでき
ない。プロパガンディトは、それらがいかにして、なぜそのような結果が得られたのかを
知りたいし、その正確な効果を測りたいのである。彼らはある種の実験精神や、成果を検
証したいという欲求に突き動かされている。この点に科学的手法の萌芽を見出すことがで
きる。明白なことだが、このようなことはまだ十分広まってはいないし、結果を分析する
のは実務に携わるプロパガンディストではなく、哲学者たちである。そうであったとして
も、それは仕事の分業を明らかにするだけのことで、それ以上のものではない。このこと
はプロパガンダはもはや悪魔的行為を取り繕う自己満足の行為ではないことを示している
。プロパガンダは真剣な思考の対象であり、科学の諸分野とともに進展するのである。
このことに反対である人もいるだろう。しばしば耳にすることではあるが、心理学者は
プロパガンディストが進展させた科学的基礎に関する主張をあざ笑い、科学的手法を用い
ているとの主張を否定する。“彼の用いる心理学は科学的な心理学ではない。彼の用いる
社会学は科学的案社会学ではない”と。しかし、この議論を注意深く見てみると、以下の
ような結論に至る。スターリン主義者のプロパガンダは多くの部分で、パブロフの法則に
基づいている。ヒトラーのプロパガンダは、多くの部分で抑圧と衝動というフロイトの理
論に基づいている。米国のプロパガンダは、多くの部分で教育のデューイの理論に基づい
ている。今や、心理学者が条件反射の概念を受け入れず、それは人工的につくられた可能
性があると疑うなら、その人はパブロフの心理学的現象の解釈を否定し、パブロフの解釈
に基づいたすべてのプロパガンダは偽の科学であると結論することになる。フロイトやデ
ューイ、その他の科学者たちの発見を疑う者には同じことが言える。
それでは、このことは何を意味しているのだろうか。そのプロパガンダは科学的基礎に
基づいていないのだろうか。もちろん、そんなことはない。むしろそうした科学者たちは
、心理学や社会学の領域、その手法、或いは結論といったものに同意していないのだ。同
僚の理論を否定する心理学者は科学理論を否定しているのであって、技術者がそこから引
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き出す影響力を否定しているのではない。もしプロパガンディストが一般的に受け入れら
れている、ある時代やある国において科学者と認められている特定の社会学者や心理学者
を信じたとして、誰も彼を責めることはできない。もっと言えば、プロパガンディストに
よって使用された理論が結果をもたらし、効果を証明するなら、それはすなわち追加的な
証明を得ることであり、単純で教義的な批判はもはやその理論の不正確さを証明しないと
いうことを肝に銘じるべきだ。
1.外的特質
個人と大衆
まず、いかなる現代的プロパガンダも、個人と大衆に対して同時に訴えかけるものであ
る。二つの要素に分解することはできない。人々から隔離された孤独な個人に訴えかける
ことなど不可能である。外的な行動に過度に抵抗を示す孤独な個人に対して、プロパガン
ディストは興味も持たない。効果的であるために、プロパガンダは細部にこだわらない。
人を一人ずつ刈り取っていくのはあまりにも時間がかかるし、孤独な個人からある種の確
信を獲得することはあまりにも難しいからだ。単純な対話が始まる場所ではプロパガンダ
は止まる。あるプロパガンダの手法や議論を確認するために、隔離された個人に対して行
われた米国の実験が結論に至らず、本当のプロパガンダの状況を再現できなかったのは、
こうした理由である。逆に、プロパガンダは単に大衆、群衆を狙うものでもない。人々が
集められた状況でのみ機能するプロパガンダは不完全で不十分である。また、どんなプロ
パガンダも、まるで群衆が個人の精神や反応、感情とは全く異なる精神や反応、感情を持
った具象的な実態であるかのように考える、集団だけを対象とするプロパガンダは、全く
効果を持たない抽象的なプロパガンダになるだろう。さらに言えば、プロパガンダは大衆
に取り囲まれ、大衆に参加する個人を動かすものである。プロパガンダは個人によって構
成された一群としての群衆を標的とする。
このことは何を意味するのだろか。まず、個人は個人として考えられないということで
あり、動機や感情、或いは神話といった個人が他者と一緒に持つものという観点で常に考
えるべきである。少々の例外を除けば、個人は平均へと引き下げられ、平均に基づく行動
が有効となる。もっと言えば、このようにして人の心的防御は減ぜられ、その反応はたや
すく引き起こされ、プロパガンディストは大衆を通じた感情の流布から、同時に集団にい
る個人が感じる圧力から便益を得るので、人は大衆の一部とみなされ、大衆に包括される
(そして可能な限り大衆に組織的に統合される)。感情主義、一時の感情、行き過ぎ等の大
衆に取りこまれた個人のこうしたあらゆる特質はよく知られていて、プロパガンダにとっ
て役に立つ。それゆえ、個人を孤立していると考えてはならない。ラジオ聴取者は実際に
は孤独だけれも、にも関わらず大きな集団の一部であるし、彼はそのことに気づいている
のである。ラジオ聴取者が大衆心理を示すことはよく知られている。すべての個人はつな
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がっていて、ある種の社会を構成していて、その社会においてすべての個人は共犯者で、
そうと知らずに互いに影響を与えている。同じことは戸別訪問(署名のための直接接触、
依頼)によるプロパガンダでも当てはまる。戸別訪問者は明らかに一人の個人に対してい
るのだが、面接した人、面接している人、面接する人などすべての人から成る目に見えな
い群衆に現実に対している。なぜなら彼らは同じ神話によって観念や生を保持していて、
特に彼らは同じ組織の標的であるからだ。政党や政府の標的になることは、プロパガンデ
ィストが捕捉した集団のある部分に個人を沈めることである。彼はもはや X 氏ではなく、
ある方向に流れる潮流の一部である。その潮流は戸別訪問員を通じて流れる。(戸別訪問
員は彼自身の議論を彼の名の下で行うのではなく、ある政府や組織、集団的動きの一部と
して行うのである。) プロパガンディストが人を説得する部屋に入る時、大衆、もっと言
えば組織化され階層化された個人が彼とともに部屋に入ることになる。ここに人と人との
関係性はない。他の全員が求められるように彼は同じ視点で見られるので、組織は既に大
衆の一部となった個人に魅力を働かせるのである。
逆に、プロパガンダが群衆に訴えかけるとき、プロパガンダはその群衆と、その集団全
体のなかにある個人に接触しなければならない。効果的であるために、プロパガンダは個
人的なものであるかのような印象を与えなければならない。というのは、群衆は個人から
成っており、事実として寄せ集められた個人以外何者でもないということを我々は忘れて
はならないからだ。実際、人は集団のなかにいて、それゆえ弱く、影響を受けやすく、心
理学的な抑圧の状況にあるので、“強い個人”であるかのように見せようとする。人は暗
示にかかりやすいが、自分は力があるかのように言う。人は不安定であるのに、自分の確
信が堅硬であるがごとく思っている。もし、ある者が公然と大衆を大衆として取り扱うな
ら、大衆を成す人々は自分が軽んじられたと感じ、そこに加わることを拒むだろう。もし
ある者が、子どものように個人を取り扱うなら(人々は集団にあるから子どもなのだ)、人
々は指導者の示すところには従わず、彼を指導者とはみなさないだろう。人々は手を引い
てしまい、我々は彼らから何も得ることができないだろう。それどころか、人がそれぞれ
に個人化していると感じ、個人として見られ訴えかけられているとの印象を持たなければ
ならない。その時になって初めて人は反応し、匿名でなくなる(実際には匿名でありつづ
けるのだが)。
このように、現代的プロパガンダはすべて、大衆の構造から便益を得る。しかし、自己
肯定の個人的欲求を利用し、二つの動きは連結していて同時的になされなければならない
。もちろん、この施行は現代的大衆コミュニケーション・メディアの存在によって大きく
促進される。大衆メディアは正確に瞬時に集団全体に接触し、しかしその集団の各人に接
触するという驚くべき影響力を持っている。夕刊紙の読者、ラジオ聴取者、映画やテレビ
の視聴者は、ばらばらになっていて一つの場所に集められてはいないものの大衆を構成し
、大衆は有機的な存在である。これらの個人は同じ動機に動かされ、同じ衝動や印象を持
ち、彼ら自身同じ関心に集中していることに気づき、同じ感情を経験し、一般的に反応や
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概念に関して同じ序列を持ち、同じ神話に参加する。これらすべてが同時に起きる。ここ
に我々が得るものが生物学的でないものだとしたら、それは真に心理学的な大衆である。
そして、心理学的な大衆のなかの個人は、彼らがそれを知らずとも、心理学的な大衆の存
在によって形成される。しかし、人々は孤独であり、新聞読者やラジオ聴取者なのである
。それゆえ人はそれぞれに、自分自身が個人として関わっていると感じる。映画を見る人
はまた、隣の人と肘と肘を寄せ合いながらも、暗闇と銀幕の催眠的な魅力のために依然と
して孤独である。これは“孤独な群衆”、或いは大衆における孤立という状況で、それは
今日の社会の自然な産物であり、大衆コミュニケーション・メディアによって利用され、
深められるものである。人を捉え影響力を行使する格好の状況は、人が大衆のなかで孤独
でいるときである。それはプロパガンダが最も効果を発揮し得るときである。
我々は、このあと何度も落ち合う場所を強調しておく必要がある。今日的社会の構造は
、個人をプロパガンダにもっとも容易く接触させる場所に配置しているということである
。大衆コミュニケーション・メディアは、この社会の技術的進歩の一つであるが、大衆の
なかで結合した個々の人に手を伸ばすことを可能にしながら、こうした状況をさらに深め
ている。こうしたメディアがすることは、まさにプロパガンダがその目的を果たすために
しなければならないことである。もし、偶然にもプロパガンダが組織化された集団に訴え
かけたなら、その集団が分裂されるまでは個人において実質的な効果をもたらさない。こ
のような分裂化は行動を通じて実現されるが、集団を分裂させることは心理学的手段によ
って同様に可能である。純粋に心理学的手段によってごく少数の集団を変容することは、
最も重要なプロパガンダの一つである。ごく少数の集団がこのように全滅させられたとき
のみ、属する集団によってなされていた一切の防御力や均衡、抵抗力を個人が失ったとき
のみ、プロパガンダの全作用は可能となる。
総力的プロパガンダ
プロパガンダは総力的でなければならない。プロパガンダは出版物やラジオ、テレビ、
映画、ポスター、会合、戸別訪問など可能な限りの技術的手段をすべて活用する。現代的
プロパガンダはこれらメディアを余すことなく活用する。散発的で不規則なプロパガンダ
は成立し得ない。新聞のここに、ポスターのラジオ番組のあそこに、幾つかの会合や講演
の開催、壁に幾つかのスローガンを書くといったことはプロパガンダではない。利用でき
る各メディアはそれぞれに個別的でしかし同時に局地的で限定的であり、それゆえ各メデ
ィアはそれだけで個人を攻撃して抵抗力を崩壊させ、新たな意思を形成することはできな
い独自の浸透経路を持っている。ある映画は新聞のようには同じ動機において役割を果た
さず、同じ感情を作らず、同じ反応を引き起こさない。各メディアの有効性が特定の領域
に限定されるという事実は、他のメディアを用いて互いを補うことの必要性を明確に示し
ている。ラジオで発せされた言葉は、同じ言葉が話されたとしても個人的な会話、或いは
多数の聴衆の前で話された言葉とは同じでなく、同じ効果を持たず、同じ影響力を持たな
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い。個人をプロパガンダの網に引き込むには、それぞれが特定の経路で活用され、プロパ
ガンダが最も効果を出すように監督され、その他のあらゆるメディアで拡散されなければ
ならない。それぞれのメディアは特定の経路で個人に手を伸ばし、同じ方向に、さまざま
なかたちで、同じ主題に対して新たに反応せしめるものである。
このように、人は知的或いは感情的な生活を捨て去る。人はすべての面で人々に包囲さ
れている。我々はこれらのメディアが同じ経路で同じ人々に接触しているわけではないこ
とに気を留めなければならない。週に三度映画を見に行く人は、注意深く新聞を読む人と
同じではない。プロパガンダの道具はこのように人々という観点で適応されていて、可能
な限り最大の人に接触するために調和されたかたちで用いられなければならない。例えば
、ポスターは車に乗らない人に接触できる平易なメディアである。ラジオ放送は仲間うち
ではよく聞かれている。最後に、プロパガンダにはまったく異なる形式があるという後ほ
ど分析する事実を除いて、いずれのメディアも特化という第三の側面を持っていることを
我々は強調しておかなければならない。
それぞれのメディアは、それぞれにプロパガンダの特定の様式に適している。映画や人
的接触は社会的情勢、ゆっくりとした浸透、漸進的な侵害、全体的な統合という観点で社
会学的プロパガンダに最も適したメディアである。公開集会やポスターは、即時の行動を
誘う衝撃的で集中的、しかし一時的なプロパガンダを与えるのに適している。印刷物は一
般的な見地を形成する傾向があり国内で使われることが多いが、ラジオは国際的な活動や
心理戦の道具になることが多い。どんな場合も、このような特化ゆえに、これらメディア
の一つも漏れがないほうがよく、すべて統合的に用いられなければならないと理解すべき
である。プロパガンダは鍵盤を使って交響曲を作曲するのである。
すべての人に接触し囲い込みを行うのは、厄介なことである。プロパガンダは、あらゆ
る可能な経路で、概念と同様に感情の領域で人の意思や欲求を操りながら、人の意識・無
意識を通じながら、人の個人的・公的生活の両方に攻撃しながら人を取り囲もうとする。
プロパガンダは人に世界を説明する完全な体系を提供し、即座に行動する動機を与える。
ここに我々は、すべての人を掌握しようとする系統立てられた神話のなかにいることにな
る。プロパガンダが創作した神話を通じて、唯一の解釈を受け入れやすい、特異的で一面
的な、意見の相違を排除する直感的理解の全範囲を強制する。この神話はとても強力なた
め、いかなる能力や動機もそのままにはしておかず、意識の全領域に侵入してくる。プロ
パガンダは個人のなかで排除的感覚を刺激して、偏った態度を作り出す。神話はこのよう
な原動力になる力となるため、一度受け入れられると個人の総体を操作し、他のいかなる
影響も受けなくなる。このことは、神話がうまく創造されているすべての場所で、個人が
受け入れる全体主義的態度を説明するものであり、個人におけるプロパガンダの全体主義
的行動を素朴に反映するものである。
プロパガンダはすべての人に侵入し、神話的態度を受け入れるよう促し、すべての可能
な限りの心理的経路を通して接触しようとするだけでなく、すべての人に語りかけるもの
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である。プロパガンダが部分的な成功に満足するはずはなく、議論を認めず、まさに本質
においてプロパガンダは矛盾と議論を排除する。重要な、或いは表明された緊張、または
行動の矛盾が残っている限り、プロパガンダはその目的を完遂したとは言えない。プロパ
ガンダは準全会一致を作らなければならず、反対勢力は表明される限りいかなる場合も無
視されなければならない。究極のプロパガンダは敵対者に打ち勝ち、敵対者をこちらの論
及の枠組みに統合することであり、少なくとも敵対者を使うものである。だからこそ、英
国人にナチのラジオで喋らせることやパウラス元帥(訳注:ドイツの軍人で、第二次大戦中
にスターリングラードで降伏してソ連の捕虜となった)にソ連のラジオで喋られることは
重要なのだ。ゆえに、フェラガ(訳注:フランス人排斥運動をするアルジェリア国家主義
武装勢力)のプロパガンダにとって、オブゼルヴァトゥールやエクスプレス(訳注:いずれ
もフランスの雑誌)の記事をうまく使うことや、フランスのプロパガンダが懺悔するフェ
ラガから供述を得ることは重要なのだ。
はっきりしていることだが、その究極は、敵対者の自己批判というかたちでソ連のプロ
パガンダによって成し遂げられた。体制の敵(或いは権力を持つ党内の敵)は宣言され作り
出すことができる。その者は取りも直さず敵である。この体制は正しく、体制の反対者は
犯罪者であり、有罪判決が十分根拠がある、これは全体主義的プロパガンダの究極のかた
ちである。敵は(敵であり続ける限りにおいて、またその者が敵であるがゆえに)、体制の
支持者に転換させられる。これは有用で効果的なプロパガンダの手段というだけではない
。フルシチョフ政権下で自己批判のプロパガンダが、まさに以前同様に(ブルガーニン元
帥(訳注:ニコライ・ブルガーニン、1955~1958 年にソ連首相)は最も特徴的な例だった)
機能し続けたことを思い出して欲しい。ここに我々は、全体的ですべてあらゆるものを巻
き込むプロパガンダの動く仕組みを探ろうとしている。プロパガンダはその領域外にいか
なる意見の分割も許すことはなく、いかなる独立も認めない。すべては特定の行動領域に
帰せられなければならず、その行動領域はそれ自体が目的であり、実質的にすべての人が
参加して終わった場合のみ、それは正当化することができる。
このことは、我々に総合的プロパガンダのもう一つの側面を教えてくれる。プロパガン
ディストは、本物のオーケストラがそうであるようにプロパガンダの要素を組み合わせな
ければならない。一方、プロパガンディストは与えられた時点で活用できる刺激を覚えて
おき、系統立てなければならない。これがプロパガンダの“キャンペーン”に帰着する。
一方、プロパガンディストはさまざまな道具を互いに連携させて使用しなければならない
。大衆メディアと並行してプロパガンダは、およそプロパガンダとは関係ないようなもの
、つまりは検閲や法的文書、法案提出、国際会議なども活用する。我々は大衆メディアの
みを考えるべきではない。人的接触はますます効果的であると考えられる。教育的手法は
政治的教義(レーニン、毛)のなかで重要な役割を果たす。レーニンの国家的教義に関する
大会はプロパガンダである。我々が証明するように、情報はプロパガンダにおいて極めて
有用である。“諸問題の現状を正しく説明するのは扇動家の偉大な仕事である。”毛は 1928
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年のプロパガンダの効果的なかたちは、教義を教え込んだ後に囚人たちを解放することで
あったと強調する。同じことは怪我を負った敵を手当することにも当てはまる。これらは
すべて共産主義の善意を見せるためのものであった。すべてはプロパガンダの手段として
かなうものであるはずで、すべてが活用されなければならない。
このように考えると、外交はプロパガンダから切り離すことができない。我々は、4 章
でこの事実を学ぶことになる。ナポレオン帝政が最初に証明したように、教育や訓練は、
接収される。教育とプロパガンダの間や、高等教育によって形成される批判的精神と独立
思想の排除の間にいかなる差異も許されなかった。若者の教育を活用し、彼らに今後起こ
り得ることへの条件づけをしなければならない。学校やすべての指導手法はこのような条
件の下で変質する。個人主義者が権力側でなく仲間によって認められるように、順応者の
集団に子どもは統合される。宗教や教会は、生き残りを望むならばオーケストラのなかで
各自が持ち場を保つよう制約される。ナポレオンは教会によるプロパガンダの方針を公然
と表明した。司法の装置もまた活用された。もちろん、裁判は被疑者にとっては格好のプ
ロパガンダの跳躍台となる。彼は弁護のうちに自分の考えを披露することができ、彼が受
ける罰によって影響力を行使できる。このことは民主主義における真実を含んでいる。し
かし、全体主義者がプロパガンダを行う状況は反対である。裁判の間、判決は人々への教
育の見せしめになるよう強要させる。判決は教育なのである。そして、我々は大がかりな
見世物裁判のなかで、自白の重要性を知る(例えば、ドイツ国会議事堂放火事件、1936 年
のモスクワ裁判、ニュルンベルク裁判、1945 年以降の人民民主主義における無数の裁判)
。
最後に、プロパガンダは必要に応じて書き直されたものには違いないが(現在や過去の)
文献や歴史を引き継いでいく。プロパガンダは専制君主的な、独裁的な、全体主義的な政
府によって行われるなどと言ってはならない。事実、プロパガンダはプロパガンダ自体の
結果なのである。プロパンガンダはそのなかにあって、本質的な必要性のなかにあって、
プロパガンダを行うあらゆるものを接収する権力を行使する。19 世紀に躊躇なく(おそら
くそれをはっきり理解せずに良き信念のもとに行われ、しかしそれは口実ではなかった)
多くのものを接収した民主的、自由主義的、共和主義的プロパガンダのありのままの事例
を思い起こしてみよう。アテネの民主主義、ローマの共和制、中世のコミューン、ルネッ
サンス、宗教改革を思い出してみよう。ロシアの歴史が、ボルシェビキによって修正され
たほど、歴史はほとんど修正されていない。一方で我々は、いかにプロパガンダが過去の
文献を接収し、そうした文献に対し現在に統合するよう設計された文脈や説明を付け加え
るかを知っている。多数の事例のなかから、我々はただ一つのことを選ぶことになる。
1957 年5月、プラウダ(訳注:ロシア共産党の政治新聞)において、茅盾(訳注:中国人小
説家)は中国の古い詩はよりよい人生のための人々の努力を表現するため、以下のような
ことを言っていると書いた。“花は咲き誇り、月が輝く。人は長い人生を歩む”そして彼
はこう付け加えた。“この詩句に新しい解釈を加えることをお許しいただきたい。花が咲
19
き誇る-これは社会主義者の現実主義芸術の花々は飛び抜けて美しいことを意味する。月
が輝く-これはスプートニクが宇宙探険の新しい時代を拓いていることを意味する。人は
長い人生を歩む-これは偉大なソ連が幾億千年も永らえることを意味する。”
これを一読すれば、苦笑するだけのことだろう。しかし、千回読んで他に何も読むもの
がないなら、人は変わってしまうに違いない。(幾千も発行される)こうした文章が行き渡
り権力側のみならず知識階級によっても受け入れられる、そうした社会に覆われている考
え方の変化というものを我々は考えなければならない。世界観の完全な変化はプロパガン
ダの基本的な全体主義的要素である。
最後に、プロパガンディストはあらゆる手段だけでなく、プロパガンダのさまざまな形
式を用いなければならない。多くのプロパガンダの種類があり、それらを組み合わせるの
が今日的傾向である。意見や態度を形成することを目的とする直接的プロパガンダは社会
学的にゆっくりとした一般的な性質があり、好ましい素地となる態度の風潮や雰囲気を作
ろうとする。いかなる直接的プロパガンダも、予備的プロパガンダなしには効果的であり
得ない。予備的プロパガンダは、直接的或いは明らかな攻撃的プロパガンダがなければ、
両義性を作り出し偏見を減らしイメージを拡げることに限定され、明白に目的を欠いてし
まう。フランスの石油や鉄道、航空産業の映画を見れば、観客はフランスの偉大さをより
確信することになるだろう。人が直接的な吹聴に接する以前に、その素地は社会学的に準
備されなければならない。社会学的プロパガンダは土地を耕すことに、直接的なプロパガ
ンダは種を蒔くことに例えられる。耕すことなしに、種を蒔くことはできない。いずれの
技術も用いられなければならない。社会学的プロパガンダだけでは人の行動を引き起こす
ことはできない。社会学的プロパガンダは日常生活の位相に人を置き去りにしてしまい、
意思決定まで導くことができない。言葉のプロパガンダと行為のプロパガンダは相互に補
完的である。言葉は目に見えるものに対応していなければならない。目に見える実際的な
要素は言葉によって説明されなければならない。口頭や記述されたプロパガンダは感情的
な意見に作用し、それは行動のプロパガンダによって補強されなければならず、そうする
ことで新たな態度が作り出され、人を行動へと確かに参加させるのである。ここに繰り返
すが、誰もどちらか一方なしに、もう一方を持つことはできない。
我々はまた、密かなプロパガンダと明らかなプロパガンダの違いを認識しなければなら
ない。前者はその目的、正体、意義、出所を隠す。人々は誰が影響を与えようとしている
のか気づくことがなく、彼らがある方向へと押しやられていることを感じることがない。
これはしばしば“ブラック・プロパガンダ”と呼ばれる。これはまた、神秘や沈黙を利用
する。もう一方の“ホワイト・プロパガンダ”は公然としていて、公明正大である。プロ
パガンダ省というものがあり、ある者はプロパガンダが作られていることを認めていて、
その所在は知られていて、その目的や意図は認識されている。人々は、ある試みが彼らに
影響を与えようとなされていることを知っているのである。
プロパガンディストは、両方を用いて組み合わせなければならない。プロパガンディス
20
トはさまざまな目的を追い求めているからである。明らかなプロパガンダは敵を攻撃する
ために不可欠である。明らかなプロパガンダはそれ自体で自軍を安心させることができ、
強さや正しい組織の示威行動であり、勝利の象徴である。しかし、密かなプロパガンダは
その目的が気づかれることなくある方向へ支持者を向かわせるためであるなら、より効果
的である。また、同じ集団にある時は片方を、ある時はもう片方を用いることが必要であ
る。ナチスは長い沈黙、なぞ、秘密の露見、不安の水準を高める待ちの時間と、突然の爆
発的な意思決定や騒動、より暴力的な大騒動とを交互に使い分ける方法を熟知していた。
それらは沈黙を打ち破るものであるからだ。最後に我々は、密かなプロパガンダと明らか
なプロパガンダの組み合わせがますます多く行われていることを知るのである。ホワイト
・プロパガンダは実際ブラック・プロパガンダを覆い隠すからであり、つまり、人はある
種のプロパガンダやその組織、手段、目的の存在を認めているが、それらはすべて人の注
意を獲得し、抵抗の本能を和らげるための見せかけに過ぎない。他方では、まったく異な
る反応を喚起しながら、明らかなプロパガンダに存在する抵抗さえ活用しながら、裏側で
完全に異なる方向へと世論に働きかけているのだ。
さまざまなプロパガンダの組み合わせの事例をもう一つ紹介させていただく。ラスウェ
ルはプロパガンダが直接的な刺激を作り出するか間接的な刺激を作り出するかで、二つの
流れに分類した。直接的な刺激は、プロパガンディストが行動させ巻き込み、彼の確信や
信条、正しい信念を説明するものである。プロパガンディストは彼が提示し支持する行動
の方向に力を注ぎ、同じ行動を獲得するためにプロパガンダ受容者からの一致した行動を
誘発する。民主的なプロパガンダは、その中にあって政治家が市民に接触する、そういう
種類のものである。間接的な刺激は政治家や行動する人、公衆の違いに基づくのであり、
受動的な容認と服従に限定される。強制的な影響力があり服従がある。これは権威主義的
プロパガンダの特質の一つのである。
この違いはまったく無意味でないが、我々は改めてすべての現代的プロパガンディスト
が二種類のプロパガンダを組み合わせていることを指摘しておく必要がある。これら二種
は異なる政治体制が司るものではなく、同じプロパガンダの要求が異なる、或いはプロパ
ガンダが形成されるなかでのさまざまな位相の要求が異なるのである。行動のプロパガン
ダは直接的な刺激を前提とし、大衆メディアを通じたプロパガンダは一般的に際立った刺
激となる。同様に、群集への直接の接触という実行者の位相においては、明確な刺激がな
ければならない(ラジオの話者が自身の大義を信じているならより望ましい)のであり、プ
ロパガンダ戦略の立案者の位相では、人々から隔離されていなければならない(我々はこ
の点について後ほど言及する)。こうした例はプロパガンダが総合的でなければならない
ことを示すのに十分であろう。
プロパガンダの持続とその期間
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プロパガンダは継続的で続けていかなければならない。まったく隙間もない継続であり
、市民の毎日、毎時間を満たさねばならない。プロパガンダは大変な長期に渡って機能す
るということである。プロパガンダは個人の生活をそれぞれ個別の世界に導く傾向にある
。個人が外側に接点を持ってはならない。プロパガンディストに対して自分自身を見つめ
る瞑想や熟慮の時間を許されない。プロパガンダが停止したとき、個人はプロパガンダの
掌握を離れる。それよりも、プロパガンダは個人のすべての時間を占有しようとする。外
を歩いているときのポスターや拡声器、自宅でのラジオや新聞、夕時の会合や映画を通じ
てである。人は自分を取り戻し、自分を正し、比較的長期に渡ってプロパガンダに接触し
ないでいることを許されることはない。というのはプロパガンダは魔法の杖の一振りでは
ないからだ。プロパガンダはゆっくりとした一定の飽和に基礎づけられる。継続的な反復
によってのみ有効性を発揮する目に見えない影響力を通じて、プロパガンダは確信と服従
を作り出す。プロパガンダは各個人がそこから脱出できない完全な環境を作り出さなけれ
ばならない。さらに、個人が外部との接点を見つけることを妨げるため、プロパガンダは
外部から入り込んでくるすべてのものを検閲して個人を保護する。反射作用や神話、心理
学的環境や偏見のゆっくりとした構築は実に長い期間のプロパガンダを必要とする。プロ
パガンダはすぐに消えてしまう単発の刺激ではなくこれまでに言及した多くの方略を手段
とした、さまざまな感情や考え方を目的とした、継続的な刺激や衝撃から成るものである
。中継体制はこのように確立する。プロパガンダは怠慢や妨害のない継続的な活動で、1
つの刺激の効果が弱まったらすぐに新たなものによって取り戻される。プロパガンダが受
容者に対して影響力を与えない瞬間はない。一つの効果が弱まれば、新たな衝撃が後に続
くのだ。
継続的なプロパガンダは、注意や適応といった個人の能力、従って抵抗能力をも超越し
たものである。この継続という特徴は、なぜプロパガンダが曲解や方向転換を思いのまま
にすることができるのかを説明するものである。プロパガンダの内容はほとんど一貫性が
ないので、昨日非難したことを今日は承認するなどということがあり、いつも驚かされる
。アントニオ・マイオットはこのプロパガンダの変化性をその性質の証しであると考えて
いる。実際、その変化性はプロパガンダが行使する掌握力やその効果の現実性についての
証しでしかない。我々は、急な方向転換があった時に、人が隊列に並ぶことを止めると考
えてはならない。人はその体系のなかに組み込まれているので、隊列に並び続ける。もち
ろん、人は起きている変化に気づき、驚いている。共産主義者が独ソ不可侵条約のときに
そうであったように、人は抵抗しようともするかもしれない。しかし、人はプロパガンダ
に抵抗するために継続的な努力を行うだろうか。人は自分の過去の行動を否定するだろう
か。人は自分がいるプロパガンダが有効な環境を打ち破ることができるだろうか。彼は特
定の新聞を読むことを止めるだろうか。このような断絶はあまりに痛みが多く、その断絶
に直面すると人は隊列の変化は自分への攻撃ではないと感じて、その状態の維持を選んで
しまう。
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それ以来、人は新たな真実が何度も塗り替えられることを耳にするや否や、新たな真実
が説明され証明されることを受け入れる。昨日の真実に基づいて日々の新たな真実に抵抗
して戦う力を持たなくなる。人はこの戦いに加わることさえ完全になくなってしまう。プ
ロパガンダは束の間の休息もなく攻撃を続け、その抵抗は断片的で断続的になる。人は専
門的な仕事と個人的なことに没頭し、それ以外の時間は常に、新たな真実が示されるのは
見聞きするだけである。プロパガンダの強固さは人の断続的な注意を上回るかたちで浸透
することにあり、朝パンを食べ始めるときから人にずっとついて回るのである。
従って、たった2週間しか続かない選挙キャンペーンでプロパガンダを語ることはでき
ない。幾人かの知識人たちは選挙のプロパガンダは有効でなく、その全体の手法、壁に刻
まれた碑文は誰をも説得することはできず、対立する議論が互いに打ち消し合うとの見解
を示すだろう。さらに、しばしば人々は選挙のプロパガンダに無関心であることは本当で
ある。そのようなプロパガンダは効果を持たず、つまりプロパガンダのいかなる優れた技
法も二週間として効果的ではあり得ないことは驚くことではない。
本当のプロパガンダと関係がないことは、モルモットのように一つの集団にあるプロパ
ガンダの手法が有効であるかどうかを試すという、しばしばなされる実験がある。こうい
った実験は基本的に、その実験が短期間であることによってその価値が減じられる。もっ
と言えば、通常この種の影響下にない社会環境にプロパガンダが突然出現したとき、個人
はどんなプロパガンダもはっきりと識別できる。もし、労せずにある独立したプロパガン
ダの部分やあるキャンペーンが出現したなら、その鮮明さはとても強烈で、個人はそれを
プロパガンダと認識でき、注意深くすることができる。これがまさに選挙キャンペーンで
起こっていることである。各人は自分が置かれた日々の状況のなかで自分を守ることがで
きる。それゆえ、大きな仕切りによって断絶された騒がしい大キャンペーンによって大々
的に突き進むことは、プロパガンダの有効性にとって致命的である。このような環境では
、個人は常に自分の認識を取り戻すだろう。人はプロパガンダと常日頃メディアが報じて
いることとの違いを見分ける方法を知るだろう。もっと言えば、プロパガンダが強烈であ
るほど、突然の騒ぎを以前そこにあったまったくの静けさと比べることができるので、人
はより注意深くなる。
このとき求められることは、その日の出来事に正当化し興奮させるものが何もないとき
でさえも人工的に作り出す継続的な扇動である。それゆえ、持続的なプロパガンダはまず
ゆっくりと気運を作らねばならず、それから通常の日々の出来事とは対照的なプロパガン
ダ作戦を人に気づかれないように行わなければならない。
プロパガンダの組織
はじめに、プロパガンダをいくつかの種別に分ける必要がある。先に述べた性質をプロ
パガンダに認めると(継続、期間、異なったメディアの組み合わせ)、組織は大衆メディア
を正しく用い、スローガンの効果を測り、あるキャンペーンを別のキャンペーンと入れ替
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えることが可能な大衆メディアを操作する組織になる。官僚組織がなければならず、すべ
ての現代的な国家はそれが実際どのような名前であれ、プロパガンダ省のようなものを持
つものと考えられる。技術者が映画やラジオ放送を制作することを求められるように、“
影響力の技術者”つまり社会学者や心理学者が必要とされる。しかし、この必要不可欠な
行政的組織は、ここで我々が話すものではない。我々が話したいことは、プロパガンダが
常に、ドイツ語で機械を意味する“Apparat”という存在まで機構化されるということで
ある。これは現実と直結している。プロパガンダの分析を阻む大きな間違いは、プロパガ
ンダを単なる心理学的事象、象徴の操作、意見に対する抽象的な影響力だと考えることで
ある。プロパガンダに関する米国の多くの研究はこの理由において有効でない。こうした
研究はプロパガンダをただ心理学的な影響力の手段に関するものとみなしている。すべて
の優れたプロパガンダの実務家たちが厳格に心理学的なものと物理的な動きを不可分の要
素として結びつけているにもかかわらずである。心理学的影響が現実に基づかないなら、
いかなるプロパガンダもあり得ないのであり、組織や運動への個人の募集は心理学的操作
と連携することになる。
いかなる物理的な影響も人に対して組織によって行われない限り、プロパガンダには成
り得ない。これは毛沢東の発明でも、ただのプロパガンダの付属品でも、あるプロパガン
ダの種類のかたちでも明確にない。心理学的要素と物理的要素の区分けは、プロパガンダ
が何であるかをおおよそ理解するということを妨げる勝手な単純化である。もちろん、物
理的な組織はさまざまな種類に分けることができる。政党組織(ナチ、ファシスト、共産
党)であり得るし、そのなかにあっては説得され引き入れられた者は吸収され、行動やそ
ういった組織への参加を余儀なくされ、もっといえば、力のプロパガンダのかたちで暴力
や恐怖を用いる。或いは、そのような物理的な組織は、住民区分で区分けられた人々全体
を統合するであり、社会組織全体を統合することで社会のなかで活動する。(もちろん、
これは心理学的な施行と並行して行われる。) 或いは、効果的な変革が経済的、政治的
、社会的領域においては可能である。我々は、プロパガンディストもまた政府の心理学的
なコンサルタントであることを知っている。プロパガンディストはどのような手段がある
心理学的な操作を促進するのに採用され、採用されるべきでないかを示す。よく思われが
ちなことは、プロパガンダは苦い薬の糖衣加工、人々が自主的には受け入れない政策を受
け入れさせることを目的とするものであるということである。しかし、多くの場合、プロ
パガンダは有効な改革といったかたちで、望ましい実行の方向性を示そうとするものであ
る。プロパガンダはこのとき、改革とその後の満足の創出によって人々に与えられる、実
際的な満足の合成品である。
プロパガンダは真空において機能し得ない。プロパガンダは行動に根を張っていなけれ
ばならず、行動の一部である現実に根を張っていなければならない。幾つかの明確で歓迎
される手法はプロパガンダの方法でしかないかもしれない。逆に、強制的なプロパガンダ
は物理的な強制と結びついていなければならない。たとえば、1958 年のフランスにおける
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アルジェリア民族解放戦線のプロパガンダへの大きな打撃は、投票所への道が爆破される
かもしれないし爆弾を仕掛けられるかもしれない、勇気を持って選挙に行った者の村が取
調べを受けるかもしれないという国民投票に関する物騒な脅威であった。だが、これらの
脅威は何も実行されなかった。行動できないことは、それ自体がカウンター・プロパガン
ダになる。
プロパガンダ事業は、実質的に存在しないようなプロパガンダを除けば、物理的な組織
と行動の必要性に制約されるため、効果的なプロパガンダは集団のなかで、特に国家のな
かでのみ機能できる。集団の外へのプロパガンダ、例えば他国へプロパガンダや敵国への
プロパガンダは、必然的に弱いものになる。このことの主な理由は、疑いもなく物理的な
組織の欠如、個人の囲い込みの欠如である。象徴という経路や出版、ラジオに拠らなけれ
ば、その時でさえ散発的な形態でしかないものの、誰も他国に手を伸ばすことはできない
。このような努力はいくら良くても幾らかの偽りを含み、幾らかの判然としない感覚を植
えつけ、人々に自問自答させ、示唆によって人々に影響力を与える。戦争の場合、プロパ
ガンダと同じ時期に敵を倒さず、爆弾によって爆破もしない限り、敵はこのような抽象的
なプロパガンダによって士気をくじかれることはない。我々は教育(前プロパガンダ)によ
ってプロパガンダが準備され、組織と行動によってプロパガンダが維持されない限り、単
純な言葉の伝播から大きな成果が得られると期待したりはしない。
このことは、共産主義国と西側諸国の間で大きく異なる。西側諸国はソビエト諸国に対
してただ心理学的手段によって、民主主義国の基地から発せられるプロパガンダを行って
いる。対照的に、ソ連はまったくプロパガンダを行っていない。ソ連はラジオによって西
側の人々に接触しようとはしていない。ソ連はそのプロパガンダを、プロパガンダされる
べき人々の国家的な境界線の内側へと、国家的な共産党体制における組織が担うように制
限している。こうした政党はソ連の対外的なプロパガンダ機構であるので、そのプロパガ
ンダは効果的である。プロパガンダが囲い込みや継続が可能な具体的な組織と結びついて
いるからだ。米国がボイス・オブ・アメリカ(訳注:米国の国営放送局)で約束した後、
1956 年のハンガリー動乱の間ハンガリーを支援できなかったとき、結果として起こった強
烈なカウンター・プロパガンダ効果をここに特筆すべきだ。確かに、米国人がハンガリー
人を助けに行くことなどほとんど不可能だった。にも関わらず、不義の約束をしたプロパ
ガンダは、そのプロパガンディストに対して敵に回ることになる。
内部組織の存在がプロパガンダにとって不可欠であるという事実は、民主主義国と独裁
国によって出された同じ政治声明が同じ信用性を持たないことをよく説明している。フラ
ンスと英国が、アラブ連合共和国の形成に関してシリアとエジプトで行われた選挙が不正
なものであり専制政治体制の証拠であると宣言したとき、何の反響も起こらなかった。そ
れは十分繰り返されず人々が聞く耳を持たない外側からの声明であった。ナサール(訳
注:エジプト人政治家)が同じ主題で一年後にプロパガンダ・キャンペーンを立ち上げたと
き、威嚇における選挙結果は“帝国主義者たちによる不正”があり、イラク議会は茶番で
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あると主張したが、彼は反響を引き起こした。エジプトの人々は反応し、イラクの人々は
その主張に賛同し、国際世論は混乱した。このようにプロパガンダの装置は人々を行動に
駆り立て人々を惹きつける運動は海外の議論で重視される。このとき、プロパガンダはも
はや単なる言葉ではなく、大衆による大規模なデモを引き起こし、国境線の外側で言葉に
威力を与える事実となるのである。
しかしながら、我々は組織の決定的な重要事項について、心理学的実行が虚しいという
ような結論を導いてはならない。心理学的な要素はプロパガンダの機構強くにとって唯一
ではないものの必要不可欠な一部である。象徴の操作は三つの理由において必要である。
まず、それは組織の枠組みに個人を入れていくものである。第二に、それは人に行動の正
当化や動機付けを与えるものである。第三に、それは人々の全面的な忠誠を手に入れる。
我々は、その実行を効果的にするには、真の服従が不可欠であるということを一層学ぶの
である。労働者や兵士、同志は自分たちが行うことを信じなければならないし、自分たち
の心や価値をその中に置かなければならないし、自分たちの心の均衡や満足をその実行に
見出さなければならない。これらはすべて心理学的影響の結果であるが、それは単独で大
きな成果を得ることはできず、組織と結合したときにすべてを得ることができる。
最後に、組織の存在はもう一つの現象を引き起こす。プロパガンディストはいつもプロ
パガンダ受容者から隔離され、自分を部外者にしておくということである。人間関係にお
ける実際の接触、会議、戸別訪問においてさえ、プロパガンディストは異なった秩序のな
かにあって、組織の代表以外の何者でもなく、組織から派遣された部分なのである。彼は
機械の影で操作する人であり続ける。彼は自分がなぜその言葉を口にするのかを、どのよ
うな効果があるのかを熟知している。彼の言葉はもはや人間の言葉ではなく、技術的に計
算された言葉であり、組織の動向と言葉が完全に同時であるときでさえ、組織を反映した
ものになる。このようにプロパガンディストは自分が言っていることに存分に傾倒するよ
う求められることはない。というのは、それが必要であるなら全く正反対のものを同じ確
信を持って語ることを求められるかもしれないからだ。プロパガンディストは、もちろん
自身が従うところの大義を信じなければならないが、特定の議論を信じる必要はない。一
方、プロパガンダ受容者は、投げかけられた言葉や議論を聞くことになり、それらのなか
で自分の信条を見出すことを求められる。プロパガンディストは自分の信念に基づいて自
分の言葉を伝えなければならない。明確なことではあるが、もしプロパガンディストが自
分自身を見捨てて、プロパガンダが心理学的実行の問題でしかないとしたら、プロパガン
ディストは自分自身の技巧に絡め取られるか、それを信じてしまって終わりである。その
とき、プロパガンディストは自分のやり方の囚人となり、プロパガンディストとしての有
効性をすべて失うだろう。このことから彼を守るものは、まさに彼が所属し明確な線引き
をしてくれる組織である。このようにプロパガンディストはさまざまな方法で患者を処置
する技術者へと次第になっていき、自分の言葉や行動を純粋に技術的な理由によって選択
しながら、冷たくよそよそしくなっていく。患者は大義に基づく必要性に応じて守られ、
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また犠牲になる存在である。
しかしこのとき、読者はなぜ人間関係の体系なのかと、なぜ戸別訪問の重要性なのかと
尋ねるかもしれない。技術的な必要性だけがそれを規定する。我々は人間関係がいかに人
にとって重要であるか、個人的な接触が意思決定にいかに不可欠であるかを知っている。
我々はラジオによる遠方からの言葉が個人的な存在の温かみによって代替されることを知
っている。これらはまさにプロパガンダの人間関係に関する技法を有効せしめるものであ
る。しかし、この人的接触は偽であり、単に装われたものであり、個人の内側から出てき
たものではなく、背後にある組織のものである。人から人へというようなまさに見せかけ
の行為によって、プロパガンディストはそれを意識せずとも、虚偽と歪曲の高みへと手を
伸ばすのである。
正当な実践
我々は今、完全に決定的な事実に突き当たった。プロパガンダは観念や意見を変え、人
々に観念や事実を信じさせ、最終的にはある教義を全面的に支持させることを目的とした
操作としてほとんどの場面で描かれる。或いは、別な言い方をすれば、プロパガンダは信
条や観念を操るものとして描かれる。もし、ある人がマルクス主義であるなら、プロパガ
ンダはその信条を破壊し、反マルクス主義者に転向させるといった具合である。プロパガ
ンダはすべての心理学的機能を用いるのであるが、同時に理性に訴える。プロパガンダは
説得し、意思決定を促し、幾つかの真実への強い支持を作り出そうとする。このとき明ら
かなことは、もしその説得が十分強いものであるなら、心の整理を多少した後、人々は行
動への準備を済ませることになる。
この推論は完全に間違っている。1850 年のプロパガンダと何も変わっていないかのよう
にプロパガンダを捉えることは、人類や人類に影響を与える手段について時代遅れの考え
方に固執することになる。現代的なプロパガンダについて何も理解しないことと同じであ
る。現代的なプロパガンダの目的はもはや観念の形成ではなく、行動を引き起こすことに
ある。その目的はもはや教義への支持ではなく、人々を行動の過程へと道理なく支持させ
ることである。その目的はもはや選択に導くことではなく、熟慮を失わせることである。
その目的は意見の形成ではなく、意欲的でかつ神話的な信条を呼び起こすことである。
世論調査とはプロパガンダを計ることであるとの間違った考え方をここに乗り越えてい
こう。我々はプロパガンダの効果の研究においてこの点に立ち戻らざるを得ない。このこ
とを信じるかどうか、或いはこの考えを持っているのか、あの考えを持っているのかと単
に人々に尋ねても、彼がどういった態度を取り、どういった行動にとるのかは全く分から
ない。ただ行動こそが現代的プロパガンダの関心事である。というのは、その目的が最大
の効果と経済性を持った人々の行動を引き起こすことにあるからだ。それゆえプロパガン
ディストは通常人々の知性に訴えかけようとはしない。なぜなら知的な説得の過程は長期
に渡りかつ不確実であり、そのような知的説得から行動への道のりはさらに長期に渡り不
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確実なものになるからだ。人々はめったに観念の基底に基づいて行動したりはしない。も
っと言えば、プロパガンダの努力を知的位相に置くことは、プロパガンディストに人々と
個別の議論をさせることになり、考えられない方法である。少なくとも最小限の関与を全
員から得ることが必要なのである。それは能動的でも受動的でもあり得るが、いずれにし
ても単純に世論の問題ではない。プロパガンダを単に世論に関連した何かであるとみなす
ことは、プロパガンダ受容者の部分的な知的独立を意味する。このときプロパガンダ受容
者は結局のところいかなる政治行動においても第三者的で、意見を求められる存在である
。これは自由民主主義の概念と符合するものであり、市民に対峙するプロパガンディスト
がすることは選挙時に投票を獲得しようと意見の変化させることになる。世論とプロパガ
ンダの密接した関係性に関するこの概念は、独立した人々の意思に基づくものである。こ
の考え方が正しいなら、プロパガンダの役割は投票において表明される人々の意思を形成
することになる。しかし、この考え方が十分考慮していないことは、人々の行動の機構に
プロパガンダを注入することは、実際には自由民主主義を抑圧することでしかなく、その
後において我々はもはや投票や人民による統治を行えず、それゆえプロパガンダはただ参
加を志向するということになる。参加は能動的でもあり受動的でもある。プロパガンダが
人々を行動へと突き動かすなら能動的であり、人々が直接行動せず行動を心理的に支持す
るなら受動的である。
しかし、ある人は、プロパガンダは我々を正しく世論への立ち戻らせてくれることなの
ではないかと尋ねることだろう。もちろんそんなことはない。というのは、世論は最終的
に人々を、しかし必ずというわけではないものの、行動に打って出る単なる傍観者にして
しまうからだ。それゆえ、参加の意味合いが非常に強くなる。サッカーチームのサポータ
ーは、試合において物理的ではないものの、選手たちを応援し、発奮させ、力を尽くさせ
ることで、心理的にその存在を感じさせる。同様にミサに加わった信心深い人々は物理的
な障壁とはならず、聖餐に参加する者は能動的であり、その不思議な儀式の本質を変質さ
せる。これら二つの事例は我々がプロパガンダを通じて獲得した受動的な参加によって我
々が得るものを示している。
このような行動は選択や熟慮の過程によって得ることはできない。プロパガンダを有効
せしめるためには、あらゆる思考や決定を中断させなければならない。プロパガンダは
人々のなかで無意識に機能しなければならない。外的な力によって自分が形成されている
などと人に悟らせてはならない(これはプロパガンダ成功の条件の一つである)が、適切で
かつ期待された行動を引き起こす無意識のなかにある機構を解き放つためには、どうして
もその人の中心的な核となる部分に接触しなければならない。
我々は目的に完全に合った行動を得なければならないと述べてきた。プロパダンダの伝
統的で時代遅れの見方が人々の正当な考え方への支持としてプロパガンダを定義するとい
うことであるなら、このことは我々を真の現代的なプロパガンダはそれどころか正当な行
いを得ようとすることであるとの見地へと導くものである。その正当な行いはプロパガン
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ダにおける行動そのものであり、行動する者の価値判断のためではなく、人々によって意
識されておらず獲得すべき意識的な目的でもなく、しかしプロパガンディストによって考
え抜かれた目標に直接つながるものである。プロパガンディストはどのような目的が目指
されるべきで、どのような行動が実現されるべきか分かっており、正確にその行動を獲得
する手段を用いる。
我々の社会における思想や行動の分離は、より一般的な問題の典型的な事例である。我
々はそれを望んでいるという訳でもないが、行動と思想が系統的に分離している時代を生
きている。我々の社会において、考える者は自ら行動できず、他者の作用を通じて行動す
る。多くの場合、人は全く行動できない。行動する者は自分の行動を最初に考え出すこと
はできない。時間が足りず、個人的な問題がいろいろあり、社会計画は人に他者の考えを
行動に移すよう求めてくるからだ。そして、我々は人々が皆一様の意思決定をしているこ
とを目撃する。人は自らを見出すために、一般的な必要性や一般的な手法、自分の仕事を
全体的な計画に組み込む必要性という文脈にありながらも余暇を楽しむために、或いは自
分に最も合うものを見つけるために、或いはそのように自分を個人的な存在にするために
、自身の仕事の領域以外の場でのみ自分の精神を使うことができる。
プロパガンダは一様の意思決定を作り出す。もちろん、個人の人格に影響を及ぼさない
などということはない。プロパガンダは政治的或いは社会的な活動におけるものを除けば
、思考の完全な自由を個人に与えるものであり、そこにあっては、人は必ずしも個人の信
条と同調しない行動に身を向けて関わるのである。人は政治的な信念をも持つことができ
、それに明らかに矛盾したかたちで行動しさえする。このように、熟練したプロパガンダ
の曲解や展開というものには打ち勝つことができない困難などないのである。プロパガン
ディストは人に、過去の信念と一致しない行動を取らせることができる。現代の心理学者
は、信念と行動の一貫性や、意見や行動に本質的な合理性が必ずしもないことをよく知っ
ている。この一貫性の狭間で、プロパガンダはて
・
こ
・
を使うのである。プロパガンダは賢く
かつ理知的な人々を作り出さず、変節者や闘争者を作り出す。
このことは我々を組織の命題へと立ち戻らせてくれる。プロパガンダによって行動を誘
発された変節者は一人でいることはできず、自分一人で何かをするといったことができな
い。もし、プロパガンダによって得られた行動が適切であったなら、行動は個人的なもの
ではなく、集団的なものであるはずだ。個人の行動-思考の多様性を統合し共在するもの
であるときのみ、プロパガンダは有効となるが、その調整は組織の媒介を通じてのみ達成
することができる。
もっと言えば、プロパガンダによって達成される行動-思考は始まりに過ぎず、出発点
である。プロパガンダは、組織があってそのなかで(そしてそのおかげで)変節者が闘争者
になる場合のみ、調和したかたちで発展を遂げる。組織がないと、心理的な誘発はまさに
その発展段階で行動の行き過ぎや逸脱を起こしてしまう。組織を通じて、変節者は圧倒的
な行動要因を受け取り、その要因はその人の総体をもって行動に至らしめる。人は実質的
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に社会心理学的な意味において宗教的な人となり、一員となっている組織によって自分が
取る行動には正義がもたらされる。このような統合は今日のすべてのプロパガンダの主要
な目的であるようだが、そればかりでなく、プロパガンダの耐久性を作り出すものでもあ
る。
行動はプロパガンダの効果を抵抗不可能性なものにする。プロパガンダに従って行動す
る人は元に戻ることができない。彼は今や、自分の過去の行動によってプロパガンダを信
じることを余儀なくされている。彼はプロパガンダから正当性と権威を受けざるを得なく
なり、プロパガンダなしにはその行動は彼にとってばかげた正当でないものとなり、それ
は耐え難いものとなる。彼はプロパガンダが指し示す方向に進むことを余儀なくされる。
というのは、行動はさらなる行動を要求するからだ。彼は傾倒しているというべき状態に
あり、それは間違いなく共産党が望んでいるものであり、ナチスが実現したものである。
既存のプロパガンダと同調して行動する人は社会に居場所を持っている。そして敵を持つ
ことになる。彼はしばしば自分の環境や家族を破壊して、自分の対面を傷つけ信用を失う
。彼はプロパガンダが用意した新たな環境や友人を受け入れざるを得ない。時に彼は伝統
的な倫理基準が非難するところに力を注いで秩序を混乱させるので、その結果自分の行動
の正当性を必要とする。そしてその正しさを証明するために行動を繰り返し、より深く行
動に巻き込まれていく。このようにして、彼は発展していく運動に捕われていく。これは
彼の意識を完全に占有するまで続く。プロパガンダは今や完全に彼を支配する。我々は、
この程度の参加を起こさないプロパガンダは、いかなるものでも単なる子どもの遊びに過
ぎないと心に留めておく必要がある。
しかし、我々はプロパガンダが知的過程を寸断させつつ、このような成果や反射運動を
作ることがいかにできたのかを徹底的に問う。このような成果がプロパガンダによって得
られたとの主張は、平均的な観察者からは懐疑論を、心理学者からは強烈な否定や経験と
矛盾する単なる空想との批判を生むことになる。後ほど我々はこの辺りについて心理学者
によって示される実験の有効性や、主題に関する適切さを検証する。差し当たっては、ナ
チや共産党といった実際にプロパガンダの影響を受けた人々の観察がまさに我々は描いて
きた図式の正確さを証明すると述べるに留めておく。
しかしながら、我々は自分たちの言及を修正しなければならない。あらゆる人があらゆ
るかたちで来る日も来る日もあらゆる刺激にも従わされているなどと我々は言わない。個
人には既に初期の機構が存在し、それは機能することが容易で、確実に特定の影響を作り
出すなどと我々は言わない。我々は人類に対する機械的な見地に賛同するわけではない。
しかし我々は、プロパガンダを二つの相に分類する。前プロパガンダ(或いは副プロパガ
ンダ)と動的プロパガンダである。このことは、我々が先に述べた継続的で恒久的なプロ
パガンダの本質に関することに連なるものである。明確なことではあるが、継続的でなけ
ればならないものは動的で集中的な危機のプロパガンダでなく、人々を動かそうとする、
或いは語源的な意味において適切な時期に人々を行動へと突き動かそうとする副プロパガ
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ンダである。何の準備もなしに、人を心理学的に動かして敏感にさせることなしに、人に
行動させることができないことは明白である。物理的な準備については言うまでもない。
前プロパガンダの本質的な目的は、特定の行動を想定して、人々を仕立て上げることで
あり、幾つかの影響力に敏感にさせることであり、さらには気後れや躊躇なしに行動に参
加する時の条件の下に人々を実質的に置くことである。この点から見ると、前プロパガン
ダは正確な観念的な目的を持っていないことになる。前プロパガンダは意見や観念、教義
に一切手をつけない。前プロパガンダは時が来たときに有用となるものであり、心理学的
な操作や人格形成、感情や固定観念の形成によって前進するのである。前プロパガンダは
継続的で、ゆっくりとしていて、感じることができないものでなければならない。こうし
た性向を作り出すためには、人々のなかに入っていかなければならない。人が特定の心理
的な風土のなかを生きるようにしなければならない。
この副プロパガンダが採る二つの主要な経路は反射と神話である。プロパガンダはすべ
てに先んじて訓練を施すことで人々のなかに条件反射を作ろうとし、ある言葉やある合図
、ある象徴、或いはある人物や事実が確実に反応を引き起こすようにする。心理学者から
の抵抗はあるものの、集団的にかつ個人的に条件反射を作りだすことは明らかに可能であ
る。しかし、もちろんこのようなことを成功させるには、ある程度のまとまった時間や、
訓練や反復の時間を必要とする。数週間の定式の繰り返しを経て無意識的な反応を身につ
けたいなどと人が思うはずがない。本物の心的な再形成がなされなければならず、何ヶ月
にも及ぶ辛抱強い作業の後に、集団は思い通りに同じ象徴に無意識的に反応するようにな
る。しかし、この準備作業はもはやプロパガンダではない。というのは、実際の場面です
ぐに適用できないからだ。プロパガンダにおいて観察されている華々しいもの、我々にと
って時に理解できず信じられないようなプロパガンダは、こうしたゆっくりとした、はっ
きりと見えない準備によってのみ可能である。こうした準備がなければ何も実現しない。
一方でプロパガンディストは神話を作ろうとする。神話によって人は生き、神話は人の
神聖なるものへの感覚に反応する。神話とは全方位的であり、働きかけを行う象徴である
。それは物質的で実質的な性質を持っておらず、強烈に色づけされ、圧倒的で全方位的な
、望ましい目的というある種の幻想である。神話はその神話に関係しない一切のものを意
識から追い払ってしまう。こうした象徴は的確に人を行動へと仕向けることができる。な
ぜなら神話は人が思うところの良さや正しさ、確かさをすべて包括しているからだ。神話
の形而上学的分析をするまでもなく、我々は、さまざまなプロパガンダによって創造され
た偉大な神話、人種や労働者、総統、共産主義社会、生産性の神話などを見ることができ
る。最終的に神話は人の心を完全に掌握するので、その人の人生はその神話に捧げられる
ことになる。しかし、その効果はプロパガンダによるあらゆる手法を用いたゆっくりとし
た忍耐強い作業によってのみ可能であり、早急なプロパガンダの方略では不可能である。
条件反射が人々のなかに作り出され、人々が集団的な神話のなかに生きる場合のみ、人を
すぐに動かすことが可能になる。
31
神話と条件反射という 2 つの手法は組み合わせて用いることができるが、それぞれ独立
した利点を有する。米国は神話を活用することを選び、ソ連は長らく条件反射を選んだ。
重要なことは時が熟したときに、動的プロパガンダによって準備していた心理学的てこを
握って、神話を喚起することによって人を突き動かすことである。彼の行動と、条件反射
や神話の中身は必ずしも関係がない。行動は神話の一側面によって心理学的に条件づけら
れている必要はない。最も驚くべきことは、準備作業が人の素早い反応を導くということ
である。人は準備が出来たらすぐに、実質的にまったく異なる方向にも動かされる。もち
ろん、神話や反射は継続的に調整され、修正されなければならず、そうでなければ神話は
朽ち果ててしまう。目的が特定の行動や巻き込みであるときに動的プロパガンダが断続的
であり得る一方、前プロパガンダが継続的でなければならない理由はこうした点にある。
2.内的特質
心理学的領域の知見
行動を引き起こすプロパガンダの力はしばしば、プロパガンダは実際には人々の何をも
形成せず、創作することなど出来ないという主張によって異議を唱えられることがある。
我々は、心理学的な操作が個人のなかで強く信じられている意見をはっきりと変えること
などできないことがあることを知っている。強い信念を持った共産主義者やキリスト教徒
などごく稀である。あったとしても反対のプロパガンダに揺さぶられるといった程度のも
のである。同様に、偏見や固定観念はプロパガンダによってめったに変化させられない。
例えばプロパガンダによって人種的な偏見を崩壊させることはほとんど不可能である。黒
人、ユダヤ人、ブルジョア、植民地主義者について考える人々は、プロパガンダの狙いに
よってごくわずかしか変化しないだろう。同様に、人は中立的で何もない大地であるかの
ように、反射や神話は何もないところから作り出されない。もっと言えば、反射が作り出
されているときでさえ、反射は人をあらゆる方向へと行動を仕向けることに活用すること
はできない。人はまるで物体やオートマトンであるかのように操作されない。作り出され
た反射という機械的な性質が人をロボットに変質させてしまうようなことはない。
我々は多くの経験から、プロパガンディストは人々のなかにあるものに矛盾するような
かたちで何かを行うことはできない。プロパガンディストはただ新しい心理学的な作用を
作り出し、ただ意思決定や行動を獲得するといったことはできない。しかし、こうした見
地から心理学者は、プロパガンダの効果はごくわずかである、プロパガンダの活動領域は
限定的でほとんど役に立たないといった性急な結論を下す。我々は後ほど、この結論がど
うして正しくないと考えるのかを示すことにする。しかし、こうした見地は我々に何が効
果的なプロパガンダなのかということについて幾つかの大事な示唆を与えてくれる。
プロパガンディストは第一に彼が実行する領域を可能な限り正確に把握しなければなら
ない。プロパガンディストは感情や意見、現在の傾向、彼が接触しようとする人々の固定
観念を把握しなければならない。明確な出発点となるのは、集団の性質や現在の神話、意
32
見、社会学的構造の分析である。誰もがどこででも誰に対しても有効なプロパガンダを作
ることはできない。手法と議論は、接触する人々の種類にあわせて変えていかなければな
らない。プロパガンダは明らかにでき合いの兵器工場ではないし、どこでも使うことがで
きる技法や議論ではない。こうした方向性のなかで、明らかな間違いが最近のプロパガン
ダの歴史の流れにおいてなされている。プロパガンダの技法は、行動を強いられる個人の
視点で望まれた行動を計算することにその本質がある。
二つ目の結論は、以下のような原則によって具現化される。確立したものや理知的なも
の、恒久的な意見、受け入れられている決まり文句、固定化された思考様式を決して攻撃
しないということである。プロパガンディストはこうしたものとの競争に自らをすり減ら
したりはしない。確定的な大衆の意見やしっかりと確立したものの見方を変えようとする
プロパガンディストは、間違ったプロパガンディストである。このことは、プロパガンデ
ィストは物事をそのままにしておかなければならないということでもなければ、出来るこ
とは何もないということでもない。この問題の二つの微細な側面を理解する必要があると
いうだけのことだ。
第一に、我々は意見や固定化された思考様式と行動の間に必ずしも連続性がなくてもよ
いということを思い出す必要がある。一貫性や論理性がなくとも、人は自分の財産や仕事
、工場を大切にするし、共産主義に投票することさえする。或いは、人は共産主義者によ
って描かれた社会的正義や平和に熱狂することさえある。保守政党に投票しながらもであ
る。確立している意見や固定観念を正面から攻撃することは、プロパガンダ受容者に基本
的な一貫性のなさを気づかせ、予期せぬ結果をもたらすことにつながる。熟練したプロパ
ガンディストは、一貫性を要求せず偏見や象徴と戦いもせず、慎重に一貫性のない彼の立
場を取り入れて、行動を獲得しようとする。
第二に、プロパガンディストは既に存在している方向性から人々を分岐させ、その方向
を変え、不明確な文脈へと人々を置くことによって意見を変えることができる。明らかに
固定化され動かない立場から出発しつつ、その人が望まない方向へとそれと気づかれるこ
となくその人の気づかない経路で人を導くことができる。この方法は、“平和の同士”に
よってドイツ再武装に対するプロパガンダとして行われ、それは完全にソ連に友好的なも
のであったが、フランスの権利という反ドイツ感情は活用されたのである。
このように既存の意見には反論すべきでなく、活用すべきである。人は多くの固定観念
や確立した傾向を持っており、プロパガンディストはその兵器工場から最も容易に人を動
かすものや期待する行動を強化するものを選択しなければならない。人が単純で限定的に
もたった一つの意見しか持たないなら、確立した意見にプロパガンダは無効であると主張
する著述家は正しいことになる。これは、長期に渡ってプロパガンダを受けている人にお
いてはしばしばあることだが、プロパガンダをされたことがない人々においてはほとんど
ないことある。しかし、我々の民主主義にあって通常の人々は感情や観念の広い幅を持っ
ている。プロパガンダはどちらの意見を正面から攻撃すべきでないか、あいまいさのうち
33
に隠れながら、徐々に衰えさせ弱らせるべきはいずれなのかを決めることだけが求められ
る。
第三の重要な結論は主に米国で行われた実験から導かれるものだが、プロパガンダは何
もないところからは何をも生まないということである。プロパガンダはそれ自体が感情や
観念に結びついていなければならない。プロパガンダは人々のなかに既にある基礎の上に
立脚しなくてはならない。条件反射は生来の反射や前もって整えられた条件反射の上にの
み確立することができる。神話は一朝一夕には拡がらない。神話は自発的な信条に反応す
るものである。プロパガンダが学校や環境、体制、教会などによって既に確立された傾向
や態度に反応するものでないなら、行動は獲得できない。プロパガンダは既存のものを活
用するという制限があり、プロパガンダがプロパガンダを作り出することはない。
プロパガンダは四つに分類される。第一に、心理学的な“機能”であり、人々がある刺
激に対してある方向に反応するということを多かれ少なかれプロパガンディストが理解す
ることを可能にする。このことに心理学者はほとんど同意しない。行動主義や深層心理学
、衝動の心理学はまったく異なる心的メカニズムを前提とし、本質的に異なる関係性や動
機を観察する。ここにプロパガンディストはこれらの説明するところになすがままである
。第二に、意見や一般的な思考様式、固定観念は完全に特定の環境や人のなかに存在する
ということだ。第三に、イデオロギーは多かれ少なかれ意識的に共有され受容され伝播さ
れ、知識人やむしろ偽知識人、プロパガンダにおいて考慮に入れなければならない要素を
形成する。
最後に第四として、プロパガンディストはとりわけ接触したい人々の要求に関わってい
かなければならない。すべてのプロパガンダは、有形の欲求(パン、平和、安全、仕事)で
あれ心理学的な欲求(我々はこの点について後ほどしっかり議論する)であれ要求に反応す
る。プロパガンダは根拠のないものではあり得ない。プロパガンディストはこちらの集団
にはこういった方向へ、あちらの集団にはああいった方向へといったように簡単にプロパ
ガンダを行うことができない。集団は何かを欲求し、プロパガンダはその欲求に応えるの
である。(米国で行われる実験の一つの弱点は、実験的なプロパガンダが実験対象者の欲
求に対応しないことがほとんどであるということである。) 何かを“押し付ける”プロ
パガンディストに関するよくある間違いは、プロパガンダ受容者が求めているかどうかを
考慮しないことである。
もちろん、我々がプロパガンディストは既存の要素を用いなければならないということ
と、プロパガンディストが直接に或いは明確なかたちでそれらを用いなければならないと
いうことは同じではない。プロパガンディストがしばしば間接的なあいまいな方法でプロ
パガンダを行わなければならないことを我々は既に示唆してきた。プロパガンディストが
それを行うとき、彼は確かに新しい何かを作ることができる。既に存在するものの上に自
分自身を立脚させたいというプロパガンディストの必要性は、彼に多くのことを許さない
制約条件でもある。もしある意見に関わるとして、彼は不明瞭にそれを繰り返さなければ
34
ならないのだろうか。彼はある固定観念にリップサービスを行わなければならないので、
その固定観念を再度作り出すこと以外してはならないのだろうか。明らかにそうではない
。既存のものは原材料であり、プロパガンディストはそこから明確に新しいものを作るこ
とができ、原材料はあらゆる可能性のなかで自発的に存在に至ったわけではない。例えば
、失業に脅かされ、搾取され、わずかな賃金や状況を改善する望みを失った不幸な労働者
を考えてみよう。カール・マルクスはそうした労働者が反乱という自発的な反応を起こす
かもしれず、断続的な爆発が起きるかもしれず、しかしそれは何も改善せず、どこへも導
かないことを明確に述べている。しかし、こうした同じ状況や既存の感情はある階級意識
や継続的で阻止的な革命的潮流を作り出すためにプロパガンダによって利用されるかもし
れない。
同様に、もし我々が必ずしも同じ人種や言語、歴史でなく、しかし同じ地域に住み同じ
支配に抑圧され、掌握された力に同じ怒りや憎しみを感じ(純粋に個人的な位相において
見られる感情)、敵国政府に掌握されている人々に対するとき、暴力的な個人の行動はほ
とんど自発的には起こらず、多くの場合全く起こらない。しかしプロパガンダは“そこか
ら感情を取り出し”て、民族主義を煽ることができる。民族主義の基礎は完全に自然であ
り、統合される力としての民族主義は完全に組み立てられる。これは、アルジェリアやユ
ーゴスラビア、アフリカの民族主義において明らかである。
このようにしてプロパガンダは創造的であり得る。またプロパガンダは創造の完全な制
御下にある。プロパガンダが人のなかに染み込ませた熱意や偏見は、掌握力を強め、そう
でなければやろうともしないことを人にやらせるために役に立つ。出発点においてプロパ
ガンダは既存のものに制約されるからという理由で、プロパガンダは力がないなどという
ことは正しくない。プロパガンダは背後から攻撃し、ゆっくりと消耗させ、関心の新しい
中心を提供することができる。こうしたことは既に獲得された態度に対する軽視を引き起
こす。プロパガンダははっきりとそれと気づかれることなく、偏見を脇へと逸らすことが
でき、個人が持っている意見と矛盾する行動を引き起こすことができる。
最後に明らかではあるが、プロパガンダは人にとって何が最良なのかということや人類
愛が設定する最高位の目標、最も高尚で大切な感情といったことに関わってはならない。
プロパガンダは人を高めることが目的ではなく、彼に奉仕させることが目的である。それ
ゆえ、プロパガンダは人に何をさせたいか、何か終わりなのかということに関して、まさ
に自らを低い位相に置いて、最も一般的な感情、最も広くみられる観念、全く手垢のつい
ていない思考様式を活用する必要がある。憎しみや空腹、誇りは、愛や公平性よりも、優
れたプロパガンダのて
・
こ
・
となる。
社会における基礎的潮流
プロパガンダは人のなかに既に存在するものに関連づいていなければならないだけでな
く、影響力を与えようという社会の基礎的潮流を表出していなければならない。プロパガ
35
ンダは集団的で社会学的な過程、自然発生的な神話、広がっているイデオロギーと親和性
がなければならない。数ヶ月で変化してしまう政治的潮流や一時的な意見のことを言って
いるのではなく、社会全体が拠りどころとしている基礎的な心理社会学的土台や、敵対す
る側の政治的方向性や階級的忠誠を含め、個人だけでなく社会のすべての個人によって共
有されている集団の前提条件や神話のことを言っているのである。
この基礎的でかつ一般的に受け入れられた構造に抗うようなプロパガンダに、成功の可
能性はない。むしろ、すべての効果的なプロパガンダはこうした基礎的潮流に立脚してお
り、またそれを表出しているのである。適切で集団的な潮流に基づいている場合のみ、プ
ロパガンダは理解され容認される。プロパガンダは物質的な要素や信条、観念、機構を含
む文明の一部であって、それらとは分離することはできない。社会の基礎的な要素に対し
て向こうを張って成功するプロパガンダはない。しかし、プロパガンダの主な任務は、明
確にこうした構造の心理学的な反射である。
この反射は二つの本質的な形式において見ることができそうだ。集団的で社会学的な前
提条件と社会的神話である。前提条件によって我々は、疑われることなく或いは気づかれ
ることなく出来事や物事を判断させるような感情や信条、象徴の集合を考える。この集合
は同じ社会や集団に属するすべての人によって共有される。この集合は、それが一般的な
暗黙の合意に基づいていることによって強化される。人々が持っている意見の相違がどの
ようなものであれ、米国人とロシア人、共産主義とキリスト教徒といったような相違にお
いても、同じ信条を見ることができる。この前提条件は、その集合が環境によって我々に
もたらされ、社会学的潮流に沿って我々を導く点において社会学的である。その集合は我
々を環境との間に調和を保つものである。
四つの集団的で社会学的な前提条件が現代社会には存在しているようだ。これは西洋社
会のみのことを言っているのではなく、アフリカやアジアはまだそうではないものの、現
代的な技術を共有する、共産主義社会を含め国家に組み込まれたすべての社会を言ってい
るのである。ブルジョアやプロレタリアートの一般的な前提は、人々の人生の目的が幸福
であり、人は本性的に良い存在であり、歴史は際限のない進歩を推し進め、あらゆるもの
が問題であるというものである。
もう一つの大きな社会的現実という社会学的反射は神話である。神話は社会の深遠な性
向を表現している。神話なしに、大衆は文明や、その発展や危機の過程に寄り添っている
ことができない。神話は強健な衝動であり、鮮明に彩られ、理性的でなく、人々の信じる
力に満たされたものである。神話は宗教的な要素を含んでいる。我々の社会には、他の神
話が拠るところの二つの大きな基礎的な神話がある。科学と歴史である。これを基礎とし
て労働の神話や幸福の神話(幸福の前提条件とは別物である)、国家の神話、若者の神話、
英雄の神話といった集団的な神話があり、それは人々の基本的な方向性である。
プロパガンダはこうした前提条件の上に成り立たねばならず、こうした神話を表出しな
ければならない。というのは、前提条件や神話がなければ、誰もそのプロパガンダには耳
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を傾けてくれないからだ。だから、プロパガンダを構築するにあたっては、社会と同じ方
向でやっていかなければならない。プロパガンダは社会を補強することだけができる。幸
福を超越する徳を強調し、厳格さや熟慮を持って人類の将来を提示するようなプロパガン
ダに耳を傾ける人などいない。進歩や労働に疑問を呈するプロパガンダは侮蔑と捉えられ
、誰にも接触できない。多くの人々は勤労といったものに関係しているため、重要な物事
は物質的であると考えているため、そのようなプロパガンダはすぐに知識人のイデオロギ
ーとの烙印を押されてしまう。
注目すべきは、さまざまな前提条件や神話の領域がいかに互いに補完し合い、支持し合
い、弁護し合っているかという点である。もしプロパガンダがある点でこの相互依存関係
を攻撃するなら、すべての神話はその攻撃に反応することになる。人々に接触し支配して
いる現在の信条や象徴をプロパガンダは基礎にしなければならない。一方でプロパガンダ
は進歩における信条を包括した一般的な動向を後追いしなければならない。通常の自発的
な動向は多かれ少なかれ予期できるが、仮に人々がそれに気がつかなくても、プロパガン
ダは成功に向けてその動向に沿って動かなければならない。
技術の進歩は継続的なものである。プロパガンダは人々が確信しているこの事実を表出
していなければならない。すべてのプロパガンダは、国家は産業化されより生産力は増し
さらなる進歩に突き進んでいくといった事実に立って機能しなければならない。プロパガ
ンダが時代遅れの生産手段や陳腐化した社会或いは官僚組織を擁護するなら、成功し得な
い。時に広告は古き良き時代を想起させるが、政治的なプロパガンダはそれをしない。む
しろ未来を、魅力的な明日を想起させる。言うまでもなく、こうした未来像は人々を動か
すからである。プロパガンダは現在の潮流に沿って行われ、それに抗うことはできない。
プロパガンダが未来志向であることは、この事実を確認し補強するものである。プロパガ
ンダは愛国心という当たり前の感情を国家主義へとかき立てる。神話や前提条件を反映す
るだけでなく、強固にし形成し、衝撃と行動の力を与えるのである。
この潮流の方向を反対向きにすることは事実上不可能である。ある国において行政上の
集権化が確立しておらず、ある者が集権化に向けてプロパガンダを行っている。現代人は
強固に集権化した国家の強さを信じているからだ。しかし集権化していない場所において
は、プロパガンダは成立し得ない。連邦主義者(国家的集権主義に反対する真の連邦主義者
、いわゆるソ連や欧州連邦といった超国家主義とは違う)のプロパガンダは、国家の神話
と進歩の神話の両方に挑戦するものであるから、決して成功しない。仕事の単位であれ行
政の単位であれ、あらゆる削減は後退とみなされる。
もちろん、我々がプロパガンダになくてはならない前提条件や神話への従属関係を分析
しているが、それはプロパガンダが前提条件や仮定を完全に表出していなくてならないと
いうことではない。プロパガンダは進歩や幸福を常に語る必要はないが(それらは常に有
益な主題となるが)、プロパガンダの全体の概要や基礎において同じ前提条件を認め、そ
の聴衆に広く浸透しているものと同じ神話に従わなければならない。幾つかの暗黙の合意
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がある。例えば、講演者は自分が“人々を信じている”などという必要はない。それは彼
の行動、言葉、態度から明らかであり、他の人も同じ前提条件や神話を共有していると誰
もが無意識に感じているからだ。プロパガンダにおいても同様である。プロパガンダは直
接に無意識の信念を言ったりせずにそれを反映しているので、人は特定のプロパガンダを
聞くことになるからだ。同様に、進歩という神話があるために、直刃かみそりよりも電動
かみそりを売るほうがずっと楽なのだ。
最後に、前提条件や神話のなかで反映される基礎的な潮流に沿って、我々はさらに二つ
の要素を考慮しなければならない。社会やその進歩の物質的な性質、基礎的で社会学的な
潮流は明確にまさにその構造において連関している。プロパガンダは物質的な潮流と同じ
流れで、物質的な進歩と同じ位相で作動しなくてはならない。プロパガンダは経済的、行
政的、政治的、教育的進歩と関連付けて考えなければならず、そうでなければ意味を持た
ない。プロパガンダはまた、地域的、国家的特質を反映しなければならない。従って、フ
ランスにおいては社会化に向けた一般的な傾向は、無視されることも疑問を持たれること
もあり得ない。政治的左派は相当数いて、(右派さえも参加する)左派のイデオロギーの前
では、右派は自身を正当化しなければならない。フランスのあらゆるプロパガンダは、受
け入れられるために数多くのイデオロギーの主要な要素を取り入れてかき立てなければな
らない。
しかし、地域の環境と国家的な社会との間に軋轢が生じる可能性もある。ある集団の傾
向は、より広い社会の傾向と矛盾するかもしれない。そうした場合には、誰も普遍的な規
定を定めることはできない。部分的集団の傾向がその連帯ゆえに勝る時があるし、大衆を
表出しその結果として全員一致を得る広い社会が勝ることもある。どんな場合にもプロパ
ガンダは順当に勝つ傾向を選択しなければならない。プロパガンダは万人に共有される時
代の大きな神話と一致していくものだからだ。米国南部の黒人問題は、この種の軋轢の典
型である。地方の南部の環境は、黒人に敵対的で偏見を好む。総体としての米国社会は人
種主義に敵対的であるにもかかわらずである。それゆえ、根深い偏見や地域の偏見にも関
わらず、この人種主義が克服されるのはほぼ確実である。南部の人は抵抗しているが、例
えば欧州諸国に対して対外的なプロパガンダを行うといった考え方を持っていない。プロ
パガンダはアジア、アフリカ、欧州のほとんどすべての国の国際世論の方向性にしか動く
ことができない。とりわけ、国際世論が反人種主義であるとき、国際世論は進歩の神話に
よって促進されることになる。
このことから、プロパガンダはどこにおいても適用できるといったことはなく、少なく
ともこれまでのところ、アフリカやアジアにおけるプロパガンダは、他の世界のプロパガ
ンダとは本質的に異なっている。我々は“少なくともこれまでのところ”を強調する。こ
れらの国々は欧州の神話によって次第に打ち負かされながら、国家や社会の技術のかたち
を発展させているからだ。しかしさしあたっては、これらの神話は、我々にとってそうで
あるような日常的な真実、肉や血、精神的な主食物、聖なる遺産にはなっていない。まと
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めるが、プロパガンダは社会の基礎的潮流を表出しなければならない。
時間軸
プロパガンダは明示的なかたちで、適時的なものに関連していなければならない。自分
の深い信念と彼を導くプロパガンダの基礎となるものが一致しなければ、人を捕捉できな
いし動かすことはできない。プロパガンダが適時的な行動を求めたときだけ、人は行動に
移ろうとかき立てられる。これらの二つの要素は矛盾せず補完的である。というのは、興
味を引き興奮をかき立てるニュースだけが、社会の深遠な真実の適時的でかつ華々しい側
面を表出するからである。人々は新しい自動車に興奮するだろう。なぜならそれが進歩や
技術に対する人々の深い信念の即時的な証拠だからである。プロパガンダによって利用さ
れるニュースと社会の基礎的潮流の間には、波と海と同じ関係性がある。それを下支えす
る大衆によって、波は存在し得る。大衆なしには波は存在できない。そして人は、波ばか
りを見る。波は人を攻撃し、そそのかし、魅了する存在である。壮大さは広大な海にのみ
あるのだが、人は波を通じて海の壮大さや荘厳さを知る。同様にプロパガンダは、基礎的
潮流との調和によってのみ、人に対して確たる真実や影響力を持つ。しかしプロパガンダ
は最も不安定な即時性との関係によってのみ魅力的な興奮や人を動かす能力を持つ。人が
記憶し、記録し、伝播させるに値するとみなした適時的な出来事は、常に所与の時間と場
所における神話や前提条件の表出と連関した出来事である。
その上、人々は現代的な出来事にのみ敏感である。人々はそうした出来事を気にかけ、
疑問を呈したりする。明確なことであるが、プロパガンダは人が疑問を感じたときだけ成
功する。人々が安定的で、総体的な安全のなかにあってスリッパを履いてくつろいでいる
とき、プロパガンダは影響力を持たない。過去の出来事や形而上学の大きな課題は、我々
の時代の平均的で普通の人々を刺激することはない。人は人生において悲観的なものに対
して敏感ではなく、神が与えたかもしれない課題に苦しめられることはなく、現在の出来
事や、政治的或いは経済的出来事以外からは刺激を受けない。それゆえ、プロパガンダは
現在の出来事とともに出発しなければならない。プロパガンダが歴史的な事実に基礎を置
こうとするなら、プロパガンダは誰にも接触することができない。フランスをイギリスに
敵対させようとしてナポレオンやジャンヌ・ダルクの象徴を引き起こそうとしたときのヴ
ィシー政権の失敗を我々は知っている。フランス人の意識に深く根付いた事実でさえ、プ
ロパガンダの適切な出発点とはならない。そうした事実は歴史の領域にすぐに行ってしま
い、結果として中立性や無関心に至る。1959 年 5 月に行われた調査によると、14-15 歳の
フランスの少年少女の70%はヒトラーやムッソリーニが誰であるか知らず、80%は1945年
の戦勝国リストにロシアがいることを知らず、比較的最近の出来事であるダンジグかミュ
ンヘンかという言葉を知っている子どもは 10%に満たなかった。
我々はまた、人々が出来事になすがままであるということを心に留めておかなければな
らない。陳腐化してしまった出来事は起きていないのと同じことだ。その意味が重要であ
39
ったとしても、もはや興味を持たれないし、人がそれはもう済んだことだと感じているな
ら、彼はもはやそれを気にかけない。加えて、人の注意力や認知力は極めて限られたもの
である。ある出来事はその前の出来事を忘却へと追いやってしまう。そして、人の記憶が
短いため、もう一方に取って代わられた出来事は忘れられてしまう。それはもはや存在せ
ず、だれもそのことに興味を持たない。1957年11月、ボルドー協会は著名な専門家による
原子爆弾のレクチャーを開催した。そのレクチャーは大きな関心を集めた(それはプロパ
ガンダを目的としていなかった)。リーフレットが広く撒布され、学生に周知された。しか
し、来たのはほんの数人に過ぎなかった。なぜだろうか。このレクチャーはスプートニク
の成功とほぼ同時期に開催されたため、人々はこの知らせをほんの少し気にしただけで、
ほとんどの関心はスプートニクに行ってしまった。慢性的な課題は“忘れられる”ことで
ある。
実際、人々は現在のニュースに驚異的なほどに敏感である。その注意はすぐに神話に合
致した壮大な出来事に集中する。同時に、人々は関心を明確にし、残りのことをすべて排
して情熱を一点に定める。その上で、人々は残りのこと(昨日のニュースや一昨日のニュ
ース)といったことに慣れていて、それに適応している。我々はここに、忘却だけでなく
、まったくの関心の喪失といったことをやってのけているのである。
良い例が、1959 年初めのフルシチョフの最後通牒である。ベルリン問題の解決に三ヶ月
という期限を設定したときである。二週間が経過し、いかなる戦争も起きなかった。問題
はそのまま残り、世論はそのことに慣れてしまって関心を失った。そんなこんなでフルシ
チョフの最後通牒が失効する日(1959 年 5 月 27 日)に人々はそのことを思い出して、驚いた
のである。フルシチョフ自身、5 月 27 日には何も声明を出していない。何も得られなかっ
たのではなく、彼は単に皆が自分の最後通牒を“忘れている”ことにかけたのである。こ
のことは、フルシチョフがいかに巧妙なプロパガンディストであるかを示している。人々
が気にしていない出来事に、プロパガンダ・キャンペーンの基礎を置くことは不可能であ
る。1957 年 11 月 30 日、共産主義国家は集結し、幾つかの政治的課題と和平問題に関する
協定に署名した。その内容は本当に驚くべきもので、最善のものが書かれていた。しかし
誰もこの問題を議論しなかった。客観的にその内容は素晴らしかったのだが、進歩派はこ
れによって困ることはなかったし、和平の一団は何も言わなかったその協定のすべての内
容は人々にとって“時代遅れ”であった。それが戦争の脅威を超えるような気になるもの
でない時、人々は時代遅れの話題に興味を示すことはない。
平和に向けたプロパガンダは戦争の脅威があった時のみ、成果を挙げる。この分野にお
いて共産主義者のプロパンダは、幾つかの技術で平和のプロパガンダを仕掛けていながら
戦争の脅威を作るというものがある。スターリンの態度から湧き上がる継続的な戦争の脅
威は、平和のための同士のプロパガンダを有効にし、そのプロパガンダを通じて反共産主
義者を党の周辺へと追いやった。しかし、フルシチョフはスターリンを踏襲したので、
1957 年に戦争の脅威がほとんどなくなってしまったように思われたときに、こうしたプロ
40
パガンダはほとんど影響力を持たなかった。ハンガリーに関するニュースは、世界平和の
一般的な課題以上に西洋社会にとって極めて重要だった。これらのさまざまな要素は、平
和問題について書かれたうまい筋書きが、ある時点において大きな関心を集めることはあ
っても、結局のところ失敗に終わるという説明するものである。今一度繰り返すが、プロ
パガンダは継続的でなければならず、緩められるべきでなく、その主題を出来事の潮流に
合わせて変えていかなければならないのである。
プロパガンダが活用する主題や言葉は、それ自体が人々の無関心という防御を打ち破る
力を持っていなければならない。それらは弾丸のように貫通する。それらは同時に一塊の
イメージを引き起こし、ある種の壮大さというものを有する。時代遅れの言葉を使いまわ
すことや、力によってのみ貫通するような新しい言葉を取り扱うことは意味がない。とい
うのは、適時性は“作戦用語”に爆発的で影響力のある力を与えるからだ。プロパガンダ
の力の一部は、大衆メディアの使用によるが、プロパガンダが力を失っている作戦用語に
基づくなら、その力は霧散してしまう。西欧諸国において、1925 年のボルシェビギという
言葉や1936年のファシストという言葉、1958年の統合という言葉は、すべて強力な作戦用
語であった。その即時性が過ぎ去ると、その衝撃的な価値はなくなった。
プロパガンダが現在のニュースに基礎を置く限り、プロパガンダは思想や熟考の時間を
許さないということになる。ニュースに気を奪われた人々は、出来事の表層にとどまるこ
とになる。人は潮流に沿って運ばれるが、判断し識別する休息の時間が与えられない。彼
は反射を止められない。現在の出来事によって生きる人にとって、彼、彼の条件、彼の社
会に対する認識といったものがないのである。このような人は一連のニュースを結びつけ
ずにある点を詳しく調べることを止めることができない。人は幾つかの事実や出来事を同
時に考える能力や、事実や出来事に直面する、或いは反対するためにそれを統合する能力
を持っていないことを我々は既に述べてきた。ある思想は別の思想を追いやってしまう。
古い事実は新しい事実に追いかけられている。こうした状況の下において思想などない。
そして実際、現代人は現代の課題について考えておらず、感じているだけだ。現代人は現
在の課題に反応はするが責任を取らないし、理解もしない。現代人は一連の事実における
非一貫性を指摘する能力さえほとんど持っていない。人々の忘れるという能力は無限であ
る。このことはプロパガンディストにとって最も重要で有用な点の一つである。プロパガ
ンディストは常に特定の主題や声明、出来事が数週間のうちに忘れられると確信できる。
もっと言えば人は自分の総体を支持する限り、非一貫性に抗う情報の超過に対する自発的
な防御というものがある。最大の防御とは、まさに出来事を忘れることである。そうする
なかで人は自分の連続性を否定する。出来事の表層を生き、今日の出来事が昨日のニュー
スを消し去ることで自分の生活を作り、自分の生活の矛盾を見ることを拒む。自分に連続
的な瞬間である生活を与えることを拒んで、生活を非連続的で断片的なものにするのであ
る。
こうした状況が、“現在の出来事人間”をプロパガンダの手っ取り早い標的にする。確
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かにこうした人は今日的潮流の影響力に対してかなり敏感で見境がなく、あらゆる潮流を
追いかける。彼はその日に起きたことを追いかけていくので不安定である。彼は出来事に
連関していて、それゆえ出来事が与える衝動を拒むことができない。彼は現在の問題に没
頭しているために、プロパガンディストのますながままとなる心理学的な弱さを持つ。出
来事と真実の間で対立は起きず、出来事と彼の間には関係が存在していない。本当の情報
などこうした人が気にするところではない。爆弾から取り外して原子を分裂させることよ
り衝撃的で頭を悩ませる決定的なこととは何であろうか。そしてこうしたものは大惨事や
スポーツイベントの急展開や見事な結果のかげに隠れて進展している。なぜならそれらは
平均的な人々が望む表層的なニュースだからである。プロパガンダはこうした人に近づき
、そうした人を好む。プロパガンダは壮大な出来事の表層にのみ連関する。その表層はそ
れだけで人の興味を引き、人に特定の決定をさせ、特定の態度を取らせることができる。
しかしここに、我々はある重要な条件をつけなければならない。そのニュースの出来事
は客観的に存在するような本当の事実でもよいし、ただの情報の記事でもよいし、仮想の
事実の伝播でもよい。それをニュースにするかしないかは、それを伝播するかどうかにか
かっているのであり、客観的な真実であるかどうかは問題ではない。ベルリンの問題はず
っとこの状態にあり、この理由のために人々の関心は集まらず、ニュースになっていない
。しかし、フルシチョフがこの問題は劇的でかつ戦争の危機であり直ちに解決しなければ
ならないと宣言した時、さらに彼が西側に譲歩を求めた時(ベルリンにおいて客観的に新
しいことはなかったが)、その問題はニュースになった。しかし、フルシチョフがこの危機
に触れることを止めるとすぐに収まってしまった。思い出して欲しいのは、1961 年にこの
問題が起きたとき、それは 4 度目であったということだ。
同じことが 1957 年 11 月に想定されていたトルコ侵攻計画に関するソ連の扇動において
起きた。ル・モンド紙の社説は、この問題について要約するに次のように述べた。“もし
、ここ数日の出来事が我々に教訓を与えてくれるとしたら、我々はソ連の宣言によって作
られている不安を過度に重要視する必要性はないということだ。想定される生物兵器を用
いた戦争やその他の事例は、彼らが全面的な扇動のキャンペーンを行い、他国が最悪の企
てや犯罪をしていると糾弾し、ある晴れた日には不安は消え去ったと宣言し、数日後から
数ヶ月後にはそれを撤回するといったことができることを証明している。”
“事実”の問題は、また改めてプロパガンダの文脈で検討することにしよう。しかし、
ここで我々は、人々が敏感に反応し自分自身の身を置いている現在のニュースは目的や効
果の源泉を持っている必要がないということを強調しておく必要がある。ある意味でこの
ことはプロパガンダの機能を促進する。プロパガンダはニュースの文脈で示唆するため、
一連の“事実”は個人的に憂慮している人々にとっては現実となる。プロパガンダはその
とき、目的に応じて人々の憂慮を利用できる。
プロパガンダと無党派層
42
前述したすべてのことは、政治学者にはお馴染みのある質問を簡潔に検討することで明
確となる。無党派層の問題であり、この人たちは意見が不明確な人々、市民の大多数を形
成する人々であり、プロパガンディストにとって最も実りある人々である。無党派層と無
関心層は異なる。無関心層は非政治的であるか或いは意見がなく、人口の 10%に満たない
程度の数である。無党派層は無関心層とはまったく別物であり、集団の実態に加わるが、
急を要する課題においてどういった意思決定がなされるべきかということについて分から
ない。彼らは人々の意見や態度の操作に影響を受けやすく、プロパガンダの役割は彼らを
管理下に置くことであり、彼らの潜在力を実際の効果へと変質させることである。しかし
それは、無党派層が自分たちの住んでいる集団を心配したときのみ可能である。こうした
ことはいかにして明らかになるのだろうか。無党派層の真の立場とは何であろうか。
一つの重要な要素は集団的生活における統合の個々の度合いである。プロパガンダは多
かれ少なかれ社会的潮流に巻き込まれている人々にのみ働きかける。村の市場で社会と時
々接触するような孤立した山岳民や森林官はプロパガンダに敏感にはなりづらい。そうし
た人にとって、プロパガンダは存在さえもしていない。彼らは自分の活動に厳しい法令が
強いられて生活のやり方が変えられてしまって初めて、或いは経済的な問題がいつものや
り方で彼らの製品を売ることができなくなってしまって初めて、社会的潮流に気がつくの
である。こうした社会との衝突はプロパガンダの扉を開くかもしれないが、山や森の静け
さのなかでその効果はすぐにまたなくなってしまうだろう。
逆に、プロパガンダはその時代の紛争に巻き込まれた人によく効く。社会の“関心の中
心”を共有している人である。もし、私が特定の自動車のよく出来た新聞広告をみたとき
、私が自動車に関心がなければ、それにほとんど興味を示さないだろう。こうした広告は
、私が自動車への熱狂を現代の人々とともにしている限りにおいて、効果を発揮する。前
提となる一般的な関心は、プロパガンダが有効であるためには必要である。プロパガンダ
は個人的な先入観ではなく、人々によって共有されている集団的な関心の中心において有
効である。
宗教のプロパガンダがあまり成功しない理由は、例えば社会の総体がもはや宗教の問題
に関心を持っていないためである。ビザンチウムにおいて、人々は神学をかけて路上で戦
った。この時代、宗教のプロパガンダは意味をなしていたからである。現在、孤立した人
々だけが宗教に関心を持っている。それは個人の意見の一部であり、本当の人々の意見は
この問題にない。一方、技術に関するプロパガンダは間違いない反応を引き起こす。とい
うのはだれもが政治と同じくらい技術に強い関心を持っているのである。集団的な関心の
中心においてのみ、プロパガンダは有効であり得る。
我々はここでは先入観や固定観念を扱わない。それらは既に出来上がった心理である。
我々は関心の中心を考える。そこにおいて心理はまだ必ずしも出来上がっている必要がな
い。例えば、政治は現在の関心の中心であり、12 世紀の関心の中心ではない。左派や右派
といった先入観は後からくるもので、政治に対する関心の集中はこのように真に集団的な
43
ものである一方、先入観はより個人的なものである。(個人的な先入観でなく、集団的に
共有された関心の中心はプロパガンダの活動の最適な場となる。) 先入観と固定観念は個
人的背景の結果であり、その人の教育や職業、周囲の状況などによる。しかし関心の中心
は真に社会全体から作られる。なぜ現代人は技術に憑りつかれているのか。ある人は、今
日的社会の総体を分析することによってのみ、それに答えようとする。こうすることで、
現代人の関心の中心を得ようとする。関心の中心が世界の至るところに発生することに注
意すべきである。例えば、政治的関心の中心は、アジア、イスラム、アフリカの諸国にお
いて拡大している。この関心の説明は当然、同時的なプロパガンダの拡大を必要とする。
同時的なプロパガンダの拡大は、すべての国で同じではないが、同じ基礎的様式で作動し
、どこでも同じ関心の中心に関連づけられ得る。
我々は今、プロパガンダの社会的心理のもう一つの基礎的な特徴を取り上げる。人々が
属する集団の生活が熱烈なものであるほど、プロパガンダは有効で影響力を伴うというこ
とである。帰属意識が弱い、共有している目的が不明瞭、或いはその状況が変化の過程に
ある、摩擦がほとんどない、集団的な関心の中心と結びついていない、こういった集団は
そこに所属する者に対しても、外部の者に対しても有効なプロパガンダを作ることができ
ない。しかし、集団の活力が今述べたようなかたちで表される場においては、その活力は
プロパガンダを有効にし得るのみならず、そこに所属する者を大概のプロパガンダに対し
てますます敏感にすることができる。活動的で活気づいている集団ほど、そこに所属する
者はプロパガンダをよく聞き、よく信じるのである。
しかし、このことは集団によって為される、そこに所属する者に対するプロパガンダに
のみ当てはまる。我々がもう少し踏み込むなら、集団的生活の強度という関連した、やや
より一般的な問題に直面する。精力的な集団は明確に、強い強度の集団的生活を持たない
。逆に、弱い集団は強い集団的生活を持ち得る。強い集団的な生活は、社会が分裂してい
るときでさえ発展することを我々は歴史的に見ることできる。4 世紀頃のローマ帝国やワ
イマール帝国時代のドイツや今日のフランスのようにである。集団的生活が健全であるか
どうかは、あまり問題ではない。プロパガンダの値打ちがあるものは、その源泉が何であ
れその生活の強度である。社会が分離する傾向にある時、この強度は最初にその意味を吟
味することなく、人々にプロパガンダを受容する気にさせる。こうした人々は、こちらへ
あちらへといった方向付けを受容する準備をしていないものの、心理学的な圧力にやすや
すと従うのである。
もっと言えば、こうした集団的生活の強度は自然発生か人工生成かどちらであるかはほ
とんど問題にならない。強度は、1848 年のフランスや中世の都市国家のように、社会的或
いは政治的状況を由来とする戦いや休息、確信の結果であり得る。イタリアのファシスト
やドイツのナチのように集団の操作の結果でもあり得る。こうしたあらゆる場合において
、結果は同じである。強い集団的生活の一員となった人々は、プロパガンダの影響力に従
いがちである。そして、強い集団的生活から距離を置くことができる者はだれでも、その
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強度から逃れる彼の能力のゆえに、一般的にプロパガンダの影響力の外におかれる。
もちろん、この強度は関心の中心と連関している。この強度は方向性のない、形もなく
はっきりとしない風潮である。偶然の爆発などもない。むしろこの強度は、関心の中心を
コンパスの針とするような力である。集団における社会的関係性は、この関心の中心がゆ
えに常に活動的である。例えば 19 世紀、政治への関心はヨーロッパ全域において社会的関
係性を活気づけた。どのような場合も、強度はこうした関心の周りで最も強くなる。例え
ば今日、重要な関心の中心は仕事であり、集団の社会的生活、家族の生活或いは書籍とい
ったものにあまり気にかけない人々は自分の仕事に関わることに積極的に反応する。そし
てその反応は個人的なものではなく、集団への参加の結果である。
このように我々は以下の 3 つの原則を示すことができる。
(1)プロパガンディストは、関心の中心の範囲内でプロパガンダを行わなければなら
ない。
(2)プロパガンディストは、影響力を与えたい人々の集団的生活の強度が最も強い場
においてプロパガンダは最も高い成功の可能性を持つということを理解しなけ
ればならない。
(3)プロパガンディストは、強度が関心の中心の回りを回転する場において、集団
的生活が最も強い強度を持つということを覚えておかなければならない。
これらの原則に基づいて、プロパガンディストは無党派層に接触し、93%の多数派に効
力を発揮できる。こうした無党派層との連関のなかでのみ、あいまいさや多数派の効果、
緊張、欲求不満といったものを真に語ることができる。
プロパガンダと真実
我々はまだ、馴染み深くしかしほとんど場合無視されるある問題に触れていない。プロ
パガンダと真実の関係性、或いはむしろプロパガンダの事実の正確さとの関係性に関する
問題である。我々はこれから、正確さや現実について語ることにするが、ここでは不適切
な言葉である“真実”については語らない。
最も一般的に共有されているプロパガンダの概念は、それが一連のほら話で嘘の塊であ
って、嘘は効果的なプロパガンダに必要であるというものである。ヒトラーはより大きな
嘘がより信じられやすいと述べて、明確にこうした観点を認めた。この考えは人々を二つ
の態度へと導く。一つは、“もちろん我々はプロパガンダの被害者になったりはしない。
なぜなら、我々は真実を虚偽と区別する能力があるから”というものである。こうした確
信を持っている人は極めてプロパガンダの影響を受けやすい。なぜなら、プロパガンダが
“真実”を語った時、彼はそれをもはやプロパガンダではないと確信するからだ。もっと
言えば、その自信は彼を気づかない攻撃に対してより脆弱にしてしまう。
もう一つの態度は、“敵の言うことはいつも真実でないので、我々は敵の言うことは何
も信じない”というものである。しかし、もし敵が真実を語っていることを証明したなら
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、突然の支持の転向が結果として起こる。1945年から1948年にかけての共産主義プロパガ
ンダの成功の多くは、バルカン半島と西側の両方で共産主義が敵として語られる限り、ソ
連がその経済的進展や軍事的強さについて述べることはすべて虚偽であるという見解から
派生した。しかし、1943 年以降のソ連の明らかな軍事的、経済的な強さは、“1937 年にソ
連が言ったことは本当だった。ゆえにソ連はいつも真実を語る”という完全な方向転換に
つながった。
プロパガンダは、(人々の目からみてプロパガンダを危険ではないものに、おかしなも
のにも見えなくする)嘘を含むという考え方は、いまだに専門家の間でも根強いものであ
る。例えばフレデリック・C・アイロンは、プロパガンダの定義においてプロパガンダの
基本的な性質として嘘を挙げている。しかし、プロパガンダの基本的な性質に嘘などはま
ったくない。長い間、プロパガンディストは嘘をつくことは避けなければならないと考え
てきた。“プロパガンダにおいて、真実はうまくいく”。この方程式はますます受け入れ
られつつある。レーニンはそれを明言した。嘘に関するヒトラーの言明の一方で、伝播さ
れる事実は正確でなければならないというゲッベルスの主張もある。どのようにこの矛盾
を説明するのか。プロパガンダにおいて、我々は一方で事実を、もう一方で意図や解釈、
つまり物質的な要素と倫理的な要素の間の根本的な違いを考慮しなければならないという
ことではないだろうか。成功する事実は事実の領域にある。成功する、必要な虚偽は意図
や解釈の領域にある。これはプロパガンダ分析の基本的なルールである。
事実の問題.
誠実さや厳密さは広告において重要な要素である。顧客に広告を信じてもらわなければ
ならない。顧客は何度か騙されると、その結果は明らかに好ましくないものになる。広告
会社が正確であることを本懐とし、虚偽の主張を批判する基準監督所を運営するのはそう
いう訳である。しかし、ここで我々は本質的な要素である経験について触れる。顧客は製
品についてよい経験や悪い経験をしている。しかし、政治的な問題に関しては、個人的な
経験というのは稀であり、見つけることは困難であり、決定的なものではない。このよう
に、確認できる部分的な事実と、それ以外を判別しなければならない。明らかに、プロパ
ガンダは部分的な事実を重んじるものであり、さもなければ自らを破壊することになって
しまう。プロパガンディストは、手の中に人々をしっかりと掴んでおくために、完全に何
でも言うことができ、信じられているということでなければ、プロパガンダは部分的な事
実に対してそう長く持ちこたえることができない。しかし、そうした状況は稀である。
直接的な経験の対象にはなり得ないより大きなより遠隔の事実に関して、正確さがプロ
パガンダにおいて一般的に重んじられているということができる。例えば、ソ連や米国が
発表する統計が正確であることは認めてよい。統計を偽る理由はほとんどない。同様に、
信じがたい事実或いは虚偽の事実を基礎としたプロパガンダ・キャンペーンを立ち上げる
正当な理由はない。後者の良い事例は、生物兵器に関する共産主義者のキャンペーンであ
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る。もちろん、これは幾つかの点から有用であり、真の信者はいまだにそのとき言われた
ことを信じている。しかし、無党派層たちの間では、それは極度の不確実さと矛盾のため
に、むしろ反対の効果を持つ。こうしたキャンペーンは特に欧州諸国において多くの人が
失敗とみなしているものの、北アフリカやインドでは大きな信用を作り出してきた。従っ
て、事実に影響を及ぼす虚偽がまったく役に立たないということも、きっぱりと拒まれる
こともない。それでも、そうした虚偽はますます少なくなっていることを覚えておこう。
この主張に関して三つの要件を定める必要がある。第一の要件は、幾つかの事実は真実
でなく、真実である可能性もあるものの証明が困難であるとの意見に、プロパガンダが実
質的に基づいているということである。フルシチョフはこの手のやり方を得意とした。彼
は自分の発言に真実の響きを与えるために、一部の後継者の嘘を批判した。このようにし
て、彼は 1958 年 12 月の共産党中央委員会総会前に、マレンコフを“常習的な嘘つき者”
と呼び、マレンコフの統計は虚偽であると宣言した。実際にはマレンコフよりフルシチョ
フを信じる理由などなかったが、この一撃は効果があった。まず、フルシチョフが嘘と批
判しているとき、それゆえに彼は真実を語っているはずだと人は思った。第二に、マレン
コフが出している数値の価値を下げることで、フルシチョフは 1952 年以来の生産性がとて
も高いことを示すことができた。もし 1958 年に 92 億ポンドの穀物が作られたことが真実
で 1952 年の 80 億というマレンコフの数字が正確なら、それは 6 年間で 15%の上昇したこ
とを意味する。しかし、もし 1952 年の数字が、フルシチョフが言うように 56 億だったな
ら、それは 75%の上昇であり、勝利を意味する。別の方法で証明がなければ、フルシチョ
フの数字より、マレンコフの数字の方が正確とみなすことがより合理的と思われる。
第二の要件は、事実の発表に関することである。事実がプロパガンダによって用いられ
た時、人はその単調な事実を正確なものとして鵜呑みにすることが求められる。また、ほ
とんどの場合、事実は聴取者や読者が本当に事実だと理解できず、そこから何の結論も導
くことができないようなかたちで発表される。例えば、数値は何の参照もなしに、相関や
割合、比率もなしに提供される。基準年を示さずに生産性が 30%上昇している、どのよう
に計算したのか示さずに生活水準が 15%上昇している、過去の数字を示さずにこうした運
動が大変多くの人に拡大しているなどという。一貫性の欠如とこうしたデータの結合はま
ったく意図的なものである。もちろん、こうしたデータを皮切りに、全体を再構成するこ
とは不可能ではない。多くの忍耐や労力、調査によって、事実に秩序を与え、互いを連関
させることはできる。しかし、それは専門家の仕事であり、プロパガンダの実行が効果を
発揮してからだいぶ経たなければ、その結果は明らかにならない。その上、そうしたデー
タは技術的な調査として出版され、一握りの人しか読まない。それゆえ、未加工の統計に
ある真実の出版は毒にも薬にもならない。事実が知られて危険になるような場合には、現
代的プロパガンディストは嘘をつくことよりも何も言わずにそれを隠すことを選ぶ。ゲッ
ベルスが 1939 年から 1944 年にかけて行った報道指導の 5 分の 1 は、この話題とあの話題
については触れないようにという命令であった。ソ連のプロパガンダは同じ方法でやって
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いる。よく知られた事実が単純に姿を消して、時折だいぶ時間が経ってから発見される。
ソ連共産党の第 20 回大会での有名なフルシチョフの報告はその一例である。フランスやイ
タリアやその他の共産党紙はそれについて数週間何も書かなかった。同様にエジプトの人
々はエジプトの新聞がそれについて何も書かなかった 1960 年 5 月までハンガリーの出来事
を知らなかった。他の例で言えば、1958年12月の共産党中央委員会でのフルシチョフの報
告では、中国人民公社について一切触れなかった。
沈黙は文脈を変えて知られている事実を曲解する一つの方法である。マンデス・フラン
スに対するプロパガンダが格好の事例がある。マンデス・フランスはインドシナを放棄し
た。マンデス・フランスはチュニジアを放棄した。マンデス・フランスはインドのフラン
ス銀行を清算したなどである。それらはまったくの事実であった。しかし、インドシナに
おける過去の政策、チュニジアでの出来事につながるモロッコでの過去の出来事、過去の
政権が署名したインドの銀行との協定について完全に沈黙を保った。
最後に、プロパガンダによる正確な事実の使用について述べる。正確な事実を基礎とし
た助言の機能は、最もうまく機能する。米国人はこの技法を当てこすりと呼ぶ。実際には
、聴取者を抵抗しがたい社会学的潮流へと引き込むかたちで扱う。人々は手際よく整えら
れた真実から明らかな結論を導くよう求められ、ほとんどの多数派は同じ結論に至る。こ
の結果を得るために、プロパガンダは、幾つかの言葉で言うことができ、集団的な意識の
なかにいつまでも残っているような真実に立脚しなければならない。こうした場合、敵は
この潮流に逆らえず、プロパガンダの基礎が嘘なのか、証明が求められる真実なのかはど
ちらでもよくなる。逆に、敵は証明をしなければならず、しかし、それはもはやプロパガ
ンダ受容者が既に示唆から導いてしまった結論を変えることはできない。
意図と解釈.
これは嘘に関する本当の領域である。しかし、それをここでは見つけることが出来ない。
もしある者が事実を偽ったなら、その者は逆に明確な証明に直面するかもしれない。(ア
ルジェリアで拷問が行われたことを否定するのはますます難しくなった) しかし、動機や
意図が関係する場や、事実の解釈が関係する場においては証明は提供されない。事実は、
それがブルジョア経済学者によって解析されるか、ソ連の経済学者によって解お析される
か、自由主義の歴史家によって解析されるのか、キリスト教徒の歴史家によって解析され
るのか、マルクス主義の歴史家によって解析されるのかによって、異なる意味を持つ。プ
ロパガンダによって意図して作られた現象が関係する場合には、その差はさらに大きくな
る。いかにして、人々の怒りを引き起こさずに逆の意見を持ちながら平和を語る人を疑う
ことができるのか。もし同じ人が戦争を始めるなら、彼は常に他人がそれを強いているの
であり、出来事が彼の意図以上に強くそれを証明していると弁明できる。1936 年から 1939
年にかけてヒトラーが、平和やあらゆる問題の平和的解決、会議への彼の願いを何度も演
説したことを我々は忘れている。彼は戦争へのあからさまな希望を表明したことはなかっ
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た。当然ながら、彼は“囲い込み”のために武装を続けていた。そして事実、彼はフラン
スや英国から宣戦布告を引き出すことに成功した。それゆえ、彼は戦争を始めた人ではな
いのである。
プロパガンダはそのまさに本質によって事実の意味を曲解し、偽りの意図を浸透させる
事業である。この事実には二つの顕著な側面がある。まず、プロパガンディストは自分の
意図の純粋さを主張しなければならず、同時に敵を非難しなければならない。しかし、非
難は決してでたらめに或いは根拠がなく行ってはならない。プロパガンディストはただ悪
事を理由に敵を非難せず、自分が持っている意図や自分が行おうとしている犯罪をまさに
行おうとしていると非難する。戦争を引き起こしたい者は、自分の平和的な意図を明確に
語るとともに、他党が戦争を引き起こそうとしていると非難する。強制収容所を用いてい
る者は、隣国がそれを行っていると非難する。独裁を確立しようとする者は、常に敵対者
が独裁を行おうとしていると非難する。他者の意図を攻撃する者は、はっきりと自分の意
図を露呈するのである。しかし、この露呈は事実と織り交ぜられるため、人々には分から
ない。
ここで用いられた機能は、判断を要する事実から道徳的領域や倫理的判断への横滑りで
ある。スエズ危機の時、エジプト人と進歩主義者のプロパガンダにおいて二つの位相の混
同はとりわけ成功した。ナーセルの意図は完全に露見したフランスや英国の狙いの影に隠
された。多くのこうした事例から、知的な人々でさえもうまく行われたプロパガンダによ
ってごまかされた意図を信じてしまう可能性があるという結論を得ることができる。スエ
ズ危機におけるプロパガンダ作戦の見事さは、事実の解釈が同じ様に転置したミュンヘン
会談の成功になぞらえることができる。フランスにおけるアルジェリア民族解放戦線のプ
ロパガンダやフィデル・カストロのプロパガンダにもまさに同様の経過を見ることができ
る。
虚偽の第二の要素は、プロパガンディストが当然ではあるが彼が仕えている主犯者の、
つまり政府や党首、将軍、社長などの真の意図を明らかにするはずがないということであ
る。プロパガンダは本当の事業や計画を決して明らかにせず、政府の秘密を漏らすことは
しない。そのような行為は真の事業や計画を人々の議論や世論の吟味にさらすことであり
、成功を阻む行為である。より深刻なことは、そうした行為が敵を警戒させ、敵の動きに
対する事業の脆弱性を生んでしまうことである。敵は事業を失敗させるためにあらゆる適
切な対策を講じることができるからだ。プロパガンダはそれよりも真の狙いを隠しながら
こうした事業に覆いを被せる役割を担わなければならない。プロパガンダは事実上煙幕で
なければならない。作戦行動は人々の注意が集中する防御的な言葉の遮蔽の影で行われる
。プロパガンダは必然的に、ある者の意図の表明である。それは純粋な表明であり、決し
て実現しない平和や真実、社会的正義などの表明である。もちろん、それは最高水準で正
確すぎるほどであってはならず、短期の改革を約束してはならない。約束したことと実現
したことの比較を招くようなことは危険だからだ。プロパガンダが未来の事実の領域で行
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われるなら、こうした比較は可能だろう。それゆえ、プロパガンダは意図や道徳の領域、
価値、概論に留めておくべきである。もし憤った人たちが矛盾を指摘したとして、それは
多くの人にとって意味をなさない。
価値や真実、善、正義、幸福を語った時点で、或いは事実を解釈し色づけし意味を与え
た時点で、プロパガンダは必然的に虚偽である。プロパガンダが真実であるのは、プロパ
ガンダがありのままの事実を提供する時であり、しかしそれは見せかけを作るためだけに
事実をもって支持する解釈の例としてのみ提供する時だけである。フルシチョフが 1957 年
に、ソ連は消費財の生産において米国に追いつきつつあると大変な主張を行ったとき、彼
は食糧生産性が 10 年以上こうした傾向を見せているという幾つかの統計を引用した。こう
した数値に基づいて、彼は 1958 年にソ連は米国と同程度のバターを生産し(このことは
1959 年においてもまだ真実になっていない)、1960 年に同程度の食肉を生産している(1959
年の時点でまったく程遠い)だろうと結論した。そして彼は、1975 年までそのような水準
には達しないだろうと推定した経済学者をからかって聴衆を笑わせた。このとき彼は、ま
さに解釈という行為のなかで真実に覆いを被せたである。
意図と解釈に関する嘘は、プロパガンダのさまざまな手法の統合を可能にする。事実、
ヒトラーのプロパガンダは嘘や特定の価値を変質させ、特定の現在的概念を修正し、人々
における心理学的ねじれを引き起こすために設計された正確で制度的な道具にした。嘘は
プロパガンダにとって不可欠の道具だったが、それはただ数字や事実の虚偽ということを
言っているのではない。ハーマン・ラウシュニングが示すとおり、それは深層における虚
偽である。スターリン主義者のプロパガンダも同様である。一方、米国人やレーニン主義
者のプロパガンダは真実を志向するが、偽りの主張という普遍的な方法を行う点において
も変わりはない。米国が自由の擁護者として振舞うとき、どこでもいつでもそうであるが
、それは虚偽の説明という体系を用いている。ソ連が真の民主主義の擁護者として振舞う
とき、それもまた虚偽の説明という体系を用いている。しかし、嘘は常に意図的に設計さ
れるわけではない。嘘は信条や誠実さであるかもしれないが、それらは意図に関する嘘に
つながる。なぜなら信条とは単なる理性化であり、その人が見たくない真実を意図的に隠
す覆いでしかないからだ。このように、米国が自由のためのプロパガンダを行う時、米国
は米国こそが自由を擁護していると本当に思い、ソ連が民主主義の擁護者として自分たち
のことを評する時、実際にソ連こそが民主主義の擁護者であると考えるはずである。しか
し、こうした信条は明確に、部分的ではあってもプロパガンダによって偽りの主張に至る
。確かに、資本主義に反対する共産主義者のプロパガンダの成功の一部は、資本主義の主
張に対する効果的な否定によるものである。共産主義者のプロパガンダの偽りの“真実”
は、ブルジョア社会(労働、家族、自由、政治的民主主義という徳)によって強調された価
値観と、その社会の真実(貧困、失業など)との間の矛盾を明らかにすることにある。これ
らの価値観は、自己正当化の主張でしかないため、虚偽である。しかし、共産主義制度は
同種の偽りの主張を行っている。
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プロパガンダは偽りの主張という方法を取り込み、発展させ、押し広げていく。嘘は精
神や判断、価値観、行動の完全な変容を志向する(そして系統的な虚偽のための論及の枠
組みを構成している)。眼鏡のレンズの焦点が合っていない時、それを通して見えるもの
はすべて歪んで見える。これは過去においても常にそうだったのではない。その違いはプ
ロパガンディストによって計算された不正確な表現という意図的な特質にある。我々が米
国やソ連をその信条における誠実さをもって信じる限り、プロパガンダの体系が虚偽の主
張の周辺で組織されるや否や、すべての誠実さは消え去り、すべての活動は自意識過剰と
なり、偽りの価値が本来のものに替わって認識される。嘘は嘘つきに対して本性を現す。
見せかけの誠実さのうちにプロパガンダを行うことはできない。プロパガンダが我々をも
はやそこから逃れられない偽りの系へと閉じ込め硬化させたちょうどその時に、プロパガ
ンダは我々の偽りを明らかにする。
これらの特徴を分析し、我々はいまやプロパガンダの定義を前進させることができる。
決定的な定義でも、独自で排他的なものでもないが、少なくとも部分的なものではある。
プロパガンダは、心理学的操作を通して結合し、ある組織に組み込まれた人々の集団的行
動において、積極的或いは受動的な参加を引き起こそうとする組織化された集団が用いる
一連の手法である。
3.プロパガンダの分類
一般的に信じられてはいることだが、プロパガンダは単一の現象ではなく、その形式を
ひとまとめにすることはできない。プロパガンダの種類は、それを用いる体制によって見
分けることができる。ソ連のプロパガンダと米国のプロパガンダは手法においても心理学
的な技術においても異なる。ヒトラーのプロパガンダは今日の中国のプロパガンダとはま
ったく異なるが、今日的なスターリン主義者のプロパガンダとは似ている。アルジェリア
の民族解放戦線のプロパガンダを、フランスのプロパガンダと比べることはできない。同
じ政権のなかでも、全く異なる概念が共存することはあり得る。ソ連はこうしたものの最
も顕著な例である。レーニンやスターリン、フルシチョフのプロパガンダは技法や主題、
象徴においてそれぞれ異なっている。そのため、我々はプロパガンダの定義の枠組みをあ
まりに狭く設定してしまうと、その現象の一部を理解できなくなる。ソ連のプロパガンダ
をスターリン時代のプロパガンダとしてのみ理解する者は、フルシチョフはプロパガンダ
をやっていないと主張しがちである。しかし、フルシチョフのプロパガンダはスターリン
のプロパガンダと同様か、おそらくそれ以上に広範なものだった。彼はごく限られたなか
でプロパガンダの手法を行った。しかしプロパガンダの政治的、外部的区分は別として、
プロパガンダの内的特徴に基づく違いを定義する必要である。
政治学的プロパガンダと社会学的プロパガンダ
まず、我々は政治学的プロパガンダと社会学的プロパガンダを見分ける必要がある。我
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々はプロパガンダという言葉によってすぐに想起されるのが政治学的プロパガンダである
ため、それほど長い検討は加えないことにしよう。政治学的プロパガンダは政府、政党、
行政、圧力団体によって、人々の行動を変化させるということを主眼に用いられる影響力
の技法である。用いられる手法の選択は、計画的で計算されたものである。設定される目
標は一般的に限定的ではあるものの、はっきり区別されていて明確である。ほとんどの場
合、例えばヒトラーやスターリンのプロパガンダのように、その主題や目的が政治的であ
る。政治学的プロパガンダは、広告とはほぼ明確に区別することができる種類のプロパガ
ンダである。後者は経済的目的であり、前者は政治的目的である。政治学的プロパガンダ
は戦略的でもあり戦術的でもある。前者は一般方針、一連の議論、キャンペーンを打ち立
てることであり、後者はある枠組みのなかで即時的な成果の獲得を目指すものである(目
の前の敵を投降させようとする戦時のパンフレットや拡声器のような)。
しかし、示威行動を行う集団によってどんな社会も人々の最大人数をその社会に統合し
、ある規則に沿って人々の行動を統一し、その生活様式を海外まで拡げ、ついては他の集
団にそれを強要することを志向するといった、より広くかつあいまいに現象を捉えた全面
的なプロパガンダを政治学的プロパガンダは包摂していない。我々はこうした現象を“社
会学的プロパガンダ”と呼ぶ。第一に意識的であれそうでないのであれこうした方法で自
分たちを表現する集団の総体を表すためであり、第二にその影響力が意見や特定の行動の
方向というよりも生活様式の総体を強く志向することを示すためである。
もちろん、社会学的プロパガンダの範囲内では、複数の政治学的プロパガンダを行うこ
とができる。中世のキリスト教のプロパガンダは、社会学的プロパガンダの先例である。
バンジャマン・コンスタンが 1793 年に、フランスについて“国全体が広範なプロパガンダ
活動であった”と述べたのは、まさにこのことを表している。そして現在、間違いなくこ
の完成形が米国や中国のプロパガンダである。我々は政府によって用いられる多かれ少な
かれ効果的なキャンペーンや手法をここには含めず、むしろ全体としての現象を捉えるの
だが、社会学的プロパガンダはそのなかで全く異なる形式を組み合わせていることが分か
る。この位相においては、ある生活様式の拡がりとしての広告はこうしたプロパガンダに
含めることができる。そして米国においてはこうしたプロパガンダは広報、人間関係、人
間工学、映画などにも当てはまる。1960 年のフランスのような社会において人々はそれぞ
れの目的や意図は異なってはいるものの、すべてのこうしたあらゆる影響力が同一点に向
かって収斂していることは、社会学的プロパガンダによって存続している国家の特徴であ
る。
社会学的プロパガンダは政治学的プロパガンダより理解するのがずっと難しい現象であ
り、めったに議論されない。社会学的プロパガンダは基本的に社会的文脈という手段によ
るイデオロギーの浸透である。この現象は我々がこれまで研究してきたものの逆である。
伝統的に知られているようにプロパガンダとは大衆メディアを通じて、人々にある政治的
、経済的構造を受け入れさせるための、或いはある行動に参加させるためのイデオロギー
52
を拡大する試みを意味する。これは我々がここまで検証してきたすべてのプロパガンダに
共通する一つの原理である。イデオロギーは、人々が受け入れることができるさまざまな
政治的行動を作り出す目的で広められる。
しかし、社会学的プロパガンダにおいて、この動きは逆になる。既存の経済的、政治的
、社会学的要素は、イデオロギーを個人や集団に次第に浸透させる。経済的、政治的構造
を媒介して、あるイデオロギーが確立する。こうして人々の積極的な参加や個人の適応が
導かれる。重要なことは、個人を積極的に参加させ、特定の社会学的文脈に可能な限り適
合させることである。
こうしたプロパガンダは本質的に広く行き渡る。標語や表現された意図で伝えられるこ
とはめったにない。それよりも、プロパガンダの様相を持たず、感じさせることもなく人
々に影響を与える一般的な風潮や雰囲気に基礎を置く。習慣やまったく意識していない癖
を通して人に影響を与えるのだ。こうしたプロパガンダは人に新しい習慣を作らせもする
。説得の一種である。結果として人は新しい判断や選択の基準を取り入れる。まるで自分
がそれを選んだかのように自主的に取り入れる。しかし、これらすべての基準は周囲の状
況と調和しており、本質的な集団的特性である。社会学的プロパガンダは、人を知らず知
らずに形成し社会に順応させる特定の物事の秩序や特定の人間関係の概念に対する進歩的
な適応を作り出す。
社会学的プロパガンダは自発的に湧き上がってくる。意図的なプロパガンダ活動の結果
ではない。多くのプロパガンディストは無意識的にそれを実行し、それと気づかずにこの
方向に向かい、いかなるプロパガンディストもこの手法を意図的に用いることはない。例
えば、米国のプロデューサーが映画を作る時、彼は表現したいある明確な概念を持ってい
る。いやむしろ、プロパガンダの要素は、彼のなかに浸透していて、それと気づかずに映
画のなかで彼が表現する米国の生活様式のなかにある。我々はここに活力のある社会の拡
大する力を見ることができる。これは人々が統合されるという意味で全体主義的であり、
それは無意識の行動につながる。
社会学的プロパガンダは多くの異なるかたちで、広告や映画(商業的、また非政治的映
画)、一般的な技術、教育、リーダーズ・ダイジェスト、社会奉仕、ケースワーク(訳注:
被援助者の主体性を重んじる社会福祉の手法)、セツルメント運動(訳注:19 世紀後半から
20 世紀初頭に拡がった社会福祉運動の一つ)といったかたちで表出する。これらすべての
影響力は、互いに基礎的な一致を示し、自発的に同じ方向へと導かれる。これをプロパガ
ンダと呼ぶことを躊躇する者もいる。行動を形成するこうした影響力は、ヒトラーの壮大
なプロパガンダ機構とは大違いである。意図的でない(少なくとも初期においては)、非政
治的で、自発的な様式とリズムに従って我々がひとまとめにする活動は(任意なのか作為
的なのかを判断する概念から)、社会学者或いは平均的な人々によってプロパガンダとみ
なされる。
しかし、より深くより客観的な分析によって何が発見されるのか。これらの影響力は同
53
じメディアを通じてプロパガンダとして表出する。私にとってこの事実は本質的である。
例えば、政府は自分たちの広報活動を行い、またプロパガンダを行う。この章で述べた活
動のほとんどは、同じ目的を持っている。さらにこれらの影響力は、プロパガンダとして
同じ固定観念や偏見に従う。同じ感情をかき立て、同じように個人に作用する。これらの
類似点は、プロパガンダの二つの側面を、前に述べた二つを区分する相違点以上に互いに
近づける。
しかし、もっと言及すべきことがある。こうした活動はある程度、社会の一般的な概念
や生活様式を作り出す広告、広報、社会福祉などを統合するプロパガンダである。我々は
これらの活動を恣意的にまとめたりはしていない。これらの活動は人々にある特定の生活
様式を受け入れされる同一の概念や相互作用を表出する。その時から、こうした社会学的
プロパガンダの手に落ちた人々は、この方法で生きる者は天使の側にあり、そうでない者
は悪であり、この社会の概念を持つ者は正しく、他の概念を持つ者は過ちのなかにあると
信じるようになる。結果として通常のプロパガンダを用いたのと同じように、行動と神話
、善悪の両方を宣伝する。もっと言えば、こうしたプロパガンダは、プロパガンダを受け
た人が何が善であり悪であるか(例えば米国の生活様式)に関する教義を受け入れたとき、
ますます効果的となる。そこでは、社会全体はその生活種別を広告することによって、社
会学的プロパガンダを通じてその社会を表現する。
そうすることで、社会は最も深い位相でプロパガンダに注力する。とりわけ社会学者は、
プロパガンダは人々の環境を変えなければならないと認識している。クレッチとクラッチ
フィールドはこの事実を強調し、単純な心理的文脈の変化が特定の態度や意見を直接攻撃
しなくとも態度の変化を引き起こすことができることを示した。マクドガルは同様に“正
面から趨勢を攻撃することは避けなければならない。心理的条件に集中することが望まし
い。望んだ結果はおのずと得られるはずだ”と述べている。心理的情勢の変化は直接獲得
できないその他の結果をも引き起こす。これをオグレは“被暗示性”と呼ぶ。被暗示性の
程度は人々の環境と心理的情勢による。しかも、これは上記の活動をまさに修正するもの
である。被暗示性は活動をプロパガンダにする。というのは、活動の目的は人々に、従う
べき主たるプロパガンダのための素地を準備する態度を染み込ませるものであるからだ。
社会学的プロパガンダは、穏やかに活動しなければならない。社会学的プロパガンダは
条件づけを行う。社会学的プロパガンダはさまざまな穏当なかたちで真実や倫理をもたら
す。それは断続的ではあるが完全な人格構造を確立することになる。社会学的プロパガン
ダは浸透によってゆっくりと起こり、比較的安定的でかつ活動的な社会において、或いは
拡張する社会と崩壊する社会の間の緊張のなかで(或いは崩壊する社会のなかで拡大する
集団において)最も効果を発揮する。こうした状況において、社会学的プロパガンダは自
己充足的である。単なる予備的な副プロパガンダではない。しかし、社会学的プロパガン
ダは危機の場面においてはそれだけでは不十分である。例外的な状況で人々を行動させる
ことはできない。それゆえ、社会学的プロパガンダは時に行動へと導く古典的な種類のプ
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ロパガンダによって強化される必要がある。
こうした時に社会学的プロパガンダは、直接的プロパガンダの素地を準備する媒介物の
ようにみえる。副プロパガンダと同一視できる。直接的プロパガンダを社会学的プロパガ
ンダが整えた背景と接続することほど簡単なことはない。そのうえ、社会学的プロパガン
ダは直接的プロパガンダに変形し得る。この時、一連の中間的状況を経由して、我々は片
方がもう片方に変わることをみるだけでなく、単なる生活様式の自発的な肯定から真実の
意図的な肯定への円滑な移行を見ることができる。この過程はエドワード・L・バーネイ
ズの著作に記述されている。このいわゆる“工学的アプローチ”は、専門的調査手法の組
み合わせと連関している。調査手法を通じて、概念や計画に気づくとすぐに人々にその概
念や計画を取り入れて積極的に支持させる。このことはまた、政治的な問題についても当
てはまる。1936 年から全国製造業協会はこうした手法を用いて左派傾向の伸張と戦ってき
た。1938年に全国製造業協会は50万ドルを使って、同協会が主張する民主主義のあり方を
支援した。その金額は 1945 年には 300 万ドルに、1946 年には 500 万ドルに達した。このプ
ロパガンダはタフト=ハートリー法(訳注:1947 年に制定された労働組合を監視する米国
の法律)への道を切り開いた。これは米国経済体制を“売りものにする”問題である。こ
こに、我々は真にプロパガンダの領域に到達した。我々は、社会学的プロパガンダと直接
的プロパガンダの強い関係性をみるとともに、意見に影響力を与えるための多数の手法を
みた。
社会学的プロパガンダはまず自発的であり、徐々に意図的になり、最終的には影響力を
行使する。一つの事例は映画協会によって作成された規定であり、その規定は映画に対し
て“最高水準の社会生活のかたち”、“適切な社会の概念”、“適切な生活の水準”を促
進するよう要求し、“(自然や人間の)法をひやかすことや、法を犯すものへの同情”を避
けるよう要求している。別な例は J・アーサー・ランクの映画の目的に関する説明である
。“ある輸出品目が、単なる輸出品目以上になったのはいつだろうか。それは英国で映画
が、つまりイーリング・スタジオの壮大な作品が世界に登場した時であり、それは輸出品
の増加に向けた第一歩以上のものを表出していた。・・・”このとき、こうした映画は英
国の生活様式のプロパガンダになっていたのである。
最初に注視すべき社会学的プロパガンダの文脈における点は至って簡潔であり、すなわ
ちすべてがそれに由来するということである。単純な状態から始まり、徐々に明確なイデ
オロギーとなる。人は自分が間違いなくとても裕福だと思える生活様式のなかにいる時、
それは彼の価値観の基準になる。これは客観的に彼が豊かであることを意味するのではな
い。しかし、実際の状況の価値に関わらず、彼はそう思うのである。彼は“水のなかの魚
”のように環境に完全に適応する。その瞬間から、この特定の生活様式を表出し、補強し
、改善するあらゆるものがよきものとなる。逆にこの特定の生活様式の邪魔をし、批判し
、破壊しようとするすべてのものが悪しきものとなる。
このことにより、人々は彼らの生活様式を表出する文明が最善だと信じるようになる。
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この信条は、最も率先してそう信じるようになったフランス人を米国人と同じ方向へと傾
倒させる。明らかではあるが、ある者は最も先進的な者を真似して追いつこうとする。そ
して、こうした状況はフランス人に同じ判断基準、同じ社会学的構造、同じ自発的イデオ
ロギー、最終的には同じ種類の人間を作り出す。社会学的プロパガンダはまさにこうした
形式のプロパガンダである。社会学的プロパガンダはあらゆる社会的潮流を用いるので比
較的地味である。しかし長期の浸透と進行的な適応を目的とするため、他のプロパガンダ
の形式よりもゆっくりとしている。
しかし、人はこうした生活様式を善悪の基準として用いることで、例えば反米国的なも
のすべてが悪であるといった判断をするようになる。その時から、本物のプロパガンダは
それ自体を、こうした傾向を用いることや確立した秩序への服従やその防御という活動に
制限する。
この米国における社会学的プロパガンダは、米国生活の基本的な要素の自然な結果であ
る。初めに米国はヨーロッパのすべての国から来て、異なる伝統や傾向を持つ共通点のな
い人々を一つにまとめなければならなかった。急速な同化の方法を考えなければならなか
った。それは 19 世紀の終わりにおいて米国の大きな政治的課題だった。解決策は心理的な
標準化であった。つまり、統合の基礎やプロパガンダの道具として生活様式を用いること
だった。加えて、この統合は米国の生活においてもう一つの決定的な役割、つまり経済的
な役割を果たした。この統合は米国市場の拡張を決定づけた。大量商品は大量消費を求め
るが、何が必要なものなのかという広く行き渡った同一の観点なしには大量消費は実現し
得ない。示された提案や示唆に対して市場が急速に大きく反応していくことが確実でなけ
ればならない。それゆえ、基礎的な心理学的な統合が求められ、世論を操作するときには、
この統合のうえで広告はある程度確実なかたちで機能し得る。そして世論が反応するため
に、“米国的”なもののすべてが優れていることを人々が確信していなければならない。
このように生活の一致と思想の一致は不可分に結びついている。
しかし、こうした一致は予期せぬ極端なかたちにつながることがある。経済的な強さや
政治体系のなかで米国の自由主義や米国人としての自信を仮定していては、1948 年以降に
始まり最終的にマッカーシズムに至る“集団的ヒステリーの波”を理解することは難しい
。このヒステリーはおそらくイデオロギーの弱さというあいまいな感覚や、米国社会の基
礎を特定することのある種の不可能性から拡がっていった。そういう訳で米国人は、その
社会の基礎を意識的で明示的で理論的で価値のあるものにしようするために、米国の生活
様式を追い求めるのである。こうしたことはすべて、系統立ったプロパガンダの理想的な
枠組みの一部となる。
我々は、政府レベルなどのさまざまなレベルでこうした系統立ったプロパガンダに直面
する。政治活動委員会、米国医師協会、米国法曹協会、全国中小企業協会、企業・労働・
農業という三大民間利権の擁護を目的とする各組織など多数の圧力団体もある。他に、米
国在郷軍人会、女性有権者同盟などの社会的・政治的改革を目指す組織がある。これらの
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集団は政府に影響力を与えるためのロビーイング、人々に影響を与えるための古典的なプ
ロパガンダの形式を用いる。映画や会合、ラジオを通じて彼らは人々の意識をイデオロギ
ー的な目的へと向けようとする。
もう一つの非常に興味深い最近の現象は(数人の米国人社会学者によって確認されてい
る)、政治家や政治的プロパガンディストともに“扇動者”が出現していることである。
“私信のない”かたちで世論を喚起する純粋な扇動者は国家主義者として機能する。彼は
主義主張を示さず、特定の改革を提示したりもしない。彼は米国人の生活様式の“真の”
提唱者である。彼は通常ニューディールに反対し、レッセフェール自由主義を信奉する。
資産家、国際主義者、社会主義者に反対する。銀行家も共産主義者も“博識なる‘私’は
耐え得るものの忌々しい連中”であることに変わりはない。扇動者は米国の最も組織化さ
れていない集団において特に活発である。扇動者は中流階級の下位層、新しい無産階級、
移民、退役軍人などの不安な精神状態を活用する。米国の社会にまだ統合されていない人
々、或いは受け売りの習慣や概念を受け入れていない人々である。扇動者は反ユダヤ、反
共産主義、反黒人、外国人嫌いの意見の潮流を引き起こすために米国の生活様式を活用す
る。扇動者は非合理的ながらも一貫したかたちで集団を行動させる。マニ教的なプロパガ
ンダの世界であり、それ以上の言いようもないだろう。この現象に関して最も特筆すべき
ことは、こうした扇動者が政党のために働かないことである。彼らがどういった利害に従
事しているのかははっきりしていない。彼らは資本主義でも共産主義でもないが、彼らの
影響力は予期しないかたちで突如として発揮される。
こうしたプロパガンダがより意識的になるほど、国外への意思表明、例えばヨーロッパ
などの海外に影響力を拡げる傾向は高まる。こうしたプロパガンダはしばしば社会学的プ
ロパガンダの性質を持ち、それゆえにありのままの単純なプロパガンダとしては現れない
。例えば、復興国への真の支援という触れ込みだったマーシャル・プランだが、米国が恵
まれない国々に支援していることを吹聴するとともに、米国の製品や映画が拡がったよう
にプロパガンダの要素を持っていたことは疑いようがない。直接的プロパガンダのこうし
た二つの側面はまったく社会学的である。しかし、それらは特定のプロパガンダによって
実現されるかもしれない。1948 年に 1,500 万ドルの助成がヨーロッパに所在のある米国出
版物に流れ込んだ。
ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙のフランス版は、米国のプロパガンダを行う
ためにマーシャルの名のもとにかなりの金額を受け取ったと述べている。フランス・アメ
リークのようなプロパガンダを専門とする批評や、ヨーロッパにある米国が支援する映画
センターや図書館に加えて、ヨーロッパにおいて一号あたり数百万の人に届く部数を持っ
ていて、あまりの成功ゆえにもはや助成の必要がないリーダーズ・ダイジェストも含める
べきである。
しかしながら、こうした米国のプロパガンダの成功はかなりむらがある。技術的な刊行
物は確たる受け手を持つものの、米国人はこうした刊行物で自らを表現し外国人を不機嫌
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にする“優勢コンプレックス”を持っているため、公報やパンフレットはほとんど効果が
ない。救済の 1 つの方法として米国の生活様式を提案することは、フランスの世論を苛立
たせ、フランスにおいてこうしたプロパガンダを全く意味のないものにしてしまう。同時
に、フランスの世論は米国の技術手法の明らかな優勢によって惹きつけられている。
あらゆる社会学的プロパガンダの形式は、明確に広く行き渡っており、概念や偏見、教
義よりも生活様式の普及を、行動の誘発や正式な忠義の要請をより強く志向している。こ
うしたプロパガンダは、行動が起きるであろう場所で正確な標的が攻撃されるまで、深層
への貫通を表出する。例えば、米国局やプロパガンダ局があるすべてのフランスの省庁に
おいて、共産主義有権者が 1951 年から 1953 年の間に減少したことは注視すべきである。
扇動のプロパガンダと統合のプロパガンダ
プロパガンダの一般的な現象のなかで 2 番目に大きな違いは、扇動のプロパガンダと統
合のプロパガンダの違いである。ここに我々は自分自身に問うべき課題をみる。その手法
、主題、性質、人々、目的が大きく異なるなら、同じ現象の二つの側面というよりも二つ
の異なるものを扱うということになるのだろうか。
この違いは“扇動”と“プロパガンダ”の間のよく知られたレーニンの区別が部分的に
は符合する。しかしここではこれらの言葉の意味が逆である。それはまた、(敵に関する)
破壊のプロパガンダと、(同じ敵との)協力のプロパガンダの間の違いと幾分似ている。
扇動のプロパガンダは最も目に見えるかたちで広く行き渡っているものであり、一般的
に万人の関心を惹きつけるものである。それは多くの場合破壊的であり、抵抗の刻印を持
っている。政府を破壊したり、秩序を築こうとする政党によってそれは行われる。それは
反乱や戦争を志向する。それは常に歴史の過程に位置している。すべての革命的動向、す
べての大衆的戦争はこうした扇動のプロパガンダによって拡大する。コミューン、十字軍
、1793 年のフランスの動乱がそうであったようにスパルタカスはこうしたプロパガンダに
頼ったのである。しかし、扇動のプロパガンダはレーニンによってその高みに至り、それ
は多くの場合野党のプロパガンダであるものの、政府によってなされることもあり得るこ
とを我々に気づかせてくれる。例えば、政府が国全体を戦争へと動かしていく活力を発揮
したい時、扇動のプロパガンダが用いられる。破壊が敵をめがけたものである時、敵の力
は物理的手段とともに心理学的手段によって破壊しなければならず、自国民の活気によっ
て打ち負かさなければならない。
政府もまたこの扇動のプロパガンダを用いる。権力の座に就いた後、革命的な行動の道
筋を求める。レーニンはソ連を設立し、アジ宣伝を組織し、抵抗勢力を征服し、クラーク(
訳注:農家)を押しつぶすためロシアにおいて長期の扇動キャンペーンを展開した。こうし
た場合、破壊はある人々やある階級の抵抗に向けられ、内なる敵が攻撃対象となる。同様
に、ヒトラーのプロパガンダのほとんどは扇動のプロパガンダだった。ヒトラーはただ継
続的な扇動、過度の興奮、最大限に活力を引き出すことによって、社会的・経済的変質を
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達成することができた。ナチズムは継続的な熱狂の波によって大きくなり、その革命的目
的は達成された。最後に、中国共産党における大規模なキャンペーンはまさに扇動のプロ
パガンダであった。こうしたプロパガンダによって“大躍進政策”は作り出すことができ
た。人民公社の制度は、人々による物理的な行動を同時に浴びせる扇動のプロパガンダと
、“大躍進政策”の障害となる習慣や風習、信条を破壊することによる人々の行動の変化
によって受け入れられた。これは国内プロパガンダだった。敵は人々のなかから発見され
ると述べた点において毛は完全に正しい。扇動のプロパガンダは人々それぞれの内的要素
に接近するが、緊張し過度に興奮した行動への物理的な関与によって常に真実に翻訳され
る。この行動に個人を参加させることによって、プロパガンディストは内的抑制、習慣・
信条・判断の心理学的障壁を解放する。
ソ連におけるピアチレトカ(訳注:5 か年計画)キャンペーンもまた扇動のプロパガンダに
分類しなければならない。中国のキャンペーンのように、その目的は最大の労働力を獲得
するために最大まで活力を伸長することだった。扇動のプロパガンダは束の間ではあるが
生産性に寄与し、政府によってなされた扇動のプロパガンダの主要な事例はこうした種類
のものである。しかし、扇動プロパガンダは、多くの場合通常の言葉の意味において革命
的プロパガンダである。ストライキや暴動を引き起こす西洋における共産主義プロパガン
ダはこうした種類のものである。権力を得る前のフェデル・カストロやホーチミンのプロ
パガンダやアルジェリア民族解放戦線のプロパガンダは近年における最も典型的な事例で
ある。
すべての場合において、扇動のプロパガンダは最大限活力を伸長し、実質的な犠牲を獲
得し、人々に厳しい負担を背負わせようとする。日常生活や通常の枠組みの外へと人々を
連れ出し、熱狂と冒険に没頭させる。今まで思いもしなかった可能性が目の前に広がり、
それでも完全に手が届きそうな途方もない目的が提示される。扇動のプロパガンダはこう
して爆発的な運動を解き放つ。それは危機の内側で起き、実際危機そのものをも引き起こ
す。一方、こうしたプロパガンダは比較的短期間の効果しか得ることができない。もし、
提示された目的が十分早くに達成されないなら、熱狂は失望と絶望の道を辿ることになる
。それゆえ、扇動プロパガンダの専門家は、次々と達成される一連の段階に目的を分解す
る。結果を得る圧力の期間、それから弛緩と休息の時期、これがヒトラーやレーニン、毛
が行った方法である。人々や政党は最高水準の犠牲や確信、貢献をそれほど長くは保ち続
けることができない。人々を熱狂や不安の状態で永続的に生活させることはできない。あ
る程度の戦闘の後には、人は休息やいつもの慣れ親しんだ世界を必要とする。
この破壊的な扇動のプロパガンダは明らかに極めて一時的なものである。その爆発的で
革命的な性質ゆえに注意を集める。行うに易しく、成功するためには最も基本的な手段を
通じて、最も単純で暴力的な感情に訴えかければよい。憎しみは一般的に最も実りの多い
資源となる。特定の敵への憎しみに基づいた革命的な運動は極めて簡単である。憎しみは
おそらく、最も自発的で一般的な感情である。自分たちの不幸や罪を“他者”のせいにす
59
る感情である。憎しみの感情はブルジョア層であれ、共産主義者であれ、ユダヤ人であれ
、植民地主義者であれ、サボタージュする人であれ違いはない。人があまり強くないとす
れば、誰かをあらゆる不幸の源泉とすることで、扇動のプロパガンダは常に成功するので
ある。
もちろん、この方法で立ち上げた運動から基礎的な結論を得ることができない。例えば
、アルジェリア人や黒人の反白人感情を深刻に受け取り、これらが重要な感情を表してい
ると信じている知識人に会うことはめったにない。白人をすべての病理の源泉と分類する
ことは(白人は侵略者であり搾取者であり、それは本当のことだと)極めて単純な作業だ。
しかし、白人はすべての悪魔の源泉ではないし、黒人が自然と白人を嫌うことがないこと
も明らかである。しかし、一度引き起こされた憎しみは、さらに憎しみを増殖していく。
あらゆる扇動のプロパガンダにみられるこの普遍的な感情とともに(政府によって引き
起こされた場合や中国人民公社の運動のなかでさえ)、第二の動機は多かれ少なかれ環境
に適応する。確実な手段は抑圧され、征服され、侵略され、植民地化された人々の間で自
由を求めることである。例えばキューバ人やアルジェリア人にとって自由を呼び起こす声
はおそらく共感と支持を得る。同じことが貧しい人とのパンの約束、強奪された人との土
地の約束、宗教的な人々の間で真実を求めることにも当てはまる。
総体として、これらは精製する必要がない単純で基礎的な感情への訴えかけであり、そ
のことにより、プロパガンディストは最大の嘘や最悪なまやかしと引き換えに容認を得る
ことができる。即座に反応し、暴力的な反応を引き起こし、すべての犠牲を正当化するよ
うな熱情を引き起こす感情である。こうした感情はすべての人の基本的な欲求に対応する
ものである。食べたいという欲求、自分自身の主人でありたいという欲求、人を恨みたい
と思う欲求である。こうした感情の解放が容易だとすると、用いられる物質的で心理学的
な手段は単純なものでよい。パンフレット、演説、ポスター、流言などである。扇動のプ
ロパガンダを行うために、自由に扱うことができる大衆メディアを有する必要はない。と
いうのは、こうしたプロパガンダは自己増殖的であり、捕えられた人々は次々とプロパガ
ンディストになっていく。扇動のプロパガンダは大規模な技術的な装置は必要でないので
、破壊的プロパガンダとして極めて有用である。確率や正確さを気にする必要がない。ど
んな声明であれ、どれほど馬鹿げたものであれ、どんな“誇示的言辞”も、憎しみの熱情
的な潮流に入ればすぐに信じられるようになる。1960 年 7 月、特徴的な事例が起きた。パ
トリス・ルムンバが、ムバンサ・ヌグングのキャンプでベルギー人がコンゴ人兵士の反乱
を引き起こしたと主張したことである。
最後に、扇動のプロパガンダは接触する人がより教育を受けていない、知識を持ってい
ない人々であるほど、行うのは簡単である。そういうわけで、いわゆる低階級(プロレタ
リアート)やアフリカの人々に特に適している。そこでは、扇動のプロパガンダは魔法の
意味を持つ幾つかのキーワードに基礎を置くことができる。聞き手は実際の中身を考えて
完全に理解できないにもかかわらず、疑問もなく信じる。植民地化された人々においては
60
、この言葉の一つは、独立である。効果的な破壊という観点で極めて有益な言葉だ。国家
の独立が国民の自由と同じではないと、黒人は一般的に西洋式の政治的独立の下で生活す
ることができるところまで達していないと、これらの国々の経済は単に主人の変更が可能
なだけにすぎないと、人々に説明することは無駄である。しかし、どんな説明も言葉の魔
法には勝てない。だから、こうした手短な訴えによって最も革命的な動乱の中へと放り出
されがちなのは、最も知識が少ない人々なのである。
こうした扇動のプロパガンダと対照をなすのが統合のプロパガンダである。先進諸国の
プロパガンダであり、我々の文明の特質である。事実、20 世紀まで統合のプロパガンダは
存在していなかった。これは一致のプロパガンダであり事実に関連しており、より早くか
ら分析されていて、西洋社会においてはもはや瞬間的な政治的行動(投票のような)の獲得
を十分とするものではない。社会の真実や行動様式への全面的な支持を求めるものである
。より完全に社会が統合されるほど、より力や効果が高まる。成員は完全に適応し統合さ
れたただの一組織であり、社会の機能的な断片である。人は集団の固定観念や信条、反応
を共有しなければならない。人は集団の経済的、倫理的、美的、政治的行いに積極的に参
加しなければならない。あらゆる行動や感情はこの集団性に基づいている。そして、人は
しばしば思い出したかのように、集団の一員として、この集団性を通じてのみ自己を実現
する。統合のプロパガンダはこのようにあらゆるかたちで人を社会へと参加させようとす
る。揺るぎない行動を獲得し、人を日々の生活に適応させ、思想や行動を恒常的な社会調
整という観点で再形成しようという長期の自己再創出的プロパガンダである。多くの場合
、こうしたプロパガンダは既存の状況を合理的に捉え、社会の成員の無意識的行動を目に
見え耳に聴こえ正当化された意識的に求められた活動に変えることにとどめられる。パー
リンとローゼンバーグはこれを“目に見えない結果の作為”と呼んでいる。こうした場合
、聴取者や市民が一般的に、結果として起こる社会政治的発展の恩恵を受ける人であるこ
とを証明する必要がある。
統合のプロパガンダは社会を安定させ、統合し補強することを目指す。適切に言うなら
ばこれは政治学的プロパガンダとは排他的で異なるものではあるが、統合のプロパガンダ
は政府によって好まれる手段である。1930 年以降のソ連のプロパガンダ、戦後の人民共和
国のプロパガンダは統合のプロパガンダであった。しかし、こうした種類のプロパガンダ
は、政府のプロパガンダよりも組織の集団によって行われる。同じ方向に進み、多かれ少
なかれ自発的に、多かれ少なかれ国家によって計画されたものである。こうしたプロパガ
ンダの活用の最も重要な事例は米国である。明らかではあるが、統合のプロパガンダは扇
動プロパガンダよりもはるかに巧妙で複雑である。一時的な興奮を求めず、人の深層にお
ける総合的な形成を志向する。ここではあらゆる心理学的分析や意見分析が大衆メディア
と同様に、活用されなければならない。我々がこの研究で議論するのは主にこの統合プロ
パガンダについてである。というのは、破壊的プロパガンダには成功や壮大な特質があり
つつも、統合プロパガンダが我々の時代において最も重要であるからだ。
61
統合のプロパガンダの最後の側面について簡単に述べさせていただこう。このプロパガ
ンダは、接触する環境がより快適で洗練されていて知的であるほど、うまく機能する。知
識人は農民より、統合のプロパガンダに敏感である。事実、知識人は社会における政治的
敵対者である時でさえ、社会の固定観念は共有している。最近の事例を取り上げてみよう
。アルジェリアでの戦争に反対するフランスの知識人は統合プロパガンダに敵対的であっ
たようだ。にも関わらず、彼らは技術、国家、進歩といったフランス社会のあらゆる固定
観念や神話を共有していた。彼らのあらゆる行動はこうした神話に基づいていた。彼らは
統合プロパガンダにまったくうってつけだった。というのは、彼らは既に統合プロパガン
ダの要求に適応していたからだ。彼らの一時的な反対はまったく重要ではなかった。ただ
、旗の色を替えただけのことであり、最も従順な集団のなかで彼らは敵対しているだけだ
った。
重要な問題が一つ残っている。革命的な動乱が立ち上げられた時、我々がこれまで述べ
たような扇動プロパガンダが行われる。しかし、革命的党派が権力を握るや否や、彼らは
即座に統合のプロパガンダを作動し始める(言及した例外を除いて)。これがその権力を保
ち、状況を安定化する方法である。しかし、ある種のプロパガンダから別の種類のプロパ
ガンダへ移行することは、極めて慎重な施行を必要とし、難しい。何年もかけて大衆を興
奮させ、冒険へと駆り立て、希望や憎しみを高め、行動の扉を開き、すべての行動は正当
であると確信させた後に、彼らを秩序のなかに再度組み込んで、通常の政治や経済の枠組
みへと統合することは難しい。特に暴力や鉄拳の制裁を加える性質といった解き放たれた
ものを容易く制御できるはずがなく、これらはゆっくりとしか消え去らない。これこそが
、革命によって得られた結果が通常不安定になる理由である。ただ権力を握るだけでは不
十分なのである。人々は扇動プロパガンダによって拡大した憎しみを目一杯発散させ、す
ぐに約束のパンと土地を手に入れたい。さもなければ、権力の獲得に尽力した軍隊はすぐ
に反対側に回り、破壊のプロパガンダの影響下でしていたように活動を続ける。この時、
新たに確立した政府はこうした困難を消し去り、戦闘の継続を回避するべくプロパガンダ
を用いなければならない。しかし、これは人々を“新しい秩序”に組み込むために設計さ
れたプロパガンダでなければならない。敵対者を国家の協同者に変容させ、約束の履行の
遅れを認めさせるためのものであり、言い換えれば、それは統合のプロパガンダでなけれ
ばならない。
一般的に、憎しみという要素だけはすぐに満たすことができる。その他のものは変換さ
れなければならない。明らからにこのプロパガンダの転換は困難である。扇動のプロパガ
ンダの技術や手法は使えるはずがなく、同じ感情を喚起することはできない。統合のプロ
パガンダには全く異なる質が求められるため、さまざまなプロパガンディストを登用する
必要がある。最大の困難は、扇動のプロパガンダが急速で壮大な効果を創出する一方、統
合プロパガンダはゆっくりと徐々に気づかれることなく作用することである。大衆が扇動
プロパガンダを受けた後、大衆によって一掃されることなく統合プロパガンダによって喚
62
起された衝動を無効にすることは慎重な扱いを要する問題である。幾つかの場合では、大
衆の制御を取り戻すことは不可能である。ベルギーのコンゴは良い事例である。ルムンバ
のプロパガンダによって 1959 年以降ひどく興奮した黒人はまず同士の戦闘によってその興
奮を発散させた。その次に、黒人政権が誕生するとすぐに、彼らは粗暴に走り、彼らを制
御することは不可能だった。それはルムンバのベルギー人に対する抑制のないプロパガン
ダの直接的な結果であった。唯一独裁だけがこうした状況を救うことができるようだ。
別の良い事例がソービによって与えられている。戦時下、ロンドンやアルジェ(訳注:ア
ルジェリアの首都)からの放送はフランス人を食糧不足の点で煽り、接収により人為的に
創出された不足だとドイツ人を糾弾した(これは真実ではなかった)。解放後、政府はこの
プロパガンダの効果を克服することができなかった。充足がすぐに取り戻されると期待さ
れていた。インフレを制御し理性を保つことができなかった。統合はその前の扇動ゆえに
失敗した。
幾つかの場合において扇動プロパガンダは部分的な失敗に至る。時に、問題や不幸は大
変な長期におよび、その間秩序を取り戻すことは不可能であり、10 年以上の統合プロパガ
ンダの後でのみ再び状況を制御できる。よく当てはまる事例は明確にソ連である。1920 年
以前、レーニンが考えたように統合プロパガンダが用いられたが、それは革命的精神状態
にごくゆっくりとしか浸透しなかった。1929 年以降、扇動プロパンガンダの効果はついに
消え去った。クロンシュタットの反乱は、強烈な見せしめだった。
他の事例において、政府は群集に追従しなければならず、群集というものは一度出発し
たなら後戻りができない。政府は次第に扇動プロパガンダで喚起された欲望を満たすこと
を余儀なくされる。これは部分的にヒトラーの場合が当てはまる。権力を掌握した後、彼
は扇動プロパガンダによって引き続き人々を制御した。彼はこうして戦争への道に関して
常に新しい何かを持っていなければならなかった。再武装、ラインラント、スペイン、オ
ーストリア、チェコスロバキアなどである。プロパガンダが 1937 年から 1939 年にかけて、
ドイツの人々を戦争へ押しやったように、S.A.(突撃隊)や S.S.(親衛隊)へのプロパガンダ
は扇動プロパガンダだった。同じ時期に、人々は総体として同化のプロパガンガに従って
いた。こうしてヒトラーは二種類のプロパガンダを同時に用いた。同様にソ連においては
、帝国主義者やサボタージュする人々に対する扇動プロパガンダや、計画を完遂するため
の扇動プロパガンダが、政治的教育、若年層の動向を通じた(さまざまな議論やメディア
を用いた)体制への統合というプロパガンダによって同時に行われた。これはまさに今日
のキューバのカストロの状況である。彼は統合ができず、扇動プロパガンダを求めること
だけができる。彼は必然的に独裁へと、おそらく戦争へと進むことになるだろう。
しかし、完璧にプロパガンダの移行をやってのけ、急速に指導力は発揮する統合プロパ
ガンダを行っている政権もある。こうした事例が北ベトナムと中国である。その成功は革
命の時点から持っていた特筆すべきプロパガンダの構想のゆえである。事実、1927 年以降
、毛のプロパガンダは破壊的だった。反乱を喚起するために最も基礎的な感情に訴え、戦
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闘を導き、人々をてなづけ、スローガンに依存した。しかし同時に、人々は軍隊に押し寄
せるや否や、毛が政治的教育と呼ぶ統合プロパガンダに従うこととなった。まわりくどい
説明だが、なぜ彼が特有の行動をとる必要があるのかが分かる。偏っているが尤もらしい
客観的なニュース体系はこうしてプロパガンダの一部として用いられる。行動は厳しく統
制され、訓練される。厳格に訓練され、組織され、統制された軍隊へと革命的反抗を統合
することは、知性と道徳的教化を結ぶことであり、勝利後の統合プロパガンダによって義
務へと組み込まれることを人々に準備させ、抵抗や無秩序な逸脱なしに新しい社会へと取
り入れられることを準備させる。この我慢強くかつ極めて慎重な人々全体を形成する作業
、毛がいうところのこの“型にはめる”ことこそがまさに彼の大きな功績である。もちろ
ん、彼は人々が既にうまく集団に統合された状況から始め、ある完璧な枠組みを他のもの
の代わりに用いた。また、彼は(西洋の言葉の意味で)ほぼまったく教育を受けていない人
々の精神を変えることだけが必要だった。だから彼らは毛がいかに教え込むべきかを知っ
ていた象徴、固定観念、スローガン、解釈を通じてすべてを学び理解したのだある。こう
した状況下で統合は容易く、逆行は起こり得ない。
最後にこの二種類のプロパガンダの違いは、部分的ではあるものの 1955 年以来のアルジ
ェリアにおけるフランスのプロパガンダの敗北を説明できる。一面において、アルジェリ
ア民族解放戦線は破壊と戦闘の感情を喚起するように設計された扇動の活動だった。これ
に対抗してフランス軍はフランスの枠組みやフランスの政権、フランスの政治的概念、教
育、専門教育、イデオロギーへの同化という統合のプロパガンダを行った。しかし、速度
、難易度、効果の点で二つの間には大きな違いがあり、そのことがなぜアルジェリア民族
解放戦線がこのプロパガンダの競争においてほとんどの局面で勝利したのかを説明してく
れる。アルジェリア民族解放戦線がアルジェリア人の本当の感情を反映していたというこ
とではない。もし誰かが“君は不幸だ、だから立ち上がり主人を殺し、明日には自由にな
るだろう”といい、もう一方が“”我々はあなたを支援し、ともに働き、最終的にあなた
のすべての課題は解決するだろう”といったなら、どちらが忠義を集めるかは疑問の余地
はない。しかしながら、すべてに関してであるが統合プロパガンダは我々がこれまで述べ
てきたように我々の時代にあって抜きん出た極めて重要な事実である。
垂直的および水平的プロパガンダ
人々が通常思うところの伝統的なプロパガンダは、垂直的プロパガンダである。権力の
優位な立場から活動し、下の者たちへの影響力を求める指導者、技術者、政治的で宗教的
な長によってなされるものを意味する。こうしたプロパガンダは上から来るものである。
それは政治的飛び領土の奥まった場所で考えられる。それは中央に集められた大衆メディ
アのあらゆる技術的な手法を用いる。それは群集を取り囲む。しかし、それを実践する者
たちはその外側にいる。上記で引用したラスウェルによる直接的プロパガンダと効果のプ
ロパガンダの差異はいずれも垂直的プロパガンダの形式であるのだが、ここで思い出して
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みよう。
垂直的プロパガンダの一つの特徴は、プロパガンダ受容者が群集の一部にありながらも
、個々を孤立させておくことである。プロパガンダ受容者の熱狂や憎しみの叫びは群衆の
叫びの一部であるが、他者とのコミュニケーションを取らせるものではない。彼の叫びは
指導者への反応に過ぎない。最後に、この種のプロパガンダは、それに従うものに受動的
な態度を要求する。彼らは掌握され、操作され、専心させられる。彼らは経験するよう求
められたことを経験する。彼らは真に対象へと変質している。例えば会合でプロパガンダ
された人々の準睡眠状態を考えてみよう。そこでは人々は非人格化され、彼の意思はもは
や自分のものではなく、指導者によって示唆され、条件反射によって強要されたものとな
っている。我々がこれを受動的態度ということと、プロパガンダ受容者が行動を起こさな
いことは同じではない。それどころか、彼らは精気と熱情をもって行動する。当人はその
活動は自分自身のものであると信じてはいるものの、我々が分析しているように実際には
そうではない。隅から隅までその行動は彼の外側で考えられ、意図されている。プロパガ
ンディストは彼を通して活動し、彼を受動的な装置という状態にまで陥らせる。彼は機械
化し、支配され、それゆえ受動的である。彼はしばしば集団に組み込まれ、そのなかで彼
は自分の個性を失い、他者とのなかで一つの要素となる。群集と切り離されず群集なしで
は考えられなくなるので、なお一層受動的になっていく。
それがヒトラーやスターリンのものであれ、1950 年以降のフランス政府のものであれ、
米国のものであれ、いずれにしても垂直的プロパガンダは相当極限まで拡がっている。垂
直的プロパガンダはある意味で最も早く行うことができ、その直接的な効果は極めて陳腐
化しやすい。常に新しくしていかなければならない。主に扇動プロパガンダに有用である
。
水平的プロパガンダはもっと最近になって発展した。我々は二つの形式を知っている。
中国のプロパガンダと人間関係における集団力学である。前者は政治学的プロパガンダで
ある。後者は社会学的プロパガンダである。両者は統合プロパガンダである。文脈や調査
手法、観点においてまったく異なる源泉をみてみると、それぞれの特質は異なっており、
驚くべきものがある。
集団の内側で作られ(上からでなく)、そこでは原則的に人々は平等であり指導者がいな
いので、このプロパガンダは水平的プロパガンダと呼ばれる。それゆえ、こうしたプロパ
ガンダは常に“意識的な支持”を求める。その文脈は説教的なかたちで提示され、知性に
届けられる。指導者たるプロパガンディストは、そこにあっては単なる応援団であり、議
論を引っ張る人でしかない。彼の存在感やアイデンティティは知られておらず、例えば米
国のある集団における“ゴースト・ライター”、中国の集団における“公安警察”である
。人々の自らの集団への支持は、それに気づき認識しているので“意識的”であるが、確
実に支持へと導く弁証法や集団のわなにかけられているので、それは究極的には非自発的
である。人々の支持はまた、自分の確信を明確に論理的に述べることができるので“知的
65
”ではあるが、集団への支持へと導いている情報や数値、論拠は、そこに導くために意図
的に偽ったものであるため、本物ではない。
ともあれ、水平的プロパガンダの最も顕著な特徴は、小集団である。人々は積極的にこ
の集団の生活や、現実の生き生きとした対話に参加する。中国において、こうした集団は
、互いの成員が話し、自分のことを述べ、自分の意見を言うさまを注意深く観察される。
会話の中でだけ、人々は自分自身の確信(同時に集団の確信でもある)を徐々に見出してい
き、取り止めることができないほどに関わり、他者の意見(同じものである)を形成するこ
とを促進する。個人は集団の意見形成を促し、集団は個人が正しい方向を見出すよう手助
けする。奇跡的にも、結果的に見出されるものは常に正しい方向性であり、予期された解
決策であり、“適切な”確信である。すべての参加者は対等の地位におかれ、会合は親密
であり、議論は非公式的で、司会を務める指導者はいない。進捗はゆっくりとしている。
一般的な経験が共有されるために、多くの会合や昔の出来事を思い出させる出来事がなけ
ればならない。機械的というよりも“自発的な”支持を創出することの方が、上から課せ
られるというよりも自分で“見つけた”解決策を作ることの方が、確かにずっと高度な手
法であり、垂直的プロパガンダの機械的な活動よりもずっと効果的で拘束力がある。人は
機械化される時には容易く操作され得る。しかし、はっきりと選択の自由を持つ場に人を
置いて、予期したものを人から獲得することはずっと緻密で危険を伴う。
垂直的プロパガンダは大衆メディアという大規模な装置を必要とする。水平的プロパガ
ンダは人々の大規模な組織化を必要とする。個人はある集団に、可能であれば同じ行動に
収斂する幾つかの集団に入れられなければならない。この集団は均質的で、専門化され、
小規模である。15 人から 20 人が、成員による積極的な参加を可能にする最適な数である。
その集団は同じ性別、階級、年代、環境の人々で構成されなければならない。その時人々
の間のほとんどの軋轢はなくすことができ、注意を散漫にし、動機を分裂させて適切な方
向性の確立を阻むすべての要素を消し去ることができる。
それゆえ、多数の集団指導者と同様に、多数の集団が求められる(中国に数百万ある)。
それは基本的な問題である。もし、毛の決まり文句、“人は万人に対してプロパガンディ
ストでなければならない”ならば、権力と各集団の間の連絡係がいなければならないこと
が等しく正しいこととなる。こうした連絡係は決して踏み外さずに自ら集団に統合され、
安定的で継続的な影響力を行使しなければならない。彼らは統合された政治的主体の成員
、この場合は中国共産党の成員でなければならない。
この種のプロパガンダは二つの条件を必要する。まず、集団間の接触の欠如である。小
集団の成員はそのなかにあって他の影響力に従う他の集団に所属してはならない。その人
が再び自分を見出す機会や、それによって抵抗の力を持ってしまうからだ。これが、中国
共産党が家族のような伝統的な集団を解体させることを強要する理由である。私的で均質
的な集団(異なる年代、性別、職業を有する)である家族は、こうしたプロパガンダの大き
な障害となる。中国では、家族が変わらず大変強力だった場所では、解体されなければな
66
らなかった。この問題は米国や西洋社会においてはまったく異なる。そこでは社会構造が
十分に流動的で、分解していて何の障害もない。集団を動的で完全に効果的にするために
家族を解体する必要がない。家族は既に崩壊している。家族はもはや個人を包む力がない
。家族はもはや個人が形成される場ではなく、人の根源を有していない。その場は小集団
の影響力に解放されている。
水平的プロパガンダのもう一つの条件は、プロパガンダと教育の同一性である。小集団
は総体的に道義的、知的、心理的、市民的教育(情報、文書、試問)の中心であるが、それ
は基本的には政治的集団であり、それが行うことはすべて政治と結びついている。教育は
、政治との関係がなければ意味を持たない。このことは逆の様相ではあるものの米国の集
団においても同様のことが当てはまる。しかしここでは、政治という用語を広い意味にお
いて用いられなければならない。毛によって与えられた政治的教育は、教理問答のレベル
にあり、小集団において最も効果的である。人々は共産主義社会の一員であることが何た
るかを教え込まされる。言葉の要素(学ぶべき教え、マルクス共産主義の基本的な教義で
ある)は重要だが、プロパガンディストはとりわけ、集団の成員を特定の新しい行動に慣
れさせ、プロパガンディストが作り出したい人間のかたちへの信条を教え込もうとする。
こういう意味において、教育は“知的に”学ぶものと、実際に“実行される”ものとの見
事な調整をもって完成する。
政治的な“指導”は明らかに米国においては成立し得ない。すべての米国人は、既に民
主主義の重要な原則や機構を知っている。しかし、これらの集団は政治的である。彼らの
教育は明らかに民主的であり、つまり人々はいかに行動し、いかに民主主義国家の成員と
して振る舞うべきか教えられている。それは確かに教育なのだが、すべての人に施される
徹底的な教育である。
こうした集団は教育の手段であるものの、こうした教育は社会やその教義、イデオロギ
ー、神話、そして権威によって求められた行動への支持を得ることを目的としたプロパガ
ンダの一つの要素でしかない。小集団はこの積極的な教育のための選ばれた場所である。
水平的プロパガンダを行う政権はこれ以外の指導や教育のやり方や形式を認めない。我々
は既に、こうした小集団の重要性が家族のような他の集団の解体を要請することを知って
いる。今我々は、政治的な小集団のなかで施される教育は学術的教育の喪失、或いは体制
への統合を要求するということを理解しておく必要がある。ウィリアム・H・ホワイトの
組織人間のなかでは米国の学校がますます若者たちを米国社会に適応させる単純な装置に
なりつつある様子をはっきりと示している。中国の学校においてその手法は、子供たちに
読むことを教えながら細かく問いただすプロパガンダの方法だけである。
このように水平的プロパガンダは行うのが大変難しいものの(特に多数の講師を必要と
するために)、すべての人を慎重に囲い込むことを通じて、すべての現今の効果的な参加
を通じて、人々が支持を宣言することを通じて非常に効果的になる。水平的プロパガンダ
は、人々が自分の意思に基づいていると主張し、自らを民主主義的であると称する平等主
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義社会が符合するような体系である。いずれの集団も似たような人間で構成され、誰もが
実質的にそのような集団の意思を述べることができる。しかし、これらはすべて究極的に
、爆発的プロパガンダよりもはるかに説得力があり全体主義的である。この方法のおかげ
で、毛は破壊的プロパガンダから統合プロパガンダへの移行に成功した。
理性的プロパガンダと非理性的プロパガンダ
非理性的性質を持ったプロパガンダはなお一層、うまく確立し広く認識された真実であ
る。プロパガンダと情報を区別することが多い。情報は理性や経験に訴えるものであり、
事実を届ける。プロパガンダは感情や情念に訴えるものであり、非理性的である。もちろ
んこうした分類は、幾らかは真実であるが、現実はそれほど単純ではない。ちょうど理性
的な広告があるように理性的なプロパガンダというようなものもある。自動車や電化製品
の広告は一般的に技術的な記述や証明された性能、つまり広告目的に使われる理性的な要
素に基づいている。同様に事実、統計、経済概念のみに基づいたプロパガンダがある。ソ
連のプロパガンダは、特に 1950 年以降はソ連の否定しがたい科学進歩と経済発展に基づい
ていた。しかし、それはなおもプロパガンダである。というのは、ソ連はその制度の優越
性を理性的に証明し、万人の支持を求めるためにこれらの事実を用いたからだ。
戦時に成功するプロパガンダは直接的に明確な事実に基づいていることがしばしば指摘
される。敵軍が敗北した時、敵兵に降伏を呼びかけることは理性的である。戦闘員の優秀
さが明らかな時、投降を訴えることは理性への訴えかけである。
同様に、1958 年以降のフランスの偉大さを示すプロパガンダは、理性的で事実に基づく
プロパガンダだった。特にフランス映画はフランスの技術的な成功をほとんどすべて集め
たものである。映画フランス領アルジェリアは、経済的な地理と統計を過剰に詰め込んだ
経済的な映画だった。しかし、これもプロパガンダである。こうした理性的なプロパガン
ダはさまざまな体制によって実施されている。中国の毛によって行われている教育は偽り
の理性的証拠に基づいているが、それに注意を払いながらも受け入れた人に対してすら効
果的である。正直への関心と民主主義の確信から出る米国のプロパガンダもまた、理性的
で事実的であろうとする。米国政府のニュース速報は、“知識”と情報に基づく理性的プ
ロパガンダの典型例である。まさに同じプロパガンダの形式に則ったドイツ民主共和国批
評ほど、こうした米国出版物を真似たものはない。我々が進歩するほどプロパガンダはま
すます理性的になり、真面目な議論、知識の普及、事実に基づいた情報、数字、統計にま
すます基づくようになると言うことができる。純粋に情熱に満たされた、感情的なプロパ
ガンダは消え去りつつある。そうしたプロパガンダでさえも事実の要素を含んでいる。ヒ
トラーの最も扇動的な演説は常に、根拠や口実として提示される事実の要素を含んでいた
。現実に関係のない主張のみから成る熱狂したプロパガンダを見ることは最近では稀であ
る。エジプトのプロパガンダにはまだそれを見ることができる。1960 年 7 月にベルギー領
コンゴにおけるルムンバのプロパガンダにおいても現れた。こうしたプロパガンダは今は
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信用されないが、いまだに人を確信させることがあり、そうした場合は常に人を熱狂させ
る。
現代人は事実との関係性やある方向への行動によって、自分が理性に従い、経験を証明
していると自分自身を納得させる自己正当化を必要とする。我々はそれゆえに情報とプロ
パガンダの密接な関係性を研究しなければならない。プロパガンダの内容はますます情報
と似てきている。暴力的で行き過ぎていて衝撃を引き起こすプロパガンダの文章は究極的
に、同じ主題において“知識を与え”理性的な文章ほどには確信と参加につながらないこ
とが明確に証明されている。大量の恐れを感じれば早急な行動が促進される。理性的な少
量の服用は継続的な支持を創出する。聴取者の批判的な力は、プロパガンダのメッセージ
がより理性的で暴力的でないほど、減じることができる。
プロパガンダの内容はそれゆえに、理性的で事実的になる傾向がある。しかし、そのこ
とだけでプロパガンダが理性的であることを示すことができるのだろうか。内容のほかに
も、その内容の受信者、プロパガンダや情報の弾幕を経験する人々がいる。人がテレビや
新しい自動車のエンジンの技術的で事実に基づいた広告を目にした時、また彼が電気技師
や機械工でないなら、彼は何を思うだろうか。彼はトランジスタや新しいホイール・サス
ペンションの種類を評することができるのだろうか。もちろんできない。あらゆるそうし
た技術的な記述や正確な細部の描写は彼の頭のなかで大まかな印象を形成する。むしろあ
いまいで、しかしながら仰々しい印象である。彼がそのエンジンについて語るとき、“こ
れは素晴らしい”と言うだろう。
すべての理性的で論理的で、事実に基づいたプロパガンダはまさに同じことである。米
国の小麦やソ連の鉄の記事を呼んだ後、読者はその数値や統計を思い出すことができるだ
ろうか。彼は経済機構を理解しているだろうか。彼は推論の輪郭を理解したのだろうか。
もし彼が専門的な経済学者でないなら、彼は“米国人(またはロシア人)は素晴らしい・・・
.彼らは方法を知っている・・・。進歩はやはり重要である”などと総体的な印象や一般
的な確信を抱くことだろう。同様にフランス領アルジェリアのような映画を観たところで
、彼はすべての数値や論理的証明を忘れ、アルジェリアにおけるフランスの業績に関する
公正な誇りという感情だけを抱き続ける。こうしたプロパガンダによって影響を受けた人
に残るものは、完全に非理性的な印象である。そしてそれは確かにプロパガンディストが
究極的に求めているものである。というのは、人は事実に基づいて行動しないし、純粋に
理性的な行動を行うわけではないからだ。彼を行動させるものは、感情的な圧力、将来の
在り方、神話である。問題は理性的で事実に基づいた要素から非理性的な反応を作り出す
ことである。そうした反応は事実によって大きなものとなり、そうした熱狂は厳格に論理
的な証明によって引き起こされなければならない。このようにプロパガンダはそれ自体、
正直で厳密で正確なものとなるが、その効果は人々によるあらゆる内容の自発的な変容の
ために非理性的なものにとどまる。
我々はこのことがプロパガンダのみに当てはまるのではなく、情報においても当てはま
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ることを強調する。その道の専門家を除いて、情報は実に適切に提供されたときでさえ、
人々に世界の広範な印象だけを与える。そして情報の多くは今日、研究成果や事実、統計
、説明、分析を伝播し、最大級のプロパガンダ以上に人々の判断や自身の意見を形成する
能力を消滅させる。この主張は衝撃的に思えるかもしれない。しかし、過度のデータが読
者や聴取者を啓発しないことは事実である。それらは人を溺死させる。人はすべてを覚え
ることができず、すべてを調整し、理解することもできない。もし人が発狂する危険を冒
したくないなら、人はそれらからただ概括的な像を描くだろう。より多くの事実が提供さ
れるほど、その像はより単純になる。もし人が情報の一項目だけを与えられたなら、彼は
それは忘れないだろう。彼がある分野やある問題について 100 のデータを与えられたなら
、彼はその問題の概括的な印象だけを抱くだろう。しかし、彼がある国のすべての政治的
、経済的側面に関する情報を 100 項目与えられたなら、彼は“ロシアは素晴らしい”など
といった大まかな判断に至るだろう。
人々に判断や意見の形成を許さないデータの氾濫は、人にそうしたことをさせずに、実
際には彼らを麻痺させる。彼らは事実のくもの巣にかかり、与えられた事実の位相にとど
まる。彼らは他の領域や主題においても選択や判断ができない。こうして現代の情報の機
構は人々にある種の催眠を誘発する。人々は情報によって描かれた範囲から抜け出すこと
ができない。人々の意見は究極的に人々に送られた事実のみに基づいて形成させるのであ
り、人々の個人的な経験に基づかない。情報伝達の技術が発展するほど、人はこうした情
報によって形作られることになる。彼は真実として示されたものに関して自由に選ぶこと
ができると考えるのは正しくない。そして理性的なプロパガンダはこのように非理性的な
プロパガンダを作るので、それはとりわけプロパガンダであり続ける。つまり社会的な力
による人の内的支配であり、それは人からその人らしさを奪うことを意味する。
70
第 2 章 プロパガンダの成立条件
なぜ、そしていかにプロパガンダは存在するのか
我々は既にプロパガンダが今日のものとかつてのものとで異なること、その性質が変容
していることを強調してきた。我々はまた、いかなる場においても、いかなる時でも、い
かなるかたちでも、いかなるプロパガンダも行えるわけではないことを述べてきた。ある
条件の下でのみ、プロパガンダの現象は現れ、発展し得る。その最たるものは、偶発的或
いは純粋に歴史的な条件である。それ以外では、例えばプロパガンダの出現が数多くの科
学的な発見と関連していることは明らかである。現代的プロパガンダは大衆メディアなし
には存在し得ない。大衆メディアは出版物やラジオ、テレビ、映画を作った発明である。
或いは現代の交通手段を作り出し、あちらこちらからのさまざまな個人からなる群衆を容
易く迅速に結集させることを可能にした発明である。今日的なプロパガンダの集会は、も
はやかつての集会、アゴラにおけるアテナイ人たちの集会やフォルムにおけるローマ人の
会合とは関係がない。そしてすべての他の領域、例えば社会学、心理学などにおける科学
的研究が存在する。“これといったものを求めない”科学者による過去半世紀間の発見な
しには、いかなるプロパガンダもなかっただろう。社会心理学、深層心理学、行動主義、
集団社会学、世論の社会学の発見はまさにプロパガンディストたちの仕事の礎となってい
る。
違う意味で、政治的環境はまた広範なプロパガンダの発展のために、効果的で迅速なも
のになっている。第一次世界大戦、1917 年のロシア革命、1933 年のヒトラーの革命、第二
次世界大戦、中国における 1944 年以降の革命戦争の著しい進捗、インドシナ、アルジェリ
ア、冷戦は、それぞれが現代的プロパガンダの発展の一歩である。こうした出来事一つ一
つによって、プロパガンダは一層発展し、深さを増し、新たな手法を発見した。同時にプ
ロパガンダは新たな国々と領土を征服した。敵に接触する武器を手に取らなければならな
い。この否定しがたい議論はプロパガンダの系統的な発展の鍵である。そしてこのように
してプロパガンダは、それを嫌う米国やフランスのような国においても恒久的な特徴とな
っている。
教義の影響力と人々について指摘させていただこう。特定の教義がプロパガンダに、単
なる補助的で付随的でむしろ怪しい手段よりも、まさに政治的生活の中心や政治的活動の
本質を与えることは明確である。毛が発展させたレーニン主義はまさに行動を加えたプロ
パガンダの教義であり、マルクス主義と不可分に連結しており、プロパガンダのなかでそ
れは表現されている。レーニン主義が押し広げたように、プロパガンダはそれとともに発
展する。これは必然であり選択の余地はない。加えて幾人かの人物がプロパガンダの発展
に大いに貢献した。例えば、ヒトラーとゲッベルスはプロパガンダの天賦の才能を持って
いた。しかし、こうした人物たちの役割は決定的ではない。彼らがプロパガンダを発明し
たのではない。彼らの求めに応じてプロパガンダが存在したのではない。彼らは格好の状
71
況の合流点から利益を得た制作者であり監督であり、事態を促進する人だった。これらの
ことは熟考するまでもなく、あまりによく知られた明確すぎることである。
しかし、ある条件の重なりだけではプロパガンダの発展は説明できない。社会における
総体的な社会学的条件が、プロパガンダの成功に適した環境を提供しなければならない。
1.社会学的条件
個人主義社会と大衆社会
プロパガンダの成功には、社会がまず二つの補完的な性質を持っていなければならない
。社会が個人主義社会であり、大衆社会でなければならない。これら二つの特質は、しば
しば矛盾したものと捉えられる。個人主義者は、個人主義社会においては集団よりも個人
の方がずっと価値を持っていると考えていて、そうした社会では個人の活動の範囲を制限
する集団を破壊する傾向がある。一方、大衆社会は個人を否定し、個人を取るに足らない
ものとして価値を認めない。しかし、こうした矛盾は純粋に思索的であり、幻想に過ぎな
い。実際には個人主義社会は大衆社会でなければならない。なぜなら、個人の自由を得る
ための最初の動きは、社会全体の本質的な事実である小集団を分解することだからだ。こ
の過程において、個人は家族、村、教区、組合のつながりから解放され、個人は直接に社
会全体と対峙することとなる。個人が部分的な構造に包括されない時、個人がともに暮ら
すことができる唯一のかたちは構造化されていない大衆社会だけである。同様に、大衆社
会は個人のみに基づく存在である。つまり、孤独な個人のアイデンティティは互いの関係
性によってのみ決定する。個人は他者と平等であると主張するため、彼は抽象的な存在と
なり、事実上取るに足らない存在となる。
部分的で組織的な集団化が再形成されるや否や、社会は個人的でなくなる傾向があり、
それゆえ同様に大衆的特質を失う傾向がある。その時起きることは、大衆社会を引きずる
もののなかにあるエリートという組織的な集団の形成である。それは強固に構造化され中
央化された政党や組合などの枠組みに基づくものである。これらの組織は活動的な少数派
のみに手を伸ばすことができ、少数派の成員はこうした組織的な組織と統合されることに
よってだけに個人的でなくなる。こうした観点から、個人主義社会と大衆社会は同じ事実
から得られる二つの推論的様相であると言える。このことは我々が大衆メディアについて
述べてきた、個人と大衆を同時に捕らえるというプロパガンダ的機能と符合している。
プロパガンダは個人主義社会でのみ効果的であり得る。個人主義社会というのは 19 世紀
の思索的な個人主義を意味するのではなく、我々の社会における実際の個人主義を意味す
る。もちろん、この二つは対立的していない。最大の価値を個人におく場においては、最
終的な結果は本質的に個人のみから成る社会であり、それゆえ個人は統合されていない。
しかし、理論と現実はまったく反対ではないものの、大きな違いがその間には存在する。
個人主義者の理論では、個人は卓越した価値を持ち、彼自身が彼の人生の主人である。現
実において各人はおびただしい力と影響を被りやすく、彼自身の人生の主人などでは決し
72
てあり得ない。堅硬に作られた集団が存在する限り、人はそうした集団に統合されてそれ
に従う。しかし、彼らは同時にプロパガンダのような外的影響力からはそうした集団によ
って守られる。
個人は部分的な集団から切り離された時のみ、プロパガンダのような力によって影響を
受け得る。こうした集団は組織的でよく構造化されたものや、精神的で感情的な生活を有
しているので容易にプロパガンダに貫かれない。例えば今日、対外的プロパガンダが軍隊
に統合された兵士や一枚岩の政党の兵士に影響力を与えることは、彼が単なる市民である
時に同じ影響を与えることよりもはるかに難しい。組織的な集団は、大衆プロパガンダの
成功に大変重要となる心理学的な感染の影響を受けづらい。一般的に 19 世紀の個人主義社
会は家族や教会のような小集団の分解を通じて起こったと言える。こうした集団がその重
要性を失うや否や、個人は本質的に孤独となる。個人は新しい環境に、一般的に都市に、
“根こぎ”に押しやられる。彼はもはや生活すべき伝統的な場を持たず、地理的に固定的
な場につながっておらず、歴史的に彼の先祖とつながっていない。こうして根こぎをされ
た個人は大衆の一部とならざるを得ない。彼は孤独であり、彼つまり個人こそが物事すべ
ての尺度になるよう、個人主義者の思考がこれまで求められたことのないことを彼に要求
するようになる。このように彼はすべてを自分で判断するようになる。事実、彼は自分自
身で判断する。彼は完全に自分自身に頼ることとなり、自分のなかにのみ基準を見出す。
彼は明確に個人的にも社会的にも自分の決定について責任を持つ。彼はすべての始まりで
あり終わりとなる。人生は正義と不正義、善と悪の基準のみとなる。
このことは理論的に素晴らしい。しかし、実際に何が起きているのだろうか。個人は少
数派の位置に置かれ、同時に、全体的で圧倒的な責任を負わされる。こうした状況が個人
主義社会を現代的プロパガンダの肥沃な大地に変える。恒久的な不確実性や、社会の動静
、社会学的防衛と立ち戻るべき伝統的枠組みの欠如、これらはすべて必ず外部からの情報
を受け、意のままに条件付けされるような順応性の高い環境をプロパガンダに与える。
孤独になった個人は無防備である。彼は社会的潮流に流されやすく、よりプロパガンダ
の餌食となりやすい。小集団の成員の一人として、彼は集団的影響力、習慣、示唆から実
にしっかりと守られていた。彼は総体として社会の変化に比較的影響を受けなかった。彼
は自分の集団全体が従うときのみ、それに従った。彼が自由だったと言っているのではな
く、彼は部分的な環境や窮屈な集団によって決心するのであり、広範なイデオロギーの影
響や集団的な心的鼓舞によって決心してはいなかったということである。一般的な間違い
は、もし個人がより小さな組織的集団から開放されたら、彼は自由になるというものであ
る。しかし実際には、彼は大衆の潮流、国家の影響力、大衆社会への直接的統合に晒され
る。最終的に彼はプロパガンダの犠牲になる。物理的にも心理学的にも根こぎをされ、一
層不安定になる。例えば、農民の安定性は、この集団が比較的プロパガンダの影響を受け
ないことが一つの理由である。ゲッベルスは農民の構造化された環境が破壊された時のみ
、彼らに接触できると考えていた。レーニンがロシアの農民を革命のかたちに統合するの
73
に経験した困難はよく知られているところである。
従って、ここに現代的プロパガンダの成長と発展の第一条件の一つがある。これは 19 世
紀末から 20 世紀の前半にかけて西ヨーロッパで発生した。社会がますます個人主義になっ
ていき、その組織的構造が崩壊していった時期だからである。
しかし、プロパガンダの発展には、社会が大衆社会であることも必要である。単に崩壊
しているか、或いは分解している社会では起こり得ない。小集団が崩壊しつつあり、消滅
しかけている社会で起こるはずもない。プロパガンダの発展に好都合な社会は、社会自体
を残存させていく社会でなければならず、しかし同時に新しい構造、大衆社会の構造を獲
得していく社会でなければならない。
大衆と群衆との関係は大いに議論されてきた。その違いは大衆と大衆化の間で描かれて
きた。まず、現代の群衆の集合、次に恒久的な社会の循環における個人の関与である。確
かに所与の点に集められた群衆は、適切にいえば大衆ではない。大衆社会は大変な人口過
密を伴った社会であり、そのなかの部分的な構造や組織は弱く、意見の潮流は強く感じら
れ、人々は巨大で影響力のある集団へと組み入れられ、個人はこうした集団の一部となり
、ある種の心理学的な統一性が存在することになる。もっと言えば、大衆社会は物質的生
活の不統一によって特徴づけられる。環境や訓練、状況の違いにも関わらず、大衆社会の
人々は同じことに夢中になり、技術的な課題について同じ関心を持ち、同じ神話的信条、
同じ偏見を持っている。プロパガンダの手のなかで大衆を形成する個人は、まったく分離
しているようだが、彼らには共通してプロパガンダが直接働きかけることができる。
現代社会において、大衆と群衆の間には実際緊密な関係性がある。大衆社会が存在する
ので、群衆は頻繁に集まることができる。つまり、個人は絶えず、ある群集から別の群衆
へと、路上の群衆から工場の群衆へ、或いは劇場の群衆、地下鉄の群集、会合に集められ
た群集へと移行する。逆に、群衆が持つ本当の事実は、個人をより一層大衆的な人間にし
、そうしてその人の本当のあり方を形成することである。人々の心のあり方が大衆社会へ
の帰属によって形成されることは疑いの余地がない。この形成は、群衆の心や集団の精神
に訴えかけるプロパガンダがなくても発生する。大衆社会によって作り出される個人とい
うものは、よりすぐに手に入り、よりすぐに真に受け、より暗示にかかりやすく、より興
奮しやすい。こうした状況の下で、プロパガンダは最も発展し得る。ならぜら大衆社会は
西ヨーロッパにおいては 19 世紀末から 20 世紀の前半にかけて存在したので、プロパガン
ダは可能かつ必要なものとなった。
プロパガンダに最も好都合な心理学的要素は大衆社会から現れる。象徴と固定観念であ
る。もちろん、それらは小集団にも存在し、社会を限定する。しかし、それらは大衆社会
のものと同じ種類、数、抽象の程度ではない。大衆社会においてそれらは現実からよりか
け離れ、より容易に操作され、より数が多く、激しくもはかない感情をより引き起こし、
同時により僅かしか意義がなく、より僅かしか生来のものでない。原始的な社会において
象徴はプロパガンダの自由で柔軟な役割を認めない。なぜなら、象徴は厳格で安定的で、
74
かつ数的に少数であるからだ。その性質もまったく異なる。まず宗教的な起源から(広義
において)政治的になる。大衆社会において我々は最終的に、世論と、抑圧されるかますま
す取り除かれた目に見えない個人の意見との間に最も大きなずれを見ることになる。
このように現代社会における大衆がプロパガンダを可能にする。事実、プロパガンダは
人の心理が属する群集や大衆によって影響を受けやすい場においてのみ作動する。さらに
、我々が既に指摘してきたように、プロパガンダが伝播する手段を大衆の存在に基づくも
のである。米国においてこうした手段は大衆メディアと呼ぶのは尤もなことである。プロ
パガンダを受け取り、拡張する大衆なしにはプロパガンダはあり得ない。
我々はまた、この関係における世論の重要性を考慮する必要がある。世論もまた、我々
が今考えているように、大衆社会を必要とする。実際、刺激や行動があるためには、世論
形成の第一歩となる意見の交換や活動、相互作用がなければならない。また、既存の意見
、個人の意見、語られていない個人の意見への関心がなければならない。最後に、価値や
態度の再評価がなければならない。その時だけ本当の世論は純化する。この全過程を終え
るためには、大量の人々の密接な関係性が必要となることは明らかである。我々が言って
いる世論の種類、プロパガンダによって活用される世論の種類、プロパガンダに必要な世
論の種類は、外的世界から孤立した 50 人から 100 人程度の共同体(修道院や 15 世紀の村の
ような)や、人が他者となかなか接触しない極めて人口密度の小さい社会においては存在
し得ない。例えば市場での月一度の会合では、世論を形成するのに必要な個人的な見解が
広範に伝播するのは不可能である。
このようにプロパガンダが心理学的に社会学的に有効であるためには、人口統計学的現
象の重なりが必要となる。まずは、さまざまな人々の接触、意見や経験の交換があり、一
体感が最優先される人口密度が必要となる。次に大衆と群集の融合の結果として生じ、大
衆に心理学的、社会学的性質を与える都市集積化が必要となる。その時のみプロパガンダ
は群衆を有効に活用でき、その時のみプロパガンダは心理学的形成から利益を得ることが
できる。集団的な生活が個人のなかで作り出す心理学的形成であり、それなしでは実質的
に“利益を得る”プロパガンダなどあり得ない。いわんやプロパガンダの手段は都市集積
化のなかにそれを支える主要な源泉を見出す。
新聞やラジオを買ったり、放送を聞くことは大衆的な社会構造や、人々がある社会的な
行動の達成に価値を見出す大衆のなかに押し込まれた時にだけ感じるある要請への全面的
な服従を仮定する。さらに映画や政治集会に行くことは、物理的近接、それゆえに束ねら
れた大衆の存在を仮定する。事実、政治的主宰者は、10名から15名ほどしか集められない
と分かれば、わざわざ会合を開くことはしないし、人は遠路はるばる二つ返事で来たりは
しない。会合や映画を通してプロパガンダを効果的にするためには、定期的な参加が重要
になるので、大衆は不可欠である。プロパンガンダの手段として非常に重要な“多数派効
果”は、大衆社会のなかでのみ感じることができる。例えば、“すべてのフランス人はア
ルジェリアの平和を望んでいる”、或いは反対に“すべてのフランス人はアルジェリアで
75
の残留を望んでいる”という議論は、“すべてのフランス人”が早急かつ大規模にそのあ
りようを表出する場合のみ有効である。このように、大衆社会はプロパガンダの出現の基
礎的条件で一度形成されるや否や、プロパガンダの力や機能を誘発した。
我々は個人の心理の問題にまでは立ち入らないつもりだが、ステゼルの優れた言及を覚
えておく必要がある。“大衆社会における生活の条件は個人の欲求不満を増幅させる傾向
がある。その条件は人々の抽象的で断片的な関係性を作る・・・全く緊密さを欠き・・・
危険や不安の感情がいかに増し、我々の環境の矛盾を描き出すかを知ることができる。社
会的に許容された競争と友愛の高説との間の矛盾、広告を通じた我々の欲求への絶え間な
い刺激と我々の限られた資産との矛盾、我々の法的権利と現実の束縛とのとの矛盾”。
プロパガンダはこうした状況に心理学的に対応する。プロパガンダは個人に接触するが
大衆に作用するという事実は、例えば指導者の(英雄や専門家の)威光に基づくプロパガン
ダと多数派の威光に基づくプロパガンダの統合といった、明確に異なる種類のプロパガン
ダの統合について説明する。もちろん、プロパガンダの実施にあたっては、双方は固有の
機能を有する。しかし、これら二つの種別は互いにまったく異なるわけではないことは重
要なので、ここに強調しておく。
大衆における権威や威光を享受する指導者や専門家は、大衆に語りかける最適の人物で
ある。普通の人は、自分の指導者のなかに映し出された自分自身をみる。指導者は、“普
通の人”の昇華でなければならない。彼は大衆から異なる資質の人のようにみられてはな
らない。指導者に支配されていると普通の人に感じさせてはならない。英雄(役者、独裁
者、スポーツの勝者)のなかにある平均的な人間の資質は、過去 30 年間の歴史で実際に明
確に示されてきた。それはエドガール・モランが映画スターの神格化の研究において強調
していることである。
人が指導者に従うとき、彼は実際には指導者がまったく完全に代表する大衆や多数派の
集団に従っている。指導者は集団から切り離された瞬間、すべての力を失う。どんなプロ
パガンダも孤立した指導者から発することはない。モーゼはプロパガンダという点におい
ては死んでいる。我々が残すものは個性を脱ぎ捨て、多数派の雰囲気を身にまとった“ジ
ョンソン”や“ド・ゴール”だけだ。
個人主義社会と大衆社会の組み合わせのなかで物質的な手段や国家の独裁的意欲が形作
られるため、その二つの社会の創生にプロパガンダ発展の基礎的要件をみるという、こう
した分析に異論を唱える人もいるかもしれない。最初の異論は、新しい部分的・組織的集
団から成る我々の社会における、例えば政党、労働組合といった個人主義構造や大衆構造
の存在と対局をなすものの出現に基づく。これに対する回答はまず、こうした集団は連帯
や抵抗、かつての組織的集団の構造化からはずっとかけ離れているということである。彼
らは自らを確立する時間がない。彼らにはもろさや変動、変遷しかみられない。彼らは権
威主義的構造をもって民主主義的形式を画一主義的形式と取り替える政党のようであって
も、大衆の影響力に対して抵抗できる集団では本当はない。
76
次に、こうした新しい集団は総力的なプロパガンダの本当の障害にはなり得ない。彼ら
はある特定のプロパガンダには抵抗できても、プロパガンダの全般的な現象には抵抗でき
ない。というのは、こうした集団の発展はプロパガンダの発展と同時に起こるものだから
だ。こうした集団は極度にプロパガンダが行われた社会の中で発展する。彼ら自体が、プ
ロパガンダの場であり、プロパガンダの道具であり、プロパガンダの技法に統合されてい
る。我々はもはや、大衆プロパガンダがほとんどなく、部分的心理学的影響以外ほとんど
何もなかった伝統的社会の状況に匹敵するような社会学的状況にはいない。さらに、プロ
パガンダがこうした社会にまさに入った時、プロパガンダは既存の部分的集団と戦い、影
響を与えて彼らを形成しようとしなければならなかった。そしてそうした組織的集団は抵
抗した。
現在、我々は個人が統合される傾向にある組織的集団の出現を目撃している。こうした
集団はかつての組織的集団が持っていた幾つかの特徴を持っているが、彼らの集団的生活
、知的、感情的、精神的生活はプロパガンダによって決定していて、もはやプロパガンダ
なしには自らを保つことができない。彼らは自らをプロパガンダにさらしてプロパガンダ
の一分子として働く場合のみ、大衆社会のなかで組織的集団になる。我々の社会は完全に
変容させられた。我々がプロパガンダの発展を可能にする個人主義的段階をまったく離れ
るとき、基礎的な集団の構造はなお存在できるが、総力的なプロパガンダが確立した集団
はもはやこうしたプロパガンダから切り離せない社会に到達する。家族や教会といったわ
ずかに残った組織的な集団がいかに何としてもプロパガンダによって生きようとするかを
知ることは興味深い。家族は家族協会によって守られ、教会は心理学的影響力の手法を使
おうとする。彼らは今やかつての組織的集団に極めて否定的である。さらにその上、新し
い基礎的集団(政党や組合のような)は、総力的なプロパガンダの流れの重要な中継地点で
ある。彼らは動員され、道具として使われ、個人的な抵抗の中心力になろうとはしない。
それどころか、それらの集団を通じて、捕らえられた人々はプロパガンダへの準備が整え
られる。
もう一つの異論がすぐに思い浮かぶ。プロパガンダは 1917 年のロシア社会、今日の中国
、インドシナ領、アラブ世界などの個人主義的でも大衆的でもない社会においても発展し
てきた。しかし、ここでの論点はまさに、こうした社会は伝統的な構造が分解し、個人主
義者的で巨大な新しい社会が発展したときを除いては、捕らえられてこなかったし、今も
捕らえられておらず、操作されず、動かされないということである。新しい社会が発展し
ない場では、プロパガンダは無効なままである。それゆえ、新しい社会が自発的に構成さ
れないときは、新しい社会は時に権力主義的国家の力によって形成され、そうした時だけ
国家はプロパガンダを活用できる。ソ連において、カフカスやアゼルバイジャンは 1917 年
の時点でアジ宣伝の温床だった。なぜならその地域の世界市民主義、人口配置(ロシア人
や回教徒)の大きな流れ、根こぎ、国家主義的神話の活力などが大衆社会を作る傾向があ
ったからだ。ソ連において、プロパガンダはかつての組織的集団の崩壊と大衆社会の形成
77
にまさに沿うかたちで進展している。
我々はまた、ソ連が獲得に 20 年かかり、西側諸国において 150 年かけて自然と発展した
ものを、共産主義中国が暴力によって 3 年で獲得したことを知っている。プロパガンダが
完全に効果的であり得る環境への、個別的な社会学的な条件の確立である。中国政府は新
しい社会の構築の必要性を完全に理解していたようだ。フランス人がインドシナにおいて
成功していたプロパガンダの手法がアルジェリアにおいて適用できるかどうかを考えてい
るとき、彼らは同じ社会学的秩序の問題に直面した。こうした社会の急速で強行で組織的
な変容のなかで、社会の“大衆化”がプロパガンダの発展に求められるという我々の分析
はこうして劇的に確証される。
意見
我々はこれに世論の問題を付け加える必要がある。一方でプロパガンダはもはや基本的
に意見の問題ではなく、一方で世論の存在は大衆社会の様相と関連しているとこれまで述
べてきた。ここに我々は、基礎的な集団や小集団のなかで形作られた意見は広い社会に存
在する意見とは異なる性質を持っていると主張することになる。小集団においては、個人
間の直接的な接触によって対人的な関係性が支配的な関係性になっていて、世論の形成は
こうした直接的な接触に基づいている。こうした集団での意見は、全体として無意識的に
集団に課せられる“圧倒的な”意見と呼ばれているものによって適切に決定する。対人的
な関係性が支配的な意見になる。なぜならまず、こうした集団での指導力は自然と認識さ
れるからだ。また、集団の意見は、集団におけるあらゆる個人に共通の利害を活用する具
体的な状況や一般的な経験を規定するために必要とされる。もっと言えば、こうした集団
における人々の社会的水準は概して一様である。
このように、こうした基礎的集団は自然なかたちで民主主義的になる。事実、意見は直
接的に形成される。人々は参加を求める出来事と直接接触するからだ。こうした意見は一
旦形成されるとすぐに、すべての人に直接表現され知られることとなる。集団の指導者は
、集団の意見が何であり、何が考慮されているかを知っていて、意見の形成に存分に力を
尽くす。しかし、こうした集団は決して自由主義的でなく、集団のなかの少数派は部外者
のようにみられる。こうした関係性にあって反対者は集団内のコミュニケーションを弱め
る。制裁が概して拡がり活発になる。公平性はなく、各員は指導力を容認し、もちろん小
集団も機構化した権威(例えば家族における父)を認める。支配的な個性が大きな役割を果
たし、多くの場合集団の意見は集団の全員に知られ、その権威が認められた個人によって
形成される。
二次的、或いは大規模な社会は全体的に異なる性質を明確に持っている。こうした社会
において(一般的に世論研究によって考慮される唯一の社会)、人々は互いを知らず、直接
的な接触を持たない。もっと言えば、彼らは意思決定しなければならない課題の直接的な
経験を共有していない。対人関係は存在せず、総体的な関係性、全体としての集団と個人
78
との関係である。こうした集団において拡がっている意見はある程度、多数派の意見にな
るだろう(世論が多数派の意見であると言っているのではない)。
こうした集団において、世論の形成は非常に複雑で、多数の理論がこの主題において存
在する。いずれにしても世論は三つの特質を持っている。情報の機構化された経路が人々
に事実を提供し、人々はその事実に基づいて立場を決める社会においてのみ、世論は形作
られる。このように、幾つかの段階が事実と意見の間に存在する。人々が接触する情報は
間接的なものにとどまるが、それなしにはいかなる意見も存在し得ない。もっと言えば、
我々が中間体によって伝播された情報に対峙する限りは、意見は単なる個人的接触によっ
ては形成されない。さらに最近は、意見はかなりの程度でこうした情報の中間経路に基づ
いている。
世論の第二の特質は、世論が直接表明されず、経路を通してのみ表明されることである
。構成された世論はいままでのところなく、自発的には表明されない。世論は選挙におい
て(選挙の意見と世論が同時に起きるとき)、政党や新聞における協会、国民投票などを通
じて表明される。それらはすべてあっても十分でない。
世論の第三の特質は、同じ事実を同じように経験することができず、異なる基準で判断
し、異なる言語を話し、同じ文化や同じ社会的位置を共有しない大変大規模な人々によっ
て意見が形成されることである。通常、あらゆるものが彼らを分離している。彼らは実際
に世論を形成すべきでないが、彼らはそれをしてしまう。すべての人々が本当に事実を知
らされる時だけ世論の形成は可能だが、事実を形作る抽象的な象徴のみが知らされ、その
なかで彼らは世論の基礎となる。世論は実際の状況とは明確に結びついていない態度や理
論的な問題の周辺で形作られる。さらに、世論形成において最も効果的である象徴は、現
実から最もかけ離れたものである。それゆえ、世論は常に現実に対応していない問題に基
づいている。
我々は初期の小集団がプロパンダの障害であることをこれまで幾度か指摘してきた。こ
れらの基礎的集団の意見構造は集団外の行動とは対立している(もちろん、我々はこうし
た集団指導者の行動をプロパガンダとは呼ばないが、それはこうした集団成員がプロパガ
ンダから解放されているということではない。それどころか我々は、彼らはプロパガンダ
から解放されていないと既に指摘してきた。)。直接の経験、事実や問題の即時把握、人
々の間の個人的知己は小集団において存在するので、プロパガンダはこうした集団におい
ては機能し得ない。“間接的な”意見においてのみ、プロパガンダはその役割を果たすこ
とができる。事実、そこではプロパガンダが役割を果たすことに失敗するはずがない。世
論が大集団において成立するために、情報の経路や象徴の操作は必要不可欠である。世論
が存在する場では、プロパガンダは、前意識的な個人的状況から意識的な公衆的状況へと
意見を純化する。プロパガンダは二次的意見が形成される二次的集団においてのみ機能で
きる。しかし、我々はこうした二種類の集団を単純に並列させることができないことを思
い出す必要がある。なぜなら社会全体もまた多数の集団によって構成されているからだ。
79
基礎的意見と二次的意見との間には軋轢が生じるだろう。片方がもう一方を支配すること
になる。間接の意見が明確に基礎的意見を支配し、基礎的意見が減ぜられて少数派の立場
へと押しやられる社会においてのみプロパガンダは存在し得る。個人が二つの矛盾する意
見を自分自身のなかに見出すとき、彼は通常一般的な意見、世論を取る。このことは我々
が大衆社会について述べてきたことに呼応する。
大衆メディア
最後に、もう一つの条件がプロパガンダの基礎となる。我々は、もし大衆メディアが存
在しないなら、社会全体のなかで意見が形成されることはないと述べてきた。このことは
かなり明確である。大衆メディアなしに、現代的プロパガンダがあり得ない。しかし、我
々は大衆メディアが本当にプロパガンダの道具であるなら、二つの要素を指摘しなければ
ならない。というのは、大衆メディアは無意識的に、或いはあらゆる状況下でそうした道
具にはなるわけではない。大衆メディアは中央に集められて管理されなければならない一
方、もう一方でその制作物という点において多様性に富んでいなければならない。映画制
作、印刷物、ラジオ放送が中央で管理されていない場では、プロパガンダは不可能である
。多数の独立したニュース会社、ニュース映画製作者、多様な地域紙が機能しない限り、
意識的で直接的なプロパガンダは不可能である。これは読者や視聴者が真の選択の自由を
持つという理由からではなく、彼らに選択の自由などなく、我々がこれから見ていくよう
に、どのメディアも個人を常にあらゆる経路を通じて拘束するほどの力は持っていないと
いう理由からである。部分的な影響力は大きな国家的報道機関を無力化するのに十分な強
さがある。一例を挙げてみよう。プロパガンダの組織を有効にするためには、メディアは
中央に集められ、ニュース会社の数は減らされ、新聞・雑誌は一手に統率され、ラジオや
映画の独占が確立されなければならない。もしさまざまなメディアが一手に掌握されるな
ら、その効果はずっと大きなものになる。新聞業界がその支配力を映画やラジオに拡げれ
ば、プロパガンダは大衆に向けられ、個人は広範なメディアの網にかかるはずである。
多数のメディアをわずかな手に集中させることによってのみ、真の統合、継続、個人に
影響を与える科学的手法の応用を実現できる。国家的独占も民間的独占も同様に効果的で
ある。こうした状況は米国やフランス、ドイツにおいて形成されており、そのことはよく
知られている。読者の数が増えながら、新聞の数が減る。制作費は常に増大し、さらなる
集中化が必要となる。あらゆる統計はこのように示している。この集中化は加速し続け、
そのことによってプロパガンダにますます好都合な状況が形成される。もちろん、このこ
とから、大衆メディアの集中化は不可避にプロパガンダを生むと結論してはならない。こ
うした集中化はプロパガンダの単なる必要条件である。しかし、メディアの集中化だけで
は十分ではなく、個人がそれを目にすることや、耳にすることも必要である。これは自明
の理である。誰も買わない新聞が、どうしてプロパガンダを作ることができよう。
新聞を買うことや映画に行くことは個人の生活において重要な行動ではないが、簡単に
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できることだ。しかし、ラジオやテレビの受容は同様に確かなものにならなければならな
い。ここに我々は伝播させる機器という問題に直面する。プロパガンダ受容者はここで最
も起こり得る段階へと進む必要がある。プロパガンダ受容者は機器を買わなければならな
い。十分な機器が設置された場においてのみ、プロパガンダは効果的になり得る。明らか
ではあるが、十分にテレビ機器が使われていない場で、テレビを通じてプロパガンダを行
うことは意味がない。このことは 1950 年の共産主義国家に対するボイス・オブ・アメリカ
のテレビ・プロパガンダにおいて起きた。しかし、機器を入手する行動は、プロパガンダ
受容者の共謀という我々がこれから時間をかけて議論する問題を持ち出すことになる。も
し、ある人がプロパガンダ受容者なら、それは彼がそうなりたかったからである。という
のは、彼は新聞を買い、映画に行き、ラジオやテレビの機器にお金を払うことを厭わない
からだ。もちろん、彼はプロパガンダ化されるためにこれらを買うのではない。彼の動機
はより複雑である。しかし、こうしたことを行うにあたり、彼は自分がプロパガンダへの
扉を開き、自らをプロパガンダにさらすということを知らなければならない。彼がそれを
意識する場においてラジオを所有する魅力は、自発的にプロパガンダを受容することに同
意するというプロパガンダへの恐れよりもずっと大きなものになる。このことは共産主義
国のように放送が共同受信機器によってなされる場においてより一層当てはまる。聴取者
は自分たちが聴くものが必然的にプロパガンダであると知ってはいるものの、集合する。
しかし、彼らはラジオの魅力やテレビの催眠を逃れることができない。
このことは、新聞においてさらに顕著である。というのは、読者は自分の好きな新聞、
自分の考えや意見がよく反映された新聞を買う。それは彼が求める唯一の新聞になるので
、彼は実際にプロパガンダ化されることを求めているとも言うことができる。彼は影響力
への服従を求め、彼が受けることを望んでいるプロパガンダの方向性で実際に選択を行う
。もし彼が偶然にも“彼の”新聞のなかに、彼の嫌いな記事や彼の意見から少し外れた意
見を見つけたなら、彼は購読を中止する。彼は自分の路線上を走らないいかなるものをも
受け入れることができない。これこそが、我々がこれから見ていくプロパガンダ受容者の
精神である。
“読者はプロパガンダを甘受してはいない。読者はこうした考えやこうした意見という
ものを最初に持っていて、それに合った新聞を買う。”などとは言わないで欲しい。こう
した議論は、単純で現実をかけ離れた自由主義的な理想に基づいている。現実には、プロ
パガンダはそこにおいて機能している。というのは、起きていることは読者の一部におい
て曖昧に拡がった意見の、正確で興奮していて活動的な表出への進展である。感情や印象
が行動への動機に変容させられる。混乱した考えが明確ではっきりした状態になる。もし
読者がその新聞を読むなら、神話や読者の条件反射が強化される。これらはすべてプロパ
ガンダの特質である。それは読者の選択というプロパガンダで、読者は実際にはプロパガ
ンダに服従させられる。なぜ、意見を変える装置以外のものとしてプロパガンダを見ない
という過ちに常に陥るのだろうか。プロパガンダは意見を強化したり、意見を行動に変え
81
る手段でもある。読者は自分自身で選んだプロパガンダというナイフを自らの喉元に押し
つけるのだ。
大衆に接することができず、行動に移させることができないなら、いかなるプロパガン
ダも存在し得ないと述べてきた。しかし、特有の顕著な事実として、大衆メディアは実際
にそれ自体の公衆を作るので、プロパガンディストはもはや追従を確立するために太鼓を
叩き、行進を先導する必要がない。これは大衆メディアの効果を通して自ずと起こる。大
衆メディアの効果はそれ自体の魅力の力があり、個人を集団や公衆、大衆へと変容させる
ように人々に作用する。個人の活動によるテレビ機器の購入は、個人を大衆の心理学的で
行動的な構造へと押し込む。人はテレビ機器を買った時点で、プロパガンダへの扉を開く
自らの行動によって、集団的動機に従うことになる。プロパガンダの源泉の集中化と、そ
の受容者の広範な拡がりというこの二つの過程が起きなければ、いかなる現代的プロパガ
ンダも社会においては機能し得ない。
2.総力的プロパガンダの客観条件
平均的生活水準の必要性
プロパガンダを受けづらい社会がないように、プロパガンダを受けづらい個人もいない
。例えばプロパガンダが、平均的な生活水準の人間に新聞を読ませ、ラジオやテレビの機
器を買わせることを見てきた。現代的統合プロパガンダは、我々の文明の辺境で生きる人
やあまりに低い生活水準の人に影響を与えることはできない。資本主義国において、ラジ
オやテレビを持っておらず、めったに映画に行かない極貧層は、プロパガンダによって接
触できない。共産主義国は共同受信機や無料映画でこの問題に対応している。このように
すれば最貧困層にさえプロパガンダによって接触することができる。
しかし、他の障害が邪魔をする。本当の貧困層は日々の生活の喫緊の問題が彼らの能力
や努力を奪ってしまっているので、統合プロパガンダを受けやすいなどということはない
。確かに、貧困層は反乱や暴力の爆発に押し込まれる可能性がある。扇動プロパガンダを
受けやすく、興奮して窃盗や殺人に至る可能性がある。しかし、彼らはプロパガンダによ
って訓練されたり、掌握されたり、方向づけられたり、適応させられたりするはずがない
。
より先進的なプロパガンダは貧困と無縁の人、ある距離から物事を見ることができ日々
の食事に煩わされることがない人、それゆえより一般的な課題に関心を向け、単に生活費
を稼ぐこと以上の目的で行動する人にのみ影響を与え得る。西洋諸国においてプロパガン
ダは労働階級の上層、中流階級において特に効果的であることはよく知られている。プロ
パガンダはプロレタリア階級や農民に対するとき大きな課題に直面する。我々はこのこと
については改めて触れたいと思う。
プロパガンダが非常に密集した大衆に集中しなければならないことを改めて思い出して
欲しい。プロパガンダは巨大な個人の集合のために組織される必要がある。この大きな多
82
数派は、富裕層や貧困層において見ることはできない。それゆえプロパガンダは平均的な
生活水準を手にしている人々のために行われる。西洋諸国では、プロパガンダは実際の力
をそれだけで表出している大規模で平均的な大衆に働きかける。しかし、インドやアラビ
ア諸国のような貧困国においては、プロパガンダは貧困層、ファッラーヒーン(訳注:アラ
ブ諸国の農業労働者)に接触しているという人がいるかもしれない。問題は貧困層が純粋な
扇動プロパガンダ以外のプロパガンダにはごく僅かにゆっくりとしか反応しないことであ
る。学生や商人は反応するが、貧困層は反応しない。このことは、インドやエジプトにお
けるプロパガンダの弱さを説明してくれる。プロパガンダが効果的であるためには、プロ
パガンダ受容者はある程度多くの考え方と多くの条件反射を持っている必要がある。ほん
の少しの富、幾らかの教育、相対的平和から湧き出る心の平和をもってのみ、それらを手
に入れることができる。
逆に、あらゆるプロパガンディストは、ソ連、ナチ、日本、米国のどのプロパガンディ
ストも中流階級上位層出身である。裕福で、教養のある階級はプロパガンディストを輩出
しない。なぜなら、そうした階級は人々からかけ離れていて、人々に影響を与えるのに十
分なだけの知識を持っていない。下流階級は教育の手段をほとんど持っていないので(ソ連
においてさえ)、プロパガンディストを輩出しない。より重要なことは、下流階級の人は自
らの階級のための象徴を工作するために必要となる観点を持ち、距離をおいて自らの階級
から観ないことである。従って、研究はほとんどのプロパガンディストが中流階級から集
められていることを示している。
プロパガンダの影響力の範囲はより大きく、中流階級の下位層や労働者階級の上位層を
も包括する。しかし、人々の生活水準を上げても、プロパガンダに対する免疫をつけるこ
とにはならない。もちろん、万が一にも全員が中流階級の上位層にあったなら、今日的プ
ロパガンダは成功の可能性をほとんど失ってしまう。しかし、生活水準の上昇が段階的で
あるという観点を考慮すれば、東洋やアフリカと同様に西洋における生活水準の上昇は、
これからの世代をよりプロパガンダを受けやすくすることになる。労働環境や食事、住居
が改善しながら、また同時に人々の標準化、普通で典型的とみなされるものへの変容が起
こりながら、プロパガンダの影響力は確立される。しかし、こうした“普通の”かたちの
出現はかつて無意識的で自発的であったが、今やより組織的な創作的で意識的、計画的、
意図的になっている。人々の労働の技術的な側面、社会的関係性や国家的目標の明確な考
え方、共通の生活様式の確立、これらはすべて普通の人のかたちを作り出すことへとつな
がり、都合の良いことにすべての人を多数の経路からその標準へと導くことである。
これこそ、調整があらゆる心理学的影響のキーワードの一つとなっている理由である。
労働環境や消費、環境といったいずれへの適応の問題であろうとも、人々を“普通の”か
たちへと統合しようという明確で意識的な意図が至るところに拡がっている。これが、プ
ロパガンダの活動の頂点である。例えば、“鋳型”の毛の理論と、マッカーシズムの間に
大きな違いはない。どちらの場合も、ある生活様式と合致した常態であり、常態は理想的
83
な人の種類や共産主義者の原型であり、これらは形成される必要がある。このことは人々
をプロパガンディストが望むかたちの鋳型にはめ込むによってのみ実現できる。一夜のう
ちにこれを行うことができないので、人々を繰り返し何度も鋳型に押し込まなければなら
ない。そのうちに人々はこの活動に従わなければならないと完全に気づくのだと毛は言う。
毛はこの状態は“ある意識的な水準以外では、つまりある生活水準以外では”かたちにな
らないと付け加えている。我々は最も総合的なプロパガンダの概念をもって、これと向き
合っている。
一方で、別の定式をもったマッカーシズムがある。マッカーシズムは偶然ではない。マ
ッカーシズムは“米国的でない”あらゆるものに対する米国人の深層を表出して、利用し
ている。マッカーシズムは生活様式ほどには意見を扱わない。共産主義者がいる場所や集
団、家族の一員であることは、米国において非難されるべきものと考えられていることに
は驚かされる。なぜならここで問題になっているのは、考え方ではなく、生活様式の違い
だからだ。このことが、米国的でない活動という観点での文脈で共産主義者をアルコール
中毒やホモセクシャルを連想させることや、1952 年に宣言された“悲しい危険人物”を定
めた規定、7,000 人の役人調査などにつながる。共産主義者は、“普通の”つまり米国的な
生活様式を受け入れないので“異常である”ということ以外に、この一体感には理由がな
い。こうした“異常な”人物はもちろん、そのように取り扱われ、すべての責任を奪われ、
再教育されなければならない。このように共産主義によって汚染されていると思われた朝
鮮戦争における米国の捕虜たちは釈放後に入院させられ、ヴァレーフォージの病院で心理
学的薬物治療を受けさせられた。現在の米国の世論では、米国的生活様式に対応せず脅か
すものを断ち切るあらゆる努力は当然適切な任務とみなされている。
要するに、我々の社会の常態は二つのかたちのいずれかを取る可能性がある。一つは統
計に基づいた科学的、社会心理学的分析の結果、つまり米国的常態の種類があり得る。も
う一つはイデオロギー的で純理論的な、つまり共産主義的な種別があり得る。しかし、結
果は同じである。こうした常態は人を社会にとっては最も有用な様式へと押し下げるプロ
パガンダへの高まりに必然的に至る。
平均的文化
ある程度の生活水準に加え、もう一つの条件が求められる。人をうまくプロパガンダ化
したなら、その人は少なくとも最小限の文化を必要とするということである。プロパガン
ダは人々が西洋文化を全く持っていないときは成功しない。我々はそこでは知性を語るこ
とができない。幾つかの原始的部族は確かに知的ではあるものの、我々の考え方や習慣と
相容れない知性である。基礎が必要となる。例えば教育であり、字を読むことができない
人は読むことに関心がない人と同様にほとんどのプロパガンダを逃れる。読むことを覚え
ることは人類の進歩の証拠だとかつて人々は考えていた。非識字率の低下を偉大な勝利と
していまだに讃えられ、非識字層を多く抱える国々は非難され、読むことは自由への道だ
84
と考えている。これらはすべて議論の余地がある。というのは、重要なことは読むことが
できることでなく、何を読んでいるか理解することであり、読んだことを思案し判断する
ことである。これがなくて、読むことは意味がない(無意識的な記憶や観察の質を破壊しさ
えする)。しかし、批判的な能力や識別を語ることは、初等教育以上の何かを語ることであ
り、わずかな少数派を考慮することである。大多数の人々、およそ 90%は読むことができ
るが、それ以上の知性を使っていない。そうした人々は権威や印刷された文字の卓越した
価値にあやかるか、それらをまったく無視する。こうした人々は思案し識別する知識を十
分に持ち合わせていないので、読んだことをすべて信じるか、或いはすべて信じないかど
ちらかになる。もっと言えば、こうした人々は最も難しい読み物ではなく、最も簡単な読
み物を選ぶので、印刷された文字が抵抗なしに捕捉し説得する水準にまさにあるというこ
とだ。彼らは完全にプロパガンダに適応させられる。
我々は“彼らにもっと良い読み物を与えたなら・・・彼らがより良い教育を受けたなら”
などとは言わない。物事はそうはなっていないので、そうした議論は無効なのだ。
我々はこうも言わない。“これは第一段階に過ぎない。教育はすぐによくなるだろう。
人はどこからか始めなければならない”。まず、第一段階から第二段階に至るには実に長
い時間がかかる。フランスでは第一段階に半世紀前に到達した。そして我々はいまだに第
二段階からはほど遠い場所にいる。残念だが、言わなければならないことがもっとある。
第一段階は人をプロパガンダから自由になるようにしている。第二段階に至る前に、人は
プロパガンダの世界に自らを見出すだろう。人は形作られ、適応させられ、統合されてい
るだろう。ソ連における文化の発展が危険に直面することなく起こったのはこういう理由
である。プロパガンダ需要者が批判的能力を手に入れる前段階にあるなら、その文化がプ
ロパガンダの世界に統合されているなら、人はプロパガンダ需要者であることを止めずに
より高い文化水準に到達できる。実際、19 世紀、20 世紀の初等教育の最もはっきりとした
成果は、人を特製のプロパガンダを受けやすく変えたことである。プロパガンダの進展を
埋め合わせるのに十分かつ迅速に西洋人の知的水準が向上する可能性はない。プロパガン
ダの技法は平均的な人々の推論能力よりもあまりに早く進展しているので、この差を埋め
て、プロパガンダの枠組みの外で人を知的に形成することはほとんど不可能である。実際、
我々の回りで起きていることや我々が見ているものは、プロパガンダ自体が我々の文化で
あり、大衆が学ぶべきものであるとの主張である。プロパガンダの中にありそれを通して
のみ、人は政治経済や政治、芸術、文学に接してきた。初等教育は大衆がプロパガンダの
領域に入ることを可能にし、その中で人々は知的で文化的な環境を享受する。
文化的でない者は、プロパガンダによって接触できない。1933 年から 1938 年にかけての
ドイツの経験や調査は、人々がほとんどものを読めない偏狭の地においては、プロパガン
ダが効果を持たないことを示している。同じことが読み方を人々に教えようとする共産主
義国での甚大な努力にも当てはまる。韓国では、土着の文字が非常に難しく複雑だった。
そのため北朝鮮において、共産主義者は万人に読み方を教えるために全く新しい文字体系
85
と単純な文字を作り出した。中国では、毛は非識字との格闘のなかで文字を単純化した。
中国の幾つかの地域では、新しい文字体系が作られようとしている。大人の生徒に読み方
を教えるために用いられていた文章は、彼らが接することのできる唯一の文章なのだが、
排他的なプロパガンダの文章であるということ以外には特別な意味を持たない。その文章
は共産主義体制の栄光に向けられた政治的なパンフレットや詩であり、伝統的なマルクス
主義の引用章句である。チベット人、モンゴル人、ウイグル人、満州人の間で、新しい文
字の唯一の文章は毛の作品である。プロパガンダの文章以外はその文字で出版されない。
それゆえ、非識字層はそれ以外のものをどうあっても読み、知ることができない。
また、アジアにおける最も効果的なプロパガンダの手法の一つとして、読むことを教え
ると同時に人々を教化する“教師”の配置があった。知識層の威光、“神の手が刻印した
人々”は、真実と思われる政治的表明が許される。人が読み解くことを学ぶ印刷された文
字の威光が、教師が言うことの有効性を確立した。このことは、これから述べる結論はポ
ール・リベットが最も的確に、しかし完全に非現実的な言い方で“新聞を読むことができ
ない人は自由でない”と表現したような多くの偏見に直面するかもしれないが、初等教育
の発展がプロパガンダの組織化の基礎的条件であることを疑いのないものにする。
人々を、プロパガンダを受けやすく変えるある程度の文化的水準の必要性は、プロパガ
ンダの最も重要な装置の一つである象徴の操作を知ることで、最もよく理解できる。人は
自分が住む社会に参加すればするほど、その人の集団の過去や未来に関する集団的な意思
を表出した固定観念化された象徴に執着するようになる。文化において固定観念が多いほ
ど、世論の形成は容易になり、人がその文化に参加すればするほど、彼はこうした象徴の
操作を受けやすくなる。最初に文化的な背景のなかに設定された西側諸国におけるプロパ
ガンダ・キャンペーンの数には驚くべきものがある。このことは純理論的なプロパガンダ
にだけ当てはまるのではなく、実際の物事に基づくものであり、価値観の意識を持ち、政
治的な現実に関する良き行いを知る最も高度に発展した人々の水準で作用するものである。
例えば、資本主義の不正義、経済危機、植民地主義のプロパガンダである。最も教育を受
けた人々(知識人)がこうしたプロパガンダに最初に接触されるというのは当然のことであ
る。しかし、このことはまた最も素朴な種類のプロパガンダにおいても当てはまる。例え
ば、平和に関するキャンペーン、生物兵器に関するキャンペーンは、まず教育を受けた層
において成功した。フランスにおいて、知識人たちは生物兵器のプロパガンダに最も早く
反応した。こうしたことはすべて、人々はただプロパガンダを鵜呑みにするだけだという
安易な考えとそぐわないものである。当然ながら、教育を受けた者はプロパガンダを信じ
ず、肩をすくめてプロパガンダは自分には効果がないと確信している。実際にはこれが彼
の大きな弱点の一つであり、プロパガンディストは誰かに接触する際にはまずプロパガン
ダは効果がなく、まったく賢くないと信じさせなければならないことをよく知っている。
高い知識、広範な文化、批判能力の絶え間ない行使、完全で客観的な情報は変わらずプロ
パガンダに対する最良の武器なのだが、知識人は自分の優秀さを信じているがゆえに、そ
86
の方略に誰よりも脆弱になる。多すぎる議論や深すぎる教義は潮流の分岐を起こして知識
人が社会統制から逃れる可能性を与える危険性がある。この危険性はソ連においてその重
要性が政治的教化や教育と結びつけられ認識されていて、しばしば語られるところである。
最後に、プロパガンダは文化を欠いた大衆に効果を持ち得る。例えば、レーニン主義者
のプロパガンダはロシアの農民に向けられ、毛沢東主義者のプロパガンダは中国の農民に
向けられた。しかし、こうしたプロパガンダの手法は、基本的に一方で条件反射を作り出
し、他方で必要な文化的基礎を作り出した。1929 年のホナンにおけるプロパガンダの数か
月後、劇中の子供たちは彼らの敵を“帝国主義者”と呼んだのだ。
前に述べたように、貧しく文化的でない人々は扇動と破壊のプロパガンダの格好の標的
になる。人は哀れで無知であるほど、反乱の動きに容易に押しやられてしまう。しかし、
これを乗り越えて、さらに深遠なプロパガンダを人に施すためには、教育を行う必要があ
る。これは“政治的教育”の必要性に対応するものである。逆に、中流階級で正しい一般
的な文化を持つ人は扇動プロパガンダを受けづらく、統合プロパガンダの格好の餌食とな
る。これもまたリプセットにより観察されており、彼は政治や経済の無知がその分野の論
争をよりあいまいにし、それゆえ見る者には分かりづらくなり、そういう訳で無知な人は
こうした問題におけるプロパガンダを受けづらくなるとしている。
情報
もちろん、基礎教育はプロパガンダだけでなく、一般的な情報の伝播を可能にする。し
かし、ここに我々はプロパガンダの新しい条件に直面する。プロパガンダと情報という単
純化し過ぎた区別とは対照的に、我々はこの二つの密接な関係性を証明する。実際に、プ
ロパガンダと情報をはっきり区別することは不可能である。その上、情報はプロパガンダ
にとって不可欠の要素である。というのは成功するプロパガンダは政治的で経済的な現実
に言及しなければならないからだ。教義的で歴史的な議論はプロパガンダにおいて付随的
に効果的なものでしかなく、出来事の解釈に関するところでのみ力を発揮する。意見が政
治的、或いは経済的に既に沸き起こって、問題となり、ある向きに方向付けられた時のみ、
教義的で歴史的な議論は効力を持つ。こうした議論は、既に存在している心理学的現実の
上に、自らを接ぎ木するものである。こうした心理学的反応は一般的に瞬間的なのもので
あり、系統的な継続と刷新を必要となる。心理学的反応が継続され刷新される場合は“知
識に基づいた意見”を作り出す。
この知識に基づいた意見は、プロパガンダに不可欠である。政治的或いは経済的問題に
ついて知識に基づいた意見を持たない場においては、プロパガンダは存在し得ない。その
ため、より伝統的な国々の多くにおいては、プロパガンダは部分的なものとなり、政治的
生活と直接接触する集団に限定される。大衆は知識を与えられていないためにこうした問
題に無関心な大衆に向けてプロパガンダは設計されていない。大衆メディアが人々に情報
を伝播するまで、大衆は政治的経済的問題や、そうした問題に関する議論に関心を持ち得
87
ない。我々は、これまで述べてきたさまざまな理由から農民への接触が最も困難であるこ
とを知っている。しかし、もう一つの重要な理由は、彼らが知識を持ち合わせていないと
いうことである。情報が広く行き渡った時や、事実が知らされて問題へと高まりを見せた
時にこそ、農民の間でプロパガンダが“刺さり”始めることを地域環境の研究は示してい
る。明確なことだが、もし戦争が朝鮮で遂行されていることや、北朝鮮や中国が共産主義
であること、米国が韓国を占領していること、米国が朝鮮において国連を代表しているこ
とを私が知らなければ、米国の生物兵器を主張した共産主義者のプロパガンダは私にとっ
て意味を持たない。プロパガンダは予備的な情報なしにはまったく意味をなさない。それ
ゆえ、政治的に無関心な集団へのプロパガンダは、広範で深遠、かつ真剣な情報活動が先
行して行われたときのみ行うことができる。情報が広く、客観的であるほど、その後のプ
ロパガンダは効果的になる。
今一度述べておく。プロパガンダは思い違いでなく正確な事実に基づくものである。人々
や個人の意見がより多くの知識に基づいているほど(私は“より多くの”と言っていて
“より良い”と言っていないことに注意されたい)、人々や個人の意見はプロパガンダを受
けやすくなる。政治的で経済的な事実の知識が多いほど、人の判断は感受性が強く脆弱に
なる。知識人は、プロパガンダがあいまいな表現を用いる場合に、その接触を最も容易に
受けやすくなる。異なる態度を表明する多くの新聞読者は、すべての情報に精通し自由な
選択をしていると主張するが、彼はまさに多くの知識を持っているがために、受けるはず
がないプロパガンダを誰よりも受けやすくなる。実際、彼は自分が精通していると信じる
事実を整合し説明するプロパガンダを吸収するよう制約されている。このように、情報は
プロパガンダの基礎であるだけでなく、プロパガンダが作用する手段を与える。というの
は、情報は実際のところ、プロパガンダが利用する問題を発生させ、その解決策を提示し
ているかのように見せかける。事実、プロパガンダは一連の事実が世論を構成する人々の
目からみて問題となるまでは作用することができない。
こうした問題が世論に直面し始めたとき、政府や政党、一人の人間などの一部に対する
プロパガンダは、一方で問題を増幅させながら、他方においてはその解決を約束すること
で発展し始める。しかし、プロパガンダは何もないところから簡単に政治的、或いは経済
的問題を作り出すことができない。現実のなかに幾つかの理由が求められる。その問題は
実際に存在する必要はないが、それが存在するかもしれない理由はなければならない。例
えば、日々の情報の配信が人を経済的現実の迷宮に導くなら、人はそうした複雑かつ多様
な事実を理解することの困難に気づき、その結果、経済的本質という問題が存在すると結
論するだろう。しかし、このことは、こうした意見がどのような方法であれ個人の経験と
つながった場合、まったく異なるより深遠な局面に直面することになる。もし、彼が国や
世界で起きていることに無知であったなら、彼の唯一の情報源が同様に知識を持っていな
い近所の人であったなら、実際にある政治的或いは経済的状況の結果として困難を被って
いたとしても、プロパガンダは無効である。村が軍隊に強奪されているときでさえ、プロ
88
パガンダは 19 世紀の人々には効果を持たなかった。なぜなら個人的な経験に直面して人々
は自発的に或いは集団的反射によって反応するのであり、どの出来事においても部分的で
限定的な状況にとどまったからだ。その状況を一般化して、一般的に妥当な現象としてそ
の状況を捉え、こうした一般化に対する特定の反応を作り出すことには非常な困難があっ
たのだろう。甚大な量の自発的な知的労働が必要になる。このようにプロパガンダは人々
が一般的な問題への意識と、それに対する特定の反応を発展させたときのみ可能となる。
こうした反応の形成は、まさに情報の普及が社会的現実との個人的接触を制限している
人々のなかで作り出されるものである。情報を通じて、人はある文脈になかに置かれ、社
会全体に関する彼自身の状況という現実を学び始める。従って反応の形成は、人をそその
かし社会的、政治的行動をさせるだろう。例として生活水準の問題を取り上げてみよう。
個人的な経験や周囲の人の経験を除けば、物価や賃金について何も知らない労働者が、強
い不満を持っている場合には反抗の感情を覚え、次第に直属の上司に反抗するかもしれな
い。こうした反抗はどうにもならないことがよく知られていて、そのことは 19 世紀の大き
な発見だった。しかし情報はこうした労働者に彼が数百万の人と運命を共にしていて、利
害や行動の共同体が彼らの間で存在し得ることを教えてくれる。情報は彼が自分の状況を
一般的な経済的文脈に置き、一般的な経営の状況を理解することを可能にする。最後に、
情報は彼に自分の個人的な状況を理解することを教えてくれる。これが 19 世紀に階級意識
へとつながったものであり、社会主義者が正しく保持しているような、一つのプロパガン
ダよりずっと多くの情報という過程である。まさにその時(情報が吸収される時)、反攻の
精神が革命の精神に姿を変える。情報は結果として、人々は自分自身の問題がまさに一般
的な社会問題の威厳を帯びていると感じるようになる。
この種の情報は入手された瞬間から、プロパガンダはその扉が開くのである。指導者た
ちが反乱を呼びかけるプロパガンダの基本的なかたちは、大衆動員や大きな政治経済的現
実、同じ情報によって至ることで、培われた広範な潮流への関与を基礎とする複雑な現代
的プロパガンダにこの時置き換えられる。
このように、情報はプロパガンダの土壌を整える。多くの人々が同じ情報を受け取る限
り、その反応は同じものになる。結果として、同じ“関心の中心”が作られ、出版物やラ
ジオによって人々を作った我々の時代の大きな問題になるだろう。集団の意見が形成され、
互いの接触が確立する。これは世論形成に不可欠な過程である。もっと言えば、関心の中
心は、共通の反射や共通の偏見の形成を導く。当然ながら、逸脱者や同じ情報に対して同
じ反応を示さない人たちもいる。彼らは既に他の偏見を持っていたり、“強い個性の持ち
主”であったり、或いは単に習慣的なつむじ曲がりである。しかし、その数は一般的に考
えられているよりもずっと少ない。彼らは重要でなく、ある問題や情報によって選別され
たこうした問題の一側面における関心の分極化であり、すぐに大衆心理と呼ばれるものが
作り出される。これはプロパガンダの存在に不可欠の条件の一つである。
89
イデオロギー
プロパガンダ発展の最後の条件は、社会における強い神話やイデオロギーの普及である。
この点において、幾つかの説明がイデオロギーという用語について必要となる。
まず、イデオロギーとは個人や人々が自分の素性や価値について関心を払わずに受け入
れた概念の束であるというレイモン・アロンの言葉に我々は賛同する。しかし、おそらく
クインシー・ライトの(1)評価の要素(心に抱いた概念)、(2)実際の要素(現在に関する概念)、
(3)信条の要素(証明されたというよりむしろ、信じられた概念)を付け加えなければならな
い。
イデオロギーは三つの点で神話とは異なる。まず神話は精神にずっと深く埋め込まれ、
ずっと下へと根を下ろし、より恒久的で、人に自分の条件や広く世界の基礎的な像を与え
るものである。第二に、神話はイデオロギーよりいわんや教義的ではない。イデオロギー(信
じられておらず、証明されていないがために教義でない)はあらゆる概念の束の出発点であ
り、概念は非合理的なときでさえ、変わらず概念である。神話はより知的に拡がっている。
神話は、一部は主情主義、一部は感情的反応、一部は神聖な感情であり、ほとんどが重要
である。第三に、イデオロギーはより受動的である一方(人はイデオロギーを信じつつも側
線にとどまることができる)、神話は活動させるより強い力を持っている。神話は人を受動
的にさせておかず、行動へと駆り立てる。しかし、神話やイデオロギーが共通に持ってい
るものは、それらが集団的現象であり、集団的参加の力から沸き起こる説得的な影響力を
持っているということだ。
このように、我々の社会の基礎的な神話は労働、進歩、幸福の神話であり、基礎的なイ
デオロギーは国家主義、民主主義、社会主義であると分類できる。イデオロギーは基礎的
な教義という点でイデオロギーであり、神話はあらゆる疑問に対する回答や、あらゆる矛
盾が解決してくれる未来の世界の像を持っている点で神話である。神話はあらゆる社会に
おいて存在してきたが、イデオロギーは常に存在していたわけではない。19 世紀はイデオ
ロギーの肥沃な大地だった。プロパガンダが発展するには、イデオロギー的な準備が必要
だった。
プロパガンダを行うなかでのイデオロギーは、とても流動的で変化しやすい。フランス
革命、或いは 20 世紀の米国的生活、1940 年代のソ連の生活を支持したプロパガンダはすべ
て民主主義のイデオロギーにさかのぼることができる。これら三つの全く異なるプロパガ
ンダの種別や概念は、すべて同じイデオロギーに言及している。従って、イデオロギーな
どが主題や内容を与えるからというだけで、イデオロギーが所与のプロパガンダを決定す
ると考えてはならない。イデオロギーはプロパガンダの理由やきっかけとして働く。プロ
パガンダは自発的に湧きあがったものを掴み、その新しいかたちや構造、効果的な経路を
与え、結果としてイデオロギーは神話に変容し得る。我々は後段でイデオロギーとプロパ
ガンダの関係性に戻ってくることにする。
90
第 3 章 プロパガンダの必要性
プロパガンダの共通の見解は、それが悪人たちの仕業であり、人々を誘惑することであ
り、人々を支配しようとするいかさま師や権威主義的支配者というものであり、多かれ少
なかれ非正当な力の女中であるというものである。この見解は常にプロパガンダを自発的
に作られたものと考えている。人が“プロパガンダを行う”ことを決定し、政府がプロパ
ガンダ省を設置し、物事はそこから発展するという想定である。この見解によれば、人々
は誰かが操作し、影響力を与え、利用する標的であり、受動的な群衆である。そしてこの
考えは誰かが群衆を操作できると考える人々だけでなく、プロパガンダは全く効果がなく
簡単にはねのけることができると考える人々によっても共有されている。
言い換えると、この見解は積極的な要素であるプロパガンディストと、受動的な要素で
ある群衆、大衆、人類を区別している。この角度からみると、道徳主義者によるプロパガ
ンダへの敵意を理解するのは簡単である。人類はプロパガンディストによって悪の道へと
押しやられた純真な被害者であり、プロパガンダ受容者は騙されて罠に嵌められているの
だから全く責任がない。闘争的なナチや共産主義者は指揮され、その罠から心理的に解放
され、もう一度自由が与えられ、真実を見せられなければならないまさに哀れな被害者で
ある。いずれにしても、プロパガンダ需要者は自分で助かることができない、空から襲い
かかってくる猛禽に対抗する術を持たない哀れな悪魔の役とみなされる。同様の観点が、
消費者を被害者や獲物とみなす広告研究においてもみられる。こうしてすべてにおいて、
プロパガンダ受容者は微塵も責任を感じず、その現象を完全に自らの外側で発生している
ものと考えている。
この見解は私には完全に間違っているように思える。一つの簡単な事実が我々に少なく
とも疑問に感じさせるはずだ。今日、プロパガンダは公共生活のあらゆる局面に拡がって
いる。我々は個人的な確信に加えて、囲い込みやある集団への統合、行動への参加を包括
する心理学的要素が決定的であることを知っている。組織化の計画、機能の体系、政治的
手法や機構を描くだけでは十分ではない。人は楽しみと深い満足をもって、自分の心の底
から、これらすべてに参加しなければならない。もし、公共市場が求められるなら、人々
に共同市場の覚悟を決めさせるよう一部隊が整えられなければならない。機構はそれ自体
では意味を為さないので、こうした準備が不可欠である。NATOは同様に、その成員の
ためのプロパガンダを必要とする。コミンフォルム(訳注:共産圏情報局)に対応するデム
フォルムを作ろうという 1956 年のガスペリの提案は極めて有意義である。現在の政治的闘
争だけでは不十分である。経済的観点から、不景気が技術的或いは経済的発展よりもずっ
と心理学的であると言うのは尤もである。改革が精力的で効果的であることを期するため
には、不景気は起こらず心配には及ばないとまず人々を確信させなければならない。これ
はエミール・クーエの自己嘆願の方法ではなく、効果的な回復への積極的な参加である。
91
具体的な事例で言うと、フランスにおける農業の“再構築”は何よりもまず心理学的問
題だった。“大衆化の事業”が作られ、技術的なコンサルタントだけでなく、米国におけ
る国家的代理店やスカンジナビア諸国のおける相談役を範に取って主要な心理学的扇動者
を雇われた。大衆化や確信を植えつける努力は同時に行われる。収穫時期に関する技術的
に完璧なプロパガンダ・キャンペーン、“母国”と“生産量”を忠言しながら村中で叫ん
で回る数多のプロパガンダ代理店、ラジオ放送や映画、ペナントレースさながらの収穫結
果の日次発表など、完全に成熟した農業のプロパガンダという方向性でソ連はいまだにか
なり先進的である。このキャンペーンで接合するものは、地元紙、コムソモール(共産青年
同盟)、トラック運転手、祝祭、踊り、民謡、褒美、装飾、表彰である。ソ連は工場労働に
同じ手法や全体の努力を、“労働者の部分について完全に理解することは生産力の向上に
おいて決定的な要素である”と説明する方法として用いている。生産性という大義に対す
る労働者の忠誠を得ることは必要である。労働者は彼の仕事として革新を受け入れ、追い
求め、彼の組織を支持し、労働の機能を理解しなければならない。これらはすべて、心理
学的操作、大変長い時間をかけて正確性をもって行われたプロパガンダによって獲得され
る。
軍隊にあっても、こうした技法は同様に重要である。最も良い事例は、新しいドイツの
軍隊である。ドイツの兵士は自分たちが守るものの妥当性を確信していなければならず、
愛国心はもはや領土的でなくイデオロギー的である。この心理学的接近は、兵士に対して
決定と選択の能力によって個人的な訓練を施すように設計されている。軍事的な技術だけ
ではもはや事足りない。これらはすべて個人的な決定の概念を含んだ純粋なプロパガンダ
である。というのは、人は“真実”によって教化されるとすぐに、自分の良心の自発性か
ら期待されたように動くからだ。ヒトラーの軍隊においてはこれがプロパガンダの主要な
目的だった。そして 1940 年の個々のドイツ兵の進取の精神に向けた能力は偽りなく顕著な
ものであった。
最後の例は別分野のものである。ソ連における 1959 年の国勢調査に関して、巨大なプロ
パガンダ・キャンペーンが浴びせられた。なぜならこうした国勢調査が行われる速さと結
果の正確性は、国民の善意と正直さに基づくものだからだ。そのため、速度と正確さを得
るために世論が動かされた。あらゆる報道機関と大衆組織は、国民をプロパガンダに包む
よう活動を行い、プロパガンディストたちは人々に何が計画されているかを説明し、尋ね
られるであろう質問に関して偏見や疑念を和らげるべく国中であまねく叫んだ。
これらはプロパガンダのまったく異なる応用の事例である。しかし、プロパガンダが大
きな広がりを持つためには、欲求に対応している必要がある。国家はその欲求を持ってい
る。プロパガンダは国家や当局にとって明確に必要な装置である。この事実は単なる悪の
遂行人としてのプロパガンディストという概念を吹き飛ばす一方で、積極的な権力対受動
的な大衆というプロパガンンダの構図をそのままにする。そして、我々はこの構図もまた
吹き飛ばされる必要があると主張する。プロパガンダの成功には、人の一部にあるプロパ
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ガンダへの欲求に対応している必要がある。馬を水辺に曳いていくことはできても、水を
飲ませることはできない。プロパガンダを通じてプロパガンダが与えるものを求めていな
人々に接触することはできない。プロパガンダ受容者は単なる純真な被害者などでは決し
てない。プロパガンダ受容者は心理学的プロパガンダの行動を引き起こすが、単にそれに
乗り出すのではなく、そこから満足を得ることさえする。先の暗黙の同意なくして、技術
の時代にあっては事実上すべての市民が経験するプロパガンダへの欲求なくして、プロパ
ガンダは拡がり得ない。純真な市民を罠にかけるための手立てを準備する邪悪なプロパガ
ンディストが存在するというだけではない。むしろ、心底からプロパガンダを欲する市民
と、その欲求に応えるプロパガンディストが存在しているのである。潜在的なプロパガン
ダ受容者が求めなければ、プロパガンディストは存在し得ない。プロパガンダはただ意図
的なものでもなければ、権力を持った幾人かによる多かれ少なかれ独断的な創造でもない
と考えるのは、こうした理由で本質的である。プロパガンダはそれを維持する集団の欲求
にその根源や理由を持っているという意味で、厳格に社会学的現象である。我々はこのよ
うに二つの欲求に対峙している。プロパガンダを行おうという体制の側の欲求と、プロパ
ガンダ受容者の欲求である。これら二つの条件はプロパガンダ発展のなかで、互いに呼応
し補完し合う。
1.国家の必要性
現代国家のジレンマ
大衆が政治的問題に参加するようになっているという単純な理由で、権力の行使におい
てプロパガンダは必要とされている。我々はこれを民主主義とは呼ばない。これは民主主
義の単なる一面に過ぎない。まず始めに、大衆の具体的な現実というものがある。人口密
度の低い国において、政治は互いにも大衆からも分離した多くの小集団によって行われる。
小集団は世論を形成せず、権力の中心からはほど遠いものである。権力の座への大衆の接
近は、とても重要である。ペリクレスとティベリウスは、ルイ 16 世とナポレオンがそうで
あったようにこのことを熟知していた。彼らは大衆の圧力の外側で平和裏に統治を行うた
め、近接によってのみ権力の条件に影響を与えようとせず、群衆から離れた地方に自らを
置いた。この単純な事実は、なぜ政治がもはや王子や外交官の策略ではあり得ないのか、
なぜ宮殿の革命が大衆の革命に取って替わっているのかを説明してくれる。
最近では、統治者は自らを大衆から引き離して、程度の差はあれど秘密の政策を行おう
などということはできない。統治者はもはや象牙の塔を有していない。至るところで統治
者は多数の存在に直面させられる。統治者はただ現在の人口密度のために大衆から逃れら
れないのではない。大衆は至るところにいる。もっと言えば、現代の交通手段の結果とし
て、政府は首都の人々とだけでなく、国全体と頻繁に接している。統治権力との関係のな
かで、いまや首都の人々と地方の人々の差はほとんどない。この物理的近接は、それ自体
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が政治的要素になっている。もっと言えば、大衆は出版物やラジオ、テレビを通じて権力
者を知る。国家の元首は人々と接しているのだ。彼はもはや多くの政治的事実を人々に知
られざるを得ない。この発展は採用された幾つかの教義の結果ではない。大衆と政府の関
係性によって発展した公権力への大衆の参加を、民主主義的教義が求めるからではない。
これは単純な事実であり、人口変動による不可避の結果である。それゆえ、もし統治者が
自分一人で策略を練り、秘密の政策を継続したければ、大衆におとりをしかけなければな
らない。統治者は大衆から逃れることはできないが、大衆との間に目に見えないカーテン
や幕を引くことはできる。本当の政治はその後ろで行われ、大衆は投影された政治の影を
見ることになる。
こうした逃げ口上を除けば、政府は事実上人々の支配下にある。法的な支配でなく、人々
が政治に関心を持ち、自らの意見を知らしめようとして、政府の動きを追い続け、理解し
ようとするという単純な事実に由来する支配である。結局、大衆は政治に関心を持つ。こ
れもまた新しいことである。新聞を注意深く読まない人でさえ検閲の思想には、特に政府
が何かを隠そうとしてそれを闇に葬り去ろうとする時にはぞっとする。最近大衆は政治的
判断を行うことに慣れている。民主的過程の結果、大衆は政治的代替案について相談を受
け、政治的情報を受け取ることに慣れている。これは習慣でしかないが、これまでに深く
染み込んでいる。逆行しようとすれば、欲求不満の感情や不正義の叫びが即座に引き起こ
されるだろう。大衆が政治に関心を持っていることは、それが深いか浅いかはどうであれ
事実である。その上、あるごく単純な事実によって今日では歴史上かつてないほど政治的
決定が人々に影響を及ぼしていると説明できる。かつて戦争は、少数の兵士と取るに足ら
ない領地にだけ影響を与えていた。今日では全員が兵士である。そして人々全体や国家の
領土全体が巻き込まれている。それゆえ、誰もが戦争や平和に関して自分の意見を述べた
いと思っている。
同様に、税は 17 世紀の少なくとも 10 倍に達している。納税者がその使途に関与しよう
と考えるのも当然である。政治的生活に求められるこの犠牲は増え続け、全員に影響を与
えている。それゆえ誰もが自分に直接影響のあるこの策略に参加しようとしている。国家
の決定が私に影響を与えるのだから、私はその決定に影響を与えたい。結果として、政府
はもはや大衆なしには、大衆の影響力や存在感、知識、圧力なしには統治できなくなって
いる。しかし、その時大衆はいかに統治できるのだろうか。
世論の役割は、単純で自然な事実とみなされる。政府はこの世論が産み出すものである。
世論から政府はその強靭さを獲得する。政府は世論を表出する。ナポレオンの有名な言葉
を引くなら、“力は世論に基づいている。世論に支持されない政府などあるだろうか。あ
り得ない”。理論的には、民主主義は大衆の意見の政治的表出である。ほとんどの人は、
民主主義とは単にこうした意見を行動に変換するものであり、政府は大衆の意思の方を向
くとことが正当であると考えている。不幸にも、実際にはこうしたことはほとんど明確に
なっておらず、それほど単純でもない。例えば、世論は選挙で表出されず、政治的潮流の
94
明確な表出には程遠いことがますます分かっている。我々はまた、世論がかなり不安定で
流動していて、決して落ち着かないものであることを知っている。もっと言えば、こうし
た世論は、非理性的で予見できないかたちで発展する。世論は単純化し過ぎた見解が考え
るように、政治的な課題に対峙する理性的な判断を有する多数派によって構成されるので
はない。世論の根本的に非理性的な性質は、民主主義における支配に向けた力を減じるも
のだ。民主主義は、人が理性的で自分の利害が何であるかを明確に理解できるという考え
に基づいているが、世論の研究はこの考えが大いに疑わしい仮定であることを示している。
そして、世論の担い手は一般的に大衆的な人であり、心理学的に言うと、その人は適切に
市民の権利を行使することに向いていない人である。
このことは我々を以下のような考えに導く。政府はもはや大衆の圧力や世論の外では動
き得ない一方、もう一方で世論は民主主義的な政府の形式で自らを表出できない。確かに、
政府は世論を知り、常にそれを確かめなければならない。現代国家は、常に出版や世論の
調査を行い、さまざまな方法で世論の意向を探ろうとしなければならない。しかし、根本
的な問題がある。そのとき国家はその世論に従い、世論を現し、世論に奉ずるのだろうか。
我々の明確な答えは、民主主義国家においてさえも国家はそうはしないということだ。こ
うした国家による世論への服従はあり得ない。まず、世論のまさにその性質がゆえにあり
得ず、次に現代的政治活動がゆえにあり得ない。
世論は大いに多様で流動しているので、政府は行動の方向性を世論に基づくことができ
ない。政府が世論調査に配慮して目的を追求し始めるとすぐに、その世論はそれに対して
逆行を始める。意見の変化が急速である限り、政策の変化は同様に急速でなければならな
い。世論が非理性的である限り、政治行動は同様に非理性的でなければならないだろう。
そして、世論は常に究極的に“不適任者の意見”であるので、政治的決定は放棄されるこ
とになる。
単純な世論追従という事実上の不可能性は別として、政府はある程度の機能、特に完全
にこうした世論の外側にある技術的性質の機能を持っている。多数を巻き込む何年も続く
事業に関して、世論追従はその事業の発端であろうと、世論が明確になっていないときで
あろうと、或いはそのあとの事業が進み過ぎて後戻りできないときであろうと、問題には
ならない。フランスのサハラ地域における石油政策やソ連における電化のような問題にお
いて、世論は何の役割も果たさない。事業が国有化している場では、社会主義者の明確な
意見に関わらず、同じことが当てはまる。多くの事例において、政治的決定は、我々の時
代の新しい政治的状況から現れた新しい問題に合わせて行われなければならない。こうし
た問題は固定観念や固まった世論のかたちに合わない。世論は一夜のうちに明確にならな
いし、あいまいな象徴や神話が世論と合体するまでは、政府は行動や決定を延期すること
はできない。現在の政治の世界では、行動は常に世論の先を行かなければならない。世論
が既に形成されている場においてさえ、世論に従うことは破滅的になり得る。最近の研究
は、外交政策の問題における世論の悲劇的な役回りを示している。大衆は道義と国家政策
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の間の矛盾を解決できないし、長期の外交政策を考えることができない。フランクリン・
ルーズベルトのソ連への政策、或いはジョンソンの押しボタン政策のように、大衆は政府
を破滅的な外交政策へと押しやる。外交政策における最大の危険は、危機の形成や爆発の
なかで現れる世論によるものである。明らかに、世論は外交についてあまり知っておらず、
配慮に欠けている。矛盾する願望に引き裂かれ、主要な問題において意見が分かれ、政府
は最善と思われる外交政策は何でも行うことができる。しかしすぐにさまざまな理由から、
世論は一点に収斂し、熱気が増し、人々は興奮して自説を主張し始める(例えば、ドイツの
再武装問題に関して)。この世論に従うべきだろうか。世論が散発的に現れ、度重なる爆発
で湧きあがる限り、世論は外交政策の必要条件と逆行し、過去の合意や既存の同盟をひっ
くり返す傾向がある。こうした世論は断続的で断片的であるので、政府は世論が求めたと
してもそれに従うことはできない。
それゆえに、民主主義においてさえ、正直で真面目で慈悲深く、有権者を尊敬する政府
も世論に従うことはできない。しかし、政府はそれから逃げることもできない。大衆はそ
こにあって、政治に関心を持っている。政府は大衆なしに活動できない。それでは政府は
何ができるのだろうか。
唯一可能な解決策は、政府が世論に従うことができないので、世論が政府に従うという
ことである。現在の重苦しい熱烈でない大衆に対して、政府の決定は正当で外交政策は正
しいと信じさせなければならない。民主主義国は世論の言うことを信じ、口を封じること
はしないので、もし民主主義国家が現実的であり、イデオロギー的な夢想に従おうとはし
ないなら、人々の意見を伝え流して形作らなければならない。 ゴルディオスの結び目は他
の方法では断ち切ることができない。もちろん、政党は世論を政府の意見へと調整する役
割を既に担っている。多くの研究が、政党はしばしば世論に同意せず、有権者は党員でさ
えもしばしば党の教義を知らず、人々はイデオロギー的な理由以外の理由で政党に属して
いることを示している。しかし政党は、自由に動き回る世論を、必ずしもそうした世論の
元となる教義に対応しない反対側に分極させながら、既存の定式へと流し込む。政党はと
ても厳格なので、政党はどんな問題に対しても一部にしか対処しないので、政党は純粋に
政治的に動機づけられているので、政党は世論を歪めて、世論が自然に形成されることを
妨げる。しかし、既にプロパガンダの影響であるところでは、政党の影響力を超えても、
政府の行動はそのなかにそれ自体で存在する。
最も慈悲深い国は人々に対して国家がすることを知らせるだろう。政府は自分たちがい
かに行動するか、なぜ行動するか、問題は何なのかを説明することは有意義だが、こうし
た情報を発信するとき、政府は冷静にその目的を維持できない。政府は反対のプロパガン
ダを妨害するためであっても、必ずその真相を弁解しなければならない。情報だけでは効
果的でないために政府が自らの行動や国民の生活を民間事業に対抗して擁護することを余
儀なくされるときは特に、その伝播が必ずプロパガンダにつながる。自らの特定の利害を
強調する巨大企業や圧力団体はますます心理学的操作を使うようになっている。政府はこ
96
れといった対応はせずにこのことを認めるべきだろうか。純粋で単純な情報は現代的プロ
パガンダの手法に対して普及し得ないので、政府もプロパガンダを通じて活動しなければ
ならない。フランスでは 1954 年に、こうした状況が起きた。軍が映画やパンフレットを用
いて、政府の欧州防衛共同体プロパガンダに対抗しようとしたときである。しかし、兵士
は投票する時から、外部団体からのプロパガンダを受けていて、また自分自身が圧力団体
の一員だった。何という組織なのだ!軍はそれ自体潜在的に強力な圧力団体であり、フラ
ンスの有名な政治的停滞は部分的には心理学的手段によってこうした団体に影響を与えて
分解させようという歴代政権の努力によるものとみられている。政府において、他のすべ
ての団体がしていることを、自分たちも行うという権利を否定することがいかにできるだ
ろうか。現代国家に独立団体の容認をいかに求めることができるのか。“どのような方向
へのプロパガンダもあってはならない”ということを実現しようとした 1954 年のプレヴァ
ンの要求は道徳的には最高に満足のいくものだが、純粋に理論的で非現実的である。もっ
と言えば、彼はプロパガンダと呼ばれているものが、政府が分配した情報であり、純粋で
単純であると主張し続けた。実際、この二つの現実、情報とプロパガンダはあまりに違い
がなさすぎ、我々の側が言っていることは情報に他ならず、軍の言っていることはプロパ
ガンダに他ならないといった程度のことである。
しかし、さらに言わなければならないことがある。民主主義において、市民は政府の決
定と結びついていなければならない。これはプロパガンダが担う偉大な役割である。その
結びつきは人々に対して“政府がすることを求めてきたために、政府の活動に責任がある
ために、その活動を擁護し成功させることに関わっているために、‘政府とともに’ある
ために”という感情を与えなければならず、その感情は人々が求め、人々を満足させるも
のである。著述家のレオ・アモンはこれこそが政党や組合、協会の主な任務のであるとい
う意見を持っている。しかし、これはすべての答えにはならない。より直接的で感情的な
活動は、世論をあらゆるものと、特に政治権力の活動と結びつける必要がある。米国の著
述家ブラッドフォード・ウェスタ―フィールドは言っている。“米国において、政府はほ
とんど恒常的に主導権を握って外交政策を展開するが、人々が特定の問題に関心を持って
いる場においては人々の実質的な多数派の明確な支持をもってのみ進捗できる”。ウェス
タ―フィールドは、時に譲歩が人々になされるが、“もし大統領が本当に世論を導くなら、
人々が政府の外交政策を総体として容認するなら、必要な支持を取りつけるために大きな
譲歩をする必要はなくなるだろう”と強調している。ここに我々はどんな現代国家も民主
的国家でさえも、プロパガンダを通じた活動という任務を負わされていることを確認する。
さもなければ、政府は活動できない。
しかし、別の出発点からも同じ分析を行う必要がある。我々は現代国家のジレンマを調
べている。19 世紀、民主主義的動乱が起こり、最終的に権力の正当性に関する概念を伴っ
た大衆が受胎して以来、その正当性に関する一連の理論の後に我々は今、著名な人民統治
の理論に辿り着いている。権力は、それが人民統治に由来し人々の意思に基づいていて、
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人々の意思を表出して従う場合のみ正当であるとみなされている。この概念の妥当性は、
理論的見地から永遠に議論することができる。歴史を通じてそれを検証することができ、
それがルソーの考えていたことなのかと問うこともできる。いずれにしても、この抽象的
な哲学理論は大いに発展し、平均的な人の精神では反駁できない概念になっている。平均
的な西洋人にとって、人々の意思は神聖であり、その意思を表出できない政府は言語道断
の独裁である。人々が自分の精神を語るときは常に、政府は共にあらねばならず、その他
に正当性の源泉は存在しない。これは基本像や集団的偏見、既に自明の信条になっていて、
もはや単なる教義や合理的理論ではない。この信条は過去 30 年間で実に広範に拡がった。
我々はいま、すべての共産主義国に同じ揺るぎない、絶対的な信条を見ることができ、む
しろ辺鄙であろうイスラム諸国にさえ、見られ始めている。こうした定式の伝染力は尽き
ることがないようだ。
逆に、人々の統治に基づかないなら、政府に正当性はなく、正当であることを主張でき
ない。人々の統治に基づかないなら、政府は即座に放り出される。人民統治に関するこの
神秘的な信条のために、すべての独裁者は自分が統治の表出であることを証明しなければ
ならない。長い間、人民統治の理論は民主主義の概念と結びつけられて考えられてきた。
しかし、その教義が最初に適用されたとき、その教義が最も厳格な独裁へと、つまりジャ
コバンの独裁につながっていったことを思い出さなければならない。それゆえ、我々は現
代の独裁者が人民統治について語ったとして、とても不平など言えないのである。
このように、政府はこの考え方を叶えずに、この考えを共有しているさまを見せずに、
存在することはできないという信条の力がある。この信条から、独裁者は国民投票によっ
て選出されるべきとの必然性が湧き上がってくる。ヒトラー、スターリン、チトー、ムッ
ソリーニは皆、自分が人民からその力を得ていると主張することができた。このことは、
ヴワディスワフ・ゴムウカ(訳注:ポーランドの政治家)やラーコシ・マーチャーシュ(訳注:
ハンガリーの政治家)にさえ当てはまる。どの国民投票も素晴らしい結果を見せていて、全
投票の 99.1%から 99.9%を獲得している。選ばれた者も含めて万人にとって、これがただ
の体面上のことで、意味のない人民への“諮問”であることは明らかだったが、それがな
ければならないものであることも同様に明らかだった。儀式は正当性がまだそこにあり、
人民がまだその代表者らと完全に一致していることを示すために定期的に繰り返されなけ
ればならない。人民は自らこれらすべてのことを行う。結局のところ、投票者が本当に投
票していることや投票者が望まれたかたちで投票していることは否定できない。結果は偽
りではない。応諾である。
人民統治が実際に応諾以上の何かであり得るのか。人々に影響を与えようという先の試
みなしに、本当の立憲的なかたちが人民から現れ得ると期待してよいのだろうか。こうし
た推察は馬鹿げている。唯一の現実は、人民が同意することを提示するということだ。こ
れまで、我々は、提示されたことに最後まで従わない人民の事例をただの一つも知らない。
国民投票や一般投票において、“賛成投票者”が“反対投票者”を常に上回る。我々はこ
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こに大衆に影響力を与えるために用いられた装置であるプロパガンダをもう一度見て見る
ことにする。政府はプロパガンダによって人民の応諾を通じてそれ自体に正当性を与える。
このことは、さらなる二つの熟考につながる。まず、応諾が政府の形式だけでなく、あ
らゆる政府の重要な活動によって獲得されなければならない。ドルアンが的確に言ってい
るように、“権力の高みから自分たちの決定を下す中国官吏によって指図されるような感
覚を持つこと以上に人々を苛立たせることはない”。このように、人々によりよく“伝え
る”ことが求められる。“決定は分別があるというだけでは十分でない。その理由が与え
られなければならない。事業のため・・・うまく機能するため、その弱みを隠すことなく、
その費用を隠すことなく人々の前で分解してみせることが最善である・・・人々が求めら
れた犠牲の意味を明確にするために”。しかし、こうした情報はまさに応諾と参加を求め
るものである。言い換えるとそれは最も深い意味でのプロパガンダである。しかし、我々
は政府がこうした動きをするのを見ることに慣れてきている。
1957 年にソ連の人々がフルシチョフの経済再構築に関する論文を研究し議論するよう求
められたとき、我々は真に驚くべき施行を目撃した。その基礎となる主題は、すべて人民
によって決定するということだった。このとき、人々はどうやって同意しないでいられよ
うか。どうやって人々は自分たちが最初に決定したことに完全に従わずにいられようか。
この論文はまず人民に示された。当然ながら、それはその後あらゆる党の組織で、コムソ
モールで、組合で、地方政府で、工場などで、アジ宣伝の専門家によって説明された。そ
して議論が巻き起こった。次にプラウダ紙が人々のためにコラムを開き、多くの市民が論
評を送り、自分たちの意見を表明し、修正を示唆した。その後、何が起きたのか。全体の
政府計画は、何の修正もなく最高会議を通過した。代議員によって提案されまた支持され
た修正案さえも却下された。市民個人によって提案されたさらに多くの修正案もすべて却
下された。というのは、彼らは個人の(少数派の)意見に過ぎず、民主主義(多数派)の観点
で重要でなかったからだ。しかし、人々は諮問され、議論の機会を与えられた。
彼らにはそう思えたので、意見を求められ考察されたことに大きな満足を得た。これこそ
が権威主義者の政府がそれなしでは済ますことができない民主主義の実態である。
これを越えて、こうした実践は論理的には人民民主主義の原則に由来し、しかしなが
ら現代的プロパガンダの結果としてのみ発展可能な手法を政府が取り入れることへとつな
がる。政府はいまや二つの方法の中間で大衆を通じて活動する傾向がある。まず、政府は
政策の支持を得るために、ますます頻繁に人々に近づこうとしている。決定が抵抗に合い
そうなとき、或いは完全には受け入れられないとき、プロパガンダは決定を進めるために
大衆に接触する。大衆の何気ない動きでも決定に妥当性を与えるには十分である。それは
国民投票の延長に過ぎない。警察によるクーデターのあとチェコスロバキアに人民民主主
義が設けられたとき、労働者階級の大規模な会議が行われ、人民が完全に賛同していると
証明するために華々しく催され、運営され、盛り上げられた。フィデル・カストロは彼の
権力が民主的な意見に基づいていることを示そうとして、正義の日を設け、その日は全員
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が過去の政権の判断に座り込みの抗議をし、大規模なデモを通してその感情を表すよう求
められた。このデモは国家裁判所に言い渡された死刑宣告を“公認”のものとし、判決に
“民主主義的是認”を与える手段であった。こうすることで、カストロは過去の政権への
復讐と流血の渇望という欲求を満たすことで深遠な人々の忠義を獲得したのである。彼は
結束、儀式的重罪で最も強く人々を政府と結びつけた。正義の日(1959 年 1 月 21 日)は疑い
もなくプロパガンダにおける大きな発見だった。この日は海外ではカストロに決まりの悪
さを感じさせたが、国内では確かに大きな成功となった。こうした人民の活動の誘発は常
に、政府活動の支持に寄与するということに注意されたい。それは少しも自発的でないし、
人々の本質的な望みを少しも表してはいない。それは群衆の数多の喉を通して、政府のプ
ロパガンダの叫びを表しただけのことである。
第二に、これはより緻密な手順となるが、政府のプロパガンダは世論がこの決定やあの
決定を求めていると示唆するというやり方である。政府のプロパガンダは、自発的には何
も言っていない人々の意思を引き起こす。ある論点で人々の意思が一度引き起こされ、形
成され、純然たるものとなると、その意思が人々の意思となる。最初に世論を作った後は、
政府は思いのままに活動するものの、人々の意思に従っているような印象を与える。要点
は大衆に政府が既に行うと決定していることを政府に要求されることである。政府がこの
手順を採れば、政府はもはや権威主義と呼ばれるはずがない。人々の意思は行われている
ことを求めるからだ。このようにして、ドイツの世論は満場一致でチェコスロバキアの解
放を求めたとき、ドイツ政府は人々に従ってチェコスロバキアに侵攻するほか選択肢を持
たなかった。プロパガンダを通じて世論が政府に影響力を与えるのに十分強くなると、政
府は世論の圧力で動いた。カストロの正義の日は同じことである。それは周到なプロパガ
ンダ・キャンペーンによって準備され、十分な配慮をもって喚起された人々は政府が“正
義”の行動を行うことを求めることになった。このように政府は単に行動への賛同を獲得
したのではない。人々が実際に厳しい懲罰処置を政府に求め、大衆的政府は単にその要求
に応えた。もちろんその要求とは政府のプロパガンダによって作られたものである。人々
に予め決定していることを求めさせ、それがまるで自発的で最も深い部分の望みであるか
のようにみせる、この継続的なプロパガンダ活動は民主的で慈悲深い政府よって行われ、
今日的“大衆政府”の関係性を最もよく表している。この体系はソ連において特に用いら
れていて、この点においてニキータ・フルシチョフは何も自由主義化しなかった。まった
くとんでもない。しかし、この特有の現象の出現は、人民統治の原則が実施され始めた日
から予期できたことだ。その時点から、プロパガンダの発展を偏向や偶発と見なすことは
できないのだ。
国家とその機能
政府の視点から、二つの追加的要素を考慮しなければならない。世界中の民主主義の競
争的環境と、国家的徳や市民的な徳の分解である。
100
なぜ、全体主義的体制はプロパガンダを用いようとするなどと安直に考えるのだろうか。
もし我々が民主主義体制を有利に解釈するなら、民主主義体制は悔恨と嫌悪をプロパガン
ダの使用に対して感じるだろうか。しかし、こうした民主主義体制は、彼らは直面しなけ
ればならない外部的課題がゆえに、その使用に駆り立てられる。ヒトラー以降でさえ、民
主主義は容赦ない心理戦の影響を受けている。そのとき問題になるのは、どちらの体制が
拡がるかということである。というのは、両者がともにそれぞれ普遍的な妥当性と便益を
持っていると主張するからだ。従って両者は互いに対抗せざるを得ない。共産主義体制は
人々の幸福の先駆者であると主張するので、彼らに取って代わろうという他のあらゆる体
制は破壊する意外に選択肢がない。しかし、西洋の民主主義にとっても問題は同じである。
彼らの目には、共産主義体制は酷い独裁に映る。こうして、非共産主義国において共産主
義政党を通じて共産主義が関与する限り、一方は他方を主にプロパガンダなどを通じて邪
魔をしなければならない。これは翻って民主主義に国内プロパガンダをさせることになる。
もし西洋諸国が共産主義政党やソ連に対して拡がろうとするなら、経済発展が加速しなけ
ればならない。実際、二つの体制の競争は、部分的に経済領域において拡がっている。我々
は皆、フルシチョフの経済的挑戦を知っている。経済発展の加速は、民主主義の中心で潜
在的な力の組織化や動員を必要とし、民主主義は心理学的事業、特別な訓練、生産性の情
報に必要な恒常的なプロパガンダ・キャンペーンを必要とする。これが体制間競争の一つ
の結果である。
この競争は同様に他の位相でも起きている。この二つの体制の競争の影響を受けずにい
られる者はいない。不幸にも、これが一部の人が歓迎するところの世界的連帯の結果であ
る。誰もビッグ 2 の軋轢の外側には居られない。民主主義は、すべての小国を征服し掌握
しなければならず、さもなければ小国は共産主義の軌道へと落ちてしまうと考えている。
この目的を追求するなかで、二つの手段が連結して使われている。経済的手段とプロパガ
ンダ的手段である。伝統的な帝国主義の時代には、束の間の軍事活動によって時々支持さ
れれば、経済的手段だけは十分であった。今日、この手段はプロパガンダなしには効果が
ない。例えば、1960 年に米国は三度ソ連と同様に途上国に多大な支援を行った。プロパガ
ンダのおかげで、ソ連は偉大な支援者であり恩人であるとみなされ、信頼を獲得した。そ
れ自体が世論に影響を与えることはない経済援助が成功するには、人々の心や精神が獲得
されなければならない。同様に、プロパガンダはそれ自体、何も実現しない。プロパガン
ダは目覚しい経済活動によって実現されなければならない。疑う余地もなく、民主主義国
はこれまでのところアジアやアフリカの人々に向けた競争に敗れている。プロパガンダが
劣っていることと、その使用に前向きでないことが理由である。このように、民主主義国
は決定的な敗北を避けるために、いまや抵抗しがたくプロパガンダの使用へと追い詰めら
れている。心理戦は平和政策の日常的主食物となっている。国民全体の心理的征服は必須
となっていて、何びともそこから逃れることができない。もはやプロパガンダ的手段を使
用するかしないかを判断するまでもない。選択の余地などないのだ。
101
侵略の新しいかたちを分析する正当な理由が存在する。軍事的侵略は間接的侵略、経済
的、イデオロギー的侵略に取って変わられつつある。プロパガンダはその標的となる体制
から世論の支持を奪い取ることで、その体制の強さを衰えさせる。オーストリアやチェコ
スロバキアはナチによる侵攻前のプロパガンダによって不能状態に陥った。拡張論者が一
人もいない他の国々も、常にこうした侵略を受けている。こうした国々は同様の心理戦の
手段を用いなければ、自分たちを守ることができない。というのは、国際的な組織や裁判
所はこうした侵略のかたちに対抗することができないからだ。心理学的活動はあまりに変
幻自在でかつ緻密であるために特定ができず、法的に裁定を下すことができない。特に心
理学的侵攻に法的に対抗するという理由で、権利章典によって保障されている言論の自由
を否定することはできない。このように問題は所与の状態から直接湧き上がってくる。い
かなる国家もプロパガンダ的侵攻から自らを守る責務を負わなければならない。一つの国
がこの道を採用されればすぐに、他のすべての国は結局その先例に従わなければならない。
さもなければ破滅である。
民主主義は一般的に効果的な心理戦のために組織化されていない。フランスの専門家た
ちは正当化の意味を込めて、“軍隊だけがその構造上、心理戦に関与できる”と言ってき
た。しかし、プロパガンダを行われなければならない民主主義体制の必要性に際して、“冷
戦の世界において、国内の政治思想は戦略的にならなければならない”とも言っている。
それゆえ問題は、政治と軍事の二分法を解体して、軍隊の政治的機能を定義し統合するこ
とにある。プロパガンダを行う必要性の結果として、民主主義はその構造に変化を余儀な
くされる。しかし冷戦は、邪魔を図る外部の敵に対する活動だけでは事足りない。冷戦は
物事が国内で“しっかりと掌握される”ことを求めている。国家は心理学的に市民を武装
させ、保護し、擁護しなければならない。民主主義のイデオロギー的構造が弱ければ、そ
れらはより必要になる。
ここに、我々は今日的世界における新たな問題にかつて以上に直面することになる。国
家の価値が安定的でその市民が忠実で満場一致であるときのみ、市民が市民的徳を実践す
るときのみ、国家は生き長らえることができる。しかし、今、基本的な価値の危機や市民
的徳の弛緩が多くの西洋民主主義国で起きている。政府は、国家を心理学的にまたイデオ
ロギー的に再構築しなければならず、翻ってその必要性が心理学的活動を正当化する。実
際、この関係性のなかで、こうした心理学的活動に反対する人はほとんどいない。だれも
がそれを必要としていて、“兵士の道徳教育と真実の電話に限るのであれば”正当化され
ると考えているようだ。しかし、多くの人は人々の心に圧力をかけることには反対する。
善意ではあるものの、反対する人たちは、真実を述べることと心に圧力をかけることとい
う、彼らが分離しようとする二つの要素が実は同一であるということを見落としてしまう。
国家の再構築の必要性がイデオロギー的に感じられる時点で、その手法は当然純粋で単純
なプロパガンダである。もちろん、追求される目的は純粋である。例えば、フランス軍は
こう言っている。
102
・・・心をとりこにするために心理学的活動に従事することとは距離を置いて、多くの大佐
は人類の自由を守ることだけを所望する・・・彼らはある目的のために人の能力を損なう教義
に捕まるような自由の選択を許さないと考えている・・・彼らは起こり得る戦争が精神への攻
撃、より正確には精神の機能の一部に対する攻撃を含むであろうことを知っている。意思・・・
軍隊における心理学的活動は、人に自由がまだ存在する場においてはその擁護のための十分な
手段を与えるだけのことである。この目的のためには、もしその抵抗する意思が攻撃を受ける
なら、抵抗の意思を強めればよい。危機に瀕した人には我々の目的、任務、それらを得る手段
が告げられなければならない。
ここに、心理学的活動が最も好都合な光のなかに現れる。我々はその推論に反対するこ
とさえできない。それはほとんどの自由主義者の感情に呼応している。ここに、心理学的
活動はある種の国家的教育として現れる。あるフランス人著述家によれば、心理学的活動
は“道義を形作り、発展させ、維持するように、兵士に敵の心理的攻撃に対する免疫をつ
けさせるために設計される”。これは戦時が想定されている。最初の攻撃は、“適切な内
部の精神的結合を維持しなければならない”軍隊を作ることである。それはこのように詳
述される。
・・・軍事作戦下におかれたすべての人々における市民的、道徳的な教育、客観的情報とい
う文脈のなかで、自由民主主義の市民を精神的に武装させるためだけに設計されたプロパガン
ダに反対し・・・用いられる手法は教育や人間関係の手法である。彼らの主な目的は、彼らが
接触する人々の協力を得ることであり、説明して直面している問題のさまざまな側面を理解さ
せる。
言い換えると、その目的は軍隊による市民教育である。兵士は市民の現実と文明の価値
を学ばなければならない。これはただフランスだけの問題ではない。付随的にドイツにお
いてもまさに同じ方向性がある。しかし、軍隊の教育が部隊を制限できないことは明らか
である。こうした仕事は、もし若い新兵がすでに強化されていれば非常に容易いものとな
る。一方、もし軍が市民の徳を単独で維持するなら、軍は孤立を感じるだろう。こうした
仕事を効果的にするには、こうした仕事が国全体で行われる必要がある。こうして軍は国
家の教育者になるよう促されるようになる。国全体に関する国家による心理学的活動はこ
のとき、必須となる。1957 年の心理学的行動に関する暫定宣言は、政府の一部の中立主義
が破壊を招き、政府を危険な状況に陥らせている市民教育の欠如は若者を愛国心の欠如へ
と、また利己主義へと、そして虚無主義へと導いていると宣言した。
このことは、心理学的活動の背後にある良い目的、正当な関心、深刻な目的を見事に表
している。しかし、心理学的活動とプロパガンダの間には、敵の手法と自らの手法の間の
103
厳格な違いには甚大な幻想がなかっただろうか。実際、形成され巻き込まれた人々から成
る大衆や所与の国家主義的反射に直面して、価値の基準が導入されなければならず、それ
によって人々はあらゆるものを判断できるようになる。もし、多大な時間、優れた教師の
十分な供給、安定的な機構、多くの資金があるなら、もしフランスが戦争や国際協力に関
与しないなら、情報と正しい事例を通じて最後には市民の徳を築くことは可能かもしれな
い。しかし、それは現実的ではない。活動は迅速でなければならず、手元には僅かな教師
しかいない。それゆえ、一つの方法だけが採用される。最も効果的な装置と、証明されて
いるプロパガンダの手法の活用である。プロパガンダ間の闘争において、ただ一つのプロ
パガンダだけが効果的にすばやく反応できる。
結果として、人格へのプロパガンダの効果は、まさに敵のプロパガンダの効果と同様に
なる(我々は人格へのと言っていて、特定の意見へのとは言っていない)。こうした効果は
後ほど時間をかけて分析する。いずれにしても、我々が人類の自由を維持するために活動
するなどとはどうあっても言うことができない。発端はどうであれ、プロパガンダは人格
や自由を破壊する。もし“敵を打ち負かさねばならず、その目的においてすべての手段は
正しい”とだけ言うのなら、我々は反論しないだろう。その言葉は、民主主義がそれを望
むと望まざるとに関わらず、プロパガンダに携わっていることを認め、受け入れているこ
とを意味する。しかし、民主主義の価値と人格を尊敬しながらも心理学的活動に防衛とし
て関わるなどという幻想は、本当の状況をそのまま直視する皮肉よりも有害である。
情報、教育、人権そしてプロパガンダの徹底的な研究は、実際に、それらに本質的な違
いがないことを明らかにする。ある“特別な価値”を作り出すいかなる政治志向の教育も、
プロパガンダである。“特別な価値”への論及は別の考察につながる。市民の再構築に向
けた格闘のなかでのこうした特別な価値の愛国心としての内包は、国際主義、無政府主義、
平和主義のようなその他の価値を排除する。国家的な価値が与えられ、国民の間で正当化
されていると仮定しよう。このときから、国家的な価値は唯一の価値であるため、人は教
育問題にのみ直面すると結論できる。しかし、これは正しくない。実際には、ある者が教
え込もうとするある価値の肯定や、聴く者の心から根絶やしにしようとする他の価値の否
定は、まさにプロパガンダの実践である。
このように、異なる道を辿るものの、我々は同じ結論に達し続けている。それが自由主義
的で民主主義的で人道主義であろうと、現代国家は客観的に、社会学的に、統治の手段と
してプロパガンダを用いらなければならない状況にある。さもなければ、現代国家は統治
できない。
2.個人の必要性
もし我々が政府はプロパガンダをするよりほかないと認めるなら、被害者である個人に
襲いかかる攻撃的で全体主義的な政治的装置という印象は残り続ける。人はそのとき、無
力で巨大な力によって押しつぶされるようにみえる。しかし私は、プロパガンダが現代人
104
の必要性、現代人のなかでプロパガンダへの無意識の欲求を作り出している必要性を充足
すると考えている。現代人は自分の状態に直面できるようになるために、外部の手助けを
必要とする立場にある。そして、その助けがプロパガンダである。当たり前だが、現代人
は“私はプロパガンダが欲しい”などとは言わない。それどころか、前もって持っていた
考えに即して、プロパガンダをぞっとするほど嫌い、自分のことを“自由で成熟した”人
物だと考えている。しかし、実際には現代人は攻撃を撃退し、緊張を和らげることを可能
にしてくれるプロパガンダを求め、欲している。このことは次のような難問につながる。
“プロパガンダはそれ自体個人に対して力を持たない。プロパガンダには既に存在してい
て支えとなる柱が必要である。プロパガンダは何も生まない。プロパガンダの下にある既
存の支柱を否定することは不可能に思えるが、しかし、プロパガンダの効果は否定しがた
い”。難しい問題への回答は、こうした柱が個人のプロパガンダへの必要性であるという
ことだ。プロパガンダの成否の秘密はこれである。それは、接触する個人の無意識の必要
性を満たしているかどうかということである。必要性は表明されずに、無意識的であり続
けるかもしれないが、もしそれが求められていないものであるなら、いかなるプロパガン
ダも効果を持ち得ない。そして、もしプロパガンダがあらゆる“文明化された”国々に存
在し、発展途上国であらゆる“文明への進歩”を伴うことを考慮するなら、この必要性は
実質的に普遍的なように思える。それは技術的な社会において人が自分自身を見出す本質
的な環境の一部である。我々はまずプロパガンダの必要性を発生させる人類の客観的な状
況を、それからその心理学的状況を検証することにする。
客観的状況
我々は国家がもはや大衆なしには統治不可能であり、大衆は今日、密接に政治に関与し
ていると強調してきた。しかし、こうした大衆は個人から成り立っている。この観点から
みると、問題がわずかに異なってくる。人は政治に関心があり、政治に関わっていると思
っている。人は積極的に参加することを義務付けられてはいないとしても、民主主義のな
かに生きているので、何者かが民主主義体制を奪ってしまおうとすればすぐに、政治を大
切にしようとする。人は、自分が持っていないか或いは持つことができない成熟、知識、
情報の範囲を要求する選択や決定に直面する。選挙は個人の選抜に限られていて、参加の
問題を最も単純なかたちに矮小化している。しかし、人は選挙だけでなく、他の方法で参
加しようとする。経済的問題に精通しようとする。事実、政府は人々にそうあるに求める。
人は外交政策について意見を形成しようとする。しかし、実際にはそれはできない。自分
の望みと自分の能力で間に引っかかってしまい、それを受け入れられない。いかなる市民
にとっても、自分が意見を持てないということを信じないだろう。世論調査は常に人々が、
(通常最も知識を持っていて、ほとんどのことを熟慮している)少数派を除けば、最も複雑
な問題においてさえ意見を持っていることを明らかにする。多数派は愚かさを呈しながら
も、いかなる意見も述べないことを好む。このことが彼らに参加の感覚を与える。こうし
105
て、彼らは単純な考え、初歩の説明、彼らがある立場を取ることを可能にする“鍵”、で
き合いの意見さえも必要とする。多くの人はその欲求と同時に、参加することの不可能性
を持っているため、参加することを可能にするプロパガンダを受け入れる準備が出来てい
る。そしてプロパガンダは彼らの無力を打ち消すことなくその欲求を満たすことを可能に
しながら、彼らの説明、判断、ニュースを下回る無能力を隠す。政治的、経済的現象がよ
り複雑で、一般的で、加速するほど、人は心配をより感じ、より関与したいと考える。あ
る意味において、これは民主主義の成果であるが、同時によりプロパガンダにつながるも
のである。そして、人が情報を求めず、価値判断と予め考えられた立場を求める。ここに、
プロパガンダ現象の全体において決定的な役割を果たす人の怠惰と、現代の世界において
発展についていくのに十分早くあらゆる情報を伝達することの不可能性を考慮しなければ
ならない。その上、発展は人の知的領域を超えているだけでなく、量と強度においても一
個人を凌駕している。人は簡単に世界の経済的、政治的問題を把握できない。こうした問
題に直面して、人は自分の弱さ、非一貫性、無力感を感じる。人は自分が操作できない決
定に基づいていることに気づいており、その気づきは彼を絶望へと駆り立てる。人はこの
状況にそう長くは留まることができない。人は厳しい現実を覆うイデオロギーのヴェール、
幾らかの慰め、存在理由、価値の意味を必要とする。そしてプロパガンダだけが彼に基本
的に耐え難い状況への治療を施してくれる。
その上、現代人は大変な犠牲を求められる。犠牲はおそらく過去に知られているいかな
るものをも上回る。まず、仕事は現代生活において全面的に拡がった役割を想定している。
我々の社会ほど、人が働いたことはなかった。よく言われていることとは反対に、今日の
人は、例えば 18 世紀よりもずっと多く働いている。労働時間だけは減っている。しかし、
人の仕事の義務の偏在、義務や制約、実際の労働条件、決して終わらない仕事の強度は、
過去の人に対してよりもずっと重くのしかかっている。すべての現代人はかつての奴隷よ
りも働いている。生活水準は下方に調整されている。しかし、奴隷は義務のためだけに働
くが、自由と尊厳を信じる現代人は、自らを働かせる理由と正当性を必要とする。現代国
家では子どもたちでさえ、19 世紀の初等以前はどんな子どもも求められなかった多大な仕
事を学校でしている。ここでも正当性が求められる。理由を与えずに、実例として 19 世紀
のブルジョア階級の徳のように労働の徳を作り出すことなく、或いはナチや共産主義者の
神話のように労働を通じた解放の神話を作り出すことなく、精力的で強靭で決して終わら
ない労働の国に、人を永遠に住ませておくことはできない。
こうした労働への貢献は、それ自体で或いは自発的には起こらない。その創出はまさに
プロパガンダの仕事であり、それはなぜその人がそこにいなければならないのかという個
人的な、心理学的・イデオロギー的理由を与えるものである。その仕事の必要性や、或い
はその金銭的報酬を指摘するだけでは人から堅実で良い労働を獲得することはできない。
より高次の位相の心理学的満足を与えてあげなければならない。人は自分が為すことに深
遠で有意義な理由を求める。そしてそれらすべては集団的な状況であるため、集団的手段
106
で人に与えられることになる。人を行動へと駆り立てる集団的なイデオロギー的動機を与
えることは、まさにプロパガンダの仕事である。労働の総量を増やさなければならないと
きは常に、その増大はプロパガンダを通じて達成される。5 か年計画のソ連はその例である
し、“大躍進政策”の中国もまた典型である。フランスにおいても、すべての生産性の増
大は巨大なプロパガンダ・キャンペーンに基づいている。市民はこうした心理学的な糧に
よって、約束の組み合わせ(数年の勤労と千年の幸福といったような)や彼を動かす動機の
価値観によって維持されなければ、本当に自分の労働に幸福を感じることができない。現
代の世界の仕事や経済的生活の差し迫った状況が、人のなかにプロパガンダの必要性を作
り出す。米国では、プロパガンダの必要性が人間関係の形成を生んだ。米国の著述家たち
は、効率化への邁進は、効率化を発展させるとは予想できないとしばしば述べている。効
率化への要求に晒されている人は、“何が効率的なのか”と問うだろう。そのとき、答え
を与えるのがプロパガンダの仕事である。
しかし、現代人は仕事において犠牲を強いられるだけではない。政府によって増え続け
る税といった別の犠牲を負わされている。現代国家のすべての国民は、前ナポレオン時代
の最も重い税を課せられた人々よりも多い税金を払っている。今日の自由市民は確信のあ
る理由で払っているが、臣民は払わされていた。彼の確信は、税を課せられたときに自発
的には現れない。だから、確信は作られなければならず、そうした“国家への貢献”に重
要な意味を与えるために、理想が鼓舞されなければならない。ここにも、プロパガンダが
求められる。これは、政治的自由とは正反対である。
あらゆる犠牲のなかで最も深刻なものを取り上げてみよう。現代の国民は、かつて見ら
れなかったほど戦争への参加を求められている。あらゆる人が戦争に備えなければならな
い。その期間、試行の広大さ、甚大な損失、用いられる手段の非道さがゆえに、それは恐
ろしい種類の戦争になっている。もっと言えば、戦争への参加は、もはや戦争の期間だけ
に限られていない。戦争への準備期間があり、それはますます極端に犠牲の大きいものに
なっている。それから、戦争の被害を修復する期間がある。人々はまさに恒久的な戦争、
あらゆる面で超人的な戦争の雰囲気のなかを生きている(爆撃下の日々に“持ちこたえる”
という緊張は、伝統的な闘争の日々より大きな緊張である)。今日、全員が戦争の影響を受
けている。全員がその脅威の下で暮らしている。
当然だが、人に自らの命を投げ出させるには、イデオロギー的で感情的な動機を与える
ことが常に求められる。しかし、現代的な戦争のかたちのなかにあっては、伝統的な感情、
自分の家族の保護、自分の国の防衛、敵国への個人的な感情などはもはや存在しない。そ
れらは他のものに置き換えられなければならない。人に多くを求められるほど、その動機
はより強くなければならない。こうした大変な犠牲を求められる人は、神経や精神の我慢
のまさに限界へと追い込まれる絶え間ない世界の紛争の真っ只中や、究極の犠牲へのある
種の継続的な準備の中に自らを見出す。人は、自分の中にも自発的にも見出すことができ
ない強い動機に支えられなければ、このようには生きていけない。強い動機は社会によっ
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て人に与えられなければならない。社会は個人の実際的な状況から沸き上がる必要性に反
応する。明確ではあるが、国際的な状況や、ある国の防衛に関する必要性に関する簡単な
“情報”だけではここでは不十分である。人は象徴的な雰囲気に押し込まれなければなら
ず、自分の犠牲に対する十分に相応しい理由だけでなく、十分強い衝動と、同時にその人
の神経や動機を維持する薬が与えられなければならない。愛国心は“イデオロギー的”で
なければならない。プロパガンダだけが、戦争の緊張に直面することを可能にする神経的
耐久という状況に人を置くことができる。
こうしたあらゆる犠牲とは別に、人は現代社会が課す生活環境への対応に機械的に対応
することができない。心理学者や社会学者は普通の人を技術的環境、つまり増えていく足
並み、労働時間、騒音、人で溢れる都市、仕事の速さ、住宅供給不足に対応させるという
大きな課題に気づいている。それから、決して変わらない日常の決まりきった仕事、個人
的実現の欠如、人生における明確な意義の欠如、こうした生活環境によって引き起こされ
る家族の不安、大都市や仕事における個人の匿名性を受け入れる困難さがある。人はこう
した煩わしく、人を麻痺させる、精神的に傷を負わせる影響力に対峙できるよう武装して
いない。ここに再び、人はこうした生活に耐えるための心理学的支援を必要とする。人は
自分の平衡を回復する動機が与えられる必要がある。こうした状況で現代人を一人ぼっち
にしておくことはできない。何ができるのだろうか。
人工的に現代人の不快を和らげ、緊張を減らし、幾つかの人間的文脈に現代人を置くた
めの心理学的関係性(人間関係)というネットワークで現代人を取り囲むことができる。或
いは完全に不利な立場を相殺する、或いは完全に不利な立場を受け入れさせる意味や価値
の影を与えることができる十分強い神話のなかに現代人を住ませることができる。人が受
け入れることができる状況を作るために、人を超越しなければならない。これはソ連や中
国のプロパガンダの機能である。どちらにも人の心理学的操作があり、広い意味ではプロ
パガンダと区分されなければならない施行である。もし、ポリスにおける集団的な生活に
言及するように政治的(political)という言葉を最も広い意味で用いるなら、こうしたプロ
パガンダは、政治的な性質を持っていると言える。
最後に、現代人の実際の状況から沸き上がるプロパガンダの必要性を理解するためには、
知識を持った人と向き合っているということを思い出さなければならない。これまでにい
かに情報が実際にプロパガンダを支持しているかを分析してきたが、いま我々は、情報の
伝播は人がプロパガンダ需要者になることの心理学的な基礎を敷く方法に立ち戻らなけれ
ばならない。もし、我々が平均的な人を見て、専門職を持ったわずかな知識人を除けば、
確かに知識が与えられるべきである。我々がこの人は知識を持っているというとき、それ
は実際には何を意味しているのか。仕事で 8 時間、通勤で 2 時間以上を使うことを除いて、
その人は新聞を読み、もっと正確に言えば見出しを見て、幾つかの記事に目を通している。
その人はまたニュース放送を聞くか、テレビでニュースを見る。週に一度写真週刊誌の写
108
真を見る。これが理知的に知識を得ている人の姿である。言い換えれば 98%の人の姿であ
る。
知識を得て、大量のニュースを知りたいと望む人に、次に何が起きるのか。まず、即時
的なニュース報道は、実際の詳述以外は何も与えない。その日に報じられる出来事は常に
ほんの一部である。というのは、ニュースはすべてを扱えないからだ。理論的には、記者
はある詳述を別の詳述に関連付けることができ、それらを文脈として、ある解釈を与える
こともできる。しかし、それはもはや純粋な情報ではない。その上、そういったことは最
も重要な出来事だけに可能であり、多くのニュース項目はより重要でない問題を取り扱っ
ている。しかし、もしあなたが 1 日や 1 週間に起きる幾千もの事項を人々に浴びせるなら、
どれほど頑張ったとしても、意味を持たない幾千の事項がただ残るだけだろう。ある出来
事を 3 週間或いは 3 か月前に起きた別の出来事と結びつける非凡な記憶が必要になる。も
っと言えば、経済、政治、地理といったニュース区分の羅列に当惑させられる。話題や区
分は日々変化する。確かに、インドシナやハンガリーといった主要な記事は数週間或いは
数ヶ月に渡って継続的な報道の主題となるが、そのようなことは稀である。通常、過去の
ニュース項目の追跡記事は 2 週間から 1 ヶ月後に出る。方々で掲載された記事を手に入れ
るためには、人は調査をする必要があるが、平均的な人はそうしようと思わないし、そう
する時間もない。結果として、人はある種の万華鏡のなかに自らを見出すことになり、そ
のなかでは幾千ものつながっていない像がすばやく互いを追いかけている。人の注意は継
続的に新しい出来事へとそらされ、新しい興味の焦点は多くの点に散らされ、その点は日々
消え去っていく。世界は驚くべきほど変化に富み、不確かになる。人はまるで自分が回転
木馬の中心に立っているように感じ、ある定点を継続的に見るということができない。こ
れこそ情報が人に与える最初の効果である。主要な出来事でさえ、新聞が与える数千の小
さな描写、色、力、大きさの変化から十分に広い視座を得るためには多大な努力を要する。
このように世界は点描画の画布のようにもみえる。多くの描写が多くの点を作る。もっと
言えば、画布の空白の箇所もまた一貫した視座を妨げる。
我々読者は、このとき、立ち戻って、遠方から外観的な視座を得なければならないだろ
う。しかしニュースの原則は、ニュースが日次の事象であるということである。人が広い
視座を得るために立ち戻ることなど決してできない。なぜなら、人は新しいニュースの束
をすぐに受け取り、その束は古いものに取って変わり新しい焦点を求めるのだが、我々読
者にはそうする時間がないからだ。知識を常に備えておこうとする平均的な人にとって、
世界は驚くべきほど一貫性に欠いた、馬鹿げた、非理性的なものとして現れ、すばやくか
つ常に変化するので理解ができない。そして最も頻繁なニュース記事が事件・事故や惨事
に関するものであるため、我々読者は破滅的な世界という視座を持つことになる。人が新
聞で知ることは必ず、物事の秩序を乱す出来事である。人は普通の、興味をそそらない、
出来事の成り行きではなく、そのような成り行きを乱す普通でない災害だけを知らされる。
109
彼は毎日通常通り終着駅に着く幾千もの列車について記事を読むことはないが、たった一
つの列車事故の事細かな内容については知っている。
政治や経済の領域においても同じことが当てはまる。ニュースは困難、危機、問題に関
することばかりである。こうしたニュースは人に、ひどく恐ろしい時代を自分が生きてい
て、安全を脅かすものが溢れる世界において、その大惨事の真っ只中を生きているといっ
た認識を与える。人はその認識に耐えられない。人は馬鹿げた、一貫性のない世界を生き
ることができない(そうするためには、人は英雄的にならなければならない。そうした生を
唯一の正直な態度と考えたカミュでさえも、実際にはそれをやり続けることはできなかっ
た)。人は身辺一帯から噴出する問題を解決できないという考えや、その人自身が個人とし
て価値を持たずに出来事の成り行きに従っているという考えを人は受け入れることができ
ない。知識を持ち続ける人は、あらゆる情報を整理する枠組みを必要とし、一般的な問題
に対する説明や包括的な回答を必要とし、一貫した直線を必要とする。そして彼は自分自
身の価値の肯定を必要とする。これらはすべて情報の即時的効果である。問題が複雑であ
ればあるほど、説明は簡単でなければならない。画布が断片化されるほど、模様は単純で
なければならず、問いが難しいほど、解は包括的でなければならず、その人の価値の低下
が脅かされるほど、彼の自我を高める必要性は高まる。あらゆるプロパガンダが、そして
プロパガンダだけが、人にそれを与えることができる。もちろん、大きな文化、多くの知
識、非凡な精力を持ち合わせた傑出した人物は自分で答えを見つけ、甘んじて愚か者にも
従い、自分自身の活動を計画する。しかし、我々はここでは傑出した人物(当然我々は皆、
自分がそうであると思っている)ではなく、普通の人を想定している。
それゆえ、プロパガンダの分析は、プロパガンダが大衆の必要性にまさに呼応するとき
にうまくいくことを示している。このことの二つの側面を思い出してみよう。説明の必要
性と価値の必要性である。それらはともにニュースの伝播から広く、しかし全体的にでは
なく沸き上がってくる。効果的なプロパガンダは人に包括的な世界の視座を、教義という
よりも視座を与える必要がある。こうした視座はまず、歴史、経済、政治の一般的な概観
を包含する。この概観はそれ自体がプロパガンダの力の基礎となる。なぜなら、それはプ
ロパガンダを行う人々の活動を正当化するものだからだ。このことは、人が歴史や進歩の
方向に歩んでいることを示している。この概観は、人が受け取るすべてのニュースを適切
に区分けすること、批判的な判断を行うこと、事実が枠組みにうまく当てはまることに基
づきながらある事実を鋭く強調して他の事実を隠すことを可能にする。この概観はものの
見方を確立できずに事実が溢れかえってしまうことを避ける必要な防御策である。
プロパガンダはまた、起きていることすべてに説明を与え、経済的、政治的な疑問や理
由を理解する鍵を与えなければならない。ニュースは聴取者が既に自分のなかに説明を持
っているか、自分で簡単にそれを見つけることができる情報を提供するとき、その恐ろし
い性質を失う。プロパガンダの大きな力は、現代人に包括的で単純な説明や、広く行き渡
った教義的な大義を与えることで成り立っている。それらなしでは、現代人はニュースの
110
ある生活を送ることができないだろう。人はプロパガンダから二重の意味で安心を得てい
る。第一に、プロパガンダは人が進んでいく発展の背後にある理由を教えてくれる。第二
に、プロパガンダは沸き上がってくるすべての問題の解決を約束してくれる。さもなけれ
ば解決などできそうにない。
情報は関心を必要とするので、プロパガンダはその関心をなくさせないためにも必要で
ある。
主観的状況
現代人の幾つかの心理学的特質の結果と、部分的には現実的状況の結果は、プロパガン
ダの抗いがたい必要性を説明するものである。プロパガンダに関するほとんどの研究は、
いかにプロパガンディストがそれを用いるか、その特徴や影響力が与える人の傾向を単に
説明するものである。しかし、我々にはこうした問いを検証する必要がありそうである。
なぜ人はプロパガンダの施行を無意識的に引き起こすのだろうか。
“大衆的人間”や“組織的人間”といった証明されていない議論中の理論には立ち入
らずに、しばしば分析される西洋社会で生きている、ひどく混雑した群衆のなかに押し込
められた人間の特徴を思い出してみよう。そうした人は示唆をより受け入れやすく、信じ
やすく、より簡単に興奮しやすいという前提を受け入れてみる。とりわけ、そうした人は
欠乏という被害者、つまり意義を失った人である。とても忙しく、感情的に欠乏していて、
あらゆる懇願を受け入れ、たった一つのこと、つまり心の空白を埋める何かを探している。
この空白を埋めるために、映画に行く。ほんの束の間の治療である。より深く、より空白
を埋めてくれる娯楽を追い求める。孤独な人(孤独な群衆)であり、群衆が大きいほどそこ
に生きる人は孤独である。一人で生きることから得る楽しみはあるかもしれないが、同時
に深い苦しみを感じている。共同体に再統合されたいという、自分の背景を持ちたいとい
う、イデオロギー的で感情的なコミュニケーションを体感したいという強烈な欲求を感じ
ている。大衆のなかにあるこうした孤独は、おそらく現代人の最も過酷な試練だろう。何
も共有できず、誰とも話せず、誰にも何も期待しないという孤独は、深刻な人格の障害に
つながる。そのため、人間関係を取り囲むプロパガンダは、無二の治療となる。プロパガ
ンダは、共有したい、共同体の一員でありたい、集団なかに埋没したい、孤独を集結させ
る集団的イデオロギーを得たいという欲求に呼応する。プロパガンダは孤独の真の治療で
ある。プロパガンダはまた、深く継続的な欲求、おそらくこれまでよりも今日最も大きく
なった欲求、信じて従いたい、寓話を作り聞きたい、神話の言葉で通じ合いたいという欲
求に呼応している。プロパガンダはまた、人の知的惰性や安全への希求、つまり実存主義
者の理論的な人間とは異なる、現実の人間の本質的な特質に反応する。これらはすべて、
人をこうした欲求を満たすことができない情報に背を向けさせ、プロパガンダを求めるよ
うにさせる。そうすることでその欲求は満たされることになる。
111
こうした状況はさまざまな側面を持っている。我々の社会において、人はますます受動
的であるよう押しやられる。人は集団的に機能する組織へと押し込まれ、そこではそれぞ
れが自分の小さな持ち場を持っている。しかし、人は自分が思ったように活動できず、他
の誰かの決定の結果にのみ従って活動する。人はますます集団行動に参加し、彼が教えら
れてきた信号や方法にだけ則って活動するよう訓練されていく。訓練は大なり小なりあっ
て、つまり仕事のための訓練、運転者や歩行者のための訓練、消費者、映画鑑賞者、集合
住宅居住者などのための訓練がある。消費者はある製品の購入が望ましいという広告主か
らの信号を受信する。運転手は彼が進んでもよいことを青信号から知る。人はますます自
分で行動できなくなっている。人は自分の行動を完全な機構へと統合する集団的な信号を
必要とする。現代的生活は我々に、行動を命じられるまでは待てという。ここに再びプロ
パガンダが助けに来る。政府がもはや大衆なしには機能できない限り(我々が上述してきた
ように)、プロパガンダは行動するための信号になり、政治における個人の単なる関心から、
政治的行動への架け橋となる。プロパガンダは集団的に受動的であることを克服するよう
に働く。プロパガンダは一般的な社会の流れに入っていく。その流れはさまざまな条件反
射を発展させ、翻って人が集団の中で役割を果たすための信号になる。
同時に、人は自分の価値がなくなっていくと感じる。一つには、人は自分が継続的な監
視下にあると感じるようになり、独立した自主性を保てなくなる。また、人はより低い水
準へと押しやられていると思うようになる。権力なしには活動できないという意味では、
人は小さな存在である。確かに、我々は平均的な人間について話しているのであって、会
社の代表や、上級役員、専門職業人は自分の価値が減じられているとは明らかに感じてい
ないが、そのことが一般的な状況を変えるわけではない。自分が重要でないという感覚は、
小部屋、騒音、プライバシーの欠如を伴う機械化、組織化といった一般的な労働環境から、
子供に対する威厳を失った家族環境から、増え続ける権力への服従から(あらゆる官公庁の
人間の精神に対する破壊的な影響など、誰も完全に測ることはできないだろう)、つまり大
衆社会への参加から生まれる。我々は、大衆へと押し込まれた個人が自らの価値を失い、
弱くなっているという感覚を経験することを知っている。人は人権や自分の夢を果たす手
段を失う。彼の周りの多数の人たちが彼を抑圧し、非重要性という不健全な認識を押し付
けている。彼は大衆のなかで溺死し、自分が単なる断片であり、さもなければこうした多
数の個人のなかにいると見なされないと確信するようになる。都市生活は人に弱さと従属
の感覚を与える。人はすべてを、つまり公共交通機関、徴税人、雇用者、町の公共事業に
依存している。これらの要素は別々に人に影響を与えず、結合して現代人のなかに、価値
減退という感情を作り出す。
しかし、人は自分が重要でないということに耐えられない。断片という地位を受け入れ
ることができない。人は英雄としての自分を見出すために、自分を主張する必要がある。
人は自分が相当な人であると感じ、そのように見なされる必要がある。人は自分の威厳、
誰しもが持っている力や支配への欲求を表現する必要がある。我々の現在の状況下で、こ
112
の本能は完全にくじかれている。幾つかの避難経路があるが、例えば映画はヒーローと同
一感を持つことで、自己陶酔を感じる機会を見るものに与えてくれるが、それでは足りな
い。プロパガンダだけが、人の奥深い欲求に完全に満足のいく対応をしてくれるのである。
集団的な生活のなかで人の欲求が増すほど、プロパガンダは人が自由な個人であるとい
う感情を与える必要がある。プロパガンダは単独でこの感情を作り出すことができ、この
感情は翻って人を集団的活動へと統合することになる。このように、プロパガンダは人の
自己陶酔を強力に押し上げる。プロパガンダは正当化という私の感情や、自由への私の願
いをかき立てる。プロパガンダは私に暴力的な感情を与え、暴力的な感情は私を日常の単
調な仕事から外へと引き上げてくれる。私がプロパガンダによって政治に関心を持つとす
ぐに、私は自分の身の丈から日常の些事を見下すことができるようになる。私の確たる思
いを共有しない上司は、単なる哀れな愚か者であり、邪悪な世界の幻想の犠牲者である。
私は啓発されることで、上司への復讐を果たす。私は状況を理解していて、何がなされる
べきか分かっている。私は出来事を理解する鍵を持っていて、危険で心騒ぐ活動に参加し
ている。プロパガンダが私の決定に訴えかけ、私の行動に大いに関わりを持つとき、この
感情はさらに強いものになる。“すべては悪の手の中にある。抜け出す道はない。しかし、
皆が参加するなら。あなたも参加しなければならない。もしあなたが参加しなければ、あ
なたのせいですべてが失われる”。これこそプロパガンダが引き起こす感情である。一度
は社会が蔑んだ私の意見が、今や重要で決定的なものとなった。もはや私の意見は自分に
とってだけ重要なものなのではなく、政治問題の全領域やあらゆる社会主体にとって重要
なものとなった。有権者は、自分の投票が重要性や価値を持たないと感じているのも尤も
である。しかし、プロパガンダが巻き込む行動は基本的な重要性を持っていて、すべてが
私にかかっているとプロパガンダは訴えかけてくる。私に責任感という強い感情を与える
ことで自我を駆り立てる。仲間内で私に威厳のある態度を取らせ、熱烈な調子で全面的な
確信をもって私に訴えかけることで真面目に受け取らせ、それが妥協を許さない問題であ
るとの感覚を私に与える。こうしたプロパガンダによって、価値を減じられた人は、まさ
に自分が求めるところの満足を得る。
植民地国におけるプロパガンダは、これと同じような自己表現という価値を減じられた
人々の欲求に働きかける。アフリカ人はどのようなプロパガンダに対しても、より影響を
受けやすい。なぜなら、彼らは宗主国の保護の下にあり、劣った地位に置かれているから
だ。しかし、劣っているという感情が抑圧された人々においてのみ見られると結論しては
ならない。その感情は、大衆社会におけるほぼすべての人が持つ普通の感覚である。また、
現代人の価値が減じられている限り、人はほぼ定常的な抑圧の必要性に迫られる。人の自
然な性向のほとんどは、社会的な制約によって押さえ込まれている。
我々はより組織化されて、秩序のある社会に生きていて、そこでは人間の深遠な欲求、
つまり自由で自発的な表出がますます許さなくなっている(認められるべき深遠な欲求が
もし完全に解放されたなら、それは大変に反社会的なものとなる)。現代人は計画表ととも
113
にあって、瞬間的な刺激で動くことはできない。現代人は自分の周りで何が起きているか、
常に注意を払っていなければならない。現代人は、出したい音を出せず、数ばかりが増え
るあらゆる種類の規則に従わなければならず、自分の性的本能や暴力への性向に自由を与
えることができない。人々が不平をもらす現在の“不道徳”ではあるが、現代の人はこう
した問題について、16 世紀や 17 世紀の人よりずっと自由がない。政治の世界においても、
現代人は常に自分の性向や衝動を抑圧する障害物に直面する。しかし、長期に渡ってこう
した状況に人を置いておくことは不可能である。
集団と軋轢を感じ、自分の価値観が周囲の価値観と異なると感じる人は、彼の社会や自
分が参加している集団に対してさえ、人は悲劇的な状況にあるといった緊張を感じる。最
近まで、こうした人はある程度の自由や独立を享受し、それらによって外部に自分の緊張
を解き放ち、およそ受け入れられ得る行動を放出することができた。そうした人は自分の
活動範囲を持って行って、そこを通じて自分自身の価値を表出し、自分の葛藤をさらけ出
すことができた。それは自身の平衡を保つ最善の方法だった。しかし、技術社会において、
人はもはや自分の緊張を適切に解放するのに十分な独立性や活動の選択肢を持っていない。
現代人は自分のなかでそうした緊張を持ち続けるほかない。こうした状況の下、緊張は極
度に達し、病気を引き起こしかねない。まさにこの瞬間に、プロパガンダは外的な活動に
よってこうした緊張を減らす(偽の)装置として入り込んでくる。あらゆる領域において、
あらゆる放出に蓋をして人を抑圧することは危険である。人は自分の情熱や望みを表出す
る必要がある。集団的な社会的抑圧は、精神分析家の問題である個人的な抑圧と同じ効果
を持ち得る。昇華或いは解放が必要である。最も抑圧された集団の幾つかは、最も容易く
英雄主義の行動や抑圧する者の便益となる犠牲へと導かれるものの、集団的な位相におい
て解放は昇華よりも容易い。解放への欲求において、我々は自発的な表出を見ることがで
きる。確かに、ジャズは多くの若者にとって抑圧された衝動を解放する手段だったし、暴
力的表現もまた然りである(ジェームス・ディーン、黒革のジャケット、1957 年のスウェー
デンにおける反乱など)。
こうした解放の可能性はごく限られてはいるものの、プロパガンダは壮大な規模での解
放を可能にする。例えば、プロパガンダは、社会によってこれまでは阻まれ、攻撃されて
きた、危険で破壊的な感情である憎しみといったものを引き起こす。しかし、人は常に人
を殺してやろうという衝動を胸の内にひた隠しにしているように、ある程度の憎しみへの
欲求を持っている。プロパガンダは憎しみに標的を与える。というのは、あらゆるプロパ
ガンダは敵に向けられたものであるからだ。プロパガンダが人に与える憎しみは、隠さな
ければならない恥ずべき邪悪な憎しみではなく、正統な憎しみであり、人は正当にその憎
しみを感じることができる。もっと言えば、プロパガンダは犯罪を賞賛に値する行動へと
変容させながら、殺されるべき敵を指し示す。ほとんどすべての人は、周囲の誰かを殺し
てしまおうという感情を覚えることがあるが、それは禁止されている。多くの場合、人は
その結果を恐れてそうすることを控える。しかし、プロパガンダはその扉を開き、ユダヤ
114
人やブルジョア階級、共産主義者などを殺すことを許し、こうした殺人は実際に行われさ
えする。同様に、19 世紀、男が妻を欺こうとするか、或いは離婚しようとするとき、それ
は難色を示されることを知った。だから、19 世紀の終わりに、姦通や離婚を合法化するプ
ロパガンダが現れた。こうした場合には、男は情熱的にこうした自分を解放してくれるプ
ロパガンダの源泉に加わる。違反が徳となる場所では、違反者が英雄や崇拝された人物と
なり、我々は彼に仕えるよう自らを犠牲にするようになる。なぜなら、彼らは我々の抑圧
された熱情を解放してくれているからだ。フランスにおける共和国への強烈な大衆的忠誠
心とカトリック主義の大失敗は、19 世紀末の貫通と離婚に関するこうした格闘までさかの
ぼることができる。
プロパガンダはまた、遠回りの経路から解放を提供することもある。権威主義的な体制
は、強く掌握された人々が幾らかの減圧や安全弁を必要とすることを知っている。政府は
それを与える。この役割は権力を攻撃する皮肉な報道機関によって演じられ、独裁者によ
って認められるか(例えばクロコダイル(訳注:ロシアの風刺雑誌)、政権をからかうために
無視された狂気の祝日によって演じられ、独裁者によって罰せられる(例えば、グアテマラ
における悲しみの金曜日)。明らかに、こうした装置は、政権によって操作されている。こ
うした装置は、自分たちが自由であるという印象を人々に与え、人々が忌み嫌う犯罪のか
どで政府が粛清しようとしている人を選び出す役割を果たす。このように、こうした批判
の装置は、国家が常に確認しておくべき人工的な性向の放出を行うことによって、権力を
統合し、人々により政権を支持させる働きを担う。こうした状況では、プロパガンダはほ
とんど治療的で贖罪的と言ってよい機能を持っている。
この機能は、もう一つの現象である不安の存在において、より傑出した働きを示す。不
安は我々の社会において最も広範に拡がった心理的特質である。多くの研究は、怖れが我々
の社会において最も強力で、最も至る所にみられる感情であることを示している。もちろ
ん、人は共産主義者の破壊や革命、ファシズム、水爆、東側と西側の軋轢、失業、病気と
いったものを怖れる当然の理由を持っている。一方で、危険の量はニュース・メディアの
ために増加していて、人はますます危険を気にするようになっている。もう一方で、怖れ
と対峙することを可能にする宗教的な信条は、ほとんど完全に消え去ってしまっている。
人は自分を脅かす危機についてメディアに触れ続け、その危機に直面してはなすがままに
なってしまう。例えば、主要紙における病気に関する多くの医療記事は、それらの記事が
人々の注意を病気の存在に引きつけるので、破壊的である。情報は怖れを引き起こす。こ
のことは、なぜ我々の社会における支配的な怖れが、死や幽霊に対する怖れのような個人
的な怖れよりもずっと支配的で、政治的状況のような集団的で一般的な現象と結びついた
“社会的”怖れであるかを説明してくれる。しかし、実際の脅威と結びついた怖れや、実
際の脅威と同程度の怖れは不安とは違う。カレン・ホーナイは、怖れと不安の間の本質的
な違いは、不安は実際の危険と釣り合わない反応であるか、想像上の危険への反応である
と述べた点において正しい。彼女はまた、人が不安を感じる危険はその人からは見えない
115
ままであるかもしれないが、不安は我々の文明の状況と実際には結びついていると指摘し
ている点において正しい。この不安は状況に見合ったものであるかもしれないが、依然と
して判然としない理由によって感じられていることには変わりがない。
現実の意識的な脅威に関して、よく見られる反応は寓話によって脅威が拡げられるとい
うことである。米国人は共産主義者の脅威に関する寓話を作り出す。まさに共産主義者が
ファシストの脅威について寓話を作り出すようにである。そうして不安が湧き上がる。寓
話はうわさや実際の状況が算定できないという事実、不安の拡がった風潮、ある者から周
囲の者への不安の飛び火と結びついている。
しかし、不安は存在し、拡がっていくことは確からしい。不安は非理性的であり、理性
や事実を持って不安を収めようという試みは必ず失敗する。不安な風潮のなかで恐れられ
ている不安は信じられているよりもずっと小さなものであることを事実に基づいて証明し
ようとすることは、不安を増すだけのことだ。情報は、不安の理由があることを証明する
ためには用いることができる。もちろん、精神分析学的な不安はしばしばノイローゼの原
因と考えられている。しかし我々はここでは不安は我々の社会の膨大な数の人々に影響を
与える集団的現象と考えるので、こうした人々を臨床的な意味でのノイローゼとは言わな
いことにする。社会的軋轢や政治的脅威によって引き起こされた危険がノイローゼを引き
起こすところことはめったにない。しかし、そうした議論の進め方は不可能ではない。人々
は恒常的にノイローゼになり得る状況にあると、端的に言うことができる。ある出来事が
集団全体を熱狂的な不安や非理性的な思考に投げ入れるとき、ノイローゼは実際、集団的
なものになる可能性がある。
人はまた、自分が他人の敵対的衝動の餌食になると、もう一つの不安の原因を感じてい
る。その上で、人は自分自身と矛盾しながら自分を評価し、むしろ社会的義務との矛盾の
なかで自分の経験を評価する我々の社会のなかの内在的な矛盾へと押しやられる。カレ
ン・ホーナイは、こうした矛盾の幾つかを詳述したが、実際にはもっと多くの矛盾が存在
しているのである。政府によって言明された我々の欲求への配慮と実際の欲求不満との間
の矛盾、宣伝された自由と現実の制約の間の矛盾は別としても、平和は戦争を準備する社
会において崇拝され、文化は吸収されることなく押し拡げられているといった具合である。
矛盾という経験は、我々の社会で広く行き渡った経験の一部である。しかし、人は矛盾に
耐えることができない。結果として不安が起こり、不安を解消するために矛盾を解決しよ
うとする。
最後に、現代社会におけるあらゆる脅威や矛盾の結果として、人は罪に問われる感覚や、
罪の意識を感じることについて述べる。人は矛盾に晒されている限り、自分が正しいと感
じることができず、いかなる対策を講じようとも集団の義務との矛盾のなかで自分を評価
することになる。しかし、人の偉大な内的欲求の一つは、自分は正しいと感じたいという
ことである。この欲求は幾つかのかたちを取る。まず、人は自らの目で見て正しくありた
いと思う。人は自分が正しく、自分がすべきことをしていて、自尊心に足る人間であると
116
主張できるようでなければならない。それから人は、周囲の目、つまり家族や環境、同僚、
友人、国の目から見て正しくありたいと思う。最後に、人は自分が正しいと思い、崇高で
正しいと宣言できる集団に所属したいと思うものである。しかし、その正しさは完全な正
しさや真実、本物の正義などではない。問題は正しくあることや正しく行動すること、所
属する組織が正しいことではなく、正しそうであること、正しいと主張できる理由を見つ
けること、周囲で共有されるそうした理由を持っていることである。
このことは、人が現実を、とりわけ自分自身の現実を、そのまま直視することを拒むこ
とと呼応している。というのは、それが耐え難いことであるからだ。それはまた、自分が
間違っているかもしれないという認識を拒むことと呼応している。自分自身や他人の前で、
人は常に自分のことを弁護し、自分がしていることやしてきたことの正当な理由を探す。
もちろん、こうしたすべての過程は無意識的である。
こうした正当化は、米国人心理学者が理性化、つまり正しい理由探しと呼ぶものと部分
的に呼応している。しかし、理性化は正当化よりも狭い範囲しか含んでいない。理性化は、
人が社会生活の困難の犠牲となるときに起きる。さまざまな集団や他人との衝突が緊張や
軋轢、欲求不満、失敗、不寛容に直面するのではという不安を引き起こす。人はこれらを
すべて振り払おうとするが、それは不可能である。それゆえ、人はこうした軋轢の受け入
れがたい結果を否定する言い訳や正当な理由を見つけ、結論をでっちあげる。そうするこ
とで、自分の失敗を説明し、成功のかたち(負け惜しみ)を作る。或いは身代わりを作って
すべてを正当化し、或いは他方に非がある(民族的偏見)というふうにみせて自分の行いを
正当化するといった具合である。自分の作った理由が万人ではないにしても大多数によっ
て共有される限り、そうした理由は“正しい”と人は明らかに信じるようになる。自分を
正当化する者は、自分が行動の理由としたことが間違っていることや、他の理由で行動し
ていることや、説明が自分の行動を容認させ、賞賛を勝ち取るための弥縫でしかないこと
を指摘されると、常に憤慨する。
この欲求は異常に思える。個人の位相において、この欲求は当人からの分離を呈してい
るので、しばしば病理学とみなされる。しかし現実には、こうした判断はその道義上の含
意から却下されてきた。こうした過程は偽善以外何も含んでいない。そのため、二つの理
由からこの欲求における病理学的なものは何もないと結論されてきた。第一の理由は、こ
の現象の普遍性である。実質的に誰もが常に自分自身や自分の集団を正当化している。一
般的な態度を病理学的と呼ぶことは難しい。第二の理由は、この過程の有用性である。心
的な生活のなかで、人は無意識的に自分に役に立つものを探し出し、自身の“経済性”を
発揮することを可能にしていることは今日一般的に受け入れられている。正当化は否定し
がたく有用である。正当化を通して、人は失敗を成功に変えながら、緊張や不安から自分
を守るだけでなく、自分の善と悪や、正義と不正に対する意識を主張している。しばしば、
人の本当の信条はこの経路(正当化)からのみ明らかになる。
117
こうした偽善には他の用途もある。偽善は人に反道義的、或いは反社会的な確信を公然
と表明する必要なしに、その人の抑制の一部を捨て去ることを可能にする。抑制された行
動は社会に害を与えるが、非道義的或いは反社会的確信を大声で述べるようなこともまた
社会とっては害である。ここに我々は、古くからある問題に直面する。1900 年のように間
違って行動したならそれを隠すことが好ましいのか、1960 年のように間違って行動したな
らそれを宣伝するほうが好ましいか(1960 年の人は違った正当化を用いていることを考慮
しつつ)。正当化の過程はこのようにその優れた有用性のためにあらゆるところで見ること
ができる。
集団的な位相では、ほとんどのイデオロギーや政治或いは経済の理論が正当化であると
言える。M・ルーベルの調査は、マルクスを厳密にみたところその妥協のない教義は、彼が
若い時分にとった感情的で自発的な立場の壮大な知的正当化であることを示している。
現実をそのまま受け入れ、我々の行動の本当の理由を認めることや、我々が属する集団
の動機をはっきりと見つめることは不可能ではないが困難である。もし我々が職務に当た
るなら、我々はそれを金銭的な報酬だけで行うのではない。我々は理想的或いは道義的な
正当化とともにそれを行うのである。その正当化は我々の欲求となり、そこに疑問を投げ
かけられることには耐えることができなくなる。ナチスのような最も実践的な者でさえ、
自分たちの行動を道義的或いは社会的に正当化しようとしていた。例えば、アーリア人種
の優秀さを維持しようという憂慮は、強制収容所のサディズムを正当化した。共産主義者
のような最大の物質主義者でさえ、理想をもって自分たちを正当化している。例えば、人
道主義者の関心はある戦術を正当化する。必要性と道義的或いは宗教的義務との間の葛藤
のなかで、誰もが葛藤など存在しないと主張するために理性化の外套を身にまとう。人が
必要性に従うとき、自分は必要性に従うなどということはなく、実際自分の意識に従って
いるといるのだと証明しようとする。原稿が用意された日に、誰もが自分が国家への熱烈
な想いを持っていたことに気がつく。スターリンがヒトラーと手を組む日に、共産主義者
はドイツ社会主義の優秀性に気づいた。ハンガリー政府がキリスト教会に平和のプロパガ
ンダを行うよう強制した日に教会は、平和はキリスト教の徳であると自発的に気づいた。
正当化の広大な普遍性は、明らかではあるがそれを有効なものにする。自分自身を正当
化し、茶番を無意識に演じる者は自分でそれを信じるだけでなく、他人にもそれを信じて
もらいたいという欲求を持つ。そして実際他人はそれを信じることになる。なぜなら彼ら
は同じ正当化を用い、茶番の共演者となって一緒に演じるからだ。正当化は実際、共謀と
いう基礎においてのみ有効性を持ち、その有効性はあまりに全面的に行き渡るので正当化
の犠牲者である者でさえ同調してしまう。例えば、人種主義者は“劣った”集団が怠惰で、
反社会的で、非道義的で、生物学的に劣性であるとして自分の偏見を正当化する。多くの
事例において、偏見を持たれた集団の成員は、こうした偏見を受け入れ、自分たちでも差
別を正当化する劣性という感覚を経験する。これは、彼らもまた異なる位相で正当化を用
いるためである。
118
こうした個人的また集団的正当化の膨大な多様性は、三つの源泉に由来する。第一に、
伝統的な説明は我々が属する集団によって伝達され、学校などを通して我々に染み込まさ
れる。例えば、ブルジョア階級による労働者についての断定は 1815 年にさかのぼることが
でき、注意深く代々受け継がれている。“労働者は怠惰な畜生であり酒飲みだ”と。或い
は植民地主義を正当化するために用いられた“文明を拡大する”というフランスの使命を
挙げることができる。第二に、我々が自発的にでっち上げる理性化がある。この理性化は、
集団の行動よりもむしろ個人の行動に対応する。
ここで我々の興味を最も惹くのは、第三の理性化である。これは個人的でも集団的でも
あり、伝統的な解決策が対応しない新しい状況や思いがけない必要性に対応するものであ
る。こうした理性化はプロパガンダの成果である。プロパガンダは人に取り憑いて、正し
くあろう、正義であろうという欲求を乗っ取ってプロパガンダが仕掛ける遊戯を行うよう
強要する。どのような状況でも、プロパガンダは自分が正義のなかにあり、仮に人がその
行動を正義ではないと強く暗い印象を持っていたとしても、求められている行動は正義で
あるという証明を人に与える。プロパガンダは緊張を緩和し、矛盾を解消する。プロパガ
ンダは安易なでき合いの正義を与え、それは社会によって伝達され、簡単に信じられる。
同時に、プロパガンダは新しい状況に対応し、人に新しい理想が考案されているかのよう
な印象を与える新鮮さや目新しさを持っている。プロパガンダは偉大な使命が果たされる
かのように思わせ、自分の情熱に自らが打ち負かされてしまうほどの高い理想を与える。
プロパガンダが相当に有効になるのは、プロパガンダが個人と集団に対して同時に正当化
を与える瞬間である。我々はここに単純な説明ではなく、ずっと深遠な理性化について話
をしている。その深遠な理性化のおかげで、人は自分の集団や社会と完全に同調して、自
分の環境に完全に適応することができ、同時に良心の呵責や個人的な不安は取り除かれて
いく。
自己正当化を求める人は、自分を正当化し不安の源泉の一つを取り除いてくれるプロパ
ガンダの方向性に自らを投げ出すことになる。プロパガンダは矛盾を解消し、要求が事実
と一致する一元の世界を回復してくれる。プロパガンダは人に他のすべてに優先する行動
を明確に端的に要求する。プロパガンダは周囲の世界との軋轢なしに世界に参加すること
を可能にする。なぜなら、彼が行うように求められている行動は、打ち立てられた理想を
実現する経路から、あらゆる障害物を取り除くことであるからだ。
ここにプロパガンダは、現実の世界に取り込まれた人を巻き込み、原則に基づいて世界
に参加することによって人を生かし、完全に理想的な役割を果たす。こうして人はもはや
自らを脅かす脅威や人格の歪曲のような矛盾を見ずに済むようになる。プロパガンダを通
して矛盾が征服や戦闘といった積極的な源泉に変わる。人は自らの矛盾を解消しようとし
ている時点でもはや孤独ではなく、行進する集団に押し込まれている。そこは常にあらゆ
る矛盾が解消され、人やその人の世界を一元論の充足へと導く“場所”である。そこはア
ルジェリアやベトナム、コンゴにおける戦争を終結させる場所であり、米国を追い越す場
119
であり、共産主義の脅威を払拭する場であり、すべての欲求不満を解消してくれる場であ
る。
最後に、プロパガンダはまた、非理性的で不相応な恐れから生まれる不安を解消する。
というのは、プロパガンダはこれまで宗教が与えてきたものと同程度の確信を人に与える
からだ。プロパガンダは人が住んでいる世界について単純で明確な説明を与える。確かに
現実からはかけ離れた誤った説明ではあるのだが、分かりやすく人を満足させるものでは
ある。プロパガンダはあらゆる扉を開くことができる鍵を人に与える。プロパガンダのお
かげで謎はまったくなくなり、すべてが説明できるようになる。プロパガンダは、今日的
歴史を見ることができ、またプロパガンダが言うところの意味をはっきりと理解できる特
殊な眼鏡を人に与える。プロパガンダはあらゆる一貫性のない出来事に引かれている一般
的な系統を見出すための指導系統を人に与える。そのとき、世界は敵対や威嚇を止めてい
る。プロパガンダ受容者はこうした威嚇や混沌とした世界に対する勝利や明晰という感覚
を経験する。プロパガンダはあらゆる脅威への解決策や脅威に直面したときに取るべき態
度を教えてくれるから、なお一層そうした感覚を経験することになる。群集は脅威に対し
て取るべき態度が分からないときに、怒り狂う。プロパガンダは敵対者を不利な立場に置
く申し分のない態度を教えてくれる。人々に自信を持たせ、彼らの置かれた状況の現実を
示すことは、ここでは問題にならない。何も人々を狼狽させたりはしない。主眼となる点
は、人々が脅威に対して優勢であることを感じることができるように発奮させ、力の意識
や自らを主張したいという願望を喚起して心理的に武装させることである。自分を窒息さ
せるような不安からあらゆる手段を講じて脱しようとする人は、プロパガンダが盛り上げ
たキャンペーンに参加すればすぐに、この解放的な活動に飛び込めばすぐに奇跡的に救出
される。こうした行動は、自分は社会の矛盾を解決するための助けになっていると人に思
わせることで内的な矛盾を解決してくれるのである。
こうした理由から、現代人はプロパガンダを必要とする。現代人はプロパガンダを求め
る。事実、現代人はプロパガンダを煽動する。プロパガンダの発展は偶然ではない。プロ
パガンダを用いる政治家は怪物ではない。社会的欲求を満たしているに過ぎない。プロパ
ガンダ受容者はプロパガンディストの親密な共謀者である。プロパガンダ受容者の共謀に
よってのみ、プロパガンダはその機能を全開にすることができる。なぜならプロパガンダ
受容者がプロパガンダに観念的には抵抗しようとし、自分にはプロパガンダへの免疫があ
ると思っていても、プロパガンダは受容者を満足させるものであるため、受容者はプロパ
ガンダの方向性になびいてしまう。
我々はプロパガンダが社会において偶然とは程遠いかたちで不可欠な役割を担っている。
常に誰かが、戦争のような異常な状況と結びつけた、偶然的で異常で例外的なかたちのプ
ロパガンダを行おうとしている。実際、こうした場合においてプロパガンダはますます鋭
く純化するが、プロパガンダの根はずっと深いところまで到達している。プロパガンダは
技術社会のさまざまな構成要素の必然的な結果であり、そうした社会ではあまりに中心的
120
な役割を担うので、経済的或いは政治的な進展はプロパガンダの大きな影響力なしでは起
りえないのである。社会的関係における人間関係、経済における広告や人間工学、政治分
野における最も厳格な意味でのプロパガンダは、忠義や行動をかきたてる心理的影響力の
必要性であり、進歩が求め、人々が自らの救済のために求める、どこにでもある決定的な
要素である。
121
第 4 章 プロパガンダの心理学的影響
まずプロパガンダの施行が人にどういった心理的影響を与えるのかを確認することから
始めることにしよう。プロパガンディストが直接手に入れる、例えば投票といった影響と
は別に、人の心理学的操作は無意識的なかたちで力を引き起こし、さまざまなかたちで人
に精神的外傷を負わせる。プロパガンダに従う人は無垢でも無傷でもいられない。意見や
態度だけでなく、衝動や精神的で感情的な構造を変化させらせる。プロパガンダの影響は、
外的というよりも内的なものであり、深遠な変化を引き起こす。
また、さまざまなメディアによって作り出されるさまざまな影響の違いを見極めなけれ
ばならない。プロパガンディストが意図的に引き起こすかどうかに関わらず、いずれのメ
ディアも態度や意見にそれぞれ独自の影響を与える。人が映画に行くとき、彼はある印象
を受け、その内的生活はあらゆるプロパガンダとは独立に成形される。それぞれが持つメ
ディアに固有のこうした心理学的影響や意見の変化は、プロパガンダの施行によって個別
に作られた影響や変化と接合する。ある影響の終りと、別の影響の始まりを解析すること
は非常に難しい。ラジオによってなされたプロパガンダ・キャンペーンを見るとき、その
キャンペーンによる効果と、一般的なラジオ放送による効果を分けることはほとんど不可
能である。多くの研究論文は出版物やラジオ、テレビといったプロパガンダから独立した
基本的な効果について書いているが、その影響はそうしたメディアがプロパガンダのため
に用いられた時にも存在する。プロパガンディストは一般的な影響と個別的な影響を分け
て考えることはできない。プロパガンディストがラジオ・キャンペーンを立ち上げるとき、
自分のキャンペーンの影響と一般的なラジオ放送の影響が組み合わさることを知っている。
さらに、それぞれのメディアは固有の部分的な影響力を持っているので、プロパガンディ
ストは互いを補完するためにそれらを組み合わせようとする。このようにプロパガンディ
ストは統合を行うのである。
従って、プロパガンダの心理学的影響を研究するとき、それぞれのメディアの影響を独
立に研究しなければならず、同時に個別的なプロパガンダの技法の組み合わせの影響を研
究しなければならない。ここではそれができないものの、読者は常にこのプロパガンダの
補完的な性質を心に留めておくべきである。
心理学的純化
プロパガンダの影響下で、あいまいで不明瞭なかつしばしば固有の目的を持たない潜在
的な衝動が、突然強く直接的でかつ明確なものになる。プロパガンダは目的を与え、人々
の人格の特徴を系統的に組織化し、型にはめて固める。例えば、どんな出来事においても
存在する偏見はプロパガンダによってしっかりと補強され、硬化する。偏見を抱くことは
正しいことだと人は聞かされる。人は偏見が多くの人々によって明白に共有され、公然と
語られるとき、偏見の理由づけと正当化を見出す。もっと言えば、社会における矛盾が大
122
きいほど、偏見は大きくなる。矛盾を強調するプロパガンダは、同時にまさに同じように
偏見を強調する。
プロパガンダが憎しみを活用し導き始めるとすぐに、人はもはや退却する機会も憎しみ
を減らす機会も、敵対者との和解を模索する機会も失ってしまう。もっと言えば、人は今、
プロパガンダが始まるまではぼんやりと認識していた部分についてでき合いの判断を授か
り、あらゆる状況に直面することができるようになる。人は唯一の真理と考える判断を変
える理由を持たない。
こうして、プロパガンダは現在の観念を標準化し、行き渡った偏見を硬化させ、あらゆ
る領域で思考様式が組み込まれる。こうしてプロパガンダは社会的、政治的、道義的標準
を成文化する。もちろん、人はこうした標準や範疇を確立する必要がある。異なる点は、
プロパガンダが圧倒的な力をこうした過程に発揮することである。人はもはや自分の判断
や思考様式を変更することができない。一方でこの力は用いられたメディアの性質から湧
き上がるものであり、客観的な様相に主観的な衝動を与えるものである。もう一方では万
人による同じ標準や偏見への支持によって湧き上がる。
同時に、人々が自分自身のものであると考えているこうした集団的信条や、プロパガン
ダの影響を受けない人の心的生活においてはほんの小さな役割しか果たさないこうした価
値観の基準や固定観念は非常に重要なものになる。純化という過程によって、こうした印
象は人の意識全体を支配し始め、他の感情や判断を押し出し始める。人の一部にだけ関わ
るような本当に個人的な活動というものは減っていく。人は最終的にすべてが関与するこ
うした信条や偏見だけで満たされる。個人的な生活のなかで、人は次第にこうして純化し
た標準によってすべてを判断するようになる。ステッツェルによれば、世論がプロパガン
ダの影響を通じて純化するほど、私的な意見は少なくなる一方、人々のなかの世論は大き
くなる。
純化のもう一つの側面は、我々がこれまでに見てきたように、人が大きな欲求を持って
いる自己正当化に関係がある。人が正当化を求める限り、プロパガンダが正当化を与える。
人の通常の正当化は脆弱で、常に疑わしいものである一方、プロパガンダによって与えら
れた正当化は否定しがたく、また堅硬なものである。人はそうした正当化を信じ、永遠の
真実と考えるようになる。人はあらゆる疑念を捨て去り、自分が行うかもしれない害悪に
対する感覚や、プロパガンダが自分の中に染み込ませた責任感以外のあらゆるその他の責
任感を喪失する。このようにして、人は客観的状況に完全に適応し、自分のなかで分裂を
引き起こすものは何も存在しなくなる。
こうした強烈な理性化の過程を経て、プロパガンダは画一的な個人の群れを作り上げる。
プロパガンダは内的矛盾や緊張、自己批判、自信喪失を消却する。こうしてプロパガンダ
は、幅や奥行の可能性を持たない、一次元のかたちを作り出す。こうした人は過去の行動
だけでなく、未来の行動に対しても同様に理性化されている。人は自分の正当性を完全に
確信して前へ前へと行進する。その人は均衡という点で無敵であり、その正当化の装置を
123
壊すことは相当難しいのでなおのこと無敵である。ナチの囚人への実験はこのことを証明
している。
緊張は、自己保存の本能のためにそこから逃れようとあらゆることをする人にとって常
に脅威である。通常、人は自分なりの方法で緊張を和らげようとする。しかし、我々の現
代社会ではこうした緊張の多くは一般的な状況から作られ、簡単に減らすことができない。
集団的な問題に関しては集団的な対処だけで事足りると言う人がいるだろう。ここにプロ
パガンダは特有の機能を発揮する。よく馴染んだ世論の雰囲気のなかに人を住まわせ、彼
の象徴を操作することで、プロパガンダは緊張を減らすことができる。プロパガンダは、
人をこうした世論の雰囲気のなかに飛び込ませることによって緊張の原因の一つを消却す
ることができる。こうして彼の生活は大幅に単純化され、安定と大きな安心、ある程度の
満足がもたらされる。
同時に、この純化は人の心をあらゆる新しい概念から閉ざすものである。人はいま、客
観的な正当化と同じように、一連の偏見や信条を持っている。人の人格全体はこうした要
素の周辺をぐるぐると回っている。それゆえ、あらゆる新しい概念は彼の存在全体にとっ
て厄介なものとなる。彼は新しい概念が自分の確信を破壊する脅威となるため、新しい概
念に対して防御しようとする。こうして彼はプロパガンダが与えてくれたことに反するあ
らゆるものを嫌うようになる。プロパガンダは人のなかに、批判を受けいれられない意見
や性向の体系を作り出す。この体系は感情におけるあいまいさや弛緩の余地を残さない。
人はプロパガンダから非理性的な確信を得る。まさに非理性的であるがゆえに、その確信
は人格の一部となる。人はこうした確信が攻撃されるとき、人格に攻撃されたと感じる。
神聖なものへの攻撃と同じような感覚である。そしてこの真なる禁忌は、自分のなかにあ
いまいさを作り出しかねない新しい概念を受け入れることを認めない。
この新しい概念を受け入れることを拒むことは、付随的ながら常に皮肉な側面を備えて
いる。強力なプロパガンダをしっかり受けた人は、あらゆる新しい概念はプロパガンダで
あると公言するようになる。あらゆる固定観念や偏見、正当化がプロパガンダの成果であ
る限り、人は他のあらゆる概念をプロパガンダとみなし、プロパガンダにおける不信を主
張するようになる。自分たちが共有しないあらゆる概念をプロパガンダと呼ぶ人たちは、
ほとんど完全にプロパガンダの産物であるとほぼ想定できる。自分たちのもの以外の概念
を検証し疑問を呈すことを拒むことは、こうした状況の特徴である。
さらに進んで、プロパガンダは人に宗教的人格を与える傾向があると言う人もいるだろ
う。心的生活は、価値の基準や行動の規則、社会的統合の原則を与える非理性的で外的で
集団的な領域の周辺で組織化されている。世俗化の過程にある社会において、プロパガン
ダは宗教的な欲求に対応するものの、結果として生じる宗教的人格にさらなる活力や非妥
協的態度を与える。その言葉の軽蔑的な意味で(自由主義者が 19 世紀に用いたように)、神
の命令を機械的に用いる限定的で厳格な人格は、人間的な対話を行う能力がなく、人の上
に置かれた価値観を決して疑わない。これはすべてプロパガンダによって作られるのであ
124
るが、人間性の一切を失わず、人類の徳のために行動し、人間の最も高尚なかたちを表す
傾向がある。この点において、厳格な正統派的信仰はずっと変わっていない。
我々はこうも尋ねたい。もしプロパガンダがこういうかたちで心的生活を変化させるな
ら、プロパガンダはノイローゼを起こしたりをしないのではないだろうか。カレン・ホー
ナイがノイローゼを患った人格は社会構造や文化(米国的な言葉の意味において)と結びつ
いていて、あるノイローゼは我々の社会にみられる問題から直接噴出している本質的な特
質を持っていることを明らかにしたことは名声に値する。社会によって作り出された問題
に直面して、プロパガンダは個人的な欠乏を回復する手段になる。同時に、プロパガンダ
は人をノイローゼという状況へと押しやる。このことはプロパガンダ受容者の厳格な反応
や、創造性のない固定観念化した態度、社会政治的過程に関する貧弱さ、プロパガンダに
よって作られた状況以外に対応できない無能さ、黒と白、善と悪といった完全な二項対立
の必要性、プロパガンダによって作られ膨らめられた現実にはない軋轢への関与から明ら
かである。人工的な軋轢を現実の軋轢と取り違えることは、ノイローゼの特質である。プ
ロパガンダ受容者の性向がまさにそれであり、あらゆるものに自らの偏狭な解釈を与え、
事実を自分の体系に統合して、事実に感情的な色合いをつけるために事実から現実の意味
合いを取ってしまうが、ノイローゼでない人はそんな風に事実を語りはしない。
同様に、ノイローゼの人は不安のなかで多くの人々の愛情や尊敬を追い求める。ちょう
どプロパガンダ受容者が(同じプロパガンダの影響を受けている)集団の考えや判断と同じ
考えや判断を共有して仲間たちとだけ同調して生きることと同じである。プロパガンダ受
容者は微塵も逸脱しない。というのは彼から環境の愛情を奪うことは大変な苦痛を意味す
るからだ。愛情は特定の外的行動やプロパガンダに対する同一の反応とつながっている。
当然、これに対応するものが、自分の友情を拒み自分の集団の外にとどまっている者への
ノイローゼの敵対心である。同じことがプロパガンダ受容者にも当てはまる。
ノイローゼの人において、自己正当化への異常なまでの欲求(誰のなかにでもあり、人を
言行不一致へと導く)は、外側の世界への敵対的動機を投影するかたちで表出する。彼は自
分の中からだけでなく、外部の誰からも何の破壊的衝動も発出されていないと感じる。彼
は他人を馬鹿にして利用しようとは思わないが、他人は彼をそうしようとする。この機能
はかなりの正確さをもってプロパガンダによって再創出される。戦争をしようとする者は、
敵にこうした意図を投影する。そうして投影された意図はプロパガンダ受容者に拡がり、
プロパガンダ受容者は戦争に動員され準備をさせられる。敵に自分自身の攻撃を浴びせる
ことをさせられながら、その敵対心が同時に引き起こされる。ノイローゼの人と同様に、
“被害者-敵-身代わり”の回転は、プロパガンダ受容者の心のなかで大きな割合となる。
こうした過程に加えて、幾つかの正当な理由がこうした反応のために存在すると、我々が
認めたとしてもである。
125
要約しよう。カレン・ホーネイのノイローゼの人の環境から生まれるノイローゼの循環
の詳述を読むと、ほとんどプロパガンダ受容者の典型的な循環について読んでいるかのよ
うである。
不安、敵対心、自尊心の減退・・・権力への戦い・・・敵対心や不安の補強・・・競争に直
面して引き下がる傾向・・・自己過小評価への性向に伴うものであり・・・失敗と能力と達
成の間の不均衡・・・優性という感情の強化・・・壮大な観念の強化・・・引き下がる性向
を伴った敏感さの増大・・・敵対心と不安の増加
こうしたノイローゼの反応はプロパガンダ受容者の反応と同じである。たとえ我々がプ
ロパガンダは究極的に意識的な不安を消し去り、プロパガンダ受容者の心を落ち着けると
いうことを考慮してもである。
プロパガンダを通じた疎外
疎外されるということは、自分ではない他の誰かになるということである。それはまた、
ほかの誰かのものになるということでもあり得る。より深い意味では、疎外されることは
自らを失うことであり、服従させられるということであり、他の誰かと同一視されるとい
うことである。これは明確にプロパガンダの影響である。プロパガンダは人を丸裸にして、
その人の一部を奪い、性に合わない人工的な生活をさせる。その人が異なる人物になり、
違和感のある衝動に従うようなことである。人は他の誰かに従う。
今一度言及するが、こうした影響を作り出すために、プロパガンダはその人よりも大き
い何かのなかで自分を見失いがちな人々の性向を活用し増大して強化することや、人の個
性を払拭すること、他者との融合を通してあらゆる疑念や軋轢、困難に関する人の自我を
解放すること、人を偉大な指導者や大義に貢献させることに集中する。大規模な集団にあ
って人は他者と一体感を感じ、大集団と交わることで自分を解放しようとする。確かに、
プロパガンダは例外的に簡単で満足のいくかたちで可能性を提示する。しかし、プロパガ
ンダはその人が完全に消え去るまで大衆に押し込み続けているだけだ。
まず、プロパガンダが消し去るものとは何だろうか。批判的かつ個人的な判断の本質に
あるすべてである。明らかにプロパガンダは思考の応用を制限する。プロパガンダはプロ
パガンダ受容者にでき合いの(さらにもっと言えば非現実的な)思考と固定観念を与えつつ、
その思考の領域を制限する。プロパガンダは受容者をごく限られた目的に方向づけて、自
分の精神を使って自分で試して見ることをさせないようにする。プロパガンダは中心を定
め、そこから受容者のすべての思考が始まり、批判や創造性を認めないある種の指針の始
まりが導かれる。より正確に言えば、人の創造性は、定められた線からわずかな逸脱や脱
線、枠組みの範囲内の予定された反応にとどまる。こうして我々は共産党の基本的なプロ
126
パガンダの領域の周辺で進歩主義者たちが幾らからの“変化”を作るさまを見ることがで
きる。しかし、こうした変化の領域は厳密に制限されている。
こうした線や、目的や制限を受け入れることは、すべての批判的な判断の抑圧を前提と
するものである。こうした抑圧は翻って思考や態度の純化、禁忌の創出の結果である。ジ
ュール・モヌロが正確に述べている通りである。あらゆる人々の情熱は、その情熱の目的
に従って、あらゆる批判的な判断の抑圧につながってしまう。このようにして、プロパガ
ンダによって作られた集団的な情熱のなかで、批判的な判断は完全に消え去ってしまう。
というのは、集団的で批判的な判断などというものはあり得ないからである。人は区別が
できず、識別ができなくなる。批判的(critical)という言葉はギリシャ語の krino(区別に
由来する)。人はもはや自分で判断できなくなる。なぜなら、人は自分の思考をプロパガン
ダが確立した価値観と偏見の合成物の総体と必ず結びつけるからだ。政治的な状況に関し
て、多数の支持者と専門家の言葉によって真実の力を授かったでき合いの価値判断が与え
られる。人は主要な問題についても、その含意についても判断を下すことができなくなる。
このことは能力の委縮につながり、いかなる状況でも適切に判断を下すことができなくな
る。
人は失ったものを決して簡単に取り戻すことができない。一度、個人的な判断と批判的
な能力が消え去るか委縮すると、プロパガンダが抑圧してそれらは簡単には回復しない。
事実、我々はここにプロパガンダの最も耐久性のある影響を取り扱っている。数年に及ぶ
知的かつ精神的な教育が、こうした能力を回復するために必要となる。あるプロパガンダ
が取り除かれると、プロパガンダ受容者はすぐに別のプロパガンダを受容する。新たなプ
ロパガンダはでき合いの意見を持たずに幾つかの出来事に対峙して自ら判断するという苦
痛から救ってくれる。同時にプロパガンダはこうした混乱のなかであまりにも多くの手法
をもって事実や判断、価値観を与えてくれるので、平均的な人が洞察力をもって前へと進
むことは文字通り不可能である。人は知的な能力も情報源も持っていない。それゆえ人は
受け入れるか拒否するかを余儀なくされる。全部が全部そうである。
我々はこうしてさまざまな経路から同じ地点に辿り着いたことになる。プロパガンダは
批判的な能力を破壊する一方、他方でその能力を行使することができなくして不要なもの
にしまうという目的を呈している。
いずれも個人の判断をなくしてしまうことに明確につながっており、人が世論を受け入
れるとすぐにこのことは起きる。人が自分の言葉や身振りで世論を語るとき、彼はもはや
自分のことを表しておらず、自分の社会や集団を表出している。確かに人は常に集団を多
かれ少なかれ表出する。しかしこの場合、人は全面的に、系統的な施行に反応してそれを
行う。
もっと言えば、プロパガンダによって作られるこの非人間的な世論は人工的である。世
論は全く本来的なものに対応していない。しかし、人が自分のなかに取り込むものはまさ
にこの人工的な意見である。人はそれで満たされる。もはや自分の概念は語らず、集団の
127
概念を大変な情熱をもって語る。人が集団の概念を断固たる態度と確信を持って主張する
ことはプロパガンダの必要条件である。人は集団的な判断やプロパガンダの創作物を取り
込む。集団的な判断をまるでそれが実際に有意義であるかのように取り込む。人はそれを
自分なりに詳しく説明する。人は力強く立場を取って他人に反対し始める。人はまさにそ
の時、自らを否定しているのだがそうと知らずに主張する。人がプロパガンダの講義を語
り自分で考えていると主張するとき、目は何も見ず、口は脳にかつて刷り込まれた音を作
り出しているだけのとき、自分の判断を確かに述べていると人が主張するとき、彼はもは
や全く何も考えていないことや人として存在していないことを実際には証明しているので
ある。プロパガンダ受容者が現実を生きていると主張しようとするとき、かなり明確に自
分の疎外感を証明している。というのは、プロパガンダ受容者はもはや自分と社会を区別
することができないことを示してしまっているからだ。その時、彼は完全に統合され、社
会の集団となり、彼のなかに集団でない部分はなくなり、彼のなかに集団の意見でない意
見はなくなる。彼はプロパガンダが教えてくれたこと以外の何も持っていない。彼はプロ
パガンダの真理を摂取し、人としての自分がいないという結果を確信しながらもプロパガ
ンダの真理を広める単なる経路でしかない。彼はこうした状況下で出来事を見るために一
歩下がることができない。自分とプロパガンダの間にまったく距離を置くことができない。
こうした疎外感の機能は、一般的に英雄や指導者への投影や同一視に符合するか、大衆
との融合に符合するものである。この二つの機能は相互に排他的ではない。ヒトラー青少
年団が自らを総統に投影したとき、プロパガンダによって統合された大衆のなかへと、ま
さにその行動によって入っていった。若いコムソモールがスターリンの人格崇拝に傾倒し
たとき、まさにその瞬間に彼は大衆の一部に完全になったのである。プロパガンダ受容者
が人格の最も崇高な理想を表出していると信じるとき、人は疎外感が最も小さな場所にい
ることを指摘することは重要である。人格を栄誉ある地位へと復活させるというファシズ
ムの主張を頻繁に聞いたことがなかっただろうか。しかし、次から次へと経路を通して、
同様の疎外感がプロパガンダによって作られる。というのは、英雄の創造は活発化した大
衆の中に個人を統合することとほぼ同様に、プロパガンダの結果であるからだ。プロパガ
ンダが個人を集団的な行動に参加させるとき、プロパガンダは人工的な動きのなかで共有
させるだけでなく、人のなかに参加の心理、“群集心理”を行き起こす。この心的形成は
他の参加者の存在で無意識的に起こるものであり、プロパガンダによって系統的に作られ
る。これが大衆心理の創造であり、群衆に統合される人の個人的心理によって行われる。
この疎外の過程のなかで、人は制御を失って外的衝動に服従する。人の個人的な性向や
趣向は集団への参加に取って代わられる。しかし、その集団は常に英雄によって最も理想
化され模範とされ代表される。英雄の崇拝は間違いなく社会の大衆化に必要な要素である。
我々はこうした英雄崇拝の自然発生的な創造を、王者の運動選手、映画スター、米国やカ
ナダにおける 1955 年のデイヴィッド・クロケットのような抽象的な存在にも関連づけて見
ることができる。この英雄賞賛は、人が大衆社会を生きていることの証左である。現実的
128
な人間であることを環境によって阻まれている人、もはや自分の思考や行動を通じて自分
を表すことができない人、熱情が抑圧されていると感じている人は、自分が成りたかった
であろう英雄を投影する。人は身代わりとして生き、精神的な共同生活のなかで共に生き
ている神の運動や恋愛や軍事の偉業を経験する。よく知られている映画スターと同一視す
る機能は、英雄という人のなかで自分を賞賛するようになった現代社会の成員にとってほ
とんど避けがたいことである。そこでは、人は無意識に夢をみて願望を投影して自分を成
功や冒険と同一視する力を発揮する。英雄は模範や父となり、人が成り得ないあらゆるも
のの権力や神話的成就となる。
プロパガンダはあらゆるこうした機能を用いるが、実際にはこうした機能を強化し安定
化し拡大しさえする。プロパガンダ受容者は疎外され、プロパガンダによって奨励された
人へと変換される(映画スターのパブリシティ・キャンペーンとプロパガンダ・キャンペー
ンはほとんど同一である)。こうして付随的に、全体主義的組織は不要となり、こうした疎
外はヒトラーやスターリンの事象のなかだけで起きるのではなく、フルシチョフやクレマ
ンソー、クーリッジ、チャーチルの事象のなかでも起きる(クーリッジを取り囲む神話はこ
の点で極めて顕著である)。
プロパガンダ受容者は以下のような要素で構成された心理的状況に自分がいることを
悟る。媒介を通じて自分を身代わりとしている。自分を英雄のように感じ、考え、行動す
る。自分は生ける神の守護と庇護の下にある。自分が子どもであることを受け入れる。自
分は自分の利益を守ることを止める。というのは、自分は英雄に愛されていて、英雄が定
めたすべてのことが自分にとって正しいことだからだ。彼は課せられた犠牲の苦しみをこ
うして埋め合わせる。こうした理由で、ある一定の英雄主義を求める体制はすべて、英雄(指
導者)の上にこうした投影というプロパガンダを拡げなければならない。
この関係性のなかで、現実に疎外やプロパガンダによって引き起こされた幼稚な状態へ
の後退を言明することができる。ヤングは、プロパガンダ受容者はもはや成長せず、幼稚
なノイローゼの型に収まってしまっていて、人が集団心理に浸かってしまうと後退が始ま
るという意見である。このことはステッツェルによって確認され、プロパガンダはあらゆ
る個人性を破壊し、集団的人格だけを作り、人格の自由な発展にとって障害物になると言
っている。
こうした広範囲な疎外感は決して例外的なものではない。読者諸君は、我々が極端な、
ほとんど病理学的な場合を述べているだけだと考えるかもしれない。残念ながら、深刻な
ものも含めて同様の種類のものである。至るところで我々は、ほんの一時間前に新聞で読
んだことを全く自分の見解のように語る人を見かける。彼らの信条は単なる強力なプロパ
ガンダの結果である。至るところで我々は、政党、将軍、映画スター、国、大義への信頼
を隠している人を見かける。彼らは自分の神への僅かな挑戦すら看過できないだろう。至
るところで、我々は、崇高なる利益の意識に満たされているために死をも厭わないという
人を見かけるが、彼らはごく簡単な道義的或いは知的分別ができず、最も初歩的な推論も
129
行うことができない。しかし、これらはすべて、努力や経験、熟慮、批判ではなく、よく
練られたプロパガンダの破壊的な衝撃効果によって得られたものである。我々は、あらゆ
る場面でこうした疎外された人に会うが、もしかすると我々も既にその一人なのかもしれ
ない。
理性的な人が非理性的な集団へと後退するときに起きる疎外とは別なかたちの疎外もあ
る。例えば現実の要求の人工的な満足や、人工的な要求の現実の満足を通じた疎外である
(パブリシティや広告)。
前者の場合は我々が既に議論してきたものであり、そこにあっては人に現実の欲求に応
える人工的な満足を与えるために、プロパガンダは現代的な社会学的状況から発展する。
人は不安で欲求不満であるため、自分が生き行動している世界について何も理解していな
いため、大変に大きな犠牲や努力を求められているため、これらすべてのためにプロパガ
ンダは発展する。プロパガンダは人を満足させるが、偽りの幻想の満足である。プロパガ
ンダは住んでいる世界の説明をしてくれるが、その説明は偽りの非理性的なものである。
プロパガンダは人をこれまで存在していない生物兵器という恐れで震え上がらせ、平和な
ど望んでいない国々の平和的志向を信じさせる。プロパガンダは人が求められている犠牲
の理由を与えもするが、それは本当の理由ではない。このようにして、1914 年には、プロ
パガンダは人にその命を国家のために投げ出すよう求めたが、人が戦う理由にはしないで
あろう戦争の経済的理由については沈黙を保ち続けた。
プロパガンダは、人が求める解放と確信への欲求を満たす。プロパガンダは人の緊張を
和らげ、欲求不満を埋め合わせるが、純粋に人工的な手段である。例えば、もし労働者が
所与の実際の経済状況において欲求不満や疎外感、搾取を感じるとき、労働者の問題を現
実に“解決”できるプロパガンダは、既にソ連で行ったように、欲求不満や疎外感をさら
にはっきりと感じさせて、その後に人を鎮めて満足させることで彼らをさらに疎外するこ
とである。人が大都市や戦場の異常な状況に従い、緊張や怖れ、歩調の乱れを感じる正当
な理由を持つとき、彼の状況を少しも変えずに彼をこうした状況に適応させ、人工的に彼
の矛盾を解消してくれるプロパガンダはまさに有害というほかない。もちろん、それは救
済のようにも思える。しかし、それはアルコール中毒者が肝臓に痛みを感じずに酒を飲み
続けることで肝臓を治療するような救済である。現代人の心理的苦痛に対するプロパガン
ダの人工的で非現実的な回答は、まさにこうした種類のものである。プロパガンダの回答
は社会が設定した状況下で現代人を異常なかたちで生き続けさせる。プロパガンダは彼の
不安や不適合、反抗、要求が発した警告信号を握り潰してしまう。
こうした働きが起きるのはまた、我々の性的衝動、罪責感、権力願望といった我々の深
層の衝動や性向をプロパガンダが解放するときである。しかし、このような解放はこうし
た衝動を満たすことはなく、我々の欲求や侵害に正しさを感じさせることで正当化してく
れるだけのことである。人は自分の性的衝動を解放する以外に、自分の侵害の標的を捉え
ることができない。プロパガンダが与えられる満足や解放は偽物である。その目的はある
130
程度の減圧をもたらすことであり、他のどこかへこうした甚大な力の衝撃効果を用いるこ
とであり、さもなければ勢いを失った行動の支持にそれらを用いることである。このこと
は、いかにプロパガンダの過程が人から本当の人格を奪うかということを示している。
現代人は友情や自信、緊密な個人的関係を深く希求している。しかし、現代人は競争、
敵対、匿名性の世界に押し込まれている。現代人は自分が完全に信用でき、純粋な友情を
感じることができ、見返りに何かを感じることができる人に会う必要がある。日常生活の
なかでそういう人を見つけることは難しいが、指導者や英雄、映画スター、テレビの有名
人への信頼は明白にこうした必要性を満たしてくれる。しかし、こうした充足は紛れもな
く幻想や虚偽である。なぜなら、テレビの有名人に友情を感じる視聴者と有名人との間に
は本当の友情といった類のものはないからである。ここに、本当の欲求に対する虚偽の満
足が存在する。さらに、テレビが自然と作り出しているものは、プロパガンダに系統的に
利用される。“小さな父親”が常に存在するのだ。
別の例を挙げてみよう。1958 年、フルシチョフはソ連において、共産主義の統合を約束
した。それはすぐに実現すると公言した。この約束は全くの非理性的なキャンペーンであ
り、その主要な議論は、1975 年までにソ連は米国の生産水準に到達し、それは米国が共産
主義をすぐに実現することを意味するので、共産主義はすぐに完全に実現するというもの
だった。ついでながら、1958 年にフルシチョフはこうした現象の発生が起きる年は 1975 年
としていたが、1960 年の 4 月にはその年は 1980 年であるとした。このキャンペーンはソ連
の大衆の欲求を満足させ、自信を回復し、要求を和らげるために設計された。ここに我々
がみるものは、純粋に理論的な回答なのであるが、その回答は大衆によって信じられ、そ
の結果プロパガンダの機能によって真実や現実になるために、大衆を満足させることがで
きるのである。
さて、硬貨の裏側を見ることにしよう。プロパガンダは人工的な欲求を作り出す。ちょ
うどプロパガンダがそれ自体では決して湧き上がって来ないであろう政治的な問題を作り
出し、そうして世論はその解決を求めることになるように、プロパガンダは我々のなかで
決してなければならないというわけでもない願望、偏見、欲求の増殖をかき立てる。それ
らは単なるプロパガンダの結果であり、広告と同じような役割を果たす。加えて、プロパ
ガンダは一般的に緊張の心理的解放を約束することで広告の効果を拡大しつつ、個人の衝
動にねじれや方向づけを与える広告によって助長される。プロパガンダの衝撃の下で、偏
見(人種的或いは経済的)や欲求(平等或いは成功への)は、すべての領域の意識を支配し、
すべての生活の局面を取り込み、答えを求めながらすべてを滅ぼす破壊的な情熱となる。
プロパガンダの結果、こうした人工的な性向は最終的に我々の最も深層にある欲求と同
一視され、我々のなかのほとんど個人的な深遠なものと混同されるようになる。まさにこ
のようにして、19 世紀と 20 世紀のさまざまなかたちのプロパガンダの衝撃の下で、解放へ
の本物の欲求は薄められ、忌まわしい自由主義の混合物へと貶められた。プロパガンダに
よって作り出されたこの心的混乱のなかで、プロパガンダはただ命令を下すだけである。
131
大衆メディアが新しい欲求を作り出すという事実と同じように(例えばテレビの存在はテ
レビセットを買い、使ってみたいという欲求を作り出す)、こうした手段がプロパガンダに
よって用いられることはよくあることである。
さらに、プロパガンダは新しい欲求を作り出そうと動くことと同様に、その解決策への
要求を作り出す。我々はいかにプロパガンダが緊張を和らげ解消するかを示してきた。こ
の緊張は同時にその救済も行うプロパガンディストによって意図的に引き起こされている。
プロパガンディストは、励起と充足両方の使い手である。プロパガンディストがある緊張
を引き起こしたなら、それは人にある救済を受け入れ、ある適切な行動を求めさせ(プロパ
ガンディストの観点で適切な)、そうした緊張を和らげる体系へと従わせるためであると言
う人もいるかもしれない。プロパガンディストはこのようにして人工的に作られた欲求や、
根源は確かに完全に本物であったとして人工的になった欲求の世界に人を配置する。
例えば、プロレタリアートに階級意識を作り出すことで、プロパガンダは労働者の惨め
さに対応する緊張を追加する。同様に、平等意識を作り出すことで、プロパガンダは“無
産者”の自然な要求に新たな緊張を追加する。プロパガンダは人々のために扉を開く。我々
はそれが最も効果的なプロパガンダの装置の一つであることを知っている。唯一の問題は、
本当にプロパガンダが作り出しているものは根深い疎外であるということだ。人が人工的
に作り出された刺激に反応するとき、或いは抽象的な活力やそうした活力を緩和する余地
を与える個人的な衝動を堪えさせる操作に人が従うとき、精神安定剤に対して生物学的に
反応するときの人と何ら変わりがない。これが本当の治療であることが明らかになってく
る。実際にはそうではあるが、それは救済に合うように意図的に引き起こされた病気のた
めの治療である。
我々がしばしば指摘しているように、こうした人工的な欲求は、その普遍的な性質と、
プロパガンダに使われる手段(大衆メディア)がゆえに、大変重要であるように思われる。
こうした欲求は、個人的な欲求以上に当人を駆り立て、義務となり、個人的な充足を犠牲
にするように導いていく。経済においても政治においても、人工的な欲求の発展はますま
す個人の欲求や性向を減じている。このようして、起きていることは人が自分の外側へと
排除されているということであり、技術的志向の機能という抽象的な力へ人を持っていく
ように設計されている。
この位相において、人は自分で考え、感じ、行動していると思うほど、より疎外感は大
きくなる。心理学者のビドルは、プロパガンダを受けた人はまるで自分の反応が自分の決
定に基づいているかのように振る舞うことを詳細に証明している。人は従い、恐れに身震
いし、示唆に従うときでさえ、“自分で”決定し、自分で自由に考え、命令に従って拡張
したり萎縮したりする。この服従のなかにあっては、受動的で無意識的なものは何もない。
実際、人がプロパガンダに従うほど、自分が自由だと感じるようになる。人は精力的に自
分自身の行動を選択する。実際、プロパガンダは人の緊張を減らすために行動経路を作り、
一つ、二つ、或いは三つとそれは呈示される。プロパガンダ受容者は自分自身がよく整理
132
されていて、それらの中から一つを選択するときに自分自身を完全に認識していると考え
る。もちろん、こうしたことは人に大した労力を強いるわけではない。プロパガンダ受容
者は、自分の意思決定にそれほど精力をつぎ込む必要はない。というのは、その決定はそ
の人の集団や示唆、社会学的な力に対応しているからだ。プロパガンダの影響下では、人
は常に安易な道や抵抗のほとんどない経路を選ぶ。それが人に命を犠牲にさせるとしても
である。しかし、下り坂を滑走する間でさえ、人は上り坂を登っていて、個人的な英雄的
行動を行っていると主張する。プロパガンダは人の精力や人格、責任感、或いは言葉の心
像を喚起する。その人自身の力はずっと前にプロパガンダによって破壊されているからだ。
この欺瞞はプロパガンダの最も破壊的な活動である。このことはさらに、次に述べるプロ
パガンダの心的分離作用という効果につながっていく。
プロパガンダの心的分離効果
フィリップ・デ・フェリスは、プロパガンダは躁鬱(気分循環性の)ノイローゼへの性向
を作り出すと述べている。これは明らかに誇張であるが、プロパガンダが互い違いの主題
を人に当てることで軒昂と消沈の連続的な周期に人を陥れることは真実である。我々は互
い違いの主題の必要性を既に分析してきた。例えば、恐怖と自己肯定という互い違いの主
題である。その結果、継続的な感情的対照が生じ、それにさらされた人は極めて危険な状
態となる。フェリスが示唆するように必ずしも精神病になるというわけではないが、矛盾
するプロパガンダの衝撃のようにこうした対照は、心的分離作用の一つの原因になり得る。
こうした点において、我々はプロパガンダ受容者における公的な意見と個人的な意見の
間の観察可能な分離作用を傍らに置くことにする。我々は既にプロパガンダはこれら二つ
の間に大きな乖離を作り出すと述べてきた。変わりに我々は、思考と行動の間の分離を強
調することにする。これは我々の時代の最も不穏な事柄の一つである。最近、人は思考な
しに行動し、翻って思考はもはや行動に反映されていない。考えることは現実を省みない
表面的な作業となり、人を動かさずにはいられない力を伴わない純粋に内的なものとなり、
多かれ少なかれ遊戯になってしまった。思考は文芸の領域にある。私は単に“知的な”思
考を言っているのではなく、仕事や政治、家庭生活などに関わるすべての思考のことを言
っている。要するに思考や熟慮は、現代人が生き、行動している環境によって完全に無意
味なものになっている。人は行動するために考える必要がない。人の行動は自分が用いる
技法や社会学的条件によって決まる。本当に望んでいなくても、自分が行動する意味や理
由を考えることがなくても人は行動する。この状況は我々の社会の全体的な進歩の結果で
ある。学校や報道機関、社会の実用主義は、心理技術や現代的政治構造、生産性への支持
と同様に、こうしたことに責任がある。二つの決定的な要素がある。それは仕事の機械化
とプロパガンダである。
仕事の機械化は、完全に分離作用を基礎に置くものであり、計画を考え立案し、規則を
設ける者は決して行動せず、規則や様式、計画に従ってその通りに行動しなければならな
133
い者はそれを外側から強いられる。とりわけ、彼らは自分たちの行動について考えない。
彼らはいかなる方法であってもその仕事の速度のゆえその通りには行うことができない。
現代の理想は完全な自動化に向けた、行動の削減であるようだ。完全な自動化は労働者に
とって大きな利益であるように思われている。労働者は仕事をしながら、夢を見て“他の
こと”を考えることができるからだ。しかし、一日八時間続くこの分離作用は必ず、その
人の他の行動すべてに必ず影響を与えるはずである。
この関係性において決定的な役割を果たすもう一つの要素がプロパガンダである。プロ
パガンダが行動や支持、参加を可能な限り少ない思考で引き起こそうとすることを思い出
して欲しい。プロパガンダによれば、人が考えるということは不要であり、危険でさえあ
る。考えることは、人が求められた正当性や簡潔さとともに行動することを阻むことにな
る。行動は無意識という深層から直接現れるものでなければならない。行動は緊張を解き
放ち、反射になる。ということは、思考は完全に非現実的な位相で解放され、思考はまっ
たく政治的な決定に関わらないということになる。そして、実際そのようになる。一貫性
があり明瞭な政治的思考はどうあってもなされない。人が考えることはまったく影響力が
ないか、言葉にしてはならない。これが現代社会の政治組織の基礎条件であり、プロパガ
ンダはこの効果を得るための装置である。徹底的な思考の価値低下を示す例が、プロパガ
ンダにおける言葉の変換である。言語や精神の道具は感情や反射を直接引き起こす“純粋
な音”や象徴になる。これはプロパガンダが引き起こす最も深刻な分離作用の一つである。
他の例を挙げてみよう。プロパガンダが我々に命を与える言語的世界と現実の間の分離で
ある。プロパガンダは時に、意図的に現実世界からプロパガンダが作り出す言語的世界を
切り分ける。そうすることでプロパガンダは人の良心を破壊する傾向がある。
分離作用の問題と関連して、我々は今、同様に接近する二つの強い逆行するプロパガン
ダに従う人の事象を検証しなければならない。こうした状況は民主主義の下で起きる。二
つの完結したプロパガンダが互いを打ち消し合うということが時に指摘される。しかし、
もし人がプロパガンダを概念や教義の普及に関する議論でなく、行動を引き起こすための
心理的な操作とみなすなら、こうした二つのプロパガンダは互いに矛盾しているために互
いを打ち消し合うことはないことを理解するだろう。左フックでふらついているボクサー
は、右フックを打たれて正気を取り戻さない。今、現代のプロパガンディストは“衝撃効
果”を語ることを好む。それは確かにプロパガンダに従う人が患う心理学的衝撃である。
しかし、他の角度からの第二の衝撃はその人を立ち直らせない。かえって第二の現象はこ
うした矛盾するプロパガンダによって作り出される。ある行動を起こさせようという心理
学的作用が始まっている人は、第二の衝撃によって止まることはない。第二の衝撃は別の
行動をさせようと同様の作用を働かせる。この人が最終的に誰に投票するかは、特に重要
な論点にはならない。大切なことは、彼の正常な心理的過程が阻まれ、恒常的に阻まれ続
けるということである。こうしたことから自分を守るには、次の二つのうちのいずれかの
方法で習慣的に対応することである。
134
(a)遅鈍にあって逃避する。こうした場合、プロパガンダは彼の拒否を引き起こす。対立
する政党からの矛盾するプロパガンダは本質的に政治的棄権につながることがある。
しかし、これは棄権を表明する自由精神の放棄ではない。これは諦めという結果で
あり、一連の抑制という外的兆候である。こうした人は棄権するという意思決定を
しているわけではない。さまざまな圧力の下で衝撃や歪曲にさらされ、(望んだとし
ても)もはや政治的な行動を行うことができないのである。より深刻なことは、こう
した抑制は政治的な領域だけでなく、人そのもののあり方を次第に接収していき、
投降という一般的な態度につながることである。政治的議論が重要でなく、また選
挙プロパガンダが治水や地域の電気化を扱っていたときには、この逃避反射は人々
の生活全体に影響を与えていなかった。しかし、プロパガンダが不安をよりかき立
てるようになるにつれ、その影響を増している。今日、我々が独裁者の登場や戦争
への突入を気にしているとき、人は自分が政治に関わっていかざるを得ない。ただ
肩をすくめるといったことはできず、プロパガンダを受容することになる。
二つの矛盾するプロパガンダの調子があって互いが互いを成功させるとき、同じ
状況を見ることができる。1945 年以降によく研究されたドイツ青年の懐疑論、有名
な決まり文句“私を巻き込まないで”はナチプロパガンダに対抗するプロパガンダ
の逆行衝撃から生まれた。同様に、1956 年のハンガリー革命の後、若者は虚無主義
や無関心、個人的関心に傾倒した。こうした例は、プロパガンダの無効性を証明し
ているのではなく、むしろ心的生活を深々と妨げるプロパガンダの力を証明してい
るのである。
(b)もう一つの防御的反射は関与への逃避である。人はもはやさまざまなプロパガンダの
侵略的競争の闘技場のなかで関わらずにいることができないので、政治的関与は今
日広まっている。人格の深い位相に到達し、相反する引き手を抗うことはもはやで
きないので、人は“関与”することになる。人は政党に入り、プロパガンダが全面
的に深々と意図するように自分を政党と結びつける。こうしてその人の問題は解決
する。人は相反するプロパガンダの衝突から逃れることができる。今や彼の側が言
っていることはすべて真実であり正しい。他から来るものはすべて虚偽であり間違
っている。こうしてあるプロパガンダはその他のプロパガンダに対抗するべく人を
武装させる。この二元性は、まったく矛盾しない。例えば、1959 年の青年運動に関
するフランス会議は、若者があらゆる政治的活動を疑っているものの、同時に極端
な解決法に傾倒していることを省察している。
プロパガンダを求める欲求の創造
135
プロパガンダの最終的な心理的影響は、プロパガンダを求める欲求として現れる。プロ
パガンダに従っている人は、もはやプロパガンダなしではいられない。これは“雪だるま”
のかたちであり、プロパガンダが多くあるほど、人々はそれをより求める。同じことが広
告に当てはまる。広告はそれ自体の成功によって支えられていると言われている。例えば、
テレビ広告は新聞広告に取って代わると信じられていたが、それどころかテレビは広告ビ
ジネスの総量を増やしていることが分かった。増え続けるプロパガンダの量を求める欲求
は二つの明らかに矛盾する現象を結果として伴っている。ミトリダート化(訳注:毒を少し
ずつ多く服用することで免疫をつける)と感作(訳注:ある抗原に対して敏感な状態にする)
である。
ミトリダート化
プロパガンダの影響下で、人は徐々に閉鎖的になることが知られている。あまりに
多くのプロパガンダの衝撃を被るために、人はそれらに慣れ、感じなくなる。人はも
はやポスターを見ず、人にとってポスターはただの色の拡散である。人はもはやラジ
オの演説を聞かない。それは音でしかなく、何かをしているときの背景音である。彼
はもはや新聞を読まず、慌ただしくさっと目を通すだけである。それゆえ、“プロパ
ガンダの過多は人をもはや支配しておらず、人は無関心をもって対応していて、プロ
パガンダからは逃れている。人はプロパガンダに対してミトリダート化している”と
も言いたくなる。
にも関わらず、同じ人物がラジオをつけ、新聞を買い続けている。彼はミトリダー
ト化している。その通りである。しかしそれは何に対してだろうか。客観的で知的な
プロパガンダの内容に対してだけである。実際、人はプロパガンダの主題や概念、議
論といった意見を形成し得るすべてに無関心になっている。人はもはや新聞を読み、
講演を聞く必要がない。既にイデオロギー的な内容を分かっていて、それが自分の態
度を全く変えないことも知っているからだ。
しかし、人がある時点からプロパガンダの内容に無関心になったことは確かである
ものの、そのことは人がプロパガンダを感じなくなったということを意味するのでは
なく、プロパガンダから転じてその免疫を持つようになったということである。まさ
に逆のことを意味しているのである。というのは、人は新聞を買い続けるだけでなく、
流行を追い、規則に従っている。人はプロパガンダの標語をもはや聞いてはいないも
のの、それに従い続けているからだ。その反応は機能し続けている。すなわち、ミト
リダート化を通じてプロパガンダから離れてはいない。人はプロパガンダの象徴を
深々と吹き込まれ、完全に支配され、操作されている。人はもはやポスターを見る必
要がない。単なる色の拡散であっても彼に求められている反応を引き起こすのには十
分である。現実に、人はイデオロギー的な内容についてミトリダート化してはいるも
のの、プロパガンダ自体には敏感になっている。
136
感作
人はプロパガンダに捕えられるほど、プロパガンダに敏感になる。その内容に対し
てではなく、プロパガンダによって与えられた刺激や感じさせられた興奮に対してで
ある。最小の興奮や最弱の刺激が条件反射を作動させ、神話を呼び起こし、神話が求
める行動を作り出す。この点までに莫大な量の操作や賢明に調整された刺激が、人の
なかでこれを実現するために求められた。人の心理を駆り立てる衝動を手に入れなけ
ればならず、無意識の扉を開かねばならず、人の態度や習慣を打ち破り、新たな行動
を定めなければならなかった。このことは、手法や技巧が緻密でありかつ破壊的であ
ることを意味した。
しかし、人が一度プロパガンダによって満たされ、再形成されると、それほど多く
の手法による活動はもはや必要なくなる。いまや最小のもので事足りる。気分を入れ
替えること、効能増幅剤の注射、塗り替えで十分であり、人はまるで一杯のワインで
酔ってしまった酔っ払いのようにはっきりしたかたちで従う。人はもはやプロパガン
ダへの抵抗を示せず、もっと言えば、意識的にプロパガンダを信じることということ
を止めてしまっている。人はプロパガンダが言うことや宣言された目的と重要性と結
びつけずに、適切な刺激に従って行動する。ここに我々は再び、行動と安直に述べる
ところの思考の間の分離作用をみる。人は自分の思考に囚われ、純化されている。ミ
トリダート化が起きるのは、こうした見解の領域である。しかし、行動の領域では、
人は実際に動員される。人は変化するプロパガンダの働きかけに反応し、精力と確信
と参画をもって行動する。彼は手早い活動家であるが、その行動は非理性的である。
これがプロパガンダに対する感作という効果である。
この地点まで到達した人は、プロパガンダへの恒常的で非理性的な欲求を持っている。
欲求を止めることができない。我々はそうした人の条件を考慮することで、なぜそうなる
のかを理解することができる。
(a)人は不安のなかを生きていて、プロパガンダは人に確信を与える。プロパガンダが止ま
るととたんにその不安は倍化する。取り囲むひどい沈黙のなかにあってはいよいよ、
人は自分が導かれることを認めてしまい、どこに行くのかはもはや分からない。その
人の周りでは彼に影響を与え誘惑をしようとする別のプロパガンダの暴力的な怒鳴
り声が聞こえ、それらが彼の混乱に拍車をかける。
(b)プロパガンダは人を人間以下の状況から救い、人に自分が重要であるという意識を与え
てくれる。これにより人は自分の意見を述べることが可能となり、積極的な参加への
欲求を満たされる。人は自分の行動の有効性を信じるようになっていたので、プロパ
ガンダが止まると自分の重要性をとりわけ一層感じながら以前にも増して自分の弱
さを感じるようになる。人は突然無関心に押し込まれ、そこから抜け出す道を見出せ
137
ない。束の間だが自分の価値を信じたがために、以前よりも強く自分の価値のなさを
確信することになる。
(c)最後に、プロパガンダは人に正当化を与える。人はこの正当化を常に新たなものにして
いく必要がある。人はあらゆる行動に対して自分は正しい道にあるのだという保証と
して、あらゆる段階で幾つかのかたちで正当化を必要とする。プロパガンダが止まる
と、人は自分の正当化を失う。人はもはや自分だけで自信を持つことができない。プ
ロパガンダの影響下で人は自分でも怖くなるような、或いは良心の呵責に絶えない行
いをしていたので、罪を感じることになる。こうして人は正当化をより欲するように
なる。そして人はプロパガンダが正義や動機の確信を与えなくなった時、絶望に陥る。
プロパガンダが強力な影響力を持つ集団のなかで止まるとき、我々は何をみるのだろう
か。集団の社会的分解とそれに対応する集団内の個人の内的分解である。人々は完全に自
分自身のなかに引きこもり、不安や怖れ、落胆から社会的、政治的な生活への参加を一切
拒否する。人々はすべてが徒労であり、意見を持つことや政治的生活に参加することは必
要がないと感じ始める。人々は生活の中心にあるすべてのことに全く興味を示さない。人々
に関する限り、あらゆることはこれから“私なしで”進んでいくことになる。そうした集
団は人の目には価値を失っているように見え、その分解はこうした成員の態度から始まる。
自己中心化は、修復できないようなかたちでプロパガンダを中止するときの産物である。
自己中心的引きこもりだけでなく、精神分裂病や偏執病、罪悪感といった本物の神経や精
神の不調が、止まってしまったプロパガンダに支配されていた人々において時に確認され
る。こうした人は、プロパガンダの欠乏を精神医学的治療によって埋め合わせる。このよ
うな効果はプロパガンダが突然止まった国において見ることができる。1945 年のヒトラー
のドイツ、1946 年の米国は二つの大きく異なる事例である。
詳述した反応は、プロパガンダの影響を受けた疎外感にしっかりと対応している。人は
その価値が減じられ、もはや一人で生きることができず、自分で決められず、人生の責務
を引き受けることができない。人は保護者や良心の監督者を必要とし、それらがないと病
気になってしまう。こうしてプロパガンダへの欲求が起こり、教育はもはや変えることは
できない。人はプロパガンダへの欲求に捕まったときから、偽物の知的栄養、神経や感情
の刺激、標語、社会的統合という配給を必要とする。プロパガンダはそれゆえ途切れるこ
とがないものでなければならない。
このことは我々を以前挙げた疑問へと立ち戻らせてくる。プロパガンダの効果の二元性
である。プロパガンダを求める欲求の創造や求められた心的変容のように、プロパガンダ
は深く、比較的耐久性のある効果を持っている。しかし、プロパガンダの特定の内容や与
えられた時間でこの欲求を満たし緊張を減らすように働く本質は、ほんの一時的で瞬間的
な効果しか持っておらず、それゆえ常に新鮮に新しくされなければならない。プロパガン
138
ダの与える満足が常に瞬間的なものであることとまさに同じようにである。このようにプ
ロパガンダはほとんど耐久性がない。
しかし、この命題は検証される必要がある。プロパガンダはその時代の根底になる傾向
や集団的な過程に逆行することはができないと、我々は述べてきた。しかし、プロパガン
ダがこうしたものの方向でまたそれを支持するかたちで働くとき、その効果は知的な位相
においても感情的な位相においても非常に耐久性がある。今日、国家に敵対し“進歩”に
反対するプロパガンダに成功する可能性はない。しかし、プロパガンダが国家を支持する
なら、プロパガンダは人の意識に深く浸透するだろう。この時、プロパガンダを求める欲
求はこの浸透を恒常的なものにする傾向がある。こうしてプロパガンダの耐久性や恒久性
は、真の効果の耐久性につながる。こうした効果が常に再生産され、その刺激が際限なく
新たなものになるとき、それらは人に深く影響を与える。人は特定の方向に行動し反応す
ることを学ぶ。(しかし、人は恒久的で全体的な人格の形成を経験することはない。)
プロパガンダは最も喫緊の、同時に最も基本的な実情と関わっている。プロパガンダは
最も一般的な種類の即時的な行動を提案する。こうしてプロパガンダは人生の支配権や、
あらゆる行動や思考の耐久性や継続性という感覚を人から奪いながら、人を現在へと押し
込む。こうしてプロパガンダ受容者は過去や将来を持たない人間や、プロパガンダからそ
の日の思考や行動を受け取る人間になり、非継続的な人格は外部から与えられた継続性が
なければならず、このことがプロパガンダに対する欲求をさらに強くする。プロパガンダ
受容者がプロパガンダを受容するとき、自分自身の過去から切り離されているという感覚
や、完全に予期できない未来に直面するという感覚、自分が住んでいる世界から隔離され
るという感覚を経験する。プロパガンダが世界を知覚する唯一の経路になっているため、
プロパガンダ受容者は手足を縛られて未知の運命へと運ばれているという感覚を持つ。こ
うしてその機構や組織とともにプロパガンダが始まったときには、誰もそれを止められな
い。プロパガンダは大きくなり、自らを完遂するだけである。というのは、その非継続性
はプロパガンダ受容者にあまりに大きな犠牲、あまりに徹底的な自己表明を求めるからだ。
それはプロパガンダ受容者が想定しているものよりも大きなものである。
心理的効果のあいまいさ
我々がこの見出しの下で試みようとする研究の当てにならない品質の一つは、我々が究
極的に辿り着くところの大きな不確実性である。というのは、我々は、プロパガンダが矛
盾する心理的結果を作ることができ、実際作るということを知っている。このことは既に
明らかになっているが、ここに再び強調されるべきである。我々はそれゆえ、この矛盾す
る影響の四つの事例を検証する(プロパガンダが他のことを喚起しながらある欲求を満た
すという、既に研究した事実は別にして)。
プロパガンダはある緊張を作り出すと同時に、他のことを弛緩する。我々は、いかにプ
ロパガンダが社会における人々の欲求に対応するかを示してきた。人々は不健康な不安な
139
状態のなかで生きている。またプロパガンダがいかに人を慰め、その人の矛盾を解消する
助けとなるかを示してきた。しかし、プロパガンダもまた不安を作り、緊張を引き起こす
ということを忘れてはならない。怖れや恐怖のプロパガンダの後では特に、聴取者は感情
的な緊張のなかに置き去りにされて、やさしい言葉や示唆では解消されない。行動だけが、
人が投げ込まれた矛盾を解消できる。同様に、純粋に批判的で否定的なプロパガンダは人
を環境に対して硬直化させようとする。しかしここにおいても、その効果は二つのうちの
いずれかである。人が自分の集団や文化のなかで権威の象徴に対してより攻撃的になるか、
人は不一致や反対に耐えられないので不安に押しつぶされ、無抵抗に転じるかである。
プロパガンディストは緊張や不安の最適な程度を見つけようとしなければならない。こ
の原則はゲッベルスによって人々の前で公然と述べられている。それゆえ、緊張はプロパ
ガンダの偶然の心理的効果であるなどとは誰も言うことができない。プロパガンディスト
がこのように働くとき、自分が何をしているのか熟知している。ゲッベルスが示したよう
に、不安は両刃の剣である。強すぎる緊張はパニックや戦意喪失、無秩序で爆発的な行動
を作り出す可能性がある。弱すぎる緊張は人々を行動へと押しやることができない。人々
は自己満足のまま、消極的に適応しようとする。それゆえ、ある場面では不安を強化する
必要がある(例えば軍事的敗北の影響を考慮する場合)。別の場合では、人々が自分を操る
には強すぎる緊張を減らす必要がある(例えば空襲の恐怖)。
ある場合には緊張を作り、別の場合には緊張を減らすというプロパガンダのこうした両
価性は、プロパガンダを大いに説明するものである。扇動プロパガンダと統合プロパガン
ダの違いによって、我々にとっては明らかである。性急で暴力的な行動を求める前者は、
人を行動に導く欲求不満や矛盾、侵略といった感情を喚起するはずである。後者は、集団
との同調を求めるものであり(行動への参加を含め)、緊張の減少や環境への適応、権威の
象徴の受容を求める。もっと言えば、この二つの要素は重なり合う。例えば、共産主義や
ナチ党のような革命的政党は政党の外側の物事に関して緊張のプロパガンダを、党自体に
関しては受容のプロパガンダを用いる。このことは、党内で言われたり行われたりするあ
らゆるものの一般的な受容という態度と、党外のすべてのものに対する一般的な疑念や棄
却という反対の態度を説明する。
これに関連するのが第二の矛盾であり、それによってプロパガンダは自己正当化と良心
を作り出し、同時に罪の意識とやましい心を作り出す。
我々はプロパガンダが人に安心と正当性の感覚を与えるとき、プロパガンダが強さを増
すことを見てきた。しかし、プロパガンダはまた罪の意識を刺激する。事実、こうした感
情を発展させることは、プロパガンダが敵対する集団に接触するときの主要な目的となる。
プロパガンダは自分の大義や国家、集団の正義への自信を敵から奪おうとする。というの
は罪を感じる人は、自分の効力や戦う願望を失うからだ。人に自分の側が、実際にはそう
でないにしても非道義的で不正義な活動に関わっていると思わせることは、その人が属す
る集団の分解を引き起こす。この種のプロパガンダは政府や軍隊、その国の目的、政党や
140
国によって擁護されている価値観にさえ行うことができる。こうしたプロパガンダは単に
効果という観点だけで行うことができ、自分の集団が用いている手段の不適切性や、彼ら
の勝利の不確かさ、彼らの指導者の無能さを人に信じさせることは同じ効果を持つ。加え
て、プロパガンダはこのようにしてやましい気持ちを作ることができる。神は悪魔に勝利
し、最良の人が勝利し、力が正しさを作るのであり、効果のないものは真実でも正義でも
ないという幼稚な信条は奇怪に思われるかもしれない。もちろん、プロパガンダが標的と
する聴衆によって求められる心理的効果は変わる。いかなる出来事においても、プロパガ
ンダは同士の間に良心を作り、敵の間にやましい気持ちを作る。
後者の効果は既に疑念に包まれている国や集団において特に強力である。やましい気持
ちのプロパガンダは、1939 年のフランスにおいて見事に成功した。キャンペーンによって
拷問や植民地主義、フランスの大義の不正義が支持され、プロパガンダが罪の意識を作り
出したとき、アルジェリアの紛争に関する 1957 年の初頭のやましい気持ちのプロパガンダ
はさらに見事に成功した。これは特徴的にフランス的である。プロパガンダによって作ら
れたこうした感情は(実際には部分的に正統な)、毛の教義や結論と一致するものであり、
アルジェリア民族解放戦線の勝利の本質的な要因である。
第三の矛盾は、ある場合において、プロパガンダが集団や結束への愛着の行為者となり、
別な場合にはプロパガンダは崩壊や分解の行為者になるということである。プロパガンダ
は集団の象徴を完全な真実に変え、信義を爆発しそうなほどに膨れ上がらせ、共有の状態
に導き、人を個人的な運命と集団の運命を完全に混同させるようにそそのかす。これは“国
家的一体感”を求める戦争プロパガンダにおいてしばしば起きる。しかし、プロパガンダ
はまた、例えば、正義という感情と忠誠という感情の間の矛盾を刺激することによって、
慣れ親しんだ情報源への信頼を破壊することによって、判断の基準を変えることによって、
各々の危機や矛盾を誇張することによって、集団を互いに対立するように仕向けることに
よって、集団を崩壊させ瓦解させる。
もっと言えば、人に連続的な段階を提供することが可能である。人が集団の確たる成員
である間、プロパガンダは不確かさや疑い、疑念という要素を持ち込むことができる。し
かし、人はこうした状況に長らく居続けることが非常に困難であることに気づく。不確か
さは痛みを伴い、人はそれから逃れようとする。しかし、かつての確実性や、かつての集
団への全面的な盲従に立ち返っても、不確かさから逃れることはできない。人が価値観や
真実の根源的な文脈に留まる間は、持ち込まれた疑いはもはや緩和することができないの
で、それは不可能である。敵の集団に転向し、或いは不確かさを引き起こすものに従うこ
とで、人はその不確かさから逃れることができる。人は敵の集団の真実に完全な忠義を向
けることになる。その服従はとりわけ徹底的なものであり、この連携はとりわけ非理性的
である。なぜならその服従は昨日の真実からの逃避であり、かつての忠義への回帰、その
記憶、それを懐かしむ想いを人にさせなくすることだからだ。かつて完全な信者だった者
以上に強力なキリスト教や共産主義の敵はいない。
141
我々は最後の矛盾の種類を強調したいと思う。状況によって、プロパガンダは政治化や、
米国の社会学者が“個人化”と呼ぶものを作り出す。まず、プロパガンダは人が政治的活
動に参加し、政治的問題に身を捧げるように導く。これは、プロパガンダが人のなかにあ
る“市民性”を露見させた場合のみ、そして市民が自分の運命や真実、正統性が政治的活
動と結びついていると、さらには自分が国家のなかでのみ、国家を通してのみ自分を実現
できると、自分の運命に対する回答は唯一政治だけにかかっていると確信している場合の
み有効となる。この時、人はすべてのプロパガンダの襲撃に服従することが準備万端整っ
た犠牲者となる。
プロパガンダの成功はまた、人が次第に自分や家族のことへの興味を失っていくように
求める。自分の妻や子どもを政治的決定の犠牲にすることは、政治的英雄の理想となり、
その犠牲は当然、共通の善として、国や象徴のようなものとして正当化される。そのとき
個人的な問題は価値がなく、自己中心的で、凡庸なものに思える。プロパガンダは個人化
と常に戦わなければならない。人に個人的なことを最も重要と考えさせ、国家の活動に懐
疑論を作り出させる感情、1945 年以降のドイツで広まった私を巻き込まないでというイデ
オロギーや、すべてが無用であり投票することに意味はなく“ダンジグのために死ぬ価値
などない”という確信が個人化である。プロパガンダは無関心や懐疑論のなかにある人に
は全く無効である。1940 年以前と以降の大きな違いの一つは、1940 年以降は西側諸国にお
いて懐疑的で個人化した人と対峙しなければならなくなったことである。
現代国家は、その国民が国家を支持する場合のみ機能することができる。その支持は個
人化が消却された場合のみ、プロパガンダがあらゆる問題を政治化し、政治的問題への人々
の情熱を喚起し、政治活動は義務であると人々に思わせることに成功した場合のみ、手に
入れることができる。教会はしばしば、市民問題への参加が基本的には宗教的な義務であ
ると示すために設計されたキャンペーンに参画する(それがプロパガンダとは理解せずに)。
同時に、プロパガンダは明確に個人化の行為者である。プロパガンダは時に意図せず、
時に意図的に個人化という効果を作り出す。この個人化という反応は、二つの相反するプ
ロパガンダが同じ集団にほぼ同じ力で働くときの引きこもりと懐疑論という現象のなかで
起こる。個人化という効果は意識的なものではない。しかし、多くの場合、プロパガンダ
は意図的に個人化を作り出そうとする。例えば、恐怖のプロパガンダは敵を憂鬱にさせる
効果を作り出そうとし、人に宿命論者的態度を取らせようとする。何も助けてくれないと、
相手方の党や軍隊はとても強いので抵抗も不可能であると人を信じ込ませなければならな
い。この関係性のなかで、個人的生活の価値への訴えかけが行われる。意味のない死を覚
悟のうえで行うという感情が喚起され、それは個人化プロパガンダの決定的な主張である。
こうした主張は、敵を麻痺させ、奮闘をあきらめさせ、自己中心主義に引きこもらせるの
に有効である。この主張は政治的、軍事的紛争においても同様に有効である。
国家による個人化プロパガンダの一つの側面は、我々にとってより重要であるように思
われる。国民が政治的問題にまったく関心を持たないので、個人化プロパガンダは国家が
142
自由裁量権を持つような状況を作り出す。権威主義的国家の最も注目すべき武器の一つは、
政治権力の行使は大変複雑であり、それゆえ専門的政治家に任されなければならず、政治
的議論への参加は危険であるといった一連の“真実”を何度も繰り返すことによって敵側
を中立化し麻痺させようというプロパガンダである。それがうまくいってどうだというの
だ。・・・なぜ人はあらゆることや公共の利益の名において権力が行使されるところに関
わるべきなのか・・・人は国家から慰みや幸福、安全を受け取る。国家は唯一前を見て計
画し、組織している。
こうしたプロパガンダは、権威主義的国家において特に容易である。なぜなら人と集団
の指導者との間に不協和があるとき、個人化は人の自発的な反応となるからである。人は
個人化によって自分を守る。国家への懐疑論はそのとき、自分の目でみて、国家の活動に
よって正当化させる。しかし、個人化と懐疑論という態度を持続するのは、政府が適切だ
と思うように活動する、完全な自由を与えるプロパガンダである。
こうしたプロパガンダの“理性的な”訴えかけは、すぐに人の気にするところとなる。
なぜなら、一般的に人は責任を引き受けたくはないからである。皇帝が誕生した 1852 年に、
また準権威主義的な国家がフランス人に自分たちはもはや意思決定をする必要がなく、意
思決定は他者によって自分たちのために行われるという感覚を再び与えた 1958 年に、フラ
ンス全土を駆け巡った安堵の一息を思い出せば十分である。このようにさまざまな方法で、
ヒトラーのドイツでは恐怖で、ソ連においては“政治教育”によって、自由裁量権を権力
者や活動家、戦闘家に残すために国家は人々に受動性を強いり、個人生活や個人的な幸福
へと立ち戻らせる(実際、人々とこの位相における必要な満足感を一致させながら)。この
手法は国家に非常に大きな便益をもたらす。
143
第 5 章 社会政治的効果
1.プロパガンダとイデオロギー
伝統的関係性
プロパガンダとイデオロギーの関係性は常に存在してきた。この関係性の様式は、多少
の前後はあれおよそ 19 世紀の終わりに確立した。私はここにイデオロギーの根源的な定義
や特定の定義をしないつもりだが、社会が特定の信条に基づいていて、いかなる社会的集
団もこうした信条なしには存在できないということだけは言っておきたい。集団の成員が
知的有効性をこうした信条のせいにしている限り、イデオロギーが語られることになる。
イデオロギーが形成される過程の違いを考えなければならない。イデオロギーは教義の価
値が下がり、卑俗化する場において、かつ信条の一部が人々に入ってくるときにイデオロ
ギーは出現する。幾つかのイデオロギーは受動的な態度と矛盾しないものであると長らく
信じられてきたが、イデオロギーのほとんどは能動的であり、つまり、イデオロギーは人
を行動へと押しやるものである。
もっと言えば、集団の成員がそのイデオロギーが真実を表していると信じている限り、
彼らはほとんど常に攻撃的な態度を取り、そのイデオロギーを他へと強要しようとする。
こうした状況において、イデオロギーは征服という目的に定着するようになる。
征服への衝動は、社会のなかで集団間の紛争として起こるかもしれないし(例えば、プ
ロレタリアートのイデオロギーに対する国内のその他の人たち)、或いは国家主義者のイ
デオロギーがそうであるように外部の標的を目指すこともある。イデオロギーの拡大は、
さまざまなかたちを採る。集団の拡大に伴って起きる場合もあるし、集団に包括されてい
る集団性に発展する場合もある。軍を伴った1793年の共和主義イデオロギーや、1945年の
共産主義イデオロギーのようにである。
さもなければ、ブルジョア社会における労働のイデオロギーのようなイデオロギーは、
純粋に心理的な位相で独自の推進力によって拡張するかもしれない。その場合、イデオロ
ギーは非帝国主義者的態度を取る。そのうちに、そうした態度を取る集団に浸透する。こ
うしたかたちで、労働のイデオロギーは、19 世紀にあらゆる西洋社会のブルジョア志向を
引き起こす力となった。
最後にイデオロギーは、力を使うことなく、集団全体を動かさずに他の手段によって拡
大することができる。この点において我々はプロパガンダを見ることができる。プロパガ
ンダは自発的に、或いは組織化されたかたちで、集団の境界線を超えてイデオロギーを拡
大する手段として、集団内でイデオロギーを強化する手段として現れる。こうした場合に
プロパガンダは明確に形式と中身の両方においてイデオロギーの影響を受ける。ここで大
切になることは、そのイデオロギーの中身を広めることであることも同様に明らかである
。プロパガンダは自ら何かを始めるのではなく、イデオロギーが拡大しようとするときだ
け、散発的に現れる。
144
プロパガンダは、そのイデオロギーと同調して自らを組織する。そのため歴史の過程の
なかで我々はプロパガンダの全く異なるかたちを見つける。それはイデオロギーの中身と
して広められるべきことに依るのである。また、プロパガンダは厳格にその目的に制約さ
れ、その機能過程は回りくどい手段で人を捕えたり支配したりしようとはせず、ある信条
や概念を単純に伝達しようとする点において比較的単純である。これが、イデオロギーと
プロパガンダの間の現在の関係性である。伝統的な様式は 19 世紀と同様にいまだに存在し
ていて、多くの観察者がそれは今日も有効と考えているが、もはや広く行き渡ってはいな
い。状況は深遠な変化を辿っている。
レーニンとヒトラーはイデオロギー拡大の過程が多かれ少なかれ整っていると世界をみ
た。しかし、この領域への彼らの侵入は、他の領域における彼らの侵入と同じであった。
実際にレーニン、そしてヒトラーとは何であったのか。偉大な革新だったのだろうか。現
代社会は本質的に“手段”の世界であることを、重要なことはあらゆる手段を自由に活用
することであり、目的や狙いは手段の豊富さによって完全に変容していることを理解すべ
きである。19 世紀の人は、利用可能な手段のほとんどを無視させる目的を探していた。レ
ーニンの真の業績は現実において、20 世紀において、目的は手段に対して二義的なものに
なっていて、多くの場合重要でないことを見抜いたことである。問題は主に利用可能な手
段を作動させることであり、人々を制約のなかに押し込むことである。
もっと言えば、レーニンはこうしたあらゆる手段の極端な活用が社会主義社会の確立に
つながるだろうという先験的な確信に突き動かされていた。このように目的はすぐに忘れ
去られる前提となった。こうした態度はまさに平均的な人の熱情や、進歩への堅い信条に
一致する。これこそが、レーニンが戦略や戦術を政治的な水準で設計した理由である。こ
こにおいて、他でもそうであるが、レーニンは手段が第一義となることを認めたが、一方
でそのことによってレーニンはマルクスの教義を形成することになる。また一方では、教
義には行動への二義的に重要な水準を与えることになった。戦術や手段の進展は、そのと
き政治学の主要な目的になった。
まさに同じ傾向をヒトラーに見ることができるが、二つの点において違いがある。一つ
目の違いは、全体的な制約の不足である。レーニンは、進歩的で限定的で調整された手段
の応用を心に描いていた。ヒトラーはそれらすべてを遅延なく用いようとした。二つ目の
違いは、レーニンが二義的な地位に格下げした目的や狙い、教義がヒトラーの場合にはま
ったくなくなってしまった。彼が約束したあいまいな千年紀を目的とみなすことはできな
いし、彼の反ユダヤ主義を教義とみなすこともできない。代わりに、純粋な行動や行動の
ための行動という段階に到達する。
このことは完全にイデオロギーとプロパガンダの関係性を変容した。イデオロギーは行
動或いは計画や戦術に寄与する場合のみ、レーニンやヒトラーにとって関心事になった。
イデオロギーが使えない場において、それは存在しなかった。或いは、イデオロギーはプ
ロパガンダのために使われた。プロパガンダはこうして、その有効性の点で主要な要素と
145
なり、イデオロギーは単なる付帯条項となった。一方、イデオロギーの内容は考えられて
いたよりも、ずっと重要性がなくなってしまった。多くの場合、プロパガンダがその象徴
や語彙と同様にイデオロギーの正式でかつ習慣的な側面を尊重する限り、イデオロギーの
内容は変更することや修正することができる。
ヒトラーは国家社会主義者のイデオロギーをプロパガンダの要請に応じて、幾度も修正
した。こうしてヒトラーとレーニンはイデオロギーとプロパガンダのまったく新しい関係
性を確立した。ヒトラーの敗北がこれに終止符を打ったなどと考えてはならない。実際、
この関係性はより拡大している。その証明が効果という観点で注目せずにはいられないこ
とに疑問はない。もっと言えば、レーニンとヒトラーが立ち上げたこの傾向は、あらゆる
広まったイデオロギーに影響を与えた。あらゆるイデオロギーは好むと好まざるとに関わ
らず、今やプロパガンダとの“関係性のなかで”存在している。もはや立ち戻ることは不
可能で、ただ調整だけが可能である。
新しい関係性
こうした新しいプロパガンダの手法は完全にプロパガンダとイデオロギーの関係性を変
えてしまい、結果として現在の世界におけるイデオロギーの役割や価値も変わってしまっ
た。プロパガンダの任務はイデオロギーを広めることではますますなくなっていて、プロ
パガンダはその規則にしたがい、自主的になっている。
プロパガンダはもはやイデオロギーに従わない。プロパガンディストは“信者”ではな
いし、そうも成り得ない。もっと言えば、プロパガンディストはプロパガンダのなかで用
いなければならないイデオロギーを信じることができない。プロパガンディストは、党や
国家、或いはその他の組織の職務に当たるただの人であり、その任務はその組織の効率性
を確保することである。プロパガンディストは、政府の政治的教義を共有する必要がある
フランスの大臣ほどには、公式のイデオロギーを共有する必要がない。もし、プロパガン
ディストが政治的信念を持っているなら、幾つかの通俗的で大衆的なイデオロギーを用い
ることができるように、自分の政治的信念を脇に置かなければならない。プロパガンディ
ストはそうしたイデオロギーを共有さえできない。それを事象として用い、信じていれば
抱くであろう尊敬を持たずにそれを操作するからだ。プロパガンディストはすぐにこうし
た通俗的な象徴や信条に軽蔑を感じ、仕事にあってはプロパガンダの主題を頻繁に変更し
なければならないので、どうあっても自分を公式で情緒的で政治的な或いは他のイデオロ
ギーの側面に結びつけておくことができない。さらに、プロパガンディストは、物質的な
メディアのキーボードや心理学的技法を用いる技術者である。そのなかにあっては、イデ
オロギーは付随的で交換可能な部分である。プロパガンディストは結局のところ、教義や
人々を軽蔑するようになるとしばしば指摘される(ラスウェル、アルビヒ)。このことは、
プロパガンダが働く組織は基本的に教義の拡散やイデオロギーの伝播、正統的信仰の創造
に関心がないというこれまでに分析した事実を伴った文脈へと入れることができる。その
146
代わりに、プロパガンダはそのなかでできる限り多くの人々を、統合して動かし正統な行
いをする活動的な闘士へと変容させようとする。
共産主義やナチズムといったプロパガンダを用いた大きな動きは教義を持っていたし、
イデオロギーを作っていたと反論する人がいるだろう。私は、それは主要な事象ではない
と繰り返し言いたい。イデオロギーや教義は人々を動員するためにプロパガンダが用いた
単なる付属品でしかない。その狙いは大衆によって支えられた党や国家の権力である。そ
こから出発すると、問題は政治的イデオロギーが有効かどうかではもはやなくなる。プロ
パガンディストがその問題を自問自答するはずがない。プロパガンディストにとっては、
マルクス主義の歴史認識は他よりも妥当かどうか、人種主義者の教義が正しいかどうかを
議論することに意味はない。プロパガンダの枠組みではそうしたことは重要ではない。
唯一の問題は、効果や効用の問題である。論点は、ある経済的或いは知的協議が有効で
あるかどうかを問うことではなく、今ここにいる大衆を動員できる効果的な標語を打ち出
せるかどうかということだけである。それゆえ、大衆のなかにあるイデオロギーに直面し
、ある信条を起こさせるとき、プロパガンディストは二つの質問を自らに問う必要がある
。まず、既存のイデオロギーは行われるべき行動の障害なのか、大衆を国家への不服従へ
導くものなのか、大衆を受動的にしているか(最後の問いは、例えば仏教の影響を受けて
いる環境で作業をするプロパガンディストにとって本質的である)。イデオロギーが幾つ
かの知的活動をいかに弱いものであろうとも引き起こす限り、イデオロギーが判断や行動
の基準をいかに不安定であろうとも提示する限り、こうしたイデオロギーは多くの場合、
確かに行動を妨げる障害となる。こうした場合、プロパガンディストは広まっているイデ
オロギーと正面衝突しないように気をつける必要がある。プロパガンディストができるこ
とは、既存のイデオロギーを自分の体系に統合することであり、既存のイデオロギーの部
分を使うことであり、既存のイデオロギーを歪めることである。第二に、プロパガンディ
ストは既存のイデオロギーをそのまま自分のプロパガンダとして活用できないか、既存の
イデオロギーがプロパガンダの刺激に従うように心理的に前もってしむけられていないか
どうかを問う必要がある。
白人が植民地化したあるアラブの国においては、キリスト教への憎しみを発展させてい
るイスラム教のイデオロギーという観点で、国家主義者のアラブ人や反植民地主義のプロ
パガンダへの純然たる素地が存在する。プロパガンディストはその文脈に関わらず、直接
そのイデオロギーを用いるだろう。プロパガンディストは宗教的な教義を一切信じること
なく、イスラム教の熱心な主唱者になることができる。同様に共産主義のプロパガンディ
ストは、それが有用で効果的で有益であるなら、既にそれが形成されているか、世論の一
部であることを見出したなら、当人が反国家主義や反民主主義であったとしても、国家主
義や民主主義のイデオロギーを伝播することができる。プロパガンディストが人々の間で
民主主義的な信条を強化することが重要なのではない。こうした信条が独裁の確立にあた
って、障害にはならないことは今や誰でも知っている。共産主義が支持する民主主義イデ
147
オロギーを活用することによって、共産党は活動に対する大衆の満足を得ることができ、
それにより共産主義団体を支配下に収めることができる。このようにプロパガンダは民主
主義の信条から民主主義の新しいかたちへの移行を引き起こす。
人々の意見はそのイデオロギーの中身という点で実に不確かで不明瞭なため、人々は標
語の発布とそれに続く行動の間の矛盾を認識せずに、魔法の言葉を発する者に従う。一度
“機械”が制御されれば、かつて広まっていたイデオロギーを支持していた人々によって
反対は起こり得ず、権力の下にある新しい組織によって常に公式に取り入れられ宣言され
る。人々はそれゆえ、プロパガンダが意図的に作り出そうとする精神的な混乱のなかを生
きている。
既存の利用可能なイデオロギーに対して、プロパガンディストは二つの経路のいずれか
を取ることができる。プロパガンディストはそれを刺激するか、神話にすることができる
。事実、イデオロギーはどちらにも適している。一面においてイデオロギーは標語で表現
できる。単純な概念に矮小化して、大衆の意識の中に深く定着させることができる。人々
の意見は以前受け入れられていたイデオロギーの表現に機械的に対応するかたちで用いら
れる。民主主義、国、社会的正義といった言葉は求められた反射を引き起こす。それらの
言葉は人々の意見のなかで反射を獲得できる刺激へと矮小化され、移行なしに崇拝から憎
しみへと変化することができる。確かに、もし決まり文句が刺激することができるなら、
その決まり文句はあるイデオロギーへの支持によって歴史的経緯のなかで次第に作り上げ
られた既存の条件反射に呼応しなければならない。プロパガンディストは既に存在してい
るものに制約を受ける。そのことは、いつでもどこでもいかなるイデオロギーをも利用で
きるということでもある。応用における違いは、心理的、歴史的、経済的基準によって決
定する。行動という領域でイデオロギーを最大活用することを確実にするためにである。
イデオロギーは他の側面をそのままにして、ある側面を引き起こすことができる複雑な体
系であると私は述べてきた。プロパガンディストの能力はまさにこの選択を行うことにあ
る。
他方では、プロパガンディストはイデオロギーを神話に変容することができる。幾つか
のイデオロギーは確かに、プロパガンディストによる神話の創造のための跳躍台として働
く。こうした変容は滅多に自発的には起こらない。一般的にイデオロギーは非常にあいま
いであり、人を行動へと突き動かす力はなく、人の意識全体を制御することなどできない
。しかし、イデオロギーは内容と信条という要素を与える。イデオロギーは、概念や情緒
の複雑な混合物によって、非理性的なイデオロギーを政治的で経済的な要素と結合するこ
とによって、神話と結合する。イデオロギーは、人間性という偉大で原始的な神話とは基
本的な根源も関係も持っていないという点で神話とは全く異なる。プロパガンダを通じて
新しい神話を作り出すことなど全く不可能であると私は既に述べてきた。しかしながら、
集団のなかにあるイデオロギーという存在は神話の創作にとって最も可能性のある土台で
ある。多くの場合、正確な施行とより迅速で鋭敏な定式化があれば十分である。伝えるべ
148
きことが大衆メディアによって定式化されなければならないことは、必然的に以下のこと
に寄与することになる。広まっている信条は今や 3 分の 1 の言葉で表現され、数多の拡声
器で叫ばれ、その言葉には新しい力と緊急性が生まれるということである。
心理的技法による色づけ、ある行動への統合によって示される効率という力、イデオロ
ギーを根本原理とする知的世界の創造に寄与する総体的な本質、これらはすべてプロパガ
ンディストによって実現する。このようなかたちで、社会主義者のイデオロギーは国家的
神話となり、幸福のイデオロギーは 19 世紀末に神話に変容した。こうして、進歩の神話も
ブルジョアのイデオロギーを基礎とする一連のプロパガンダから構築された。
最後にプロパガンディストは正当化という目的でイデオロギーを用いることができる。
正当化はプロパガンダの必須の機能であることを幾つかの場面で私は示してきた。一般的
に受け入れられているイデオロギーの存在は、良心を与えるための注目すべき装置である
。プロパガンディストが集団的な信条に言及するとき、その信条に沿うかたちで行動させ
ようとする人はほとんど揺らぐことのない感情を経験する。集団的信条と調和して行動す
ることは、適切に行動するという安心と補償を与えるものである。プロパガンダは人にこ
の調和を示して、集団的信条を知覚でき、意識的で個人的なものにする。人に信条の集団
性を気づかせることで、人に良心を与える。プロパガンダは広まっているイデオロギーの
なかに人が見出す正当化を理性化し、自己表現する力を与える。このことは例えば、共産
党が活用する平和のイデオロギーにも当てはまる。このイデオロギーは用いられるとすぐ
に、すべてのことが、憎しみまでもがイデオロギーによって正当化される。
長らく、人の反応と同じように人の行動は、イデオロギーによって部分的に感化されて
きた。大衆は自発的な信条や、万人に受け入れられた簡潔な概念のためにイデオロギーに
よって多かれ少なかれあいまいに輪郭が描かれた目的を求めて行動する。民主主義のイデ
オロギーはこうした行動を引き起こす。しかしプロパガンダとイデオロギーの関係はこれ
を完全に変えてしまった。
現代的プロパガンダが行われる集団において、人はもはや自発的なイデオロギーに同調
して行動せず、こうしたプロパガンダから人に押し寄せる衝動を通じてのみ行動する。概
念や教義、信条は心理社会学の手法を活用することなく人を動かすことができると、ただ
無知な人だけが信じ続ける。プロパガンダを用いないイデオロギーは、効果がなく、真剣
に受け取られない。人間主義者のイデオロギーはもはや反応を引き起こさない。現代的プ
ロパガンダに直面して、知識人は完全に武装解除され、もはや人間主義の価値観を引き起
こすことができない。拷問(政治的敵対者の)は、人々の意見によって暗黙のうちに受け入
れられ、言葉では狼狽が表出するものの、行動には現れない。アルジェリアでの戦争に関
して、最も熱烈な P・ H・シモン(戦争中拷問の実施を公言した若い大尉)の擁護者は、言
葉でのみ彼を擁護し、実際にそれができるとき、つまり戦闘に入り、活動になかに放り込
まれたとき、そうした“概念”は二次的な位相へと退けられ、アルジェリア民族解放戦線
や軍のプロパガンダはいずれも敵の拷問を糾弾して自分たちの活動を正統化し、発言を撤
149
回したことはよく知られている。同じことがもはや活動を感化しないキリスト教のイデオ
ロギーにも当てはまる。キリスト教徒は、他の概念を支持していてもある実践を彼らに条
件付けする心理社会学の機能に捕えられている。こうした他の概念はプロパガンダによっ
て接収されないので、純粋はイデオロギーとしてとどまる。この概念は使うことができな
いので、接収されない。このようなかたちで、こうしたイデオロギーは現実を失い、抽象
概念になる。プロパガンダによって用いられている他のイデオロギーとの関係性のなかで
あらゆる有効性を失う。
もっと言えば、イデオロギーと行動のこうした関係性のなかで、最近は行動がイデオロ
ギーを作り出すことはあっても、過去の状況と結びついた観念論者が信じたいような逆の
作用はないということを我々は強調する。行動を通じて、“ある真実”を信じることを、
そしてそれを定式化することを学ぶ。今日、イデオロギーはますますプロパガンダによっ
て認められた行動の周辺で自らを建設する。(例えば、アルジェリアにおいてある活動を
正当化するために、複雑なイデオロギーの総体が作られた。) このように、さまざまな方
法のプロパガンダの結果として、イデオロギーは現代社会においてその重要性をますます
失っている。プロパガンダがイデオロギーを用いるかどうか、イデオロギーにあってはそ
の無効性が明らかとなり、競争のなかで広く行きわたるはずがないために、プロパガンダ
にあってはイデオロギーを活用するときに、ある側面が用いられ、他の側面が脇へ押しや
られ、イデオロギーは瓦解してしまうので、イデオロギーは価値を失っている。
教義にいても同じことが当てはまる。プロパガンダが教義を用いると、プロパガンダは
教義を壊してしまう。最初はレーニンの教義でそれからスターリンの教義というプロパガ
ンダによるマルクス主義の教義の変容はよく知られている。シャンブル、デ・ルフェーブ
ル、ルカーチによる業績は、プロパガンダによるこの教義の“内臓摘出”を非常によく説
明している。信じられ、理解され、受け入れられたことすべてがプロパガンダが喧伝して
いることである。イデオロギーについても同じことであり、イデオロギーは教義の大衆的
で情緒的な誘導でしかない。社会的集団のなかで本当のイデオロギーについて何かを確立
することはもはや誰にもできない。こうしたイデオロギーのなかで、人や社会を正すため
の確たる支持の焦点を見出すことはもはやだれにもできない。イデオロギーはプロパガン
ダの体系の一部となり、それに基づいている。
2.世論の構造への影響
私はプロパガンダと意見の間の関係性について問題全体を吟味しようとは思わない。し
かし、人々の心的生活に与えるプロパガンダの影響は、私がこれまでの章で示そうとした
ものであるが、大衆が個人から成っていて、同時に大衆に作用するように設計されたプロ
パガンダがその大衆の一部である個人を変えるということだけが理由であったとしても、
それは明確に集団的な帰結に至る。人々は影響を受け、歪められる。このことは必然的に
、世論の変化につながる。しかし、世論の内容の単なる変化(例えば、好ましい黒人の意
150
見が好ましくない意見に変わるかどうか)よりも我々がずっと重要だと考えていることは
、世論の実際の構造である。
世論の構成要素の変化
まず、変化の要素は簡単に把握できる。世論は論争となる問題における意見の交換によ
って世論自体を変え、そうした異なる意見の相互作用によって世論自体が形作られるとよ
く言われてきた。しかし、プロパガンダの効果の検証は、世論形成のこうした見方を根本
から壊すことは間違いない。一方で、私がこれまで示してきたように、プロパガンダが取
り上げる問題は論争的でなくなる。“真実”は宣言されるのであって、議論を生まない。
真実は信じられたり信じられなかったりするが、それがすべてである。同時に対面のコミ
ュニケーションはなくなる。プロパガンダされた環境において、コミュニケーションはも
はや対面的なかたちで起こらず、プロパガンダの組織によって設定されたかたちで起こる
。行動はあっても、相互作用はない。私が示してきたように、プロパガンダ受容者と非プ
ロパガンダ受容者は、議論ができない。心理学的に受容可能なコミュニケーションや交換
は、彼らの間では不可能である。最後に、プロパガンダが機能する巨大な社会において、
意見はもはや集権化した情報メディア以外の経路では変化しない。“伝播する巨大なメデ
ィアやプロパガンダによって大衆とコミュニケーションを取らない限り、意見が大規模に
同化されないなら、いかなる意見も帰結しない。”ここで我々は構造的な変化に直面する
ことになる。
プロパガンダが世論の構造をどの程度変化させるかを知るためには、レオナルド・W・ド
ゥーブによって示された世論形成の“法則”を見れば十分である。まさにドゥーブが世論
に割り当てた役割(欲求不満や不安などを減らす)をプロパガンダが果たし、プロパガンダ
が結局のところ調和を作り出し内側の意見を外在化することによって、直接世論を作るこ
とが分かる。しかし、ここでは別の道に沿って議論を進めたいと思う。
私が分析しようと思う最初の効果は、あいまいにも世論の明確化と呼ばれているもので
ある。米国の分析に基づいてその過程は思われているほど単純ではないと言ったステッツ
ェルは確かに正しい。しばしば、幾つかの異なる意見が、神秘的な施行によって突如とし
て統合し世論を形成すると言われている。この過程の構成部分の一つがプロパガンダであ
る。ステッツェルは、物事はそのように起こらないということを示している。世論は個人
の意見に由来しない。ここに我々は二つの異質な問題に直面する。誰も個人の意見の明確
化を語ることができない。むしろ、人が“生の意見”とも呼ぶ、あいまいで、一貫性がな
く、定式化されない、潜在的な意見は本当の明確化の過程を通じてプロパガンダによって
明示的な意見へと変容させられる。
このことは何を意味しているのだろうか。ここから我々は、ある構造や骨格を持ってい
る組織化された意見の存在に入っていく。個人的な意見という状態から世論という状態へ
151
は進歩はまったく存在しないが、ある世論の状態から同じ世論の異なる状態への変化は存
在する。
変化して多目的に使用できる意見は固まっていき、厳格な方向づけが行われる。プロパ
ガンダはまさに意見の目的を特定して、的確な輪郭を描く。こうしてプロパガンダは思考
の領域や構想の角度を、固定観念の作り出すことで矮小化しながら人に影響を与える。
プロパガンダの介入まで、あいまいな性向に過ぎなかったものが、今や概念の形式を取
っている。我々が見てきたようにプロパガンダは理性的な確信を通じてよりも、感情的な
衝撃を通じての方がはるかに機能するので、このことにはとりわけ注目すべきである。に
も関わらず、プロパガンダはそうした衝撃によってイデオロギーの細密さを作り上げ、そ
れによって意見を守ることを実に正確で安定的なものにする。しかし、こうした意見の硬
化は、全面的でもないし首尾一貫もしていない。そういう訳で、私は“骨格”と言ったの
だ。明確化はある点において起きる。プロパガンダは一般化し、異なった概念を作らず、
非常に特定的な意見を作り、他ではまったく適応できない。さらにプロパガンダの有効性
の程度はまさにこの明確化の点の選定に基づく。もし、ある者がある重要な点において意
見を硬化させることができたなら、そこから意見の全域を操作することができる。
この意見の硬化は、すぐにあらゆる反対の推論や証明、事実への無感覚を作り出す。マ
クドゥーガルは、意見に働きかけるプロパガンダは、証明することなくその意見に影響を
与えることが正しいことを示している。こうしたプロパガンダに従う潜在的な意見は(も
しそれがうまく出来るなら)、見境なくすべてを吸収し、すべてを信じる。これにより、
意見は明確化の段階に到達し、その瞬間から意見はもはや異なる一切のものを受け入れな
くなる。私は既に証明された事実でさえ、明確化した意見に対しては何をすることをでき
ないことを示してきた。
意見のこうした組織化は常に統合化に向けた傾向である。意見はその矛盾を消却し、必
然的に統合の効果を持つ同一の標語の機能として確立する。その上、そのとき個人の意見
も変化する。というのは意見の硬化はその独自性を破壊するからだ。細部と微妙な差異が
なくなる。プロパガンダが活発であるほど、世論はより一枚岩になり、より個人化したも
のでなくなる。
この過程の良い例が、マルクス主義者のプロパガンダによる階層意識の形成である。(
私が先に述べた)情報の伝播による階層意識が作られた後、この階層意識の変容がプロパ
ガンダによって判断の体系や基準、信条、固定観念となった。プロパガンダはあらゆる逸
脱した概念を消却し、最終的に労働者の意見を最初の様式と一致しないあらゆるものに対
しては無感覚にした。今日、階級意識はプロパガンダの典型的な産物になっている。
この統合という性質は、意見に対する第二のプロパガンダ効果につながる。単純化とい
う過程によって、プロパガンダはより急速に意見を作る。単純化がなければ、意見はどこ
にも存在し得ない。判断や基準が問題が複雑であるほど、意見はより多様になる。微妙な
差異や暫時的移行は世論の形成を阻む。意見がより複雑であるほど、確たるかたちになる
152
にはより時間がかかる。しかし、意見が多様な場合には、プロパガンダは単純化という力
をもって干渉してくる。
態度は受動的か否定的という二者択一に陥る。明確に、プロパガンダはより多様な意見
を持つ人を単純にある集団ともう一つの集団に分ける。例えば、共産主義にまったく傾倒
していない人はプロパガンダによって単純にファシスト派にされる。彼が社会的正義の観
点で考えようとしていても、資本主義を否定しようとしていてもである。ブルジョア帝国
主義者の盟友とならずには、彼は衆目の一致するところとなる。
問題は単純化される。ゲッベルスは“大衆の思考を単純化し、大衆を原始的な様式にす
ることで、プロパガンダは複雑な政治的、経済的過程を最も簡単なかたちで現すことがで
きる・・・我々はかつて少数の専門家だけが関わることができた物事を接収し、それを路
上に持ち込み、小人の脳に押し込んだ”と述べている。
問題への回答はこうした状況下で白と黒に明確に切り分けられ、世論が急速に形成され
、束縛から逃れて力強く現れ始める。回答はそのとき抵抗できない経路で、意見の明確化
という過程に包括するにはあまりに機を逸して起っているあらゆる異なった平均的な意見
を持ってくる。我々は既に心理学的観点からプロパガンダがいかに固定観念や偏見を強化
し作り出すのかを見てきた。しかし、偏見は単に個人の心理の一部というわけではないし
、そういうことはあり得ない。偏見を持った他者との関係のなかにある個人であり、明確
化は世論の構造の変容につながる。もちろん、偏見は自発的にも起る。しかし、プロパガ
ンダは偏見を世論の形成のために用いる。翻って世論は単純化し、非現実的になり、硬直
化して不毛になる。プロパガンダによって形成された世論は一切の真正さを失う。
この関係性のなかで我々が突き止めたい最後のプロパガンダの効果は、ステッツェルに
よって思慮深く示された個人と世論の間の分離である。
“固定観念化した意見と思慮深い態度の違いは、公的な意見と個人的な意見の違いに我
々を立ち戻らせる。固定観念は公的な意見の範疇であり、一方で思慮深い態度は個人的な
意見の原則に沿って人々が生きる場所に存在する。”
二つの間には本質的な違いがあり、また二種類の意見は交換可能な、相互の影響がなけ
れば共存できる。
“このように我々は社会的組織の成員として、また個人として、二つのかたちで考えて
いる。前者においては、我々は自分たちのものでない考えに身を任せていると人は言うか
もしれない。多様な意見は一貫性があるべきで体系に統合されるべきという理由はない(
それはプロパガンダの仕事である)。・・・しかし、我々はまた我々独自の視点を持って
いる。”
プロパガンダの効果は、二種類の意見をさらに分離することにある。通常、二つの分野
の相互作用は継続する。しかし、プロパガンダが意見を接収すると、相互作用は本来的な
結びつきをせずに短絡し、関係性が妨害される。その時、公的な意見は、個人の意見の表
153
出を不可能にし、さらに言えば全面的に個人の意見を閉じ込める硬直性と密集性を帯びる
。
個人の意見は、公的な意見がプロパガンダによって組織される場において、明確に価値
が下がる。我々が進歩するほど、個人の意見は大衆メディアを通して表されなくなる。印
刷物やラジオの発達は、自分の考えや意見を公に述べることができる人の数を圧倒的に減
らす。個人の意見が表られることを可能にするなどということはなく、これらのメディア
は排他的に“公衆の”意見を届け、それはもはや個人の意見によって養われるものではな
い。公衆の意見がますます真正さを帯び、より力を行使するほど、個人の意見は環境や個
人のなかにあって価値や重要性を伴わない存在となる。
そうして、個人的な意見はもはや公衆の意見のさまざまな要素を再考し統合するために
、それらを吸収することができない。プロパガンダは公衆の意見を個人によって消化され
ないものにする。個人は非個人的に投げ込まれた流れに従うだけだ。そして、公衆の意見
がますます巨大になり、“通常の”曲線で現れるほど、個人の意見はますます断片化する
。集団的な位相において、個人の意見は消散したかたちで現れるので、その本質的な不確
かさが明らかになる。こうして、人の心理的過程は二つの無関係な要素に分離される。
意見から行動へ
私は何度か、プロパガンダは個人の意見を変更しようとするよりも、人々を行動へ導こ
うとすると述べてきた。このことははっきりと最も目につく結果である。プロパガンダが
公衆の意見に介入するとき、プロパガンダは公衆を行動する群衆や、より正確に言えば参
加する群衆へと変容する。しばしば、プロパガンダは“言葉の行動”にしかならないが(
このことは後ほど検証する)、問題は群衆が意見を持った単なる傍観者である状態から、
参加者という状態になることである。仮に映画鑑賞者が映画に“惹きつけられた”として
も、その人は受動的なままだ。その人は自分が見た映像という個人の意見を持つ。その人
は映画に関する公衆の意見にすぐに参加するだろうが、それは外部的なままだ。闘牛の観
戦者は若干異なる状況にある。殺傷の儀式に参加することは、時に受動的であるが、時に
その人が闘牛場に入るときは、能動的である。プロパガンダはさらに進んで、自分のもの
ではないものを受容するよう求める。プロパガンダは最小でも支持を、最大では積極的な
参加を求める。通常の自発的な意見の発展がこうした行動につながらず、個人的で非集団
的な態度に変容するだけの場において、プロパガンダはその役割を果たす。意見自体が行
動につながることは甚だ稀である。プロパガンダの優れた妙技とは、思考から行動へと人
工的な進展を引き起こすことである。
プロパガンダは態度を作るのではなく、ただ態度を用いるだけだとしばしば指摘されて
きた。社会心理学特有の意味でそれを言う場合には私も賛成しなければならないが、実際
にはそれほど単純ではない。プロパガンダが態度を変化させないことは明らかである。し
かし、プロパガンダが行動につながるとき、プロパガンダはまず第一に、その他の点では
154
基礎的態度の直接的な結果となる反応を変化させる。態度を表す人は行動せず、プロパガ
ンダの影響下で行動する。このときの態度の歪みを見逃すことができない。それが度々繰
り返されれば、その歪みはその人の行動様式を変える。もっと言えば、プロパガンダが始
めた行動に人が関わったとき、反撃や“行動のための準備”と異なる方向づけはできず、
そうして態度になっていく。この態度はまた、その人が関わっている行動や社会的な文脈
によって定められる。プロパガンダが人を押しやる継続的で習慣的な行動はまた、間違い
なくさらなる行動を定める態度を作り出す。
プロパガンダという経路を通じた意見から行動への進展は、いかにして起きるのか。ド
ゥーブは、それを詳述しようしている数少ない人物の一人である。
“態度はその力が行動以外では小さく出来ないほどあまりに大きい場合、外部的な振る
舞いに影響を与える。当初において弱くも強くもあるこの力は、人が行動が必要であると
感じたとき、自分が関わっている行動を明らかにされたとき、その行動は有益であるか褒
美に値すると考えたとき、積み重なっていく。つまり、意図した反応の実現は、一連の初
期の段階の結末でしかなく、起るべき最後の行動には必要なものではあるものの、それが
起きると保障するものではない。”
この観点で見ると、行動はプロパガンダによって作られたある程度まとまった数の調整
された影響の結果である。プロパガンダは人に行動の緊急性、必要性を感じさせる。特有
の性質である。さらに同時に、プロパガンダは人にするべきことを示す。行動する希望に
燃えつつも何をすべきか分からないという人が我々の社会において普通の種類である。人
は正義や平和、進歩のために行動したいが、やり方が分からない。もしプロパガンダがそ
の“やり方”を人に示すことができれば、この遊戯における勝利を意味する。行動は必ず
ついてくる。
人はまた、自分の行動の成功や、そこから得られるであろう褒美や満足の可能性を確信
していなければならない。人はある結果を得る必要があり、その必要性が緊急であると感
じるとき、行動する。広告は商業領域において、必要性とその緊急性を示し、プロパガン
ダは政治領域においてそれらを示す。最終的に人はこうした行動への進展を、例えば周り
の人々の類似行動によって助長させられる。しかし、こうした類似行動はプロパガンダと
いう媒介を通じてでなければ人の注意を引くことはない。
これは疑う余地もなく、多くの局面で当てはまるかたちである。しかしここで見過ごさ
れている一つの要素が、私の見解では重要である。大衆や群衆、集団の要素である。プロ
パガンダに従う人は、その人が一人である限り、決して行動しない。ドゥーブは、明らか
にした機能が集団的な人においてのみ働くものではあったが、分析を行っている。人は、
その行動が多くの人によって行われているから効果の見込みがある場合のみ、行動の緊急
性を感じる可能性がある。人は他者なくして、行動に関わるはずがない。このことは、も
しプロパガンダが行動につながるなら、それはまた集団的な影響を持つということを意味
する。その影響は二つの主な要素から成る。
155
1. プロパガンダは、強い集団の統合を作り出す。そして同時に、その集団を何かに夢
中にさせる。大衆メディアは集団生活や集団活動への熱心な参加を引き起こし、強い
共同体意識を引き起こす。我々の社会では、人は、大衆メディアを通じてのみ、集団
とコミュニケーションする。集団の成員間に不可欠な心理的接触は、こうしたメディ
アによってのみ作り出される。大衆社会では、人は互いにより距離を置く傾向を持つ
。この関係性はまったく人工的なものであり、情報メディアの産物でしかない。自発
的な関係性は、それが組織化され、系統化され、意図的なものになったとき、性質を
変える。このとき、個人的関係性は文字通りの意味において全員一致を作り出す傾向
がある。こうした全員一致は常に、拡大する力を持つ。集団が全員一致を得たとき、
集団は必ず、行動へと進もうという欲求を経験する。そのとき、心理的接触やコミュ
ニケーションは単に仲間という感情だけでなく、共同の真実を作り出す。もし、こう
した“真実”が永遠の真理を論じるなら、それは集団を行動に押しやることはできな
い。しかし、同時に、大衆メディアが集団を統合するとき、大衆メディアは集団を現
在と結びつける。結局、出版物やラジオの中身は、その瞬間のニュースでしかない。
しかし、メディアが意図的にプロパガンダに用いられるとき、その傾向はさらに深ま
る。ステッツェルは、“プロパガンダの固定観念は、即座に現実という重要性を持ち
始めるように見える”と的確に述べている。それは、攻撃性や創造性を生む現実であ
り、現在のことであるという現実である。心理的に全員一致で、こうした計画された
現実に直面する集団は、最高水準の心配を感じる。この現実とは何なのだろうか。そ
れは、集団それ自体やその運命が疑わしい世界であり、集団が行動という可能性を持
っている世界である。
プロパガンダが集団を現実と統合するとき、プロパガンダは集団をその現実のなか
における行動へと導く必要がある。集団は、受動的ではいることができず、その現実
に関する意見を持つということだけで満足する。この機能を理解するためには、この
集団が異なる立場を取ることができる他の思考の枠組みを持っていないことを思い出
す必要がある。言い換えれば、集団はその現実に対して、ただ一つの視点しか持って
いない。それゆえ、集団は永遠の相の下に現実を考えることができない。なぜなら、
その思考の枠組みは、集団をその現実に最初に統合するまさにプロパガンダによって
与えられるからだ。そして集団は、その集団自体の立場を判断できない。行動するこ
とだけができる。そのとき、集団に参加するということは、現実への服従、過去や将
来のない人間になること、行動以外を気にしないこと、現在に関わるプロパガンダに
よって伝播された信条以外は持たないことである。
2. その他の行動への進展という側面は、プロパガンダが意見に与える大きな力である
。この意見は口コミによってゆっくりと拡がり、世論調査が正確に測ることができな
い、時にそれ自体を信じないような信条ではもはやない。この意見は外側に投影され
156
、権力や荘厳さ、壮大さを帯びた銀幕や電波の上でそれ自体を目にし、耳にする。こ
うした意見は、それ自体が強力なメディアによって全面的に示され伝播されているこ
とを見て、それが“真実”であると信じるようになる。プロパガンダは自己表現の欲
求において、こうした公衆の意見を露わにする。
このとき誇張なしに、プロパガンダは集団の指導者を置き換えることができる。こ
れは、プロパガンダが集団における指導者の道具であり、指導者を作る助けとなると
いう当たり前のことを言っているのでない。指導者がおらず、プロパガンダに従う集
団においては、社会学的、心理学的影響はまるで指導者がいるのと同様であるという
ことである。プロパガンダは人の代用品である。もし、我々が集団の指導者が果たす
無数の役割を思い起こせば、我々はキンボール・ヤングと同じようにそれを要約でき
る。ある集団の指導者は、行動の方向性をまず定める人である。彼は同時に、大衆の
感情を言語化し、純化する人である。究極的には、プロパガンダに従う集団に指導者
は必要がなくなり、まるで指導者がいるかのように振る舞う。この代用品は、地方指
導者の役割や国家指導者の概念的な本質の現実的な縮小を説明するものである。統率
力や指導者原理(訳注:ナチ党が掲げた理論)体系においてさえ、組織の長は投影以上
のものではなく、集団の本当の指導者ではなかった。人民委員同様、大管区指導者は
単なる代理人であり、役人である。これは指導者が多数いるということではない。現
実の指導者は集団に属さない人であり、社会学的に言えば完全な異常者であり、プロ
パガンダによって本当の指導者の代わりとなり、プロパガンダを通して存在している
人である。現実の指導者がいないとき、長を持つ可能性が生じる。ヒトラー、スター
リン、毛、ルーズベルトの肖像は抽象的ではあるが十分にその役割を果たした。とい
うのは、指導者の存在から期待できる影響力はプロパガンダによって得ることができ
るからだ。
指導者は集団を行動へ導く人である。これは、意見が直接的な行動へ進展する第二
の要素である。
3.プロパガンダと集団形成
私は、あらゆる集団や社会の総体に影響するプロパガンダの全体的な研究を引き受ける
ことはできないので、このようなあいまいな見出しを選択した。そのため、私は完全な理
論的、実験的社会学を必要とする。さらに、プロパガンダの効果に関して、自らを作る集
団と、それに従う集団の違いを見分けなければならない。しばしば、二つの要素は密接に
結びついている。この研究では三つの事例、政党、労働業界、教会を検証する。
集団の分断
すべてのプロパガンダは、他のあらゆる集団からその集団を仕切らなければならない。
ここに我々は、知的コミュニケーション・メディア(出版物、ラジオ)の虚偽的性質を再び
157
見出す。人々を統合してより互いを近づけることとは程遠く、人々をかえってますます分
断させる。
私が公衆の意見について述べたとき、すべての人がその人の集団のプロパガンダを受け
やすいことを強調した。すべての人はプロパガンダを聞き、それを確信する。フランス世
論研究所の調査(No.1, 1954)によると、すべての人は自分自身のプロパガンダに満足して
いる。同様に、ラザーフェルドはラジオ放送の研究において、米国の公衆に、米国民にお
ける少数民族集団に、それぞれの価値観を知らせようと構成された番組の事例を引用して
いる。主眼は、相互の理解と寛容を促進する狙うことであり、それぞれの集団による努力
を示すことだった。調査は、それぞれの放送が議論されている民族集団によって聞かれ(
例えばアイルランド人はアイルランドについての番組を聞いた)、他の人に聞かれること
が稀であったことを示した。同様に、共産党の出版物は共産党支持者によって、プロテス
タントの出版物はプロテスタントによって読まれている。
いったい何が起きているのだろうか。その集団の出版物を読み、その集団のラジオを聴
く人々は、常にその忠義を強化されている。その集団は正しく、その行動は正当化されて
いるとますます考えるようになる。こうして、その信条は強化される。同時に、こうした
プロパガンダは、他の集団の批判や否定の要素を含んでいる。それは他の集団の成員によ
って決して読まれることも、聞かれることもない。共産主義者がビドーの政策を強固な議
論で攻撃したことは、ビドーの政党には影響はなかった。というのは、ビドーの支持者は
、リュマニテ(訳注:フランス共産党の機関紙)を読まなかったからだ。ソ連における独裁
について有効な批判と本当の事実を含んでいるブルジョア紙フィガロは、決して共産主義
者には到達しない。しかし、こうした隣人には聞かれることのない隣人批判は、それを表
す集団内の人にはよく行き渡る。反共は常に共産主義の悪を確信しているし、逆もまた然
りである。結果として、人々は互いをより無視し合うことになる。人々は理由、議論、観
点の交換に寛大であることをまったく止めてしまうのである。
このプロパガンダの二重の襲撃は、自身の集団の優秀性と他集団の悪を印象づけながら
、ますます我々の社会の厳格な分割化を作り出す。この分割化は、さまざまな位相で起こ
る。労働組合主義者の分割化、宗教的分割化、政党や階級の分割化、さらには国家の分割
化、頂点には国家圏域の分割化である。しかし、こうした位相や目的の多様性は、プロパ
ガンダが増すほど、分割化が増すという基礎的な法則を変えることは決してない。プロパ
ガンダは会話を抑圧する。反対する人は、もはや対話者でなく敵である。人がその役割を
拒否する限り、他者は見知らぬ人になりその言葉は決して理解されない。このように、我
々は眼前で閉ざされた心の世界が世界を作り、そこでは誰もが自分と会話し、自分に関す
る確かさと他者によって為された悪を回想し、誰も人のことを聞かず、誰もが語り誰もが
聞かない。そして、人は語るほどに孤独になる。なぜならその人は他者をさらに批判し、
自分を正当化するからだ。
158
付随的に、こうした分割化が公衆の意見の形成と矛盾してしまうなどと思ってはいけな
い。プロパガンダは社会を分割するが、プロパガンダは意見に影響を与え、集団を支配し
、集団の中でプロパガンダは機能する。まず、プロパガンダは、まだ集団に属していない
無党派層から成る大衆への効果を維持する。それから、さまざまな種類の集団に属してい
る人々に影響を与えることも可能である。例えば、戦闘的な社会主義者に影響を与えない
共産主義プロパガンダは、プロテスタントには影響を与えるかもしれない。フランス人に
はフランス人としての能力に影響を与えない米国プロパガンダだが、資本主義や自由主義
制度に関してはフランス人に影響を与えるかもしれない。
集団間に位相の違いがあるから、この点は特に重要である。例えば、国家主義者のプロ
パガンダは、他国に対する防壁を構築することになる。しかし国内的には劣勢の集団の孤
立を大切にしつつも、彼らを共通の集団的活動に参加させることで影響を与える。これは
、キリスト教イデオロギーが社会で拡大しつつも、貴族制や宗教的秩序には全く影響を与
えなかった中世において起きた過程と同様の過程である。国家のプロパガンダは、国家の
なかで完全に効果的であり、公衆の意見を変える。政党のプロパガンダや宗教のプロパガ
ンダは、別の一面に対して影響力を持つ。それぞれある位相においては公衆の意見を変え
、他の位相においては社会学的分割化を作り出すための力を持っている。しかし、優勢な
集団だけが他の集団に影響を与えることができる。二つの現在の勢力圏、東側と西側に関
していずれも優勢でない場においては、プロパガンダがますます両者を分離させる効果し
か持たないのは、そういう訳である。
よく組織化されたプロパガンダは、こうしたすべての要素をもって機能する。このこと
は、プロパガンダの二元性を説明する。例えばソ連において、一面においては、大きな発
行部数を持つ新聞やラジオでは体制への法悦の礼賛と体制へのあいまいな批判しか見るこ
とができず、現実に基づかずに人々を満足させるために設計されている。もう一面におい
て我々は、専門的定期刊行物における極度に暴力的で具体的で奥深い批判をみる。例えば
、医学雑誌や都市計画の雑誌においてである。もし、人がソ連体制の短所を本当に理解し
たいなら、こうした雑誌の中に正確で公平な情報の宝庫を探し出すことができる。いかに
こうした二元性を寛容できるのか。それは分割化によってのみ説明できる。公衆に体制の
壮大さやソ連の優秀さを語らなければならない。人々が反対の個人的経験に直面しても、
これを理解させなければならない。個人を分離させるためであり、個人の経験は重要でな
く全体としてソ連の現実と関係がないと信じされるためにである。つまらない個人的な経
験は、意味のないただの事故である。こうしたプロパガンダ(大衆を方向づける)は、それ
ゆえにただ実際的ではあり得る。
逆に、専門的な定期刊行物において専門家に訴えかける暴力的なまでに批判的なプロパ
ガンダは、政党の警戒、政党の細部の知識、政党の集権化された統制、共産主義完成への
希望を見せようとする。そのプロパガンダは、専門家の集団に分解された専門家という大
衆を目指すことになる。こうしたプロパガンダは、体制は素晴らしくあらゆる事業はとて
159
もうまくいっている、例外として・・・問題の事業、医師向けの医療などと主張する。ど
うしてこうした二元性が可能なのか。まさに社会の分割化の効果によってであり、それは
こうした広範なプロパガンダの仕事によってである。医者は都市計画の雑誌を読まないこ
とを知っていれば、ほとんどの人は専門雑誌を全く読まないことを知っていれば、ウクラ
イナ人はジョージ王朝の新聞を読まないと知っていれば、その必要性に従ってどんな矛盾
する主張も可能となる。
明らかに、この過程はさらなる分離を増大させる。というのは、誰もが他者の言葉を話
すことを止めるからだ。コミュニケーションの手段は残らない。さまざまな事実がさまざ
まな人々に与えられる。判断の基準が異なり、方向性が反対する。もはや同じプロパガン
ダの範囲内に接点がない。というのは、こうしたプロパガンダは科学的に(これまで検証し
た事象のように自発的にではなく)分割線を伸長し、これらすべては集団間の心理学的分
離を確立する非現実性と言語的虚構という共通の集団的外套の下で行われる。
政党への影響
政党が多かれ少なかれでたらめに活動を止めて、系統的なプロパガンダの始め、選挙時
に投票を得ようとする代わりにより恒常的なかたちで公衆の意見を動かし始める時に、何
が起きるのだろうか。民主主義国においては、実際にこうしたことをしようとする政党は
ない。しかし我々は、自分の政党を古い政党と融合させるか、古い政党と置き換わろうと
する動きが現れるのを見ることができる。そしてこうした新しい政党は、以前の政党が持
っていなかった目的を持っている。変化は米国の政党で起きている。約 12 年に及んで、米
国の政党は系統的なプロパガンダを行っている。しかし、それが政党のなかでどのような
変化を伴っているのかを語るには時期尚早である。
それゆえ、我々はそのことよりも、プロパガンダを行わない政党と比較しながらプロパ
ガンダを行っていて、かつプロパガンダを行う必要性がその構造に由来するような政党を
研究する。
プロパガンダを行う政党はまず、力強く自らを表現する手段を持たなければならない。
所定の機能を誰しもが持っている共同体として政党は自分を表現し、底辺の成員は厳格に
組織化され、従順である必要がある。もし人々の意見に常に接触しようとするなら、その
者は部署の支援で前進しなければならず、弱々しく自分を表す委員会の体系では散発的で
断片的な行動しか導くことができない。
加えてプロパガンダは、政党組織のなかで垂直的な連絡を必要とする。この垂直的な連
携は、プロパガンダの均質性と応用の速度の両方を可能にする。我々は行動や反応の速度
がプロパガンダに必要であることを知っている。逆に、孤立した社会的、部分的集団を作
り出すプロパガンダの影響という視点で、政党内の水平的連絡は破壊的である。政党の底
辺の人々は、あるプロパガンダがある所で行われ、別のプロパガンダが他の場所で行われ
160
ることを理解しない。それどころか、プロパガンダによる分割化は、政党内の分割化と呼
応していなければならず、唯一の連絡体系は垂直的である。
より重要なことは、執行部の幹部の体系である。この体系は初めから幹部と有権者や支
持者との間の分離を作り出し、まさに主体と対象の分離に対応するものである。プロパガ
ンダはその行為者を、意思決定を行って一定の結果が得られるはずのこうした体系を用い
る主体へと変える。しかし、行為者は潜在的な有権者や支持者を対象者として見下す。行
為者は彼らを操作し、働きかけ、試し、心理学的に或いは政治的に変える。特に正しいプ
ロパガンダは客観的で匿名である必要があり、また大衆はある目的を達成するための単な
る道具とみなされることが分かれば、彼らはもはや個人的な重要性を持たない。対象者は
このように扱われる。これは、現実のプロパガンダを行う者が外側の者たち、しばしば自
分たちの支持者に対して持っている根深い蔑視の一つである。
プロパガンダは、政党内において個人が力を持つようにする傾向を持つときでさえ、操
作するものと支持者の間のこうした分離を強調する。個人の力を賞賛する大衆の性向は、
正しいプロパガンダによって避けることができない。それに従うか、利用するかである。
個人賞賛を無視することは簡単で効果のあるプロパガンダを放棄することである。それゆ
え、プロパガンダは指導者の偶像を作り出し、あらゆる場所に存在し、あらゆるものを知
っているという性質を指導者に帯びさせることで、有効な証拠によって人々の意識が感じ
ることや予期することを支持することで、この性向を強めることができる。力の個人化を
避ける政党は、決定的な切り札を失う。我々は、1952 年の米国選挙におけるアイゼンハウ
アーにこれを見ることができる。
ほとんどの場合、この個人化した力はプロパガンダ自体の組織化と密接に関係している
。政党との関係性で、デュヴェルジェは、時に政党の方向性を支配する不明瞭な力を“第
二の力”と言っている。この第二の力は新聞において影響力のある人を含んでいて、その
拡がりが正当の強さを確実なものにする。この事実は、一般化される必要がある。現代的
な政党において、第二の力はプロパガンディストの企業で構成される。(このことは国家
自体においても当てはまる。) プロパガンダの道具は、時に深刻な軋轢がありつつも圧倒
的な地位を得る傾向がある。というのは、その道具は党全体の中心であり、同時にその存
在理由であるからだ。
これが、政党の構造に対する現代的プロパガンダの主要な影響である。
国家組織における政党間の相互作用の相関的な影響に関して、決定的な要素はプロパガ
ンダの高い費用である。プロパガンダはますます費用がかかるものになっているが、必要
な量が原因であり、部分的には求められる道具が原因である。すべての政党は伝統的な低
水準のプロパガンダ(ポスター、新聞)にこだわり、またより費用がかかるメディア(ラジ
オ、テレビ)を求めて政府に行く。これはフランスの場合である。こうした状況は、均衡
ではあるが不安定な状態がある。実際、この状況は不安定である。ある政党がプロパガン
ダを行ったなら、すべての体系が崩れてしまう。
161
我々の第一の仮説:
他の政党は再編成できず、金銭、人材、組織が不足しているために必要な大きな装置を
動かすことができない一方で、ある政党だけが大きなプロパガンダ活動を行う。このとき
我々は、こうした政党が 1932 年にドイツにおいてヒトラーの政党がしたように、1945 年に
フランスとイタリアにおいて共産党がしたように、ロケットのような上昇をみる。これは
明らかに民主主義の脅威である。我々は、政府を捕える圧倒的に強力な政党に直面する。
この政党がさらに資金的に潤沢になり、より強固なプロパガンダの基盤を我がものとする
ようになると、ますます強力になり続ける。この政党が独裁の野心を持っていないとして
も、明確に民主主義を脅かすものである。(多かれ少なかれ)無党派層の 75%の人々を取り
戻すことができない他の政党は、ますます大きなプロパガンダを用いることができなくな
る。こうした伸長はもちろん、外的な影響力によって変化することがある。フランスやイ
タリアで共産党の伸長がプロパガンダの後退とともに 1948 年以降終焉に向かったときにそ
れは起きた。これは決して、過去の失敗に原因を帰すことができない。
第二の仮説:
野党が大きなプロパガンダで対応しようとする。しかし、それは力の再編成を通しての
み可能である。内部の論争は、共通のカウンター・プロパガンダの必要性よりも強いので
(1949年から1958年にかけてのフランスのように)、大きなプロパガンダが実現することは
難しい。或いは政府に訴えることで、全体主義的プロパガンダに反対する政党の裁量で、
コミュニケーション手段や資金を使用することがある。これはレクシストのカウンター・
プロパガンダに関連するベルギーの事例である。
第三の仮説:
急浮上を志向する政党と同様、強力な政党や政党連携は、壁にぶち当たる前に大きなプ
ロパガンダを行う。これは米国の場合であり、右派の再編が安定的の場合にはフランスで
もあり得る。こうした状況では、多数の政党がこうしたプロパガンダを行う十分な手段を
持つことは考えられないので、財政的な理由が民主主義を二つの政党に縮小してしまう。
このことは教義や伝統の理由からではなく、技術的なプロパガンダの理由から相互構造に
つながってしまう。これは、将来における新しい政党の排除を意味する。第二党が次第に
消えていくだけでなく、どうにかして自分たちのことを聞いてもらおうという新しい政治
的集団を組織することが難しくなる。協調した権力のなかにあって、新しい計画を確立す
ることはさらに難しくなる。一方で、こうした集団は最初から多額の資金、多数の成員、
大きな権力を必要とする。こうした状況下で、新しい政党は、ゼウスの額から完全に成長
して現れたアテーナーのようでなければ、生まれることができない。政治的組織は“メデ
ィア”を持つ者たちの圧力に抵抗できる政党として出現する前に、前もって長期にわたっ
て資金を集め、プロパガンダの装置を買い、成員を統合していなければならない。
新しい党の組織だけが難しいというわけではなく、新しい政治的な考えや教義を表現す
ることもまた難しい。概念はもはや、情報メディアを通してしか存在しない。情報メディ
162
アが既存の政党の手中にあるとき、真に革命的な或いは新しい教義は表現する機会、つま
り存在する機会を持たない。しかし、革新は民主主義の主要な特質である。今や誰も革新
を求めないので、革新は消え去る傾向にある。
プロパガンダはほとんど必ず二大政党制につながると言うことができる。幾つかの政党
はこうした費用のかかるプロパガンダのキャンペーンを行うほど十分な資金力はないだけ
でなく、プロパガンダは人々の意見を図式化する傾向がある。プロパガンダが存在する場
において、細部や教義の微妙な差異や洗練はほとんど見かけなくなる。むしろ、意見はよ
り鋭利になる。黒と白、はいといいえだけになる。こうした人々の意見の状態は直接に二
大政党制と、多党制の消滅につながる。
プロパガンダの影響は、デュヴェルジェが多数派の権限を持つ政党とそれを持たない政
党と呼んでいる視点からも、はっきりと見ることができる。多数派の権限を持つ政党は、
通常議会において絶対多数を支配していて、通常はプロパガンダによって作り出されてい
る。このとき、プロパガンダの主要な切り札は、他党の手からはこぼれ落ちる。ここで他
党ができることは、扇動的なプロパガンダを行うことだけであり、つまり、我々がプロパ
ガンダと現実の間の関係性について語ってきたことを考えると、純粋に人工的な虚偽のプ
ロパガンダである。(言い換えると、権力のない政党は人工的な問題を取り上げなければ
ならない。)
この場合、我々は二つの完全に矛盾するプロパガンダに直面する。一面においては、プ
ロパガンダはメディアや技法において強力である。しかし、その目的と表現の様式が限定
され、所与の社会的集団や遵奉者、国家主義者に厳格に統合されるプロパガンダである。
もう一面においては、プロパガンダはメディアや技法において脆弱ではあるものの、その
目的や表現は過大であり、既存の秩序や国家、広まっている集団の基準に対抗しようとい
うプロパガンダである。
しかし、多数派の権限を持つ集団はプロパガンダをその権限に適応させ、プロパガンダ
の目的として権限を使うことさえするが、にも関わらずそれはプロパガンダの創造であり
、所与の環境において長期に渡ってその権限を与えるものであるということを忘れてはな
らない。最後に、資金的な問題における最終的な言及とその含意についてである。寄付に
よって政党が増加する高額なプロパガンダ・メディアを買うことができるといったことは
あり得そうにない。それゆえ政党は、それが金銭的寡頭政治への証書であるにも関わらず
、資本家か政府(自国或いは他国の)に支援を求めざるを得ない。政府に支援を求める場合
においては、国家は適切な手段に近づく。国家はそのとき、道具を求めるものにそれを貸
し出す。これはかなり民主主義的であり、第二党以下を生かすことになるが、私が以前述
べたように不安定な状況につながることになる。国家はこうした道具の手段によって何が
言われているかを検閲せざるを得なくなる。この検閲は、国家がより多くのプロパガンダ
を行わなければならないときに、ますます厳格になる。
163
このことにより、我々はイデオロギー的な領域で中立であることを止め、それ自体の教
義やイデオロギーを持った国家という仮説を検証することになる。このとき、国家による
プロパガンダがすべての政党に課せられる。確かに、我々はいまもプロパガンダを扱って
いる。我々は、権力がまず人々の意見を形成し、人々の意見なしでは機能しないというあ
らゆる“国家宗教”の、過去数十年間を見てきた。ナチ国家の始まりや大衆民主主義の始
まりにおいて、国家のプロパガンダと権力の座にない政党のプロパガンダの間で、ある種
の競争が続いた。しかしこうした状況にあって、国家は必ず勝利し、野党の大衆メディア
の使用を拒否する。国家が恐怖なしに野党を簡単に抑圧できるとき、国家は動きが現れる
まで人々の意見に働きかける。しかし、国家は政党という媒介を通じてのみ、人々の意見
に働きかけることができる。これがもう一つのプロパガンダの効果である。すべての政党
を抑圧し、思うがままの国家を思い浮かべることができる。古典的な独裁のかたちである
。しかし、それはもはや不可能である。
一度人々の意見が喚起され、政治的問題が警告されると、人々の意見が考慮されなけれ
ばならなくなる。国家のプロパガンダ機構は、行政部隊として機能することができない。
国家政党のメディアを通じてのみ、現実性や効率性を持つことができる。現代国家が、支
配者と人々の意見の間の接触を確立する政党を通して機能せずに容認を集めるということ
は想像できない。政党の基本的な役割は、政府に向けてプロパガンダを行うことであり、
つまり、政府がされたいプロパガンダである。付随的に、ある意味において我々は最も純
粋な状態の政党を知る。というのは、究極的にあらゆる政党はプロパガンダ機構であるか
らだ。しかし、このことはいまだに微妙な差異や議論が存在できる他の体系のなかでは、
ほとんど見えなくなってしまう。独裁制にあっては、政党はもはやイデオロギー的な或い
は政治的な役割を果たさず、社会的な利害を表出しない。政党は人々の意見を飼い慣らし
訓練するよう設計された組織であり、ただ国家の必要性のために存在している。その必要
性が小さくなればすぐに、政党の役割や威信も小さくなる。このことは 1938 年のナチ・ド
イツにおいて、1936 年の粛清後のソ連において起きた。しかし、プロパガンダが再び重要
になるとすぐに、政党はその役割を取り戻す。
プロパガンダはかなり明確に政党の運命を方向づけ、政党にある種の形式や規則を課し
、ある経路を命じ、プロパガンダや政党が全体に広まるところまで体制が拡大する時まで
に、最終的にはその生死を定める。
この角度からプロパガンダの役割を照らすと、私はプロパガンダが政党の進化の一つの
要素であるなどと言おうとは思わなくなった。プロパガンダは確かに他の要素と結びつい
ているが、それらはプロパガンダより重要ではなく、プロパガンダと結びついていると述
べることができる。
労働界への影響
164
我々はいま、現代社会の最も重要な問題の一つに直面している。労働界、つまり技術進
歩によって作り出され、資本主義によって最初に用いられ、いまは社会主義によって用い
られている労働条件である。社会主義は、労働条件が資本主義や金銭的資本による労働者
の搾取の産物であると主張する。この主張は、酷い労働条件と、疑う余地もなく階級闘争
やその類のものの両方をある程度説明する。しかし、それは大きな要因ではない。労働条
件は人と機械との関係性から生じ、広義の技術進歩の結果である。都市化や大衆化、合理
化、“労働”という意識の喪失、機械化など、これらすべては生産手段が私的に所有され
ていることよりも、労働条件についてずっと大きな責任がある。この最後の事実は、マル
クス主義によるところの賃金労働者化につながるが、賃金労働者化はこの問題のほんの一
部分でしかない。ひとたび社会主義が法律的な意味で民間の手から生産手段を奪うと、労
働階級は抽象的な意味でもはや賃金労働者ではなくなる。しかし、具体的な問題は変らな
いままだ。
疑う余地もなく、貧困の問題は解決可能である。しかし、資本主義の下よりも、社会主
義の下での方が単に問題が解決できることを示すものは何もない。(農家を除けば)米国に
は、貧しい労働者はいない。しかし、米国においても労働問題は解決しているとは言えな
い。
社会主義国家における労働状況を見てみると、我々は労働者が機械に従属していて、労
働者は個人的な生活をほとんど持たず、大衆に吸収され、機械的な仕事、人工的に測られ
た日々、仕事との分離、偽りの文化、環境の無視、本性からの決別、人工的な生活などに
関する問題の餌食となっていることに気づく。しかし、我々も利益の問題が解決しておら
ず、労働者はいまだに適切に給与を支払われていないことに気づく。唯一の違いは、利益
が国家によって作られているか、私的な個人によって作られているかである。
加えて我々は、社会主義国において、資本主義国と同様に安全、家族給付、休暇、あら
ゆる種類の金銭的保証は充実しているものの、ほとんどの社会法制は労働組合主義や争議
権、労働訓練の観点で後退していることに気づく。労働者は基本的に工場の生活に決して
参加していないことに我々は最終的に気づく。社会主義国において労働委員会は二義的な
問題についてのみ示唆を行い、主要な問題については 5 か年計画の決定を批准するだけで
ある。
さらに、生産手段の共同所有は純然たる虚構である。労働者は何も所有せず、機械に関
して資本主義下の労働者と同じ状況にある。所有が国家であろうが完全な集団であろうが
(幾つかの組織に必ず代表されなければならない)、所有者は工場で労働者とうまくやるこ
とはない。この集団所有についての気づきは経済的な面において、政治的な面における人
民統治という古い概念に対応するものである。そして我々は、その概念やその機能、その
抽象作用が民主主義や人々の力に対してしてきたことがいかに危険であるかを知っている
。私はここではこの点を追求できないが、労働状況は社会主義の結果として何も変わって
165
いないということを述べることができる。にも関わらず、我々は労働者の態度は異なって
いるということを認めなければならない。
稀な場合を除けば、労働者階級は共産主義国の体制を支持している。対抗する階級はも
はやなく、体制とは実際に協調していて、具体的な状況はもはや反抗の態度がないように
みえる。労働者は自らの精神を労働に捧げ、労働に身を捧げ、もはやサボタージュやスト
ライキに関わろうとはしない。反共産主義者がどれほど否定しようとも、これはその通り
なのだ。
共産主義国における労働状況において間違いなく何かが変化している。というのは、労
働者は力によって統合されていないからだ。変化しているのは、まず、社会情勢である。
労働者はもはや社会から排除されていない。社会から排除されているという感覚を資本主
義社会の労働者は強く感じている。資本主義社会の労働者はパーリア(訳注:南インドの
最下級民)であり、部外者である。社会はある基準に従い、ある基本構造を持ち、しかし
労働者はそこに入っていない。個人所有の問題は、この排除の象徴でしかない。この排除
は翻って、プロレタリア階級を作り出す。しかし社会主義社会では、労働者は作り出され
た世界の中心にいる。労働者は誉れ高い地位にいる。社会は労働者階級によって高尚なも
のになる。このことはさまざまな文化的、政治的、経済的な方法で常に指摘されていて、
証明されてもいる。この情勢は労働者の反応を変える。労働者は今、自分の重要性を確信
している。労働者はまた、社会は自分と対立せず、同じ方法を向いていて、この社会は自
分の業績であり、自分に相応しい地位が自分の労働の重要性がゆえに与えられているか、
或いはこれから与えられると確信している。労働者はこのように自分の状況の外部的な現
実を忘れさせるか無視させる前向きな確信に満たされている。社会主義世界の労働者はも
はやかつてのようにこうした状況を直視しない。彼は今希望に満ち溢れている。
来たるべき世界こそが世界であり、その世界で労働者はきっと第一級の地位を占めてい
るというのが彼の希望である。彼がすべき労働のあらゆる断片や労働の日々は、社会主義
社会を作るためであるという意図があるという確信や希望を持っている。一方で資本主義
社会では、労働は賃金を得るための作業であり、資本家だけを富ませる。そこでは労働者
は欲求不満を感じ、社会主義下では労働者は達成感を感じる。
労働現場で起きている変化は、本当の変化ではない。視点や生活の考え方、確信、希望
の変化でしかない。これは確かに社会主義の唯一の革新であるが、この変容は有効である
。労働者はより多く、より良く働き、労働に専心し、確信をもって厳しい訓練を受け入れ
る。
このことは、M・G・フリードマンが労働条件と生産性における心理学的要素の重要性に
ついて述べていることを私に思い出させる。彼は、心理的な必要性は社会主義者の観点に
よってのみ満たすことができると考えている。社会主義においてのみ、労働者は自分の固
定観念や憤りを取り除くことができ、労働への献身を可能にする心理的自由を得ることが
できる。
166
しかし、これが唯一の解決策であると示すものは何もない。米国におけるパブリック・
リレーションズの実際も、心理的手段は一般的な情勢を著しく変化させるだけでなく、労
働者同士の内的説得を変化させ、より自分の仕事に統合するということを示す傾向がある
。しかし、この変化をもってもまだ万全とは言い難く、我々はパブリック・リレーション
ズによる根深い労働の変化が起こり得るのかどうかは確認していく必要がある。
この長い迂回路は、労働問題がある程度実際の状況から生じ、ある程度は心理的要因か
ら生じるということを我々に示している。もし、我々が正直であろうとするなら、我々は
実際の状況に直面してどの社会、政治、経済理論にも解決策などないということを認める
必要がある。もちろん、労働者を幸せにし、彼に安全を与えることはできる。既に知られ
ていて部分的に使われている緩和剤は彼の状況という結果を修正できる。しかし実際に状
況を変えることはできない。労働者階級の外側に謎を作ろうとはせず、労働者階級の具体
的な問題に対する解決策などないと認めなければならない。
しかし、心理的解決策はある。社会主義者の心理学によって得られた修正は、他の手段
、他の統合のかたち、他の確信、他の希望によっても得ることができる。不幸にも社会主
義は心理学的回答しか持たないということに気づいたとき、ここにおいて関係があるのは
プロパガンダの問題だけだと言わざるを得なくなる。ブルジョア階級から愚弄されている
労働者階級は、別な面で共産主義から馬鹿にされる。さらに、共産主義は政治的な面でブ
ルジョア階級の政府にプロパガンダのやり方を教えているように、社会的な面や労働の問
題におけるプロパガンダのやり方も教えている。最近、我々は労働問題の完全な無視や、
問題は解決できないということを覆い隠す目隠しを目にする。あらゆるプロパガンダにお
いて、論点は人を心理的な催眠剤によって、自然には耐えられないことを我慢させること
であり、人工的に仕事を続けさせ、うまく仕事をさせる理由を与えることである。これが
プロパガンダの仕事であり、もしうまくできれば、労働者階級を統合することが可能にな
り、労働条件を嬉々として受け入れさせることができることは間違いない。問題が政治的
な要素となり、現代社会の機構のなかでそれなりに扱われる可能性がある限り、なんらか
の方法で労働問題を“解決する”ことが求められる。
現代的プロパガンダの能力を知らない者だけが、こうした解決の可能性を疑う可能性が
ある。もちろん、こうした労働階級の統合プロパガンダを成功させるには、幾つかの条件
が必須である。まず、物理的な労働条件が改善されなければならない。私は常々、プロパ
ガンダと真の改革の関係性を強調してきた。しかし、それだけでは十分ではない。それど
ころか、労働者の物質的な条件の改善は、歴史が示している通り革命的な扇動の跳躍台に
なり得る。技術的な教育や情報の発展が必要になる。労働者は技術者になるほど、より遵
奉者になる。同時に、労働者により広い情報の土台を与えられたなら、以前に分析した機
構に従って労働者はプロパガンダにより敏感になる。
最後に、心理的活動の統合が必要になる。社会における統合に反するプロパガンダに従
わせようとする政党や組合のような組織に労働者が閉じ込められている限り、我々が以前
167
に議論した分割化が起きる。この関係性における最も重要な要素の一つは、社会主義国に
おいて労働組合は社会と協調する組織になっていて、幾つかのプロパガンダを行っている
ということである。同じことは米国においても当てはまる。労働組合はその成員を擁護す
るが、社会における組織であり間違いなく米国の生活様式である。結果として、労働組合
によるプロパガンダは労働者の統合にとって重要になる。しかし、こうしたプロパガンダ
自体が労働組合を変容させる。
政党がそうであるように、労働組合はプロパガンダを行う必要性を感じている。一方に
おいて、政党について既に研究されているプロパガンダ効果のほとんどは、労働組合によ
っても得られている。しかし、政党にない特有の効果があり、それは労働組合が元々闘争
や擁護の組織であるということに由来していて、多かれ少なかれ、しかし確実に社会にお
ける外部的な要素を表出している。その社会が資本主義であろうがなかろうが、労働組合
は闘争するものであり、それは労働組合の構造や理論的根拠において生まれつきのもので
ある。
しかし組合は、プロパガンダを行おうとするとき、大衆メディアを用いる必要性に直面
する。
もちろん、労働組合のプロパガンダは独自の性質を持っていて、より“人的”であり、
費用をかけず、組合員の力や人的接触などの力を借りる。しかし、労働組合は特に新聞や
ポスターといった現代的プロパガンダの巨大メディアを使わざるを得ない。問題はもはや
単に人々を会議に出席させるということだけでなく、政策的立場を伝播して、本物の労働
者精神を仕立て上げることにあるからだ。これは労働者戦闘員が持っていないある種の知
的な機敏さを想定している。
労働組合は新聞やポスターを使い始めるときから、資金的な問題に直面する。プロパガ
ンダが個人に接触しようとすればするほど、重要なメディアを使う必要が出てくる。それ
らはより費用がかかるものである。労働組合が大きくなっても、資金的な問題はなくなら
ない。プロパガンダの費用は収入よりも早く大きくなる(米国の場合は除く)。このことは
組合が独自のプロパガンダの装置を手に入れることや、多かれ少なかれ怪しく制約の多い
資金援助を求めることにつながる。
組合は世論に接触することで、プロパガンダを成功させることができる。世論を説得し
て労働者の大義に引き入れ、それを社会的不正義の問題に変え、人々を賛成か反対かに二
分する。望むと望まざるとに関わらず、これが基本的なプロパガンダの目的である。この
二分された世論は、プロパガンダの効果を二つのうちのいずれか一方に変容する。まず、
組合員数が増える。プロパガンダは明確に組合員の数を増加に導く。しかし、ここに我々
はよく知られている大衆効果をみる。組合は大きくなればなるほど革命的でなくなり、活
動的でなくなり、闘争的でなくなる。大衆は自分たちの要望に重きを置き、その要望は明
確なものでなくなり、抜本的なものでなくなる。大規模な組合は平和的で官僚的になる。
168
その動きは自発的なものではなくなっていき、組合員と幹部の差が拡がる。これがプロパ
ガンダを通じて世論を変えることの最初の結果である。
第二の結果は、遅かれ早かれ、政府は組合の発展によって影響を受けるという事実に由
来する。政府は幾つかの方法でこうした労働活動を正当化し、法制化する傾向がある。こ
れもまたプロパガンダの効果である。しかし、政府が組合を法制化するとき、政府と組合
の間に関係性が生まれ、その関係性はさまざまな軋轢を生む。この法制化は組合を合法な
立場にし、組合に法律的な面で社会的な闘争をさせる。このとき問題になるのは、国家か
ら新しい法的譲歩を得ることである。しかし、それは組合の本来の目的からはかけ離れた
ものである。
このようにプロパガンダは組合を“持たない”組織というよりもむしろ、“持つ”組織
にし、組合に社会の構成員として振る舞わせ、社会的遊戯をさせる。これはまさに社会へ
の統合であり、結果として組合はもはや敵対しない。敵対は純粋に見せかけの虚構のもの
となる。組合が米国でそうであるように資本主義社会の一部になろうが、ソ連でそうであ
るように社会主義社会の一部になろうがそれは問題ではなく、結果は同じである。組合は
そこに適応しなければ、社会が公衆や聴衆、支持者に求める本質的な前提を受け入れなけ
れば、世論を得られない。ここに、我々は再び、私が既に分析したプロパガンダに由来す
る遵奉効果をみる。
教会への影響
教会員は明確にプロパガンダの網にかかり、他の人と同じように見事に反応する。結果
として、キリスト教と彼らの行動の間には、ほぼ完全な分離作用が起きる。キリスト教は
精神的で純粋に内面的なものであり続ける。しかし、彼らの行動はさまざまな従属物、特
にプロパガンダによって命じられる。もちろん、“理想”と“行動”の間にある種の隙間
が常に存在する。しかし今日、その隙間は全面的で、一般的で、意図的なものになってい
る。この隙間の拡がり、特にその系統的な拡がりは政治的或いは経済的領域におけるプロ
パガンダの産物であり、民間領域においては広告の産物である。
キリスト教徒はさまざまなプロパガンダに溢れているので、自分たちのすることが効果
的であり、同時にキリスト教の表出であるのか分からない。それゆえ、さまざまな動機と
しばしば良心の呵責によって、自分自身をプロパガンダが示した道に制約する。キリスト
教徒も政治的な現実を生きるためのさまざまなプロパガンダの眺めを観て、キリスト教を
虚偽の眺めに挿し込むような場は見ない。こうして、他と同じようにキリスト教徒は根こ
ぎをされ、この事実は彼らの信条からあらゆる重みを奪う。
同時に、心理学的効果のためにプロパガンダはキリスト教の布教をさらに困難なものに
する。プロパガンダが構築する心理学的構造は、キリスト教の信条に都合の良いものでは
ない。このことは社会的な面で適合する。プロパガンダのために、教会は以下の板挟みに
あう。
169
プロパガンダをしないか ―しかしそのとき、教会はゆっくりと慎重に人にキリスト教
を信じさせる一方、大衆メディアはすばやく大衆を動かすので、教会は歴史の片隅にあっ
て“歩調を合わせておらず”、物事を変える力がないという印象を与える。
或いはプロパガンダを行う ―この板挟みは間違いなく、現在教会が直面している最も
過酷な問題の一つである。プロパガンダに操作される人々は精神的な現実にますます鈍感
になり、キリスト教的生活の自主性にますます適合しなくなっている。
我々は甚大は宗教的変容を見ていて、それに伴い宗教的要素はその神話という手段を通
してプロパガンダによって少しずつ吸収され、その範疇の一つになりつつある。しかし、
教会が降参しプロパガンダという手段に打って出るとして、何が起きているのだろうかと
我々は自問する必要がある。
私は既にプロパガンダの総体的な性質を強調してきた。キリスト教徒は、しばしば物理
的な道具はプロパガンダの技法と切り離すことができると、つまりその体系を破壊するこ
とができると主張する。例えばキリスト教徒は、心理学的な原理や出版物やラジオが必要
とする技術を用いずにこうしたメディアを使うことができると考えている。或いは条件反
射や神話などに訴えることなくこうしたメディアを使うことができると考える。或いは配
慮や思慮分別をもってこうしたメディアを使うことができると考える。
こうした内気な精神に与えられ得る唯一の答えは、こうした制約が総体的な効果の欠如
につながるということだけである。もし、教会が効果を得るためにプロパガンダを用いよ
うとするなら、他と同じようにあらゆる資源をもって全体的な体系を使わなければならな
い。好きなものだけを使うことはできない。というのは、そうした区別は教会が最初に行
うプロパガンダのまさに効果を破壊してしまうからだ。プロパガンダは全体性のなかで受
け入れられるか拒否されるかという総体的な体系である。
もし、教会がこのことを受け入れたなら、二つの結果がついて来る。まず、こうした手
段によって広められたキリスト教は、キリスト教ではないということである。我々は既に
、イデオロギーに対するプロパガンダの影響を見てきた。実際、教会がプロパガンダを行
うようになるとすぐに起きることは、他のすべてのイデオロギーや世俗的な宗教の位相へ
とキリスト教の価値が下がることである。
このことは歴史を通じて起きていることだと分かる。教会が時代に合ったプロパガンダ
装置を通じて活動しようとしたとき、キリスト教の真実性や確実性は常に凋落してきた。
このことは、4 世紀、9 世紀、17 世紀に起きた(もちろん、これは結果としてキリスト教徒
が置き去りにされなかったということではない)。
こうしたときに(プロパガンダを通じて活動するとき)、キリスト教は圧倒的な力や精神
的な探究ではなくなり、すべての表現において機構化され、すべての活動において信頼を
失う。キリスト教は最も気楽なかたちで人々に伝えられ、悪ふざけにすらなることがある
。こうしたときには、おびただしい弛緩と脚色が現れ、キリスト教はその環境に適応して
、その本質を変えてしまう。
170
従って、イデオロギー以外の何物でもないものへと価値が下がったキリスト教は、プロ
パガンディストによってそういうものとして扱われる。そして、現代の世界においては、
我々は一般論としてイデオロギーという主題のおいて既に述べてきたことをこの特定のイ
デオロギーとの関連のなかで繰り返す。起きていることは、教会が大衆を動かすことがで
きるようになり、数千の人々をそのイデオロギーへと変えることである。しかし、このイ
デオロギーはもはやキリスト教ではない。キリスト教はいまだに(時々であって常にでは
ない)元来の本質の幾つかとキリスト教の語彙を持ってはいるものの、それはまったく違
う教義である。
もう一つの結果は教会自体に影響を与えることである。あらゆる他の組織がそうである
ように、教会はプロパガンダを用いて、成功することがある。大衆に働きかけ、集団的な
意見に影響を与え、社会学的動きにつながり、多数の人々に何がキリスト教であるかを受
け入れさせる。しかし、そうすることのなかで、教会は偽物の教会になる。教会はこの世
のなかの権力や影響力を手に入れる。そしてそのことによって、教会と世の中を統合して
いく。
教会はこのときから、社会学的な決定要因と、神に由来し神の方へと導かれる正反対の
感化との間の矛盾に自らをさらしたときから、その後はずっと純粋な社会学的組織であり
続ける。教会から精神的な部分がなくなる。というのは、教会は偽物のキリスト教だけを
伝播するからだ。教会はそのあり方の本質を社会学的決定よりも軽視する。世の中で権力
であるために効率という原則に従う。そして実際に成功する。教会はそうした権力となる
。そのとき、教会は真理よりも権力を選ぶ。
教会がプロパガンダを行うとき、常に二つの方法で教会自体を正当化する。まず、イエ
ス・キリストの御心の下、こうした効率的なメディアを用いるのだと主張する。しかし、
少し考えれば、これが意味のない言明であることが分かる。イエス・キリストの御心の下
にあるものは、イエス・キリストからその性質や影響を受ける。あらゆる影響力を持ち前
提条件や結果を含んでいるメディアは、イエス・キリストの御心の下では用いることがで
きない。メディアは自分たちの規則に従い、単純化した論理が多少の人を信じさせること
はあるだろうが、そのことは伝播する内容や神学的な論理によって少しも変わることはな
い。実際、キリストの御心においてメディアを用いるという教会の言明は、論理的で倫理
的な説明ではなく、中身のない宗教にかこつけた空虚な言葉でしかない。
教会はこうした伝播や権力の装置を信頼しない限りにおいて、その使用を控えるべき理
由がないなどと主張することによって、この罠から脱出しようとする者がいる。というの
は、神以外への信頼は咎められるということを聖書から知っているからだ。しかしここで
は、自問自答すれば十分である。もしある人が本当にこうした装置を信じておらず、確信
を持っていないとすると、なぜそのような装置を使うのだろうか。もし、ある人がそれを
用いるなら、その価値や効果を信じているということだ。それを否定することは偽善であ
る。もちろん、こうしたことに関連して、我々は現実のプロパガンダを考えようとしてい
171
るであり、大衆や事業を伝播するための印刷物やラジオの限定的な使用を考えているので
はない。
この信条分析の最後に、プロパガンダが影響を与える心理学的改造を通じて、プロパガ
ンダが大衆の意識に押し寄せるときに伴ってくるイデオロギー的難局を通じて、キリスト
教がイデオロギーの位相に陥落することを通じて、教会に投げかけられる終わりのない誘
惑を通じて、プロパガンダは世界の脱キリスト教の最も強力な要素の一つになると結論で
きる。これらはすべてキリスト教とは性質が異なる精神世界の創造である。さらに、ある
装置つまりプロパガンダの効果を通じた脱キリスト教化は、あらゆる反キリスト的教義を
通じたものよりも大きなものになる。
4.プロパガンダと民主主義
民主主義におけるプロパガンダの必要性
ある側面においては、現在の状況にあって“プロパガンダを行う”という必要性が民主
主義にあることは異論がない。政府のプロパガンダ以上に私的なプロパガンダが民主主義
にしっかりと連関しているということを理解する必要がある。歴史的に、民主主義体制が
確立したときから、プロパガンダはさまざまなかたちで民主主義体制とともに成立してい
る。民主主義が世論や政党間の競争に基づいているのだから、この関係性は不可避である
。権力を得るために、どの政党も有権者の支持を得ようとしてプロパガンダを行う。
民主主義の発展を通じて大衆の出現がプロパガンダの使用を引き起こすこと、それが民
主主義国擁護の議論の一つとなっていること、プロパガンダはプロパガンダによって動員
される人々に訴えかけること、プロパガンダが私的利害や反民主主義政党に対して自分の
立場を擁護することを思い出す必要がある。現代のプロパガンダは民主主義国家において
始まっているということは注視に値する驚くべきことである。第一次世界大戦の間、初め
て大衆メディアが組み合わせて使用され、政治的事象にパブリシティや広告の手法が応用
され、最も効果的な心理学的手法が調査された。しかし、その時代のドイツのプロパガン
ダはありふれたものであった。フランス、イギリス、米国の民主主義は、大きなプロパガ
ンダを立ち上げていた。同様に、レーニン主義者の動静は当初は間違いなく民主主義者で
あったが、あらゆるプロパガンダの手法を発展させ、完成させた。よく信じられているこ
ととは対照的に、権威主義体制はあらゆる限界を超えると結局この種の活動を用いること
になったが、最初からそれを行おうとはしなかった。
民主主義の原則、特に個人という概念とプロパガンダの過程の間に矛盾があることは明
白である。理性的な人という考え、理性に従って考え生きることができるという考え、自
分の情熱を制御して科学的な様式で生きるという考え、善悪を自由に選択できるという考
え、これらはすべて秘密の影響力や神話の活用、非理性的なものへの早急な訴え方、プロ
パガンダのこうした特質とは対立しているように思える。
172
しかし、この民主主義の枠組みの中での発展は、原則の位相からではなく、実際の状況
という位相から見ることではっきりと理解することができる。民主主義のなかでプロパガ
ンダは普通のことであり、不可欠なものであり、体制における本質でさえあり、複数のプ
ロパガンダが作動していると結論すると、外国との関係においてプロパガンダは義務的な
ものとはならない。ここでの状況はまったく異なる。民主主義国家は世論全体の伝達者で
あると、一貫性のある総体であるとみられたいと望む。そうした希望は真実や民主主義の
実際の姿と対応していないので、幾つか困難が生じる。もっと言えば、このことは特殊で
恒常的な戦争状態という意味を含む。しかし、恒常的な戦争が民主主義体制と同時に確立
することを示すのは簡単だが、こうした体制が平和への希求を表明し、系統的に戦争の準
備をしないことはもっと簡単に示すことができる。これまで、私は民主主義の経済的、社
会的条件がもしかすると一般的な紛争を引き起こし、しかし、その体制は組織的にこのよ
うな戦争とは結びついていないということを述べてきた。否応なしにこのような結論に至
る。そして、このことは冷戦にあまり当てはまらない。冷戦は本質的に心理学的である。
別の状況が民主主義を民主主義という手法の虜にする。民主主義のイデオロギーの幾つ
かの特徴が持続する。真実という圧倒的な力を持った説得力は、進歩という考え方と連関
していて、進歩というイデオロギーの一部である。真実は一時的には隠されるかもしれな
いが、最後に明らかになるという考え、真実はそれ自体爆発的な力を持っているという考
え、嘘に引導を渡し真実の出現に光を当てようという人の心の動きによって、民主主義は
育ってきた。この事実は民主主義の教義における暗黙の核心である。
さらに、この事実は歴史へと広がっていったので、それが歴史を作ることで終わったイ
デオロギーの種類の事実だったと強調する必要がある。この態度は、歴史は真実であると
いう現在のマルクス主義者の態度の根源を含んでいたが、同時にその正反対のものであっ
た(そして今でもそうである)。歴史を通じた証明は今日、証明のなかの証明であるとみな
されている。歴史が定めた側が正しかった。しかし、歴史を語るときに何が“正しいこと
”なのだろうか。勝つことや生き残ることであり、つまり最も強いことである。最も強く
効率的な者が真実を持つ者ということになる。真実は従ってそれ自体に中身はなく、ただ
歴史が作り出したように存在する。真実は歴史を通して現実を受け入れる。
二つの態度の関係性や、一方の態度からもう一方の態度にどうやって移ることができる
のかは、簡単に理解できる。もし真実が真実を通じて勝利を実現する無敵の力を持ってい
るなら、勝利が真実になるという単純だが危険な段階を経て真実は論理的になる。しかし
、恐るべきことにこの二つの態度の結果は、根本的に異なる。
真実は人を民主主義に導くので民主主義は勝利しなければならないと考え、民主主義体
制が反対の体制に直面するときに民主主義が勝利しなければならないと信じるとすれば、
民主主義の優越性はすぐに人類や歴史の間違いのない判断となる。従って、選択は疑う余
地がない。ある人が別のものを選び、歴史は決着がついていないことを民主主義者が知る
とき、民主主義者特にアングロサクソンの民主主義者は驚きを呈する。こうした場合に、
173
民主主義者は情報を用いることを決心する。“民主主義の現実が知られていなかったので
、人々は間違った判断をした”と彼らは述べ、そこにあっても真実の力に同様の確信を持
っている。しかし、真実は事実からは生まれない。我々はここに一般法則を打ち立てよう
とは間違っても思わないが、真実は歴史のある時点において、或いは真実という点に関し
て勝利することがあっても、真実が自動的に勝利するというような一般法則はないという
ことだけは言っておきたい。我々はここで一般化はできない。純朴な歴史が完全に姿を消
して消滅することはあり、ある場合には嘘が全能であることを歴史は示している。
真実が勝利するときでさえ、勝利は真実を通じて(それが真実であるがために)得られた
のだろうか。結局、ソポスレスが退場しなかったとしても、アンティゴネ―によって擁護
された永遠の真理はクレオンに屈したのだ。
しかし我々の時代にあって、民主主義への確信や、それを人々知らしめようという主張
は、プロパガンダは全く異なる機構で動作し、情報の機能とはまったく異なる機能をして
いるということや、昨今事実はプロパガンダによって確立していなければ人々の目には現
実性がないという事実に直面する。実際、プロパガンダはそれに従う人々のなかに真実の
信奉者に対するあらゆる信号や示唆を作るという意味で、プロパガンダは真実を作ると言
える。
現代人にとってプロパガンダは本当に真実を作っている。この意味は、真実はプロパガ
ンダなしには無力であるということである。そして、民主主義が直面する挑戦という視点
でいうと、民主主義が真実への確信を失い、自らをプロパガンダの手法と同化させること
が最も深刻である。現代の文明の傾向を踏まえ、民主主義国がそれをしなければ、この分
野において行われる戦争に敗れるだろう。
民主主義的プロパガンダ
プロパガンダの手段を用いる必要性を確信し、この問題を解こうとする者は以下の疑問
に直面することになる。全体主義国家は国内的には調和を作って、世論を操作し、政府の
決定に従わせるために対外的には冷戦を行い、敵とみなした国の世論を傷つけ、自発的な
被害者に変えるために限定的にプロパガンダを用いる。しかし、もしこうした装置が全体
主義国家によって主に用いられたなら、その構造がそうした装置を使用することになって
いない民主主義国が用いなかったなら、今の民主主義はそれを用いることができるのだろ
うか。つまり、権威主義国家は特殊な性質を持っていて、それは国家と不可分であるとい
うことである。民主主義国は別の性質を持たなければならないのだろうか。民主主義的プ
ロパガンダを行うことはできるのだろうか。
単純な内容の違いが性質の違いになるといった考えはすぐに捨ててしまうべきだ。“プ
ロパガンダが民主主義の概念を伝播するために用いられたなら、それは正しい。それが間
違っているなら、権威主義者の言うことだからだ”。こうした立場はひどく理想的で現代
の世界の基本的な条件を無視している。目的よりも手段が優先するということである。こ
174
れは熟考に値する問題ではあるが、民主主義自体が正しい“プロパガンダすべきもの”で
はないと言う人がいるかもしれない。実際、あらゆるプロパガンダは民主主義が失敗して
いると伝播することに努力している。事実、正しいプロパガンダすべきものを実現するた
めに、民主主主義の概念全体を修正する必要があったようだが、そのようなことは現在は
ない。
ついでながら、以下のような考えを述べておきたい。“民主主義がこの道具(プロパガ
ンダ) を用い始めたときから、プロパガンダは民主的になった”。この考えは簡潔に攻撃
的に発言されることはそれほどないが、多くの米国人著述家にみられる暗黙の見解である
。民主主義に触れることが許されない。それどころか、民主主義は触れたすべてのものに
その性質を与える。この偏見は米国の民主主義的神学や他の大衆民主主義によって、この
原則が暫定的に採用されることを理解するうえで重要である。
こうした立場はあまりに表面的で現実の状況からかけ離れているので、議論する必要が
ない。その上、こうした立場は通常報道関係者や時事解説者に由来していて、プロパガン
ダの問題や影響を真剣に研究してきた者に由来していない。しかしながら、後者の多数派
でさえ、民主主義的な性質を表したプロパガンダの制度は整えることはでき、民主主義の
働きを変えることはないとの確信は持ったままだ。これが、民主主義体制でプロパガンダ
を考えなければならないときの、二重の要求である。
第一の条件はプロパガンダの手段における(民主主義のなかの)独占がないことによって
、またさまざまなプロパガンダの自由な相互作用によって満たされると言われている。実
際、国家の独占や権威主義国家におけるプロパガンダの統合と比較すると、民主主義国に
おいて出版やラジオが実に多様であることが分かる。しかし、この事実はあまり強く強調
されるべきではない。国家的で法的な独占はないものの民間の独占が確実に存在する。多
くの出版社や新聞社がある国においてさえも、“新聞社の系列”の結果として集中が起こ
っていて、ニュース会社や配信の独占はよく知られているところである。ラジオや映画の
分野でも同じ状況が拡がっている。はっきり言って、誰もがプロパガンダ・メディアを所
有できるわけではない。米国において、多くのラジオや映画会社はかなり大規模である。
それ以外の会社は副次的で競争ができず、集中化がさらに進んでいる。どこにでもあるこ
の傾向は、あらゆるプロパガンダ・メディアを支配するごくごく限られた大変に強力な会
社という方向へと向かっている。こうした会社は私的であり続けるのだろうか。いずれに
しても我々がこれまで見てきたように、米国はニュースを伝播するという局面においては
プロパガンダを行わなければならない。
情報が民主主義に不可欠な要素だと仮定するなら、国家によって伝播された情報は信頼
に足るものでなければならない。信頼なしには、情報は用を為さない。しかし、強力な私
的プロパガンダ組織が事実を否定するとき、或いは情報を偽るとき、何が起きるのだろう
か。真実がどこにあるのか、誰が教えてくれるのだろうか。議論を判断するために市民は
誰を頼りにすればよいのか。それは対話が本当に起きる位相である。そのとき問題は、国
175
家が自分たちと異なったプロパガンダを行っている自分たちのメディアと同等か優位なメ
ディアを支配している民間企業を支持するかどうかである。国家がこうした企業を弾圧す
ることや接収することは完全に合法ではある。
“表現の自由こそ民主主義であり、プロパガンダを阻むことは民主主義の侵害である”
という人もいるだろう。個人や小規模集団の考えを取り上げず、資本家の利害や公衆全体
の考えを伝える一つか二つの強力な企業の表現の自由は、一世紀前に言われていた表現の
自由とは正確に符合してはないことは確かに覚えておく必要がある。プロパガンダの科学
はこうした道具の初心者では対応できない衝撃の効果を与えるものであり、限られた聴衆
に演説を行う者の表現の自由は、その国のすべてのラジオを自由にし、聴衆とする者の表
現の自由とは違うということも覚えておく必要がある。
私はこのことに関連して、リヴェロの優れた研究について触れたいと思う。リヴェロは
この点において、19 世紀と 20 世紀の大きな違いを証明した。
19 世紀、思想の表現を通じた意見形成の問題は、本質的に国家と個人の間の接触の問
題であり、自由獲得の問題だった。しかし今日、大衆メディアのおかげで、個人はこの
格闘の場外に置かれ・・・この議論は国家と強力な集団の問題となった・・・考えを表
現する自由はもはやこの議論で問題になっていない・・・我々が持っているのは、意見
形成の技術的なメディアの総体を通じた国家や幾つかの強力な集団による支配や占有で
ある・・・個人はそれらに触れることができない・・・個人は考えの自由な表現を巡る
戦いにもはや参加していない。個人は杭である。個人にとって問題となるのは、どちら
の声を聴くことが許されるのか、どちらの言葉が彼を支配する力を持つかということで
ある・・・
この申し分ない分析の光のなかにあるのは、民主主義において表現の自由とは何を意味
するのかを自分自身に問う必要があるということである。
しかし、国家がプロパガンダのあらゆる装置を持ったとしても(そしてこのことは政治
的、経済的、資金的な理由で次第に可能性が高まっている。特にテレビに関して)民主主義
を特徴づけるものは、民主主義がさまざまなプロパガンダの表現を認めるということであ
る。これは真理である。しかし、あらゆる意見の表明を認めることは不可能である。非道
徳的で、常軌を逸した意見は当然なこととして検閲に従わなければならない。純粋に個人
的な意見や、政治的な傾向は当然排除されるべきである。“自由の敵は不自由”がこのと
き合い言葉になる。従って、民主主義は、制限と程度の問題を作ることになる。このとき
誰が特定のプロパガンダ装置を排除するのか。国粋主義者にとって共産主義者は真実の敵
である。共産主義者にとって自由の敵とはブルジョア階級であり、国粋主義者であり、国
際主義者のことである。それでは民主主義にとっての敵とは誰なのか。明確だが、民主主
義のあらゆる敵である。
176
問題はさらに深刻である。戦時においては、誰もがニュースは制限され制御されなけれ
ばならず、国家の利益にならないすべてのプロパガンダは禁止されなければならないこと
には誰もが賛同する。このことにより統合されたプロパガンダは大きなものになる。今起
きている問題は、こういうことである。我々は冷戦について話している。しかし、冷戦は
もはや例外的な状態にはなく、武力による本格的な戦争と近い状態(一時的な)になく、恒
常的でありかつ特有な状態になりつつあることを民主主義はまだ分かっていないらしい。
これには多くの理由があるが、プロパガンダという理由だけを挙げておくことにしよう
。
自国の国境の外側nに向けたプロパガンダは戦争兵器である。このことはそれを行う者
の意思や教義によるのではない。その媒介自体の結果である。プロパガンダは心理学的影
響を与える能力を持っていて、人のまさに核心に証言を与えるので、政府によって用いら
れ対外的に行われるときは必ず軍事的な力を持つ。プロパガンダの“単純な”使用などな
い。プロパガンダの紛争が武装した紛争よりも深刻ではないなどということはめったにな
い。それゆえ、冷戦において武力による本格的な戦争の場合と同様の態度が存在するのは
必然である。プロパガンダを統合する必要性を感じる者が現れる。ここに民主主義は悪循
環にはまってしまい、そこから抜け出すことはできそうにない。
民主主義的プロパガンダのもう一つの大事な側面は、それが特定の価値に従うというこ
とである。価値に従うことは解放でなく、拘束である。それは情熱ではなく、理性の手段
である。それゆえ、民主主義的プロパガンダは本質的に真実でなければならない。真実だ
けを語り、事実だけに基づいていなければならない。このことは米国のプロパガンダにお
いて観ることができる。米国の情報とプロパガンダが真実であることは否定しがたい。し
かし、それは民主主義の性質ではない。米国人が自分たちの態度を説明する決まり文句は
、“真実は割りに合う”である。つまり、真実に基づくプロパガンダは最も効率的だとい
うことである。その上で、ヒトラーの有名な嘘についての発言はプロパガンダの典型的な
特徴ではない。ここに紛れもない進化がある。嘘や虚偽はすっかり使われなくなっている
ということだ。我々はすでこう述べてきた。正確な事実を用いることは次第に当たり前に
なっている。
対照的に、微妙な意味合いを用いることやある種の柔軟さは民主主義特有の態度を明ら
かにする。底辺には人類への尊厳があり、おそらくそれは無意識のものであり、着実に弱
くなっているもののまだそこにあって、民主主義者のなかで最も策謀家の者でさえ自分の
聴衆の良心を尊重し、憎しみや蔑みをもって聴衆を扱ったりはしない。個人を尊重する伝
統はまだ消え去っておらず、このことがあらゆる種類の結果を導く。まず、この伝統はプ
ロパガンダを制限する。民主主義国は例えば伝統的には戦争後において状況に駆り立てら
れた場合のみ、プロパガンダを用いる。しかし、民間や国内のプロパガンダは効果を持ち
続けるものの、政府や対外的なプロパガンダは簡単に蒸発してしまう。その上、こうした
プロパガンダは全面的でなく、人間の生活全体を包もうとせず、すべての行動の形式を支
177
配しようとせず、究極的には人に張り付いてしまおうなどとは思わない。民主主義的プロ
パガンダの第三の特徴は、それが硬貨の両面を見ているということである。民主主義的な
態度はしばしば大学の態度と近い。本当の真実はなく、反対者にも幾らかの正しい信念、
正義、良識があると認められている。それは微妙な意味合いの問題なのである。戦時を除
けば、一方が正しくもう一方が間違っているとするような厳格な慣習はない。
最後に、民主主義的プロパガンディストや民主主主義国家はプロパガンダを用いること
について、しばしばやましい気持ちを持つ。いにしえの民主主義の良心が邪魔をして、民
主主義的プロパガンディストの重荷になり、自分が非正統的な何かに関わっているという
おぼろげな感覚を持つ。従って、民主主義の下で自分の任務に没頭するプロパガンディス
トは信じることが必要になる。すなわち、民主主義的プロパガンディストはプロパガンダ
を行うときに自分自身の確信を系統立てて整理する必要がある。
ラスウェルは民主主義的プロパガンダと権威主義的プロパガンダのもう一つの違いとし
て、プロパガンダの技法と関連づけて“鮮明な刺激”と“積極的な刺激”の違いを見極め
ながら取り上げている。前者は、権力の座にある人が加わらない大衆のなかで影響力を作
り出すために実験者や権力者によって放たれた刺激で構成される。ラスウェルによれば、
これは専制政治がよく用いる手法だという。逆に積極的な刺激は、差し出された兄弟同然
の手に象徴され、権力から湧き出る刺激であり、そのなかで権力者は大衆を参加させよう
とする。これは共同の活動である。この分析は大まかに言って的確である。
これらはすべて民主主義がプロパガンダと対峙する状況を表していて、民主主義的プロ
パガンダと権威主義的プロパガンダの手法の違いを示している。しかし、私はいまこうし
た活動(民主主義的プロパガンダ)について重大な判断を下したいと思う。私が詳述してき
たことすべては結局のところ効果のないプロパガンダになる。まさにプロパガンディスト
は個人を尊重し続ける限りにおいて、あらゆるプロパガンダの究極的な目的である浸透、
考えさせることなく行動させるということを自制することになる。微妙な意味合いを尊重
することで、プロパガンディストは重要なプロパガンダの原則を無視することになる。す
べての断言は鋭く、全体的でなければならないという原則である。プロパガンディストは
公平である限り、神秘的な雰囲気を扱うはずがない。しかし、この神秘的な雰囲気はしっ
かりとしたプロパガンダには不可欠である。民主主義的プロパガンディストがやましい気
持ちを持つ限り、良い仕事はできないし、自分のプロパガンダを信じていても良い仕事は
できない。ラスウェルの示した違いに関して言えば、プロパガンダの技法は状況に応じて
複数のかたちが必要になる。いずれにしても、プロパガンダは常に政府と大衆の間の分離
を作り出し、それは私が技術社会という本で詳述した分離と同じものである。それはあら
ゆる技法によって引き起こされ、その実務家はある種一流の技術者によって構成され、国
家の構造を修正するのである。
ラスウェルの分析によると、鮮明な刺激に基づくプロパガンダは専制政治を表している
。私はむしろ、それは貴族政治を表していると言いたい。しかし、有名な“巨大な民主主
178
義”はこれに符合していて、或いはそのものである。究極的には政府と国民の間の信頼や
親交を保とうとしても、あらゆるプロパガンダは最終的に大衆を操作する力を広めるため
の手段でしかない。
真のプロパガンディストは外科医のように冷静で明晰で厳格でなければならない。主体
と客体がある。自分が言っていることを信じ、自分自身を自分の遊戯の被害者にしてしま
うプロパガンディストは、愛する人の手術をする外科医や自分の家族の裁判の責任者とな
った裁判官と同様の弱さを持つ。今日プロパガンダの道具を用いるためには、科学的手法
を用いなければならない。科学的手法を用いなかったがために、ナチのプロパガンダの最
後の数年は無力を露呈した。1943 年以降、ゲッベルスはこの観点からそのことを信じ始め
ていたことが明確に分かっている。
従って、民主主義の基本的な側面のある部分は、プロパガンダの実行を無力にする。つ
まり、“民主主義的な”プロパガンダなどない。民主主義が作るプロパガンダは効果がな
く、無力で取るに足らないものである。プロパガンダの多様性はある場面でも同じことが
言える。さまざまなプロパガンダが表現されることが許されるとき、当座の目標という点
で効果はなくなる。この民主主義の市民における無効性はさらなる分析を必要とする。我
々はここではただ、我々のプロパガンダが権威主義国家のプロパガンダに凌駕されている
ことだけを強調しておく。我々のプロパガンダはその仕事ができていないということであ
る。しかし、我々が直面している困難を見れば、我々のプロパガンダが有効であるべきこ
とは必定である。それゆえ、民主主義の特質であるプロパガンダを無効にしてしまう特徴
は放棄しなければならない。効果的なプロパガンダと個人の尊重という組み合わせは不可
能である。
最後の点については、簡潔に言及するつもりだ。ジャック・ドリアンコートはプロパガ
ンダはその本質において権威主義であることを証明している。プロパガンダは権威主義国
家の隷従的地位にあるからではなく、プロパガンダがすべてを吸収してしまう性質を持っ
ているというのがその理由だ。この発見は彼の業績の最も優れた点である。ある道を選ん
だなら、途中で立ち止まることはできないということだ。プロパガンダを有効にするあら
ゆる道具と方法を用いなければならない。過去 12 年に渡る進展が示していることだが、民
主主義は注意深さ、微妙な意味合いを捨て去り、心の底からプロパガンダ活動に身を投じ
ることになるだろう。しかし、こうした活動はもはや民主主義の特別な性質を保持しては
いないだろう。
我々はいま、プロパガンダの創造が民主主義に与える影響を検証しなければならない。
それを測るために、我々は対外的プロパガンダと国内プロパガンダの違いを明確にしなけ
ればならない。プロパガンダは影響を受けずに用いることができる単なる中立的な装置で
あるといった幻想を我々は持ち続けるべきではない。ラジウムと同じである。放射線学者
に何が起きるかはよく知られていることである。
179
国際プロパガンダの影響
外国の政治と対外に向けられたプロパガンダの領域では、実質的に民間のプロパガンダ
やプロパガンダの多様性はない。外国政府の傀儡で、それゆえに自国政府とは異なるプロ
パガンダを行っている政党でさえ、そのプロパガンダの方向は彼らの国内である。しかし
、この独特の形式のプロパガンダ(対外に向けた)はどういった性質があるのだろうか、ま
たその施行はプロパガンダにどういった反響を与えるのだろうか。それが情報の領域に本
当に存在し得るのだろうか。
我々は今日、外国に向けた直線的な情報はまったく無用であるとの論証は棄却している
。国家的な反感(友好的な国家間においてさえ存在する)、異なる政府や異なる真理的、歴
史的世界、最終的には敵対するプロパガンダへの忠義の克服が問題となっている場では、
直線的な情報から何かを期待しても実りはない。明らかな事実(真実)はこうした防壁に対
して何も実現しない。事実は信じられていない。例外的な場合を除けば(軍事的占領など)
、自国政府が他国政府に勝っていると人々は信じている。他国政府の事実は信じられてい
ない。事実、プロパガンダは神話を通じてのみ、他国の大衆の意識に浸透していくことが
できる。賛成・反対という単純な議論ではプロパガンダは動かない。既存の感情には接触
せず、動機の力として働く象徴を作り出さなければならない。この象徴は感情的な性質を
持っていて、思考なしに総体的な忠義へとつながる。というわけで、プロパガンダは神話
でなければならない。
しかし、そのとき民主主義は観察すべき経過を辿る。まず、民主主義は人を意識的で理
性的なものから、非理性的な兵や“はっきりとしない軍隊”に変える遊戯を楽しむように
なる。しかし、この遊戯では信者は勝者でなく、こうして解き放たれた力は再び制御され
ることはめったにないことを我々は既に知っている。別の言い方をすると、神話的な民主
主義的プロパガンダは決して民主主義のための聴衆を作らず、その方向とはまったく異な
る方向へと導く権威主義者的傾向を強める。我々はこのことに立ち戻らなければならない
だろう。しかし、とりわけ我々は民主主義が用いる神話とはどのようなものなのか、自問
しなければならない。我々は経験から、民主主義が平和や自由、正義などの神話を用いて
きたことが分かる。
こうした言葉が神話的な民主主義によって用いられているという事実は、誰もがこうし
た言葉を使っているために、なおのこと受け入れがたい。しかし、プロパガンダによって
用いられる神話は、具体的でなければならない。地と土(訳注:民族主義的なイデオロギ
ーの一つで、文化的な継承を意味する民族の「血」と、祖国を意味する「土」の 2 つの要
素に焦点を当てる)の神話には注目すべきである。どういった具体的な神話が民主主義に
残されているのだろうか。どのようなお題目であっても、幸福や選挙権、民主主義といっ
た神話の内容を形成することはできない。
人が思っていることとは裏腹に、民主主義という神話は少しも使い古されておらず、正
しいプロパガンダの素地を提供し続けている。共産主義でかつ権威主義の体制がプロパガ
180
ンダの跳躍台として民主主義を選んでいるという事実は、民主主義のプロパガンダ的価値
を証明している。さらに、民主主義が神話として表現され、構築され、整えられている限
りにおいて、民主主義は正しいプロパガンダのお題目となる。プロパガンダは信条に訴え
かける。プロパガンダは失楽園への衝動を作り出し、人々の基礎的な怯えを活用する。こ
の観点からのみ、民主主義的プロパガンダは、非民主主義的な外国政府に入っていく可能
性が出てくる。しかしこのとき、その結果については考慮する必要がある。
最初の結果は、民主主義を神話に変容する作業が、民主主義の理想を変容するというこ
とである。民主主義は神話であるための手段ではなかった。この問題はフランスでは 1791
年に早くも噴出した。そしてそのすぐ後にジャコビニズムがフランス民主主義から作った
ものが何であるかを我々は知っている。我々はこのことを理解しなければならない。ジャ
コビニズムがこの国を救った。ジャコビニズムは共和制を守ろうと主張したが、それが民
主主義的なあらゆるものを破壊することでジャコバン体制を守っただけだったことは明ら
かである。我々は 1793 年から 1795 年にかけての民主主義の廃止に与えた神話の影響力に
ついて、ここでは細かな分析までできない。ただ、民主主義は信念や信条といった目的で
はあり得ないということだけは言っておきたい。民主主義は意見の表出である。意見に基
づく体制と、信条に基づく体制には基本的な違いがある。
民主主義という神話を作ることは、民主主義に反対を表明することである。古代の神話
の活用と新しい神話の創造は、物質的な進歩にもかかわらず、原始的な精神への後退であ
ることをはっきりと理解しなければならない。神秘的な感情の喚起は民主主義的な感情の
否定である。クー・クラックス・クラン(訳注:米国の秘密結社で白人至上主義の団体)、
米国在郷軍人会、ファーザー・ディヴァイン(訳注:人種差別撤廃などを唱えた新興宗教
の教祖)といったさまざまな神話によって、米国では甚大な問題が生じている。これらは
反民主主義ではあるが、地域が限られ部分的で私的なものである。神話が公的で一般化さ
れ公的なものになるとき、反神秘的であるものが神秘的になるとき、この問題は非常に深
刻になる。
もちろん、こうした民主主義的プロパガンダが対外的な活用のために作られることを我
々は述べてきた。権威主義的プロパガンダに既に従っていて、行動や精神を変えることが
できない人々でさえ、神話によって接触することができる。プロパガンダは単に既にある
型に入って、そこで新しい信条を作り出す。しかし、このように物事を見ることは二つの
意味を含んでいる。
第一に、我々はこうした対外的な民主主義的プロパガンダが兵器であり、我々は心理戦
に関わっていて、一連の敵の思想に自分を適応させ、さらに進んで我々が自分たちのプロ
パガンダに従わせる人々は、我々が民主的になって欲しいと思う人々ではなく、我々が打
ち負かしたい人々であるということを受け入れなければならない。もし我々が実際に神話
の力を借りてこうした国に働きかけるなら、我々はそれが反民主主義的な精神のなかに、
反民主主義的な行動のなかに、反民主主義的な生活概念のなかにあることを確認する。我
181
々は民主主義国家になるために神話を用いない。というのは、一方において自分たちの権
威主義的政府の手法を強化し維持しながら、他方でこうした手段を通じて人々に別なかた
ちで別の何かを支持するような願望を与えることはできないからだ。我々は異なるものや
異なる政府のかたちを同じように受容するよう求めている。これにより人々に忠義を変更
させることは可能だろうか。これはドイツや日本における民主主義的プロパガンダの問題
である。
第二に、こうした手法は我々が民主主義を抽象概念として考えていることを意味する。
というのは、もし我々がプロパガンダの型にはめて異なる考えを投げかけることは、プロ
パガンダの本質を変えることと同義であると考えるなら、我々は民主主義の理論なり概念
なりをただ作り出しているだけに過ぎない。内容が何であれ、プロパガンダは特定の真理
や定めされた行動を作り出す傾向がある。表面的には異なっているかもしれないが、それ
らは幻想である。例えば主題が国家であるファシストのプロパガンダと主題が民族である
ナチのプロパガンダは内容の違いから互いに大きく異なっていると述べることは、非現実
的で学術的な差異の犠牲になることである。非民主主義的な行動につながる手段によって
“民主主義の概念”が伝播されるとき、それは権威主義的な人間を型で固めてしまう。
このことは、プロパガンダの主題として民主主義の虚飾と民主主義の神話が非常に脆弱
であることを考慮していない。これは実際、その目的がそれ自体の形を調整するというプ
ロパガンダの本質的な法則の一つである。現代の世界における実に多くの領域で、手段が
それ自体の規則を課している。別の言い方をすれば、プロパガンダ自体が全体主義者であ
るため、プロパガンダの対象は全体主義者になる。これこそまさに私が民主主義を神話に
変える必要性を論じたときに述べたことである。
従って、こうしたプロパガンダは戦争の兵器としては効果的であり得るが、それを用い
ることで本物の民主主義を構築する可能性を破壊してしまうこと承知しておかなければな
らない。
私は、こうしたプロパガンダは対外的な用途であり、神話は対外的なものであると述べ
てきた。しかし、こうした制限を課すことができるかどうかは定かではない。政府が民主
主義の象徴をこういうかたちで構築するとき、対外的な領域と国内の領域を切り分けるこ
とはできない。それゆえ、こうしたプロパガンダを行う国の人々もまた、この象徴が優れ
ていることを確信する必要がある。こうした人々はただ象徴を知っていればよいのではな
く、それに従く必要がある。このことは付随的にプロパガンダが使うことができる虚偽の
程度を制限するものである。権威主義の政府は行うことができるような根本的に不正確で
偽りの政治に関する印象を、民主主義の政府は対外的に発信することはできない。
しかし、二つの角度からこの考えは検証する必要がある。一つは民主主義国家は多かれ
少なかれプロパガンダの手のなかにあり、国家の威信のために理想的な政府像とともに突
き進んでいる。他方で、これまでに言及したように、権威主義の政府でもプロパガンダに
182
おいては真実が割に合うということを知っている。このことは 1944 年にゲッベルスが採用
した最終的なプロパガンダのかたちを説明するものである。
この後、対外的な使用のために作り出された神話は国内でも知られるようになり、反響
が起きる。プロパガンダを海外で行うことによって人に影響を与えようとしない場合でさ
え、国内は間接的に反応する。そのため、対外的使用のために政府によって作られた神話
の民主主義的な人々への影響を分析しなければならない。こうした反響は、基本的に全員
一致の確立へとつながる。
これは基本的でかつとても単純な結果となる。神話(信条を引き起こす象徴)は希薄化や
弥縫策、矛盾を認めない。ある者はそれを信じるし、別の者は信じないだろう。民主主義
の神話も同じで、鋭利で一貫性のあるかたちを示す。他の神話も同じ性質を持っている。
神話を外国で有効なものにするには、神話が国内で矛盾していてはいけない。対外プロパ
ガンダの標的に接触しその神話を破壊する国の内側では、いかなる声も上がってはならな
い。
例えば、国内ですぐさま矛盾に直面するのに、アルジェリアに向けたプロパガンダを有
効にすることが可能だなどと誰が信じるだろうか。フランスの名において行ったド・ゴー
ル将軍の約束についての報道がすぐさまフランスの一部はこれに反対であると報じたなら
、アルジェリア人や他の外国人たちはどれほど真剣に受け取るだろう。
このことは、政府によって具現化した民主主義の背後で、人々が全員一致でないことを
示す反対派を抹殺することへとつながる。こうした反対派は民主主義的プロパガンダのあ
らゆる有効性を完全に破壊してしまう可能性がある。その上、こうしたプロパガンダは多
数派によって支持された政府によって行われる。少数派は民主的ではあるものの、ただそ
れが政府から来ているというだけで、こうしたプロパガンダに反対する傾向がある(我々
は 1945 年以降のフランスでこれを見た)。その後、民主主義の理想との調和にも関わらず
、この少数派は民主主義的な神話に対して敵対するようになる。このとき、政府はプロパ
ガンダを効果的なものにしたいのなら、少数派の表現機会を減らさざるを得ない。つまり
、民主主義の本質的な特質の一つを妨害するということである。我々は既にそれを戦時下
に検閲によって経験してきた。ここに我々は上述した事実に直面する。プロパガンダはそ
れ自体戦争状態であり、反対勢力や少数派の排除を求め、それはおそらく総体的で公式な
排除だろうが、少なくとも部分的で間接的な排除となる。
もし、我々が一連の思考を追い求めるなら、新たな要素が出現する。神話は現実的な重
みを持つためには、大衆的な信条に基づいていなければならない。言い換えると、現代的
な強力な物理的手段をもってしても対外的に神話を届けることは簡単ではない。こうした
象徴は、それが信じられていなければ力を持たない。信条は伝染性があるので、神話も伝
染性がある。それゆえ、民主的な人々が民主主義の神話を信じていることは不可欠である
。逆に、政府が真似をすることは意味がないが、政府は海外におけるプロパガンダが国内
のプロパガンダと同じであると確信している必要があり、外国でのプロパガンダは国内で
183
信じられている場合のみ力を持つと理解している必要がある。(米国は 1942 年から 1945 年
にかけて完全にこれを理解していた。) さらに、神話は国全体の信条を表出するほど効果
的となる。このようにして全員一致が想定される。
我々はいかにあらゆるプロパガンダが個性の信仰を発展させるかを見てきた。これは民
主主義において特に当てはまる。そこでは個人が賞賛され、個人は匿名であることを拒み
、“大衆”を否定して機械化を避ける。個人は人々が人間である人間的体制を求める。個
人は指導者が人間である政府を求める。そして、プロパガンダはそういうものを人々に見
せなければならない。プロパガンダはそうした個性を作らなければならない。確かに、こ
の位相における目的は盲目的崇拝ではないが、プロパガンダがうまくいっているなら、盲
目的崇拝が後から起こらないはずがない。こうした盲目的崇拝が装飾まみれの制服を着た
者か、仕事着と作業帽をまとった者か、ビジネススーツと中折帽を着ている者か、誰に与
えられるかに違いはない。それは大衆の感情に対するプロパガンダの簡単な書き換えであ
る。民主主義的な大衆は制服を拒むが、うまく伝えられたなら中折帽に心酔する。個性や
政治的主導者なくしてプロパガンダはあり得ない。クレマンソー、ダラディエ、ド・ゴー
ル、チャーチル、ルーズベルト、マッカーサーが顕著な例である。加えてフルシチョフは
個性の崇拝を弾劾した後に、別なかたちではあるが同じ容易さで同じ必要性に従って、同
じ役割へと滑り込んだ。国家の全員一致は必要である。この全員一致は個性のなかで体現
され、誰もがその中に自分自身を見出し、誰もがそのなかで願い、自分自身を投影し、す
べてがそのために可能であり許される。
全員一致の必要性は民主主義におけるプロパガンダの問題を研究する者たちの一部によ
って受け入れられている。この全員一致は古い民主主義のかたちから新しい民主主義のか
たちへの移行を示していると言われている。“巨大で進歩的な民主主義”であると。言い
換えれば、忠義の民主主義であり、その体制では万人が同じ信念を共有している。これは
地方分権的な信念ではない。つまり、さまざまなかたちで自らを表現し、極限の分岐の可
能性を容認するものとは違う。それは求心性の信念で、すべてが同じ尺度で測られる。民
主主義がただ一つの声で表される。形式を超えて儀式や礼拝式につながっていく。一方、
それは参加の民主主義であり、市民が完全に参加し、市民の全生活や活動が所与の社会体
制に統合される。ニュルンベルグ党大会という事例もある。なんという奇怪な民主主義の
例であろうか。
こうした全員一致の単一社会のみが国境を越えて効果的に機能するプロパガンダを作る
ことができる。しかし、我々はこうした社会が変わらず民主的であるのかどうか自問する
必要がある。少数派や反対派を包括していないこの民主主義は何なのだろうか。民主主義
が単純な政党間の相互作用である限り、反対派は存在し得る。しかし、我々が国家の促し
で人々が参加する壮大な儀式を伴う大規模民主主義と聞けば、それはまず政府と国家の間
の混乱を意味し、さらには参加しない者が単に反対者ではないことを意味している。参加
を表明しながら、国家的共同体からは自分を締め出している。それはまさに民主主義の異
184
常な変容である。なぜなら、そこには国家に反対する少数派への尊重がもはやないからだ
。プロパガンダの手段がない、少なくとも国家のプロパガンダによって完遂できるいかな
る手段を持たない反対派はもはや聞く耳を持たれない。
プロパガンダによって膨れ上がった神話の効果は常に同一で常に反民主主義であるので
、少数派はほとんど聞く耳を持たれない。こうした社会政治的主体に参加し、神話の真実
を吹き込まれた者は、必然的に派閥的な人になる。何度も繰り返されて、実に多くのかた
ちでプロパガンダ受容者の潜在意識に入り込んだ真実はプロパガンダによって伝達され、
すべての参加者にとって完全な真実となり、それは虚偽や曲解なしには議論ができないも
のである。民主的な人々は、あいまいに“精神病”と呼ばれるものから免れることができ
ない。こうしたプロパガンダが効果的であるとき、人々はこうした精神病やその原因にか
かりやすくなる。
もし人々が神話を信じないなら、神話は全体主義的プロパガンダと戦うことなどできな
い。しかし、人々が神話を信じるなら、彼らは神話の被害者となり、神話は表面上民主主
義的であっても、神話としてのあらゆる特徴を持っていて信者や尋ねられる人の目には特
に不可能性という特徴を持っているように見える。しかし、このことはあらゆる反駁する
ような真実を消却する傾向があり、そうした真実は即座に“誤り”とされる。民主主義が
プロパガンダの目的になるとすぐに、民主主義は全体主義的で権威主義的になり、独裁の
ように排他的になる。
神話を支持する人々の熱狂と賞賛は、必ず妥協しないことやセクト主義につながる。例
えば、会議の間に民主主義の神話が起きる。そこでは壮大な儀式と全員一致への努力を伴
う大規模な民主主義のかたちというものを我々は持っていた。しかし、これはなおもって
民主主義と呼べるものなのだろうか。すべてのものが厳格でない反米国的なものとされる
とき、米国の習俗における変化はないのだろうか。反米国的という言葉はフランス人には
大変不正確ではあるが、米国においてはそれが神話における信条の結果である限り正確で
ある。こうした信条を引き起こし、こうした賞賛への道のりを人に歩かせることは、それ
なしではプロパガンダは存在できないものの、民主主義の生活とは矛盾する感情や反射を
人々に与えることを意味する。
これは実に究極的な問題である。民主主義は単なる政治組織の一つの形式でもイデオロ
ギーでもない。まずそれは生活の一つの視点であり、行動の一つの形式である。もし、民
主主義がただの政治組織の一つの形式にすぎないのなら、問題はないのだ。プロパガンダ
がそれに対応できる。これは機構的な議論である。プロパガンダによって集権化した単一
国家はないので、プロパガンダは民主的である。もし我々が単なるイデオロギー的な存在
ならば、問題はないのだ。プロパガンダはどんなイデオロギーも伝達でき(上に定めた制
限に従う)、それゆえ例えば民主主義的なイデオロギーも伝えることができる。しかし、
もし民主主義が生活様式であり、寛容や尊重、程度、選択、多様性などで構成されている
なら、行動や感情に作用し、それらを深層において変容するプロパガンダは人を、民主主
185
義を支持しない人物へと変える。なぜなら、人はもはや民主的な行動を理解しないからだ
。
プロパガンダは神話の伝播で民主的な行動を“作り出す”ことができない。神話は対外
的にプロパガンダを行う唯一の方法であるが、国内の人々の行動を変えるものでもある。
我々は国内プロパガンダの効果を検証するにあたって、同じ問題に直面する。
国内プロパガンダの効果
私はプロパガンダが民主主義の国内生活でも必要となっていることを示そうとしてきた
。近年、国家は公式の真相を明らかにすることを余儀なくされている。これは極めて深刻
な変化である。国家が活動や威信を理由にこうしたことをする気がないときでさえ、情報
拡散の機能を満たすときに国家はそれを行うことになる。
情報の拡大がプロパガンダの必要性にいかに必然的につながるかを我々は知っている。
民主主義体制は他の体制にも増して、そのことが当てはまる。
ニュースが包括的な体系のなかで作られるか、知性にだけ訴えかけるのでははく“心”
に訴えかけるなら、人々はそれを受け入れる。これはまさに人々がプロパガンダを欲して
いるということであり、もし国家がすべてのものについて説明をしようとする(例えば真
相について)政党にプロパガンダをさせないなら、政党は自分たちでプロパガンダを行う
しかない。従って、民主主義国家は、望んでいなかったとしても情報を提供する必要性か
らプロパガンディスト国家になる。このことは根深い構造的でイデオロギー的な変容を伴
う。実際、公式で一般的で明らかになっている真相を公表しなければならないのは国家で
ある。国家はそのときもはや客観的でも自由主義的でもあり得ないが、過度に物事を知っ
ている人々に知の全集を与えることを余儀なくされる。この機能を担う国家はもはや過ち
を犯せないので、競争は認めることはできない。もし認めれば、国家は市民の笑い種にな
り、その情報はプロパガンダとともに効果を失うだろう。国家が流す情報はプロパガンダ
が信じられているときに限り信じられる。
国家が公表した真相はすべてを包括していなければならず、情報の主題である事実はま
すます複雑になり、生活の大部分に関わるようになる。事実が整えている体系は生活全体
に関わらなければならない。この体系は市民の意識のなかで起きるあらゆる疑問に対する
完全な答えでなければならない。それゆえ、その体系は一般的で全般に有効でなければな
らず、少数派の知性にも訴えかけるため、哲学や形而上学の体系ではあり得ない。この体
系を詳述するためには、我々は古代の原始的な概念である動物行動学的神話に立ち戻らな
くてはならない。実際、民主主義国家における情報の主体に相当し、市民の問題を緩和す
る目的のプロパガンダは動物行動学的神話を市民に示す必要がある。
もし、市民が一日に 3、4 時間働くだけでよく、個人的な思索や文化的追求に毎日 4 時間
費やすことができたなら、もしすべての市民が同じ文化的水準にあったなら、もし社会が
均衡していて明日の危機の影がなかったなら、もし市民の道徳教育が人々の情熱や自己中
186
心癖を制御することができたなら、このようなことは必要ないだろう。しかし、この四つ
の条件は満たされず、情報の総量は急速に拡大しているので、ここで我々は今、説明を求
めざるを得ず、大衆の要望に応えてその説明を公然と押し並べることを余儀なくされる。
しかし、原因関係学の神話の創造は、民主主義の一部における義務が宗教的であること
へと導く。このことはもはや世俗的ではあり得ず、その宗教を作るはずである。その上、
宗教の創造は、効果的なプロパガンダの不可欠な要素の一つである。この宗教の内容はほ
とんど重要ではない。問題は、大衆の宗教的感情を充足することである。この感情は、大
衆を国家的な集団に統合するために用いられる。我々は自分自身を欺いてはならない。誰
かが我々に“巨大な民主主義”や“民主的参加”を語るとき、それらは“宗教”を意味す
る見せかけの言葉でしかない。参加や満場一致は常に宗教的な社会の特質であったし、宗
教的な社会だけの特質であった。従って我々は別な経路で不寛容の問題や少数派の抑圧に
立ち戻ることにする。
一方で、民主主義は社会や人の行動についての完全な概念というよりはむしろ、単純な
外部の政治的構造とますます考えられている。この考え方や生活様式は政治的民主主義と
結びついている。民主主義が存在するためには、市民の一部にある種の質が必要となる。
存在の理由であり、存在の方法となるこの宝物を民主主義が保護しようとしていることを
知るのは簡単である。政府はこの生活様式を維持しなければならず、この生活様式なくし
て民主主義は不可能である。従って、朝鮮から本国に戻った米国人捕虜たちが隔離され、
共産主義から解毒させるために精神的、心理学的治療を施されたことは理解可能な、矛盾
のないものとなる。彼らは中国の洗脳に相当する米国の洗脳を受けなければならず、それ
は彼らをもう一度米国の生活様式に従って生活させるためのことであった。
しかし、その後に人に何が残ったのか。民主主義は安全保障の観点に沿って民主主義を
行う人々の精神的、心理学的状態を操作しようとしていると我々は理解している。犯罪的
或いは非道徳的行い、アルコール依存症、麻薬中毒などの類いが公務員に許されるはずが
ない。公務員は民主的な市民が示すべき徳からあまりに遠ざけられているので、操作の行
使や民主主義に合致する生活のためのプロパガンダによる大規模な教育を理解することは
簡単である。大衆メディアによって作られた市民的徳は民主主義の維持を保障する。しか
し、何が自由として残っているのだろうか。
私はもう一つの事実に触れておきたい。現代的技術装置はそれ自体が重荷になり、それ
によって政治的構造を変えるということを私は技術社会という自著のなかで示そうとした
。ここで、私はただ一つだけ質問を投げかけてみたい。プロパガンダでテレビを用いるこ
との民主主義への影響とは何か。
最初の影響がこうである。テレビは我々を直接民主主義に近づける。議員や閣僚はよく
知られるようになる。彼らの顔や発言は認識されるようになる。彼らは有権者に近づけら
れる。テレビは選挙キャンペーンを超えて政治的接触が拡がっていくことを可能にし、日
常的な基礎に基づいて直接に有権者に知識を与えることを可能にする。さらには、テレビ
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は公務員に対する支配の手段になる可能性がある。テレビ視聴者の能力において、有権者
は彼の代議士たちが彼が任せている権限をどう利用しているかを確かめることができる。
米国で行われたある実験は、議会の会合がテレビで中継されるとき、議員たちは威厳が
増し、真面目になり実行性が増すことを示している。議員たちは見られていること分かる
と、自分たちの役割を果たす労を厭わなくなる。しかし、この点で過度の期待は禁物であ
る。為政者がこの統制を受け入れる可能性はほとんどない。実際、政治家たちは自分たち
のプロパガンダのためにテレビを使う方法を熟知していて、それ以上のことはない。実際
、テレビはアイゼンハウアーがスティーブンソンに勝つことに、保守党が労働党に勝つこ
とに力を貸したかもしれない。問題はまず資金であり、第二に技術的手腕である。しかし
、民主主義的プロパガンダの装置としてのテレビの活用は、民主主義の“品格”の重大な
変化という危険性を伴う。
民主主義はテレビのプロパガンダに対して何を用いることができるのだろうか。民主主
義はテレビのプロパガンダにうまく適応できていない。かつて技術的な装置は民主主義的
な活動と同調していた。民主主義は語り、その総体としてのあり方は言葉で表現された(
これは皮肉で言っているのではない。最も強力で修辞的な意味で語りは人類の最も高尚な
表現の一つであると私は信じている)。このプロパガンダの装置は、特に出版物とラジオ
は言葉のために作られた。
逆に映像によって作られた民主主義のプロパガンダは弱い。民主主義は政府の視覚的な
かたちではない。エトワール凱旋門の下で行われる戦没者慰霊儀式は最も成功している光
景だが、その壮観にもかかわらずプロパガンダの効果はほとんどない。実際、民主主義が
プロパガンダに映画を使おうとするとき、軍事行進以外が思い浮かばず、それもそれほど
頻繁には用いられない。これまで、プロパガンダに映像を用いることの民主主義の無能さ
はそれほど深刻でなく、映画は二次的な手段である。しかしテレビは主要な手段となるこ
とが運命づけられているようである。というのは、テレビは人に努力をほとんどさせずに
全面的に人を動かすことができる。テレビはラジオと同じように家庭の自前のセットで人
や人の生活に接触できる。テレビは意思決定や事前の参加、移動(会合に参加するという
ような)を求めない。しかし、テレビは人を完全に掌握していて、他の活動に勤しむとい
った可能性をまったく残さない(ラジオは個人の良い部分を支配せずに残して置くが)。も
っと言えば、テレビは光景という衝撃的な効果を持っていて、それは音声の効果よりも格
段に大きなものである。
しかし、この特筆すべき道具を使うためには、見せるべき何かが必要になる。講演する
政府官僚は壮観とは言えない。民主主義は独裁制が手に入れることができるものと比較に
できるような見せるべきものを持っていない。もし民主主義が、極めて危険なことになる
であろうこの領域において後れを取りたくないのなら、テレビで放送できるプロパガンダ
の光景を見つける必要がある。巨大な儀式や大衆の行進ほど良いものはない。ヒトラー・
ユーゲント(訳注:ナチス党の青少年教化組織)やコムソモールである。或いは新しい船や
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大学の建設に熱狂的に集まった人々全体などである(ユーゴスラビアのように)。テレビの
急迫は民主主義をこうした少しも民主的でない実演宣伝へと導くことになる。
我々は今、最も重要な問題に差しかかっている。以前私は、強力で継続的なプロパガン
ダにさらされた人が経験する心理学的な変容を考察した。我々はまた、プロパガンダは決
して“民主的”解決策ではないので、二つの矛盾するプロパガンダが全く解決にならない
ことは見てきた。人は自分が選ばなければならない二人の戦闘員の存在から独立していな
い。人はより親切で説得力のある方を選択するとき、二つのポスターを見比べる観察者で
も、最高位の決定者でもない。物事を見る上でそのように考えるのは子供じみた理想主義
である。人は掌握され、操作され、あらゆる方向から攻撃される。二つのプロパガンダ体
制の戦士は互いに戦うことはしないが、人を掌握しようとする。結果として、人は最も深
い心理学的影響や歪曲を受けることになる。このように修正された人は単純な解決方法や
標語、確かさ、継続性、傾倒、世界を善と悪へと分かりやすく単純に区別することを求め
るようになる。人はあいまいさに耐えられなくなる。矛盾するプロパガンダの追加的な効
果は、人が受動性や二つの側面のうちの一方を全面的に思考なしに支持することへと逃避
するようになるということである。
全体主義政党の出発点となるこの流れが、米国でいかに定着し始めているかを知ると衝
撃を受ける。この二つの異なる反応、つまり受動性と全面的な傾倒は完全に反民主主義で
ある。しかし、これらはある民主的なプロパガンダのかたちの結果である。ここに問題の
中心がある。プロパガンダは民主主義的な理想だけでなく、民主主義的な行動を破滅させ
る。民主主義的行動は民主主義の基礎であり、まさに本質であり、それなしには存在し得
ないものである。
問題は世論の自由という名の下にプロパガンダを否定することではなく、我々がよく知
っているように決して純潔なものではないのはなく、個人の意見という自由の名の下で一
切のものから形作られることはなく、何からも形作られないということでもなく、ただ実
に深遠な現実という名の下でプロパガンダを否定することにある。選択や差異の可能性で
あり、それは民主的社会における基本的な個人の特質である。
プロパガンダによって伝播された教義はどのようなものであれ、心理学的結果は同じで
ある。確かに、幾つかの教義は他よりもプロパガンダによってさらに一貫性のある主題に
なり、より効果的で目立ったプロパガンダにつながる。共和主義や民主主義といったその
他の教義はむしろ人を麻痺させる不適切なものである。しかし、唯一の結果はプロパガン
ダによる教義の進行的な弱体化である。
逆に、プロパガンダにその破壊的性質を与えるものは、伝播された教義の単一性ではな
い。それはプロパガンダの道具である。プロパガンダが閉鎖的な体制を伝播するのか、意
見の多様性を伝播するのかでプロパガンダは異なった作用をするものの、プロパガンダは
深遠で破壊的な効果を持つことには変わりはない。
189
そのとき私は何を語るのだろうか。そのプロパガンダは民主主義の教義を広めることが
できるのだろうか。もちろんできる。多数派からの得票で選出された政府によってそれが
できるのだろうか。しかし、我々が変わることなく民主主義を運営するという保証は何も
ない。プロパガンダの力を借りて、信条としての民主主義の理想を神話の枠組みのなかで
広めることはできる。プロパガンダによって、市民を代表者を選出する場である投票所へ
と導くことができる。しかし、もし民主主義がある種類の人間やその行動に対応するもの
なら、プロパガンダは民主主義という生き方の出発点や民主主義の基礎を破壊してしまう
。プロパガンダは全体主義社会に適した人や大衆に統合されていないと落ち着かない人や
、批判的な判断や選択や区別を拒む人を作り出す。人ははっきりとした確かさにこだわる
ようになるからだ。人は制服集団に同化して、それを求めるようになる。
プロパガンダの力を借りればどんなことでもできるが、自由人の行動を作りだすとか、
民主的な人を作り出すといったことはできない。民主的な社会で暮らしプロパガンダを受
ける人は、民主主義の真意を失っていく。民主的な生活の品位や他者を理解すること、少
数派の尊重、自分の意見を再検討すること、独断主義でないことなどが失われていく。民
主主義の理想を広めるための手段は市民を心理学的に全体主義的な人にしてしまう。こう
した人とナチとの唯一の違いは、こうした人が“民主主義的な確信を持った全体主義者”
であるということである。しかし、その確信は少しも彼の行動を変えることはない。人は
こうした矛盾を決して感じることはなく、民主主義は神話や民主主義的な命令、条件反射
を作動させる単なる刺激であり続ける。民主主義という言葉は、単なる誘引になっていて
、もはや民主的な行動を伴うような何かではない。そして市民は旧ナチの突撃隊員のよう
に行動しながら、漠然と“民主主義という聖なる決まり文句”を連呼し続ける。
プロパガンダを通して広められ維持されたあらゆる民主主義は、ついにその成功を勝ち
取る。その成功とは個人や真実についての自己否定である。
しかし、本当に物事はそうなり得るのだろうか。
一般的にプロパガンダの効果を否定する傾向がある人は、無自覚的には奪うことのでき
ない個人の価値観というものがあるとの考えを持っている。プロパガンダの効果を認める
人は唯物論的な考え方を持っている。私は、関与する限りにおいて人は奪うことができな
い存在であり、今日の社会にあって人に危険は存在せず、プロパガンダは人に何をするこ
ともできないと主張したい。残念ながら、ここ半世紀の経験はこの点において励みになら
ない。もっと言えば、プロパガンダは無害であるという信条や、その信条の拡がりは人に
とって究極的に有害である。このとき人は攻撃に対して安心している。攻撃に対する非脆
弱性と無効性を信じていて抵抗の意思は大いに減少している。もし、プロパガンダが愚か
な独裁者による単なる子ども遊びや虚しい語りであるなら、どうしてプロパガンダから身
を守ることに時間や労力を使うだろうか。もし虎が紙に書かれた虎で、その手法があまり
に馬鹿げて分かりきっているために大馬鹿者でさえそこから逃れることができるのなら、
どうして自分の精神や個性、性格の強さを行使するだろうか。もし、プロパガンダが既に
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そこにあるものだけを使い、それがなくとも歩むことができるであろう道に沿って人を導
いて、決して私の行動を変えないのなら、どうして洞察力のある選択ができるのだろうか
。もし、プロパガンダ受容者がこうした態度を取るなら、プロパガンダに知らず知らずの
うちに従い、最高に優れたものへと登り詰める途中でプロパガンダの作業の手順に陥って
しまう格好の位置にいることになる。
唯一の真なる真剣な態度は、プロパガンダの人間破壊という危険が深刻ゆえに真剣なの
であり、他の態度は責任感がなく真剣ではないために、真剣なのである。人々に用いられ
ている道具の極限の効果を示すことで、自分たちの弱点や脆さを気づかせることで自己防
衛に躍起にさせることこそ真剣な態度である。人の本質やプロパガンダの技法では得るこ
とができない安心という最悪の幻想で、人をなだめるようなことはせずにである。人の自
由や真実の側はまだ敗れてはいないものの、敗れるかもしれず、例え正しい意図や正当性
がプロパガンダを行う人たちにあったとしても、この遊戯においてプロパガンダは疑う余
地もなく(真実や自由の破壊に向けた)ただ一つの方向に作動する最も恐るべき力であると
悟ることがまずは先決である。

ジャック・エリュール「プロパガンダ」