右派論壇の間違い 挺身隊について
- 1. 〈右派論壇の詭弁を暴く〉
右派論壇に蔓延する
「挺身隊」という言葉に対する無知
『韓国が危ない』(豊田有恒著)の間違い
「挺身隊」という言葉に対する無知から生じる誤解が右翼論壇には蔓延している。
例えば、豊田有恒氏が 2005 年に出版した『韓国が危ない』(PHP)P27~P28には、こう書か
れている。
70 年代には、いわいる従軍慰安婦問題なる問題も、まったく存在しなかった。なぜならこれは
そもそも発端からして100パーセント捏造だからである。
それで豊田氏にとって何が100パーセント捏造なのかというと
1990 年代の初め韓国のさる新聞が、挺身隊なるものに関して報道した。これは、第二次世界
大戦の時代のことで、勤労挺身隊という制度があったことを意味している。これ自体は正し
い。私の 9 歳年上の姉も、当時の女学生だったが、近所の中島飛行機の工場に通い、働いて
いた。第二次大戦末期である。・・・・・(中略)・・・ところが、この勤労挺身隊、略して挺身隊が
韓国の若い新聞記者の誤解から、とんでもない騒動を引き起こすことになった。・・・・・・(中
略)・・・・・・・実際、挺身隊は内地では早くから行われていたが、朝鮮では 1944 年になってか
らだった。・・・・・朝鮮に関しては、勤労挺身隊に徴用することに多少の遠慮があったのだろ
う。そのため、内地より遅れて始まったのである。
だが、そうした史実も知らずに、韓国では挺身隊が一人歩きをしてしまった。現在も「挺対協
(チョンテヒョブ)」と言う団体が活躍しているそうである。挺身隊問題対策協議会の略だとい
う。伊貞玉(ユンチョンオク)という人が、初代の責任者で、ソウルの日本大使館には数百回も
デモを敢行したそうである。いまだに誤解が続いているのだ。
と言う事らしいが、ここで豊田氏の勘違いの一つは、「挺身隊」=「勤労挺身隊」という勘違い
である。
- 3. *(6)38年の第104師団戦闘経過及教訓集 には「南進シ我捜索隊特ニ安民挺身隊
ヲ攻撃スルノ」と書かれ、
*(7)【 レファレンスコード 】C13031867400 陣中日誌 甲第8号 自昭和15年6月1日至昭和15
年6月30日には岡本支隊挺身隊の名前が見られる
*(8)41年には帰徳陸軍特務機関に「青年挺身隊組織」があった事が書かれている。
*(9)【 レファレンスコード 】A06030107600 44年自11月~12月 の新聞検閲係の勤務日誌 に
は「六輸送船を撃沈破 わが魚雷挺身隊奪戦」と書かれている。
外国の軍隊も「挺身隊」と呼ぶ事があったらしく、
*(10)【 レファレンスコード 】A03024836200 「独挺身隊米本土に潜入 ニューヨークUP二十八日」
という記事
*(11)【 レファレンスコード 】A03024658100 部報 第78号重慶UP新聞電報放送(十三日)には
「支那軍はなほ宜昌東北方の漢口―宜昌公路を通ずる主戦線を防衛している。しかしこの一万五千の
挺身隊は六月八日に沙市を出発し・・・・」と書かれている。
*(12)【 レファレンスコード 】A06031080100 42年(昭和 17 年)の写真週報 206号には「お嬢さん軍属第六百十号
陸軍被服本廠の女子挺身隊」と書かれている。
つまり、陸軍の被服本廠で職員や 職工をする女性たちがいた事を意味している。
以上から分かるように「挺身隊」という言葉は、戦前日本では非常にポピュラーな言葉だった
のである。かならずしも、「女子勤労挺身隊」の事だけを指しているのではない。これは例えば、
紅白歌合戦の「赤組」と日比谷中学の運動会の「赤組」が同じ言葉であっても、違う存在であ
るようなものだ。
「挺身」という言葉自体の意味は「自ら進み出ること、自分の身を投げ出して物事をすること」
である。
(『広辞苑 第四版』(岩波書店、1995 年)
ここから転用され「愛国行動」を表す言葉としての「挺身」という言葉は、右翼団体が好んで使
った言葉であり、1932 年の満州事変以降、急激に右傾化する中で軍事に関連して日本国中
- 4. に氾濫するようになったのである。大政翼賛会の規約第 4 条にも使われており、戦後も花王
石鹸株主総会事件で報道された「防共挺身隊」などの右翼団体の組織名に使用されている
(『右翼辞典』P86)。
朝鮮半島での「女子勤労挺身隊」以外の使われ方
日本の右派と仲がいいニューライトと呼ばれる韓国右派がいる。このニューライトの旗手の一人
であるイ・ヨンフン氏は『時代精神』第 28 号の『国史教科書に書かれた日帝の収奪性とその神
話性』(http://www.zeitgeist.co.kr/2005html/sub/popup/28/2811.htm)という論文の中で「挺身隊と
いう言葉が最初に出たのは 1943 年 9 月の日本政府の次官会議においてであり・・・」と書いて
いるが、これがまったくのデタラメである事は、先の例からも分かるはずである。イ・ヨンフン
氏は続けて「植民地で挺身隊が組職された最初の事例は、1943 年 11 月、ソウル市内の接客業
店に従事した男女のうち 3,349 人(うち朝鮮人 2,454 人)の女たちだった」と書いている。しかし
朝鮮半島でも必ずしも「女子勤労挺身隊」のみを「挺身隊」という訳ではなく、余舜珠氏は、
「1940 年 11 月 13 日付け『毎日新報』に「農村挺身隊」の結成が報じられた記事」について書いている
(余舜珠『日帝末期の朝鮮人女子勤労挺身隊に関する実態研究』)(尹明淑『日本の軍隊慰安所制度と
朝鮮人軍慰安婦』明石書店、2003 年 P295)。
「女子挺身隊勤労令」など影も形も無いような 1940 年の時点ですでに朝鮮半島でも「挺身隊」という言
葉が使われていた事を我々は理解しておく必要がある。
豊田氏は「実際、挺身隊は内地では早くから行われていたが、朝鮮では 1944 年になってからだ
った。」と書いているが、秦郁彦氏さえ書いているように「女子挺身隊勤労令」によらない女子
への動員がなされており(『慰安婦と戦場の性』P368)、「女子挺身隊勤労令」は朝鮮半島で
は施行されなかった。朝鮮半島では、民間業者による募集と官斡旋が 44 年以降もなされており、
教師に「勉強ができる」「お腹いっぱい食べられる」などの嘘で動員された例などが報告されて
いる。
43 年に沼津工場 に行った裵甲先さんの証言もあり、44 年以降に限る話しではない。
http://www16.ocn.ne.jp/~pacohama/kyosei/touasa.html。
この豊田氏の勘違いは大師堂経慰氏の『慰安婦強制連行は無かった 河野談話の放置は許されな
い』や秦郁彦氏の『慰安婦と戦場の性』に共有されており、どちらも「韓国(や朝日新聞)が、慰安婦と挺
身隊を混同させている」というような意見を書いているが、それ以前に「挺身隊」という言葉を無条件に
「女子勤労挺身隊」の事だと思い、これを混同させてしまったのは自分達なのである。この点について
は、後でさらに詳しく論じてみよう。
- 6. 日本兵の衣類の繕い物から洗濯などで、月給は住居つきで100円、支度金の欲しいものには30円の
前渡しという触れ込みであった 。・・・・・
『ルソン死闘記』 友清高志著 1973年
「女子勤労挺身隊」として動員された朴良徳(パク・ヤンドク)さんが、自分が行った三菱の工場につい
て「日本人は”報国隊”という名前で働きに来ていました」と述べているように(『証言従軍慰安婦・女子
勤労挺身隊』伊藤孝司、P30)、当時の日本では「挺身隊」「奉仕隊」「報国隊」は同じような意味を持っ
ていたのである。
「挺身隊」が 慰安婦徴集に使われたという元兵士の話
■憲兵だった土金冨之助氏は『シンガポールへの道〈下〉- ある近衛兵の記録』(創芸社,1977 年)の
中で次のように述べている。
(土金冨之助氏はスマトラのパレンバンで憲兵軍曹として慰安所に関わった)
(慰安所に)巡回で出入りしているうちに、私は K 子と Y 子という朝鮮の女性(この建物は全部朝鮮出
身)とよく話をするようになった。……K 子は年もまだ一八とか一九歳といっていた。……
私が一人で行ったある日、彼女は「私達は好き好んで、こんな商売に入ったのではないのです。」と、
述懐するように溜息を吐きながら語った。「私達は、朝鮮で従軍看護婦、女子挺身隊、女子勤労奉仕
隊という名目で狩り出されたのです。だからまさか慰安婦になんかさせられるとは、誰も思っていなかっ
た。外地へ輸送されてから、初めて慰安婦であることを聞かさた。」
彼女等が、初めてこういう商売をするのだと知った時、どんなに驚き、嘆いたことだろうと考えると気の
毒でならない。……彼女の頬には、小さな雫が光っていた。……
将兵達はこのような事情を知っているのだろうか、いや知る必要はなかった。なまじ知っては楽しく遊
べなくなるだろう。金儲けに来ているんだぐらいにしか理解していない者が多いと思う。
(場所:インドネシア・スマトラ島)
この回想記の重要な点は、出版されたのが、1977 年であるという事である。
韓国で慰安婦の研究がなされ始めたのが 80 年代後半であり、尹明淑氏が「ハンギョレ新聞」に『挺身
隊取材記』を書いたのが、1990 年 1 月である。「挺身隊問題対策協議会」(1990年)が造られる 10 年
以上も前に「挺身隊という名目で集められた」という証言が書かれているのである。
「慰安婦110番」でも
- 7. 通信教育隊 1992年73才
黒龍江省富錦で一人の朝鮮人慰安婦から聞いたもので、「『関東軍戦時特別挺身隊』という事でした
が、実際に来てみたら慰安婦だったと言って泣いておりました。・・・・朝鮮人女性は、京城の駅に2000
人が集められ、列車に乗せられて、満州の新京に下ろされました。そこで、20人から30人に分けら
れ、また列車に乗せられ、各地に送られて行きました。
〔従軍慰安婦 110 番―電話の向こうから歴史の声が〕
という話が掲載されている。この話はおそらく「関特演」の際の徴集だろう。
ところでついでに書いておきたいが 豊田有恒氏が書いている「勘違いした若い新聞記者」は 1992 年の
話であり、豊田氏は「慰安婦と挺身隊の混同の、これが発端」みたいに書いているが、すでにその時に
は「挺身隊問題対策協議会」が存在しており、発端でも何でもない。千田夏光氏の著作も読んでいない
ようだが、紛らわしい書き方はやめて欲しいものである。
「挺身隊」とそれに類する誘い文句でだまされた 元慰安婦たちの証言1
挺身隊という誘い文句でだまされて慰安婦にさせられた証言者として、金福童さんがいる。
慶尚南道梁山に暮らしていたが、区長と班長、日本人が来て、「挺身隊に娘を送れ」と言われた。下関
→台湾→関東に行き、慰安婦をさせられた。
(『証言ー強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』明石書店
P84~88)
ここで重要なのは、「区長と班長、日本人が来て、「挺身隊に娘を送れ」と言われた」部分であり、これ
は業者と公的機関が結託していた事を示している。法令がなくても当時、警官や役人が企業と結託す
る事があったのは、慰安婦ではなく男性が炭坑の”たこ部屋”などに送られた「強制動員」の事例にもみ
る事ができる。軍の許可書を持った慰安所の業者は、警察官や面事務所の人間にとって、協力すべき
相手に見えたのかも知れない。あるいは他の「動員」に紛れ、警察官や面事務所の人間も騙されてい
た可能性がある。当時の朝鮮半島には*「愛国班」などの組織が全国に張り巡らされていた。朝鮮総
督府の御用新聞であった「毎日新報」1944 年の慰安婦募集記事は、読者である愛国班員や面長(町
長)、警察に向けてのメッセージであっただろう。少なくとも、慰安婦の徴集は、御用新聞に広告が掲載
されるほど彼らの間では市民権を持った行為だったのである。
- 10. 「挺身隊」とそれに類する誘い文句でだまされた 元慰安婦たちの証言2
『中国に連行された朝鮮人慰安婦』と言う証言集がある。韓国挺身隊問題対策協議会が主に中
国の湖北省武漢を調査し、9 名のハルモニから証言を得ているのだが、その中の一人である朴ピ
リョンさんは、16 歳から近所の紡績工場で働いたが、その後紡績工場の主人の家で子守をするよ
うになり、その紡績工場の主人に「よそで子守の仕事をしないか」と言われ、「何百人かの女の子
と共に天津につれて行かれ慰安婦にさせられた」(P134)。『脱帝国のフェミニズム』で宋 連玉
(ソンヨノク)氏が例に挙げた郭金女さんもまた 16 歳から光州の製紙工場で働いたというから、こ
の手の募集には 16 歳が相場だったのかも知れない。郭金女さんも工場の監督と警官らしき日本
人に「より条件のよい工場に転職できる」と騙され、満州の牡丹江の慰安所に送られた(『脱帝国
のフェミニズム』P226)。また、易英蘭(ヨクヨンナン)さんや(『中国に連行された朝鮮人慰安婦』P
148)河君子さんは最初から「工場に行く」と騙されて慰安所に連れて行かれた。(『中国に連行さ
れた朝鮮人慰安婦』P69)
李在允(イ・ジュエン)さんは、だまされて「慰安婦」にされそうになったものの、背が
あまりにも低かったのでまぬがれた。そして朝鮮内の軍需工場へ連れていかれたという
(伊藤孝司『証言 従軍慰安婦・女子勤労挺身隊』、風媒社、1992 年)。この話は、慰安婦を徴集す
る周旋業者が軍需工場に派遣する業者が同一であったか、もしくは繋がっていた可能性を示して
いる。
朴莫達(パクマクタル)さんは、郷里を出る時にはご飯炊きの仕事だと思っていたが、土煉瓦つくり
の軍の建物の中で、ご飯もつくり服や洗濯をさせられながら、軍人たちは女たちを捕まえて慰安さ
せられたという(『中国に連行された朝鮮人慰安婦』P157)。これについて伊貞玉(ユンジョンオク)
氏はP17で、「朴莫達ハルモニの経験は、旧日本軍「慰安婦」をわが国ではなぜ今日まで「挺身
隊」と呼んでいるかその理由を明らかにするものと言えよう」と考察している。同じような話は崔一
礼さんの体験にもあり、崔さんは野戦病院につれて行かれたがここで、「軍人が望む時にはどこで
もいつでも応じなければならなかった」と証言している(同書P17)。ゆえに伊貞玉氏は「戦争当時”
挺身隊”に出て行って、助手になれば、軍隊の洗濯や食事の仕事をしながら金儲けができると言
われたが、実際は性奴隷とされたという話はこのような場合を指しているのである。」と結論を述
べている(同書P18)
こうした元慰安婦たちの被害体験は、当地にいた日本人(軍人、軍属、記者など)の回想記によっ
て裏付けられている。すでに挙げた山口彦三氏、友清高志氏や土金冨之助氏の著作の他にも「軍の
仕事」「看護婦の仕事」などという名目で集められた例として、河東三郎氏は『ある軍属の物語 - 草津
の墓碑銘』の中で「戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされ、わかって彼女らは泣きわ
めいた」という話しを記録しており、伊藤桂一氏は『戦旅の手帳』の中で「騙すのは、看護婦に
- 12. 自分の身を投げ出して物事をすること」であり、「挺身隊」という用語は、男女の区別なく用いられ、特
定団体を示す語ではなかった。「挺身隊」という用語が使用され始めたのは、1940 年 11 月 13 日付け
『毎日新報』に「農村挺身隊」の結成が報じられた記事のようである*2。また「挺身隊」は、「婦人農業
挺身隊」、医師や看護婦を対象にした「仁術報国の挺身隊」、「漁業挺身隊」、文化、商工、報道、運輸、
金融、産業などの32 団体で結成されたという「半島功報挺身隊」というふうに、女性動員を含む、さまざ
まな人的動員に対して用いられていた。
「女子勤労挺身隊」、「女子挺身隊」、「勤労挺身隊」、「挺身隊」、「処女供出」という言葉がそく軍隊慰
安婦を指す言葉ではない。しかし、朝鮮の解放以降、軍隊慰安婦問題が社会的問題として表面化した
1990 年代初めでも、一般民衆が「挺身隊」を軍隊慰安婦の同義語として認識していたことは事実であ
る*3。朝鮮人のこのような認識がどこから由来したか確かではない。しかし少なくとも、当時の民衆に
とって、「挺身隊」や「処女供出」は「徴用」と同義語であった。そして、「処女供出」を避けるため、家や
村を離れて隠れたり、親たちは年頃の娘の結婚を急がせた。
<表 5 - 1 >の「処女供出」という言葉から察せられるように、一般民衆の中に未婚女性の動員に
関する情報が流れており、既婚女性なら「徴用」されずに済むと認識されていた。
同表の「官憲介入」と「処女供出」欄にあるように、「国のため」の勤労動員や「挺身隊」であると脅迫さ
れて徴集されたり、逆に、「挺身隊」を逃れることができるという詐欺で徴集されたりした。軍慰安婦の
徴集は「挺身隊」の名の下で行なわれたのである。
~(引用)
(以下の注釈は、本文の作者によって省略した部分がある)
*1 宮田節子『朝鮮民衆と「皇民化」政策』11~49 頁(未来社、1985 年)
*2 余舜珠「日帝末期の朝鮮人女子勤労挺身隊に関する実態研究」2 頁
*3 「女子挺身勤労令」の資料が一般にも広く知られるようになった 90 年代初頭には、同法令が
軍隊慰安婦の徴用のための法令として認識されることさえあった。(1)姜萬吉「日本軍『慰安婦』
の概念と呼称問題」13頁(韓国挺身隊問題対策協議会真相調査研究委員会編『日本軍「慰安婦」
の真相』歴史批評社、1997 年)、(2)余舜珠「日帝末期の朝鮮人女子勤労挺身隊に関する実態研
究」2 頁、(3)韓百興『実録女子挺身隊、その真相』(芸術文化社、1982 年)、(4)韓国史辞典編纂
委員会編『韓国近現代史辞典』(カラム企画、1990 年)、(5)李炫煕「今年度の韓国近現代史の争
点・1992 年 4 月~9 月」199~204 頁(韓国近現代史研究所『争点韓国近現代史』第 1 号、1992
年、(6)伊藤孝司編著『証言従軍慰安婦・女子勤労挺身隊』10~72 頁(風媒社、1992 年)
(尹明淑『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍慰安婦』(明石書店、2003 年)P295~P298 より)
以上の話しから、慰安婦を「挺身隊」と呼んで来た韓国の事情は十分に理解できるであろ
う。
- 13. 大師堂経慰の『慰安婦強制連行はなかった』の問題点
作家の豊田の著作『韓国が危ない』を取り上げて来たが、「挺身隊」=「女子勤労挺身隊」の勘違いを
している著作として、大師堂経慰氏の『慰安婦強制連行はなかった』がある。サブタイトルに「河野談
話の放置は許されない」と書いており、河野談話攻撃のために 1996 年に書いた論文を基に加筆したよ
うだ。
大師堂経慰氏は、大正 6 年生まれ。京都帝大から 1942 年、末期の朝鮮総督府の役人になり、江原道
地方課長を経て、総督府農商局事務官になる。引き上げ後、経済企画庁に。(後略)
という経歴である(同著者紹介より)。
当時、朝鮮半島に駐在した日本人には珍しく韓国語も話せたようだし、韓国人の友人もいたらしい(P9
8~P110)。
大師堂氏は、この本の”あとがき”にこう書いている。
最近では日本人との交流、交際も随分広がって来ている。韓国の人達と個人的な交際を続けている日
本人も多い。その人達は韓国の人達の民族性の良い側面に気づいていると思う。秀れた知性、相手に
対する細やかな気遣い、心配り、そして相手の困難には、自分を犠牲にしてでも援助の手を差し伸べ
る温かい心情、義理堅く友情を大切にする美しい気質。韓国の人達を相手にこのような体験をした人も
多いのではないだろうか。
個人対個人ではこんなに信頼しあい、親しくできるのにどうして国民対国民では反日、嫌韓なのだろう
と考え込む日本人は多いと思う。
そこで私が答えを書いてあげよう。
日韓の国家関係が破壊されているのは、大師堂氏のように、自分が大きな”勘違い”をしておきながら、
相手が間違っているのだと思い込んでいる自称”愛国者”がたくさんいるからである。歴史観の問題、と
りわけ慰安婦問題では、右派の妄想としか言いようのない慰安婦論が蔓延しており、その結果韓国ど
ころか、アジア諸国やアメリカ、国連との関係さえ狂って来ているのが今日である。
ゆえに本論文の目的はその迷妄を解く事にある。
さて、大師堂氏の著作で扱っている「挺身隊」はもろに勘違いが書かれている。
まず大師堂氏はP27で朝日新聞の記事の「太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名
で強制連行した。その人数は 8 万とか 20 万とか言われる。」は「間違いである」としてこう書いている。
女子の挺身隊とは、勤労奉仕か、戦争末期に国民徴用令によって徴用されたもので、日本内地でも軍
需工場や被服工場に動員されている。徴用対象は総動員法に基ずく総動員業務であり、総動員法 2
- 15. 参議院予算委員会 - 8 号 平成 09 年 03 月 12 日
○小山孝雄君 お隣の韓国でも今年度、この三月から新学期が始まっているようでございますけれど
も、歴史教科書に、あそこは国定教科書でありますから一つであります、慰安婦の問題について記述
が入ったと、こう聞いておりますが、外務省は手に入れていらっしゃいますか。
○政府委員(加藤良三君) 九七年三月から使用される韓国の中学校それから高校用の国定歴史教
科書、いわゆる従軍慰安婦に関しまして、これは日本語の翻訳でございますけれども、次のような記述
があると承知いたしております。
まず、中学校の教科書でございますが、「女性までも挺身隊という名でひいていかれ、日本軍の慰、
安婦として犠牲にもなった。」。次は高等学校の教科書でございますが、「女性たちまで挺身隊という名
でひいていかれ、日本軍の慰安婦として犠牲にもなった。」。以上でございます。
○小山孝雄君 私が調べて皆様に配付したのと同じでございますけれども、ここではもうまさに挺身隊
というのと慰安婦とイコールに受け取られるわけであります。外政審議室にお尋ねしますが、そういう
制度でありましたか、調査した結果。
○政府委員(平林博君) 慰安婦と女子挺身隊とは全く異なるものでございます。女子挺身隊の方は
日本の制度として存在しましたが、慰安婦というものは政府ないし軍の制度として存在したということで
は、法令に基づく制度ということでございますが、ないのではないかと理解しております。
韓国の教科書に今外務省から紹介しましたような記述がございまして、そういう記述にあったような
例があるいは当時あったかもしれませんが、今申し上げましたように、女子挺身隊と慰安婦が混同さ
れ、これが一般化された形で読む人に受け取られるということがないようにというふうに考えたいと思い
ます。
○小山孝雄君 今御答弁ありましたように全く別のものでありまして、こういったことが混同して韓国の
少国民に教えられるということは、これは問題だと思います。外務大臣、この訂正方を申し入れいたし
ますか。
○政府委員(加藤良三君) 韓国との関係におきましては、今御指摘のような問題もあるわけでござい
ますが、これを全体として未来志向の関係に持っていくという点をも踏まえまして、いろいろな分野にお
いて非常に緊密な対話というものが行われている状況にございます。そのような視点を踏まえて、御指
摘の問題につきましても、我が方の考え方というものは韓国の方にも周知させるように努力しているつ
もりでございます。
○小山孝雄君 努力しているつもりって、この問題について訂正を申し入れしないんですか。
- 19. 実証史家?
ここでさらに苦言をしておこう。
右派によると秦氏は「実証史家」だそうだ。しかしここに書かれている間違いは複合的である。
まず「「いずれ女子挺身隊で徴用されるぐらいなら」と言葉巧みに持ちかける業者」が居たのだ
そうだが、どのような根拠があるのか?
1941 年以前というと、未だ「女子勤労挺身隊」なんて始まってもいない。女子勤労挺身隊が始
まったのは、1944 年である。1941 年ころからおもに「勤労報国隊」などと呼ばれていた「挺身
隊」がいたとしてもここでよく読んで欲しい。秦氏がいう「女子挺身隊」は 1941 年の”関特演”
以前のものである。1941 年以前に朝鮮半島では「いずれ女子挺身隊で徴用されるぐらいなら」
と言葉巧みに持ちかける業者」が居たというのが秦氏の考えなのである。
これは新説である。いや「新説」というより「珍説」だろう。秦氏はこの記述に対して、根拠を
まったく示していない。ぜひ第一次史料の提示をお願いしたいものだ。もし第一次史料の提示が
できないとしたら、”当てずっぽ”で書いたという事だろう。
どうしてこんな記述が生まれるのか?
それは秦氏が一次史料に髄拠して歴史を語っていないからである。一次史料を提示しないまま、
適当な事柄を書いてある事が秦の著作には多くある。
例えば慰安婦問題に関する代表作である『慰安婦と戦場の性』P147では米国の婦人部隊やナ
ースがまるで娼婦の役割をしていたような事が、それを裏付ける一次史料を提示しないまま書か
れていたり、P147とP164では「・・・ニューギニア戦線の夫は気が気でなかったという」
などと書いているが、出典としているらしい『リンドバーク第二次大戦日記』(新潮、P499)
には、日本軍が宣伝ビラを蒔いた事は書かれていても、兵士たちが気が気でない様子など書かれ
ていない。当然こんな事を書く以上は、元豪兵の自伝なり戦記なりに「自分の妻が休暇中の米軍
兵士に誘惑されているのではないかと気が気でなかった」と述べているような出典があるのだと
信じたいが。
P136には「神埼清は400人近い慰安婦の内生還したのは70人と書いているが、やや過大
だろう」と書いているが、この文章の前後には、この数字を「過大」とする理由がまったく見当
たらない。理由は無いがとにかく「過大だ」と言いたいらしい。
P208では「(トウミナは)・・・・職業的売春婦の出身という点で、韓国の第一号と似ている」
と書いて、韓国の第一号=金学順さんを何の証拠もなく、「職業的売春婦」にしてしまっている。
このような事を書く場合は、 髄拠する一次史料の提示をぜひ、お願いしたいものだ。