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2020.2.24
沼津の二つの「みゆきばし」
渡邉美和*1 長谷川徹*2
§1.はじめに
沼津市下香貫(しもかぬき)の牛臥(うしぶせ)地区に「みゆきばし」(御幸橋) (注;以下、当該の橋には名称のひらがなと
しては「みゆきはし」と付されているが、ここでは慣例に従って濁点を附す)がある。現在(2020 年)の牛臥公園の入り口
近くの塚田川の河口に架かる橋で、幅は 3 間(約 5.5m)、長さは 5 間(約 9m)(注;いずれも歩測に基づくもので正確な採寸
ではない)の、今は集落内の小さな橋である。
この橋の架け替えに基づく通行止めや迂回路の情報が、「広報ぬまづ」で報じられたのは2020 年2 月であった。筆者ら
はその情報に接し、やや違和感を抱いた。というのも、2018 年に筆者らは下香貫に現存する「みゆきばし」(行幸橋)を訪
れていたのだ。今でも現役で地域の通行に供されているその「みゆきばし」は、地域的には確かに下香貫にあったが、「牛
臥」地区ではなく、藤井原にあった。何か私たちが勘違いしているのであろうか、現在の沼津石材の東側のバス通りの藤
井原も広くは牛臥に含まれるのだろうかと考えた。広報では「架設から 80 年を経て老朽化」とその架け替え工事の理由
が示されていた。私たちが知っていた「みゆきばし」の竣工は昭和4 年(1929 年)で、それなら約90 年を経ていることに
なる。
筆者らは、2020 年2 月21 日に取り急ぎ工事の現場を訪ねた。
そして改めて認識したのである。下香貫に二つの「みゆきばし」があったことを。
さらに疑問は湧く。「御幸」は皇室の行幸を意味していて、藤井原の「みゆきばし」(行幸橋)は確かに昭和5 年間の当時
の昭和天皇陛下の行幸に伴い設置されていたことは確認できていたが、この牛臥の「みゆきばし」(御幸橋)の命名は何を
意味しているのであろうか。もちろん「行幸」と関連することは間違いないと見られるが、それならなぜ、漢字表記は異
なりつつも似た名称が近いエリア内で命名されていたのであろうか、などであった。
§2.「みゆきばし」検討の意義について
皇室の保養地として沼津御用邸がかつて存在した。皇室とどのように向き合うかという問題は別として、現在の沼津の
発展を振返るうえでも御用邸のもたらした大きな影響に異論は生じないであろう。
「みゆき」そのものが行幸啓に係わる用語であり、「みゆき」に関連した地名も全国に存在する。たとえば静岡市にも
「みゆきちょう」はある。そして沼津では市役所の位置する地名が「御幸町」である。この沼津の「御幸町」はそれまで
の三園町(狩野川右岸の旧沼津宿三枚橋と左岸の上香貫菜園場からとられた地名) から昭和 5 年の昭和天皇行幸を記念し
て命名された。当時の行幸に際しては、御幸町命名のほか、行幸対象となった現在の沼津市立第四小学校に記念碑が残る
とともに、行在所として用いられた椅子が同校に現存するほか、既に改築により失われているが、かつては同校の二階渡
り廊下が「みゆきろうか」として伝えられていた。御成橋の命名も、今に続いて市民にとっては日常的な名称となってい
る。さらに現在の御成橋から狩野川に沿って合同庁舎へ続く道は「おなり道」として新設・命名されたものだった。 実
は、このように断片的、総論的には皇室との関係が残されてはいるが、沼津は、それを総括したことはないと言える。
JR 沼津
下香貫
図1 みゆきばしの位置
牛臥みゆきばし
藤井原みゆきばし
図2 拡大図 みゆきばしの位置
2
さらに、最近、筆者(わたなべ)により発掘された沼津市西浦の大瀬崎に御用邸計画があったことも恐らくは知る市民も
少ないと見られる。これは昭和4 年(1929 年)1 月時点で昭和天皇の研究所施設の設置候補地として、現神奈川県三浦市初
声町の旧三崎郡初声村三戸が決定していたが、昭和6 年に二度目の昭和天皇の現地見学が行われたものの、結局再開され
る建設中止にいたった「幻の御用邸」計画である。この際、神奈川県の現三崎市油壺、神奈川県足柄下郡真鶴、現沼津市
の大瀬崎もその候補地として挙げられていた(1)のであった。
皇室と沼津の関係としては大正年間に相次いだ沼津そして我入道の大火では皇室から下賜金があり、復興に当たっての
大きな経済的援助も受けていた。
皇室と関係の深い学習院の游泳場開設も含め、上皇・今上陛下の沼津へのご来臨なども少なくない事例として存在して
いたが、沼津はこうした皇室との関係に深く立ち入らないで過ごしてきた。
なによりもこの意味で、牛臥地区の「みゆきばし」の存在は大きな意義をもつ。それは、行幸のルートとの関係で、お
そらくは御用邸開設時には、現在の御成橋から我入道に通じる当時の集落を連絡する主要な道として選ばれていたのでは
ないかという仮説である。また、「御幸橋」「行幸橋」が同じころにかなり近接している地域の中で、同じ呼び名で建設さ
れたなら、何か混乱を生じることになったのではないかとも予想される。そのような混乱の予想は当時もあったはずで、
なおかつそれが実施されたのは、混乱に至らない事情もあったと見られるが、これも謎である。
一方、筆者らは藤井原の「みゆきばし」(行幸橋)の調査に際して、改めてそのデザインが当時の日本の土木建築で流行
していたアール・デコ様式をとりいれたものではないかとも気づいていた。1910 年頃から世界的にアール・ヌーボー、
アール・デコのデザインが流行した。生物の持つ曲線をデザインに多用したアール・ヌーボーは当時のジャポニズムの影
響を大きく受けているともされる。アール・ヌーボー様式は絵画や工芸などにも多く取り入れられ、ミュシャやクリムト
の美術、エミール・ガレやルネ・ラリックのガラス工芸などは現在でもファンが多い。日本でいえば、その代表は竹久夢
二であろうか。曲線が多用されたホンワカとしたものである。一方で、文化としての機械化を表出したデザインが米国マ
ンハッタンの摩天楼に代表されるアール・デコだ。アール・デコはいわばキリッとした印象だ。
日本の建物で代表させるなら、アール・ヌーボー的なデザインの代表は、ドームを再生させた東京駅、アール・デコ
としては国会議事堂などが挙げられる。
このアール・ヌーボー、アール・デコのデザインは、いずれも互いに影響しあっていて、直線的であることを基調とし
たアール・デコにも優雅な印象を醸しだすための曲線デザインも用いられ、もとより、アール・ヌーボーも機械的な構造
としては直線も排除できない。
このようなデザインとしての取り入れられ方が沼津にもたらした影響などについては管見の限りではあるが、大きな議
論にはなっていない。しかし、なぜ今に残る御成橋にあのような地方都市としては珍しいともいえる優雅なアーチ橋デザ
インがとりいれられたのか、アーケード街や旧沼津西武百貨店にカーブを描く曲線デザインが用いられたのかは今後も解
明されるべきテーマであろう。
図3 沼津第四小学校の「みゆき廊下」
2 階のこの渡り廊下部分
写真1 沼津第四小学校に残る行幸記念碑
3
その意味でも、牛臥に残っていた「みゆきばし」(御幸橋)のデザインは大きな暗示を与えると見られるのである。例え
ば九州でのこうした発掘事例として羽野暁による調査がある(2) 。
§3.二つの「みゆきばし」
①牛臥「みゆきばし」
見学に訪問した 2020 年 2 月 20 日には架け替えの工事が進行していて、既に橋全体の半分に相当する排水路部分は取
り払われていた。幸いにも目的とする旧「みゆきはし」部分はまだ大きな工事が行われておらず、その現存の様子を不十
分だが確認できた。工事担当者に尋ねたところ、旧「みゆきはし」部分の一部は沼津市の文化財担当課(注;文化財センタ
ーか?)により保存されることが決まっている由。
冒頭に記載した通り歩測による構築物としての大きさは幅3 間、長さ5 間と見られる。3 間は当時の標準的な、ある程
度人などの行き来が活発な道路の幅である。
写真2 は上流側にかかる橋の上部構造を示している。親柱は上流側1 か所と下流側2 か所が残っていて、上流側左岸の
親柱は交通事故のためか破損して近くに置いたままとなっている。上流側左岸の親柱には「御幸橋」と橋名が記されてい
るが、写真 3 の下流左岸西側の親柱(「みゆきはし」と示されている)とともに石のプレート上に記されているが、写真 4
の下流左岸東側の竣工年月表示のプレートとは石の色が異なっている。見た目では写真2、写真3 の方がともに写真4 よ
り新しそうに見られるが、真偽はまだ分からない。
親柱は共に2 段のカーブで面取りされていて、写真のように段がついているとともに上面は溝が掘られ、細工が凝って
いることが彷彿とさせられる。高覧部分は直線でその間に数か所で直線的にくりぬかれ、くりぬき部分には断面が四角の
鉄製の棒がアームとしてしつらえられている。
橋躯体は写真6 に見られるようにもともとは石積みであったようで、きれいに整形された石が整然と並べてある。右岸
側は暗くて確認できなかったが、おそらくは同じ構造であろう。また橋台はコンクリート製の水路となっているが、
写真2 上流側全景 写真3 左岸西側親柱 写真4 左岸東側親柱
写真7 かつての排水路橋との連絡 写真8 排水路橋脚部写真6 石積み橋台写真5 下流側
4
これが橋そのものと同時代か否かについては不明。写真5、6 に見られるT 字型が連続するコンクリート構築物は、後に
設置された歩道部分の高覧と一体構造の橋脚であり、写真の奥(向こう側)に本来の「みゆきばし」がある。ここでは橋台
の石積み構造を示すために紛らわしいが掲げている。写真 6、7 は「みゆきばし」と連絡されて設置されていた排水路橋
で、写真7 にその構造物としてのアーチの跡が見られるが、めがね橋となっていたようだ。
なお、写真 2 に見られる青いハンドルは水門制御用のもので、高覧との間は歩行者用の通路となっていたものらしい。
親柱と高覧は共にコンクリート製(鉄筋が入っているかどうかは不明)で、表面は更にコンクリートと細かい砂利で化粧用
として研ぎ出しされている。
橋の構造は不明だが、除いて見ると確かには分からないがさび色の鉄構造物のようなものも垣間見られ、鉄筋または鉄
骨のコンクリート製の桁橋と見られる。
竣工年月を示すプレートには「昭和十年十一月」とある。広報に示されていた「八十年」と符合する。
沼津に住む私たちにとっては、市役所の所在地のためだろうか、「みゆき」に「御幸」の字をあてることは不自然では
ない。一方で後述するような「行幸」に「みゆき」を充てることはやや不自然さを感じる。その意味で「御幸橋」と名付
けられたこの橋は後述するもう一つの「みゆきばし」(行幸橋)よりも古いものかもしれない。現在架け替え中の橋はそれ
以前の「みゆきばし」(行幸橋)を架け替えたものかもしれない。大正十四年の下香貫地区の地図には、橋の名前は不明だ
が、このルートに狭い道と、大朝神社から直角に曲がる現在の「みゆきばし」(御幸橋)のルートが描かれている。
或いは、旧沼津町から御成橋または永代橋を渡り、我入道に続く道のその先を島郷に延ばしたルートが、御用邸建設当
時の行幸啓の道筋であったのかもしれない。なぜ、架け替えが昭和十年(1935 年)になって行われたのかは、当時のバスの
運行設定とも関係しているのかもしれない。
②藤井原「みゆきばし」
東海バスオレンジシャトルの島郷循環線などが通る沼津市下香貫の新川(西側 100mほどで塚田川に合流)をまたぐ市道
に架かる橋。この橋の北西は藤井原、北東側の沼津石材付近は前原、南側は樋ノ口という地名になっていて、これらの境
に架かる。ここでは暫定的に藤井原「みゆきばし」としておく。
当時の沼津から吉田町を通り、馬場から島郷へ抜ける主要路線として架けられた橋が現役で機能をはたしている。橋名
として「行幸橋」(みゆきはし)と掲げられている。
現在の沼津市の香貫地区は、沼津町と合併して沼津市となる以前は、上香貫村、下香貫村、我入道村そして善大夫新田
村が明治時代に合併した楊原村であった。これら旧 4 か村のまとまった集落構造は昭和 30 年代まではそれなりにうかが
われたが、それ以降の農地の住宅化などの進展により、今ではこれらがもともと4 か村であったことを残すのは自治会名
や学校校区などに過ぎず、連続する宅地化された風景の中に時折、耕作地帯が残る地区となっている。
下香貫のこの地区には、塩場、塩道、浜田などの地名が今も残っていることからも推察できるように、かつては狩野川
下流域の汽水の湿地であった。ただ、徳倉山(通称の象山の方が親しまれている)のふもとまで広がり、静浦の志下地区に
至る藤井原には住居遺跡も発掘され、高台地域は古くからの生活のあとも見られる。なお、上香貫(かみかぬき)の香貫山
の東南側にはいまだに「獅子路」という地名も残り、香貫と静浦志下地区のかつての郷名であるシシ(ド又はクラ)郷との
連絡道路の名残を思わせる(現在の獅子浜という地名もこれに由来するとみられる)。
現在の下香貫の七面山地区から前原地区では耕作の困難は水にあったようで、後に香貫二千石といわれた農業の発展は
写真9 藤井原みゆきばし全景(東側の上部構造)
5
内膳堀による上香貫と下香貫への給水、そしてそれ以前からの八重付近のため池によりもたらされたものであった。また、
七面山地域では耕地は 1mほど土盛りされているとも伝わっているが、これが江戸時代末期の地震の復興に際して行われ
たものかどうかは、まだ検討できていない。
この藤井原「みゆきばし」はその旧ため池からの導水路としての新川にかかっていた。
小さな橋だが、4か所の親柱には擬宝珠を模した笠が附き、高欄はわずかにアーチ状を呈し(写真9では分かりにくいが、
ハスに構えた写真10 からは緩やかな曲線も見て取れる)、高欄手すりは半円形にくりぬかれている。全体は鉄筋コンクリ
ート製で表面はコンクリート研ぎ出しで化粧されているが、さすがに全体的に老化も進展している。
橋の全体的なデザインとして、昭和初期の流行でもあるアール・ヌーボー調が読み取れ、沼津市内に残る橋の中でも時
代性を反映した風格やデザインの秀逸さが感じられる橋となっている。なお、下部構造についての調査や各寸法の採寸な
どはまだ行っていない。
上下香貫地区そして旧楊原村地域(なお、楊原村への合併以前には旧徳倉村、旧志下村、旧大平村などとの当時の広域合
併や旧我入道村の対岸の旧沼津宿との合併なども案として検討されたもようだ。大平や徳倉は当時の交通の関係からの難
点があったとされ、最終的に楊原村としての成立には、当時の国策としての神社の権威化と当時でも農村部て゜あった上
下香貫村と比べて威勢のよかった漁村である旧我入道村との妥協があったものと推察される。そうでなければ楊原村より
は香貫村と称する方がよほど自然であった)では、江戸時代中期以降から明治初期に至るまでは大きな道路の付け替えなど
は生じていない。
明治 20 年(1887 年)の地図では、全般的には江戸時代と大きな差異はまだないが、その後に影響する大きな変化として
は、明治9 年の御成橋(当初は湊橋)などの架橋と、明治26 年(1893 年)の御用邸の建設が目につく。既に明治20 年地図に
は、今は地名として残っていないが、現在の上香貫吉田町の夜光付近から現在の国道414 号の玉江町交差点を通って下香
貫の馬場に向かう道が建設され又は建設中となっている。この道はやがて御成橋から下香貫を経て島郷の御用邸へ続く主
要な道となる。
年号が大正から昭和に変った頃、香貫の道路網にも大きな変化がもたらされた。そのきっかけとなったのは、1)沼津大
火(大正2 年と大正15 年)、2)沼津市の成立(大正12 年-1923 年)、3)我入道大火(大正13 年1924 年)などであった。そして
相次ぐ大火で当時の沼津市もかなりの市街地消失を生じている。
大正2 年の沼津大火復興に際しての対策としては、駅前通りの道幅四間を六間に拡幅などの限定的なものだった。かえ
ってそれまで官地として残されていた旧沼津城の堀跡や土居などの遊休地を経済復興のための民間への払い下げ要請な
ど、防火対策としては不十分なまま、のちの大正 15 年沼津大火に遭遇することになる。一方で、その後の合併による上
香貫地区への公共施設の移転新設も計画される。
我入道大火と大正 15 年沼津大火は大正 2 年沼津大火の不備を再確認させる火災でもあった。我入道はこの大火後に道
路整備による災害に強い職住接近の人口密集地へと変貌を遂げる。市街中心部の防火対策の基本的な不備とが我入道大火
復興の効果確認から、沼津の中心市街地の道路の再拡幅による防火帯設置などの対策がとられた。大正 12 年の沼津市の
写真10 藤井原みゆきばし下流側高欄 写真11 橋名表示 写真12 竣工年月表示
6
成立もそれを助けた。沼津駅前通りは路面電車軌道と広い歩道を具えた現在の道路幅十三間半に再度拡幅されたのである。
この時、現在に残る中心市街地や、そこから外れるが現在の学園通りの十三間半道路なども後に計画され、西条町の行き
止まりやカギ型も多かった旧沼津城武家屋敷跡も一新された。
上香貫地区では市役所の移転新設や現在の第四小学校の新設が行われるとともに、沼津市中心市街地の商業拡充や大火
後の住居転出などが上香貫に向かって始まった。既に御成橋に加えて黒瀬橋や永代橋が開通していたことも交通の便に拍
車をかけていた。こうして上香貫地区の道路網は、急激に現代に続く構造に変化したのである。
現在の国道414 号線は大正12 年地図には未だ記載されていない。昭和2 年地図では下香貫部分が地図に記載され、昭
和3 年地図で三園橋まで含めて全通した記載がある。
この様な背景の下に藤井原「みゆきばし」は竣工した。今に残る橋の親柱には「行幸橋」「みゆきはし」「昭和四年九月
竣工」と彫られている(前述の牛臥「みゆきばし」ではプレートが付けられていたことと異なる)。
当時の沼津市長は下香貫に本邸を有した森田泰次郎であった(なお、前述の牛臥みゆきばしが竣工した際の市長も間に二
代おいて同じ森田泰次郎)。図 4 に掲げた昭和 5 年行幸での御用邸から沼津に至る帰路のルートで、矢印の個所が竣工し
たばかりの藤井原みゆきばしである。既にこのルートは前述のように明治 20 年台に建設新設が始まっていたので、おそ
らくは現存の藤井原みゆきばしの前代の橋が存在していたものを架け替えたものと推定される。
すでに牛臥みゆき橋で疑問を呈していたが、この橋も牛臥みゆきばしも同じ「みゆきばし」と呼称され、漢字表示が藤
井原は「行幸橋」、牛臥は「御幸橋」と異なっている点が不明である。両橋は直線で1km ほどしか離れておらず、沼津市
内の大字表示も同じ下香貫であり、呼称での混乱があったことも容易に予想がつく。おそらく漢字表記の差異はこの混乱
を最小限に留めるための方策と考えられるととともに、バスの停留所もこの橋名由来のものはその後も設置されていない。
しかし、その代りにこの橋の存在自体もクローズアップされることはなくなってしまったのである。
③沼津に残るアール・ヌーボー、アール・デコのデザイン
私たちはややもすると、戦後は戦前とは断絶していると考えがちである。だが、今を生きるわが身を振り返っても、
住んでいる環境やその背景となっている考え方は連続している。1900 年代初期に世界を席巻したアール・ヌーボー、ア
ール・デコのデザイン思想は、大正時代から昭和の初めころに日本へも流入し、建設やその他のデザインに大きな影響を
与えている。そして、昭和15 年頃~同30 年代初期の日本が生きていくことに精いっぱいの時代をはさんで、また一時の
復活を遂げたように見える。しかし、その流れはキュビズムや東京オリンピックそして大阪万博などの新たなデザインの
下、経済成長の掛け声に打ち消されるように、やがて新たなデザインにとって代わられてきた。
大したものである。そうした沼津での昭和初期のデザインが、かなりの経年変化を帯びながらも残っているのは。そし
図4 昭和5 年行幸資料のルート図上の「みゆきばし」の位置
7
て改めて沼津と皇室或いは御用邸の関係を再検討する糸口になるかもしれないのだ。
先に述べた沼津市立第四小学校に残された旧正門の副門柱と擁壁を結ぶ袖の部分のカーブ(アール)の様子を写真13、14
に示した。これもアール・ヌーボー様式の表出例と見られ、敢えて曲線でなくともよいところを優雅に曲線で描いている。
現在の同校に残された数少ない設立当初からの遺物である。なお、向かって右側の袖は擁壁との連絡の一部に破損も見ら
れ保存または修復も望まれる。
先に二つの「みゆきばし」についてその親柱を眺めた際にその装飾性について取り上げたが、一方でそのような装飾性
のない橋は沼津に多く存在している。写真 15 は旧国道一号線にかかる、沼津では多少は知られた「三枚橋」の親柱であ
る。竣工年も「昭和廿八年」と記されていて、いわば無名の橋とは一線を画したそれなりの格式を備えている。しかし、
戦後直後の建設という点を差し引いたとしても、二つの「みゆきばし」の親柱や高欄の優雅さには及びもつかない。
写真16~18 は、最近の沼津で見かけたアール・ヌーボー、アール・デコのデザイン様式である。アーケード街は昭和
29 年(1954 年)に建設された集合型防火建築で、デザイン的にはそれまでさたやみになっていた戦後のアール・ヌーボー、
アール・デコが取り入れられていることがわかる。写真 17 は通横町の衣料品店であった旧ニシノの建物。丸みを帯びた
2 階の窓枠、と1 階の直線的な入口、さらに左に見える斜めセットバックに伴う2 階の飾り窓のセンスがバツグン。ただ
し、建築年は不明。写真 18 のような一般住宅のネオ大正ロマン的な、尖塔を模した三角屋根または切妻屋根或いは丸屋
根の母屋付帯の応接間的な一角の風景も急速に今失われつつある。これもアール・ヌーボー、アール・デコのデザインの
一般住宅への取り入れと見られる。
§4.仮まとめ
ふと出会った二つの「みゆきばし」。それらをもう少し詳しく見ていくと、大正モダンから続いた第二次世界大戦をは
さんだ沼津の様子がすこしずつ浮き上がってきた。 このレポートについて、我々は2 つの面で二つの「みゆきばし」を
検討してきた。その一つは、沼津と皇室との御用邸を中心とした関係史であり、もう一つはそのデザイン性と沼津のデザ
写真13 門柱の袖部分 写真14 沼津市立第四小学校の旧正門 矢印が門柱と擁壁を結ぶ袖
写真15 三枚橋の親柱写真15 三枚橋の親柱 写真16 アーケード街 写真17 通横町の旧ニシノ 写真18 千本常盤町の住宅
8
イン史とのかかわりである。もとより筆者らは、沼津史やデザイン史の専門家ではない。このため、論拠や論出の方向性
などで誤りも犯しているかもしれない。その点はご容赦の上、ご指摘ご指導を戴きたいと考える。
沼津にはおしゃれをして行く所がない、とよく聞く。だが、筆者らが子どもだったころには沼津のオマチはよそ行きの
服に着替えて出かける場所であった。そして、今回の検討の中でもそれを偲ばせるおしゃれな雰囲気は多分に再発見でき
たのである。かつては沼津はおしゃれな雰囲気を持っていたマチだったのである。けっして普段着のままのマチではなく、
おしゃれ要素は多かったのだ。
いや、かしこまらずとも普段着のマチでもいいのである。カジュアルなおしゃれが身についていれば。こうした着こな
しやおしゃれセンスは一朝一夕では身につかないもので、マチ全体が盛り上げるものなのである。そうして見ると、衰退
のいいわけの中でマチ自体がこうしたことに無関心であったのではないかとさえ思えるのである。
二つの橋については、更に文献的な検討も今後も必要とされる。皇室との関係史については、一番のなぞである沼津御
用邸の廃止に係わる検討がある。まだまだ不十分ではあるが、今回の再発見と検討による次のステップを目指したく考え
る。
なお、文中でも触れていたが、牛臥「みゆきばし」についてき何らかの形での保存も沼津市当局により考えられている
と聞いていて、大変好ましいと感じる。ここに挙げたそれ以外の例での文化財的価値の発掘とその取扱いについて、地元
の自治会や沼津市でも検討いただきたいと考える次第である。
*1 WATANABEYoshikazu、沼津郷土史研究談話会、junowat@hi3.enjoy.ne.jp
*2 HASEGAWAToru、沼津郷土史研究談話会
更新履歴 Ver.1 2020.2.24
§ 引用、参考文献
(1)武田周一郎、「昭和初期の三浦半島小網代湾における初声御用邸計画について」、歴史地理学野外研究第17 号、pp95-130、
2016 年
(2)羽野暁、「大正~昭和戦前期橋梁の親柱・高欄デザインサーベイ」、第一工業大学研究報告 63 第26 号(2014)
pp.63-71、2014 年
・「広報ぬまづ」2020 年2 月15 日号
・長谷川徹、「香貫地熊道の移り変わり」、第三地区社協ひまわりの会での講演資料、平成24 年10 月1 日
・渡邉美和、「沼津市上香貫の道路網の発達の考察」、沼津郷土史研究談話会「沼津ふとさと通信」No3、H27.12
・長谷川徹、「沼津の商業界-戦後史」、沼津郷土史研究談話会「沼津ふとさと通信」No2-3、H26.27
なお、記事中の写真の撮影年月は以下のとおりでいずれも筆者(渡邉)撮影。
写真1 2018 年5 月
写真2~8 2020 年2 月
写真9~12 2018.年5 月
写真13~14 2020 年2 月
写真15 2017 年12 月
写真16~18 2020 年2 月

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