社会システム論Ⅱ ⑥ 新聞と戦争
木口小平 ( 日清戦争 ) シンデモ ラッパ ヲ クチ カラ ハナシマセンデシタ 成歓の戦い で 中隊の喇 叭手を務め戦死 当初は「白神源次郎」 の名が伝えられ叙勲 誤報と判明したのち, “ 脚色”が始まる 小学校修身書
廣瀬武夫海軍中佐 ( 日露 ) “ 軍神”。享年 36 日露戦争旅順港封鎖 作戦で,撤退時に行方不明 になった部下を何度も捜索 し,ロシア軍の反撃で被弾 その“美談”が唱歌になり, 昭和に入り,広瀬神社も
 
廣瀬中佐 ( 文部省唱歌 ) 一.轟く砲音 飛び来る弾丸    荒波洗う デッキの上に     闇を貫く 中佐の叫び     「杉野は何処 杉野は居ずや」 三.今はとボートに 移れる中佐    飛び来る弾丸に 忽ち失せて    旅順港外 恨みぞ深き    軍神広瀬と その名残れど  
軍国美談 の作られ方 一つの事実を拡大して,美談に加工し, 神格化 していく ( 瓦版の伝統 ?) 社説などで讃美し, 滅私奉公 ・ 忠孝の心 ・大和魂と折り紙をつけていく 新聞社自ら率先して遺族へ弔慰金を贈り,広く国民から弔慰金を募る。遺族を新聞社が招待して慰める。歌などを作って,軍部に代わって 散華の精神 を鼓舞
総力戦体制 職業軍人だけでなく, 召集した国民を兵士として戦場に送る 「戦時国債」を国民に売る,特別税を賦課するなどで戦費を調達する 軍需優先の傾斜生産方式を採る 「国民精神」に「戦争の 大義 」を植え付け,戦争に対する疑念を払拭する ( メディアを用いたコントロール )
富国強兵・殖産興業 明治 22 年 大日本帝国憲法発布 明治 23(1890) 年 総選挙・帝国議会 明治 27(1894) 年 日清戦争 /28 年 講和 ( 三国干渉 ) ・“臥薪嘗胆”・台湾接収 明治 35(1902) 年 日英同盟 対露交渉 / 非戦論・主戦論で二分 明治 37(1904) 年 日露戦争
ニュースの誕生 日清・日露戦争の戦争速報合戦により, 中新聞の企業化 が加速 旅順会戦 ( 日露戦争 )
二大紙の成立 日清・日露戦争報道により, 「大阪朝日新聞」 と 「大阪毎日新聞」 ( 本山彦一 ) の二大新聞体制が確立 本山彦一の 「新聞商品主義」 :新聞の信用とは内容ではなく発行部数であり,経営の独立こそが信用の要 1911 年,「東京日日新聞」を買収し,東西二本社制度を確立
赤新聞 ( キャンペーン報道 ) 黒岩周六 ( 涙香 ) 『 萬朝報 』 (1892-1940) ,秋山定輔『 二六新報 』 (1893-1940) ピュリッツァーとハーストの「イエロージャーナリズム」の日本版。「一に簡単,二に明瞭,三に痛快」 蓄妾調査・廃娼運動・財閥攻撃などキャンペーン報道により,社会改革を訴える ( 内村鑑三や幸徳秋水らが論陣 )
社会正義と営利主義 論説新聞から報道新聞への変化は, 社会正義と商業主義の結合 でもあった 1890 年の議会開設で“ 制度化された政論空間” ( 公 ) から締め出された エネルギーを吸収する装置 として機能 しかし,新聞が成長し,新聞の議会への影響力が強まっていくと,「公」からの圧力がが強まり,新聞の力は殺がれ始めた
新聞の企業化 ( 明治三十年代 ) マリノニ式輪転機の普及で,発行部数が増大 (1892 年〈日清戦争前〉は 1 日 35 万部前後-> 1910 年ごろ 163 万部 ) 「朝日」「毎日」は 20 万部,「萬朝報」は 16 万部 錦絵-> 報道写真 の掲載 ( 「報知」が明治 37 〈 1904 〉年 1 月から ) 新聞広告の増大 ( 消費財の企業化 )
日清戦争 をめぐって
日清戦争主戦論:言論人も 日清戦争は 文明と野蛮との戦争 なり ( 福沢諭吉 ) 日清戦争は吾人に取りては実に 義戦 なり ( 内村鑑三 ) 結局は朝鮮半島の支配権を巡る戦い。日本側は条約改正における対外強硬派 ( 国権主義者 ) の台頭を牽制し,国内の危機を回避するための戦い
日清戦争講和 ( 下関条約 ) 清が朝鮮国の独立を保障 遼東半島・台湾・澎湖島の割譲 賠償金銀二億両 ( テール ) 三国干渉 ( 独・仏・露 )  遼東半島の接収の放棄を日本に勧告  ロシアが南下して不凍港である旅順・大連の領有が不可能になり,満州地域の“経営”も不可能になるため
臥薪嘗胆 遼東半島の放棄に,新聞論説が沸騰 三宅雪嶺が「日本」に「嘗胆臥薪」の論説 政府系とみられる「東京日日新聞」も政府の弱腰外交を批判し,三日間の発禁をくらった 「臥薪嘗胆」は 「いつの日かロシアに復讐してやるのだ ! 」 という意味の流行語に
三宅雪嶺の「嘗胆臥薪」の論説   「日本」一八九五年五月一五日
徳富蘇峰の転向 「国民新聞」主筆 。臥薪嘗胆 を機に,平民主義から国家主 義に転換。政府系新聞への転 換。太平洋戦争時は 大日本言論報国会長 「遼東還付が,予のほとんど一生における運命を支配した。このことを聞いて以来,予は精神的にほとんど別人になった」 ( 『蘇峰自叙伝』より )
号外 通信網の発達で特派記者に よる「速報体制」が整うと,号 外の発行で新聞社が競う 当時は号外は「有料」。号外売りという商売も生まれた。速報性のアピールで,新聞の声価を高めると同時に,販売促進につなげる 日露戦争中に「大阪毎日新聞」は 498 回 ( 月平均 25 回 ) の号外を発行。速報体制を整えた「大阪朝日」「時事新報」を含めた三紙が競争優位に
義和団の乱 (1900 年 ) を報じる大阪朝日新聞号外  ( 明治 33 年 6 月 16 日 )
日露戦争を めぐって
日露非戦論 / 主戦論 多くの新聞が開戦前から 「主戦論」 「萬朝報」「毎日新聞」 は「非戦論」。桂太郎内閣が開戦を決意する ( 明治 35 年〈 1902 〉年 ) と,二紙は次々と「戦は避く可からざるか」,「最後の一断」を掲載し「主戦論」に転換 「萬朝報」で「非戦論」派の内村鑑三・幸徳秋水・堺利彦が,“転向”を批判して退社
帝国大学七博士が日露開戦を迫る意見書    東京朝日新聞 明治三六 ( 一九〇三 ) 年六月一〇日 自発的な意見書ではなく 政府が書かせたという
日露戦争 (1904 年~ ) 日本海海戦 ( バルチック艦隊に打撃 ) 二百三高地 ( 旅順 ) ・奉天でも辛勝 奉天会戦 日本海海戦。「三笠」の東郷平八郎
二百三高地占領を伝える「大阪毎日新聞」号外         明治三七 ( 一九〇四 ) 年一二月一日
↑ 号外 ← 三笠丸 -> 東郷平八郎 日本海海戦 1905 年 5 月 27 日
日露戦争講和 ポーツマス条約 ( 小村寿太郎全権 ) 全樺太の割譲をロシアが承知せず,南樺太の割譲・南満州鉄道の経営権委譲 (+ 日本の朝鮮国への優越権の承認 ) で妥協が成立 政府は「国民新聞」のみに条約の概要をリーク “ 戦勝ムード”に酔っていた国民は激怒
「国民新聞」号外:一九〇四年八月三一日
日比谷焼き打ち事件 9 月 5 日「非講和国民大会」 ( 日比谷公園 ) 。新聞各紙は「講和に不満 ! 」のキャンペーンを展開 群衆は警官隊と衝突,「国民新聞社」を襲撃し,警察署に放火する大騒ぎ 戒厳令公布 (6 日 ) 。内務省は 新聞発行禁停止権 を発動 ( 大阪朝日は 37 日間,讀賣は 11 日間など。無期停止も )
↑  新聞報道 ( 上毛新聞 ) ← 撒かれたビラ
暴徒撃退始末を報じる「国民新聞」 一九〇五年九月六日
戦争報道の問題点 日本の総力は底を衝き始め,局地戦では辛勝したが,全面衝突となると不利になるのは明らか したがって,アメリカの仲介を渡りに舟として講和を急いだが,ロシア側は「敗戦」を納得したわけではない 新聞は主戦ムードで「勝った,勝ったまた勝った」報道に偏し ,日本軍の実勢を伝えきれなかった ( 検閲も一因だが )
不平痛恨 ポーツマス条約肯定は「国民新聞」のみ 「萬朝報」「時事新報」「朝日」「毎日」など有力紙はすべて条約破棄を主張 世論への迎合 ただし,世論は,戦争・講和の内実を知らされないまま,感情論に走る 報道第一 ( 論説第二 ) ・部数優先の中新聞の姿勢 は,ただ 空気を反映 するのみ
まとめ 日清・日露戦争は「富国強兵」の礎となると同時に, 中新聞を権力装置として政治的・商業的に定着させた 中新聞の「報道中心主義」 ( およびスキャンダリズム ) は, 世論 ( 国民感情 ) への迎合の色彩 を強め,政府への批判勢力 ( 国民的政党 ) の形成に結びつかなかった 大正デモクラシーで日本の民主主義が“流産”する一因がそこにある

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