20100117レジュメ
- 2. 1.【図書紹介】 ポル・ ポト〈革命〉史―虐殺と破壊の四年間」 山田 寛 著 ・講談社選書メチエ ・ 2004 年 7 月発行 【紹介文】 囚人 14,000 人、生還者 7 人の監獄。 無軌道に展開した強制労働、密告、そして処刑。 社会基盤を破壊し、全国民の 4 分の 1 を死に追いやったポル・ポト政権は いかにして「革命」を遂行したのか。 二〇世紀最大の蛮行、その軌跡と背景を完全解読。
- 3. 2.【今日の独裁者】 ポル・ポト ( 1 )カンボジア国内においてクメール・ルージュ (カンボジア共産党)を率いて、「ポル・ポト大虐殺」と 呼ばれるジェノサイドを実行。 クメール・ルージュの旗 ( 2 )死者約 150 万人~ 300 万人(推定)。難民多数生み出し。 ( 3 )ヒトラー、スターリン、毛沢東、金親子と並び称される虐殺独裁者。 ( 4 )国人口あたりの殺害率ではトップと言われている( 4 人に 1 人?)。 ( 5 )原始共産主義を目標とした共産革命で、旧文化を徹底否定。
- 4. 3.【ポル・ポト人物像概要】 ( 1 )本名:サロト・サル ( 2 )生年月日: 1928 年 5 月 19 日または 1925 年 5 月 19 日 ( 3 )没年月日: 1998 年 4 月 15 日( 70 ~ 73 歳?) ( 4 )最終学歴:技術専門学校、フランス留学( 1949 年~ 52 年) ( 5 )前職:私立チャムロン・ヴィチェア高校の歴史及びフランス語教師 ( 6 )政治的地位: ①クメール・ルージュ(カンボジア共産党)書記長 ②「民主カンプチア」首相( 1975 年 5 月 13 日 ~ 1979 年 1 月 7 日) ( 7 )呼称:「一の同志」「コード 87 」「第一の兄弟」・・・ etc
- 5. 4.【解放までの歩み】 (1)フランス留学後期、共産主義運動に参加(初期は怖がっていたと懐述) (2) 1953 年、帰国。共産主義者として独立運動に参加。 この時はまだ一介の党員的ポジション。 (3) 1960 年代、共産主義非合法化&弾圧後、同志と共にジャングルへ。 内戦闘争に入る。 共産勢力は「クメール・ルージュ」の呼び名で認知される。 (4)共産党内にて党員序列を上げる。->最終的に序列一位 しかし、対外的なリーダーは「キュー・サムファン」「フー・ニム」 「フー・ユオン」のインテリ左翼知識人の三人のままで推移。 (5) 1970 年代初頭から、アメリカの消極化とアメリカ傀儡的ロン・ノル政権 の弱体化&中国の後押し(ベトナム牽制の為) ->インドシナ情勢の変化による、クメール・ルージュの 棚ボタ的勝利。
- 6. (6) 1975 年 4 月 17 日、クメール・ルージュ、首都プノンペンに入城。 カンボジア解放、 「民主カンプチア」成立。 人々は内戦終結&腐敗政権が壊滅したと、クメール・ルージュを歓迎。 (7)組閣開始、ポル・ポトが首相になり各幹部が政権要員となる。 しかし、この時点でもまだポル・ポトの認知度はほとんどゼロ。 世界中が?になっていた。 ( 8 )クメール・ルージュの兵士たちは表情に乏しく人々は違和感を抱き出す 直後、「アンカーの指示だ」「アンカーに従え」 「アンカーからの通達である」などアンカー、アンカーが連呼され、 何事も「アンカーの指示」で動かされるようになる。 クメール・ルージュの指導部は「 アンカー(党、組織) 」と呼ばれていた。 さあ、革命の始まりです…フフフ…
- 7. ( 1 )強制移住 都市部住民を「全員」農村部へ移住。 ->「悪と腐敗の巣窟」である都市を壊滅させて、そこに潜む 敵をバラバラにする。 さらに、全国民を農民・労働者として生産活動に就かせる。 ① 命令系統がバラバラで、滅茶苦茶な実行。 「すぐ退去せよ」->「帰っても良い」->「出てけ」 「アメリカ軍の爆撃があるから、一時退避だ」->「今日からここで生活しろ」 ② 移住対象者に例外は無し。 病院に入院中の患者も強制退去。ベッドに乗せられたまま、 点滴を付けたまま歩かされる。 この移住で 2 ~ 3 万人が死亡と推計 5.【革命】
- 8. ( 2 )国民仕分け 4/17 解放時点の状態で国民を 3 階層に分類 ① 「完全な人民」 (基幹人民) -> 4/17 解放前からクメール・ルージュ支配地域で農民・労働者 +家族に新人民や処刑された者が居ない者 ② 「完全人民候補」 ③ 「新人民 」(預けられた人民) -> 4/17 解放後に人民になった者。 「預けられた=『完全な人民』に預けられている」 基幹人民による新人民への虐待開始。 ->強制移住させられた新人民に条件の劣悪な 作業割り当てを行う・・・ etc 「敵は要らない。生かしておいても何の得にもならない。 死んでも何の損失にもならない。」(地方幹部談)
- 9. ( 3 )憲法制定 16 章 21 条の世界一簡素といえる「民主カンプチア憲法」制定。 (日本国憲法は 11 章 103 条) ① 宗教 「国民は誰もいずれかの宗教を信仰する権利、いずれの宗教も信仰しない権利を持つ。 民主カンプチアとカンプチア人民に有害な反動的宗教は厳重に禁止される 」( 20 条) ・僧侶の強制還俗&強制労働「黄色い衣装の怠け者」。寺院の破壊。 ・イスラム教少数民族に豚の世話、豚肉食強制。 民主カンプチアは「アンカー」の一神教の様相。 ② 文化 「 民主カンプチアの文化は民族的で清潔な文化 であり、この新文化はカンプチア国内の様々な抑圧階級ならびに植民地主義、帝国主義の腐敗した反動文化に断固反対する」 「旧文化の病原菌は駆除しなければ広がる」(ポル・ポト談)
- 10. ③ 外交 「外部からの軍事的、政治的、文化的、経済的、社会的、 人道的 などのいずれにせよ、カンプチアへのあらゆる形式の破壊、侵略に対し断固闘争する用意がある」( 21 条) 自主独立意識が強すぎて復興に必要な国際援助をすべて拒否。 国内疲弊度加速。 友好国(中国・北朝鮮)からの援助も「貿易」という形でしか受け取らない。 -> 自国のなけなしの米を輸出
- 11. ( 4 )粛清 ① 旧ロン・ノル政権軍人->「再訓練して役に立ってもらうので、集まってー」 ② 在外カンボジア人->「新国家建設のために必要だから帰国してきてー」 ③ 長髪、メガネの人 ④ フランス語を見せて目で追った人間(外国語が分かる) ⑤ 外国語単語を口走った人間(外国語が分かる) ⑥ 芸能関係者(旧文化の病原菌) 処刑 ⑦ ツールスレン収容所(S21) ->尋問・拷問・虐殺センター 「組織の敵」を収容しまくり、自白させまくり 「 私はベトナム、CIA、ソ連の三重スパイでした 」との供述を多数引き出す。 生還者 7 人
- 12. ( 5 )通貨、市場の廃止 上述の革命断行で、共産化が他の共産国よりも早く徹底的に行われたので 資本主義の根本である通貨、市場は廃止。 ->後述の集団による労働と食事により、 新しい人民生活スタイルを創出する。 ( 6 )集団制 すべての事物はアンカーの指導の下、集団で行う。 ① 集団食事制 ->家族ごとの食事(=団欒)禁止。村の共同食堂での 一斉食事が義務付けられる。 ② 集団子育て ->集団子供キャンプでの生活と労働。 親が子を叱るのはアンカーへの越権行為とされた。 「アンカーは小さな子や青少年男女の父であり、母である」 カンボジア人の拠り所であった家族主義、仏教、地縁主義を 完全破壊。人間としての生きがいの消滅。
- 13. ( 7 )子供○○ ・完全な人民はアンカーの要職に就かせる。 ・新人民は腐敗しているので、強制労働させる。 ・そうすると「仕事」の担い手が居ない。 思想的に穢れていない子供が居るじゃないか! ① 子供兵士 中国が、援助武器である戦車の搭乗員候補生を寄越すようアンカーに要請。 -> 12 ~ 16 歳の文盲の子供が送られてきて、中国側ひっくり返る。 ② 子供医師 民間療法主体、近代医学知識皆無の医師誕生。 -> 無消毒の注射回し打ちで感染症、化膿症続出。 麻酔なしの手術強行で患者ショック死。 ③ 子供看守 ツールスレンや地方収容所の看守を務める。 ->アンカーの指示通りに拷問や自白促進を実行。子供なので加減なし。 イソップ物語を知っている収容者を「面白い話を知ってるので、 殺すのはもったいない」として助命。
- 14. ( 8 )その他 ポル・ポトの言葉 我々は独自の世界を建設している。 新しい理想郷を建設するのである。 したがって伝統的な形をとる学校も、病院も要らない。 貨幣も要らない。 たとえ親であっても社会の毒と思えば微笑んで殺せ。 今住んでいるのは新しい故郷なのである。 我々はこれより過去を切り捨てる。 泣いてはいけない。 泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。 笑ってはいけない。 笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ。
- 15. ( 1 )強力な革命政策のおかげで、国内は物心ともに極度の疲弊状態に。 ->しかし ベトナムの勢力拡大を望まない中国やタイが支援継続。 ( 2 )その支援を背景にベトナムに紛争をしかけ続ける。 ->ベトナム:かつてはカンボジアの共産主義を指導していた 兄貴分。今は眼の上の瘤、不倶戴天の敵。 ( 3 )数度の紛争は常にカンボジア側の劣勢。 1978 年 4 月のベトナム侵攻 では、占領したバ・チューク村の住民 3,157 名のうち 3,155 名を虐殺。 ( 4 ) 1978 年 12 月 25 日ついにベトナムが大規模侵攻。 ->中国は文化大革命から改革開放へ動き出していた為、 和解交渉をアドバイスするだけで、不介入方針。 ( 5 ) 1979 年 1 月 7 日、ベトナム軍プノンペン入城。民主カンプチア崩壊。 ベトナムのバックアップを受けたヘン・サムリン政権成立。 ->ポル・ポトをはじめクメール・ルージュはジャングルへ。 このとき大量の地雷を国内至る所に埋めて、今も 問題となっている。 6.【革命の終焉】
- 16. ( 6 )ジャングル入りしてしばらく( 80 年代前半頃)は、 中国&西側=クメール・ルージュ ⇔ ソ連=ベトナム の代理戦争的な状況になっていたので、資金や物資援助を受けられて いたうえに、ジャングル木材伐採や宝石採掘で潤っていた。 ( 7 ) 80 年代後半、中国の改革開放、ベトナムのドイモイ、冷戦終結。 ->カンボジア和平交渉が進展。ポル・ポト派は時流に 乗れず孤立。 この期間、ポル・ポトは書記長を引退し、アドバイザーとして 影の実力者的ポジションを保つ。 ( 8 )相次ぐ幹部の投降、新政府への編入で、ポル・ポト自身が孤立化。 1997 年、内部抗争での同志殺害容疑で人民裁判にかけられ、その後 1998 年 4 月 15 日死亡。病死または自殺あるいは他殺。 ( 9 ) 2010 年になっても、カンボジアの諸方面に禍根と問題を残している。
- 17. ① バブル革命 ->棚ボタ勝利なのに、「自ら勝ち取った勝利!」という自尊心の膨張 ② 人間不在革命 ->何かというと殺し、使い捨てる ③ 借り物革命 ->文化大革命、北朝鮮体制などの表面良いとこ取り ④ 子供革命 ->検証能力の乏しい子供に「敵を粉砕しろ」->暴走 ⑤ 自主独立偏執病革命 ->何が何でも自前、他国の施しは受けない。 他国は革命祖国を侵略しようと虎視眈々と狙っているんだ! ⑥ ブレーキのない革命 ->アドバイス、チェック機能皆無、一定方向への原理主義的大暴走 7.【どうしてこうなった?】
- 19. ポル・ポト関係の他資料 ・映画「キリングフィールド」 ->米人記者の相棒だったカンボジア人青年のポル・ポト政権下での サバイバルを実話に基づき活写。 1984 年のアカデミー賞において、助演男優賞・編集賞・撮影賞の 3 部門受賞。 ・漫画「密林少年- Jungle Boy -」 -> 10 歳でクメール・ルージュの兵士となり、その後、カンボジアの 民間地雷処理人として活躍中のアキラ氏の伝記。 現在、アンコールワット郊外に私設の「地雷博物館」を開設し 地雷問題の紹介活動を行っている。 9.【おまけ】