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2020.5.6 沼津の水環境シリーズ1
安政六年(1859 年)台風と沼津
―2019 年台風19 号は安政六年台風の再現だった―
渡邉美和*a
*a WATANABE Yoshikazu 沼津郷土史研究談話会会員・沼津市社会教育委員会委員 junowat@hi3.enjoy.ne.jp
§1.はじめに
令和元年9 月の台風15 号の房総半島への上陸に続いて、令和元年(2019 年)10 月12 日に伊豆半島へ上陸したのは台風
19 号(後に令和元年東日本台風と命名)であった。長野県の千曲川や福島県の阿武隈川などの思わぬ地域でも河川の堤防決
壊や洪水を引き起こし、約90 人が犠牲となり、一時は気象台でも昭和33 年(1958 年)の「狩野川台風」という固有名をと
もなって、それと同様な災害規模になりかねないとの注意喚起がなされた。狩野川台風で大きな被害を受けた狩野川流域、
そして沼津でも、大きな関心とともに防災体制が敷かれた。不幸中の幸いともいうべきか、沼津付近では、大平や清水町
徳倉付近での住宅地内小河川による冠水などに留まり、一時はあと 50 センチまで迫った狩野川河口付近の増水も氾濫に
至らずにすんだ(なお、本稿では:現行のグレゴリオ暦での年月日は算用数字で、太陽暦採用以前の旧暦は漢数字で示す)。
筆者は 1990 年頃から日本の近世に残る天文現象記録の収集と分析を行ない、日本で見られたオーロラ記録を国文学研
究資料館・国立極地研究所が進めていた学際コラボ研究に提供していた(*1)。そのような関係から平成31 年(2019 年)3 月
に国文学研究資料館の関係者から問合せを受けた。やはりコラボ研究の一環とのことで、江戸時代末期の安政六年(1959
年)に関東地方各地に大きな被害をもたらした、恐らくは台風について、静岡県下や伊豆での記録の有無の問い合わせであ
った。大平の洪水の記念碑が思い起こされ、手元にあった当時の沼津近辺や伊豆の年代記・日記などのダイレクトリーを
提供するとともに、筆者は大平の記念碑や文献資料の調査を行った。そしてこの台風が昭和 33 年(1958 年)の狩野川台風
と似たような災害をもたらしていたことに気付いた。
かえすがえすも残念であった。この安政六年(1859 年)台風の実態再現と被災状況の調査がもっと早く進んでいれば、令
和元年東日本台風への被災注意ができたのではないかと忸怩たる思いを抱いたのである。同時に、ほんの少し状況が異な
れば沼津にも大きな災害となった令和元年東日本台風も時間の経過ともに忘れてはならないのであり、この総括やまとめ
をしておくことは後世に対する私たちの責務でもあると考えた。
そして、更に、似たケースが見られる安政六年洪水も、先人が残した記録は我々に対する警告も含んでいることをもう
一度考えなければならない。このような記録は風化させてはならないのであり、それを防ぐためには事あるごとにその記
録を紐解き、後世に託された意味を理解する必要がある。
このような背景の下、大平に残された洪水紀念碑を紹介するとともに、沼津市などに残された当時の史料の紹介及びこ
の災害をもたらした気象現象と見られる台風の進路についての考察を試み、更に、この分析に基づく提言も行いたい。
§2 安政六年洪水の沼津近辺での記録
①沼津市大平の「洪水紀念表」
図1 大平「洪水紀念表」の位置
市役所
狩野川
徳倉橋
新城橋
洪水紀念表
2
沼津市大平の新城橋近くの狩野川堤防上に「洪水紀念表」が現存する(2020 年 4 月現在)。「洪水記念表」(注;「表」は
本来的には「標」の間違いではないかと見られる)と正面(西北西面)に大書刻字され、建立年月と建立者の名前が刻されて
いる。
かなり苔むしていて、判読も一部では難しい。沼津市史編さん調査報告書第 5 集の「大平の石仏・石神 2」(*2)でこの
石碑の調査も行われ、それも参考にした読み下しを以下に掲げる。また、同報告書では「元ずっと北側の狩野川の水際に
あったものだが、昭和初期の河川改修により、南側に移されたものである。その後さらに南側の現在位置に移転された。」
記載されている。「その後」というのは恐らくは「新城橋」の流失後の架橋や堤防のかさ上げによると思われる。
東北東面の刻印内容は以下の通り(原碑では縦書きのところを横書きで示す、[ ]は割注を、/ は改行を示す、以下同。
なお、沼津市史編さん調査報告書第5 集の「大平の石仏・石神2」(2)も参考にした)
・A の部分の「亥之満水」下部は以下の通り。
[ 寛政三年八月大風 / 百十八年前 ]
・A の部分の「未之大水」下部は以下の通り。
[ 安政六年七月廿五日東風 / 五十年前 ]
・これら部分の下方に建立者として以下の記述がある。
明治十一年九月 / 原弘一郎 建之
北北西面東北東面 西南西面 南南東面
(およそ南北方向)245mm
(およそ東西方向)300mm
1,975
mm
洪
水
紀
念
表
亥
之
満
水
未
之
大
水
明
治
廿
三
年
寅
八
月
二
十
三
日
大
水
明
治
四
十
年
未
八
月
二
十
四
日
大
水
〇
〇
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・
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〇
〇
〇
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〇
〇
〇
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・
・
・
・
・
・
〇
A
B C
図2 大平「洪水紀念表」の調査(2019.3.31 渡邉による)
3
・B 部には碑の最高部まで寸を単位としたと見られる目盛
・C 部には碑の最高部まで尺を単位としたと見られる目盛と「1」「2」・・「6」の碑元からの尺数とみられる数値がある。
沼津市史編さん調査報告書第5 集の「大平の石仏・石神2」(2)に記載された内容と、紀念表の状況は以下の通り。
図3 はそれぞれ、紀念表の東北東面、北北西面(正面)、西南西面の順。写真1.2 とも筆者撮影2019.3.31
②大平の年代記に記載された記録
「大平年代記、四冊之外四」(*3)に次のような記録がある。
同六乙未年古来稀成大洪水ニ而堤所々破損致切所多、夫ヨリ水押入屋祢迄皆水入、跡ニ流家之有之窪キ場所ハ不流、■(注
1)茂其儘住居難成△(注2)方は少し茂無、家ハ皆四五尺位動、半潰等も七八十軒も為(注3)之、皆潰ニ相成候も四拾軒も有、
地頭所ヨリ茂御米被下、此時圦樋如歟(注4)様ニ拵候而も保不申候ニ付、新規堀替候処能場所江当り是ヨリ保ツ、此九月作
方悪敷候故御出役御見分願候処、牧野様、稲葉様ニ而御出役被遊、其所江御薗村七郎左衛門飛地之願致候、
(*3)の読み下しには以下の注が付与されている。(注1)■は「中」にしんにゅう、 (注2)△は「避」のしんにゅうのない字、
(「譬カ」と添え字あり)、(注3)「有」と添え字、 (注4)「何か」と添え字あり。
残念ながら月日が欠けているが、「同」とは、それより前の記述から「安政」の意と分かり、「同六乙未年」は安政六年。
おそらくは「洪水紀念表」の「未之大水」の記載であろうと推察される。意がやや汲み取りにくい点もあるが、現代語に
すると次のようになろうか。
「安政六年乙未の年、古来希な大洪水に(大平は)見舞われた。堤も何か所かで水により壊され、そこから水があふれ、
民家の屋根の高さまで達した。家々も流された。もともと窪地にあった家は流されなかった(注;文意不明、訳に難あるか?)
とはいえ、そのままでは住み続けられない情況。これを避けることができた家はなかった。家々は四五尺程度流され移動
し、半壊の家は七八十軒にも及んだ。全壊も四十軒ほどあった。地頭からも見舞いの米が届けられている。この際には、
叺(かます)に入れて保管しようとしたものの、その叺さえなく、やむなく新たに掘っ建てで立てた建物にて保管すること
とした。(以下略)」
洪水の当事者であり、後日になってその情況を記載したと見られ、洪水の発生時の状況は略されているが、当時の大平
で多くの家屋が半壊以上の被害を受けたことがわかる。「屋祢迄皆水入」と「屋根まで水につかった」との状況は、おそら
くは氾濫した際の水位が地表2 メートル以上にもなったことを伝えるものか。ただし狩野川の水位の平常時に対する上昇
幅か、当該の土地での浸水高さか不明。
なお、「沼津市大平の民俗的世界」によれば、同「大平年代記」による元禄十四年の戸数は、狩野川沿いからも離れた集
落を含む大平村全体で「大小二百七拾四軒、尤水吞ミ、地借リホハ不入候」とされている(*4)。
③「原宿問屋渡邉八郎右衛門日記」に記載された情況
図3 洪水紀念表 写真1 同左東北東面 写真2 洪水紀念表の堤防から狩野川を望む
4
沼津資料集成 6 の「原宿問屋渡邉八郎右衛門日記」(*5)には現在の沼津市原の宿場の問屋が記録した安政六年七月二十
五日の日記の中に次のような記述がある。なお、以下の江戸時代の不定時法による時刻表記は、グレゴリオ暦での8 月23
日の昼間の時間約13 時間20 分を等分して換算した。
「暁九ツ前より寅方東風烈敷暴雨昼八ツ時頃漸止又晡より西南風大雨夜ニ入不止」
夜の0 時前から東北東の東からの暴風雨。昼の2 時ころ一旦止んだが、その後は南西からの風にかわり大雨となり夜に
入っても止むことはなく続いた。
「八ツ時頃漸止」(昼の 2 時ころ一旦止んだ)として止んだのだのが雨のことか風のことか判断できないが、台風に伴っ
た雨雲なら、場合によっては一旦止むこともあり、風が止んだ可能性もある。
ここで注目すべきはその風雨が「一旦止んだ」の前後の風の向きである。およそ北東から吹いていた風が、「一旦止んだ」
あとは南西からの風に変ったのである。低気圧が通過した前後の様子を思わせる。
④下田に残された当日の記録
下田市史 資料編には安政六年七月二十五日の条に以下の記録が採録掲載されている(*6)。
―町会所日記
「七月廿五日 雨天北風時化 七ツ時頃ヨリ南風相 同断、夜五ツ時地震」
―柿崎村名主日記
「同廿五日 北風大吹大雨 八ツ時頃風凪雨ふる 浪立せらい風」
―中村名主日記
「同廿五日 大風雨ニ而四ツ時ヨリ大水出、御屋敷艜五艘乗込、人足三拾七人差出候事」
―町会所日記
(安政六年)七月廿五日、雨天、北からの風激しく時化る、午後 4 時頃から南からの風になり、やはり時化る。夜の 8 時
頃地震あり
―柿崎村名主日記
(安政六年七月)二十五日、北からの風が激しく吹き大雨、午後2 時頃風雨が一旦止み、その後また雨ふる、波も立つ(注;
「浪立せらい風」の意味が不明、或いは「浪立せ雷風」か、はたまた「浪立ナライ風」か)
―中村名主日記
(安政六年七月)二十五日、大風雨により、午前9 時頃から大水がでる、御屋敷では船五艘に人足37 人を乗り込ませて差
し出した
この中では「町会所日記」と「柿崎村名主日記」の同じような記録の書留として、当時の天候が、当初は「北からの風
が激しかったこと」、それが一旦「午後3 時時頃に凪となり風が止まり」、その後「南からの風にかわった」ことが注目さ
れる。「凪ぐ」は文字通り風が小康状態になった様子だ。
⑤静岡県市町村災害史から(*7) 「1859 年7 月23 日 (安政6 年) 未の満水」(原文のママ)
三島市の災害事例 「台風」
「昼頃より大風雨となり、”近来まれ”な洪水となった。そのため山間の美田は多く礫地となった。」
函南町の災害事例 「台風」
「1859 年7 月23 日 (安政6 年) 未の満水、昼頃より大風雨、翌朝大洪水。」
なお、これらの静岡県市町村災害史による被害例はいずれも「未の満水」を「1859 年7 月23 日 (安政6 年)」としてい
て、本稿検討の「安政六年七月二十五日(2020 年8 月23 日)」と齟齬がある。おそらく暦換算に際しての錯誤か?
§3 関東地方での記録
①江戸の瓦版
「暁卯刻より、丑寅より、大風雨吹ニて、午刻辰巳風はげしく家根板ふきとばし町々人家おびたたしくつぶれ申、刻より
丑之方より又々大風吹出し家夥しくそんじ二十六日朝漸々鎮り申候得共、神奈川横浜外国船陸へ打上ケ横浜町家大半くづ
れ甲州海道小仏辺海道不残崩れ橋流レ、玉川筋大水ニ相成、すみ田川大水、千住深川辺ハ町家ゆかより上迄水上り、三谷
5
図4 安政六年七月廿五日の江戸での暴風雨の瓦版(*8)
辺ハ町大道を船ニて往来いたし、馬入川七月二十二日比より八月二日迄風水とも鎮り申候{袖}安政六年 未七月二十五
日二十六日江戸大雨風之次第 」(注;句読点は筆者による)
②NPO 防災情報機構のまとめた南関東の安政6 年風水害(*9)
安政6 年南関東一円風水害(150 年前)[追補] 1859 年8 月22 日~23 日(安政六年七月二十四日~二十五日)
「嘉永年間(1848 年~1853 年)から明治にかけて幕末を中心とした記録本「嘉明年間録」がこの水害を記録している。
“七月廿四日の夜より翌廿五日に至るまで、大風雨。利根川、荒川満水。利根川の堤は武州忍領北河原村(埼玉県行田市)
にて決壊すること凡そ百五十間(約270m)、荒川堤は同領久下村(熊谷市と鴻巣市)にておなじく五か所、長さ合わせて三百
十七間(約 580m)、その他数か所、(中略)水一時に溢れて、夕七つ時頃(午後 4 時ごろ)より田畑冠水、水の高さ八、九尺余
(2.5~3m)、水上の村々より水一円に押し来たり、床上四、五尺(1.2~1.5m)、五、六尺(1.5~1.8m)の浸水。(中略)忍領か
ら葛西(東京東部の荒川下流一帯)に至る間、人馬家財などの流失数えきれず。(中略)堤切れ口より砂石押し入り、田畑損亡
多く、荒川溢水、中山道往来絶ゆ”
また相模(神奈川県)の河川も相模川などが氾らんした。同川の沿岸にある明窓寺(海老名市、東名高速海老名ジャンクシ
ョン近く)過去帳に“廿五日八つ時、前代未聞の大水、川上所々堤押切、東、河内筋、梁ケタ(はりの長さ)三間(約 5.5m)
八間(約15m)位の家、数々流れ来る(中略)川筋、死人、家、材木多く流れ来る。村内いずれも床へ水上がる”
江戸の荒川沿岸も相模川沿岸も多くの家が床上浸水の被害を出し、はりの長さ、間口と奥行きが5.5mと15mもあるよ
うな大きな家も水に流され田畑が冠水した。この時、暴風雨に見舞われたのは関東から東北にかけてで、江戸や相模川沿
岸だけでなく、桐生や足利方面も大洪水となり、多数の死亡者が出たという。」
この他、関東地方各地に同様な記録が残るが、詳細は未調査。
§4 史料からみた現象の検討
①台風接近にともなう風向きのモデルケース
台風が伊豆半島に上陸または接近した場合、沼津や伊豆地方では、台風による風向きは短時間で大きく変わる。例えば、
令和元年(2019 年)10 月に令和元年東日本台風(台風 19 号)が沼津付近を通過したことについて、筆者は次のような e メー
ルを仲間内に配信している(*10)。
「台風 19 号の件、ご心配ありがとうございます。沼津は無事でした、ギリギリでしたけど。予想していたよりも沼津
の降水は少なく、風も予想よりは小さかったです。昨年の台風(注;2018 年9 月末の台風24 号)の方がよほどシリアスでし
た。風については沼津アルプスという標高2~300mほどの山並みが沼津の市街地の東側にありますので、このつらなりが
北東からの風のガードをしてくれていたのかとも感じています。
今回の雨は台風のコースが原因で天城山の北斜面と箱根で激しかったです。ただ、箱根で多くを降水したようで、やは
り南西風型の台風と比べると沼津の降水量は予想より少なかったのでしょうか。私の感じでも時間 50 ㎜を超えるような
場面は、あることはありましたが、継続時間もそれほど長くなかったです。(中略)
どうも沼津あたりを通ったようで、12 日19:30 頃、それまでの北からの風が一旦止み、その後に西からの風に変りまし
6
た。教科書で書かれているようなシーンに出会いました。台風の目はなかったようです。」
台風が比較的離れた位置にある場合には、台風を取り巻く気圧配置や前線の有無、周辺の山などの配置、海水温や地表
の気温などにより、風向きは一定の公式とおりには吹かない。しかし、台風の中心に近づくと、教科書どおりの風が観察
される場合も多い。すなわち、上昇気流が発達している低気圧たる台風の中心に向かって反時計回りに渦を巻くように風
が生じるのである。そして台風の中心では吹き込んでいた風がとまる。それは台風の目に入った場合である。なお、台風
の中心付近では雲が晴れる場合があり、それを「目」と呼んでいる。なお、台風の目は必ずしも生じるものではない。
図5 台風の中心付近での風の吹きこむ方向の模式図(北半球の場合、上が北を示す)
②安政六年(1859 年)台風の記録からの台風径路の推定
もちろん安政六年当時に全国的な気象観測網があったわけではない。日本で近代的な気象観測としてのデータ収集によ
る天気図の作成は明治十六年(1883 年)であった。この当時、沼津には測候所が開設されていて、その気象観測データが全
国の天気図や天気予報に反映されている(*11)。
原には植松家が帯笑園という植物園を有していて、このため、植松家の日記の中には時折華氏で示された温度観測のデー
タも登場する。余談ではあるが、この植松家の江戸時代の温度観測はある程度まとまっているものとして価値が高く、沼
津の測候所以前の観測として今後の精査も待たれる。
前述したように、現在の沼津市原の「原宿問屋渡邉八郎右衛門日記」と下田市の「町会所日記」「柿崎村名主日記」にこ
の暴風雨前後の風の方向が記載されている。時刻が記載されている場合は、時計が一般化しているわけではないため、や
や曖昧さもある点を考慮しておく必要があろう。その記述の現代語訳を再掲すると以下の通り。
・原
「夜の0 時前から東北東の東からの暴風雨。昼の2 時ころ一旦止んだが、その後は南西からの風にかわり大雨となり夜
に入っても止むことはなく続いた。」
・下田
―町会所日記
「(安政六年)七月廿五日、雨天、北からの風激しく時化る、午後4 時頃から南からの風になり、やはり時化る。夜の8
時頃地震あり」
―柿崎村名主日記
「(安政六年七月)二十五日、北からの風が激しく吹き大雨、午後2 時頃風雨が一旦止み、その後また雨ふる」
これらを時系列で整理し直すと次のようになる(いずれも七月二十五日)。
午前中から 東北東方向の東寄りから暴風雨(原)
(おそらく午前中から) 北からの風激しい(下田、町会所日記)
(おそらく午前中から) 北からの風が激しく吹き大雨(下田、柿崎)
午後2 時頃 一旦止む(原)
午後2 時頃 南西からの風にかわる(原)
このあたりでは東からの風
このあたりでは北東からの風
このあたりでは東からの風
このあたりでは南東からの風
このあたりでは南からの風
このあたりでは西からの風
このあたりで北西からの風
このあたりでは北からの風
このあたりでは南からの風
このあたりでは南西からの風
このあたりでは北からの風
このあたりでは西からの風
台
7
午後2 時頃 風雨が一旦止む(下田、柿崎)
午後4 時頃 南からの風に変る、大雨続く(下田、町会所日記)
夕方 夜まで大雨続く(原)
夕方 (午後2 時以降)その後また雨ふる(下田、柿崎)
ここで注目すべきは、午後の2 時頃に「一旦(風が)止んだ」後に風の方向が変わったことが原と下田で観察され記述さ
れていることだ。観察時刻に幅を持たせると、おそらくは同時に風が止んだのではなく、台風とみられるこの現象の時間
経過に伴い、下田そして沼津で順に風が止んだ、すなわち、台風の中心付近が通過したことを推察させる。そして、それ
に伴い風向きが、ほぼ反対方向からの風に変ったことも台風が下田や原附近を通過した補強となる。
図6-1・2 は原と下田で観察された風の吹いてくる方向、図7-1・2 はその条件を満たす台風の位置の推定である。
図6-1 原と下田で観察された風向(七月二十五日午前) 図6-2 原と下田で観察された風向(七月二十五日午後2 時頃)
図7-1 台風の位置推定(七月二十五日午前) 図7-2 台風の位置推定(七月二十五日午後2 時頃)
安政六年七月二十五日、台風はおそらく静岡県の伊豆半島の石廊崎付近に上陸したものと見られ、その後、東京都立川
市などの多摩地方に進んだと見られる。前述の「嘉明年間録」が「七月廿四日の夜より翌廿五日に至るまで」と伝えてい
た大風雨は、図7 からも推察されるようにまだ台風本体の上陸前からの荒天で、おそらくは、台風接近により、前線が刺
激され、台風の位置からもまだ遠い時期に関東各地で大雨を降らせたものと見られ、それが当時の瓦版や現在の埼玉県な
どに残された災害をもたらした。また、瓦版の中では横浜の外国船の損傷も挙げられているが、この安政六年台風の上陸
日は当時の暦で七月二十五日であり、各地港での差異を考慮しないとすると、同日の満潮は午後2 時頃である。横浜では
高潮か、或いは台風の中心近くの気圧がかなり低かったこと、暴風による波の吹き寄せ効果などで、海面上昇があったの
かもしれない。
原
下田
原
下田
こ
の
矢
印
が
観
察
さ
れ
た
風
の
方
向
台
こ
の
矢
印
が
低
気
圧
に
向
か
っ
て
渦
巻
く
風
の
方
向
台
こ
の
破
線
の
矢
印
が
台
風
の
推
定
進
路
8
③2019 年東日本台風(台風19 号)・ 1958 年狩野川台風の径路との比較
図8 2019 年東日本台風(台風19号)の径路 図9 1958年狩野川台風の経路
静岡地方気象台速報(*12)を基に筆者作図 一般社団法人 中部地域づくり協会(*13)を基に筆者作図
図8 は、上陸寸前には「狩野川台風の再来か」と身構えさせられた2019 年東日本台風(台風19 号)の経路を(静岡地方気
象台が令和元年 10 月17 日に速報としてまとめたもの)。
はからずも、図7-1・2 に示した安政六年七月二十五日の暴風雨を台風と見なした場合の経路と伊豆半島上ではほぼ一
致している。
また、図7-1・2 は図9 の1958 年狩野川台風とも似たような径路であったことが分かる。ただ、狩野川台風は伊豆半島
をかすめ、伊豆半島への上陸はなかったことが大きく異なっている。
§5 仮まとめと提言
①仮まとめ
沼津付近に残された記録調査の依頼から始まった安政六年の「未の満水(または未の大水)」として記録されていた狩野
川の水害は、限られた史料ではあるが、台風と仮定した場合の進路を推定でき、まさに2019 年の東日本台風(台風19 号)
がそれを再現させていたことが分かった。
たまたま、2020 年新型コロナウィルス拡散防止のために各種の公共機関の機能が停止されている中で、更に多くの史料
収集と分析により、より確かな状況の推察と再現が今後もまだ引き続く課題でもある。
2019 年の東日本台風(台風19 号)の際、多くの報道や沼津市民の実感として伝えられているように、口野の放水路の機
能が田方平野の冠水を救うことに大きく寄与した。ただ、それにも拘わらず狩野川河口付近では越水まであと50 センチ
に迫ったのである。あと何時間か雨が狩野川流域で降り続けば危ない情況だったのである。口野の放水路が大きな機能を
果たしたにも拘わらずだ。そこには私たちが見過ごしていた、あるいは種々の事象からあえて立ち入らずに済ませてきた
因子もあるかもしれない。例えば黄瀬川等の支流の合流水の影響などだ。2019 年の場合は、口野の放水路以北で狩野川の
水位を上昇させるような、箱根山麓の降水が狩野川下流域の水位を高めたとも予想させる。
また、清水町徳倉、函南町平井、伊豆の国市など宅地付近の小河川の排水難からの冠水など新たな形の水害が数多く発
生したことも忘れてはならない2019 年台風の回顧である。田畑の宅地化に伴う貯水機能の低下、いわば都市型水害の因
子は沼津市内のそこかしこに存在し拡大していると認識しなければならないだろう。
一方で、狩野川が太平洋側に注ぐ大きな河川としては北流する部分が多いという特殊性については、時折そのような状
況がもたらす洪水のメカニズムの特異性という話題以上の検討はまだ不十分である。また、箱根山西麓や天城山北斜面へ
の降水増加をもたらす仕組みなども検討にも至っていない。更に、支流として大きな黄瀬川の流域がもたらす狩野川への
降水などの流入に関する検討も行われていないように見える。放水路さえあれば沼津は万全だと考えることは危険ですら
ある。このあたりの検討が手つかずで、長年にわたり残されている。今後の努力が待たれる。重い課題である。
②提言
今回の分析で痛感したのは、郷土史が単に市町村レベルで留まってはいけない点だ。このような事例、特に危機管理に
関してはより広域での郷土史連携も必要になる。それによって過去の記憶の再現と対応が可能になるのである。こうした
広域連携には、場合によっては行政の理解や支援も必要になる。
9
かつての洪水の記憶を風化させないために篤志者が建立した大平の「洪水紀念表」も、まさに風化の危機に瀕している。
なによりもそこに刻まれた洪水の高さを意味する尺寸の目盛も、何回かの碑の移転に伴い、目盛の意味を喪失させている
のである。「洪水紀念表」も苔むし、その記憶を回顧することすら難しい状態に置かれている。
国土地理院は新たな地図記号「自然災害伝承碑」を制定し、地形図等に掲載する取組を行い、令和元年6 月19 日から
ウェブ地図サービス「地理院地図」に掲載を始めている。沼津市関連としては「安政元年十一月四日(1854 年12 月23
日)に発生した安政東海地震による現沼津市大岡南小林の土地陥没(注;地震窪)により亡くなった方々を追悼する「震災追
弔の碑」のほか、大平の「洪水紀念表」が寛政三年、安政六年、明治23 年、明治40 年の大水害の状況を記録する碑とし
て取り上げられているほか、昭和49 年の通称七夕豪雨による沼津市獅子浜地区の住宅の裏山土砂崩れの「七夕豪雨慰霊
の碑」、「妙法 横難死亡供養 霊塔」として沼津市内浦長浜の住本寺の参道にある碑の寛延四年豪雨の住本寺の裏山が崩
れたことによる犠牲者供養碑、さらには戸田の「昭和十三年十六年大水害復旧記念碑」、昭和36 年の梅雨前線による集中
豪雨による浸水からの「災害復興記念碑」復旧記念碑などが地図に記されるようになっている(この部分は国土地理院中部
地方測量部web を参考にした https://www.gsi.go.jp/chubu/denshouhi.html)
ことは河川問題に限らない。
「小さなトンネルを抜けると少年の頃の美しき景色があった。」blog(*14)では次のように沼津市浅間町の浅間神社の鳥居
の倒壊を記している。「碑文では大正12 年9 月1 日の大震災で倒壊した鳥居を再建したと記されている。/震災当時の写
真(絵葉書)をみると/『二の鳥居』が柱の根元部分で折れて倒れている。」
沼津市役所HP の「災害事例 地震」の事例には浅間神社事例は紹介されていない。もちろん限られた中での周知という
点からは限界もあるが、このような市民にとって身近で理解しやすい事例の紹介が欠けているのは遺憾に感じられる。
また、別の調査の過程で、西浦小学校の沿革の中の大正11 年4 月26 日記事として「地震のため校舎傾斜」(*15)とい
う記録に筆者は気付いている。この地震は、理科年表の主な被害地震年代表に掲げられた大正11 年(1922)4 月26 日の
地震と同じものかとも見られる。マグニチュードはM6.8 で「浦賀水道地震」とも呼ばれ、東京湾沿岸に被害があり、東
京・横浜で死者各1、家屋・土蔵などに被害があったとされている。寡聞にして、この地震と同じ発生年月日の地震被災
が現在の沼津市にあったことは知らなかった。この西浦小学校情報にも今一度吟味や必要なら対応が求められよう。
気象観測施設の無人化が拡がり、地域の局所的な気象変化を人々に解読広報することにも困難も生じている。喫緊の課
題である。この解決のためには気象予報士などを地域レベルで育成することも必要と考える。
同時に、前述したような記憶の風化を防止する意味で、各地自治会での対応も望まれる。なによりもそれは各地に残さ
れた災害を再確認しながら後世に引き継ぐためだ。洪水紀念表はだれもが認識できるような清掃の維持が必要であろうし、
既に撤去されている大平地区と日守地区の境界に位置していた洪水対策としての水門があった意義を含めた案内板などの
設置が望まれるところである。
国土交通省沼津河川国道事務所が推進する静岡県東部地域大規模氾濫減災協議会の活動展開も期待されるところである。
写真3 2014.10.6 台風18 号 写真4 2016.8 台風9号 写真5 2018.10.4台風24号
平町の旧東海道冠水 写真3~5 は筆者による 口野放水路情況(江間) 暴風による電柱傾き、下香貫前原
§付記
令和元年東日本台風(2019 年台風19 号)が長野県千曲川でも大きな被害を生じさせていたことは記憶に新しい。今回、
安政六年の伊豆での情況をまとめ、それが2019 年台風19号とよく似ていることに気づいたが、念のために台風19 号が
大きな被害をもたらした千曲川で安政六年の記憶が残っていないか、インターネットで検索してみた。
10
ところが思いもかけず、驚くべきことに、直ちにヒットしたのである。
おそらく令和元年東日本台風(台風19 号)と同様に、台風が刺激した
前線の活発化がもたらしたのであろう。ただし、以下の記述の「安政
6(1859)年8 月」がグレゴリオ暦換算されたものか否かが不明で、
必ずしも現段階でこれがここで検討してきた「安政六年台風」と同じ
要因が作用したかどうかは確定できない。
「東御市北御牧羽毛山区には、150 年もの長きに亘って千曲川の氾濫
を食い止めてきた堤がある。安政6(1859)年8 月の水害の際、時の
小諸藩主牧野康哉の命により、5 年の歳月をかけて、当時の技術の粋
を尽くして完成した石積み堤防である。千曲川左岸を走るこの堤防、
長さ576m、最も高きは7.5m、幅最も広き幅は27m。毛羽山堤防(東
御市)」(*16)
安政年間は日本にとっても大変な時代であった。日米和親条約の締結(嘉永七年=安政元年)、安政の大獄(安政五年)、桜
田門外の変(安政七年)などがよく知られているが、沼津近辺では、南海トラフ東海地震(嘉永七年=安政元年)、それに伴う
ロシア船ディアナ号の遭難による代替洋式帆船ヘダ号の完成(安政二年)、東海道筋のコレラ流行(安政五~六年)などもあっ
た。中でもコレラの第一次流行(安政五年)は、当時の沼津宿だけでも死者が109 人に達し(*17)、沼津では2020 年新型コ
ロナウィルス肺炎の比ではないほどの感染症災害であった。
それに加えて安政六年(1859 年)には台風も襲来したのである。その台風とほぼ同じルートや規模での災害は、令和元年
東日本台風(2019 年台風19 号)で、まさに再現させられたのだ。
以上
Remarks and References
(* 1) 岩橋清美・片岡龍峰、「オーロラの日本史-古典籍・古文書にみる記録」、ブックレット<書物をひらく>18、平凡社刊、2019.3
(* 2) 沼津市史編さん調査報告書第5集、「大平の石仏・石神2」、沼津市教育委員会社会教育課編、沼津市教育委員会発行、H5.8、P39-40
(* 3) 「大平年代記、四冊之外四」、沼津市史叢書七、「大平村古記録」、沼津市史編集委員会編集、沼津市教育委員会発行、H12.3、P74
(* 4) 福田アジオ、 「沼津市大平の民俗的世界」、国立歴史民俗博物館研究報告第43 集、1992、p206
(* 5) 「原宿問屋渡邉八郎右衛門日記」、沼津資料集成6、沼津市立駿河図書館刊、S54.2、安政六年七月二十五日の条
(* 6) 下田市史 資料編 3 幕末開港 下の2、下田市史編纂委員会/編集、静岡県下田市教育委員会発行、1998 年、
安政六年七月二十五日の条
(* 7) 静岡県地震防災センター、静岡県市町村災害史、https://www.pref.shizuoka.jp/bousai/e-quakes/shiraberu/higai/saigaishi/index.html
(* 8) 安政六年七月廿五日の江戸での暴風雨の瓦版、小野秀雄コレクション 瓦版 東京大学情報学環図書室
http://www.lib.iii.u-tokyo.ac.jp/collection/ono_k/3.html
(* 9) NPO防災情報機構のまとめた南関東の安政6年風水害、安政6年南関東一円風水害(150年前)[追補]
(出典:池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代後期>安政六年 697頁~698頁」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自
然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>2 近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 112頁:関東地方大風雨」)
(*10) 渡邉美和私信
(*11) 渡邉美和、「沼津に測候所があったころ」、沼津郷土史研究談話会、沼津ふるさと通信創刊号、H28.12、p5-10
(*12) 静岡地方気象台が令和元年 10 月17 日に速報としてまとめたもの
(*13) 「 かのがわ台風 径路」、 一般社団法人 中部地域づくり協会 地域づくり技術研究所、 「近年の災害から学ぶ」
http://www.cck-chubusaigai.jp/kinnen_saigai/19580926.html
(*14) 「小さなトンネルを抜けると少年の頃の美しき景色があった。」 http://natukusa-fuyunami.way-nifty.com/top/2013/08/post-afec.html
(*15) 「にしうら」西浦小学校創立百周年記念誌、沼津市立西浦小学校発行、S51、p152
(*16) 土木・環境しなの技術支援センター、信州の土木遺産、http://www.nagano-nct.ac.jp/eu/dobokuisan/c05.html
(*17) 渡邉美和・松村由紀、「沼津付近の史料から見る江戸時代末期の伝染病流行」、沼津郷土史研究談話会、沼津史談No.68、H29.3、p72
写真6 長野県東御市の毛羽山堤防
土木・環境しなの技術支援センターより(*16)

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  • 1. 1 2020.5.6 沼津の水環境シリーズ1 安政六年(1859 年)台風と沼津 ―2019 年台風19 号は安政六年台風の再現だった― 渡邉美和*a *a WATANABE Yoshikazu 沼津郷土史研究談話会会員・沼津市社会教育委員会委員 junowat@hi3.enjoy.ne.jp §1.はじめに 令和元年9 月の台風15 号の房総半島への上陸に続いて、令和元年(2019 年)10 月12 日に伊豆半島へ上陸したのは台風 19 号(後に令和元年東日本台風と命名)であった。長野県の千曲川や福島県の阿武隈川などの思わぬ地域でも河川の堤防決 壊や洪水を引き起こし、約90 人が犠牲となり、一時は気象台でも昭和33 年(1958 年)の「狩野川台風」という固有名をと もなって、それと同様な災害規模になりかねないとの注意喚起がなされた。狩野川台風で大きな被害を受けた狩野川流域、 そして沼津でも、大きな関心とともに防災体制が敷かれた。不幸中の幸いともいうべきか、沼津付近では、大平や清水町 徳倉付近での住宅地内小河川による冠水などに留まり、一時はあと 50 センチまで迫った狩野川河口付近の増水も氾濫に 至らずにすんだ(なお、本稿では:現行のグレゴリオ暦での年月日は算用数字で、太陽暦採用以前の旧暦は漢数字で示す)。 筆者は 1990 年頃から日本の近世に残る天文現象記録の収集と分析を行ない、日本で見られたオーロラ記録を国文学研 究資料館・国立極地研究所が進めていた学際コラボ研究に提供していた(*1)。そのような関係から平成31 年(2019 年)3 月 に国文学研究資料館の関係者から問合せを受けた。やはりコラボ研究の一環とのことで、江戸時代末期の安政六年(1959 年)に関東地方各地に大きな被害をもたらした、恐らくは台風について、静岡県下や伊豆での記録の有無の問い合わせであ った。大平の洪水の記念碑が思い起こされ、手元にあった当時の沼津近辺や伊豆の年代記・日記などのダイレクトリーを 提供するとともに、筆者は大平の記念碑や文献資料の調査を行った。そしてこの台風が昭和 33 年(1958 年)の狩野川台風 と似たような災害をもたらしていたことに気付いた。 かえすがえすも残念であった。この安政六年(1859 年)台風の実態再現と被災状況の調査がもっと早く進んでいれば、令 和元年東日本台風への被災注意ができたのではないかと忸怩たる思いを抱いたのである。同時に、ほんの少し状況が異な れば沼津にも大きな災害となった令和元年東日本台風も時間の経過ともに忘れてはならないのであり、この総括やまとめ をしておくことは後世に対する私たちの責務でもあると考えた。 そして、更に、似たケースが見られる安政六年洪水も、先人が残した記録は我々に対する警告も含んでいることをもう 一度考えなければならない。このような記録は風化させてはならないのであり、それを防ぐためには事あるごとにその記 録を紐解き、後世に託された意味を理解する必要がある。 このような背景の下、大平に残された洪水紀念碑を紹介するとともに、沼津市などに残された当時の史料の紹介及びこ の災害をもたらした気象現象と見られる台風の進路についての考察を試み、更に、この分析に基づく提言も行いたい。 §2 安政六年洪水の沼津近辺での記録 ①沼津市大平の「洪水紀念表」 図1 大平「洪水紀念表」の位置 市役所 狩野川 徳倉橋 新城橋 洪水紀念表
  • 2. 2 沼津市大平の新城橋近くの狩野川堤防上に「洪水紀念表」が現存する(2020 年 4 月現在)。「洪水記念表」(注;「表」は 本来的には「標」の間違いではないかと見られる)と正面(西北西面)に大書刻字され、建立年月と建立者の名前が刻されて いる。 かなり苔むしていて、判読も一部では難しい。沼津市史編さん調査報告書第 5 集の「大平の石仏・石神 2」(*2)でこの 石碑の調査も行われ、それも参考にした読み下しを以下に掲げる。また、同報告書では「元ずっと北側の狩野川の水際に あったものだが、昭和初期の河川改修により、南側に移されたものである。その後さらに南側の現在位置に移転された。」 記載されている。「その後」というのは恐らくは「新城橋」の流失後の架橋や堤防のかさ上げによると思われる。 東北東面の刻印内容は以下の通り(原碑では縦書きのところを横書きで示す、[ ]は割注を、/ は改行を示す、以下同。 なお、沼津市史編さん調査報告書第5 集の「大平の石仏・石神2」(2)も参考にした) ・A の部分の「亥之満水」下部は以下の通り。 [ 寛政三年八月大風 / 百十八年前 ] ・A の部分の「未之大水」下部は以下の通り。 [ 安政六年七月廿五日東風 / 五十年前 ] ・これら部分の下方に建立者として以下の記述がある。 明治十一年九月 / 原弘一郎 建之 北北西面東北東面 西南西面 南南東面 (およそ南北方向)245mm (およそ東西方向)300mm 1,975 mm 洪 水 紀 念 表 亥 之 満 水 未 之 大 水 明 治 廿 三 年 寅 八 月 二 十 三 日 大 水 明 治 四 十 年 未 八 月 二 十 四 日 大 水 〇 〇 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 〇 〇 〇 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 〇 〇 〇 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 〇 〇 〇 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 〇 A B C 図2 大平「洪水紀念表」の調査(2019.3.31 渡邉による)
  • 3. 3 ・B 部には碑の最高部まで寸を単位としたと見られる目盛 ・C 部には碑の最高部まで尺を単位としたと見られる目盛と「1」「2」・・「6」の碑元からの尺数とみられる数値がある。 沼津市史編さん調査報告書第5 集の「大平の石仏・石神2」(2)に記載された内容と、紀念表の状況は以下の通り。 図3 はそれぞれ、紀念表の東北東面、北北西面(正面)、西南西面の順。写真1.2 とも筆者撮影2019.3.31 ②大平の年代記に記載された記録 「大平年代記、四冊之外四」(*3)に次のような記録がある。 同六乙未年古来稀成大洪水ニ而堤所々破損致切所多、夫ヨリ水押入屋祢迄皆水入、跡ニ流家之有之窪キ場所ハ不流、■(注 1)茂其儘住居難成△(注2)方は少し茂無、家ハ皆四五尺位動、半潰等も七八十軒も為(注3)之、皆潰ニ相成候も四拾軒も有、 地頭所ヨリ茂御米被下、此時圦樋如歟(注4)様ニ拵候而も保不申候ニ付、新規堀替候処能場所江当り是ヨリ保ツ、此九月作 方悪敷候故御出役御見分願候処、牧野様、稲葉様ニ而御出役被遊、其所江御薗村七郎左衛門飛地之願致候、 (*3)の読み下しには以下の注が付与されている。(注1)■は「中」にしんにゅう、 (注2)△は「避」のしんにゅうのない字、 (「譬カ」と添え字あり)、(注3)「有」と添え字、 (注4)「何か」と添え字あり。 残念ながら月日が欠けているが、「同」とは、それより前の記述から「安政」の意と分かり、「同六乙未年」は安政六年。 おそらくは「洪水紀念表」の「未之大水」の記載であろうと推察される。意がやや汲み取りにくい点もあるが、現代語に すると次のようになろうか。 「安政六年乙未の年、古来希な大洪水に(大平は)見舞われた。堤も何か所かで水により壊され、そこから水があふれ、 民家の屋根の高さまで達した。家々も流された。もともと窪地にあった家は流されなかった(注;文意不明、訳に難あるか?) とはいえ、そのままでは住み続けられない情況。これを避けることができた家はなかった。家々は四五尺程度流され移動 し、半壊の家は七八十軒にも及んだ。全壊も四十軒ほどあった。地頭からも見舞いの米が届けられている。この際には、 叺(かます)に入れて保管しようとしたものの、その叺さえなく、やむなく新たに掘っ建てで立てた建物にて保管すること とした。(以下略)」 洪水の当事者であり、後日になってその情況を記載したと見られ、洪水の発生時の状況は略されているが、当時の大平 で多くの家屋が半壊以上の被害を受けたことがわかる。「屋祢迄皆水入」と「屋根まで水につかった」との状況は、おそら くは氾濫した際の水位が地表2 メートル以上にもなったことを伝えるものか。ただし狩野川の水位の平常時に対する上昇 幅か、当該の土地での浸水高さか不明。 なお、「沼津市大平の民俗的世界」によれば、同「大平年代記」による元禄十四年の戸数は、狩野川沿いからも離れた集 落を含む大平村全体で「大小二百七拾四軒、尤水吞ミ、地借リホハ不入候」とされている(*4)。 ③「原宿問屋渡邉八郎右衛門日記」に記載された情況 図3 洪水紀念表 写真1 同左東北東面 写真2 洪水紀念表の堤防から狩野川を望む
  • 4. 4 沼津資料集成 6 の「原宿問屋渡邉八郎右衛門日記」(*5)には現在の沼津市原の宿場の問屋が記録した安政六年七月二十 五日の日記の中に次のような記述がある。なお、以下の江戸時代の不定時法による時刻表記は、グレゴリオ暦での8 月23 日の昼間の時間約13 時間20 分を等分して換算した。 「暁九ツ前より寅方東風烈敷暴雨昼八ツ時頃漸止又晡より西南風大雨夜ニ入不止」 夜の0 時前から東北東の東からの暴風雨。昼の2 時ころ一旦止んだが、その後は南西からの風にかわり大雨となり夜に 入っても止むことはなく続いた。 「八ツ時頃漸止」(昼の 2 時ころ一旦止んだ)として止んだのだのが雨のことか風のことか判断できないが、台風に伴っ た雨雲なら、場合によっては一旦止むこともあり、風が止んだ可能性もある。 ここで注目すべきはその風雨が「一旦止んだ」の前後の風の向きである。およそ北東から吹いていた風が、「一旦止んだ」 あとは南西からの風に変ったのである。低気圧が通過した前後の様子を思わせる。 ④下田に残された当日の記録 下田市史 資料編には安政六年七月二十五日の条に以下の記録が採録掲載されている(*6)。 ―町会所日記 「七月廿五日 雨天北風時化 七ツ時頃ヨリ南風相 同断、夜五ツ時地震」 ―柿崎村名主日記 「同廿五日 北風大吹大雨 八ツ時頃風凪雨ふる 浪立せらい風」 ―中村名主日記 「同廿五日 大風雨ニ而四ツ時ヨリ大水出、御屋敷艜五艘乗込、人足三拾七人差出候事」 ―町会所日記 (安政六年)七月廿五日、雨天、北からの風激しく時化る、午後 4 時頃から南からの風になり、やはり時化る。夜の 8 時 頃地震あり ―柿崎村名主日記 (安政六年七月)二十五日、北からの風が激しく吹き大雨、午後2 時頃風雨が一旦止み、その後また雨ふる、波も立つ(注; 「浪立せらい風」の意味が不明、或いは「浪立せ雷風」か、はたまた「浪立ナライ風」か) ―中村名主日記 (安政六年七月)二十五日、大風雨により、午前9 時頃から大水がでる、御屋敷では船五艘に人足37 人を乗り込ませて差 し出した この中では「町会所日記」と「柿崎村名主日記」の同じような記録の書留として、当時の天候が、当初は「北からの風 が激しかったこと」、それが一旦「午後3 時時頃に凪となり風が止まり」、その後「南からの風にかわった」ことが注目さ れる。「凪ぐ」は文字通り風が小康状態になった様子だ。 ⑤静岡県市町村災害史から(*7) 「1859 年7 月23 日 (安政6 年) 未の満水」(原文のママ) 三島市の災害事例 「台風」 「昼頃より大風雨となり、”近来まれ”な洪水となった。そのため山間の美田は多く礫地となった。」 函南町の災害事例 「台風」 「1859 年7 月23 日 (安政6 年) 未の満水、昼頃より大風雨、翌朝大洪水。」 なお、これらの静岡県市町村災害史による被害例はいずれも「未の満水」を「1859 年7 月23 日 (安政6 年)」としてい て、本稿検討の「安政六年七月二十五日(2020 年8 月23 日)」と齟齬がある。おそらく暦換算に際しての錯誤か? §3 関東地方での記録 ①江戸の瓦版 「暁卯刻より、丑寅より、大風雨吹ニて、午刻辰巳風はげしく家根板ふきとばし町々人家おびたたしくつぶれ申、刻より 丑之方より又々大風吹出し家夥しくそんじ二十六日朝漸々鎮り申候得共、神奈川横浜外国船陸へ打上ケ横浜町家大半くづ れ甲州海道小仏辺海道不残崩れ橋流レ、玉川筋大水ニ相成、すみ田川大水、千住深川辺ハ町家ゆかより上迄水上り、三谷
  • 5. 5 図4 安政六年七月廿五日の江戸での暴風雨の瓦版(*8) 辺ハ町大道を船ニて往来いたし、馬入川七月二十二日比より八月二日迄風水とも鎮り申候{袖}安政六年 未七月二十五 日二十六日江戸大雨風之次第 」(注;句読点は筆者による) ②NPO 防災情報機構のまとめた南関東の安政6 年風水害(*9) 安政6 年南関東一円風水害(150 年前)[追補] 1859 年8 月22 日~23 日(安政六年七月二十四日~二十五日) 「嘉永年間(1848 年~1853 年)から明治にかけて幕末を中心とした記録本「嘉明年間録」がこの水害を記録している。 “七月廿四日の夜より翌廿五日に至るまで、大風雨。利根川、荒川満水。利根川の堤は武州忍領北河原村(埼玉県行田市) にて決壊すること凡そ百五十間(約270m)、荒川堤は同領久下村(熊谷市と鴻巣市)にておなじく五か所、長さ合わせて三百 十七間(約 580m)、その他数か所、(中略)水一時に溢れて、夕七つ時頃(午後 4 時ごろ)より田畑冠水、水の高さ八、九尺余 (2.5~3m)、水上の村々より水一円に押し来たり、床上四、五尺(1.2~1.5m)、五、六尺(1.5~1.8m)の浸水。(中略)忍領か ら葛西(東京東部の荒川下流一帯)に至る間、人馬家財などの流失数えきれず。(中略)堤切れ口より砂石押し入り、田畑損亡 多く、荒川溢水、中山道往来絶ゆ” また相模(神奈川県)の河川も相模川などが氾らんした。同川の沿岸にある明窓寺(海老名市、東名高速海老名ジャンクシ ョン近く)過去帳に“廿五日八つ時、前代未聞の大水、川上所々堤押切、東、河内筋、梁ケタ(はりの長さ)三間(約 5.5m) 八間(約15m)位の家、数々流れ来る(中略)川筋、死人、家、材木多く流れ来る。村内いずれも床へ水上がる” 江戸の荒川沿岸も相模川沿岸も多くの家が床上浸水の被害を出し、はりの長さ、間口と奥行きが5.5mと15mもあるよ うな大きな家も水に流され田畑が冠水した。この時、暴風雨に見舞われたのは関東から東北にかけてで、江戸や相模川沿 岸だけでなく、桐生や足利方面も大洪水となり、多数の死亡者が出たという。」 この他、関東地方各地に同様な記録が残るが、詳細は未調査。 §4 史料からみた現象の検討 ①台風接近にともなう風向きのモデルケース 台風が伊豆半島に上陸または接近した場合、沼津や伊豆地方では、台風による風向きは短時間で大きく変わる。例えば、 令和元年(2019 年)10 月に令和元年東日本台風(台風 19 号)が沼津付近を通過したことについて、筆者は次のような e メー ルを仲間内に配信している(*10)。 「台風 19 号の件、ご心配ありがとうございます。沼津は無事でした、ギリギリでしたけど。予想していたよりも沼津 の降水は少なく、風も予想よりは小さかったです。昨年の台風(注;2018 年9 月末の台風24 号)の方がよほどシリアスでし た。風については沼津アルプスという標高2~300mほどの山並みが沼津の市街地の東側にありますので、このつらなりが 北東からの風のガードをしてくれていたのかとも感じています。 今回の雨は台風のコースが原因で天城山の北斜面と箱根で激しかったです。ただ、箱根で多くを降水したようで、やは り南西風型の台風と比べると沼津の降水量は予想より少なかったのでしょうか。私の感じでも時間 50 ㎜を超えるような 場面は、あることはありましたが、継続時間もそれほど長くなかったです。(中略) どうも沼津あたりを通ったようで、12 日19:30 頃、それまでの北からの風が一旦止み、その後に西からの風に変りまし
  • 6. 6 た。教科書で書かれているようなシーンに出会いました。台風の目はなかったようです。」 台風が比較的離れた位置にある場合には、台風を取り巻く気圧配置や前線の有無、周辺の山などの配置、海水温や地表 の気温などにより、風向きは一定の公式とおりには吹かない。しかし、台風の中心に近づくと、教科書どおりの風が観察 される場合も多い。すなわち、上昇気流が発達している低気圧たる台風の中心に向かって反時計回りに渦を巻くように風 が生じるのである。そして台風の中心では吹き込んでいた風がとまる。それは台風の目に入った場合である。なお、台風 の中心付近では雲が晴れる場合があり、それを「目」と呼んでいる。なお、台風の目は必ずしも生じるものではない。 図5 台風の中心付近での風の吹きこむ方向の模式図(北半球の場合、上が北を示す) ②安政六年(1859 年)台風の記録からの台風径路の推定 もちろん安政六年当時に全国的な気象観測網があったわけではない。日本で近代的な気象観測としてのデータ収集によ る天気図の作成は明治十六年(1883 年)であった。この当時、沼津には測候所が開設されていて、その気象観測データが全 国の天気図や天気予報に反映されている(*11)。 原には植松家が帯笑園という植物園を有していて、このため、植松家の日記の中には時折華氏で示された温度観測のデー タも登場する。余談ではあるが、この植松家の江戸時代の温度観測はある程度まとまっているものとして価値が高く、沼 津の測候所以前の観測として今後の精査も待たれる。 前述したように、現在の沼津市原の「原宿問屋渡邉八郎右衛門日記」と下田市の「町会所日記」「柿崎村名主日記」にこ の暴風雨前後の風の方向が記載されている。時刻が記載されている場合は、時計が一般化しているわけではないため、や や曖昧さもある点を考慮しておく必要があろう。その記述の現代語訳を再掲すると以下の通り。 ・原 「夜の0 時前から東北東の東からの暴風雨。昼の2 時ころ一旦止んだが、その後は南西からの風にかわり大雨となり夜 に入っても止むことはなく続いた。」 ・下田 ―町会所日記 「(安政六年)七月廿五日、雨天、北からの風激しく時化る、午後4 時頃から南からの風になり、やはり時化る。夜の8 時頃地震あり」 ―柿崎村名主日記 「(安政六年七月)二十五日、北からの風が激しく吹き大雨、午後2 時頃風雨が一旦止み、その後また雨ふる」 これらを時系列で整理し直すと次のようになる(いずれも七月二十五日)。 午前中から 東北東方向の東寄りから暴風雨(原) (おそらく午前中から) 北からの風激しい(下田、町会所日記) (おそらく午前中から) 北からの風が激しく吹き大雨(下田、柿崎) 午後2 時頃 一旦止む(原) 午後2 時頃 南西からの風にかわる(原) このあたりでは東からの風 このあたりでは北東からの風 このあたりでは東からの風 このあたりでは南東からの風 このあたりでは南からの風 このあたりでは西からの風 このあたりで北西からの風 このあたりでは北からの風 このあたりでは南からの風 このあたりでは南西からの風 このあたりでは北からの風 このあたりでは西からの風 台
  • 7. 7 午後2 時頃 風雨が一旦止む(下田、柿崎) 午後4 時頃 南からの風に変る、大雨続く(下田、町会所日記) 夕方 夜まで大雨続く(原) 夕方 (午後2 時以降)その後また雨ふる(下田、柿崎) ここで注目すべきは、午後の2 時頃に「一旦(風が)止んだ」後に風の方向が変わったことが原と下田で観察され記述さ れていることだ。観察時刻に幅を持たせると、おそらくは同時に風が止んだのではなく、台風とみられるこの現象の時間 経過に伴い、下田そして沼津で順に風が止んだ、すなわち、台風の中心付近が通過したことを推察させる。そして、それ に伴い風向きが、ほぼ反対方向からの風に変ったことも台風が下田や原附近を通過した補強となる。 図6-1・2 は原と下田で観察された風の吹いてくる方向、図7-1・2 はその条件を満たす台風の位置の推定である。 図6-1 原と下田で観察された風向(七月二十五日午前) 図6-2 原と下田で観察された風向(七月二十五日午後2 時頃) 図7-1 台風の位置推定(七月二十五日午前) 図7-2 台風の位置推定(七月二十五日午後2 時頃) 安政六年七月二十五日、台風はおそらく静岡県の伊豆半島の石廊崎付近に上陸したものと見られ、その後、東京都立川 市などの多摩地方に進んだと見られる。前述の「嘉明年間録」が「七月廿四日の夜より翌廿五日に至るまで」と伝えてい た大風雨は、図7 からも推察されるようにまだ台風本体の上陸前からの荒天で、おそらくは、台風接近により、前線が刺 激され、台風の位置からもまだ遠い時期に関東各地で大雨を降らせたものと見られ、それが当時の瓦版や現在の埼玉県な どに残された災害をもたらした。また、瓦版の中では横浜の外国船の損傷も挙げられているが、この安政六年台風の上陸 日は当時の暦で七月二十五日であり、各地港での差異を考慮しないとすると、同日の満潮は午後2 時頃である。横浜では 高潮か、或いは台風の中心近くの気圧がかなり低かったこと、暴風による波の吹き寄せ効果などで、海面上昇があったの かもしれない。 原 下田 原 下田 こ の 矢 印 が 観 察 さ れ た 風 の 方 向 台 こ の 矢 印 が 低 気 圧 に 向 か っ て 渦 巻 く 風 の 方 向 台 こ の 破 線 の 矢 印 が 台 風 の 推 定 進 路
  • 8. 8 ③2019 年東日本台風(台風19 号)・ 1958 年狩野川台風の径路との比較 図8 2019 年東日本台風(台風19号)の径路 図9 1958年狩野川台風の経路 静岡地方気象台速報(*12)を基に筆者作図 一般社団法人 中部地域づくり協会(*13)を基に筆者作図 図8 は、上陸寸前には「狩野川台風の再来か」と身構えさせられた2019 年東日本台風(台風19 号)の経路を(静岡地方気 象台が令和元年 10 月17 日に速報としてまとめたもの)。 はからずも、図7-1・2 に示した安政六年七月二十五日の暴風雨を台風と見なした場合の経路と伊豆半島上ではほぼ一 致している。 また、図7-1・2 は図9 の1958 年狩野川台風とも似たような径路であったことが分かる。ただ、狩野川台風は伊豆半島 をかすめ、伊豆半島への上陸はなかったことが大きく異なっている。 §5 仮まとめと提言 ①仮まとめ 沼津付近に残された記録調査の依頼から始まった安政六年の「未の満水(または未の大水)」として記録されていた狩野 川の水害は、限られた史料ではあるが、台風と仮定した場合の進路を推定でき、まさに2019 年の東日本台風(台風19 号) がそれを再現させていたことが分かった。 たまたま、2020 年新型コロナウィルス拡散防止のために各種の公共機関の機能が停止されている中で、更に多くの史料 収集と分析により、より確かな状況の推察と再現が今後もまだ引き続く課題でもある。 2019 年の東日本台風(台風19 号)の際、多くの報道や沼津市民の実感として伝えられているように、口野の放水路の機 能が田方平野の冠水を救うことに大きく寄与した。ただ、それにも拘わらず狩野川河口付近では越水まであと50 センチ に迫ったのである。あと何時間か雨が狩野川流域で降り続けば危ない情況だったのである。口野の放水路が大きな機能を 果たしたにも拘わらずだ。そこには私たちが見過ごしていた、あるいは種々の事象からあえて立ち入らずに済ませてきた 因子もあるかもしれない。例えば黄瀬川等の支流の合流水の影響などだ。2019 年の場合は、口野の放水路以北で狩野川の 水位を上昇させるような、箱根山麓の降水が狩野川下流域の水位を高めたとも予想させる。 また、清水町徳倉、函南町平井、伊豆の国市など宅地付近の小河川の排水難からの冠水など新たな形の水害が数多く発 生したことも忘れてはならない2019 年台風の回顧である。田畑の宅地化に伴う貯水機能の低下、いわば都市型水害の因 子は沼津市内のそこかしこに存在し拡大していると認識しなければならないだろう。 一方で、狩野川が太平洋側に注ぐ大きな河川としては北流する部分が多いという特殊性については、時折そのような状 況がもたらす洪水のメカニズムの特異性という話題以上の検討はまだ不十分である。また、箱根山西麓や天城山北斜面へ の降水増加をもたらす仕組みなども検討にも至っていない。更に、支流として大きな黄瀬川の流域がもたらす狩野川への 降水などの流入に関する検討も行われていないように見える。放水路さえあれば沼津は万全だと考えることは危険ですら ある。このあたりの検討が手つかずで、長年にわたり残されている。今後の努力が待たれる。重い課題である。 ②提言 今回の分析で痛感したのは、郷土史が単に市町村レベルで留まってはいけない点だ。このような事例、特に危機管理に 関してはより広域での郷土史連携も必要になる。それによって過去の記憶の再現と対応が可能になるのである。こうした 広域連携には、場合によっては行政の理解や支援も必要になる。
  • 9. 9 かつての洪水の記憶を風化させないために篤志者が建立した大平の「洪水紀念表」も、まさに風化の危機に瀕している。 なによりもそこに刻まれた洪水の高さを意味する尺寸の目盛も、何回かの碑の移転に伴い、目盛の意味を喪失させている のである。「洪水紀念表」も苔むし、その記憶を回顧することすら難しい状態に置かれている。 国土地理院は新たな地図記号「自然災害伝承碑」を制定し、地形図等に掲載する取組を行い、令和元年6 月19 日から ウェブ地図サービス「地理院地図」に掲載を始めている。沼津市関連としては「安政元年十一月四日(1854 年12 月23 日)に発生した安政東海地震による現沼津市大岡南小林の土地陥没(注;地震窪)により亡くなった方々を追悼する「震災追 弔の碑」のほか、大平の「洪水紀念表」が寛政三年、安政六年、明治23 年、明治40 年の大水害の状況を記録する碑とし て取り上げられているほか、昭和49 年の通称七夕豪雨による沼津市獅子浜地区の住宅の裏山土砂崩れの「七夕豪雨慰霊 の碑」、「妙法 横難死亡供養 霊塔」として沼津市内浦長浜の住本寺の参道にある碑の寛延四年豪雨の住本寺の裏山が崩 れたことによる犠牲者供養碑、さらには戸田の「昭和十三年十六年大水害復旧記念碑」、昭和36 年の梅雨前線による集中 豪雨による浸水からの「災害復興記念碑」復旧記念碑などが地図に記されるようになっている(この部分は国土地理院中部 地方測量部web を参考にした https://www.gsi.go.jp/chubu/denshouhi.html) ことは河川問題に限らない。 「小さなトンネルを抜けると少年の頃の美しき景色があった。」blog(*14)では次のように沼津市浅間町の浅間神社の鳥居 の倒壊を記している。「碑文では大正12 年9 月1 日の大震災で倒壊した鳥居を再建したと記されている。/震災当時の写 真(絵葉書)をみると/『二の鳥居』が柱の根元部分で折れて倒れている。」 沼津市役所HP の「災害事例 地震」の事例には浅間神社事例は紹介されていない。もちろん限られた中での周知という 点からは限界もあるが、このような市民にとって身近で理解しやすい事例の紹介が欠けているのは遺憾に感じられる。 また、別の調査の過程で、西浦小学校の沿革の中の大正11 年4 月26 日記事として「地震のため校舎傾斜」(*15)とい う記録に筆者は気付いている。この地震は、理科年表の主な被害地震年代表に掲げられた大正11 年(1922)4 月26 日の 地震と同じものかとも見られる。マグニチュードはM6.8 で「浦賀水道地震」とも呼ばれ、東京湾沿岸に被害があり、東 京・横浜で死者各1、家屋・土蔵などに被害があったとされている。寡聞にして、この地震と同じ発生年月日の地震被災 が現在の沼津市にあったことは知らなかった。この西浦小学校情報にも今一度吟味や必要なら対応が求められよう。 気象観測施設の無人化が拡がり、地域の局所的な気象変化を人々に解読広報することにも困難も生じている。喫緊の課 題である。この解決のためには気象予報士などを地域レベルで育成することも必要と考える。 同時に、前述したような記憶の風化を防止する意味で、各地自治会での対応も望まれる。なによりもそれは各地に残さ れた災害を再確認しながら後世に引き継ぐためだ。洪水紀念表はだれもが認識できるような清掃の維持が必要であろうし、 既に撤去されている大平地区と日守地区の境界に位置していた洪水対策としての水門があった意義を含めた案内板などの 設置が望まれるところである。 国土交通省沼津河川国道事務所が推進する静岡県東部地域大規模氾濫減災協議会の活動展開も期待されるところである。 写真3 2014.10.6 台風18 号 写真4 2016.8 台風9号 写真5 2018.10.4台風24号 平町の旧東海道冠水 写真3~5 は筆者による 口野放水路情況(江間) 暴風による電柱傾き、下香貫前原 §付記 令和元年東日本台風(2019 年台風19 号)が長野県千曲川でも大きな被害を生じさせていたことは記憶に新しい。今回、 安政六年の伊豆での情況をまとめ、それが2019 年台風19号とよく似ていることに気づいたが、念のために台風19 号が 大きな被害をもたらした千曲川で安政六年の記憶が残っていないか、インターネットで検索してみた。
  • 10. 10 ところが思いもかけず、驚くべきことに、直ちにヒットしたのである。 おそらく令和元年東日本台風(台風19 号)と同様に、台風が刺激した 前線の活発化がもたらしたのであろう。ただし、以下の記述の「安政 6(1859)年8 月」がグレゴリオ暦換算されたものか否かが不明で、 必ずしも現段階でこれがここで検討してきた「安政六年台風」と同じ 要因が作用したかどうかは確定できない。 「東御市北御牧羽毛山区には、150 年もの長きに亘って千曲川の氾濫 を食い止めてきた堤がある。安政6(1859)年8 月の水害の際、時の 小諸藩主牧野康哉の命により、5 年の歳月をかけて、当時の技術の粋 を尽くして完成した石積み堤防である。千曲川左岸を走るこの堤防、 長さ576m、最も高きは7.5m、幅最も広き幅は27m。毛羽山堤防(東 御市)」(*16) 安政年間は日本にとっても大変な時代であった。日米和親条約の締結(嘉永七年=安政元年)、安政の大獄(安政五年)、桜 田門外の変(安政七年)などがよく知られているが、沼津近辺では、南海トラフ東海地震(嘉永七年=安政元年)、それに伴う ロシア船ディアナ号の遭難による代替洋式帆船ヘダ号の完成(安政二年)、東海道筋のコレラ流行(安政五~六年)などもあっ た。中でもコレラの第一次流行(安政五年)は、当時の沼津宿だけでも死者が109 人に達し(*17)、沼津では2020 年新型コ ロナウィルス肺炎の比ではないほどの感染症災害であった。 それに加えて安政六年(1859 年)には台風も襲来したのである。その台風とほぼ同じルートや規模での災害は、令和元年 東日本台風(2019 年台風19 号)で、まさに再現させられたのだ。 以上 Remarks and References (* 1) 岩橋清美・片岡龍峰、「オーロラの日本史-古典籍・古文書にみる記録」、ブックレット<書物をひらく>18、平凡社刊、2019.3 (* 2) 沼津市史編さん調査報告書第5集、「大平の石仏・石神2」、沼津市教育委員会社会教育課編、沼津市教育委員会発行、H5.8、P39-40 (* 3) 「大平年代記、四冊之外四」、沼津市史叢書七、「大平村古記録」、沼津市史編集委員会編集、沼津市教育委員会発行、H12.3、P74 (* 4) 福田アジオ、 「沼津市大平の民俗的世界」、国立歴史民俗博物館研究報告第43 集、1992、p206 (* 5) 「原宿問屋渡邉八郎右衛門日記」、沼津資料集成6、沼津市立駿河図書館刊、S54.2、安政六年七月二十五日の条 (* 6) 下田市史 資料編 3 幕末開港 下の2、下田市史編纂委員会/編集、静岡県下田市教育委員会発行、1998 年、 安政六年七月二十五日の条 (* 7) 静岡県地震防災センター、静岡県市町村災害史、https://www.pref.shizuoka.jp/bousai/e-quakes/shiraberu/higai/saigaishi/index.html (* 8) 安政六年七月廿五日の江戸での暴風雨の瓦版、小野秀雄コレクション 瓦版 東京大学情報学環図書室 http://www.lib.iii.u-tokyo.ac.jp/collection/ono_k/3.html (* 9) NPO防災情報機構のまとめた南関東の安政6年風水害、安政6年南関東一円風水害(150年前)[追補] (出典:池田正一郎著「日本災変通志>近世 江戸時代後期>安政六年 697頁~698頁」、小倉一徳編、力武常次、竹田厚監修「日本の自 然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歷史>2 近世の災害>江戸時代の主要災害一覧 112頁:関東地方大風雨」) (*10) 渡邉美和私信 (*11) 渡邉美和、「沼津に測候所があったころ」、沼津郷土史研究談話会、沼津ふるさと通信創刊号、H28.12、p5-10 (*12) 静岡地方気象台が令和元年 10 月17 日に速報としてまとめたもの (*13) 「 かのがわ台風 径路」、 一般社団法人 中部地域づくり協会 地域づくり技術研究所、 「近年の災害から学ぶ」 http://www.cck-chubusaigai.jp/kinnen_saigai/19580926.html (*14) 「小さなトンネルを抜けると少年の頃の美しき景色があった。」 http://natukusa-fuyunami.way-nifty.com/top/2013/08/post-afec.html (*15) 「にしうら」西浦小学校創立百周年記念誌、沼津市立西浦小学校発行、S51、p152 (*16) 土木・環境しなの技術支援センター、信州の土木遺産、http://www.nagano-nct.ac.jp/eu/dobokuisan/c05.html (*17) 渡邉美和・松村由紀、「沼津付近の史料から見る江戸時代末期の伝染病流行」、沼津郷土史研究談話会、沼津史談No.68、H29.3、p72 写真6 長野県東御市の毛羽山堤防 土木・環境しなの技術支援センターより(*16)