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日本における近代統計の先駆者。長崎県に生まれる。孤児のような境遇のなかで、苦労して
オランダ語、フランス語を学ぶ。オランダの書物から統計の存在を知り、その重要さを認識す
る。勝海舟の門人となり幕府に仕え、後に明治政府に招かれる。日本における官庁統計の創設
に貢献するとともに、その普及にも大いに努力した。 <世界大百科事典 第2版より>
年(西暦) 年令 摘 要(要 旨)
文政11年(1828) 1
10月10日、杉泰輔〔*〕の1人息子(長男)として肥前國長崎(長崎市本籠町→籠町)に生れる。
初名は純道(じゅんどう)という。 〔*〕両親は文政~天保年間、裕福な酒店を開いていた。(海舟余談)
幼少時5、6歳頃の思い出として、後年自伝で(ィ)豚の尻尾、(ㇿ)角力見物、(ㇵ)7代目団十郎の芝
居見物、(ニ)凧揚げ,(ホ)支那祭り、(ヘ)唐人騒動、(ㇳ)漂流朝鮮人などを語っている。
天保8年(1837)
頃~
10歳
頃~
既に両親と死別し、兄弟もなく天涯孤独となり祖父敬輔(医者)に育てられる。働かなければなら
ず祖父の門人の世話で上野舶来店〔*〕に奉公に出る。
〔*〕この店では、機械器具や蘭書などを扱っていたため、長崎を訪れていた蘭学生には、上野邸に出入り
の者が多かった。この中に適塾開校前の緒方洪庵らがいた。 向学心に心を萌やし働きながら学問に
打ち込む。上野舶来店に出入りの村田徹斎や緒方洪庵らに経書を学ぶ。店主上野俊乃丞(公儀の時
計師)の子息は、日本の写真界の始祖といわれる上野彦馬氏である。
弘化2年(1845) 18
上野舶来店を辞め、大村に移り大村藩の藩医村田徹斎の書生となる。いろいろ手伝いながら、
鉄斎先生の蔵書を借りて、片っ端から読みあさる日々を過ごす。
嘉永2年(1849) 22
大阪に出て、上野氏の紹介状をもって緒方洪庵の適塾〔*〕に入門する。無一文だったので師洪
庵の了解を得て、按摩や写本のアルバイトをしながら学費を稼いでいた。 病(脚気)のため同年
いったん帰国する。再び大村藩医村田徹斎の書生となる。
〔*〕この時適塾には、大村益次郎・福澤諭吉・橋本左内・長与専斎・佐野常民・箕作秋坪らの諸氏がいた。
嘉永3年(1850) 23
2月、師の村田徹斎が大村藩の江戸詰めに任命されるのに同行して江戸に上る。 江戸に出た
当初は書生遍歴をしている。 蘭書の字引きの読解力も増していったようである。
嘉永4年(1851) 24
信州松代藩の村上英俊〔*〕を援けて仏蘭西字書「ハルマ」を翻訳編集。
〔*〕村上英俊氏は仏蘭西学をもって頗る偉功のあった人で、明治18年仏蘭西大統領から勲章を贈られて
いる。明治23年84歳で没している。
嘉永4年(1851) 25
「ハルマ」翻訳のアシスタントをして、少しではあるが学費が稼げたため、杉田成卿〔*〕の塾に入
門する。 〔*〕杉田成卿は、緒方洪庵と同じく、坪井信良先生を師としてたが、当時蘭医として名高く、解体
新書の杉田玄白の孫である。特に成卿先生は、蘭学に造詣が深く、独逸語や露西亜語も読めた。
嘉永6年(1853) 26
中津藩士岡見彦三に請われ、築地鉄砲洲の奥平邸中屋敷で蘭学教授(月2両で、1軒の住居と下
僕1人を与えられる)。 奥平邸退散の後、深川館林藩医立花正甫の家に仮寓する。 仮寓中、そ
の人徳を慕っていた勝海舟が赤坂田町(後に氷川町に移る)に住んでいることを知り、立花氏を促し
て面会する。以後、数回訪ねるうちにその私塾長として住込む。
←壮年幕末沼津期
~明治太政官頃?
70歳当時→
の肖像写真
嘉永6年(1853)
~安政2年頃
26~
28
海舟邸生活…伊沢美作守(ペルリ接待時長崎奉行・現大目付・町奉行なども勤める、3500石旗本)と懇
意になる。 紀州藩の附家老水野土佐守の屋敷内(市ヶ谷浄瑠璃坂)の丹鶴書院で蘭学を教授す
る。(月6日講義して五人扶持・およそ2年間勤めている)
安政2年(1855) 28
勝海舟の推挙により老中阿部正弘に仕える〔*〕。 この頃、欧州への留学の嘆願書を提出して
いたが、阿部正弘の急逝により留学は実現しなかった。 杉は生涯で一度も外国に行く機会に
恵まれなかった。 〔*〕勝は杉を海軍伝習所の推薦名簿に入れたが、老中阿部は勝の推薦理由を聴い
て“それは立派な人物だ、遠くへ行かせるのは惜しい、私の邸へ来て仕事を手伝って貰えないだろう
か”と懇願し、勝は杉の将来を考えて阿部邸への奉職を勧めている。
安政3年(1855) 29
阿部家への奉職、蘭学教授等で収入も安定したので所帯をもつ。福山藩の先輩である石川和
介の媒酌で老中阿部家の側役中林勘之助の妹「金(きん)子」(当時18歳)と結婚する。住まいも
本郷の阿部家中屋敷の表門付近に、一軒の家を求めて住居としている。
万延元年(1860) 33
阿部伊勢守の逝去後、1月29日、江戸幕府の蕃所調所(教授方手伝い)に就職〔*〕する。
〔*〕この時の初任給は、15人扶持、10両、後に20人扶持、15両を給する。
元治元年(1864) 37
8月11日、蕃所調所(開成所)教授並〔*〕となる。 この頃、外交文書や外国新聞を翻訳して幕府
に提供する立場となる。オランダの新聞に掲載されていたドイツ国内(バイエルン)の識字率につ
いての記述に触れ、後の統計学に関わるきっかけとなったと、杉は後年回想している。
〔*〕この時の給与は、30人扶持、役料25両と大幅にベースアップされている。 蕃所調所には同時期、短
期間であったが外国方通弁として福沢諭吉もいた。
慶応元年(1865) 38 純道を「享二」と改名する。
慶応2年(1866) 40
幕府の命でオランダのライデン大学に留学していた津田真道・西周(後の沼津兵学校頭取・校長)
らが帰国(前年12月)し、開成所に出勤する。 両氏の持ち帰った ライデン大学の法科教授シモ
ン・ヒッセリ ング教授の講義ノートを見開きする中で、人口統計の部分に惹かれる。「これは世
の中のことがわかる、面白いものだと思って…<中略>…それから益々深入りした」(自叙伝)という。
明治元年(1868) 41
12月、德川家の駿河移住に従って駿府に移住〔*〕する。この頃、清水次郎長(山本長五郎)に開
墾を勧めている。製塩についても試験している。(自叙伝)
〔*〕当時、義甥の杉徳次郎氏が、共に駿河に移住している。徳川家の静岡学問所でも教鞭をとる。
明治2年(1869) 42
「駿河国人別調」を実施したが、藩上層部の反対で一部地域の調査を行うにとどまった。一部地
域とは「駿河国沼津政表」・「駿河国原政表」のことで、日本最初のセンサス(国勢調査)といえる。
沼津兵学校二等教授としてフランス語の教授を勤める〔*〕。 周知の西周が沼津兵学校校長で
ある。 〔*〕沼津奉行阿部国之助氏の世話で沼津在香貫村に移って家族を呼び寄せた。(既に4人の愛
児の父)その後、一端、富士郡神谷村(吉原)に引っ越すがまた沼津に戻っている。
明治3年(1870) 43 7月11日、民部省十二等出仕〔*〕となる。 〔*〕判任官・少主記・月給25円(当時官職表による)
明治3年(1870) 43 9月9日、民部省十二等出仕免ぜられる。三ヵ条の建白書を提出して沼津へ帰る。
明治4年(1871) 44
9月20日に太政官の吏官から御用召が来る。 12月24日、政府へ出仕し、太政官正院政表課
大主記(現在の総務省統計局長)〔*〕を命じられる。 部下の課員は9名であった。 これは前年の
建白書に従って政表の取調を主管とするポストである。
〔*〕太政官正院の大主記の等級は、判任官のトップ職で8等・月給70円である。
明治5年(1872) 45
4月、日本政表第1巻“辛未政表”〔*〕を完成させる。
〔*〕政府総合統計書の最古のもので「日本統計年鑑」の前身にあたる。ただし、当時は資料もほとんどな
く収めるところは明治4年(辛未)現在の官員の族籍・官禄月給・諸費用その他にすぎなかった。その
後、「明治6年政表」「明治7年政表」として刊行され、明治8年以降の分は単に「日本政表」と題して明
治11年まで刊行されている。
明治6年(1873) 46
明六社の結成に参加する。会長は森有礼、明治時代初期に設立された日本最初の近代的啓
蒙学術団体である。 杉亨二をはじめ福沢諭吉、津田真道、西周、加藤弘之、箕作秋坪、箕作
麟祥、西村茂樹、中村正直が結成参加者である。 様々な政表等の編集の傍ら、翻訳書の刊
行もしている。 「世界貿易航海史」・「国勢党派論」など。
明治9年(1876) 49
2月11日、統計関係者有志十余名と表記学社(スタチステック社→統計学社)を創設〔*〕する。統計
の研究と普及に努める。 〔*〕現在の一般財団法人日本統計協会の前身である。
明治9年(1876) 49
5月23日、正六位〔*〕となる。
〔*〕正六位は、太政官正院では奉任官5等職・権大外史・少内史で月給200円。
明治10年(1877) 50 1月18日、権大書記官(奏任官五等)〔*〕となる。 〔*〕権大書記官は、明治10年1月職制改正による。
明治11年(1878) 51
12月18日、有志15名と製表のことを詢議する主意で“製表社”〔*〕を創設する。
〔*〕その後東京統計協会となり、昭和19年4月、統計学社と合併、現在の日本統計協会となる。
本「杉 享二生涯歴史年表」は、『杉亨二伝』(加地成雄著・昭和35年刊)及び日本統計協会HP等の諸情報に
より編集・作成したものである。摘要・要旨欄については一部、注釈等(*)を加えました。
「杉 享二 生涯歴史年表」編集作成/沼津市史談会 会員 飯田善行(2019/10)
明治12年(1879) 52
4月2日、太政大臣三条実美から山梨県令へ山梨県人別調として杉亨二権大書記官を差し遣
わす旨の通知する。 杉は属官の筆頭世良太一氏〔*〕を伴って山梨県へ出張する。
〔*〕世良太一は、後年、杉亨二の米寿祝いの際、目を患う杉の「自叙伝」を口述筆記でまとめる。
12月31日、「駿河国人別調」の経験を踏まえて、政表課職員を率いて山梨県を試験的に「甲斐
国現在人別調」を実施する。これは、個別世帯票を用いて、人口の性別、年齢、年齢、配偶関
係、出身地、職業などを記録・集計するもので、日本における国政調査の先駆といえる。この時
の甲斐國の現在人数は397,416という結果を得た。また、官庁統計年鑑を編集。
明治12年(1879) 52
日本学士院の前身である「東京学士会院」が福澤諭吉を会長として設立される。 設立時、杉を
含む7名を文部大輔(田中不二麿)宛て書簡で推挙する。 杉は学士会院の会員となっている。
明治14年(1881) 54 6月22日、統計院創設の際に太政官統計院大書記官(トップの統計院長は大隈重信)となる。
明治15年(1882) 55 12月29日、勲五等となり雙光旭日章を授かる。
明治16年(1883) 56
前年5月政府に統計学教授所設置に関する上申書を提出したが、却下されたため杉亨二
をはじめ統計院職員が発起人になって、6月9日東京九段下に共立統計学校を設立する。
設立時の統計院長の鳥尾小弥太氏〔*〕が所長に就任し、杉は自ら教授長に就任する。
〔*〕山口県萩出身の長州藩士、江川英龍に砲術を学ぶ、戊辰戦争では参謀、陸軍中将(最終階級)、この
時の統計院長への就任は左遷人事と言われている。前任の統計院長は大隈重信であった。
明治18年(1885) 58
12月、太政官が廃止され、新たに内閣制度が発足し統計院も廃止された。これを機会に官界を
引退する。 以後は民間にあって後進の育成や統計の普及に努めた。〔*〕 明六社社員として
講演活動や幾多の学術論文も発表している。
〔*〕共立統計学校において、多くの内閣統計局・全国各府県統計事務取扱者等を育成。
明治21年(1885) 61 12月28日、正五位となる。
明治35年(1902) 75
8月15日、杉先生講演集編纂〔*〕される。
〔*〕先生の演説論文を中心として巻頭に“杉先生実歴談”を特に掲げている。編纂委員長を世良太一、岩
井徳次郎を庶務委員、横山雅男・河合利安両氏を編集委員としている。
明治35年(1902) 75
国勢調査に関する法律〔*〕の公布直後の12月15日、その功により勲三等に叙せられて瑞宝章
を授かった。 〔*〕国勢調査ニ関スル法律(明治35年12月1日法律第49号)
明治36年(1903) 76 1月26日、法学博士の学位を授けられる。
明治43年(1910) 83
5月27日、国勢調査準備委員会委員となる。 〔*〕杉は長年の念願であった国勢調査の実現のため
に尽力したが、第1回の国勢調査(大正9年)の行われるのを見ずに病没している。
大正4年(1915) 88 10月9日、米寿宴を不忍池畔笑福亭に開き、自叙伝を作る。
大正4年(1915) 88
11月大正天皇京都に即位の礼と大嘗祭を行わせ給うに際し同月10日紫宸殿の儀を挙げさせら
れる日を以って、勲二等に叙せられ瑞宝章を賜った。
大正6年(1917) 90
12月4日、午後6時永眠、享年90歳
同日、従四位を追贈される。墓所は東京都豊島区染井霊園内。 (下記参照)
大正9年(1920) - 第1回国勢調査が実施される。
杉 亨二の墓所は、東京都豊島区の染井霊園内にあります。
墓は三基あり、中央が杉 亨二の墓で、自然石の墓の表に
辞世の句 『枯れたれば また 植置けよ 我が庵』
が刻まれ、裏には「法学博士 杉 亨二之墓 大正6年12月4
日卒行年90歳」と刻まれています。
なお、杉 亨二の出身地である長崎県長崎市内の長崎公園
(県立長崎図書館近辺)には同人の胸像が設置されていま
す。毎年12月4日(同人の命日)には、長崎市が同所で献花
式を行っています。
総務省統計局HPより
多くの優秀な識者との出会いで、政治における統計の重要性に目覚め、日本に統計を広めたパイオニア

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  • 1. 日本における近代統計の先駆者。長崎県に生まれる。孤児のような境遇のなかで、苦労して オランダ語、フランス語を学ぶ。オランダの書物から統計の存在を知り、その重要さを認識す る。勝海舟の門人となり幕府に仕え、後に明治政府に招かれる。日本における官庁統計の創設 に貢献するとともに、その普及にも大いに努力した。 <世界大百科事典 第2版より> 年(西暦) 年令 摘 要(要 旨) 文政11年(1828) 1 10月10日、杉泰輔〔*〕の1人息子(長男)として肥前國長崎(長崎市本籠町→籠町)に生れる。 初名は純道(じゅんどう)という。 〔*〕両親は文政~天保年間、裕福な酒店を開いていた。(海舟余談) 幼少時5、6歳頃の思い出として、後年自伝で(ィ)豚の尻尾、(ㇿ)角力見物、(ㇵ)7代目団十郎の芝 居見物、(ニ)凧揚げ,(ホ)支那祭り、(ヘ)唐人騒動、(ㇳ)漂流朝鮮人などを語っている。 天保8年(1837) 頃~ 10歳 頃~ 既に両親と死別し、兄弟もなく天涯孤独となり祖父敬輔(医者)に育てられる。働かなければなら ず祖父の門人の世話で上野舶来店〔*〕に奉公に出る。 〔*〕この店では、機械器具や蘭書などを扱っていたため、長崎を訪れていた蘭学生には、上野邸に出入り の者が多かった。この中に適塾開校前の緒方洪庵らがいた。 向学心に心を萌やし働きながら学問に 打ち込む。上野舶来店に出入りの村田徹斎や緒方洪庵らに経書を学ぶ。店主上野俊乃丞(公儀の時 計師)の子息は、日本の写真界の始祖といわれる上野彦馬氏である。 弘化2年(1845) 18 上野舶来店を辞め、大村に移り大村藩の藩医村田徹斎の書生となる。いろいろ手伝いながら、 鉄斎先生の蔵書を借りて、片っ端から読みあさる日々を過ごす。 嘉永2年(1849) 22 大阪に出て、上野氏の紹介状をもって緒方洪庵の適塾〔*〕に入門する。無一文だったので師洪 庵の了解を得て、按摩や写本のアルバイトをしながら学費を稼いでいた。 病(脚気)のため同年 いったん帰国する。再び大村藩医村田徹斎の書生となる。 〔*〕この時適塾には、大村益次郎・福澤諭吉・橋本左内・長与専斎・佐野常民・箕作秋坪らの諸氏がいた。 嘉永3年(1850) 23 2月、師の村田徹斎が大村藩の江戸詰めに任命されるのに同行して江戸に上る。 江戸に出た 当初は書生遍歴をしている。 蘭書の字引きの読解力も増していったようである。 嘉永4年(1851) 24 信州松代藩の村上英俊〔*〕を援けて仏蘭西字書「ハルマ」を翻訳編集。 〔*〕村上英俊氏は仏蘭西学をもって頗る偉功のあった人で、明治18年仏蘭西大統領から勲章を贈られて いる。明治23年84歳で没している。 嘉永4年(1851) 25 「ハルマ」翻訳のアシスタントをして、少しではあるが学費が稼げたため、杉田成卿〔*〕の塾に入 門する。 〔*〕杉田成卿は、緒方洪庵と同じく、坪井信良先生を師としてたが、当時蘭医として名高く、解体 新書の杉田玄白の孫である。特に成卿先生は、蘭学に造詣が深く、独逸語や露西亜語も読めた。 嘉永6年(1853) 26 中津藩士岡見彦三に請われ、築地鉄砲洲の奥平邸中屋敷で蘭学教授(月2両で、1軒の住居と下 僕1人を与えられる)。 奥平邸退散の後、深川館林藩医立花正甫の家に仮寓する。 仮寓中、そ の人徳を慕っていた勝海舟が赤坂田町(後に氷川町に移る)に住んでいることを知り、立花氏を促し て面会する。以後、数回訪ねるうちにその私塾長として住込む。 ←壮年幕末沼津期 ~明治太政官頃? 70歳当時→ の肖像写真
  • 2. 嘉永6年(1853) ~安政2年頃 26~ 28 海舟邸生活…伊沢美作守(ペルリ接待時長崎奉行・現大目付・町奉行なども勤める、3500石旗本)と懇 意になる。 紀州藩の附家老水野土佐守の屋敷内(市ヶ谷浄瑠璃坂)の丹鶴書院で蘭学を教授す る。(月6日講義して五人扶持・およそ2年間勤めている) 安政2年(1855) 28 勝海舟の推挙により老中阿部正弘に仕える〔*〕。 この頃、欧州への留学の嘆願書を提出して いたが、阿部正弘の急逝により留学は実現しなかった。 杉は生涯で一度も外国に行く機会に 恵まれなかった。 〔*〕勝は杉を海軍伝習所の推薦名簿に入れたが、老中阿部は勝の推薦理由を聴い て“それは立派な人物だ、遠くへ行かせるのは惜しい、私の邸へ来て仕事を手伝って貰えないだろう か”と懇願し、勝は杉の将来を考えて阿部邸への奉職を勧めている。 安政3年(1855) 29 阿部家への奉職、蘭学教授等で収入も安定したので所帯をもつ。福山藩の先輩である石川和 介の媒酌で老中阿部家の側役中林勘之助の妹「金(きん)子」(当時18歳)と結婚する。住まいも 本郷の阿部家中屋敷の表門付近に、一軒の家を求めて住居としている。 万延元年(1860) 33 阿部伊勢守の逝去後、1月29日、江戸幕府の蕃所調所(教授方手伝い)に就職〔*〕する。 〔*〕この時の初任給は、15人扶持、10両、後に20人扶持、15両を給する。 元治元年(1864) 37 8月11日、蕃所調所(開成所)教授並〔*〕となる。 この頃、外交文書や外国新聞を翻訳して幕府 に提供する立場となる。オランダの新聞に掲載されていたドイツ国内(バイエルン)の識字率につ いての記述に触れ、後の統計学に関わるきっかけとなったと、杉は後年回想している。 〔*〕この時の給与は、30人扶持、役料25両と大幅にベースアップされている。 蕃所調所には同時期、短 期間であったが外国方通弁として福沢諭吉もいた。 慶応元年(1865) 38 純道を「享二」と改名する。 慶応2年(1866) 40 幕府の命でオランダのライデン大学に留学していた津田真道・西周(後の沼津兵学校頭取・校長) らが帰国(前年12月)し、開成所に出勤する。 両氏の持ち帰った ライデン大学の法科教授シモ ン・ヒッセリ ング教授の講義ノートを見開きする中で、人口統計の部分に惹かれる。「これは世 の中のことがわかる、面白いものだと思って…<中略>…それから益々深入りした」(自叙伝)という。 明治元年(1868) 41 12月、德川家の駿河移住に従って駿府に移住〔*〕する。この頃、清水次郎長(山本長五郎)に開 墾を勧めている。製塩についても試験している。(自叙伝) 〔*〕当時、義甥の杉徳次郎氏が、共に駿河に移住している。徳川家の静岡学問所でも教鞭をとる。 明治2年(1869) 42 「駿河国人別調」を実施したが、藩上層部の反対で一部地域の調査を行うにとどまった。一部地 域とは「駿河国沼津政表」・「駿河国原政表」のことで、日本最初のセンサス(国勢調査)といえる。 沼津兵学校二等教授としてフランス語の教授を勤める〔*〕。 周知の西周が沼津兵学校校長で ある。 〔*〕沼津奉行阿部国之助氏の世話で沼津在香貫村に移って家族を呼び寄せた。(既に4人の愛 児の父)その後、一端、富士郡神谷村(吉原)に引っ越すがまた沼津に戻っている。 明治3年(1870) 43 7月11日、民部省十二等出仕〔*〕となる。 〔*〕判任官・少主記・月給25円(当時官職表による) 明治3年(1870) 43 9月9日、民部省十二等出仕免ぜられる。三ヵ条の建白書を提出して沼津へ帰る。 明治4年(1871) 44 9月20日に太政官の吏官から御用召が来る。 12月24日、政府へ出仕し、太政官正院政表課 大主記(現在の総務省統計局長)〔*〕を命じられる。 部下の課員は9名であった。 これは前年の 建白書に従って政表の取調を主管とするポストである。 〔*〕太政官正院の大主記の等級は、判任官のトップ職で8等・月給70円である。 明治5年(1872) 45 4月、日本政表第1巻“辛未政表”〔*〕を完成させる。 〔*〕政府総合統計書の最古のもので「日本統計年鑑」の前身にあたる。ただし、当時は資料もほとんどな く収めるところは明治4年(辛未)現在の官員の族籍・官禄月給・諸費用その他にすぎなかった。その 後、「明治6年政表」「明治7年政表」として刊行され、明治8年以降の分は単に「日本政表」と題して明 治11年まで刊行されている。 明治6年(1873) 46 明六社の結成に参加する。会長は森有礼、明治時代初期に設立された日本最初の近代的啓 蒙学術団体である。 杉亨二をはじめ福沢諭吉、津田真道、西周、加藤弘之、箕作秋坪、箕作 麟祥、西村茂樹、中村正直が結成参加者である。 様々な政表等の編集の傍ら、翻訳書の刊 行もしている。 「世界貿易航海史」・「国勢党派論」など。 明治9年(1876) 49 2月11日、統計関係者有志十余名と表記学社(スタチステック社→統計学社)を創設〔*〕する。統計 の研究と普及に努める。 〔*〕現在の一般財団法人日本統計協会の前身である。 明治9年(1876) 49 5月23日、正六位〔*〕となる。 〔*〕正六位は、太政官正院では奉任官5等職・権大外史・少内史で月給200円。 明治10年(1877) 50 1月18日、権大書記官(奏任官五等)〔*〕となる。 〔*〕権大書記官は、明治10年1月職制改正による。 明治11年(1878) 51 12月18日、有志15名と製表のことを詢議する主意で“製表社”〔*〕を創設する。 〔*〕その後東京統計協会となり、昭和19年4月、統計学社と合併、現在の日本統計協会となる。
  • 3. 本「杉 享二生涯歴史年表」は、『杉亨二伝』(加地成雄著・昭和35年刊)及び日本統計協会HP等の諸情報に より編集・作成したものである。摘要・要旨欄については一部、注釈等(*)を加えました。 「杉 享二 生涯歴史年表」編集作成/沼津市史談会 会員 飯田善行(2019/10) 明治12年(1879) 52 4月2日、太政大臣三条実美から山梨県令へ山梨県人別調として杉亨二権大書記官を差し遣 わす旨の通知する。 杉は属官の筆頭世良太一氏〔*〕を伴って山梨県へ出張する。 〔*〕世良太一は、後年、杉亨二の米寿祝いの際、目を患う杉の「自叙伝」を口述筆記でまとめる。 12月31日、「駿河国人別調」の経験を踏まえて、政表課職員を率いて山梨県を試験的に「甲斐 国現在人別調」を実施する。これは、個別世帯票を用いて、人口の性別、年齢、年齢、配偶関 係、出身地、職業などを記録・集計するもので、日本における国政調査の先駆といえる。この時 の甲斐國の現在人数は397,416という結果を得た。また、官庁統計年鑑を編集。 明治12年(1879) 52 日本学士院の前身である「東京学士会院」が福澤諭吉を会長として設立される。 設立時、杉を 含む7名を文部大輔(田中不二麿)宛て書簡で推挙する。 杉は学士会院の会員となっている。 明治14年(1881) 54 6月22日、統計院創設の際に太政官統計院大書記官(トップの統計院長は大隈重信)となる。 明治15年(1882) 55 12月29日、勲五等となり雙光旭日章を授かる。 明治16年(1883) 56 前年5月政府に統計学教授所設置に関する上申書を提出したが、却下されたため杉亨二 をはじめ統計院職員が発起人になって、6月9日東京九段下に共立統計学校を設立する。 設立時の統計院長の鳥尾小弥太氏〔*〕が所長に就任し、杉は自ら教授長に就任する。 〔*〕山口県萩出身の長州藩士、江川英龍に砲術を学ぶ、戊辰戦争では参謀、陸軍中将(最終階級)、この 時の統計院長への就任は左遷人事と言われている。前任の統計院長は大隈重信であった。 明治18年(1885) 58 12月、太政官が廃止され、新たに内閣制度が発足し統計院も廃止された。これを機会に官界を 引退する。 以後は民間にあって後進の育成や統計の普及に努めた。〔*〕 明六社社員として 講演活動や幾多の学術論文も発表している。 〔*〕共立統計学校において、多くの内閣統計局・全国各府県統計事務取扱者等を育成。 明治21年(1885) 61 12月28日、正五位となる。 明治35年(1902) 75 8月15日、杉先生講演集編纂〔*〕される。 〔*〕先生の演説論文を中心として巻頭に“杉先生実歴談”を特に掲げている。編纂委員長を世良太一、岩 井徳次郎を庶務委員、横山雅男・河合利安両氏を編集委員としている。 明治35年(1902) 75 国勢調査に関する法律〔*〕の公布直後の12月15日、その功により勲三等に叙せられて瑞宝章 を授かった。 〔*〕国勢調査ニ関スル法律(明治35年12月1日法律第49号) 明治36年(1903) 76 1月26日、法学博士の学位を授けられる。 明治43年(1910) 83 5月27日、国勢調査準備委員会委員となる。 〔*〕杉は長年の念願であった国勢調査の実現のため に尽力したが、第1回の国勢調査(大正9年)の行われるのを見ずに病没している。 大正4年(1915) 88 10月9日、米寿宴を不忍池畔笑福亭に開き、自叙伝を作る。 大正4年(1915) 88 11月大正天皇京都に即位の礼と大嘗祭を行わせ給うに際し同月10日紫宸殿の儀を挙げさせら れる日を以って、勲二等に叙せられ瑞宝章を賜った。 大正6年(1917) 90 12月4日、午後6時永眠、享年90歳 同日、従四位を追贈される。墓所は東京都豊島区染井霊園内。 (下記参照) 大正9年(1920) - 第1回国勢調査が実施される。 杉 亨二の墓所は、東京都豊島区の染井霊園内にあります。 墓は三基あり、中央が杉 亨二の墓で、自然石の墓の表に 辞世の句 『枯れたれば また 植置けよ 我が庵』 が刻まれ、裏には「法学博士 杉 亨二之墓 大正6年12月4 日卒行年90歳」と刻まれています。 なお、杉 亨二の出身地である長崎県長崎市内の長崎公園 (県立長崎図書館近辺)には同人の胸像が設置されていま す。毎年12月4日(同人の命日)には、長崎市が同所で献花 式を行っています。 総務省統計局HPより 多くの優秀な識者との出会いで、政治における統計の重要性に目覚め、日本に統計を広めたパイオニア