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法政大学 絵所ゼミ 藤田グループ
クーデターと人々
経済の視点から
藤田健太郎
新井恒行
小林翔輝
今田智洋
大原嗣
花城隆起
下田安都沙
1
1 章 Introduction
タクシン派、反タクシン派がバンコクにてデモ集会を開くなど政治が混乱していたタイにおいて
2014 年 5 月 20 日に軍が戒厳令を発令し1
、約 40 万人に及ぶ兵士を全土に展開、主要メディアを掌
握し 5 月 22 日にタクシン派、反タクシン派を集め、仲介を行ったが決裂したため代表を拘束しク
ーデターを宣言、軍が全権を握り、インラック前首相は拘束、憲法、議会を停止するなど全権を
握ることになった。その後軍は強硬姿勢を強め、8 月 21 日にはプラユット陸軍司令官を暫定政権
の首相にする2
のを筆頭に 31 日に発表された暫定政権における閣僚のうち三分の一が退役軍人を
含む軍高官が占め、軍が治安維持権を保持し強権を頼りに改革を推進した。軍は 2015 年 4 月 20
日に戒厳令を解除したものの軍には強力な権限が残されているなど、民主政への復帰は道半ばと
いったところである。
表 1 タイの政変一覧
1973 年 10 月 14 日 学生革命→国王支持、言論の自由など民主化急進。
1976 年 10 月 6 日 保守派による反革命、ターニン政権は言論弾圧へ、軍によるクーデター学生の多
くが「森」(共産武装闘争)へ。
1977 年 10 月 クリアンサックがクーデター、言論の自由がかなり回復される。「半分の民主主義」
とのち呼ばれる体制が始まる。
1991 年 2 月 23 日 スチンダーによるクーデター、アーナン政権のものテクノクラートによるクリー
ンで効率的な政治が行われる。
2006 年 1 月 24 日 タクシンの株式売却利益が大きく取り上げられる。株式をシンガポールのテマセ
クへ733億バーツ(約2250億)で売却。
2006 年 9 月 19 日 タクシン首相訪米中に軍事クーデター発生。タクシン首相失脚し、事実上の亡命
生活に入る。元陸軍司令官スラユット、首相就任。
2010 年 2 月 26 日 タイ最高裁はタクシン一族の資産約766億バーツ(約2060億円、資産を凍
結されている)の裁判で、ほぼ60%の約464億バーツ(約1250億円)を
不正蓄財として没収する判決を出す。マスコミでもその正統性に対し反対意見も
多く寄せられる。ウォーラチェートらタマサート大学法学部准教授らは、3月1
1日がこの判決に対し賛成できないとの意見表明。タイ法曹界の良心をみること
ができる。
2010 年 5 月 19 日 当局による強制排除が始まるなかで、赤シャツの幹部ナタウットらが集会解散を
明言。解散宣言を受け入れないグループにより放火略奪などが起こる。治安当局
により最終的には治安は回復され多くの犠牲者を出しながら治安回復に向かう。
2010 年 7 月 4 日 総選挙の結果タクシン氏の妹であるインラック政権が誕生
2014 年 5 月 20 日 軍が戒厳令を発令、22 日にクーデターであると宣言
出典 山本(2011)より 筆者が日本経済新聞を参考に加筆修正
1
日本経済新聞 2014 年 5 月 20 日 夕刊 1 ページより
2
日本経済新聞 2014 年 8 月 22 日 朝刊 7 ページより
2
これは今に始まったことではなく表 1 を見ていただければわかる通りタイの歴史は混乱期と小
康期を繰り返してきたものとなっている。これらの混乱に関する研究は多数存在するが経済に関
係したものは少なく、主に軍内部での対立や地方と都市の対立が主眼に置かれたものであった。
さらに経済とクーデターの関係についても詳しくは 2 章で述べるがクーデターと経済には関係が
ないと結論付けている。
しかし、タイにおいて就労人口の約 4 割を占めている農業において耕地面積の半分を占めタイ
の人々にとっての主食であるコメの生産量を地域別で表したものが図 1 である。これを見ていく
とクーデターが発生した 1977 年と 1991 年にコメの生産量が大きく落ち込んでいることを発見し
た。さらに分析を進めていった結果、クーデターが成功した年においてはすべての年でコメの減
産を確認することができた。ここよりコメの生産量とクーデターの間に何らかの関係があるので
はないかという仮説を立て、それを軸に 3 章で分析を行っていくこととする。
2 章 先行研究
ここでは、第二次大戦後にタイで発生した 18 のクーデターに関する個別の研究について概観し、
これまでの研究におけるクーデターの原因について考察を行う。
2 章 1 節 これまでのクーデターの原因
Michael L. Mezey によれば、1971 年クーデターの原因は 1968 年憲法公布後、政党の横暴に対し
-30.0000
-20.0000
-10.0000
0.0000
10.0000
20.0000
30.0000
40.0000
50.0000
60.0000
図1 米生産量 変化率
Whole Kingdom
出典:Statistical year book より筆者作成
%
3
て軍が不満を持ったことであるとしている。更に当時はベトナム戦争の最中であり、カンボジア
でも共産主義革命が起きるなど共産主義に対する脅威が高まっていたことが一因として考えられ
るとした 。このような共産主義の脅威がクーデターを引き起こした、という議論に関しては
Morrison (1972)でも指摘されている。こちらでは共産中国(中華人民共和国)が中華民国(台湾)に代
わり国連代表になったためタイ国内に 300 万人いる中国系住民が決起、共産化を図るのではと恐
れた結果クーデターが発生したと分析している。
1991 年クーデターの原因に関する研究として Bunbongkarn (1992)は政権の腐敗、官僚組織への
介入、軍に対する介入、そして当時軍、王室、政党の微妙なバランスによって保たれていた政府
内のパワーバランスを首相が政党中心にすべく破壊したからであるとしている。2006 のクーデタ
ーについて Ferrara (2011)は議会制民主主義に対する軍の不満が爆発したと指摘している。更に問
題なのはその軍に対するシビリアンコントロールが最低限の状態であり軍がクーデターを起こせ
るほどの巨大な力を持っていることが問題であると考察している。事実として 2006 年クーデター
の発生後、軍事予算が倍増するという結果が確認されているとしている。
このほかにも Ockey (2007)は 1970 年代と同じく軍内部での対立、今回は旧来より軍中枢を支配
していたエリート軍人の派閥とタクシン氏を支持する士官学校第 21 期生の派閥とが争ったのが
クーデター発生の一因であると主張している。さらに Albritton and Bureekul (2007)は 2005 年と
2006 年の投票データを用いて分析を行い、結果として都市(特にバンコク)と農村の間には投票行
動に大きな差がありその原因はバンコクとその他の間に存在する収入と教育の格差、さらにはバ
ンコク住人とその他の意識、文化の差が投票行動に影響を与えると考えられ、事実バンコクの住
人には政治の不正が主に農村地域で起こるものだと信じている傾向が観測されている。この意識
の違いによりバンコクの住人が国民の大多数を占める農村を強固な地盤とするタクシン政権に対
して選挙では勝てないことが分かりきっているためクーデターによって政府を転覆させている、
と考察するなど、1970 年代の軍内部での権力闘争でしかなかったクーデターが様々な要因を孕ん
だものへ複雑になってきている。
2 節 Roger Vrooman による 6 つの仮説
Roger Vrooman(2007)は、1991 年, 2006 年に発生したタイ軍事クーデターを政治的・経済的要因
から説明するために 6 つの仮説を立てている。政治的要因として、「(1) 政治参加状況 , (2)海外効
果(外部的効果) , (3)選挙過程」を、経済的要因として「(4) GDP の影響, (5) 所得格差の影響, (6) 輸
出を基調とした製品の効果」を用いることによって、政治的・経済的な変化がクーデター発生に
何らかの影響を与えているのではないかという仮説に基づき研究をしている。彼によると、1991
年の軍事クーデターが起こる前の 1980 年中盤の時期に、経済が従来の閉鎖的な経済から開放的な
(特に輸出を基調とした経済)経済の移行により、1980 年代の政治は安定していたという。また 2006
年に起きたクーデター以前では 1997 年のアジア通貨危機を乗り越え、タイの政治は強固で安定し
た体制を整えていたという。以上のことを踏まえ 1991 年と 2006 年に発生した軍事クーデターを
6 つの仮説のもとで研究したところ、3 つの経済的要因は 1991 年, 2006 年において起きたクーデ
ターにおいては影響を与えてはいなかったという。
4
[仮説 4 GDP のクーデターへの影響]
以下の図 2 は彼の論文において記載されている GDP 変化を含む、1965 年から 2013 年の期間にお
ける GDP の変化である。GDP の変化が 1991 年のクーデターに影響を与えていない理由として、
政府主導の下で行われた関税政策がある。1980 年代において政府は輸出のために使用する器具の
輸入関税の引き下げに加え、ある一定の輸出関税の廃止を決定した。この政策は世界市場におけ
るタイの輸出指向を定着させ、クーデター前の時期における GDP の着実な成長を促していたため
1991 年のクーデターの要因にはなりえないという。一方で 2006 年のクーデターに関しては唯一、
GDP が減少した 1997 年に発生したアジア通貨危機が発生した年、また翌年においてクーデター
は発生しておらず、経済の安定に加え、GDP が 2002 年に回復から成長へと伸びを示し始めた後
の 2006 年にクーデターが起きているために GDP はクーデターの影響を与えていないという。
[仮説 5, 6]
確かにタイにおける所得格差は、「上位 20%の人々が GNI の 50%を占めている一方で、下位 50%
の人々はたった 20%の GNI を所有している。」と歴然ではあるがこの不平等さには大きな変化が
なく、ジニ係数も年を通して 40%-50%と落ち着いており、『安定した所得の不平等』としてとら
えることができる。このように不平等ではあるが、クーデターの起きる年、またそれ以外の年に
おける変化はみられなく要因としての対象から除外される。(6)においても(4)と同様に輸出の停滞
を見せた 1997 年にクーデターが起こらなかった一方で、輸出に伸びがみられた 1991 年, 2006 年
に起きたクーデターより、両者のクーデターを説明する要因としては捉えることが不可能という。
[仮説 1, 2, 3(政治的効果)]
一方で、政治的要因である(1), (2), (3)が、これらは政治の不安定につながることはあるにしても、
必ずしもクーデター発生の要因として捉えることは困難であるという。しかしながら、政治的な
要因として「政治家の汚職問題」を原因とした論文は数多く存在し、2006 年にタクシン政権に向
けられたクーデターでは顕著である。下條芳明[タイ憲法政治の特色と国王概念]によれば、こうい
Source: World Bank Date
0
50,000,000,000
100,000,000,000
150,000,000,000
200,000,000,000
250,000,000,000
1965
1967
1969
1971
1973
1975
1977
1979
1981
1983
1985
1987
1989
1991
1993
1995
1997
1999
2001
2003
2005
2007
2009
2011
2013
2015
図2 GDP (constant2005 US$)
5
った周期的に到来する「政治危機」に対応して軍はクーデターを実施し、成功すれば直ちに既成
の憲法を廃止し、軍事政権下で「暫定憲法」、新しい「正規憲法」が制定されてきたという。これ
は玉田芳史[タイ政治・行政の変革 1991-2006 年]の論文においても、同様な記述があり 2006 年の
クーデターの翌年に制定された 2007 年憲法が 1932 年から数えて 18 番目ということから考えると、
まさにクーデターの産物であり安定しない政権の要因とも考えられる。
3 章 分析
1 節 1970 年代の分析
本節では 1971 年から 1977 年まで続いたタイの混乱と米との関係について、アジア経済研究所
が発表しているアジア動向データベースを分析し、その結果より重要だと思われる統計を観察す
ることによって果たしてクーデターは米あるいは関係を否定された経済との間に関係があるのか
について考察を行っていくこととする。
1970 年代の混乱は主に 1971 年のクーデター、1973 年の学生革命、1976 年の反動クーデター、
1977 年のクーデターに分けることができる。ここでは最初に 1971 年のクーデターについて分析
を行っていくこととする。このクーデターの特異なところは、政権を担当していたタノム首相(元
帥)自身がクーデターの代表となっていて、さらに政権内の閣僚も多数参加していたということで
ある3
。一体何故このような状態になったのかアジア動向データベースの重要日誌を動向分析レポ
ートを軸に調査を進めた結果、1971 年は対外、対内的にタイ経済の状況は極めて深刻な事態であ
ることが判明した。その中でも図 3、図 4 を見れば分かるとおり 1960 年代と比較して低下してき
ているとはいえ総輸出額の 16%を占め海外から原材料を輸入する必要が無い為貴重な外貨獲得手
3
アジア経済研究所 アジア動向年報(1972)より
0.00%
10.00%
20.00%
30.00%
40.00%
出典:statistical year book thailand より筆者作成
図3 総輸出額に占める米の割合
-25.00%
-20.00%
-15.00%
-10.00%
-5.00%
0.00%
5.00%
10.00%
15.00%
20.00%
25.00%
1960 1961 1962 1963 1964 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971
出典:statistical year book thailand より筆者作成
図4 輸出米1t辺り価格の変化率
6
段である米の輸出価格が暴落しているにもかかわらず、政府は米価支持政策による農民からの米
買い付けを廃止するなど状況と逆行した政策を実行に移したため農民の購買力が低下し、その影
響で繊維関係などの倒産が増加、さらにゴム価格も戦後最低となったため失業者が大量に発生し
その結果凶悪犯罪が増加するという事態になっている。ここで追い討ちを掛けるのが輸出米価は
下がっているのに国内の米価はむしろ上がっているといった消費者物価の上昇である。米の価格
をみていくと白米 10% 127 バーツ/100kg→154.37 バーツ/100kg 蒸米 5% 145 バーツ/
100kg→157.50 バーツ/100kg と特に白米の価格が 23%も上昇している。これはこの年に行われ
たタマサート大学の調査で判明した工場労働者の家計に占める食費の割合が食費が 48.97%であ
るという調査結果より極めて深刻なダメージを与えると推測される。この経済的苦境は図の経済
成長率にも現れていて、1970 年に 11%あったのが 1971 年には 4.90%4
と成長自体はしているものの
急減速が掛かっている。このような非常事態にも拘わらず、議会を中心とした政治が決定力が低
下したため5
、軍はクーデターに踏み切ったと考えられる。
1971 年のクーデターは危機に対して軍が危機感を抱いた結果発生したものであることが判明し
たが 1973 年に軍事政権を打倒した学生革命の場合は一体どのような原因であったのかについて
見ていくこととする。この年は図 1 で暴落していた谷の一つである 1972 年の不作の影響が庶民の
生活にまで影響が出た年と言っていいだろう。この米を中心とした物価上昇の傾向は 1972 年 8 月
の米輸出規制辺りから始まっており、1972 年の段階で輸出促進のために廃止していた米プレミア
ムを全面復活させるなど国外に米が流失しないように対策は実施したものの効果が少なく、表 2
を見ていただければ分かるとおり 1972 年 6 月の段階で 100%米が 1t 当たり 1737 バーツだったの
が 1973 年 6 月には 3380 バーツと約 2 倍まで高騰し、その結果としてこの時期のタイの輸出の約
15%を占める米が 1973 年 6 月 13 日に輸出禁止に追い込まれる事態となった。この米の値上がりを
受け、他の様々物資を値上がり、図 5 に見られるように消費者物価指数は特に食料の値上がりが
顕著に見られた。この狂乱的物価上昇の結果、タイのストライキは 1958 年から 1972 年までの合
計 184 件より 90 件おおい 274 件が 1 年で発生するなど一般庶民の生活が行動を起こさざるを得な
い水準まで悪化したと言う事ができるだろう。
4
world bank data より
5
これはアジア経済研究所 アジア動向年報(1972)に極めて詳細な記述があるのでそれを引用することとする。
「72 年度予算案の審議に入った国会では,予算委員会委員を与党と政府役人で独占した。しかし審議の過程で,
73 年に行なわれる予定の総選挙対策もあって, 与党議員が各選挙区で自由に使える金を一人について 200 万バー
ツ要求してきた。もともと 72 年度予算は party budget,つまり与党のタイ国民連合が内閣の方針に沿って予算を配
分するという,それ自体選挙対策臭の強いものであった。予算委員会ではこの予算案に ついて国防費を除いて軒
並み削減し,さらに国防費削減の要求も出てきた。これに対して国防省は逆に国防費 2 億 8000 万バーツの増額を
求め,タノム首相兼 国防相はこの要求が受け入れられないときは"革命"を起こすと脅したといわれる。議会発足
以来予算案が年度内に成立したことは一度もなく,71 年度予算を みても 4 ヵ月後にようやく成立するという有様
で行政に支障を来たしており,役人の間ではテキパキと進められた軍政時代を懐む声も出,経済界では景気回復
を遅らせるとして議会不信の声が出てきていたのである。さらにタノム首相ら政府首脳の指導力が低下し,与党
内にはすでに幾つかの派閥が出来,不満分子が新 党を結成するとの噂も流されていた。政府が予算不足解消のた
め計画した高額所得者の個人所得税や法人税の引上げ,第 3 次 5 ヵ年計画のための 120 億バーツ の外国借款も,
与党内部の強硬な反対で引っこめざるをえなかった。政府の議会対策は,野党の批判に対処するよりも,与党議
員のコントロールに苦労した面が 大きいと言えるだろう。そして国防費は,一方でラオス,カンボジア情勢の緊
迫,他方では米国の経済・軍事援助削減による自助努力強化の必要増大という中 で,タイ政府にとっては重要な
問題であった。従って与党議員が私利私欲に走って頼りにならないということになれば,軍部としては議会を廃
止して直接統治する以外ないわけである。」
7
1970 年代最後のクーデターである 1977 年のクーデターについて観察する。1977 年のクーデタ
ーは指導者であるクリアンサック首相の施政方針演説にもあるように政治的経済的危機の打破を
目的としてクーデターが発生したわけ6
だがでは一体前の政権であるターニン政権では一体どの
ような政策を採りどのような経済状態であったのかについて詳述していくこととする。
表 3 ターニン政権の反共政策
1 新聞の発行停止と再刊時における検閲制度の実施
2 徹底的な共産主義容疑者の逮捕、共産主義関連書籍の没収、焼却。この中でも共
産主義容疑者の逮捕に関しては 1976 年 10 月 6 日以前に市販された本を所持して
いただけで逮捕するなど極めて厳しいものである。
3 韓国(当時は朴正煕政権)を手本とした反共教育の充実
4 ヴィレジ・スカウト、農民の声、タイ農民義勇兵など反共産主義農民組織の育成政策
の実施。手厚く保護したためヴィレジ・スカウトで 200 万人近い巨大組織を創設。
5 徹底的な軍事掃討作戦の実施。1976 年末から南部を中心にゲリラ掃討作戦を実
施、77 年にはマレーシア軍と共同で作戦を三回実施した。この作戦実行時に夜間外
出禁止令、立ち入り禁止区域の設定と区域内の住民の強制移住を行った上で経済
封鎖を行うなど極めて苛烈なものとなっている。東北部でも国境 6 県に対しても作戦
実行時に同様の措置を取った上で 6 ヶ月にわたり掃討作戦を実施した。
6
詳しくはアジア動向年報(1978)p298 参考資料を参照せよ
表 2
出典:アジア動向年報(1974)より
図 5
出典:アジア動向年報(1974)より引用
出典:アジア経済年報(1978)より筆者作成
8
1976 年の反動クーデターにより成立したターニン政権はその施政方針演説の冒頭で国家、宗教、
王室と言う国体を護持するために軍事力の強化、共産主義の根絶を中心に掲げるなど徹底的な反
共政権であった。その政策について纏めたものが表 3 となるが、この中でも 2 つ注目すべき点が
あり、一つ目は共産主義ゲリラの隠れ家となっている農村における反共大衆組織の育成である。
手厚い保護を実施した結果、従来では見られなかった大衆レベルでの反共体制を築いたことであ
る。2 つ目は国境地帯などに立ち入り禁止区域を設定し住民は強制移住、その地域に対して経済
封鎖を行うという経済的側面を犠牲にしてでも行われた徹底的な掃討作戦である。この掃討作戦
の影響で国内需要の 3 割を国境貿易(密輸出)に依存している繊維業界等から強い不満が出ること
になった。
このように徹底的な反共政策を実施する一方、経済政策に関しては非常に無能であった。当時
のタイ経済は景気の後退、高い人口増加率、ベトナム戦争終結による米軍関連雇用(約 10 万人)
の蒸発による失業率の増加とそれに伴う各種社会問題が深刻化、策定されていた第四次 5 カ年計
画で 220 万人の雇用を創出したとしても失業率が増加すると予測された状況にあり政府が強力な
指導力を発揮して事態に対処しなくてはならない状況に置かれていたにも拘らず、ターニン政権
は逆に経済を犠牲にして反共産主義政策を押しすすめた。それを端的に示すのが工場の認可件数
や操業開始数の変化であり、両方とも 1976 年と比較して申請は増えているのに下落しているとい
う状況である7
。これは農業でも類似した状態でありターニン首相は頻繁に農村を訪れるも具体的
な利益を齎さず、反共の精神力だけを説くにとどまった。これの顕著な例が乾季自主農村開発計
画で、無償労働を前提としていたため不評を買う結果に終わるなど有効な政策を打ち出せなかっ
た。
この無能さは各種経済指標にも現れてきていて、GDP の実質成長率は 8.2%から 6.2%に低下8
し、
インフレ率(消費者物価指数)は 4.1%から 7.6%に急上昇9
、失業率も 5%台に達する10
など様々な点か
ら現れている。特に農業生産に関しては-1%の成長であり、その中でも穀物の生産量は-2.8%と極
めて悪い数字となっている。
このような経済を犠牲にまでする強硬過ぎる反共政策の結果、クーデターが起こったというこ
とができる。
7
工業省の認可する工場設立状況は 76 年の 4057 件から 3843 件、操業開始は 4003 件から 2648 件海外直接投資受
入額(上半期)は 8.0 億バーツから 5.9 億バーツといずれも減少している。
8
アジア動向年報(1978)より
9
world bank data より
10
アジア動向年報(1977)より
9
2 節 1991 年クーデターの分析
本節では 1991 年のクーデターの原因について前節と同じくアジア動向データベース並びに各
種統計を見て分析を行っていき、1991 年クーデターの原因はどのようなものなのかについて観察
を行う。
タイで選挙結果に基づく首相が 12 年ぶりに復活したのが 1988 年 8 月 10 日でありクーデターが
発生したのが 1991 年 2 月 23 日であるため、その期間における各種経済動向の変化について分析
を行う。初めに実質 GDP の推移について示したものが図 6 となるが、今回分析する 1988 年から
1991 年にかけての実質 GDP 成長率は若干の下落傾向は見られるものの 9%以上の高い成長率を示
している。この高い成長率を実現した要因の一つとして変化が見られたのが直接投資額の大幅な
上昇である。図でも示されているように 1987 年を境に激増しており、この高度成長を実現した一
因であろう。
出典:world bank data より筆者作成
-15.00%
-10.00%
-5.00%
0.00%
5.00%
10.00%
15.00%
図 6 タ イ 実 質GDP成長率 推 移(2005年
米 ドル基準)
0
10000
20000
30000
40000
50000
60000
70000
1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991
図7 直接投資額の推移(100万バーツ)
直接投資額(100万バーツ)
10
続いて、消費者物価指数といった生活に関係してくる各種指標の推移を見ていくこととする。
図は消費者物価指数の推移を表したものであるが、分析対象である 1988 年から 1991 年にかけて
は緩やかな上昇傾向にあるものの、経済成長率を鑑みれば許容できる水準で推移しており、特に
大きな経済的ショックがあったとはいうことができない。
出典:アジア経済研究所 アジア動向データベースより筆者作成
0.00%
5.00%
10.00%
15.00%
20.00%
25.00%
1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991
図8 消費者物価指数変化率 推移
出典:アジア経済研究所 アジア動向データベースより筆者作成
0.00%
1.00%
2.00%
3.00%
4.00%
5.00%
6.00%
7.00%
1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991
図9 失業率 推移
11
同じく人々の生活に関係してくる失業率に関するグラフが図になるが、これを見ても 1988 年か
ら 1989 年から 1991 年にかけて若干上昇傾向にあるものの、3%以下の十分に低い水準にあり、特
にショックがあったと読み取ることはできない。
ここまで、様々な統計を見てきたがショックになるような数値の変化は見ることができなかっ
た。むしろ経済パフォーマンスの上では好調と言ってもいい状況下にある。
前述の通り経済状態は好調といっていい状態であるにも拘らず、何故クーデターが起こったの
かについてアジア動向データベースの重要日誌及び動向分析レポートを元に考察を行う。最初に、
重要日誌を選挙により民選首相が政権を担当することになった 1988 年から 1991 年のクーデター
発生までの間分析を行った。
その結果政府と軍部の関係が 1990 年を境に大きく変化していることが判明した。チャチャーイ
政権成立直後の 1988 年 11 月 27 日に早くもクーデターの動きありとサウス・チャイナ・モーニング
氏が報道したがこれを即座に否定、さらに 1989 年 6 月 8 日には最高司令部将校に対して政治的発
言を公の場ですることを禁止する命令を出すなど、チャチャーイ政権に対して配慮が為されてい
た。さらにチャチャーイ首相も陸軍司令官で実質的なタイ軍部のトップであったチャワリット司
令官に国防相ポストを提示するなど、両者の関係は比較的安定したものであった。
これに変化が生じたのはチャチャーイ首相の要請に応じて副首相兼国防相に就任した 4 月以降
である。チャチャーイ首相は一度取り込んでしまった後、一転してチャワリット氏を冷遇するよ
うな態度を取り、彼が行った政策提案 57 件のうち実際に採用されたのが 10 件であった。チャワ
リット氏は汚職追放委担当相の地位も兼任し汚職追放に重点を置いていた。これは 1990 年 5 月
28 日に汚職追放に関するセミナーをタマサート大学で開いたことからも良く分かる。これに対し
て政権内の身内であるはずのチャラーム総理府相から政権が腐敗しているというものは辞任する
べきだ、軍部も汚職にまみれていると批判されるなど政権内部での孤立が深刻化したことを受け、
辞任を決意した。この後軍部がチャワリット氏を支持したことにより対立が激化、クーデターに
至ったと考えられる。
1991 年クーデターについて纏める。最初に、1991 年クーデターが起こった時期のタイは好況期
と言える時期であり各種経済指標を見ても緊迫した情勢ではなく、クーデター発生の要因として
考えるのは不適切である。では一体どのような原因でクーデターが発生したのか分析したところ、
元陸軍司令官を冷遇したことに端を発する政府と軍の対立がクーデターにまで至ったと考えられ
る。次節では、本節と 1 節を比較し一体何故このような差が生まれたのかについて考察を行う。
3 節 1970 年代と 1991 年で何が変化したのか
本節では何故 1970 年代は経済的要因が観測されたのに対して 1991 年クーデターでは一切観測
されなかったのかについて各種統計を観察しそこから各種考察を行う。
12
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1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995
constant2005US$
図10 一人当たりGDPの推移
出典:world bank data より筆者作成
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1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995
図11 一人当たり実質GDPの伸び率
出典:world bank data より筆者作成
13
最初に、77 年のクーデター以降の実質 GDP の推移、一人当たり GDP の推移をグラフにしてみ
たものが図 10、図 11、図 12 であるがすべて 1986 年を境として成長速度に変化が見られた。この
1986 年に何が起きたのかを中心として、1970 年代と 1991 年の間に何が変化したのかについて考
察を行っていくこととする。
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millionus$
図12 タイの実質GDPの推移
出典:world bank data より筆者作成
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%
年
図13 GDPに占める各産業の割合
第二次産業 第一次産業 第三次産業
Log. (第二次産業) Log. (第一次産業) Log. (第三次産業)
出典:world bank data より筆者作成
14
15
図 13 は各産業が GDP に占める割合を示したものであるがここを見ていくと 1978 年以降、農業に
代わり工業の比率が増加し続けていることがはっきりと見て取れここから工業化が進行したとい
うことができるだろう。しかし、これだけでは 1986 年の急上昇の原因が工業と言うことはできな
い。その問題について図 14 の各産業別 GDP の推移を見ていくと、農業生産が横ばいであるのに
対して工業生産、サービス産業が 1986 年を境に急激に上昇していて、工業、サービス業の急速な
成長が GDP 増加の主役であったということができるだろう。
0
2E+10
4E+10
6E+10
8E+10
1E+11
1.2E+11
1965
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1971
1973
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1985
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1989
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1995
1997
1999
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2011
2013
US$
図14 産業別実質GDPの推移
第二次産業 第一次産業 第3次産業
出典:world bank data より筆者作成
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1962
1964
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1970
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1976
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1982
1984
1986
1988
1990
1992
1994
1996
1998
2000
2002
2004
2006
2008
2010
2012
2014
%
図15 商品輸出に占める食料品の割合
出典:world bank data より筆者作成
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1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992
図16 主要輸出品輸出額の推移(100万バーツ)
米 ゴム タピオカ 砂糖 エビ 集積回路 繊維製品
出典:アジア動向年報より筆者作成
0
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1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991
図17 直接投資額の推移(100万バーツ)
直接投資額(100万バーツ)
出典:アジア動向年報より筆者作成
17
さらにタイの工業化の性質が変化したこと示しているのが図 15 の商品輸出に占める食料品の
割合の変化と図 16 の主要輸出品の輸出額の推移である。1986 年付近を境として輸出に占める食
品の割合が急激に減少し、それに代わり伝統的に輸出していた繊維製品や集積回路等の本格的な
加工工業製品の輸出が激増していることが見て取れる。
一体何故 1986 年を境にタイの工業化の性質が変化したのか、を示しているのが図 17 の直接投
資額の推移である。これを見ていくと 70 年代から殆ど横ばいだった直接投資額が 1987 年を境に
急激に上昇していることが見て取れる。ではこの時期何故直接投資が増えたのか、についてはア
ジア動向年報(1987)によると 1987 年のタイ投資委員会(BoI)への投資申請件数は 1986 年の 431 件
から 1057 件に登録資本金ベースで 2080 億バーツ、そのうち日本が 202 件 472 億バーツ台湾 178
件 147 億バーツと日本、台湾資本が大量に流入していると指摘している。この時期日本と台湾が
直面しているものと言えばプラザ合意後の急速な円高であり、その影響を受けて投資が加速、タ
イに資本が流れ込み産業構造が根本的に変化するに至ったと考えられる。
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1,000
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1976 1981 1986 1988 1990 1992
図18 1ヶ月辺りの一世帯当あたり実質平均収入の推移
1976年基準
Whole Kingdom
Great Bangkok
Central
Northeastern
Northern
Sourthern
出典:statistical yearbook thailand より筆者作成
0
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1976 1981 1986 1988 1990 1992
図19 一家庭あたりの実質平均収入の推移 1976年基準
Whole Kingdom
Central
Northeastern
Northern
Sourthern
出典:statistical yearbook thailand より筆者作成
18
タイの産業構造はプラザ合意後の円高を受けた日本や台湾による投資よって産業構造そのもの
が変化したがそれは一体人々の生活何をもたらしたのかを見ていくこととする。1 世帯平均収入
の変化を見た結果、1976 年から 10 年以上殆ど変化していなかった平均収入が北部を除く全地域
で 1988 年より急激に上昇が確認された。クーデターの翌年である 1992 年にはタイ全土における
平均収入が 1988 年と比較して約 36%、バンコク首都圏では約 64%実質平均収入が増大しているこ
とが判明した。
0
100
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600
ストライキ、ロックアウトの件数
図20 ストライキ発生件数の推移
出典:ILOstat より筆者作成
70
数
図21 ストライキ発生件数の推移(1978年以降)
19
この所得の増加が齎したものは図 20、図 21 で見られるようなストライキ件数の急減であった。
1970 年代に吹き荒れていたストライキの荒らしが 1980 年代前半に落ち着きを見せ、1980 年代後
半にかけて一段と減少している。
ここまでの議論を総括していくと、タイでは 1977 年クーデター以降、産業の中心が農業から工
業へ産業構造が変化したが、その中でも 1986 年のプラザ合意に端を発する日本、台湾資本の流入
によってタイの産業構造は大きく変化した。その結果失業率は減少、過去 10 年に渡って横ばいだ
った実質賃金も上昇に転じた結果、人々の不満の現れであるストライキの件数が激減したと考え
られる。それに対して政治は 1 節の 1970 年代では経済危機に対する政府の無能に対する軍の危機
感が原因であり、2 節では汚職に関する政府の無能と軍との対立が原因であった。つまり政治は
なんら進歩しておらず、経済が外的要因により好転したため 1970 年代にあった経済的要因、国民
の不満と言う要素だけが消失し政府の無能と軍との対立関係だけがクーデターの原因となったの
だ。
4 章 Conclusion
これまで、タイのクーデターを専門的に扱った論文では経済とクーデターについての関係につ
いて一切論じられてこなかった。しかし現地誌を纏めたものであるアジア動向年報を分析した結
果、1970 年代に関しては経済危機がクーデター発生の大きな要因となっていることが明らかにな
った。Introduction で想定していた、米の生産量とクーデターの関係については米の生産量ではな
く、米の国内、国際価格と関係性は見受けられるもののそれよりも経済状態全体、特に物価や失
業といった人々の生活と直接関係してくる指標の悪化がクーデターと深い関係にあることが確認
された。
これに対して 1991 年クーデターでは政府と軍の汚職を巡る政府の無能と軍との対立が主な要
因であった。ここで重要なのが 1991 年クーデターでは 1970 年代のクーデター直前に良く見られ
た人々によるデモやストライキといった不満を訴える行動が極端に減っていることである。これ
はクーデター発生の要因としての経済危機が抜け落ちたということであり、その原因としてはプ
ラザ合意に端を発する日本や台湾といった国家から大量の直接投資が流れ込んだことによりタイ
の産業構造が変化し、横ばいだった人々の実質所得が上昇したためであると考えられる。
1970 年代と 1991 年で経済的要因が欠落したのは前述の通りだが、クーデター発生の本質は政
府と軍の対立である。その対立の一つとして経済危機が大きく絡んできたのが 1970 年代のクーデ
ターだったが、外資の大量流入によりそれが解決された。それに代わって 1991 年のクーデターで
は新たに汚職を争点として政府と軍が対立、クーデターへと至ったのと言うわけである。つまり
争点は変化したが 1970 年代と 1991 年の間政府と軍の関係は変化したわけではなく、1970 年代と
1991 年で経済がクーデター発生の原因とならなくなり只の政府と軍の対立へと変化したのは政治
が変化したからではない。プラザ合意を初めとした外的要因によって経済が好転、人々の不満か
解消され政治に無関心になったため政府と軍の対立がクローズアップされただけなのである。
参考文献
20
アジア経済研究所『アジア動向年報』1970 年版(1970)-1992 年版(1992) アジア経済研究所
下條芳明(2013)「タイ憲法政治の特色と国王概念 : 比較文明的な視点を交えて」『九州産業大学商
学会』
玉田芳史・船津鶴代(2008)「タイ政治・行政の変革 1991-2006」『アジア経済研究所』
山本博史(2011)「タイ―民主主義の行方」『経済貿易研究』37 号、3 月、133-148
Astri Suhrke and Charles E. Morrison(1972)”Thailand―Yet Another Coup”, The world Today., Vol. 28, No.
3 (Mar., 1972), pp. 117-123 , Royal Institute of International Affairs
Federico Ferrara (2011)” Thailand: minimally stable, minimally democratic”, International Political
Science Review / Revue internationale de science politique, Vol. 32, Sage Publications, Ltd.
James Ockey (2007)” Thailand's 'ProfessionalSoldiers' and Coup-making:The Coup of 2006, Crossroads:
An Interdisciplinary Journal of SoutheastAsian Studies, Vol. 19, No. 1 (2007)
, pp. 95-127, Northern Illinois University Center for Southeast Asian Studies
Michael L. Mezey (1973), “The 1971 Coup in Thailand: Understanding Why the Legislature Fails”, Asian
Survey, Vol. 13, No. 3 (Mar., 1973), pp. 306-317, University of California Press Stable
National Statistical Office, “statistical year book thailand” No. 24 ([1963])-no. 49 (2002); 2003
(2003)-2006 (2006) 2007(2007)2009(2009)-2013(2013), NationalStatistical Office
Robert B. Albritton and Thawilwadee Bureekul(2007)” Public Opinion and Political Power:Sources of
Support for the Coup in Thailand”, Crossroads:An Interdisciplinary Journal of Southeast Asian Studies,
Vol. 19, No. 1 (2007), pp. 20-49, Northern Illinois University Center for Southeast Asian Studies

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タイとクーデター 経済成長

  • 2. 1 1 章 Introduction タクシン派、反タクシン派がバンコクにてデモ集会を開くなど政治が混乱していたタイにおいて 2014 年 5 月 20 日に軍が戒厳令を発令し1 、約 40 万人に及ぶ兵士を全土に展開、主要メディアを掌 握し 5 月 22 日にタクシン派、反タクシン派を集め、仲介を行ったが決裂したため代表を拘束しク ーデターを宣言、軍が全権を握り、インラック前首相は拘束、憲法、議会を停止するなど全権を 握ることになった。その後軍は強硬姿勢を強め、8 月 21 日にはプラユット陸軍司令官を暫定政権 の首相にする2 のを筆頭に 31 日に発表された暫定政権における閣僚のうち三分の一が退役軍人を 含む軍高官が占め、軍が治安維持権を保持し強権を頼りに改革を推進した。軍は 2015 年 4 月 20 日に戒厳令を解除したものの軍には強力な権限が残されているなど、民主政への復帰は道半ばと いったところである。 表 1 タイの政変一覧 1973 年 10 月 14 日 学生革命→国王支持、言論の自由など民主化急進。 1976 年 10 月 6 日 保守派による反革命、ターニン政権は言論弾圧へ、軍によるクーデター学生の多 くが「森」(共産武装闘争)へ。 1977 年 10 月 クリアンサックがクーデター、言論の自由がかなり回復される。「半分の民主主義」 とのち呼ばれる体制が始まる。 1991 年 2 月 23 日 スチンダーによるクーデター、アーナン政権のものテクノクラートによるクリー ンで効率的な政治が行われる。 2006 年 1 月 24 日 タクシンの株式売却利益が大きく取り上げられる。株式をシンガポールのテマセ クへ733億バーツ(約2250億)で売却。 2006 年 9 月 19 日 タクシン首相訪米中に軍事クーデター発生。タクシン首相失脚し、事実上の亡命 生活に入る。元陸軍司令官スラユット、首相就任。 2010 年 2 月 26 日 タイ最高裁はタクシン一族の資産約766億バーツ(約2060億円、資産を凍 結されている)の裁判で、ほぼ60%の約464億バーツ(約1250億円)を 不正蓄財として没収する判決を出す。マスコミでもその正統性に対し反対意見も 多く寄せられる。ウォーラチェートらタマサート大学法学部准教授らは、3月1 1日がこの判決に対し賛成できないとの意見表明。タイ法曹界の良心をみること ができる。 2010 年 5 月 19 日 当局による強制排除が始まるなかで、赤シャツの幹部ナタウットらが集会解散を 明言。解散宣言を受け入れないグループにより放火略奪などが起こる。治安当局 により最終的には治安は回復され多くの犠牲者を出しながら治安回復に向かう。 2010 年 7 月 4 日 総選挙の結果タクシン氏の妹であるインラック政権が誕生 2014 年 5 月 20 日 軍が戒厳令を発令、22 日にクーデターであると宣言 出典 山本(2011)より 筆者が日本経済新聞を参考に加筆修正 1 日本経済新聞 2014 年 5 月 20 日 夕刊 1 ページより 2 日本経済新聞 2014 年 8 月 22 日 朝刊 7 ページより
  • 3. 2 これは今に始まったことではなく表 1 を見ていただければわかる通りタイの歴史は混乱期と小 康期を繰り返してきたものとなっている。これらの混乱に関する研究は多数存在するが経済に関 係したものは少なく、主に軍内部での対立や地方と都市の対立が主眼に置かれたものであった。 さらに経済とクーデターの関係についても詳しくは 2 章で述べるがクーデターと経済には関係が ないと結論付けている。 しかし、タイにおいて就労人口の約 4 割を占めている農業において耕地面積の半分を占めタイ の人々にとっての主食であるコメの生産量を地域別で表したものが図 1 である。これを見ていく とクーデターが発生した 1977 年と 1991 年にコメの生産量が大きく落ち込んでいることを発見し た。さらに分析を進めていった結果、クーデターが成功した年においてはすべての年でコメの減 産を確認することができた。ここよりコメの生産量とクーデターの間に何らかの関係があるので はないかという仮説を立て、それを軸に 3 章で分析を行っていくこととする。 2 章 先行研究 ここでは、第二次大戦後にタイで発生した 18 のクーデターに関する個別の研究について概観し、 これまでの研究におけるクーデターの原因について考察を行う。 2 章 1 節 これまでのクーデターの原因 Michael L. Mezey によれば、1971 年クーデターの原因は 1968 年憲法公布後、政党の横暴に対し -30.0000 -20.0000 -10.0000 0.0000 10.0000 20.0000 30.0000 40.0000 50.0000 60.0000 図1 米生産量 変化率 Whole Kingdom 出典:Statistical year book より筆者作成 %
  • 4. 3 て軍が不満を持ったことであるとしている。更に当時はベトナム戦争の最中であり、カンボジア でも共産主義革命が起きるなど共産主義に対する脅威が高まっていたことが一因として考えられ るとした 。このような共産主義の脅威がクーデターを引き起こした、という議論に関しては Morrison (1972)でも指摘されている。こちらでは共産中国(中華人民共和国)が中華民国(台湾)に代 わり国連代表になったためタイ国内に 300 万人いる中国系住民が決起、共産化を図るのではと恐 れた結果クーデターが発生したと分析している。 1991 年クーデターの原因に関する研究として Bunbongkarn (1992)は政権の腐敗、官僚組織への 介入、軍に対する介入、そして当時軍、王室、政党の微妙なバランスによって保たれていた政府 内のパワーバランスを首相が政党中心にすべく破壊したからであるとしている。2006 のクーデタ ーについて Ferrara (2011)は議会制民主主義に対する軍の不満が爆発したと指摘している。更に問 題なのはその軍に対するシビリアンコントロールが最低限の状態であり軍がクーデターを起こせ るほどの巨大な力を持っていることが問題であると考察している。事実として 2006 年クーデター の発生後、軍事予算が倍増するという結果が確認されているとしている。 このほかにも Ockey (2007)は 1970 年代と同じく軍内部での対立、今回は旧来より軍中枢を支配 していたエリート軍人の派閥とタクシン氏を支持する士官学校第 21 期生の派閥とが争ったのが クーデター発生の一因であると主張している。さらに Albritton and Bureekul (2007)は 2005 年と 2006 年の投票データを用いて分析を行い、結果として都市(特にバンコク)と農村の間には投票行 動に大きな差がありその原因はバンコクとその他の間に存在する収入と教育の格差、さらにはバ ンコク住人とその他の意識、文化の差が投票行動に影響を与えると考えられ、事実バンコクの住 人には政治の不正が主に農村地域で起こるものだと信じている傾向が観測されている。この意識 の違いによりバンコクの住人が国民の大多数を占める農村を強固な地盤とするタクシン政権に対 して選挙では勝てないことが分かりきっているためクーデターによって政府を転覆させている、 と考察するなど、1970 年代の軍内部での権力闘争でしかなかったクーデターが様々な要因を孕ん だものへ複雑になってきている。 2 節 Roger Vrooman による 6 つの仮説 Roger Vrooman(2007)は、1991 年, 2006 年に発生したタイ軍事クーデターを政治的・経済的要因 から説明するために 6 つの仮説を立てている。政治的要因として、「(1) 政治参加状況 , (2)海外効 果(外部的効果) , (3)選挙過程」を、経済的要因として「(4) GDP の影響, (5) 所得格差の影響, (6) 輸 出を基調とした製品の効果」を用いることによって、政治的・経済的な変化がクーデター発生に 何らかの影響を与えているのではないかという仮説に基づき研究をしている。彼によると、1991 年の軍事クーデターが起こる前の 1980 年中盤の時期に、経済が従来の閉鎖的な経済から開放的な (特に輸出を基調とした経済)経済の移行により、1980 年代の政治は安定していたという。また 2006 年に起きたクーデター以前では 1997 年のアジア通貨危機を乗り越え、タイの政治は強固で安定し た体制を整えていたという。以上のことを踏まえ 1991 年と 2006 年に発生した軍事クーデターを 6 つの仮説のもとで研究したところ、3 つの経済的要因は 1991 年, 2006 年において起きたクーデ ターにおいては影響を与えてはいなかったという。
  • 5. 4 [仮説 4 GDP のクーデターへの影響] 以下の図 2 は彼の論文において記載されている GDP 変化を含む、1965 年から 2013 年の期間にお ける GDP の変化である。GDP の変化が 1991 年のクーデターに影響を与えていない理由として、 政府主導の下で行われた関税政策がある。1980 年代において政府は輸出のために使用する器具の 輸入関税の引き下げに加え、ある一定の輸出関税の廃止を決定した。この政策は世界市場におけ るタイの輸出指向を定着させ、クーデター前の時期における GDP の着実な成長を促していたため 1991 年のクーデターの要因にはなりえないという。一方で 2006 年のクーデターに関しては唯一、 GDP が減少した 1997 年に発生したアジア通貨危機が発生した年、また翌年においてクーデター は発生しておらず、経済の安定に加え、GDP が 2002 年に回復から成長へと伸びを示し始めた後 の 2006 年にクーデターが起きているために GDP はクーデターの影響を与えていないという。 [仮説 5, 6] 確かにタイにおける所得格差は、「上位 20%の人々が GNI の 50%を占めている一方で、下位 50% の人々はたった 20%の GNI を所有している。」と歴然ではあるがこの不平等さには大きな変化が なく、ジニ係数も年を通して 40%-50%と落ち着いており、『安定した所得の不平等』としてとら えることができる。このように不平等ではあるが、クーデターの起きる年、またそれ以外の年に おける変化はみられなく要因としての対象から除外される。(6)においても(4)と同様に輸出の停滞 を見せた 1997 年にクーデターが起こらなかった一方で、輸出に伸びがみられた 1991 年, 2006 年 に起きたクーデターより、両者のクーデターを説明する要因としては捉えることが不可能という。 [仮説 1, 2, 3(政治的効果)] 一方で、政治的要因である(1), (2), (3)が、これらは政治の不安定につながることはあるにしても、 必ずしもクーデター発生の要因として捉えることは困難であるという。しかしながら、政治的な 要因として「政治家の汚職問題」を原因とした論文は数多く存在し、2006 年にタクシン政権に向 けられたクーデターでは顕著である。下條芳明[タイ憲法政治の特色と国王概念]によれば、こうい Source: World Bank Date 0 50,000,000,000 100,000,000,000 150,000,000,000 200,000,000,000 250,000,000,000 1965 1967 1969 1971 1973 1975 1977 1979 1981 1983 1985 1987 1989 1991 1993 1995 1997 1999 2001 2003 2005 2007 2009 2011 2013 2015 図2 GDP (constant2005 US$)
  • 6. 5 った周期的に到来する「政治危機」に対応して軍はクーデターを実施し、成功すれば直ちに既成 の憲法を廃止し、軍事政権下で「暫定憲法」、新しい「正規憲法」が制定されてきたという。これ は玉田芳史[タイ政治・行政の変革 1991-2006 年]の論文においても、同様な記述があり 2006 年の クーデターの翌年に制定された 2007 年憲法が 1932 年から数えて 18 番目ということから考えると、 まさにクーデターの産物であり安定しない政権の要因とも考えられる。 3 章 分析 1 節 1970 年代の分析 本節では 1971 年から 1977 年まで続いたタイの混乱と米との関係について、アジア経済研究所 が発表しているアジア動向データベースを分析し、その結果より重要だと思われる統計を観察す ることによって果たしてクーデターは米あるいは関係を否定された経済との間に関係があるのか について考察を行っていくこととする。 1970 年代の混乱は主に 1971 年のクーデター、1973 年の学生革命、1976 年の反動クーデター、 1977 年のクーデターに分けることができる。ここでは最初に 1971 年のクーデターについて分析 を行っていくこととする。このクーデターの特異なところは、政権を担当していたタノム首相(元 帥)自身がクーデターの代表となっていて、さらに政権内の閣僚も多数参加していたということで ある3 。一体何故このような状態になったのかアジア動向データベースの重要日誌を動向分析レポ ートを軸に調査を進めた結果、1971 年は対外、対内的にタイ経済の状況は極めて深刻な事態であ ることが判明した。その中でも図 3、図 4 を見れば分かるとおり 1960 年代と比較して低下してき ているとはいえ総輸出額の 16%を占め海外から原材料を輸入する必要が無い為貴重な外貨獲得手 3 アジア経済研究所 アジア動向年報(1972)より 0.00% 10.00% 20.00% 30.00% 40.00% 出典:statistical year book thailand より筆者作成 図3 総輸出額に占める米の割合 -25.00% -20.00% -15.00% -10.00% -5.00% 0.00% 5.00% 10.00% 15.00% 20.00% 25.00% 1960 1961 1962 1963 1964 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 出典:statistical year book thailand より筆者作成 図4 輸出米1t辺り価格の変化率
  • 7. 6 段である米の輸出価格が暴落しているにもかかわらず、政府は米価支持政策による農民からの米 買い付けを廃止するなど状況と逆行した政策を実行に移したため農民の購買力が低下し、その影 響で繊維関係などの倒産が増加、さらにゴム価格も戦後最低となったため失業者が大量に発生し その結果凶悪犯罪が増加するという事態になっている。ここで追い討ちを掛けるのが輸出米価は 下がっているのに国内の米価はむしろ上がっているといった消費者物価の上昇である。米の価格 をみていくと白米 10% 127 バーツ/100kg→154.37 バーツ/100kg 蒸米 5% 145 バーツ/ 100kg→157.50 バーツ/100kg と特に白米の価格が 23%も上昇している。これはこの年に行われ たタマサート大学の調査で判明した工場労働者の家計に占める食費の割合が食費が 48.97%であ るという調査結果より極めて深刻なダメージを与えると推測される。この経済的苦境は図の経済 成長率にも現れていて、1970 年に 11%あったのが 1971 年には 4.90%4 と成長自体はしているものの 急減速が掛かっている。このような非常事態にも拘わらず、議会を中心とした政治が決定力が低 下したため5 、軍はクーデターに踏み切ったと考えられる。 1971 年のクーデターは危機に対して軍が危機感を抱いた結果発生したものであることが判明し たが 1973 年に軍事政権を打倒した学生革命の場合は一体どのような原因であったのかについて 見ていくこととする。この年は図 1 で暴落していた谷の一つである 1972 年の不作の影響が庶民の 生活にまで影響が出た年と言っていいだろう。この米を中心とした物価上昇の傾向は 1972 年 8 月 の米輸出規制辺りから始まっており、1972 年の段階で輸出促進のために廃止していた米プレミア ムを全面復活させるなど国外に米が流失しないように対策は実施したものの効果が少なく、表 2 を見ていただければ分かるとおり 1972 年 6 月の段階で 100%米が 1t 当たり 1737 バーツだったの が 1973 年 6 月には 3380 バーツと約 2 倍まで高騰し、その結果としてこの時期のタイの輸出の約 15%を占める米が 1973 年 6 月 13 日に輸出禁止に追い込まれる事態となった。この米の値上がりを 受け、他の様々物資を値上がり、図 5 に見られるように消費者物価指数は特に食料の値上がりが 顕著に見られた。この狂乱的物価上昇の結果、タイのストライキは 1958 年から 1972 年までの合 計 184 件より 90 件おおい 274 件が 1 年で発生するなど一般庶民の生活が行動を起こさざるを得な い水準まで悪化したと言う事ができるだろう。 4 world bank data より 5 これはアジア経済研究所 アジア動向年報(1972)に極めて詳細な記述があるのでそれを引用することとする。 「72 年度予算案の審議に入った国会では,予算委員会委員を与党と政府役人で独占した。しかし審議の過程で, 73 年に行なわれる予定の総選挙対策もあって, 与党議員が各選挙区で自由に使える金を一人について 200 万バー ツ要求してきた。もともと 72 年度予算は party budget,つまり与党のタイ国民連合が内閣の方針に沿って予算を配 分するという,それ自体選挙対策臭の強いものであった。予算委員会ではこの予算案に ついて国防費を除いて軒 並み削減し,さらに国防費削減の要求も出てきた。これに対して国防省は逆に国防費 2 億 8000 万バーツの増額を 求め,タノム首相兼 国防相はこの要求が受け入れられないときは"革命"を起こすと脅したといわれる。議会発足 以来予算案が年度内に成立したことは一度もなく,71 年度予算を みても 4 ヵ月後にようやく成立するという有様 で行政に支障を来たしており,役人の間ではテキパキと進められた軍政時代を懐む声も出,経済界では景気回復 を遅らせるとして議会不信の声が出てきていたのである。さらにタノム首相ら政府首脳の指導力が低下し,与党 内にはすでに幾つかの派閥が出来,不満分子が新 党を結成するとの噂も流されていた。政府が予算不足解消のた め計画した高額所得者の個人所得税や法人税の引上げ,第 3 次 5 ヵ年計画のための 120 億バーツ の外国借款も, 与党内部の強硬な反対で引っこめざるをえなかった。政府の議会対策は,野党の批判に対処するよりも,与党議 員のコントロールに苦労した面が 大きいと言えるだろう。そして国防費は,一方でラオス,カンボジア情勢の緊 迫,他方では米国の経済・軍事援助削減による自助努力強化の必要増大という中 で,タイ政府にとっては重要な 問題であった。従って与党議員が私利私欲に走って頼りにならないということになれば,軍部としては議会を廃 止して直接統治する以外ないわけである。」
  • 8. 7 1970 年代最後のクーデターである 1977 年のクーデターについて観察する。1977 年のクーデタ ーは指導者であるクリアンサック首相の施政方針演説にもあるように政治的経済的危機の打破を 目的としてクーデターが発生したわけ6 だがでは一体前の政権であるターニン政権では一体どの ような政策を採りどのような経済状態であったのかについて詳述していくこととする。 表 3 ターニン政権の反共政策 1 新聞の発行停止と再刊時における検閲制度の実施 2 徹底的な共産主義容疑者の逮捕、共産主義関連書籍の没収、焼却。この中でも共 産主義容疑者の逮捕に関しては 1976 年 10 月 6 日以前に市販された本を所持して いただけで逮捕するなど極めて厳しいものである。 3 韓国(当時は朴正煕政権)を手本とした反共教育の充実 4 ヴィレジ・スカウト、農民の声、タイ農民義勇兵など反共産主義農民組織の育成政策 の実施。手厚く保護したためヴィレジ・スカウトで 200 万人近い巨大組織を創設。 5 徹底的な軍事掃討作戦の実施。1976 年末から南部を中心にゲリラ掃討作戦を実 施、77 年にはマレーシア軍と共同で作戦を三回実施した。この作戦実行時に夜間外 出禁止令、立ち入り禁止区域の設定と区域内の住民の強制移住を行った上で経済 封鎖を行うなど極めて苛烈なものとなっている。東北部でも国境 6 県に対しても作戦 実行時に同様の措置を取った上で 6 ヶ月にわたり掃討作戦を実施した。 6 詳しくはアジア動向年報(1978)p298 参考資料を参照せよ 表 2 出典:アジア動向年報(1974)より 図 5 出典:アジア動向年報(1974)より引用 出典:アジア経済年報(1978)より筆者作成
  • 9. 8 1976 年の反動クーデターにより成立したターニン政権はその施政方針演説の冒頭で国家、宗教、 王室と言う国体を護持するために軍事力の強化、共産主義の根絶を中心に掲げるなど徹底的な反 共政権であった。その政策について纏めたものが表 3 となるが、この中でも 2 つ注目すべき点が あり、一つ目は共産主義ゲリラの隠れ家となっている農村における反共大衆組織の育成である。 手厚い保護を実施した結果、従来では見られなかった大衆レベルでの反共体制を築いたことであ る。2 つ目は国境地帯などに立ち入り禁止区域を設定し住民は強制移住、その地域に対して経済 封鎖を行うという経済的側面を犠牲にしてでも行われた徹底的な掃討作戦である。この掃討作戦 の影響で国内需要の 3 割を国境貿易(密輸出)に依存している繊維業界等から強い不満が出ること になった。 このように徹底的な反共政策を実施する一方、経済政策に関しては非常に無能であった。当時 のタイ経済は景気の後退、高い人口増加率、ベトナム戦争終結による米軍関連雇用(約 10 万人) の蒸発による失業率の増加とそれに伴う各種社会問題が深刻化、策定されていた第四次 5 カ年計 画で 220 万人の雇用を創出したとしても失業率が増加すると予測された状況にあり政府が強力な 指導力を発揮して事態に対処しなくてはならない状況に置かれていたにも拘らず、ターニン政権 は逆に経済を犠牲にして反共産主義政策を押しすすめた。それを端的に示すのが工場の認可件数 や操業開始数の変化であり、両方とも 1976 年と比較して申請は増えているのに下落しているとい う状況である7 。これは農業でも類似した状態でありターニン首相は頻繁に農村を訪れるも具体的 な利益を齎さず、反共の精神力だけを説くにとどまった。これの顕著な例が乾季自主農村開発計 画で、無償労働を前提としていたため不評を買う結果に終わるなど有効な政策を打ち出せなかっ た。 この無能さは各種経済指標にも現れてきていて、GDP の実質成長率は 8.2%から 6.2%に低下8 し、 インフレ率(消費者物価指数)は 4.1%から 7.6%に急上昇9 、失業率も 5%台に達する10 など様々な点か ら現れている。特に農業生産に関しては-1%の成長であり、その中でも穀物の生産量は-2.8%と極 めて悪い数字となっている。 このような経済を犠牲にまでする強硬過ぎる反共政策の結果、クーデターが起こったというこ とができる。 7 工業省の認可する工場設立状況は 76 年の 4057 件から 3843 件、操業開始は 4003 件から 2648 件海外直接投資受 入額(上半期)は 8.0 億バーツから 5.9 億バーツといずれも減少している。 8 アジア動向年報(1978)より 9 world bank data より 10 アジア動向年報(1977)より
  • 10. 9 2 節 1991 年クーデターの分析 本節では 1991 年のクーデターの原因について前節と同じくアジア動向データベース並びに各 種統計を見て分析を行っていき、1991 年クーデターの原因はどのようなものなのかについて観察 を行う。 タイで選挙結果に基づく首相が 12 年ぶりに復活したのが 1988 年 8 月 10 日でありクーデターが 発生したのが 1991 年 2 月 23 日であるため、その期間における各種経済動向の変化について分析 を行う。初めに実質 GDP の推移について示したものが図 6 となるが、今回分析する 1988 年から 1991 年にかけての実質 GDP 成長率は若干の下落傾向は見られるものの 9%以上の高い成長率を示 している。この高い成長率を実現した要因の一つとして変化が見られたのが直接投資額の大幅な 上昇である。図でも示されているように 1987 年を境に激増しており、この高度成長を実現した一 因であろう。 出典:world bank data より筆者作成 -15.00% -10.00% -5.00% 0.00% 5.00% 10.00% 15.00% 図 6 タ イ 実 質GDP成長率 推 移(2005年 米 ドル基準) 0 10000 20000 30000 40000 50000 60000 70000 1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 図7 直接投資額の推移(100万バーツ) 直接投資額(100万バーツ)
  • 11. 10 続いて、消費者物価指数といった生活に関係してくる各種指標の推移を見ていくこととする。 図は消費者物価指数の推移を表したものであるが、分析対象である 1988 年から 1991 年にかけて は緩やかな上昇傾向にあるものの、経済成長率を鑑みれば許容できる水準で推移しており、特に 大きな経済的ショックがあったとはいうことができない。 出典:アジア経済研究所 アジア動向データベースより筆者作成 0.00% 5.00% 10.00% 15.00% 20.00% 25.00% 1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 図8 消費者物価指数変化率 推移 出典:アジア経済研究所 アジア動向データベースより筆者作成 0.00% 1.00% 2.00% 3.00% 4.00% 5.00% 6.00% 7.00% 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 図9 失業率 推移
  • 12. 11 同じく人々の生活に関係してくる失業率に関するグラフが図になるが、これを見ても 1988 年か ら 1989 年から 1991 年にかけて若干上昇傾向にあるものの、3%以下の十分に低い水準にあり、特 にショックがあったと読み取ることはできない。 ここまで、様々な統計を見てきたがショックになるような数値の変化は見ることができなかっ た。むしろ経済パフォーマンスの上では好調と言ってもいい状況下にある。 前述の通り経済状態は好調といっていい状態であるにも拘らず、何故クーデターが起こったの かについてアジア動向データベースの重要日誌及び動向分析レポートを元に考察を行う。最初に、 重要日誌を選挙により民選首相が政権を担当することになった 1988 年から 1991 年のクーデター 発生までの間分析を行った。 その結果政府と軍部の関係が 1990 年を境に大きく変化していることが判明した。チャチャーイ 政権成立直後の 1988 年 11 月 27 日に早くもクーデターの動きありとサウス・チャイナ・モーニング 氏が報道したがこれを即座に否定、さらに 1989 年 6 月 8 日には最高司令部将校に対して政治的発 言を公の場ですることを禁止する命令を出すなど、チャチャーイ政権に対して配慮が為されてい た。さらにチャチャーイ首相も陸軍司令官で実質的なタイ軍部のトップであったチャワリット司 令官に国防相ポストを提示するなど、両者の関係は比較的安定したものであった。 これに変化が生じたのはチャチャーイ首相の要請に応じて副首相兼国防相に就任した 4 月以降 である。チャチャーイ首相は一度取り込んでしまった後、一転してチャワリット氏を冷遇するよ うな態度を取り、彼が行った政策提案 57 件のうち実際に採用されたのが 10 件であった。チャワ リット氏は汚職追放委担当相の地位も兼任し汚職追放に重点を置いていた。これは 1990 年 5 月 28 日に汚職追放に関するセミナーをタマサート大学で開いたことからも良く分かる。これに対し て政権内の身内であるはずのチャラーム総理府相から政権が腐敗しているというものは辞任する べきだ、軍部も汚職にまみれていると批判されるなど政権内部での孤立が深刻化したことを受け、 辞任を決意した。この後軍部がチャワリット氏を支持したことにより対立が激化、クーデターに 至ったと考えられる。 1991 年クーデターについて纏める。最初に、1991 年クーデターが起こった時期のタイは好況期 と言える時期であり各種経済指標を見ても緊迫した情勢ではなく、クーデター発生の要因として 考えるのは不適切である。では一体どのような原因でクーデターが発生したのか分析したところ、 元陸軍司令官を冷遇したことに端を発する政府と軍の対立がクーデターにまで至ったと考えられ る。次節では、本節と 1 節を比較し一体何故このような差が生まれたのかについて考察を行う。 3 節 1970 年代と 1991 年で何が変化したのか 本節では何故 1970 年代は経済的要因が観測されたのに対して 1991 年クーデターでは一切観測 されなかったのかについて各種統計を観察しそこから各種考察を行う。
  • 13. 12 0 500 1000 1500 2000 2500 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 constant2005US$ 図10 一人当たりGDPの推移 出典:world bank data より筆者作成 0.00% 2.00% 4.00% 6.00% 8.00% 10.00% 12.00% 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 図11 一人当たり実質GDPの伸び率 出典:world bank data より筆者作成
  • 14. 13 最初に、77 年のクーデター以降の実質 GDP の推移、一人当たり GDP の推移をグラフにしてみ たものが図 10、図 11、図 12 であるがすべて 1986 年を境として成長速度に変化が見られた。この 1986 年に何が起きたのかを中心として、1970 年代と 1991 年の間に何が変化したのかについて考 察を行っていくこととする。 0 20000 40000 60000 80000 100000 120000 140000 160000 197819791980198119821983198419851986198719881989199019911992199319941995 millionus$ 図12 タイの実質GDPの推移 出典:world bank data より筆者作成 0 10 20 30 40 50 60 % 年 図13 GDPに占める各産業の割合 第二次産業 第一次産業 第三次産業 Log. (第二次産業) Log. (第一次産業) Log. (第三次産業) 出典:world bank data より筆者作成
  • 15. 14
  • 16. 15 図 13 は各産業が GDP に占める割合を示したものであるがここを見ていくと 1978 年以降、農業に 代わり工業の比率が増加し続けていることがはっきりと見て取れここから工業化が進行したとい うことができるだろう。しかし、これだけでは 1986 年の急上昇の原因が工業と言うことはできな い。その問題について図 14 の各産業別 GDP の推移を見ていくと、農業生産が横ばいであるのに 対して工業生産、サービス産業が 1986 年を境に急激に上昇していて、工業、サービス業の急速な 成長が GDP 増加の主役であったということができるだろう。 0 2E+10 4E+10 6E+10 8E+10 1E+11 1.2E+11 1965 1967 1969 1971 1973 1975 1977 1979 1981 1983 1985 1987 1989 1991 1993 1995 1997 1999 2001 2003 2005 2007 2009 2011 2013 US$ 図14 産業別実質GDPの推移 第二次産業 第一次産業 第3次産業 出典:world bank data より筆者作成 0 10 20 30 40 50 60 70 1962 1964 1966 1968 1970 1972 1974 1976 1978 1980 1982 1984 1986 1988 1990 1992 1994 1996 1998 2000 2002 2004 2006 2008 2010 2012 2014 % 図15 商品輸出に占める食料品の割合 出典:world bank data より筆者作成
  • 17. 16 0 20000 40000 60000 80000 100000 120000 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 図16 主要輸出品輸出額の推移(100万バーツ) 米 ゴム タピオカ 砂糖 エビ 集積回路 繊維製品 出典:アジア動向年報より筆者作成 0 10000 20000 30000 40000 50000 60000 70000 1977 1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 図17 直接投資額の推移(100万バーツ) 直接投資額(100万バーツ) 出典:アジア動向年報より筆者作成
  • 18. 17 さらにタイの工業化の性質が変化したこと示しているのが図 15 の商品輸出に占める食料品の 割合の変化と図 16 の主要輸出品の輸出額の推移である。1986 年付近を境として輸出に占める食 品の割合が急激に減少し、それに代わり伝統的に輸出していた繊維製品や集積回路等の本格的な 加工工業製品の輸出が激増していることが見て取れる。 一体何故 1986 年を境にタイの工業化の性質が変化したのか、を示しているのが図 17 の直接投 資額の推移である。これを見ていくと 70 年代から殆ど横ばいだった直接投資額が 1987 年を境に 急激に上昇していることが見て取れる。ではこの時期何故直接投資が増えたのか、についてはア ジア動向年報(1987)によると 1987 年のタイ投資委員会(BoI)への投資申請件数は 1986 年の 431 件 から 1057 件に登録資本金ベースで 2080 億バーツ、そのうち日本が 202 件 472 億バーツ台湾 178 件 147 億バーツと日本、台湾資本が大量に流入していると指摘している。この時期日本と台湾が 直面しているものと言えばプラザ合意後の急速な円高であり、その影響を受けて投資が加速、タ イに資本が流れ込み産業構造が根本的に変化するに至ったと考えられる。 0 1,000 2,000 3,000 4,000 5,000 6,000 7,000 1976 1981 1986 1988 1990 1992 図18 1ヶ月辺りの一世帯当あたり実質平均収入の推移 1976年基準 Whole Kingdom Great Bangkok Central Northeastern Northern Sourthern 出典:statistical yearbook thailand より筆者作成 0 500 1,000 1,500 2,000 2,500 3,000 1976 1981 1986 1988 1990 1992 図19 一家庭あたりの実質平均収入の推移 1976年基準 Whole Kingdom Central Northeastern Northern Sourthern 出典:statistical yearbook thailand より筆者作成
  • 19. 18 タイの産業構造はプラザ合意後の円高を受けた日本や台湾による投資よって産業構造そのもの が変化したがそれは一体人々の生活何をもたらしたのかを見ていくこととする。1 世帯平均収入 の変化を見た結果、1976 年から 10 年以上殆ど変化していなかった平均収入が北部を除く全地域 で 1988 年より急激に上昇が確認された。クーデターの翌年である 1992 年にはタイ全土における 平均収入が 1988 年と比較して約 36%、バンコク首都圏では約 64%実質平均収入が増大しているこ とが判明した。 0 100 200 300 400 500 600 ストライキ、ロックアウトの件数 図20 ストライキ発生件数の推移 出典:ILOstat より筆者作成 70 数 図21 ストライキ発生件数の推移(1978年以降)
  • 20. 19 この所得の増加が齎したものは図 20、図 21 で見られるようなストライキ件数の急減であった。 1970 年代に吹き荒れていたストライキの荒らしが 1980 年代前半に落ち着きを見せ、1980 年代後 半にかけて一段と減少している。 ここまでの議論を総括していくと、タイでは 1977 年クーデター以降、産業の中心が農業から工 業へ産業構造が変化したが、その中でも 1986 年のプラザ合意に端を発する日本、台湾資本の流入 によってタイの産業構造は大きく変化した。その結果失業率は減少、過去 10 年に渡って横ばいだ った実質賃金も上昇に転じた結果、人々の不満の現れであるストライキの件数が激減したと考え られる。それに対して政治は 1 節の 1970 年代では経済危機に対する政府の無能に対する軍の危機 感が原因であり、2 節では汚職に関する政府の無能と軍との対立が原因であった。つまり政治は なんら進歩しておらず、経済が外的要因により好転したため 1970 年代にあった経済的要因、国民 の不満と言う要素だけが消失し政府の無能と軍との対立関係だけがクーデターの原因となったの だ。 4 章 Conclusion これまで、タイのクーデターを専門的に扱った論文では経済とクーデターについての関係につ いて一切論じられてこなかった。しかし現地誌を纏めたものであるアジア動向年報を分析した結 果、1970 年代に関しては経済危機がクーデター発生の大きな要因となっていることが明らかにな った。Introduction で想定していた、米の生産量とクーデターの関係については米の生産量ではな く、米の国内、国際価格と関係性は見受けられるもののそれよりも経済状態全体、特に物価や失 業といった人々の生活と直接関係してくる指標の悪化がクーデターと深い関係にあることが確認 された。 これに対して 1991 年クーデターでは政府と軍の汚職を巡る政府の無能と軍との対立が主な要 因であった。ここで重要なのが 1991 年クーデターでは 1970 年代のクーデター直前に良く見られ た人々によるデモやストライキといった不満を訴える行動が極端に減っていることである。これ はクーデター発生の要因としての経済危機が抜け落ちたということであり、その原因としてはプ ラザ合意に端を発する日本や台湾といった国家から大量の直接投資が流れ込んだことによりタイ の産業構造が変化し、横ばいだった人々の実質所得が上昇したためであると考えられる。 1970 年代と 1991 年で経済的要因が欠落したのは前述の通りだが、クーデター発生の本質は政 府と軍の対立である。その対立の一つとして経済危機が大きく絡んできたのが 1970 年代のクーデ ターだったが、外資の大量流入によりそれが解決された。それに代わって 1991 年のクーデターで は新たに汚職を争点として政府と軍が対立、クーデターへと至ったのと言うわけである。つまり 争点は変化したが 1970 年代と 1991 年の間政府と軍の関係は変化したわけではなく、1970 年代と 1991 年で経済がクーデター発生の原因とならなくなり只の政府と軍の対立へと変化したのは政治 が変化したからではない。プラザ合意を初めとした外的要因によって経済が好転、人々の不満か 解消され政治に無関心になったため政府と軍の対立がクローズアップされただけなのである。 参考文献
  • 21. 20 アジア経済研究所『アジア動向年報』1970 年版(1970)-1992 年版(1992) アジア経済研究所 下條芳明(2013)「タイ憲法政治の特色と国王概念 : 比較文明的な視点を交えて」『九州産業大学商 学会』 玉田芳史・船津鶴代(2008)「タイ政治・行政の変革 1991-2006」『アジア経済研究所』 山本博史(2011)「タイ―民主主義の行方」『経済貿易研究』37 号、3 月、133-148 Astri Suhrke and Charles E. Morrison(1972)”Thailand―Yet Another Coup”, The world Today., Vol. 28, No. 3 (Mar., 1972), pp. 117-123 , Royal Institute of International Affairs Federico Ferrara (2011)” Thailand: minimally stable, minimally democratic”, International Political Science Review / Revue internationale de science politique, Vol. 32, Sage Publications, Ltd. James Ockey (2007)” Thailand's 'ProfessionalSoldiers' and Coup-making:The Coup of 2006, Crossroads: An Interdisciplinary Journal of SoutheastAsian Studies, Vol. 19, No. 1 (2007) , pp. 95-127, Northern Illinois University Center for Southeast Asian Studies Michael L. Mezey (1973), “The 1971 Coup in Thailand: Understanding Why the Legislature Fails”, Asian Survey, Vol. 13, No. 3 (Mar., 1973), pp. 306-317, University of California Press Stable National Statistical Office, “statistical year book thailand” No. 24 ([1963])-no. 49 (2002); 2003 (2003)-2006 (2006) 2007(2007)2009(2009)-2013(2013), NationalStatistical Office Robert B. Albritton and Thawilwadee Bureekul(2007)” Public Opinion and Political Power:Sources of Support for the Coup in Thailand”, Crossroads:An Interdisciplinary Journal of Southeast Asian Studies, Vol. 19, No. 1 (2007), pp. 20-49, Northern Illinois University Center for Southeast Asian Studies