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プロパガンダ
ジャック・エリュール
1965
1
序
プロパガンダは、我々がそれを何と呼ぶにせよ、現代社会において極めて一般的な現象
になっている。政治体制の違いは大して問題ではなく、社会階層の違いこそ重要である。
そして最も重要なことは国家的な自意識である。世界には今日、3 つのプロパガンダの区
域がある。ソ連、中国、米国である。これらは範囲や深さ、一貫性という意味で最も重要
なプロパガンダ体制である。付随的にこれらは、3 つのまったく異なるプロパガンダの種類
と手法を表出している。
世界中のその他の区域は発展と効果においてさまざまな段階にあるが、これら 3 つの区
域ほどには進んでいない。ヨーロッパやアジアの社会主義共和国の国々、ポーランド、チ
ェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア、東ドイツ、北ベトナムは、多少の違いや
理解の不足、資源の不足はあるにせよ、ソ連のプロパガンダをモデルにしている。西ドイ
ツやフランス、スペイン、エジプト、南ベトナム、韓国は、手が込んでいない、どちらか
というと散漫なプロパガンダのかたちである。イタリアやアルゼンチンのような国々は、
かつて強力なプロパガンダ体制を持っていたが、もはやこの武器を保持していない。
国や手法の違いがどうであれ、プロパガンダは一つの変わらない特質も持っている。効
果への関心である。プロパガンダはまずもって、行動への意思のために作られた。効果的
に政策を操り、意思決定に不可避の権力を与えるためである。この道具を用いるものは誰
でも素朴に効果というものが気になるはずだ。これは最上位の法則であり、プロパガンダ
が分析される時、決して忘れてはならない。効果のないプロパガンダはプロパガンダでは
ない。この道具は技術的な普遍性があり、特質を共有しており、分かちがたく効果の観点
と直結している。
プロパガンダは技術であるだけでなく、技術的な発展と技術的な文明の成立の不可欠な
条件でもある。そして、すべての技術がそうであるように、プロパガンダも効果の原則に
従っている。しかし、プロパガンダは比較的簡単に正確な技術を学ぶことができ、その範
囲を定義できるにも関わらず、プロパガンダの研究は尋常でない障害のなかにある。
このような端緒からこの現象自体に大変な曖昧さがあることは明らかである。先験的な
道義的、或いは政治的な概念からまずは始まるものである。プロパガンダは通常“悪魔”
と見なされていて、そのことが研究を難しくしている。何かを適切に研究するには、倫理
的な判断を切り離さなければならない。おそらく客観的な研究は我々を倫理の向こう側に
導き、その後においてのみ事実を十分に認識できるだろう。
第二の混乱の原因は、プロパガンダが嘘という手段によって撒き散らしたほら話を多く
含んでいるというのが、これまでの経験に基づく一般的な認識である。この見解に則るこ
とは、過去のプロパガンダのかたちとは全く異なる実際の現象について理解することから
遠ざかってしまう。
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これらの障害が取り除かれた時でさえ、我々の世界において何がプロパガンダを形成し
ているのか、何がプロパガンダの性質であるのか理解することが非常に難しいことには変
わりがない。なぜなら、プロパガンダは秘匿の行動であるからだ。このとき、ジャック・
ドリエンコートが“すべてがプロパガンダである”と主張していることに賛同したくなる
誘惑は倍になる。政治的或いは経済的領域においてあらゆる者がこの力によって浸透され
形成されているように見えるからだ。或いはプロパガンダは正確さをもって定義できない
ために、現代の米国の社会科学者がプロパガンダという言葉を完全に捨て去ってしまった
からだ。いずれも許しがたい知的放棄である。いずれの態度を取ることも、実在し定義が
望まれている現象の研究を放棄することになってしまう。
我々は、定義することの極度の困難さに直面した。
我々は、マーブリー・B・オグルスがいう“プロパガンダは意見や態度を変えるあらゆる
努力のことである。・・・プロパガンディストとは聴取者に影響を与えようという意図を
もって確信の観念を語る誰しものことをいう”というような単純な定義を即座に棄却する
ことができる。このような定義は、教師、牧師、何かの話題について誰かと会話している
いかなる人をも包括することになる。このような広い定義はプロパガンダの特質を理解す
ることの助けにはまったくならない。
定義に関しては、米国における特徴的な進展がある。1920年からおよそ1933年にかけて
、主要な意見というのは、プロパガンダは、心理学的に聴取者が関知しない目的を持った
心理学的なシンボルの操作であるというものであった。
ラスウェルの研究が登場して以来、別の手段による、表明された目的を伴うプロパガン
ダも有り得ると見なされるようになった。関心はプロパガンディストたちの意図に集中し
ていた。より最近の書籍では、特に政治的、経済的、社会的問題に関して教え込もうとい
うような意図は、プロパガンダの典型であるとみなされている。このような論及の枠組み
のなかでは、こんな人とこんな人がプロパガンディストであり、それゆえに彼の言葉と行
動はプロパガンダであるといったようにプロパガンディストを注視すれば、何がプロパガ
ンダを成しているのかを特定できる。
しかし、米国の著述家たちは次第にプロパガンダ分析研究所によって与えられ、ラスウ
ェルに触発された定義を受け入れるようになった。
“プロパガンダは、あらかじめ定められた目的のために、また心理学的操作を通じて個
人や集団の意見や行動に影響を与えるという観点で、個人や集団によって意図的になされ
る意見や行動の表出である”
我々は、次のような定義も引用できよう。イタリアの著述家アントニオ・ミオットは,
プロパガンダとは“社会的圧力の技巧であり、検討すべき個人の情緒的で精神的な状態の
単一性に拡がる統合的な構造をもって、心理学的或いは社会的集団を作り出すことができ
、”と言っている。著名な米国人専門家のレオナルド・W・ドゥーブにとって、プロパガン
ダは“特定の社会や時間において非科学的とみなされ、或いは疑わしい価値の目標に関連
3
づけて、人格を形成し、個人の行動を操作しようという試み”である。
そして我々は、もしこの主題に関してドイツやロシアの文献を調査すれば、もっと違っ
た定義を見出すこともできる。
私はここで自分なりの定義をしようとは思わない。私はこの問いにおける専門家たちの
間の不明瞭さを示したかっただけだ。私は既存の社会学的現象として、プロパガンダの性
質の研究を続けることはより意味のあることだと考えている。このことに下線を引いてお
くはおそらく適当だろう。我々は過去と現在の形式のプロパガンダを検証することになる
。明らかなことだが、我々はヒトラーのドイツ、スターリンのロシア、そしてファシスト
・イタリアの高度に発達したプロパガンダを研究せざるを得ない。これは明白なことでは
あるが、多くの著述家はこうした接近に賛同しないだろう。彼らはプロパガンダの印象や
定義を確立していて、彼らの定義に沿うものの研究を進めている。或いは科学的研究への
魅力に従いながらも、彼らは小集団や少量の単位である特定のプロパガンダの手法を実験
しようとしている。その時点で、それはプロパガンダではなくなってしまっているのだが
。
プロパガンダを研究するために、我々は心理学者にならずにプロパガンディストになら
なければならない。我々は試験集団ではなく、現実に効果のあるプロパガンダの影響下に
ある国全体を調べなければならない。もちろん、このことはすべてのいわゆる科学的(つ
まり統計的)研究手法を排除することになるが、しかし少なくとも我々は、自分たちの研
究対象を大切する。厳格な観察手法を確立しつつ、かつ応用しようとする多くの今日的専
門家が、研究すべき対象を見失ってしまっているようなことはしない。むしろ、我々はプ
ロパガンダが用いられるいかなる場所においても、効果への懸念が支配するいかなる場所
においても、プロパガンダの本質が何であるかを考える。
最後に、我々は最大限広い意味でプロパガンダという用語を用いる。なぜならそれは以
下のような領域を包括するからだ。
心理学的行動: プロパガンディストたちは純粋な心理学的な手段によって意見
を形成しようとしている。多くの場合、プロパンガンディスト
は準教育的な目的を追求し、仲間の市民たちに話しかけようと
している。
心理戦: ここにおいてプロパガンディストは、外国の敵に対処しようと
している。プロパガンディストは敵が自分の信条や行動の有効
性に疑問を持ち始めるよう心理学的な手段によって敵の士気を
取り乱そうとする。
再教育と洗脳: 囚人に対してのみ使うことができる、敵を仲間に変える複雑な
手法。
公的・人的関係 :これらはプロパガンダに必ず含まれなければならない。このこ
4
とは読者にショックを与えるかもしれない。しかし我々は、プ
ロパガンディストは個人をある社会・生活様式・行動に当ては
めようとするので、これらの関係性はプロパガンダであると見
なすことになる。プロパガンディストは人を心地よくさせるべ
く力を尽くし、それはすべてのプロパガンダの目的なのである
。
プロパガンダは広い意味において、これらすべてを包括する。狭い意味においてプロ
パガンダは機構的な特質として特徴づけられる。我々はプロパガンダを心理学的影響力
の技巧とみなし、その技巧は組織や人々を動員する技巧と、引き起こす行動の狙いとを
組み合わせたものである。この時、プロパガンダは我々の質問に溢れる広大な領域とな
る。
この網羅的なプロパガンダの全体観のなかから、私は慎重に多くのプロパガンダ研究
に見られる以下の対象を取り除いた。
プロパガンダの歴史的な説明 : 特に 1914 年或いは 1940 年のプロパガンダとい
った近代のもの
実体としてのプロパガンダと世論: その形成などを大きな問題としてプロパガン
ダを考えること、意見を形成し変化させる単
純な道具として、小さな問題のようにプロパガ
ンダを考えること
プロパガンダの心理学的な基礎 : プロパガンディストが弄ぶ偏見や衝動、動機
、情熱、固定観念とは何か、プロパガンディ
ストが成果を得るために活用する心的な力と
は何か
プロパガンダの技法 : いかにプロパガンディストは心的な力を行動
に変えるか、いかにプロパガンディストは人
々に接触するのか、いかにプロパガンディス
トは人々を行動への誘うのか
プロパガンダのメディア : マスコミュニケーション・メディア
これら 5 つはあらゆるところでみられる章の見出しである。ヒトラー、スターリン、米
国などのプロパガンダの優れた事例の特徴に関する研究というのはそれほど多くない。こ
れらの事例はこれまでしばしば研究されてきたので、ここでは明確に割愛する。私は代わ
りにほとんど扱われてこなかったプロパガンダの側面を検証しようと思う。正統でない観
点を採用する。私は時折既存の研究に頼りながらも、抽象的でも統計学的でもない方法を
5
用いる。読者はプロパガンダの百科事典を触るのではなく、心理学的基礎や技法、手法へ
の精通を前提としながら、人を条件づけ規定する現象であるプロパガンダに現代人がより
関心を持つよう尽力するという作業に関わることになる。
一方、私はプロパガンダを総体として考えている。手段として捉えたプロパガンダに後
退し、倫理的判断を下すことはよくある。例えば民主主義は正しく、独裁主義は悪い。技
法として独裁主義に加担するプロパガンダとまったく同一であっても、民主主義に力を貸
すプロパガンダは正しい。或いは、社会主義は正しく、ファシズムは悪く、プロパガンダ
は社会主義者の手の中にあってはまったく悪くなく、ファシストの手の中にあっては全面
的に悪いといったようにである。私はこうした態度を否定する。現象としてのプロパガン
ダは中国においてもソ連においても米国においてもアルジェリアにおいても本質的に同じ
である。技法はそれらを互いに結びつけるものである。組織の有効性の高低は、伝播する
メディアの発達度やメディアを直接に扱っているかどうかによる。しかしそのことは問題
の核心を変えはしない。プロパガンダの原則を受け入れ、それを活用しようと決めた者は
、必ずより効果的な組織や手法を用いようとする。もっと言えば、本著の前提は、プロパ
ガンダが何を引き起こそうとも、最も高潔な人物であろうと、最も意図的な人であっても
、共産主義やヒトラー主義、西洋の民主主義という同様の結果に至っており、個人や集団
に不可避の影響を与えていて、プロパガンダによってなされた公言された教義や支援され
た体制が違うだけのことということである。言い換えると、政治体制としてのヒトラー主
義はある効果を持っていて、ナチスによって使われたプロパガンダはある特定の性質を持
っている。多くの分析家はこの特質を分析するにとどまるが、私はより一般的な性質、す
べての事例やすべてのプロパガンダの手法に一般的な効果を見出すために、そうした特質
の分析を止めることにする。だから私はその他の技法を研究するのと同じように、プロパ
ガンダ研究においても同じ観点や同じ手法を採用する。
私は、プロパガンダが誰によっても避けがたく必要なものになっているという事実に多
くの頁を割くことする。こうした人々とプロパガンダの関係性のなかで、私は多くの誤解
の元に出くわした。多くの現代人が崇拝する“事実”、つまり現代人は事実を究極の現実
として受け止める。現代人は何が正しいことかを確信している。現代人は事実は証拠や証
明をもたらすものと信じていて、価値観を事実の下位概念にしようとする。信じるものよ
りも必要性を優先する。この固定観念化したイデオロギー的な態度は、必ず確率の判断と
価値の判断の間の混乱をもたらす。事実は単なる基準だから、それはよいものに違いない
。結果として、事実を語るものは誰でも、事実に基づく判断をすっ飛ばしてさえ、事実に
賛同すると考えられる。共産主義が選挙に勝つと(単に確率の判断を述べながら)主張する
者は誰もが皆、即座に共産主義賛成者と見なされる。人間の活動はますます技術に支配さ
れていると語る者は誰もが皆、“テクノクラート”やの類いにみなされる。
現代の世界におけるプロパガンダの不可避の影響力と、プロパガンダの社会の全構造と
の関係性を考察するために、我々がプロパガンダの発展について研究を進めるにつれて、
6
読者もプロパガンダを認めたくなるだろう。プロパガンダは必要に応じてなされるもので
あるから、このような仕事はそれゆえに著者にプロパガンダをさせ、助長させ、強めさせ
るだろう。私の精神から遠く離れたものなどないと私は強調したい。そのような想定は事
実と権力を崇拝する者たちによってのみあり得ることだ。私の意見としては、必要性が正
統性を確立することは決してあり得ず、必要性は弱さの世界であり、人間を否定する世界
である。私にとって、ある現象が必要な手段だなどと言うことは、人間の否定である。必
要性は権力の証明であり、優秀性の証明ではない。
しかしながら、必要性に迫られたとき、もし必要性をうまく操りたいのなら、人はそれ
を気にするほかない。人はある現象の必然性を拒む限り、ある現象と対峙することを避け
る限り、道に迷ってしまうことになる。“にも関わらず”、人は自由であるかのようなふり
をしながら、自由であると主張するので、事実上必要性に服従することで自分自身を欺く
ことになる。人は自分の欺きを悟ったときのみ、欺きを逃れ現象を公平に見つめ、元々の
事実に分解するという悟りの作業のなかで、本物の自由の始まりを体験することができる
。
プロパガンダの力は、人類への直接的な攻撃である。尋ねたいのは、どれほどその力が
大きいと危険を伴うのかということである。多くの答えは、認識していない先験的な教義
によって異なる。人間性を信じず、人間の条件を信じる共産主義者は、プロパガンダは全
面的に強力でかつ(彼らがそれを行う場合は常に)正当であり、人類の新種を作る上で助け
になると考える。米国の社会学者は、民主主義の基石である個人が非常に不安定なものに
なり得るという発想を受け入れることができず、人類への究極的な信頼を持ち続けるので
、プロパガンダの有効性を科学的に軽視しようとする。私も個人的には人類の卓越、付随
的に人類の頑健さを信じがちである。しかし、私は多くの事実を観察するなかで、人が大
変に従順で自分自身に確信を持てず、喜んで多くの助言を受け入れて従い、およそあらゆ
る教義の風に揺れ動いていることが分かった。しかし、本書を通じて私が人類に対するプ
ロパガンダの最大の力を明らかにするとき、人格における最も深刻な影響をお見せするま
さに入口へと進むことは、私が反民主主義であるということを意味するのではない。
プロパガンダの威力はもちろん、最も危険な民主主義の綻びの1つである。しかし、そ
のことが私の意見をどうこうするということではない。もし私が民主主義を選ぶなら、私
はプロパガンダが民主主義の真の実行を不可能にすることを悲しむだけのことだ。しかし
、私は、真の民主主義とプロパガンダが共存するという幻想をもてはやすとはより悪いこ
とだと思う。夢の世界に住むことほど危険なことはない。危険な政治制度が継続すること
に警告を発することは、それを攻撃することを意味するのではなく、人がその制度に捧げ
ることができる最大の奉仕である。同じことは人に対しても当てはまる。その人の弱さを
指摘することは、その人を破壊しようというものではない。むしろその人が自らを強くす
るよう励ましているのだ。私は高慢な貴族的な知識人に何の共感も覚えない。彼らは、自
分たちがその時代の破壊的な力にはまったく動じないと信じていて、侮辱的にも普通の人
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々のことを、人が人である最もくつろいだ局面でのプロパガンダの実行によって誘導され
形成されるべき蓄牛だと考えている。私がこのような警告をすることは人類を守る行為で
あり、オリンポスの神々のような堂々たる超然さをもって断定などしておらず、私自身、
身をもってプロパガンダの威力の衝撃を被り体感しながら分析しているのである。プロパ
ガンダを、全人格を脅かす脅威として語りたいのだ。
プロパガンダの真の様相を描き出すために、我々はプロパガンダを常に文明という文脈
のなかで考えなければならない。おそらく、この主題に関するほとんどの研究の最も基本
的な欠陥は、一つの隔離された現象としてプロパガンダを研究しようとしていることにあ
る。このことは、社会的、政治的現象を互いに切り離して、部分の関係性を確証しない考
えや、さまざまな制度の有効性を取り扱う研究者たちを安心させる考え方と符合している
。例えば民主主義は、まるで国民が国家から独立した主体であるかのように、世論は“そ
れ自体のもの”であるかのように研究する。そのなかにあっては、世論やプロパガンダの
科学的研究はその他の専門家たちに頼ることになり、世論の専門家は民主主義のための適
切な法的枠組みを定義する法律専門家に頼ることになる。技術社会の問題が、精神的で感
情的な生活に対して起こり得る影響に触れることなく研究される。例えば労働運動は、心
理学的手段などによって引き起こされた変化には関心を示さずに検証される。
繰り返すが、プロパガンダの研究は技術社会の文脈のなかでなされなければならないと
私は強調したい。プロパガンダは技術社会によってつくられた問題を解決するために、調
整の失敗を何とかするために、人々を技術的な世界と結びつけるために必要である。プロ
パガンダはかなりの部分で体制の政治的武器というよりも(それもそうなのだが)、人間全
体を包括し完全に統合された社会になる傾向がなる技術社会の影響である。現在、プロパ
ガンダは最も内側にあり、最も捉えづらいこうした傾向の現れなのである。プロパガンダ
は国家の増大する力、そして政府や行政の技法の中心として見られるべきものである。
“国家の何がしらに依るすべてのものはプロパガンダを使っている”と人々は言い続けて
いる。しかし、もし我々が本当に技術的な国家を理解したなら、そうした主張は無意味な
ものとなる。増大する機械化と技術的な組織の中心では、プロパガンダは単に、これらの
ものをあまりに抑圧的だと感じさせずに、人を潔く折れるよう説得するための手段である
。人がこの技術社会に完全に適応するとき、熱狂とともに従い、彼が強いられているやる
べきことの素晴らしさを承服するとき、もはや組織の制約条件を感じなくなる。事実、制
約されないので警察はやることがなくなる。市民的で技術的な善意、正しい社会的神話へ
の情熱はいずれもプロパガンダでつくられたものだが、ついに人類の問題を解決してしま
うだろう。
ジャック・エリュール
1962
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目次
第1章 プロパガンダの特質
1.外的特質
個人と大衆
総力的プロパガンダ
プロパガンダの持続とその期間
プロパガンダの組織
正当な実践
2.内的特質
心理学的領域の知見
社会における基礎的潮流
時間軸
プロパガンダと無党派層
プロパガンダと真実
事実の問題
意図と解釈
3.プロパガンダの分類
政治学的プロパガンダと社会学的プロパガンダ
扇動のプロパガンダと統合のプロパガンダ
垂直的プロパガンダと水平的プロパガンダ
理性的プロパガンダと非理性的プロパガンダ
第2章 プロパガンダの成立条件
1.社会学的条件
個人主義社会と大衆社会
意見
大衆メディア
2.プロパガンダ全体の客観的条件
平均的生活水準の必要性
平均的文化
情報
イデオロギー
第3章 プロパガンダの必要性
1.国家の必要性
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現代的国家のジレンマ
国家とその機能
2.個人の必要性
客観的状況
主観的状況
第4章 プロパガンダの心理学的影響
心理学的純化
プロパガンダを通じた疎外
プロパガンダの心的分離効果
プロパガンダを求める欲求の創造
ミトリダート化
感作
心理学的効果のあいまいさ
第5章 社会政治的効果
1.プロパガンダとイデオロギー
伝統的な関係性
新しい関係性
2.世論の構造への効果
世論の構成要素の調整
意見から行動へ
3.プロパガンダと集団形成
集団の分断
政党への効果
労働界への効果
教会への効果
4.プロパガンダと民主主義
民主主義におけるプロパガンダの必要性
民主主義的プロパガンダ
国際プロパガンダの効果
国内プロパガンダの効果
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第 1 章 プロパガンダの特質
真の現代的プロパガンダは現代の科学的体系の文脈のなかでのみ機能できる。しかし、
真の現代的プロパガンダとは何であろうか。多くの観察者は、プロパガンダは一連のまや
かしとも多少の重要な実務とも捉えている。さらに心理学者や社会学者はこうした実務の
科学的特質をほとんどの場合受け入れずにいる。我々はプロパガンダが科学というよりも
技法であるとの考えに賛同する。しかし、それは“現代的”技法であり、つまりプロパガ
ンダは一つまたは幾つかの科学の分野に基礎を置くものである。プロパガンダはこうした
科学分野の表出であり、科学分野とともに動き、その成功を共有し、その失敗の目撃者を
生む。プロパガンダが個人に対する感化や技巧、或いは洗練されていないまやかしの使用
であった時代は過去のものとなった。我々が四つの観点から明らかにするように、今や科
学はプロパガンダに進出してきている。
第一に、現代的プロパガンダは心理学や社会学の科学的分析に基づいている。徐々にで
はあるが、プロパガンディストは人の知識や傾向、欲求、必要性、心的機能に基づいて、
深層心理学と同程度に社会心理学に基づきながら、技法を構築している。集団の形成や解
体の法則、大衆への影響、環境的限界の知識に基づいて、その方法が構築されている。現
代の心理学や社会学の科学的調査なしに、プロパガンダは存在し得ない。或いは、むしろ
我々はペリクレスやアウグストゥスの時代にも存在したプロパガンダの原始的段階に、い
まだにいるのかもしれない。もちろん、プロパガンディストたちは科学の諸分野に不完全
なかたちで組み込まれているかもしれない。彼らは科学の諸分野を誤解し、心理学者たち
の注意深い結論を越え、実際には応用などまったくしていないのに、心理学的発見を応用
していると主張するかもしれない。しかし、それらのことはすべて新たな方法を見つけよ
うという努力のようにも見える。たった 50 年ほどの間だが、人類は心理学的、社会学的科
学を応用しようとしてきた。重要なことは、プロパガンダが科学に従属し科学を利用する
と決めたことである。もちろん、心理学者は怒り、それは科学の誤用であるというかもし
れない。しかし、同じ議論は物理学者と原子爆弾にも当てはまるし、この主張はあまり重
みを持たない。科学者は世界のなかで生きていて、そこにあって彼が発見したことは応用
されるということを理解すべきである。プロパガンディストは否応なしに社会学や心理学
をもっと理解するだろうし、より正確に用いるだろうし、結果としてより影響力を増すだ
ろう。
第二に、プロパガンダは一連のやり方を厳格に、かつ正確に検証されたものにしようと
するので、それは単なる方法でなくなり、すべてのプロパガンディストに強いるほどのも
のになり、プロパガンダが自分の一時的な感情に従うといったことはますます少なくなる
という点において、プロパガンダは科学的である。プロパガンディストは、適切な訓練を
受けた者によって適用されたある正確な公式をより多くかつ正確に用いなければならない
。科学に明確に基づいた技法の本質である。
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第三に、今日求められるものは、プロパガンダに従属する環境と個人両方の正確な分析
である。もはや才気ある人物が手法、アプローチ、主題を定めるのではない。すべては今
や計算されている(或いは計算されていかなければならない)。それゆえ、プロパガンダの
かたちは、ある場面においては最適でも、別の場面ではまったく役に立たないことが分か
る。有効なプロパガンダ作戦を実行するためには、科学的、社会学的、心理学的分析を端
緒にして、これから一層明らかになるであろう科学の諸分野を活用する必要がある。ここ
に繰り返すが、適切な訓練は、科学の諸分野を完全に効果的に用いようとする者にとって
不可欠なものである。
第四に、最後の特徴は現代的プロパガンダの科学的特質を明らかにする。つまりプロパ
ガンダを操り、その結果を測り、その効果を定義しようという試みがますます増えている
ことである。これはとても難しいことだが、プロパガンディストたちはもはや一定の成果
を収めることや、収めたと信じるだけでは満足しない。彼らは明確な証拠を求めている。
良い結果に終わった政治的成果ですらプロパガンディストを完全に満足させることはでき
ない。プロパガンディトは、それらがいかにして、なぜそのような結果が得られたのかを
知りたいし、その正確な効果を測りたいのである。彼らはある種の実験精神や、成果を検
証したいという欲求に突き動かされている。この点に科学的手法の萌芽を見出すことがで
きる。明白なことだが、このようなことはまだ十分広まってはいないし、結果を分析する
のは実務に携わるプロパガンディストではなく、哲学者たちである。そうであったとして
も、それは仕事の分業を明らかにするだけのことで、それ以上のものではない。このこと
はプロパガンダはもはや悪魔的行為を取り繕う自己満足の行為ではないことを示している
。プロパガンダは真剣な思考の対象であり、科学の諸分野とともに進展するのである。
このことに反対である人もいるだろう。しばしば耳にすることではあるが、心理学者は
プロパガンディストが進展させた科学的基礎に関する主張をあざ笑い、科学的手法を用い
ているとの主張を否定する。“彼の用いる心理学は科学的な心理学ではない。彼の用いる
社会学は科学的案社会学ではない”と。しかし、この議論を注意深く見てみると、以下の
ような結論に至る。スターリン主義者のプロパガンダは多くの部分で、パブロフの法則に
基づいている。ヒトラーのプロパガンダは、多くの部分で抑圧と衝動というフロイトの理
論に基づいている。米国のプロパガンダは、多くの部分で教育のデューイの理論に基づい
ている。今や、心理学者が条件反射の概念を受け入れず、それは人工的につくられた可能
性があると疑うなら、その人はパブロフの心理学的現象の解釈を否定し、パブロフの解釈
に基づいたすべてのプロパガンダは偽の科学であると結論することになる。フロイトやデ
ューイ、その他の科学者たちの発見を疑う者には同じことが言える。
それでは、このことは何を意味しているのだろうか。そのプロパガンダは科学的基礎に
基づいていないのだろうか。もちろん、そんなことはない。むしろそうした科学者たちは
、心理学や社会学の領域、その手法、或いは結論といったものに同意していないのだ。同
僚の理論を否定する心理学者は科学理論を否定しているのであって、技術者がそこから引
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き出す影響力を否定しているのではない。もしプロパガンディストが一般的に受け入れら
れている、ある時代やある国において科学者と認められている特定の社会学者や心理学者
を信じたとして、誰も彼を責めることはできない。もっと言えば、プロパガンディストに
よって使用された理論が結果をもたらし、効果を証明するなら、それはすなわち追加的な
証明を得ることであり、単純で教義的な批判はもはやその理論の不正確さを証明しないと
いうことを肝に銘じるべきだ。
1.外的特質
個人と大衆
まず、いかなる現代的プロパガンダも、個人と大衆に対して同時に訴えかけるものであ
る。二つの要素に分解することはできない。人々から隔離された孤独な個人に訴えかける
ことなど不可能である。外的な行動に過度に抵抗を示す孤独な個人に対して、プロパガン
ディストは興味も持たない。効果的であるために、プロパガンダは細部にこだわらない。
人を一人ずつ刈り取っていくのはあまりにも時間がかかるし、孤独な個人からある種の確
信を獲得することはあまりにも難しいからだ。単純な対話が始まる場所ではプロパガンダ
は止まる。あるプロパガンダの手法や議論を確認するために、隔離された個人に対して行
われた米国の実験が結論に至らず、本当のプロパガンダの状況を再現できなかったのは、
こうした理由である。逆に、プロパガンダは単に大衆、群衆を狙うものでもない。人々が
集められた状況でのみ機能するプロパガンダは不完全で不十分である。また、どんなプロ
パガンダも、まるで群衆が個人の精神や反応、感情とは全く異なる精神や反応、感情を持
った具象的な実態であるかのように考える、集団だけを対象とするプロパガンダは、全く
効果を持たない抽象的なプロパガンダになるだろう。さらに言えば、プロパガンダは大衆
に取り囲まれ、大衆に参加する個人を動かすものである。プロパガンダは個人によって構
成された一群としての群衆を標的とする。
このことは何を意味するのだろか。まず、個人は個人として考えられないということで
あり、動機や感情、或いは神話といった個人が他者と一緒に持つものという観点で常に考
えるべきである。少々の例外を除けば、個人は平均へと引き下げられ、平均に基づく行動
が有効となる。もっと言えば、このようにして人の心的防御は減ぜられ、その反応はたや
すく引き起こされ、プロパガンディストは大衆を通じた感情の流布から、同時に集団にい
る個人が感じる圧力から便益を得るので、人は大衆の一部とみなされ、大衆に包括される
(そして可能な限り大衆に組織的に統合される)。感情主義、一時の感情、行き過ぎ等の大
衆に取りこまれた個人のこうしたあらゆる特質はよく知られていて、プロパガンダにとっ
て役に立つ。それゆえ、個人を孤立していると考えてはならない。ラジオ聴取者は実際に
は孤独だけれも、にも関わらず大きな集団の一部であるし、彼はそのことに気づいている
のである。ラジオ聴取者が大衆心理を示すことはよく知られている。すべての個人はつな
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がっていて、ある種の社会を構成していて、その社会においてすべての個人は共犯者で、
そうと知らずに互いに影響を与えている。同じことは戸別訪問(署名のための直接接触、
依頼)によるプロパガンダでも当てはまる。戸別訪問者は明らかに一人の個人に対してい
るのだが、面接した人、面接している人、面接する人などすべての人から成る目に見えな
い群衆に現実に対している。なぜなら彼らは同じ神話によって観念や生を保持していて、
特に彼らは同じ組織の標的であるからだ。政党や政府の標的になることは、プロパガンデ
ィストが捕捉した集団のある部分に個人を沈めることである。彼はもはや X 氏ではなく、
ある方向に流れる潮流の一部である。その潮流は戸別訪問員を通じて流れる。(戸別訪問
員は彼自身の議論を彼の名の下で行うのではなく、ある政府や組織、集団的動きの一部と
して行うのである。) プロパガンディストが人を説得する部屋に入る時、大衆、もっと言
えば組織化され階層化された個人が彼とともに部屋に入ることになる。ここに人と人との
関係性はない。他の全員が求められるように彼は同じ視点で見られるので、組織は既に大
衆の一部となった個人に魅力を働かせるのである。
逆に、プロパガンダが群衆に訴えかけるとき、プロパガンダはその群衆と、その集団全
体のなかにある個人に接触しなければならない。効果的であるために、プロパガンダは個
人的なものであるかのような印象を与えなければならない。というのは、群衆は個人から
成っており、事実として寄せ集められた個人以外何者でもないということを我々は忘れて
はならないからだ。実際、人は集団のなかにいて、それゆえ弱く、影響を受けやすく、心
理学的な抑圧の状況にあるので、“強い個人”であるかのように見せようとする。人は暗
示にかかりやすいが、自分は力があるかのように言う。人は不安定であるのに、自分の確
信が堅硬であるがごとく思っている。もし、ある者が公然と大衆を大衆として取り扱うな
ら、大衆を成す人々は自分が軽んじられたと感じ、そこに加わることを拒むだろう。もし
ある者が、子どものように個人を取り扱うなら(人々は集団にあるから子どもなのだ)、人
々は指導者の示すところには従わず、彼を指導者とはみなさないだろう。人々は手を引い
てしまい、我々は彼らから何も得ることができないだろう。それどころか、人がそれぞれ
に個人化していると感じ、個人として見られ訴えかけられているとの印象を持たなければ
ならない。その時になって初めて人は反応し、匿名でなくなる(実際には匿名でありつづ
けるのだが)。
このように、現代的プロパガンダはすべて、大衆の構造から便益を得る。しかし、自己
肯定の個人的欲求を利用し、二つの動きは連結していて同時的になされなければならない
。もちろん、この施行は現代的大衆コミュニケーション・メディアの存在によって大きく
促進される。大衆メディアは正確に瞬時に集団全体に接触し、しかしその集団の各人に接
触するという驚くべき影響力を持っている。夕刊紙の読者、ラジオ聴取者、映画やテレビ
の視聴者は、ばらばらになっていて一つの場所に集められてはいないものの大衆を構成し
、大衆は有機的な存在である。これらの個人は同じ動機に動かされ、同じ衝動や印象を持
ち、彼ら自身同じ関心に集中していることに気づき、同じ感情を経験し、一般的に反応や
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概念に関して同じ序列を持ち、同じ神話に参加する。これらすべてが同時に起きる。ここ
に我々が得るものが生物学的でないものだとしたら、それは真に心理学的な大衆である。
そして、心理学的な大衆のなかの個人は、彼らがそれを知らずとも、心理学的な大衆の存
在によって形成される。しかし、人々は孤独であり、新聞読者やラジオ聴取者なのである
。それゆえ人はそれぞれに、自分自身が個人として関わっていると感じる。映画を見る人
はまた、隣の人と肘と肘を寄せ合いながらも、暗闇と銀幕の催眠的な魅力のために依然と
して孤独である。これは“孤独な群衆”、或いは大衆における孤立という状況で、それは
今日の社会の自然な産物であり、大衆コミュニケーション・メディアによって利用され、
深められるものである。人を捉え影響力を行使する格好の状況は、人が大衆のなかで孤独
でいるときである。それはプロパガンダが最も効果を発揮し得るときである。
我々は、このあと何度も落ち合う場所を強調しておく必要がある。今日的社会の構造は
、個人をプロパガンダにもっとも容易く接触させる場所に配置しているということである
。大衆コミュニケーション・メディアは、この社会の技術的進歩の一つであるが、大衆の
なかで結合した個々の人に手を伸ばすことを可能にしながら、こうした状況をさらに深め
ている。こうしたメディアがすることは、まさにプロパガンダがその目的を果たすために
しなければならないことである。もし、偶然にもプロパガンダが組織化された集団に訴え
かけたなら、その集団が分裂されるまでは個人において実質的な効果をもたらさない。こ
のような分裂化は行動を通じて実現されるが、集団を分裂させることは心理学的手段によ
って同様に可能である。純粋に心理学的手段によってごく少数の集団を変容することは、
最も重要なプロパガンダの一つである。ごく少数の集団がこのように全滅させられたとき
のみ、属する集団によってなされていた一切の防御力や均衡、抵抗力を個人が失ったとき
のみ、プロパガンダの全作用は可能となる。
総力的プロパガンダ
プロパガンダは総力的でなければならない。プロパガンダは出版物やラジオ、テレビ、
映画、ポスター、会合、戸別訪問など可能な限りの技術的手段をすべて活用する。現代的
プロパガンダはこれらメディアを余すことなく活用する。散発的で不規則なプロパガンダ
は成立し得ない。新聞のここに、ポスターのラジオ番組のあそこに、幾つかの会合や講演
の開催、壁に幾つかのスローガンを書くといったことはプロパガンダではない。利用でき
る各メディアはそれぞれに個別的でしかし同時に局地的で限定的であり、それゆえ各メデ
ィアはそれだけで個人を攻撃して抵抗力を崩壊させ、新たな意思を形成することはできな
い独自の浸透経路を持っている。ある映画は新聞のようには同じ動機において役割を果た
さず、同じ感情を作らず、同じ反応を引き起こさない。各メディアの有効性が特定の領域
に限定されるという事実は、他のメディアを用いて互いを補うことの必要性を明確に示し
ている。ラジオで発せされた言葉は、同じ言葉が話されたとしても個人的な会話、或いは
多数の聴衆の前で話された言葉とは同じでなく、同じ効果を持たず、同じ影響力を持たな
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い。個人をプロパガンダの網に引き込むには、それぞれが特定の経路で活用され、プロパ
ガンダが最も効果を出すように監督され、その他のあらゆるメディアで拡散されなければ
ならない。それぞれのメディアは特定の経路で個人に手を伸ばし、同じ方向に、さまざま
なかたちで、同じ主題に対して新たに反応せしめるものである。
このように、人は知的或いは感情的な生活を捨て去る。人はすべての面で人々に包囲さ
れている。我々はこれらのメディアが同じ経路で同じ人々に接触しているわけではないこ
とに気を留めなければならない。週に三度映画を見に行く人は、注意深く新聞を読む人と
同じではない。プロパガンダの道具はこのように人々という観点で適応されていて、可能
な限り最大の人に接触するために調和されたかたちで用いられなければならない。例えば
、ポスターは車に乗らない人に接触できる平易なメディアである。ラジオ放送は仲間うち
ではよく聞かれている。最後に、プロパガンダにはまったく異なる形式があるという後ほ
ど分析する事実を除いて、いずれのメディアも特化という第三の側面を持っていることを
我々は強調しておかなければならない。
それぞれのメディアは、それぞれにプロパガンダの特定の様式に適している。映画や人
的接触は社会的情勢、ゆっくりとした浸透、漸進的な侵害、全体的な統合という観点で社
会学的プロパガンダに最も適したメディアである。公開集会やポスターは、即時の行動を
誘う衝撃的で集中的、しかし一時的なプロパガンダを与えるのに適している。印刷物は一
般的な見地を形成する傾向があり国内で使われることが多いが、ラジオは国際的な活動や
心理戦の道具になることが多い。どんな場合も、このような特化ゆえに、これらメディア
の一つも漏れがないほうがよく、すべて統合的に用いられなければならないと理解すべき
である。プロパガンダは鍵盤を使って交響曲を作曲するのである。
すべての人に接触し囲い込みを行うのは、厄介なことである。プロパガンダは、あらゆ
る可能な経路で、概念と同様に感情の領域で人の意思や欲求を操りながら、人の意識・無
意識を通じながら、人の個人的・公的生活の両方に攻撃しながら人を取り囲もうとする。
プロパガンダは人に世界を説明する完全な体系を提供し、即座に行動する動機を与える。
ここに我々は、すべての人を掌握しようとする系統立てられた神話のなかにいることにな
る。プロパガンダが創作した神話を通じて、唯一の解釈を受け入れやすい、特異的で一面
的な、意見の相違を排除する直感的理解の全範囲を強制する。この神話はとても強力なた
め、いかなる能力や動機もそのままにはしておかず、意識の全領域に侵入してくる。プロ
パガンダは個人のなかで排除的感覚を刺激して、偏った態度を作り出す。神話はこのよう
な原動力になる力となるため、一度受け入れられると個人の総体を操作し、他のいかなる
影響も受けなくなる。このことは、神話がうまく創造されているすべての場所で、個人が
受け入れる全体主義的態度を説明するものであり、個人におけるプロパガンダの全体主義
的行動を素朴に反映するものである。
プロパガンダはすべての人に侵入し、神話的態度を受け入れるよう促し、すべての可能
な限りの心理的経路を通して接触しようとするだけでなく、すべての人に語りかけるもの
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である。プロパガンダが部分的な成功に満足するはずはなく、議論を認めず、まさに本質
においてプロパガンダは矛盾と議論を排除する。重要な、或いは表明された緊張、または
行動の矛盾が残っている限り、プロパガンダはその目的を完遂したとは言えない。プロパ
ガンダは準全会一致を作らなければならず、反対勢力は表明される限りいかなる場合も無
視されなければならない。究極のプロパガンダは敵対者に打ち勝ち、敵対者をこちらの論
及の枠組みに統合することであり、少なくとも敵対者を使うものである。だからこそ、英
国人にナチのラジオで喋らせることやパウラス元帥(訳注:ドイツの軍人で、第二次大戦中
にスターリングラードで降伏してソ連の捕虜となった)にソ連のラジオで喋られることは
重要なのだ。ゆえに、フェラガ(訳注:フランス人排斥運動をするアルジェリア国家主義
武装勢力)のプロパガンダにとって、オブゼルヴァトゥールやエクスプレス(訳注:いずれ
もフランスの雑誌)の記事をうまく使うことや、フランスのプロパガンダが懺悔するフェ
ラガから供述を得ることは重要なのだ。
はっきりしていることだが、その究極は、敵対者の自己批判というかたちでソ連のプロ
パガンダによって成し遂げられた。体制の敵(或いは権力を持つ党内の敵)は宣言され作り
出すことができる。その者は取りも直さず敵である。この体制は正しく、体制の反対者は
犯罪者であり、有罪判決が十分根拠がある、これは全体主義的プロパガンダの究極のかた
ちである。敵は(敵であり続ける限りにおいて、またその者が敵であるがゆえに)、体制の
支持者に転換させられる。これは有用で効果的なプロパガンダの手段というだけではない
。フルシチョフ政権下で自己批判のプロパガンダが、まさに以前同様に(ブルガーニン元
帥(訳注:ニコライ・ブルガーニン、1955~1958 年にソ連首相)は最も特徴的な例だった)
機能し続けたことを思い出して欲しい。ここに我々は、全体的ですべてあらゆるものを巻
き込むプロパガンダの動く仕組みを探ろうとしている。プロパガンダはその領域外にいか
なる意見の分割も許すことはなく、いかなる独立も認めない。すべては特定の行動領域に
帰せられなければならず、その行動領域はそれ自体が目的であり、実質的にすべての人が
参加して終わった場合のみ、それは正当化することができる。
このことは、我々に総合的プロパガンダのもう一つの側面を教えてくれる。プロパガン
ディストは、本物のオーケストラがそうであるようにプロパガンダの要素を組み合わせな
ければならない。一方、プロパガンディストは与えられた時点で活用できる刺激を覚えて
おき、系統立てなければならない。これがプロパガンダの“キャンペーン”に帰着する。
一方、プロパガンディストはさまざまな道具を互いに連携させて使用しなければならない
。大衆メディアと並行してプロパガンダは、およそプロパガンダとは関係ないようなもの
、つまりは検閲や法的文書、法案提出、国際会議なども活用する。我々は大衆メディアの
みを考えるべきではない。人的接触はますます効果的であると考えられる。教育的手法は
政治的教義(レーニン、毛)のなかで重要な役割を果たす。レーニンの国家的教義に関する
大会はプロパガンダである。我々が証明するように、情報はプロパガンダにおいて極めて
有用である。“諸問題の現状を正しく説明するのは扇動家の偉大な仕事である。”毛は 1928
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年のプロパガンダの効果的なかたちは、教義を教え込んだ後に囚人たちを解放することで
あったと強調する。同じことは怪我を負った敵を手当することにも当てはまる。これらは
すべて共産主義の善意を見せるためのものであった。すべてはプロパガンダの手段として
かなうものであるはずで、すべてが活用されなければならない。
このように考えると、外交はプロパガンダから切り離すことができない。我々は、4 章
でこの事実を学ぶことになる。ナポレオン帝政が最初に証明したように、教育や訓練は、
接収される。教育とプロパガンダの間や、高等教育によって形成される批判的精神と独立
思想の排除の間にいかなる差異も許されなかった。若者の教育を活用し、彼らに今後起こ
り得ることへの条件づけをしなければならない。学校やすべての指導手法はこのような条
件の下で変質する。個人主義者が権力側でなく仲間によって認められるように、順応者の
集団に子どもは統合される。宗教や教会は、生き残りを望むならばオーケストラのなかで
各自が持ち場を保つよう制約される。ナポレオンは教会によるプロパガンダの方針を公然
と表明した。司法の装置もまた活用された。もちろん、裁判は被疑者にとっては格好のプ
ロパガンダの跳躍台となる。彼は弁護のうちに自分の考えを披露することができ、彼が受
ける罰によって影響力を行使できる。このことは民主主義における真実を含んでいる。し
かし、全体主義者がプロパガンダを行う状況は反対である。裁判の間、判決は人々への教
育の見せしめになるよう強要させる。判決は教育なのである。そして、我々は大がかりな
見世物裁判のなかで、自白の重要性を知る(例えば、ドイツ国会議事堂放火事件、1936 年
のモスクワ裁判、ニュルンベルク裁判、1945 年以降の人民民主主義における無数の裁判)
。
最後に、プロパガンダは必要に応じて書き直されたものには違いないが(現在や過去の)
文献や歴史を引き継いでいく。プロパガンダは専制君主的な、独裁的な、全体主義的な政
府によって行われるなどと言ってはならない。事実、プロパガンダはプロパガンダ自体の
結果なのである。プロパンガンダはそのなかにあって、本質的な必要性のなかにあって、
プロパガンダを行うあらゆるものを接収する権力を行使する。19 世紀に躊躇なく(おそら
くそれをはっきり理解せずに良き信念のもとに行われ、しかしそれは口実ではなかった)
多くのものを接収した民主的、自由主義的、共和主義的プロパガンダのありのままの事例
を思い起こしてみよう。アテネの民主主義、ローマの共和制、中世のコミューン、ルネッ
サンス、宗教改革を思い出してみよう。ロシアの歴史が、ボルシェビキによって修正され
たほど、歴史はほとんど修正されていない。一方で我々は、いかにプロパガンダが過去の
文献を接収し、そうした文献に対し現在に統合するよう設計された文脈や説明を付け加え
るかを知っている。多数の事例のなかから、我々はただ一つのことを選ぶことになる。
1957 年5月、プラウダ(訳注:ロシア共産党の政治新聞)において、茅盾(訳注:中国人小
説家)は中国の古い詩はよりよい人生のための人々の努力を表現するため、以下のような
ことを言っていると書いた。“花は咲き誇り、月が輝く。人は長い人生を歩む”そして彼
はこう付け加えた。“この詩句に新しい解釈を加えることをお許しいただきたい。花が咲
19
き誇る-これは社会主義者の現実主義芸術の花々は飛び抜けて美しいことを意味する。月
が輝く-これはスプートニクが宇宙探険の新しい時代を拓いていることを意味する。人は
長い人生を歩む-これは偉大なソ連が幾億千年も永らえることを意味する。”
これを一読すれば、苦笑するだけのことだろう。しかし、千回読んで他に何も読むもの
がないなら、人は変わってしまうに違いない。(幾千も発行される)こうした文章が行き渡
り権力側のみならず知識階級によっても受け入れられる、そうした社会に覆われている考
え方の変化というものを我々は考えなければならない。世界観の完全な変化はプロパガン
ダの基本的な全体主義的要素である。
最後に、プロパガンディストはあらゆる手段だけでなく、プロパガンダのさまざまな形
式を用いなければならない。多くのプロパガンダの種類があり、それらを組み合わせるの
が今日的傾向である。意見や態度を形成することを目的とする直接的プロパガンダは社会
学的にゆっくりとした一般的な性質があり、好ましい素地となる態度の風潮や雰囲気を作
ろうとする。いかなる直接的プロパガンダも、予備的プロパガンダなしには効果的であり
得ない。予備的プロパガンダは、直接的或いは明らかな攻撃的プロパガンダがなければ、
両義性を作り出し偏見を減らしイメージを拡げることに限定され、明白に目的を欠いてし
まう。フランスの石油や鉄道、航空産業の映画を見れば、観客はフランスの偉大さをより
確信することになるだろう。人が直接的な吹聴に接する以前に、その素地は社会学的に準
備されなければならない。社会学的プロパガンダは土地を耕すことに、直接的なプロパガ
ンダは種を蒔くことに例えられる。耕すことなしに、種を蒔くことはできない。いずれの
技術も用いられなければならない。社会学的プロパガンダだけでは人の行動を引き起こす
ことはできない。社会学的プロパガンダは日常生活の位相に人を置き去りにしてしまい、
意思決定まで導くことができない。言葉のプロパガンダと行為のプロパガンダは相互に補
完的である。言葉は目に見えるものに対応していなければならない。目に見える実際的な
要素は言葉によって説明されなければならない。口頭や記述されたプロパガンダは感情的
な意見に作用し、それは行動のプロパガンダによって補強されなければならず、そうする
ことで新たな態度が作り出され、人を行動へと確かに参加させるのである。ここに繰り返
すが、誰もどちらか一方なしに、もう一方を持つことはできない。
我々はまた、密かなプロパガンダと明らかなプロパガンダの違いを認識しなければなら
ない。前者はその目的、正体、意義、出所を隠す。人々は誰が影響を与えようとしている
のか気づくことがなく、彼らがある方向へと押しやられていることを感じることがない。
これはしばしば“ブラック・プロパガンダ”と呼ばれる。これはまた、神秘や沈黙を利用
する。もう一方の“ホワイト・プロパガンダ”は公然としていて、公明正大である。プロ
パガンダ省というものがあり、ある者はプロパガンダが作られていることを認めていて、
その所在は知られていて、その目的や意図は認識されている。人々は、ある試みが彼らに
影響を与えようとなされていることを知っているのである。
プロパガンディストは、両方を用いて組み合わせなければならない。プロパガンディス
20
トはさまざまな目的を追い求めているからである。明らかなプロパガンダは敵を攻撃する
ために不可欠である。明らかなプロパガンダはそれ自体で自軍を安心させることができ、
強さや正しい組織の示威行動であり、勝利の象徴である。しかし、密かなプロパガンダは
その目的が気づかれることなくある方向へ支持者を向かわせるためであるなら、より効果
的である。また、同じ集団にある時は片方を、ある時はもう片方を用いることが必要であ
る。ナチスは長い沈黙、なぞ、秘密の露見、不安の水準を高める待ちの時間と、突然の爆
発的な意思決定や騒動、より暴力的な大騒動とを交互に使い分ける方法を熟知していた。
それらは沈黙を打ち破るものであるからだ。最後に我々は、密かなプロパガンダと明らか
なプロパガンダの組み合わせがますます多く行われていることを知るのである。ホワイト
・プロパガンダは実際ブラック・プロパガンダを覆い隠すからであり、つまり、人はある
種のプロパガンダやその組織、手段、目的の存在を認めているが、それらはすべて人の注
意を獲得し、抵抗の本能を和らげるための見せかけに過ぎない。他方では、まったく異な
る反応を喚起しながら、明らかなプロパガンダに存在する抵抗さえ活用しながら、裏側で
完全に異なる方向へと世論に働きかけているのだ。
さまざまなプロパガンダの組み合わせの事例をもう一つ紹介させていただく。ラスウェ
ルはプロパガンダが直接的な刺激を作り出するか間接的な刺激を作り出するかで、二つの
流れに分類した。直接的な刺激は、プロパガンディストが行動させ巻き込み、彼の確信や
信条、正しい信念を説明するものである。プロパガンディストは彼が提示し支持する行動
の方向に力を注ぎ、同じ行動を獲得するためにプロパガンダ受容者からの一致した行動を
誘発する。民主的なプロパガンダは、その中にあって政治家が市民に接触する、そういう
種類のものである。間接的な刺激は政治家や行動する人、公衆の違いに基づくのであり、
受動的な容認と服従に限定される。強制的な影響力があり服従がある。これは権威主義的
プロパガンダの特質の一つのである。
この違いはまったく無意味でないが、我々は改めてすべての現代的プロパガンディスト
が二種類のプロパガンダを組み合わせていることを指摘しておく必要がある。これら二種
は異なる政治体制が司るものではなく、同じプロパガンダの要求が異なる、或いはプロパ
ガンダが形成されるなかでのさまざまな位相の要求が異なるのである。行動のプロパガン
ダは直接的な刺激を前提とし、大衆メディアを通じたプロパガンダは一般的に際立った刺
激となる。同様に、群集への直接の接触という実行者の位相においては、明確な刺激がな
ければならない(ラジオの話者が自身の大義を信じているならより望ましい)のであり、プ
ロパガンダ戦略の立案者の位相では、人々から隔離されていなければならない(我々はこ
の点について後ほど言及する)。こうした例はプロパガンダが総合的でなければならない
ことを示すのに十分であろう。
プロパガンダの持続とその期間
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プロパガンダは継続的で続けていかなければならない。まったく隙間もない継続であり
、市民の毎日、毎時間を満たさねばならない。プロパガンダは大変な長期に渡って機能す
るということである。プロパガンダは個人の生活をそれぞれ個別の世界に導く傾向にある
。個人が外側に接点を持ってはならない。プロパガンディストに対して自分自身を見つめ
る瞑想や熟慮の時間を許されない。プロパガンダが停止したとき、個人はプロパガンダの
掌握を離れる。それよりも、プロパガンダは個人のすべての時間を占有しようとする。外
を歩いているときのポスターや拡声器、自宅でのラジオや新聞、夕時の会合や映画を通じ
てである。人は自分を取り戻し、自分を正し、比較的長期に渡ってプロパガンダに接触し
ないでいることを許されることはない。というのはプロパガンダは魔法の杖の一振りでは
ないからだ。プロパガンダはゆっくりとした一定の飽和に基礎づけられる。継続的な反復
によってのみ有効性を発揮する目に見えない影響力を通じて、プロパガンダは確信と服従
を作り出す。プロパガンダは各個人がそこから脱出できない完全な環境を作り出さなけれ
ばならない。さらに、個人が外部との接点を見つけることを妨げるため、プロパガンダは
外部から入り込んでくるすべてのものを検閲して個人を保護する。反射作用や神話、心理
学的環境や偏見のゆっくりとした構築は実に長い期間のプロパガンダを必要とする。プロ
パガンダはすぐに消えてしまう単発の刺激ではなくこれまでに言及した多くの方略を手段
とした、さまざまな感情や考え方を目的とした、継続的な刺激や衝撃から成るものである
。中継体制はこのように確立する。プロパガンダは怠慢や妨害のない継続的な活動で、1
つの刺激の効果が弱まったらすぐに新たなものによって取り戻される。プロパガンダが受
容者に対して影響力を与えない瞬間はない。一つの効果が弱まれば、新たな衝撃が後に続
くのだ。
継続的なプロパガンダは、注意や適応といった個人の能力、従って抵抗能力をも超越し
たものである。この継続という特徴は、なぜプロパガンダが曲解や方向転換を思いのまま
にすることができるのかを説明するものである。プロパガンダの内容はほとんど一貫性が
ないので、昨日非難したことを今日は承認するなどということがあり、いつも驚かされる
。アントニオ・マイオットはこのプロパガンダの変化性をその性質の証しであると考えて
いる。実際、その変化性はプロパガンダが行使する掌握力やその効果の現実性についての
証しでしかない。我々は、急な方向転換があった時に、人が隊列に並ぶことを止めると考
えてはならない。人はその体系のなかに組み込まれているので、隊列に並び続ける。もち
ろん、人は起きている変化に気づき、驚いている。共産主義者が独ソ不可侵条約のときに
そうであったように、人は抵抗しようともするかもしれない。しかし、人はプロパガンダ
に抵抗するために継続的な努力を行うだろうか。人は自分の過去の行動を否定するだろう
か。人は自分がいるプロパガンダが有効な環境を打ち破ることができるだろうか。彼は特
定の新聞を読むことを止めるだろうか。このような断絶はあまりに痛みが多く、その断絶
に直面すると人は隊列の変化は自分への攻撃ではないと感じて、その状態の維持を選んで
しまう。
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それ以来、人は新たな真実が何度も塗り替えられることを耳にするや否や、新たな真実
が説明され証明されることを受け入れる。昨日の真実に基づいて日々の新たな真実に抵抗
して戦う力を持たなくなる。人はこの戦いに加わることさえ完全になくなってしまう。プ
ロパガンダは束の間の休息もなく攻撃を続け、その抵抗は断片的で断続的になる。人は専
門的な仕事と個人的なことに没頭し、それ以外の時間は常に、新たな真実が示されるのは
見聞きするだけである。プロパガンダの強固さは人の断続的な注意を上回るかたちで浸透
することにあり、朝パンを食べ始めるときから人にずっとついて回るのである。
従って、たった2週間しか続かない選挙キャンペーンでプロパガンダを語ることはでき
ない。幾人かの知識人たちは選挙のプロパガンダは有効でなく、その全体の手法、壁に刻
まれた碑文は誰をも説得することはできず、対立する議論が互いに打ち消し合うとの見解
を示すだろう。さらに、しばしば人々は選挙のプロパガンダに無関心であることは本当で
ある。そのようなプロパガンダは効果を持たず、つまりプロパガンダのいかなる優れた技
法も二週間として効果的ではあり得ないことは驚くことではない。
本当のプロパガンダと関係がないことは、モルモットのように一つの集団にあるプロパ
ガンダの手法が有効であるかどうかを試すという、しばしばなされる実験がある。こうい
った実験は基本的に、その実験が短期間であることによってその価値が減じられる。もっ
と言えば、通常この種の影響下にない社会環境にプロパガンダが突然出現したとき、個人
はどんなプロパガンダもはっきりと識別できる。もし、労せずにある独立したプロパガン
ダの部分やあるキャンペーンが出現したなら、その鮮明さはとても強烈で、個人はそれを
プロパガンダと認識でき、注意深くすることができる。これがまさに選挙キャンペーンで
起こっていることである。各人は自分が置かれた日々の状況のなかで自分を守ることがで
きる。それゆえ、大きな仕切りによって断絶された騒がしい大キャンペーンによって大々
的に突き進むことは、プロパガンダの有効性にとって致命的である。このような環境では
、個人は常に自分の認識を取り戻すだろう。人はプロパガンダと常日頃メディアが報じて
いることとの違いを見分ける方法を知るだろう。もっと言えば、プロパガンダが強烈であ
るほど、突然の騒ぎを以前そこにあったまったくの静けさと比べることができるので、人
はより注意深くなる。
このとき求められることは、その日の出来事に正当化し興奮させるものが何もないとき
でさえも人工的に作り出す継続的な扇動である。それゆえ、持続的なプロパガンダはまず
ゆっくりと気運を作らねばならず、それから通常の日々の出来事とは対照的なプロパガン
ダ作戦を人に気づかれないように行わなければならない。
プロパガンダの組織
はじめに、プロパガンダをいくつかの種別に分ける必要がある。先に述べた性質をプロ
パガンダに認めると(継続、期間、異なったメディアの組み合わせ)、組織は大衆メディア
を正しく用い、スローガンの効果を測り、あるキャンペーンを別のキャンペーンと入れ替
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えることが可能な大衆メディアを操作する組織になる。官僚組織がなければならず、すべ
ての現代的な国家はそれが実際どのような名前であれ、プロパガンダ省のようなものを持
つものと考えられる。技術者が映画やラジオ放送を制作することを求められるように、“
影響力の技術者”つまり社会学者や心理学者が必要とされる。しかし、この必要不可欠な
行政的組織は、ここで我々が話すものではない。我々が話したいことは、プロパガンダが
常に、ドイツ語で機械を意味する“Apparat”という存在まで機構化されるということで
ある。これは現実と直結している。プロパガンダの分析を阻む大きな間違いは、プロパガ
ンダを単なる心理学的事象、象徴の操作、意見に対する抽象的な影響力だと考えることで
ある。プロパガンダに関する米国の多くの研究はこの理由において有効でない。こうした
研究はプロパガンダをただ心理学的な影響力の手段に関するものとみなしている。すべて
の優れたプロパガンダの実務家たちが厳格に心理学的なものと物理的な動きを不可分の要
素として結びつけているにもかかわらずである。心理学的影響が現実に基づかないなら、
いかなるプロパガンダもあり得ないのであり、組織や運動への個人の募集は心理学的操作
と連携することになる。
いかなる物理的な影響も人に対して組織によって行われない限り、プロパガンダには成
り得ない。これは毛沢東の発明でも、ただのプロパガンダの付属品でも、あるプロパガン
ダの種類のかたちでも明確にない。心理学的要素と物理的要素の区分けは、プロパガンダ
が何であるかをおおよそ理解するということを妨げる勝手な単純化である。もちろん、物
理的な組織はさまざまな種類に分けることができる。政党組織(ナチ、ファシスト、共産
党)であり得るし、そのなかにあっては説得され引き入れられた者は吸収され、行動やそ
ういった組織への参加を余儀なくされ、もっといえば、力のプロパガンダのかたちで暴力
や恐怖を用いる。或いは、そのような物理的な組織は、住民区分で区分けられた人々全体
を統合するであり、社会組織全体を統合することで社会のなかで活動する。(もちろん、
これは心理学的な施行と並行して行われる。) 或いは、効果的な変革が経済的、政治的
、社会的領域においては可能である。我々は、プロパガンディストもまた政府の心理学的
なコンサルタントであることを知っている。プロパガンディストはどのような手段がある
心理学的な操作を促進するのに採用され、採用されるべきでないかを示す。よく思われが
ちなことは、プロパガンダは苦い薬の糖衣加工、人々が自主的には受け入れない政策を受
け入れさせることを目的とするものであるということである。しかし、多くの場合、プロ
パガンダは有効な改革といったかたちで、望ましい実行の方向性を示そうとするものであ
る。プロパガンダはこのとき、改革とその後の満足の創出によって人々に与えられる、実
際的な満足の合成品である。
プロパガンダは真空において機能し得ない。プロパガンダは行動に根を張っていなけれ
ばならず、行動の一部である現実に根を張っていなければならない。幾つかの明確で歓迎
される手法はプロパガンダの方法でしかないかもしれない。逆に、強制的なプロパガンダ
は物理的な強制と結びついていなければならない。たとえば、1958 年のフランスにおける
24
アルジェリア民族解放戦線のプロパガンダへの大きな打撃は、投票所への道が爆破される
かもしれないし爆弾を仕掛けられるかもしれない、勇気を持って選挙に行った者の村が取
調べを受けるかもしれないという国民投票に関する物騒な脅威であった。だが、これらの
脅威は何も実行されなかった。行動できないことは、それ自体がカウンター・プロパガン
ダになる。
プロパガンダ事業は、実質的に存在しないようなプロパガンダを除けば、物理的な組織
と行動の必要性に制約されるため、効果的なプロパガンダは集団のなかで、特に国家のな
かでのみ機能できる。集団の外へのプロパガンダ、例えば他国へプロパガンダや敵国への
プロパガンダは、必然的に弱いものになる。このことの主な理由は、疑いもなく物理的な
組織の欠如、個人の囲い込みの欠如である。象徴という経路や出版、ラジオに拠らなけれ
ば、その時でさえ散発的な形態でしかないものの、誰も他国に手を伸ばすことはできない
。このような努力はいくら良くても幾らかの偽りを含み、幾らかの判然としない感覚を植
えつけ、人々に自問自答させ、示唆によって人々に影響力を与える。戦争の場合、プロパ
ガンダと同じ時期に敵を倒さず、爆弾によって爆破もしない限り、敵はこのような抽象的
なプロパガンダによって士気をくじかれることはない。我々は教育(前プロパガンダ)によ
ってプロパガンダが準備され、組織と行動によってプロパガンダが維持されない限り、単
純な言葉の伝播から大きな成果が得られると期待したりはしない。
このことは、共産主義国と西側諸国の間で大きく異なる。西側諸国はソビエト諸国に対
してただ心理学的手段によって、民主主義国の基地から発せられるプロパガンダを行って
いる。対照的に、ソ連はまったくプロパガンダを行っていない。ソ連はラジオによって西
側の人々に接触しようとはしていない。ソ連はそのプロパガンダを、プロパガンダされる
べき人々の国家的な境界線の内側へと、国家的な共産党体制における組織が担うように制
限している。こうした政党はソ連の対外的なプロパガンダ機構であるので、そのプロパガ
ンダは効果的である。プロパガンダが囲い込みや継続が可能な具体的な組織と結びついて
いるからだ。米国がボイス・オブ・アメリカ(訳注:米国の国営放送局)で約束した後、
1956 年のハンガリー動乱の間ハンガリーを支援できなかったとき、結果として起こった強
烈なカウンター・プロパガンダ効果をここに特筆すべきだ。確かに、米国人がハンガリー
人を助けに行くことなどほとんど不可能だった。にも関わらず、不義の約束をしたプロパ
ガンダは、そのプロパガンディストに対して敵に回ることになる。
内部組織の存在がプロパガンダにとって不可欠であるという事実は、民主主義国と独裁
国によって出された同じ政治声明が同じ信用性を持たないことをよく説明している。フラ
ンスと英国が、アラブ連合共和国の形成に関してシリアとエジプトで行われた選挙が不正
なものであり専制政治体制の証拠であると宣言したとき、何の反響も起こらなかった。そ
れは十分繰り返されず人々が聞く耳を持たない外側からの声明であった。ナサール(訳
注:エジプト人政治家)が同じ主題で一年後にプロパガンダ・キャンペーンを立ち上げたと
き、威嚇における選挙結果は“帝国主義者たちによる不正”があり、イラク議会は茶番で
25
あると主張したが、彼は反響を引き起こした。エジプトの人々は反応し、イラクの人々は
その主張に賛同し、国際世論は混乱した。このようにプロパガンダの装置は人々を行動に
駆り立て人々を惹きつける運動は海外の議論で重視される。このとき、プロパガンダはも
はや単なる言葉ではなく、大衆による大規模なデモを引き起こし、国境線の外側で言葉に
威力を与える事実となるのである。
しかしながら、我々は組織の決定的な重要事項について、心理学的実行が虚しいという
ような結論を導いてはならない。心理学的な要素はプロパガンダの機構強くにとって唯一
ではないものの必要不可欠な一部である。象徴の操作は三つの理由において必要である。
まず、それは組織の枠組みに個人を入れていくものである。第二に、それは人に行動の正
当化や動機付けを与えるものである。第三に、それは人々の全面的な忠誠を手に入れる。
我々は、その実行を効果的にするには、真の服従が不可欠であるということを一層学ぶの
である。労働者や兵士、同志は自分たちが行うことを信じなければならないし、自分たち
の心や価値をその中に置かなければならないし、自分たちの心の均衡や満足をその実行に
見出さなければならない。これらはすべて心理学的影響の結果であるが、それは単独で大
きな成果を得ることはできず、組織と結合したときにすべてを得ることができる。
最後に、組織の存在はもう一つの現象を引き起こす。プロパガンディストはいつもプロ
パガンダ受容者から隔離され、自分を部外者にしておくということである。人間関係にお
ける実際の接触、会議、戸別訪問においてさえ、プロパガンディストは異なった秩序のな
かにあって、組織の代表以外の何者でもなく、組織から派遣された部分なのである。彼は
機械の影で操作する人であり続ける。彼は自分がなぜその言葉を口にするのかを、どのよ
うな効果があるのかを熟知している。彼の言葉はもはや人間の言葉ではなく、技術的に計
算された言葉であり、組織の動向と言葉が完全に同時であるときでさえ、組織を反映した
ものになる。このようにプロパガンディストは自分が言っていることに存分に傾倒するよ
う求められることはない。というのは、それが必要であるなら全く正反対のものを同じ確
信を持って語ることを求められるかもしれないからだ。プロパガンディストは、もちろん
自身が従うところの大義を信じなければならないが、特定の議論を信じる必要はない。一
方、プロパガンダ受容者は、投げかけられた言葉や議論を聞くことになり、それらのなか
で自分の信条を見出すことを求められる。プロパガンディストは自分の信念に基づいて自
分の言葉を伝えなければならない。明確なことではあるが、もしプロパガンディストが自
分自身を見捨てて、プロパガンダが心理学的実行の問題でしかないとしたら、プロパガン
ディストは自分自身の技巧に絡め取られるか、それを信じてしまって終わりである。その
とき、プロパガンディストは自分のやり方の囚人となり、プロパガンディストとしての有
効性をすべて失うだろう。このことから彼を守るものは、まさに彼が所属し明確な線引き
をしてくれる組織である。このようにプロパガンディストはさまざまな方法で患者を処置
する技術者へと次第になっていき、自分の言葉や行動を純粋に技術的な理由によって選択
しながら、冷たくよそよそしくなっていく。患者は大義に基づく必要性に応じて守られ、
26
また犠牲になる存在である。
しかしこのとき、読者はなぜ人間関係の体系なのかと、なぜ戸別訪問の重要性なのかと
尋ねるかもしれない。技術的な必要性だけがそれを規定する。我々は人間関係がいかに人
にとって重要であるか、個人的な接触が意思決定にいかに不可欠であるかを知っている。
我々はラジオによる遠方からの言葉が個人的な存在の温かみによって代替されることを知
っている。これらはまさにプロパガンダの人間関係に関する技法を有効せしめるものであ
る。しかし、この人的接触は偽であり、単に装われたものであり、個人の内側から出てき
たものではなく、背後にある組織のものである。人から人へというようなまさに見せかけ
の行為によって、プロパガンディストはそれを意識せずとも、虚偽と歪曲の高みへと手を
伸ばすのである。
正当な実践
我々は今、完全に決定的な事実に突き当たった。プロパガンダは観念や意見を変え、人
々に観念や事実を信じさせ、最終的にはある教義を全面的に支持させることを目的とした
操作としてほとんどの場面で描かれる。或いは、別な言い方をすれば、プロパガンダは信
条や観念を操るものとして描かれる。もし、ある人がマルクス主義であるなら、プロパガ
ンダはその信条を破壊し、反マルクス主義者に転向させるといった具合である。プロパガ
ンダはすべての心理学的機能を用いるのであるが、同時に理性に訴える。プロパガンダは
説得し、意思決定を促し、幾つかの真実への強い支持を作り出そうとする。このとき明ら
かなことは、もしその説得が十分強いものであるなら、心の整理を多少した後、人々は行
動への準備を済ませることになる。
この推論は完全に間違っている。1850 年のプロパガンダと何も変わっていないかのよう
にプロパガンダを捉えることは、人類や人類に影響を与える手段について時代遅れの考え
方に固執することになる。現代的なプロパガンダについて何も理解しないことと同じであ
る。現代的なプロパガンダの目的はもはや観念の形成ではなく、行動を引き起こすことに
ある。その目的はもはや教義への支持ではなく、人々を行動の過程へと道理なく支持させ
ることである。その目的はもはや選択に導くことではなく、熟慮を失わせることである。
その目的は意見の形成ではなく、意欲的でかつ神話的な信条を呼び起こすことである。
世論調査とはプロパガンダを計ることであるとの間違った考え方をここに乗り越えてい
こう。我々はプロパガンダの効果の研究においてこの点に立ち戻らざるを得ない。このこ
とを信じるかどうか、或いはこの考えを持っているのか、あの考えを持っているのかと単
に人々に尋ねても、彼がどういった態度を取り、どういった行動にとるのかは全く分から
ない。ただ行動こそが現代的プロパガンダの関心事である。というのは、その目的が最大
の効果と経済性を持った人々の行動を引き起こすことにあるからだ。それゆえプロパガン
ディストは通常人々の知性に訴えかけようとはしない。なぜなら知的な説得の過程は長期
に渡りかつ不確実であり、そのような知的説得から行動への道のりはさらに長期に渡り不
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確実なものになるからだ。人々はめったに観念の基底に基づいて行動したりはしない。も
っと言えば、プロパガンダの努力を知的位相に置くことは、プロパガンディストに人々と
個別の議論をさせることになり、考えられない方法である。少なくとも最小限の関与を全
員から得ることが必要なのである。それは能動的でも受動的でもあり得るが、いずれにし
ても単純に世論の問題ではない。プロパガンダを単に世論に関連した何かであるとみなす
ことは、プロパガンダ受容者の部分的な知的独立を意味する。このときプロパガンダ受容
者は結局のところいかなる政治行動においても第三者的で、意見を求められる存在である
。これは自由民主主義の概念と符合するものであり、市民に対峙するプロパガンディスト
がすることは選挙時に投票を獲得しようと意見の変化させることになる。世論とプロパガ
ンダの密接した関係性に関するこの概念は、独立した人々の意思に基づくものである。こ
の考え方が正しいなら、プロパガンダの役割は投票において表明される人々の意思を形成
することになる。しかし、この考え方が十分考慮していないことは、人々の行動の機構に
プロパガンダを注入することは、実際には自由民主主義を抑圧することでしかなく、その
後において我々はもはや投票や人民による統治を行えず、それゆえプロパガンダはただ参
加を志向するということになる。参加は能動的でもあり受動的でもある。プロパガンダが
人々を行動へと突き動かすなら能動的であり、人々が直接行動せず行動を心理的に支持す
るなら受動的である。
しかし、ある人は、プロパガンダは我々を正しく世論への立ち戻らせてくれることなの
ではないかと尋ねることだろう。もちろんそんなことはない。というのは、世論は最終的
に人々を、しかし必ずというわけではないものの、行動に打って出る単なる傍観者にして
しまうからだ。それゆえ、参加の意味合いが非常に強くなる。サッカーチームのサポータ
ーは、試合において物理的ではないものの、選手たちを応援し、発奮させ、力を尽くさせ
ることで、心理的にその存在を感じさせる。同様にミサに加わった信心深い人々は物理的
な障壁とはならず、聖餐に参加する者は能動的であり、その不思議な儀式の本質を変質さ
せる。これら二つの事例は我々がプロパガンダを通じて獲得した受動的な参加によって我
々が得るものを示している。
このような行動は選択や熟慮の過程によって得ることはできない。プロパガンダを有効
せしめるためには、あらゆる思考や決定を中断させなければならない。プロパガンダは
人々のなかで無意識に機能しなければならない。外的な力によって自分が形成されている
などと人に悟らせてはならない(これはプロパガンダ成功の条件の一つである)が、適切で
かつ期待された行動を引き起こす無意識のなかにある機構を解き放つためには、どうして
もその人の中心的な核となる部分に接触しなければならない。
我々は目的に完全に合った行動を得なければならないと述べてきた。プロパダンダの伝
統的で時代遅れの見方が人々の正当な考え方への支持としてプロパガンダを定義するとい
うことであるなら、このことは我々を真の現代的なプロパガンダはそれどころか正当な行
いを得ようとすることであるとの見地へと導くものである。その正当な行いはプロパガン
28
ダにおける行動そのものであり、行動する者の価値判断のためではなく、人々によって意
識されておらず獲得すべき意識的な目的でもなく、しかしプロパガンディストによって考
え抜かれた目標に直接つながるものである。プロパガンディストはどのような目的が目指
されるべきで、どのような行動が実現されるべきか分かっており、正確にその行動を獲得
する手段を用いる。
我々の社会における思想や行動の分離は、より一般的な問題の典型的な事例である。我
々はそれを望んでいるという訳でもないが、行動と思想が系統的に分離している時代を生
きている。我々の社会において、考える者は自ら行動できず、他者の作用を通じて行動す
る。多くの場合、人は全く行動できない。行動する者は自分の行動を最初に考え出すこと
はできない。時間が足りず、個人的な問題がいろいろあり、社会計画は人に他者の考えを
行動に移すよう求めてくるからだ。そして、我々は人々が皆一様の意思決定をしているこ
とを目撃する。人は自らを見出すために、一般的な必要性や一般的な手法、自分の仕事を
全体的な計画に組み込む必要性という文脈にありながらも余暇を楽しむために、或いは自
分に最も合うものを見つけるために、或いはそのように自分を個人的な存在にするために
、自身の仕事の領域以外の場でのみ自分の精神を使うことができる。
プロパガンダは一様の意思決定を作り出す。もちろん、個人の人格に影響を及ぼさない
などということはない。プロパガンダは政治的或いは社会的な活動におけるものを除けば
、思考の完全な自由を個人に与えるものであり、そこにあっては、人は必ずしも個人の信
条と同調しない行動に身を向けて関わるのである。人は政治的な信念をも持つことができ
、それに明らかに矛盾したかたちで行動しさえする。このように、熟練したプロパガンダ
の曲解や展開というものには打ち勝つことができない困難などないのである。プロパガン
ディストは人に、過去の信念と一致しない行動を取らせることができる。現代の心理学者
は、信念と行動の一貫性や、意見や行動に本質的な合理性が必ずしもないことをよく知っ
ている。この一貫性の狭間で、プロパガンダはて
・
こ
・
を使うのである。プロパガンダは賢く
かつ理知的な人々を作り出さず、変節者や闘争者を作り出す。
このことは我々を組織の命題へと立ち戻らせてくれる。プロパガンダによって行動を誘
発された変節者は一人でいることはできず、自分一人で何かをするといったことができな
い。もし、プロパガンダによって得られた行動が適切であったなら、行動は個人的なもの
ではなく、集団的なものであるはずだ。個人の行動-思考の多様性を統合し共在するもの
であるときのみ、プロパガンダは有効となるが、その調整は組織の媒介を通じてのみ達成
することができる。
もっと言えば、プロパガンダによって達成される行動-思考は始まりに過ぎず、出発点
である。プロパガンダは、組織があってそのなかで(そしてそのおかげで)変節者が闘争者
になる場合のみ、調和したかたちで発展を遂げる。組織がないと、心理的な誘発はまさに
その発展段階で行動の行き過ぎや逸脱を起こしてしまう。組織を通じて、変節者は圧倒的
な行動要因を受け取り、その要因はその人の総体をもって行動に至らしめる。人は実質的
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ジャック・エリュール「プロパガンダ」