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サンフランシスコ・ベイエリアと
日本の歴史
話は約170年前、
ちょうどカリフォルニアの繁栄が
始まった頃にさかのぼります
ゴールドラッシュ(1848~)
• 1848年にサクラメント近郊の町コロマで金が発見されたことがきっかけとなり、
世界中から一攫千金を夢見る移民が殺到
• 太平洋沿岸の玄関口であるサンフランシスコが急速に発展し、カリフォルニアに
繁栄をもたらす (参考)サンフランシスコの人口 1848年: 850人
1852年:36151人
コロマ
(Coloma)
この時、日本は海外に出ることなど
かなわぬ鎖国の時代
そんな時代にこのゴールドラッシュに
参加した日本人がいました
ゴールドラッシュに参加した日本人
ジョン万次郎
(1827~1898)
波瀾万丈伝 ~ジョン万次郎~
1827年、土佐藩(現在の高知県
土佐清水市)に漁師の次男とし
て生まれる
1841年、14歳だった万次郎は仲間と
漁に出て遭難。漂着した「鳥島」で
143日間無人島生活を送るが、
幸運にもアメリカの捕鯨船ジョン・
ホーランド号に救助される
鎖国体制下で日本に帰る術はなく、1842年、
ジョン・ホーランド号はハワイ・ホノルルに寄港し
た際、救助された5名のうち4名を船から降ろすも、
万次郎はアメリカに渡ることを決意
船長ホイットフィールドの養子と
なった万次郎は、船長の故郷
マサチューセッツ州で英語、数学、
測量、航海術等を学び、
首席になるほど熱心に勉学に励む
1850年、日本に帰る決意をした万次郎は、
資金を得るためにゴールドラッシュで
沸くカリフォルニアへ渡り、約600ドルを得る
万次郎と同じ様に
「漂流→救助」という形で
奇しくも太平洋を渡った有名人が
もう一人います
リンカーン大統領に会った唯一の日本人
ジョセフ彦
(1837~1897)
• 1837年、播磨(現在の兵庫県)生まれ。早くに両親を亡くし、13歳
の時に天涯孤独となった彦蔵を励ます目的で、義父が江戸見物へ連
れて行く航海中に遭難。52日間太平洋上を漂流した末、アメリカの
商船オークランド号に救出され、1851年サンフランシスコへ到着
• サンフランシスコで下宿の下働き等をした後、税関長のサンダース
に引き取られる。カトリックの洗礼を受け、アメリカ国籍を取得し
た最初の日本人となり、駐日公使・ハリスにより神奈川領事館通訳
として採用
• リンカーン大統領を含む3名の現役アメリカ大統領とも面会。日米
の格差に愕然とした彦は、日本の近代化には庶民一人一人の意識改
革が必要と考え、英字新聞を日本語に訳した無料の「海外新聞」を
発刊するなど、日本人の目を海外に向ける啓蒙活動を行う
そして鎖国下の日本もついに
黒船来航(1853年)
開国してくださ~い
マシュー・ペリー
外国との交渉を始めるために
アメリカに使節団が派遣されます
咸臨丸による太平洋横断
• 1860年、徳川幕府は日米修好通商条約の
批准書交換のため、新見正興を正使とする
遣米使節を派遣
• 遣米使節は米国の軍艦「ポーハタン号」に
乗り込んだが、これとは別に、護衛及び海
軍伝習の実地訓練のための軍艦「咸臨丸」
が派遣され、98名の日本人がアメリカへ向
かう
• 37日間の航海を経て、1860年3月17日、
咸臨丸はサンフランシスコに到着
ジョン万次郎福沢諭吉勝海舟 榎本武揚
かんりんまる
咸臨丸入港100年記念碑
• 実際に咸臨丸が接岸したのは、
Valleji St Wharf(現在の
Pier7あたり)と言われている
日本人共同墓地に眠る咸臨丸水夫
• 咸臨丸は難航で多くの病人を出し、特に衰弱していた水夫3名
(源之助、富蔵、峰吉)がサンフランシスコ滞在中に病死
• 幕府の命令により、当時日本の代理領事であったチャールズ・
ブロックス氏が3名の墓を建立。現在はサンフランシスコより
少し南の「コルマ日本人共同墓地」に埋葬されている
さらに幕府に内緒で
こっそり留学生が派遣されます
トビタテ!密航留学生
長州藩
薩摩藩
• 海外への留学が認められていなかった時代に、欧米の学問と技術を学ばせるため、幕府に内緒で各藩が若
手藩士を海外へ派遣。1863年、長州藩から伊藤博文ら5名の藩士(長州ファイブ)がイギリスに留学し、
1865年、薩摩藩から森有礼ら19名がイギリスに留学
この留学生の中に
後に「カリフォルニアのワイン王」
と呼ばれる人物がいました
薩摩藩士から葡萄王へ
長沢鼎
(1852~1934)
• 1852年、薩摩国(現在の鹿児島県鹿児島市)生まれ。13歳の時に薩
摩藩第一次英国留学生の最年少留学生として渡英。藩の財政事情で多
くの留学生が帰国した中、長沢ら6名はアメリカの宗教家ハリスの元
へ向かい、最終的に長沢だけがハリスのもとに残り、ハリスの教団が
カリフォルニアで行っていたワイン醸造を引き継ぐ
• 大学教授から醸造技術を学ぶなど熱心に研究を続け、自身のワイナ
リーをカリフォルニア10大ワイナリーの一つと呼ばれるまでに育て上
げた。ナガサワ・ワインは米国から輸出された最初のカリフォルニア
ワインとなる
• 1983年にレーガン大統領が来日した際、日本の国会で「侍から実業
家になった長沢鼎は私たちの生活を豊かにし、日米友好の歴史の中で
特筆すべき」と演説したことがきっかけで、広く認知されることに
かなえ
長沢鼎ゆかりのワイナリー①
• 2017年10月に発生した大規模な山火事により、Paradise Ridgeは長沢ゆかりの展示物を含め施設の大半
が焼失。現在再建に向けて復興中
しかし・・・
サンタローザ市はカリフォルニアのワイン産業
に大きな影響を与えた長沢の偉業に敬意を表し、
長沢が遺したワイナリー跡地を”Nagasawa
Community Park"として今に残している
長沢が所有した土地の一部を継承した
ワイナリー「Paradise Ridge」
長沢鼎ゆかりのワイナリー②
• 禁酒法時代に荒れ果てしまったMONTE BELLOブドウ園が、新たに植えるブドウの苗木を探していたとこ
ろ、サンタローザの地で長沢鼎が品種改良した苗木に辿り着く。1949年に植えられた約1000本のカベル
ネ・ソービニヨンの木は質の高いブドウを生み出し、今日のRIDGE VINEYARDSの礎となった
長沢が所有したブドウの木が残存するワイナリー
「RIDGE VINEYARDS」
第20代内閣総理大臣・高橋是清は
ベイエリアで
苦渋の留学生活を送っていました
高橋是清
(1854~1936)
• 仙台藩が外国の事情を若手武士に学ばせるため、アメリカへの留
学生として選ばれたのが、当時11歳の高橋。2年間横浜で英語を
みっちり勉強した後、1867年に渡米(当時13歳)。
• サンフランシスコの老夫婦の家で住み込みで働くものの、徐々に
待遇が悪くなり、挙げ句の果てには学校にも行かせてもらえなく
なったことで、約束が違うとして老夫婦の家を出る
• オークランドの富豪ブラウン家に住み替えるにあたり、高橋は一
通の書類にサインをさせられたが、この内容が実は身売り同然の
契約書であることが判明。周囲の手助けもあり、何とか契約破棄
に至り、1868年日本へ帰国。後に日銀総裁、大蔵大臣、総理大
臣を歴任する高橋是清の強靱な精神力はこの時養われたとも
渡米時代の高橋是清(写真右)
(1867年)
ダルマ蔵相「七転び八起き」の源泉
時は幕末
カリフォルニア初の日本人集団移民は
戊辰戦争で敗れた会津藩と
大きな関係があります
日本が誇る良質な絹やお茶は素晴らしい
そうだ、これをカリフォルニアで栽培しよう!
会津藩の軍事顧問・武器商人をしていたヘンリー・スネル(Henry Schnell)が、
• ということで、ゴールドラッシュで湧くカリフォルニアで桑や茶を栽培するため、1868年、
戊辰戦争で敗れた会津藩から藩士その他数十名を引き連れ、移民船で太平洋を渡る
(→これがカリフォルニアにおける最初の日本人集団移民)
• 金鉱で栄えるゴールド・ヒルの農地をスネルが買い取り「若松コロニー」と名付ける。しか
し、気候環境等の違いから栽培はうまく行かず、資金調達のため日本へ帰ったスネルもアメ
リカに戻ってくることはなく、コロニーは2年も経たないうちに解散という憂き目に・・・
若松コロニー
「おけい」の墓
おけい…ヘンリー・スネルが日本人妻との間に出
来た子供の子守として雇った少女。若干17歳で開
拓団の一員としてカリフォルニアにやって来る。
若松コロニー解体後、ビアカンプ家の使用人とし
て働くが、19歳の時に熱病にかかり死亡
入植当時からある家とけやきの木 1969年にカリフォルニア州の
歴史的ランドマーク第815号に指定
会津若松市の背あぶり山にも
お墓が存在
1868年、明治政府樹立
諸外国との外交が本格化するにあたって
海外に日本政府の拠点をつくりました
サンフランシスコに領事館が開館(1870年)
• 1870年8月25日、幕末から当地で日本の領事のような役割をしていた米国人チャールズ・
ブロックス氏が最初の領事(名誉領事)に就任し、領事館としての活動を開始
• その約1ヶ月後、1870年10月5日に森有礼が大陸を横断し、ワシントンDCに公使館(現
在の大使館)を設置。つまり、在サンフランシスコ総領事館は日本国にとって最古の在外
公館(大使館、総領事館等)である
1871年、廃藩置県断行
明治政府の新たな国づくりにあたって
欧米の先進事例を学ぶ旅が始まります
岩倉使節団(1871~1873年)
• 1871年12月、岩倉具視率いる欧米使節団が結成され、総勢107名(この中に津田塾大学創設者である
津田梅子も当時8歳ながら同伴)が2年半もの海外視察の旅に出発
• 岩倉使節団を乗せた「アメリカ号」が最初に向かったのがサンフランシスコであり、市や州の関係者、
陸海空の将官、各国代表者から歓迎を受ける。この時、岩倉具視は「貴国の技芸・学問・物産・機械か
ら、大小の学校、訴訟裁判の法制に至るまで良く見て、将来我が国に実施する参考としたい。これが我
が国の繁栄への道である」というスピーチを残す
一行が宿泊し、多くのレセプションが行われたグランドホテル
(Market St沿いの現在Bank of Americaのビルがある場所に立地)
岩倉使節団サンフランシスコでの驚き
小さな部屋に閉じ込められると
あっという間にドキンと動き
釣り上げられた
「久米博士九十年回顧録」より
顔を洗うに水盤ありて
機をゆるむれば
清水ほとばしり出ず
「米欧回覧実記」より
アメリカにも少しずつではありますが
学生労働者などが増えていきます
1873年、カリフォルニアに日本人は
何人いたでしょう?
加
州
に
あ
る
日
本
人
六
十
八
名
、
女
子
八
名
、
子
供
四
名
で
あ
る
。
日
本
人
労
働
者
は
白
人
家
庭
で
働
き
、
給
料
は
事
情
に
慣
れ
た
も
の
一
カ
月
十
五
弗
、
ス
ク
ー
ル
ボ
ー
イ
は
食
料
と
衣
服
と
を
支
給
さ
れ
、
極
め
て
少
額
の
小
遣
い
を
与
え
ら
れ
る
。
1873年、サンフランシスコ領事館・
高木三郎副領事の報告
80名
ではいつから
カリフォルニアに日本人は
増えてきたのでしょう?
そのためにはまず
1870年代カリフォルニア州の人口の9%を
占めるまでに増加した
中国人の事情を理解しておきましょう
中国人排斥法
• 中国からアメリカへの移民は1860年代に激増(ゴー
ルドラッシュ、大陸横断鉄道建設等)
• 1869年には大陸横断鉄道が完成、1870年代には南
北戦争後の経済不況もあり、低賃金で働く中国人労
働者の存在は、白人労働者の反発を招いた。中国人
が辮髪や中国服・中国語を捨てず白人に同化しない
ことにいらだちを感じるようになり、中国人移民排
斥運動が激しさを増す
• 白人の中国人に対する人種的な差別、攻撃はたびた
び暴力的になり、多くの犠牲者が出た。労働組合も
中国人労働者の排斥を強く訴え、これら運動に押さ
れたアメリカ合衆国議会は、1882年中国人労働者移
民排斥法を議決。新規の労働者は完全にアメリカに
入国できなくなる。また、1884年の改正で、かつて
の移民の帰国や再入国も不可能となった
山脈を越える大変な難工事に中国人が従事
東と西の鉄道会社が両側から競うように線路を建設
1880年代以降、
これまで中国人が担っていた
職業(農業、鉱業、漁業等)に
従事する日本人が増え始めます
アメリカ在留日本人数の変遷
1880
1890
1900
1910
72,157人
2,039人
34,326人
148人
• 1899年にホノルルでペストが
流行。さらに1900年にハワイ
が米国と合併したことにで、日
本とハワイとの間の民間会社に
よる斡旋移民が途絶え、米本土
とりわけカリフォルニアへその
多くが流入
• 繊細な技能を持ち勤勉な日本人
は農業分野で手腕を発揮
• 1884年の中国人排斥法の実施
後から、農業分野で労働者が欠
乏。1888年頃より、日本人農
園労働者が多数入り込む
• 日本人移民の多くは
スクールボーイ等の
学生
• 農業で資金に余裕ができた者が、
1900年過ぎから土地を購入し、
独立農業が本格化する
• 1907年の日米紳士協約以降、
家族・親族の呼び寄せが増加
でも当時日本人はなぜわざわざ
アメリカにやって来たのでしょうか?
1880~1910年頃、日本の特に農村部は非常に貧しい時代
農家の次男や三男を中心に、多くの人が出稼ぎ目的で海を渡った
カリフォルニアなど
本土の方では
もっと賃金がいいらしい
しかもお金を貯めれば
土地も持てるかも
ハワイのサトウキビ畑で働く人々
とにかく家の生活が苦しいので、
長男でない自分は
出稼ぎに行かないといけない
(軍隊には入りたくない)
どうもアメリカという国に
行けば働き口があるらしい
日本人は農場や工場を
転々としながらお金を稼ぎ、
自らの事業で成功する人も出てきました
ここで各分野で活躍した
日系移民「1世」を一部ご紹介します
(1世サイドストーリー)
日系社会のリーダー・我孫子久太郎
(1865~1936)
• 1865年、新潟県水原村生まれ。14歳の時にアメリカに渡ることを
目的として家出し上京。塾で英語を学ぶとともに、教会でキリス
ト教の洗礼を受け、1885年、20歳の時に所持金1ドルでサンフラ
ンシスコに上陸
• UCバークレーで社会学を学びつつ、福音会(渡米した日本人の世
話や職業紹介を行う組織)の中心メンバーとして働く
• 1906年、リビングストンに2500エーカーの土地を購入し「大和コ
ロニー」を建設。キリスト教信者の日本人向けに農地を貸し出し、
白人と日本人との理想的な協調関係を実現したと賞賛された
• 「日米新聞社」の社長の傍ら、在米日本人のリーダーとして排日
活動に抗議
リビングストン市には
大和コロニーの名前を
冠した「Yamato
Colony Elementary
School」が存在
ポテトキング・牛島謹爾
(1864~1926)
• 1865年、福岡県久留米市生まれ。カリフォルニアの農業に憧
れを抱き、1888年サンフランシスコに上陸。3年間、昼間は
労働し、夜学に通い英語を学ぶ
• カリフォルニア州ストックトン地方の白人が誰も手をつけな
かった荒地を開拓して、苦闘のすえ良種のじゃがいもの大量
生産に成功。一時期カリフォニア州のじゃがいもの生産額の
85%をこの農園で占めていた。6万エーカーを超す大農園を起
こし「ポテト王・馬鈴薯王」と呼ばれた
• 在米日本人会の初代会長に就任、農工商三部を設け在米日本
人の福利増進を図るとともに、排日運動の緩和に務めた
(1世サイドストーリー)
ストックトン市の
San Joaquin Delta Collegeにある
牛島の名を冠したSHIMA Center
(牛島は同大学に莫大な遺産を寄付)
ライスキング・国府田敬三郎
(1882~1964)
(1世サイドストーリー)
• 1882年、福島県磐城群生まれ。小学生の時に読んだ偉人の伝記がきっか
けでアメリカに強い憧れを抱く。教師の道を歩むも、渡米の夢を捨てき
れず、1907年教育視察という名目でサンフランシスコに渡る
• ブランケ担ぎ(毛布担いで農場を転々とする季節労働者)、缶詰工場を
経て、1920年サクラメント郊外の借地で米作を始める。災害や不況で一
度は失敗するも、再度立ち上がり、荒れた僻地であったサウスドスパロ
スに土地を入手、44歳にして初めて自作農となる
• 飛行機で水田の種まきを行うという当時では画期的なアイディアも実践
し、成功への道筋が見えた矢先、戦争でコロラド州へ収容される
• 終戦後土地が無断で売却されていたという逆境にも負けず稲作を再開。
良質な「国宝ローズ」の大量生産に成功し、現在でも代表的なカリフォ
ルニア米の一つとなっている
• 戦後は日本人・日系人の待遇改善の為の活動にも尽力し続けた
2015年に上映された
国府田ファミリーの
ドキュメンタリー映画
『seed』
(1世サイドストーリー)
アワビ漁のパイオニア・
小谷源之助
(1867~1930)
• 1867年千葉県安房生まれ。1895年にモントレーで豊富なアワビ床を見
つけた野田音三郎は日本の農務省に報告。日本政府は、当時慶應大学の
海洋生物学部の研究者であった小谷に調査を依頼し、1897年渡米
• モントレー湾でのアワビ事業の可能性に目をつけた小谷は、故郷の千葉
県から潜水夫を採用するとともに、M・アランと共同で「ポイント・ロボ
ス缶詰会社」を設立。ヘルメットや改良スーツによる潜水法を取り入れ、
安全性と効率が増した。一時はカリフォルニアのアワビ市場の75~80%
を占めた
• アワビ漁への規制強化、アランの死去で缶詰会社は倒産。大戦中の日系
人強制立ち退きにより日本人によるアワビビジネスは消滅
ポイント・ロボス(カーメル近辺)の展示室には当時の写真や道具が展示
ガーリックキング・平崎清
(1882~1964)
(1世サイドストーリー)
• 1900年熊本生まれ。農家の次男だった平崎は、14歳の時、当時アメリカ
で農業に従事していた父と長兄を追って渡米
• 渡米から2年後、ギルロイに辿り着き、アメリカ人夫妻が経営する種苗農
家で種作りのイロハを学ぶ。さらに、1920年、念願の土地を入手しタマ
ネギやニンジンの種を育てた
• 当時、ニンニクは長丁場で手間のかかる作物のため商業ベースで栽培さ
れてはいなかった。平崎はそこに目をつけ、事業を拡大、140万坪ほどの
大農場へと成長。1941年までには、カリフォルニア州一のニンニク生産
者となった
• 1939年に開催されたサンフランシスコ金門橋万国博覧会に赴き、城郭風
の日本館を23,000ドルで購入。日米両国の友人を歓待する施設として使
用するために、ギルロイのニンニク畑のド真ん中に9カ月をかけて移築
• 戦争が始まると、日系社会の指導的立場にいた平崎もFBIに捕らえられ、
ノースダコダの抑留所に送られた。戦後ギルロイに戻り、事業を再開し
たが、他の人々に市場を奪われ、戦前の規模に戻ることはなかった
しかし、
このように活躍する人物が増えると、
日本人に対して嫉妬や憎悪の感情を
抱く人が増えます
1906年 サンフランシスコ市は公立学校への日本人通学を禁止
1907~1908年 「日米紳士協定」が結ばれる
• 1906年のサンフランシスコ大地震で多くの校舎が損傷を受け、学校が過密化している
ことを口実に、サンフランシスコ市当局は公立学校に通学する日本人学童(総数わず
か100人程度)に、東洋人学校への転校を命じた
セオドア・ルーズベルト大統領
サンフランシスコやりすぎ
• 米国本土への移民を自主的に制限し、
ごく限られた人(移民の父母・妻子、
農業定住希望者)にのみパスポート
を発行します
• サンフランシスコ市に日本人への差別を
撤回させます
• 排日的な移民法を作らせません
• ハワイ、メキシコ、カナダを介したアメ
リカ本土への日本人渡航は禁止します
1905年2月23日付
サンフランシスコ・クロニクル紙に
掲載された日本人を問題視する記事
写真花嫁
• 日米紳士協定後、写真のみで結婚を決め、配偶者としてアメリカへ渡
る「写真花嫁」(Picture Brides)と呼ばれる日本人女性が急増
• アメリカでの定住を望む独身男性と、日本での貧しい生活を抜け出し
たかった女性の利害が一致したことで生まれた制度
• ただし、一度も会ったことのない男女が結婚することはアメリカ社会
では奇妙・不道徳な行為と見なされ、批判にさらされることに
当時入国審査が行われていたエンジェル島の展示室には
1910年代に到着した「写真花嫁」たちの写真が展示されている
日本人に対する差別や排斥は
ますますエスカレートします
1924年 連邦議会で改正移民法が成立
→東ヨーロッパ、南ヨーロッパ、アジアからの移民を大幅に制限
→帰化不能外国人(日本人)の完全移民禁止
1913年 カリフォルニア州で住民投票により外国人土地法が成立
→帰化不能外国人(日本人)の農地所有、3年以上の賃貸を禁止
→その後、他州でも同様の法案が通過
そして、アメリカ西海岸に住む日本人の
運命が一変する日がやってきます
1941年、太平洋戦争開戦
日本人は一斉に
「敵性外国人」と見なされました
FBIによる日系コミュニティーリーダーの逮捕
• 真珠湾攻撃以降、FBIは従来からマークしていた日系社会
のリーダー格となる人物(日本人会会長、日本語新聞社、
日本語教師等)を次々に拘束。正式な容疑が告げられるこ
ともなく、家族から引き離されることとなる
• その後、逮捕された人々の多くは、全米各地の司法省管轄
適正外国人抑留所に送られ、戦時中を過ごすことになる
そしていよいよ
普通の暮らしをすることすら
かなわなくなりました
大統領令9066号
1942年2月、フランクリン・ルーズベルト大統領は
「特定地域を軍事管理地域に指定し、必要に応じて人々を立ち退か
せられる権限を陸軍長官に与える」大統領令に署名した
強制立ち退き
1942年3月、西海岸(上記地図の赤枠内)に住む約12万人の日本人の血を引く人々(日本国籍の1世のみならず、アメリカ
国籍の2世も含む)に対し、強制立ち退きが指示される。持ち込み可能な手荷物は制限され、所有していた土地や財産を二
束三文で手放すことになる
ジャップはジャップなのだ。
忠誠であろうとなかろうと
危険極まりない存在である。
米国市民であるなしに拘わらず、
理論的に彼らは日本人であって
それを変えることは出来ない。
~1943年4月下院海軍文科委員会での証言~
ジョン・デウィット西部司令官
仮収容所
収容所建設までの数か月間、各地の競馬場等が仮の収容所
(Assembly Center)として使用された(~1942年10月)
臭いのきつい馬小屋などで一時的に暮らすことになる
現在ショッピングセンターとなっているTanforan競馬場も仮収容所として使用
された(BARTのSan Bruno駅構内にはパネル展示がある)
フレズノ市に存在した2か所の仮収容所跡地にも当時の様子を伝える展示が存在
全米10カ所に存在した強制収容所
ハートマウンテン(WY)
ツールレイク(CA)
マンザナー(CA)
トパーズ(UT)
ポストン(AZ)
ヒラリバー(AZ)
ミニドカ(ID)
ローワー(AR)
ジェローム(AR)
グラナダ(アマチ)(CO)
強制収容所での暮らし
周囲には有刺鉄線
銃を持った見張りの兵士
食堂
学校
畑を開墾寒冷の差は激しく、砂嵐も 複数家族でスペースを共有 野球場
さらに日系2世
(アメリカ生まれでアメリカ国籍を持つ)
は時代に翻弄されます
忠誠登録
質問27:あなたは命令を受けたら、いかなる地域であれ合衆国軍隊の戦闘任務に服しますか?
質問28:あなたは合衆国に忠誠を誓い、国内外におけるいかなる攻撃に対しても合衆国を忠実に
守り、かつ日本国天皇、外国政府・団体への忠節・従順を誓って否定しますか?
• 1943年初頭、強制収容所に暮らす日本人・日系人へアンケート調査(Application for leave clearance)が実施される
• 特に物議を醸したのが、27番目と28番目の質問。27番目の質問は「二世の者がアメリカ軍入隊の意志があるか」問うもので、28番
目の質問は「アメリカ合衆国に忠誠を誓い、日本国天皇への忠誠を破棄するか」問うもの
• 27番目の質問に「Yes」と回答した者はアメリカ軍入隊の候補者となり、両方の質問に「No-No」と回答した者は、不忠実という
レッテルを貼られ、国外追放やツールレイク強制収容所へ移送された。この質問への回答は、1世・2世間、家庭状況等で考え方が
異なるがゆえに意見が別れ、日系人の間に深い溝を作ることとなる
史上最強と呼ばれた「442連隊」
諸君らは敵のみならず、偏見とも戦い、
そして勝利したのだ
(You fought not only the enemy, you fought prejudice-
and you won.)
~1946年7月に帰国した442連隊を迎えたトルーマン大統領の言葉~
• 1944年1月、日系アメリカ人2世の青年らによって第442連隊戦闘団が編成される(兵役年齢にある日系2世男子のう
ち志願したのは約5%)
• 442連隊はヨーロッパ戦線に送り込まれ、テキサス大隊の救出、ドイツでのユダヤ人解放など類を見ない活躍を見せ、
アメリカ軍史上最多の勲章を獲得(ただしその影では多くの犠牲者も)
MIS(Military Intelligence Service:アメリカ陸軍情報部)
• 真珠湾攻撃の1ヶ月前にあたる1941年11月、米陸軍は極秘でサンフランシスコ・プレシディオにMIS語学学校を開設。
多くの日系人が日本語・英語の読み書きや軍隊用語等の集中訓練を受ける。その後、MIS語学学校はミネソタ州に移転
するが、終戦までに約6,000人の卒業生を輩出。うち85%が日系人、さらにその多くが「帰米(日系2世のうち日本で
教育を受けてアメリカへ戻った者)」と呼ばれる者であった
• MIS隊員は太平洋戦線に送り込まれ、前線で捕虜の尋問(当時日本軍は捕虜になった際の訓練を受けていなかった)や
収集物の翻訳(こまめに日記をつける人が多かった)、日本軍の通信傍受などの任務についた。沖縄戦では集団自決す
る人々に日本語で投降を呼びかけた。終戦後はGHQに勤務し、日本と米国の橋渡し役として復興に貢献された方も多い
• 戦後しばらくMISの存在自体が極秘扱いとされ、元隊員も自らの口から語ることはなかったが、1972年にニクソン大統
領が第二次大戦中の軍事情報の機密扱いを解除してから、一般に知られるようにあった
やがて終戦を迎え、
強制収容所にいた日系人も解放されます
戦前に存在していたジャパンタウン
• 終戦後、各地の強制収容所は1945年秋に次々と
閉鎖されるが、収容者は元の生活へ戻るにも相当
の苦労を要した。収容所に入る前に仕事、家・土
地などの財産を手放さなければならなかった日系
人にとって、帰る家どころか、戦後の日系人差別
から仕事を得ることもままならなかった(1952
年に施行されたマッカラン=ウォルター法でよう
やく日本人移民の帰化権が認められた)
• 戦前カリフォルニア州内に一時期は約40もある
と言われたジャパンタウンの多くは消滅した
当時の日本町の趣が若干残っているWalnut Grove
戦後日本はGHQの占領下に置かれますが、
サンフランシスコで
一つの区切りを迎えることになります
サンフランシスコ平和条約
• 1951年9月、サンフランシスコ・オペラハウスでサンフラ
ンシスコ平和会議が開催され、第二次世界大戦での西側諸
国と日本の講和条約として締結された。日本から吉田茂首
相が署名。日本に対する占領の終結と主権回復を認め、
1952年4月28日に発効された。
1960年代、アメリカでは市民の権利を
取り戻す動きが起きます
権利回復運動
• 1960年代以降、市民運動の高まりと合わせ、日系人3世を中心に、強制
収容に関してアメリカ政府に謝罪を求める権利回復運動が起きる
• 1988年、レーガン大統領(当時)は日系アメリカ人補償法に署名し、ア
メリカ政府は公式に謝罪を行うとともに、補償金の支払いがなされた
日系アメリカ人の収容は過ちだったと認めなければならない
(We must recognize the internment of Japanese Americans
was just a mistake.)
~ロナルド・レーガン大統領~
フレッド・コレマツ
(1919~2005)
• フレッド・コレマツ(日本名:是松豊三郎)氏は、1919年オークラン
ド生まれ。戦時中、強制収容の命令に従わずに逮捕され、アメリカ政
府を相手に訴えを起こすも敗訴。しかし、1982年に法学者や日系人弁
護士の助けを得て再び訴えを起こし、1983年に逆転無罪を勝ち取る。
• 2010年にカリフォルニア州は氏の誕生日である1月30日を「フレッ
ド・コレマツの日」と制定、市民の権利を再認識する日となっている
2017年1月30日、Google(米国版)
トップページに氏のイラストが掲載
何かが間違っていると感じたら、
それを口に出すことを恐れてはいけない
(If you have the feeling that something is wrong,
don’t be afraid to speak up.)
SF市の公立校クラレンドン小学校では
劇で氏の人生を追体験
日系2世の中には
政治の分野で活躍した人もいます
ノーマン・ヨシオ・ミネタ
(1931~)
• 1931年サンノゼ生まれ。戦時中はワイオミング州のハートマ
ウンテン強制収容所に収容される。UCバークレー卒業後、米
陸軍で情報将校を務め、1971年~サンノゼ市長を経て、1974
年下院議員に当選。2000年からクリントン政権で商務長官、
2001年からはブッシュ政権で運輸長官を務めた
• 2001年の9.11テロの際は、数千機の民間航空機を空港に着陸
させる前例のないミッションを指揮。また、空港における中
東・イスラムの人々へのセキュリティ強化に断固として反対
サンノゼ空港の正式名称は
「Norman Y. Mineta San Jose International Airport」
アメリカで活躍した日系2世
アメリカで活躍した日系2世
ダニエル・ケン・イノウエ
(1924~2012)
• 1924年ハワイ生まれ。戦時中は日系人部隊442連隊に配属さ
れる。ヨーロッパ戦線でのドイツ軍との戦いにおいて、右手で
手榴弾を投げようとしたところ、銃弾が右腕に命中して切断さ
れる(その後左手で点火済手榴弾を投げ込んだ)
• 右腕を失ったことで医学の道を諦め、ハワイ大学、ジョージ・
ワシントン大学で学んだ後、政界に進出。1959年にハワイ州
選出の連邦下院議員に当選し、アメリカ初の日系人議員となる。
その後1963年に上院議員となり、以後50年近くにわたって在
任し、上院仮議長を務める
ホノルル空港の正式名称は
「Daniel K. Inouye International Airport」
さらに深く日系人の歴史を知りたい人は
こちらへ行ってみてはいかがでしょう
日系人の歴史を学べるスポット①
Japanese American Museum of San Jose(2002~)
日系人の歴史を学べるスポット②
Military Intelligence Service Historic Learning Center(2013~)
日系人の歴史を学べるスポット③
Japanese American National Museum(1992~)
日系人の歴史を学べるスポット④
Manzanar National Historic Site Visitor Center(2004~)
日系人の歴史を学べるスポット⑤
Topaz Museum(2017~)
日系人の歴史を学べるスポット⑥
Heart Mountain Interpretive Center(2011~)
さらに深く日系人の歴史を知りたい人は
こちらをご覧になってはいかがでしょう
日系人の歴史を学べる作品集①
• TBS開局60周年を記念して、2010年11月3日~7日の5夜連続で放送されたテレビドラマ
• 橋田壽賀子が脚本を担当し、アメリカへ渡った日系移民が、働くため、生きるために、人種差別
や戦争による逆境・苦悩を乗り越え、生き抜いた家族の物語
• 出演:草彅剛、仲間由紀恵、中井貴一、泉ピン子、松山ケンイチ、寺島咲、川島海荷、大泉洋、
市川右近、小林稔侍、笹野高史、中尾明慶、イモトアヤコ、八千草薫、上條恒彦、岸惠子ら
日系人の歴史を学べる作品集②
• 「二つの祖国」は山崎豊子の小説。日系2世でロサンゼルスの日本語新聞社の記者・天羽賢治(実在の人物である伊丹明
とハリー・K・フクハラがモデル)を主人公に、太平洋戦争によって日米二つの祖国の間で身を切り裂かれながらも、ア
イデンティティを探し求めた在米日系人たちの悲劇を描いた作品
• 1984年、「二つの祖国」を原案として、NHK大河ドラマ「山河燃ゆ」が放送。出演は松本幸四郎、大原麗子、多岐川裕
美、川谷拓三、柏原芳恵、堤大二郎、 沢田研二、島田陽子、鶴田浩二、津島恵子、児玉 清、三船敏郎、西田敏行ほか
日系人の歴史を学べる作品集③
• 442連隊及びMISの元兵士たちの証言で綴る日米合作ドキュメンタリー
• 監督はすずきじゅんいち氏(写真左上)
そして現在
北カリフォルニアにおける日本人・日系人・日系企業
日系企業
(出典:2018年ベイエリア日系企業実態調査(JETROサンフランシスコ))
(出典:在サンフランシスコ日本国総領事館ウェブサイト在留邦人数)
日本人
日系人
(出典:2014年アメリカ国勢調査)
184,040人
(全米では449,858人)
全米に残存する3カ所のジャパンタウン
サンフランシスコ・ジャパンタウン
サンノゼ・ジャパンタウン
リトル・トーキョー
(ロサンゼルス)
サンフランシスコ・ジャパンタウン
元々SF市内には「日本町」が数カ所存在
1906年の大地震を機に現在の場所に集約
街歩きをしながら、
ジャパンタウンの歴史を学ぶことができる
毎年4月には「北カリフォルニア桜祭り」が開催
日本のマンガや
日本食なども
楽しめる
サンノゼ・ジャパンタウン
毎年夏には
「San Jose Obon Festival」が開催街中の至る所にジャパンタウンの歴史を
綴る案内板や石碑が存在
サンノゼ仏教会Issei Memorial Building
(1910年に建てられた桑原病院の跡地)
ベイエリアでは日本との
草の根の交流も多いのです
姉妹都市交流
• 1956年9月11日に行われた市民外交に関するホワイトハウス会議において、アイゼンハワー大統領が「姉妹
都市」の概念を提唱。姉妹都市国際協会(Sister City International)が創設される
• 日米間の姉妹都市の最古はセントポール市(ミネソタ州)と長崎市(1955年12月)。次いで1957年にサン
ノゼ市・岡山市をはじめとして6組が成立
日本とカリフォルニア州の間の姉妹都市数は105
※全米での姉妹都市数は454(2018年8月現在)
ベイエリアにおける姉妹都市の例
• サウサリート市・香川県坂出市(1988年~)
1987年に瀬戸大橋とゴールデンゲートブリッジが姉妹橋となったことを契
機に、橋の袂に位置する両自治体が姉妹都市となった。以来30年以上にわ
たり、毎年交互に学生訪問を行う等積極的な交流事業を実施している
• ギルロイ市・青森県田子町(1988年~)
1987年に田子町から4名がにんにく生産世界一のギルロイ市を訪問しガー
リックフェスティバルを見学したところ感銘を受け、同市市長に交流を打
診。田子町で開催された「にんにくとべごまつり」にギルロイ市長ほか訪
問団を受け入れ交流を深め、1988年に姉妹都市となった。以来、互いのに
んにく祭りへの訪問団派遣や中学生・高校生交流、1年間の長期駐在員の
派遣等、積極的な交流事業を続けている
• サンノゼ市・岡山県岡山市(1957年~)
広島アメリカ文化センター館長のアボル・フツイ氏が岡山市を訪れ、サン
ノゼ市との都市縁組について意向の打診があったことがきっかけで姉妹都
市を締結。岡山大学とサンノゼ州立大学との留学制度等相互交流を実施。
2017年にサンノゼ市で発生した洪水及び2018年に岡山県で発生した水害
の際は、両市が違いに寄付による援助が行われた
サンフランシスコ・ベイエリアと
日本の歴史は
今後も続いていくのでしょう
<参考資料>
• ジョン万次郎資料館(http://www.johnmung.info/john_syougai.htm)
• 国際留学生教会(ジョセフ彦、高橋是清)(http://ifsa.jp/index.php?nihonnogenryu)
• 新日米新聞社『在米日系人百年史』
• 米国日語教会・一世史編集委員会『一世史』
• アケミ・キクムラ=ヤノ編『アメリカ大陸日系人百科事典』
• ホーン川嶋瑤子『アメリカの社会変革』
• デイビット・T・ヤマダ『モントレー半島日本人移民史』
• ディスカバー・ニッケイ(http://www.discovernikkei.org/ja/)
• DENSHO(https://densho.org/)
• Lighthouseロサンゼルス(http://www.us-lighthouse.com/life/japanese-american)
• California Japantowns(http://www.californiajapantowns.org/index.html)
• CLAIR(クレア)一般財団法人自治体国際化協会(http://www.clair.or.jp/)

サンフランシスコ・ベイエリアと日本の歴史