SlideShare a Scribd company logo
1 of 4
Download to read offline
<1>
有限責任沼津信用組合(大正八年)から
沼津信用金庫設立(昭和二十六年)までの経緯
~高田長太郎から名取栄一へ~
概 観
信用金庫の生い立ち―明治維新を契機として資本の集中が激化し、農民や中小商工業者が貧窮に陥ったことか
ら、経済的弱者に金融の円滑を図ることを目的に、1900年(明治33年)に産業組合法が制定され、同法による信
用組合が誕生しました。ところが、この信用組合は会員以外からの預金が認められないなど、都市部の中小商工
業者にとっては制約が多いものでした。そのため、1917年(大正6年)に産業組合法が一部改正され市街地信用組
合が生まれました。
そして、1943年(昭和18年)には単独法の市街地信用組合法が制定されました。
次いで、終戦後の経済民主化の中で、1949年(昭和24年)には中小企業等協同組合法が制定されましたが、同
法は比較的着実に進展してきたそれまでの市街地信用組合への制約を再び強くするものであったことから、業界
の内外から協同組織による中小企業者や勤労者のための金融機関の設立を望む声が高くなってきました。こうし
て1951年(昭和26年)6月15日に信用金庫法が公布・施行され、会員外の預金を扱え、手形割引もできる"信用金
庫"が誕生したのです。 <4頁/〔参考〕信用組合・信用金庫/関係法令の制定と歴史 参照>
証券には 「日本帝國産業組合ノ父・子爵品川彌二郎」並びに写真が掲げられている。右の囲みに「産業組合
は中産以下の人民のために金融の便を開いて低利に資本を使用することを得せしめ兼ねて勤倹自助の精神を興し
以て地方の寛力を養成せんとするの目的でございます 子爵 品川彌二郎」と表記されています。
左の囲みには「産業組合ハ精神上ノ共同團結、物質上ノ共同幇助ヲ以テ成立スベキモノデ、其目的ハ第一ニ國
民ノ徳風ヲ養成シ、第二ニ、國民ノ富力ヲ増進シ、第三ニ、地方ノ自治ヲ扶翼スルニアル 子爵 平田東助」と記載
されています。
大正8年創立の有限責任沼津信用組合ですが、大正6年に明治からの産業組合法が一部改正され市街地信用組合
が生まれる、其の生まれたばかり施策の元、有限責任沼津信用組合が創立されたと考えられます。
昭和5年頃の出資払込書の時代は町から市(大正12年)になっていて、沼津市を記載したのでしょう、沼津は大
正15年の大火で市街地は全焼して、書類も焼失したのでしょう、他の事でも、昭和5年の復興事業で(香貫の現
在地の市役所もこの時竣工)市街地インフラが完成した。大火後の出資証券は大正時代より簡素なものになった
のではないでしょうか。
大正八年有限責任沼津信用組合出資證券原本 昭和五年有限責任沼津信用組合出資金払込證書
尚、沼津信用組合理事長高田長太郎氏は昭和15年他界されていたので、戦時下の時代、地方の金融状況は統制
政策(地方銀行統制令)のため昭和20年2月16日沼津市信用組合(当時 組合長 森田豊寿)は解散している。
上記の證券原本・出資金払込證書は、令和元年7月16日、高田好彦氏宅にて拝見した設立当初の貴重な史料
である。有限責任沼津信用組合の設立時の組合長理事 高田長太郎氏 は好彦氏の祖父である。 <長谷川 徹>
<2>
〇高田長太郎と名取栄一の交わり
戦後、昭和26年4月3日、沼津商工会議所で名取栄一氏が
創立した沼津信用組合の理事に勝亦干城氏がいる。勝亦干城
と高田長太郎氏との関係は、魚町仲町にあった、沼津魚市場
会社(高田長太郎經営)を宮町の沼津魚市場会社(勝亦干城
經営)に譲渡している。高田長太郎氏、名取栄一氏、勝亦干
城とは實業會での交流は強いもがあったことがうかがえる。
高田長太郎氏は他の同じ世代の二名より早く死亡しました
ので、戦後の實業・政治の世界では登場していない。
沼津信用組合の解散
事業譲渡解散公告
本組合ハ昭和二十年二月十四日開催ノ組合員総会ニ於
テ事業全部ヲ株式会社駿河銀行 ニ譲渡シ解散スルコトニ
決議候ニ付右二対シ異議アル債権者ハ本公告掲載ノ日ヨ
リーケ 月内ニ其ノ旨申出相成度市街地信用組合法ノ規定
ニヨリ公告候也 昭和二十年二月十六日
沼津市大手町一六九番地ノー
沼津信用組合組合長 森田豊寿
昭和20年2月時沼津信用金庫本店
沼津信用組合解散理由書
今ヤ戦局ノ現段階ハ国内態勢ノ整備強化ヲ要求シ各種企業並ニ諸団体諸社会ノ強カナ ル統合ヲ要望シ且ツ各種機
関ヲシテ戦力増強ノー点ニ凝集スべキノ秋、之レガ生産力増 強ノ原動カタル金融部門ノ整備統合ノ必然性ハ今更申シ
上グル迄モナイノデアリマス。
即チ今日ノ金融機関ハ何レモ貯蓄ノ増強ト戦力資金ノ調達(国債ノ消化)以外ニ其ノ使命 ハナイノデアリマス。
従ヒマシテ所謂地方銀行相互間或ハ市街地信用組合トノ対立ヲ許サズ、当然渾然一体 トナリ、其ノ総力ヲ結
集シ以テ地方金融ノ統制ヲ益々強化拡充シ、従来ノ各機関ノ長所 ヲ発揮シ真ニ金融報国ノ使命ニ邁進スべキ
モノト存ズルノデアリマス。殊ニ市街地信用 組合ノ如キ行政区域ニ限定セラルル地域的金融機関ハ家族的郷
土的長所ヲ有スルトハ言 へ、現在ノ如キ空襲下ニ於テハ集団的地域的ナル市街地信用,組合事業ハ非常災害ヲ
モ考 慮セネバナリマセン。時偶々昨年十二月十六日官報並ニ報道ヲ以テ大蔵省令トシテ『市 街地信用組合事
業ヲ貯蓄ヲ営ム銀行即チ地方銀行ニ譲渡スルコトヲ得』トノ方途ガ講ゼ ラルルニ至ツタ事ハ市街地信用組合
ニ対スル大蔵省ノ親心デアルト信ズル次第デアリマ ス。
此ノ発表ヲ知ルヤ、駿河銀行ヨリ逸速ク本組合ニ対シ譲渡方ノ懇請ガアッタノデアリ マス。勿論駿河銀行ト
シテハ、本市ニ強力ナル地盤ヲ有シ且ツ他ノ金融機関二見ザル下 部組織ヲ有スル本組合機構ノ将来性ヲ嘱望
シ、之レトー体化シ名実共ニ沼津市ニ於ケル 本店銀行タルノ地位ヲ確保セントノ意図ニ外ナラヌノデアリマ
ス。而シテ本組合トシテ 組合員ノ状態並ニ店舗分布状況ヨリスルモ駿河銀行ニ譲渡スルコトガ最モ妥当ナリ
ト考 へ、茲ニ於テ県並ニ大蔵省ニ対シ解散後ニ於ケル市民ノ利便ヲ考慮シ現在ノ組合本支所 ハ其儘銀行ノ支
店トシテ存続スルコトノ了解ヲ得タノデアリマス。
思へバ昭和五年四月、本組合ヲ設立シテ茲ニ満十五年、我ガ国財界ノ最モ不況ナリシ 当初ヨリ経済界ノ怒濤
ニ棹シ幾多ノ苦難ヲ乗越へ、組合員各位ト共ニ本組合事業ノ伸展 育成ニ全力ヲ傾注シ、市民大衆ノ産業経済
ノ向上進展ニ寄与シ且ツ共栄親和相互扶助ノ 組合精神ノ昂揚ニ渾身ノ努力ヲ払ヒ、遂ニ今日全国屈指ノ優良
組合トシテ_他共ニ認ム ルニ至リ貯金額ニ千万円ヲ超過スルニ至リ将来益々其ノ伸展ヲ約束セラルル現状ヨリ
シ テハ畢竟宴ニ忍ビザルモノデアリマスガ、今ヤ戦局ハ躊躇浚巡ヲ許サズ大乗的見地ヨリ シテ国家ノ施策ニ
順応シ、組合員各位ト多年練成セル共栄親和ノ組合精神ト栄アル大衆 的下部機構ヲ有スル本組合事業ヲ勇敢
ニ譲渡シ、茲ニ発展的解散ヲナシ以テ譲渡先タル 銀行業務ニ対シ其ノ機構卜精神ヲ注入滲透セシメ、真ニ地
力金融機関トシテノ公益性ヲ 徹底セシムルノ推進力トナルニ於テハ此ノ際私情ヲ滅シ奉公ノ至誠ヲ示スノ好
機ナリト 信ジ此ノ挙ニ出デタル次第デアリマス。
昭和二十年二月
沼津信用組合 組合長森田豊寿
(駿河銀行70周年史795頁)
名取栄一氏(58歳)は、昭和5年、有限責任沼津市信用組合の理事長に就任する。戦争中、政府の金融統制政策
(地方銀行統制会)のため有限責任沼津信用組合(当時理事長は森田豊寿)は、昭和20年3月1日駿河銀行と合併し
た。そこで、名取栄一氏は、昭和25年に新たに沼津信用組合を創立し組合長に当選する。
昭和26年制定の信用金庫法により沼津信用金庫と改称、初代の理事長に就任する。
<3>
〇沼津信用金庫の設立
・昭和25年4月3日沼津信用組合設立(昭和26年沼津信用金庫に改組)
・組合長名取栄一•出資者1109人•出資金4, 464, 600円
昭和2 0年の8月15日に戦争は終わったものの、市街地は焼野原と化してしまった。 市民は家を焼かれ財
を失なって、茫然自失した。農•漁民や俸給生活者はとにかく、一番困まったのは、中小企業、商店街の人た
ちであった。
復興に先立つものは金であった。バラックの借店舗は何とか建てたが、商品を仕入れる資金を簡単に貸して
くれるところがなかった。
名取翁は、沼津市の戦災復興のためには、何よりもさきにこの中小企業者たちを再起させる金融機関をつく
らなければならないと考えた。
岡田吾市、勝亦干城、竹内鉄次郎、寺尾利平、木村清太郎、諷訪健次郎、塩谷六太郎、植松与三郎、杉山金
次郎、宇野秀吉氏等と相談して、中小企業等協同組合法による沼津信 用組合の創設にとりかかった。
名取翁が発起人代表となり、当時の商工会議所議員が発起人となって、昭和25年4月3日に沼津商工会議所
ホールで創立総会をひらいた。組合長に名取栄一が満場一致で推され、専務理事に寺尾利平、常務理事に木村
清太郎、理事に岡田吾市、竹内鉄次郎、杉山金次郎、増田慶三、諷訪健次郎、西山倉吉、渡辺好郎、石橋治郎
八、塩谷六太郎、勝亦干城、植松与三郎、小池直次郎、鈴木万吉、宇野秀吉、杉山猪作、山田長次郎、山本
清、金 子一六、渡辺唯吉、矢田唯雄、後藤寿雄、監事に佐錄英一、大古田金太郎、柴田正、植松 興作、小川藤
太郎の諸氏が選出された。そして同年4月20日から、商工会議所階下の一部を利用して業務を開始した。出資
者は1009人、出資額は446万4,600円であった。
昭和26年12月10日には、信用金庫法によって沼津信用金庫と改称され、名取翁は引きつづき理事長として
陣頭指揮に当ったが、創立当初は日銭のはいる魚市場や青果市場、西浦等の農業糸且合に協力を求めて預金し
てもらい、その金を中小企業や商店に低利で貸出した。担保などは、ほとんど取らなかったそうである。
これは名取翁の発想と断によるもので、担保を入れれば銀行で貸してくれるが、戦災でいためつけられた中
小企業者や商店にとっては、入れるべき担保がない時代であったから だ。名取理事長は、物よりも人間を信用
して、融資した。3万、5万という小口であった が、それを資金にして商品を仕入れ、店をひろげていくこと
ができたのであった。
「事業場が事業をするのではない。人間が事業をするのだ」といっていた名取翁は、何よりも人間に重点を
おいて、人間を尊重した、どんな立派な事業場でも、それを動かしている人間がダメなら信用しなかった。反
対に、どんな小さな貧弱な店でも、そこの主人が 誠実な人だったら、信用していくらでも融資した。
とはいうものの、信用金庫そのものが一つの事業体であり、動かすものが出資者の金や 預金者の尊い金であ
る以上、それを経営する最高責任者としての心労は、決して容易ではなかった。業務の一切は寺尾専務や木村
常務にまかせていたが、名取翁は理事長として80才の老軀をひっさげて、一日も欠かさずに事務所に顔を出し
ていた。
毎朝10時にきまって出勤した。和服の着流しにステッキを手にして、ニコニコ笑いなが ら入ってきた。そ
して理事長の椅子に腰を下すと、じっと黙ってみんなの執務ぶりをなが めていた。何ひとつ言わなかったが、
名取理事長がいるだけで所内がかちんと引きしまり、千金の重みが感じられた。正午になると家へ帰ったが一
日のしめく くりは寺尾専務が毎日、 帰えりに名取家へ寄って報告していた。ていねいに数字に目をとおし、こ
まかく指示を与 えていたということである。
名取理事長の給与は、はじめ月額3万円ときめられたが、名取翁は事務員の手当か低いからその方へ回わし
てくれといって、受取らなかった。しかし組合としてはそういうこと もできず、名取翁名儀の預金通帳に入れ
ておいた。そして特別の交際費に出していた。実 際には給与は辞退していたことにはならないが、無給で働ら
いていたのであった。事務員 はみんな感激して、労をおしまずに、一心一体となって働らいていた。
名取理事長の誕生日に、女子事務員一同が赤いずきんを作って、お祝いに贈ったことが あった。翁は目を細
くして喜び、女子事務員のひとりひとりに握手して、ありがとう、あ りがとうと、礼をいった。そして「赤い
ずきんもいいが、私には赤いベレエの方が似合う かもしれない。来年はベレエにして下さいよといいながら
も、ご満悦だった。当時、常務 理事だった稲葉武衛氏の思い出話である。
名取翁は、晩年の熱情を沼津信用金庫のために注いだ。沼津信用金庵のためということは、沼津市の中小企業
や商店街のためにつくしたのである。沼津市の戦災復興は、まこと にめざましかった、全国戦災都市中の第一
位であったといわれるのも、商店街のいち早い 立ち上がりによったものである。商店街に糧を送り、中小企業
に輸血をはかった、沼津信 用金庫の力が大きかったといってよいであろう。
名取栄一の名は、沼津市商店街の大恩人として後世に大きく、長く伝えられなければならない。
(名取栄一翁小伝昭和56年11月5日発行発行栄会編者高村実露木豊)
<4>
さんさん学習フェスティバルプレゼン部(市民文化センター)
2019年11月16日(土) プレゼン者 長谷川 徹(沼津史談会会員)
理事長 名取栄一氏 設立当時の沼津信用金庫(沼津商工会議所内)
〔参考〕 信用組合・信用金庫/関係法令の制定と歴史
◇明治33年9月 産業組合法の成立
明治33年9月、金融の円滑を目的として「産業組合法」が制定され、この法律による「信用組合」が誕生し
ました。
しかし、この法律では会員(組合員)以外からの預金が認められないなどの制約がありました。
◇大正6年7月 市街地信用組合が誕生
大正6年7月、産業組合法の一部改正が成立し、金融事業だけを行う信用組合を対象に市街地信用組合制度
が発足し「市街地信用組合」が誕生しました。
これにより組合員以外からの預金の受入れや組合員のための手形の割引を取り扱うことができるようにな
り、都市部に多数存在する中小商工業者の金融難の緩和がはかられました。
◇昭和18年4月 市街地信用組合法の施行
産業信用組合は農村部を主体とする事業の拡充を図るものであったため都市部の中小商工業者との間で対
立が表面化するという矛盾が生じました。そこで市街地信用組合は産業信用組合からの独立を強く意識する
ようになりました。 昭和18年4月、産業組合法から独立した法制度として市街地信用組合法が施行され、従
来の市街地信用組合は新法に基づく「市街地信用組合」となりました。
◇昭和24年7月 中小企業等協同組合法
昭和24年7月、GHQによる占領下という特殊事情のもと、中小企業等協同組合法が施行されましたが、この
法律では他業態の組合と統合された法制度となり、それまでの市街地信用組合への制約を強化するなど後退
したものとなってしまいました。そこで協同組織による中小商工業者や勤労者のための新たな金融機関の設
立が要望されるようになりました。
◇昭和26年6月 信用金庫法
昭和26年6月、信用金庫法が施行され、会員(組合員)以外からの預金や手形割引ができる「信用金庫」が
誕生しました。また、他業態の信用組合とは名称でも明確に区別されることとなりました。
これによって当時の旧市街地信用組合のほとんどが信用金庫へと改組しました。
◇信用金庫の名称の由来
新機関の名称をどうするかについて、当時様々な名称が検討されました。信用銀行、中小企業銀行、組合
銀行などが検討されましたが、結局政府系金融機関などの一部で使われていた「金庫」に決定し、「信用金
庫」という新名称となりました。 <参考:全国信用組合連合会HP>

More Related Content

More from 徹 長谷川

2021hannsyarosetumeikai
2021hannsyarosetumeikai2021hannsyarosetumeikai
2021hannsyarosetumeikai徹 長谷川
 
210609koutaigoukifusya min
210609koutaigoukifusya min210609koutaigoukifusya min
210609koutaigoukifusya min徹 長谷川
 
20210328tisakinoryou
20210328tisakinoryou20210328tisakinoryou
20210328tisakinoryou徹 長谷川
 
Kamakurakinumadunenhyou
KamakurakinumadunenhyouKamakurakinumadunenhyou
Kamakurakinumadunenhyou徹 長谷川
 
Kamakuranumadunennpu
KamakuranumadunennpuKamakuranumadunennpu
Kamakuranumadunennpu徹 長谷川
 
20210125nsgcompressed
20210125nsgcompressed20210125nsgcompressed
20210125nsgcompressed徹 長谷川
 
202101minrekisikouza
202101minrekisikouza202101minrekisikouza
202101minrekisikouza徹 長谷川
 
201230meiji 2365yukennsyarisut min
201230meiji 2365yukennsyarisut min201230meiji 2365yukennsyarisut min
201230meiji 2365yukennsyarisut min徹 長谷川
 
201215yatabonkyuunumadusidan
201215yatabonkyuunumadusidan201215yatabonkyuunumadusidan
201215yatabonkyuunumadusidan徹 長谷川
 
201120tintindensyaomoide
201120tintindensyaomoide201120tintindensyaomoide
201120tintindensyaomoide徹 長谷川
 
Numaduhirakimonogatari
NumaduhirakimonogatariNumaduhirakimonogatari
Numaduhirakimonogatari徹 長谷川
 
Kyuusekkikoukaiidemaruyama
KyuusekkikoukaiidemaruyamaKyuusekkikoukaiidemaruyama
Kyuusekkikoukaiidemaruyama徹 長谷川
 

More from 徹 長谷川 (20)

2021hannsyarosetumeikai
2021hannsyarosetumeikai2021hannsyarosetumeikai
2021hannsyarosetumeikai
 
210609koutaigoukifusya min
210609koutaigoukifusya min210609koutaigoukifusya min
210609koutaigoukifusya min
 
Shidankai210515
Shidankai210515Shidankai210515
Shidankai210515
 
20210328tisakinoryou
20210328tisakinoryou20210328tisakinoryou
20210328tisakinoryou
 
Kamakurakinumadunenhyou
KamakurakinumadunenhyouKamakurakinumadunenhyou
Kamakurakinumadunenhyou
 
Hosakaidosiryou
HosakaidosiryouHosakaidosiryou
Hosakaidosiryou
 
Kamakuranumadunennpu
KamakuranumadunennpuKamakuranumadunennpu
Kamakuranumadunennpu
 
20210125nsgcompressed
20210125nsgcompressed20210125nsgcompressed
20210125nsgcompressed
 
202101minrekisikouza
202101minrekisikouza202101minrekisikouza
202101minrekisikouza
 
201230meiji 2365yukennsyarisut min
201230meiji 2365yukennsyarisut min201230meiji 2365yukennsyarisut min
201230meiji 2365yukennsyarisut min
 
20201217jihou201
20201217jihou20120201217jihou201
20201217jihou201
 
201215yatabonkyuunumadusidan
201215yatabonkyuunumadusidan201215yatabonkyuunumadusidan
201215yatabonkyuunumadusidan
 
201120tintindensyaomoide
201120tintindensyaomoide201120tintindensyaomoide
201120tintindensyaomoide
 
Numaduhirakimonogatari
NumaduhirakimonogatariNumaduhirakimonogatari
Numaduhirakimonogatari
 
Sasebosisatu tom
Sasebosisatu tomSasebosisatu tom
Sasebosisatu tom
 
Furusatotuusin6
Furusatotuusin6Furusatotuusin6
Furusatotuusin6
 
202009yomodaiiti
202009yomodaiiti202009yomodaiiti
202009yomodaiiti
 
20200920jihou200
20200920jihou20020200920jihou200
20200920jihou200
 
Kyuusekkikoukaiidemaruyama
KyuusekkikoukaiidemaruyamaKyuusekkikoukaiidemaruyama
Kyuusekkikoukaiidemaruyama
 
Kouko2501
Kouko2501Kouko2501
Kouko2501
 

Yugensekininnumadusinyoukumiai

  • 1. <1> 有限責任沼津信用組合(大正八年)から 沼津信用金庫設立(昭和二十六年)までの経緯 ~高田長太郎から名取栄一へ~ 概 観 信用金庫の生い立ち―明治維新を契機として資本の集中が激化し、農民や中小商工業者が貧窮に陥ったことか ら、経済的弱者に金融の円滑を図ることを目的に、1900年(明治33年)に産業組合法が制定され、同法による信 用組合が誕生しました。ところが、この信用組合は会員以外からの預金が認められないなど、都市部の中小商工 業者にとっては制約が多いものでした。そのため、1917年(大正6年)に産業組合法が一部改正され市街地信用組 合が生まれました。 そして、1943年(昭和18年)には単独法の市街地信用組合法が制定されました。 次いで、終戦後の経済民主化の中で、1949年(昭和24年)には中小企業等協同組合法が制定されましたが、同 法は比較的着実に進展してきたそれまでの市街地信用組合への制約を再び強くするものであったことから、業界 の内外から協同組織による中小企業者や勤労者のための金融機関の設立を望む声が高くなってきました。こうし て1951年(昭和26年)6月15日に信用金庫法が公布・施行され、会員外の預金を扱え、手形割引もできる"信用金 庫"が誕生したのです。 <4頁/〔参考〕信用組合・信用金庫/関係法令の制定と歴史 参照> 証券には 「日本帝國産業組合ノ父・子爵品川彌二郎」並びに写真が掲げられている。右の囲みに「産業組合 は中産以下の人民のために金融の便を開いて低利に資本を使用することを得せしめ兼ねて勤倹自助の精神を興し 以て地方の寛力を養成せんとするの目的でございます 子爵 品川彌二郎」と表記されています。 左の囲みには「産業組合ハ精神上ノ共同團結、物質上ノ共同幇助ヲ以テ成立スベキモノデ、其目的ハ第一ニ國 民ノ徳風ヲ養成シ、第二ニ、國民ノ富力ヲ増進シ、第三ニ、地方ノ自治ヲ扶翼スルニアル 子爵 平田東助」と記載 されています。 大正8年創立の有限責任沼津信用組合ですが、大正6年に明治からの産業組合法が一部改正され市街地信用組合 が生まれる、其の生まれたばかり施策の元、有限責任沼津信用組合が創立されたと考えられます。 昭和5年頃の出資払込書の時代は町から市(大正12年)になっていて、沼津市を記載したのでしょう、沼津は大 正15年の大火で市街地は全焼して、書類も焼失したのでしょう、他の事でも、昭和5年の復興事業で(香貫の現 在地の市役所もこの時竣工)市街地インフラが完成した。大火後の出資証券は大正時代より簡素なものになった のではないでしょうか。 大正八年有限責任沼津信用組合出資證券原本 昭和五年有限責任沼津信用組合出資金払込證書 尚、沼津信用組合理事長高田長太郎氏は昭和15年他界されていたので、戦時下の時代、地方の金融状況は統制 政策(地方銀行統制令)のため昭和20年2月16日沼津市信用組合(当時 組合長 森田豊寿)は解散している。 上記の證券原本・出資金払込證書は、令和元年7月16日、高田好彦氏宅にて拝見した設立当初の貴重な史料 である。有限責任沼津信用組合の設立時の組合長理事 高田長太郎氏 は好彦氏の祖父である。 <長谷川 徹>
  • 2. <2> 〇高田長太郎と名取栄一の交わり 戦後、昭和26年4月3日、沼津商工会議所で名取栄一氏が 創立した沼津信用組合の理事に勝亦干城氏がいる。勝亦干城 と高田長太郎氏との関係は、魚町仲町にあった、沼津魚市場 会社(高田長太郎經営)を宮町の沼津魚市場会社(勝亦干城 經営)に譲渡している。高田長太郎氏、名取栄一氏、勝亦干 城とは實業會での交流は強いもがあったことがうかがえる。 高田長太郎氏は他の同じ世代の二名より早く死亡しました ので、戦後の實業・政治の世界では登場していない。 沼津信用組合の解散 事業譲渡解散公告 本組合ハ昭和二十年二月十四日開催ノ組合員総会ニ於 テ事業全部ヲ株式会社駿河銀行 ニ譲渡シ解散スルコトニ 決議候ニ付右二対シ異議アル債権者ハ本公告掲載ノ日ヨ リーケ 月内ニ其ノ旨申出相成度市街地信用組合法ノ規定 ニヨリ公告候也 昭和二十年二月十六日 沼津市大手町一六九番地ノー 沼津信用組合組合長 森田豊寿 昭和20年2月時沼津信用金庫本店 沼津信用組合解散理由書 今ヤ戦局ノ現段階ハ国内態勢ノ整備強化ヲ要求シ各種企業並ニ諸団体諸社会ノ強カナ ル統合ヲ要望シ且ツ各種機 関ヲシテ戦力増強ノー点ニ凝集スべキノ秋、之レガ生産力増 強ノ原動カタル金融部門ノ整備統合ノ必然性ハ今更申シ 上グル迄モナイノデアリマス。 即チ今日ノ金融機関ハ何レモ貯蓄ノ増強ト戦力資金ノ調達(国債ノ消化)以外ニ其ノ使命 ハナイノデアリマス。 従ヒマシテ所謂地方銀行相互間或ハ市街地信用組合トノ対立ヲ許サズ、当然渾然一体 トナリ、其ノ総力ヲ結 集シ以テ地方金融ノ統制ヲ益々強化拡充シ、従来ノ各機関ノ長所 ヲ発揮シ真ニ金融報国ノ使命ニ邁進スべキ モノト存ズルノデアリマス。殊ニ市街地信用 組合ノ如キ行政区域ニ限定セラルル地域的金融機関ハ家族的郷 土的長所ヲ有スルトハ言 へ、現在ノ如キ空襲下ニ於テハ集団的地域的ナル市街地信用,組合事業ハ非常災害ヲ モ考 慮セネバナリマセン。時偶々昨年十二月十六日官報並ニ報道ヲ以テ大蔵省令トシテ『市 街地信用組合事 業ヲ貯蓄ヲ営ム銀行即チ地方銀行ニ譲渡スルコトヲ得』トノ方途ガ講ゼ ラルルニ至ツタ事ハ市街地信用組合 ニ対スル大蔵省ノ親心デアルト信ズル次第デアリマ ス。 此ノ発表ヲ知ルヤ、駿河銀行ヨリ逸速ク本組合ニ対シ譲渡方ノ懇請ガアッタノデアリ マス。勿論駿河銀行ト シテハ、本市ニ強力ナル地盤ヲ有シ且ツ他ノ金融機関二見ザル下 部組織ヲ有スル本組合機構ノ将来性ヲ嘱望 シ、之レトー体化シ名実共ニ沼津市ニ於ケル 本店銀行タルノ地位ヲ確保セントノ意図ニ外ナラヌノデアリマ ス。而シテ本組合トシテ 組合員ノ状態並ニ店舗分布状況ヨリスルモ駿河銀行ニ譲渡スルコトガ最モ妥当ナリ ト考 へ、茲ニ於テ県並ニ大蔵省ニ対シ解散後ニ於ケル市民ノ利便ヲ考慮シ現在ノ組合本支所 ハ其儘銀行ノ支 店トシテ存続スルコトノ了解ヲ得タノデアリマス。 思へバ昭和五年四月、本組合ヲ設立シテ茲ニ満十五年、我ガ国財界ノ最モ不況ナリシ 当初ヨリ経済界ノ怒濤 ニ棹シ幾多ノ苦難ヲ乗越へ、組合員各位ト共ニ本組合事業ノ伸展 育成ニ全力ヲ傾注シ、市民大衆ノ産業経済 ノ向上進展ニ寄与シ且ツ共栄親和相互扶助ノ 組合精神ノ昂揚ニ渾身ノ努力ヲ払ヒ、遂ニ今日全国屈指ノ優良 組合トシテ_他共ニ認ム ルニ至リ貯金額ニ千万円ヲ超過スルニ至リ将来益々其ノ伸展ヲ約束セラルル現状ヨリ シ テハ畢竟宴ニ忍ビザルモノデアリマスガ、今ヤ戦局ハ躊躇浚巡ヲ許サズ大乗的見地ヨリ シテ国家ノ施策ニ 順応シ、組合員各位ト多年練成セル共栄親和ノ組合精神ト栄アル大衆 的下部機構ヲ有スル本組合事業ヲ勇敢 ニ譲渡シ、茲ニ発展的解散ヲナシ以テ譲渡先タル 銀行業務ニ対シ其ノ機構卜精神ヲ注入滲透セシメ、真ニ地 力金融機関トシテノ公益性ヲ 徹底セシムルノ推進力トナルニ於テハ此ノ際私情ヲ滅シ奉公ノ至誠ヲ示スノ好 機ナリト 信ジ此ノ挙ニ出デタル次第デアリマス。 昭和二十年二月 沼津信用組合 組合長森田豊寿 (駿河銀行70周年史795頁) 名取栄一氏(58歳)は、昭和5年、有限責任沼津市信用組合の理事長に就任する。戦争中、政府の金融統制政策 (地方銀行統制会)のため有限責任沼津信用組合(当時理事長は森田豊寿)は、昭和20年3月1日駿河銀行と合併し た。そこで、名取栄一氏は、昭和25年に新たに沼津信用組合を創立し組合長に当選する。 昭和26年制定の信用金庫法により沼津信用金庫と改称、初代の理事長に就任する。
  • 3. <3> 〇沼津信用金庫の設立 ・昭和25年4月3日沼津信用組合設立(昭和26年沼津信用金庫に改組) ・組合長名取栄一•出資者1109人•出資金4, 464, 600円 昭和2 0年の8月15日に戦争は終わったものの、市街地は焼野原と化してしまった。 市民は家を焼かれ財 を失なって、茫然自失した。農•漁民や俸給生活者はとにかく、一番困まったのは、中小企業、商店街の人た ちであった。 復興に先立つものは金であった。バラックの借店舗は何とか建てたが、商品を仕入れる資金を簡単に貸して くれるところがなかった。 名取翁は、沼津市の戦災復興のためには、何よりもさきにこの中小企業者たちを再起させる金融機関をつく らなければならないと考えた。 岡田吾市、勝亦干城、竹内鉄次郎、寺尾利平、木村清太郎、諷訪健次郎、塩谷六太郎、植松与三郎、杉山金 次郎、宇野秀吉氏等と相談して、中小企業等協同組合法による沼津信 用組合の創設にとりかかった。 名取翁が発起人代表となり、当時の商工会議所議員が発起人となって、昭和25年4月3日に沼津商工会議所 ホールで創立総会をひらいた。組合長に名取栄一が満場一致で推され、専務理事に寺尾利平、常務理事に木村 清太郎、理事に岡田吾市、竹内鉄次郎、杉山金次郎、増田慶三、諷訪健次郎、西山倉吉、渡辺好郎、石橋治郎 八、塩谷六太郎、勝亦干城、植松与三郎、小池直次郎、鈴木万吉、宇野秀吉、杉山猪作、山田長次郎、山本 清、金 子一六、渡辺唯吉、矢田唯雄、後藤寿雄、監事に佐錄英一、大古田金太郎、柴田正、植松 興作、小川藤 太郎の諸氏が選出された。そして同年4月20日から、商工会議所階下の一部を利用して業務を開始した。出資 者は1009人、出資額は446万4,600円であった。 昭和26年12月10日には、信用金庫法によって沼津信用金庫と改称され、名取翁は引きつづき理事長として 陣頭指揮に当ったが、創立当初は日銭のはいる魚市場や青果市場、西浦等の農業糸且合に協力を求めて預金し てもらい、その金を中小企業や商店に低利で貸出した。担保などは、ほとんど取らなかったそうである。 これは名取翁の発想と断によるもので、担保を入れれば銀行で貸してくれるが、戦災でいためつけられた中 小企業者や商店にとっては、入れるべき担保がない時代であったから だ。名取理事長は、物よりも人間を信用 して、融資した。3万、5万という小口であった が、それを資金にして商品を仕入れ、店をひろげていくこと ができたのであった。 「事業場が事業をするのではない。人間が事業をするのだ」といっていた名取翁は、何よりも人間に重点を おいて、人間を尊重した、どんな立派な事業場でも、それを動かしている人間がダメなら信用しなかった。反 対に、どんな小さな貧弱な店でも、そこの主人が 誠実な人だったら、信用していくらでも融資した。 とはいうものの、信用金庫そのものが一つの事業体であり、動かすものが出資者の金や 預金者の尊い金であ る以上、それを経営する最高責任者としての心労は、決して容易ではなかった。業務の一切は寺尾専務や木村 常務にまかせていたが、名取翁は理事長として80才の老軀をひっさげて、一日も欠かさずに事務所に顔を出し ていた。 毎朝10時にきまって出勤した。和服の着流しにステッキを手にして、ニコニコ笑いなが ら入ってきた。そ して理事長の椅子に腰を下すと、じっと黙ってみんなの執務ぶりをなが めていた。何ひとつ言わなかったが、 名取理事長がいるだけで所内がかちんと引きしまり、千金の重みが感じられた。正午になると家へ帰ったが一 日のしめく くりは寺尾専務が毎日、 帰えりに名取家へ寄って報告していた。ていねいに数字に目をとおし、こ まかく指示を与 えていたということである。 名取理事長の給与は、はじめ月額3万円ときめられたが、名取翁は事務員の手当か低いからその方へ回わし てくれといって、受取らなかった。しかし組合としてはそういうこと もできず、名取翁名儀の預金通帳に入れ ておいた。そして特別の交際費に出していた。実 際には給与は辞退していたことにはならないが、無給で働ら いていたのであった。事務員 はみんな感激して、労をおしまずに、一心一体となって働らいていた。 名取理事長の誕生日に、女子事務員一同が赤いずきんを作って、お祝いに贈ったことが あった。翁は目を細 くして喜び、女子事務員のひとりひとりに握手して、ありがとう、あ りがとうと、礼をいった。そして「赤い ずきんもいいが、私には赤いベレエの方が似合う かもしれない。来年はベレエにして下さいよといいながら も、ご満悦だった。当時、常務 理事だった稲葉武衛氏の思い出話である。 名取翁は、晩年の熱情を沼津信用金庫のために注いだ。沼津信用金庵のためということは、沼津市の中小企業 や商店街のためにつくしたのである。沼津市の戦災復興は、まこと にめざましかった、全国戦災都市中の第一 位であったといわれるのも、商店街のいち早い 立ち上がりによったものである。商店街に糧を送り、中小企業 に輸血をはかった、沼津信 用金庫の力が大きかったといってよいであろう。 名取栄一の名は、沼津市商店街の大恩人として後世に大きく、長く伝えられなければならない。 (名取栄一翁小伝昭和56年11月5日発行発行栄会編者高村実露木豊)
  • 4. <4> さんさん学習フェスティバルプレゼン部(市民文化センター) 2019年11月16日(土) プレゼン者 長谷川 徹(沼津史談会会員) 理事長 名取栄一氏 設立当時の沼津信用金庫(沼津商工会議所内) 〔参考〕 信用組合・信用金庫/関係法令の制定と歴史 ◇明治33年9月 産業組合法の成立 明治33年9月、金融の円滑を目的として「産業組合法」が制定され、この法律による「信用組合」が誕生し ました。 しかし、この法律では会員(組合員)以外からの預金が認められないなどの制約がありました。 ◇大正6年7月 市街地信用組合が誕生 大正6年7月、産業組合法の一部改正が成立し、金融事業だけを行う信用組合を対象に市街地信用組合制度 が発足し「市街地信用組合」が誕生しました。 これにより組合員以外からの預金の受入れや組合員のための手形の割引を取り扱うことができるようにな り、都市部に多数存在する中小商工業者の金融難の緩和がはかられました。 ◇昭和18年4月 市街地信用組合法の施行 産業信用組合は農村部を主体とする事業の拡充を図るものであったため都市部の中小商工業者との間で対 立が表面化するという矛盾が生じました。そこで市街地信用組合は産業信用組合からの独立を強く意識する ようになりました。 昭和18年4月、産業組合法から独立した法制度として市街地信用組合法が施行され、従 来の市街地信用組合は新法に基づく「市街地信用組合」となりました。 ◇昭和24年7月 中小企業等協同組合法 昭和24年7月、GHQによる占領下という特殊事情のもと、中小企業等協同組合法が施行されましたが、この 法律では他業態の組合と統合された法制度となり、それまでの市街地信用組合への制約を強化するなど後退 したものとなってしまいました。そこで協同組織による中小商工業者や勤労者のための新たな金融機関の設 立が要望されるようになりました。 ◇昭和26年6月 信用金庫法 昭和26年6月、信用金庫法が施行され、会員(組合員)以外からの預金や手形割引ができる「信用金庫」が 誕生しました。また、他業態の信用組合とは名称でも明確に区別されることとなりました。 これによって当時の旧市街地信用組合のほとんどが信用金庫へと改組しました。 ◇信用金庫の名称の由来 新機関の名称をどうするかについて、当時様々な名称が検討されました。信用銀行、中小企業銀行、組合 銀行などが検討されましたが、結局政府系金融機関などの一部で使われていた「金庫」に決定し、「信用金 庫」という新名称となりました。 <参考:全国信用組合連合会HP>