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静岡県で最初に蒸気機関車が走った蛇松線の歴史
2017,7,1 山梨孝夫(国鉄沼津機関区 100 年史編纂委員長)
我が国最初の鉄道は、明治 5 年 10 月 14 日に新橋・横浜間に開業しました。
明治政府は引き続き東京と京都・大阪間を結ぶ鉄道として、中山道を経由する鉄道の建
設を進めましたが、明治 19 年 7 月 19 日に東海道経由に変更する決定が公布されました。
この決定を受けて東海道鉄道の工事でもっとも困難が予想された「箱根越え」の工事拠点
として沼津が選ばれました。
明治 19 年 12 月 1 日沼津機関庫が設置され、翌 20 年に後の蛇松線となる狩野川河口から
沼津に至る延長 2,7km の資材運搬線が建設されました。
海上輸送されてきた 5 号機関車は資材運搬線を経由して機関庫で組み立てられ、明治 20
年 3 月 17 日に試運転が行われました。従って沼津は静岡県で最初に蒸気機関車が走った街
ということになります。
今日はこの蛇松線の歴史についてお話します。
蛇松線が建設された当時のことを示す資料として、逓信省公文書に蛇松線の営業を求め
て、明治 31 年 12 月 10 日に地元岳陽運送株式会社社長、真野佐右衛門外 11 名から「蛇松
よりの仮線路をして営業線として使用したい」と請願した文書があります。その中で「旧
きに鉄道開始に当たり用材運輸の為造設せられたる字蛇松より本線へ連絡を通ぜられたる
鉄道の存在するあり」と述べ、さらにこの請願を受けた鉄道局側の上申文書には「蛇松線
は沼津停車場より分岐し同町の南方を迂回し駿河湾を去る数町狩野川に接したる字蛇松に
至り終る延長一哩四十五鎖の線路なり本線路は専ら建築用として使用せられ」と述べてい
ます。この請願・上申の結果、明治 32 年(1899)6 月 15 日から蛇松線の貨物の運輸営業が開
始されましたが、これらの文書が蛇松線建設当時の状況を間接的に示しています。
又、「静岡大務新聞」は明治 20 年当時のようすを次のように伝えています。
2 月 16 日鉄道工事沼津駅の部分の模様を聞くに、同所物揚場なる狩野川下流の蛇松河岸
より城内町の北裏なる停車場までの仮線路、及び同停車場より木瀬川筋の本線路は巳にレ
ールを敷き終り木瀬川架橋工事最中なり。(同川の工事は東海道の木瀬川橋より凡そ十余町
の上流に位す)停車場の建築も去る十日頃より棟上げに着手したるが、三四軒の官宅は巳に
落成し蓮光寺内に設置ありし鉄道事務所は同官宅へ引移されて事務を取扱い居る由。又停
車場へ通ずる一等往還は、上土町通り警察署を取り払い治安裁判所測候所等を右に、郡役
所旧中学校を左に見て、旧城の土手及び堀を平いらにして一直線に為すとの事なるが、同
停車場の近傍の田畑を宅地になす見込にて、売買を為す者あるが其値段は一坪壱円より壱
円七八十銭なりという。
2 月 18 日四五日前江の浦より沼津停車場へ機関車数両到着せしにつき、今明日頃より鉄
道用材の運搬を始むるとか。又同停車場は間口十二間奥行四間にて前後へ葺きおろす見込
みなりと云う。
3 月 1 日沼津停車場へ機関車数両取寄せられし由は前日の紙上に掲げしが、咋今近村より
見物人をなす程にて停車場最寄りへ露店二三軒を張り飴菓子売る者あり。又同機関車にて
用材を運搬するは両三日のうちなるべしとの事なり。汽笛一声沼津市中一万の夢を覚ます
は愉快なる次第なり。
4 月 1 日東海道鉄道線路の小田原以西は是迄模様替えありしが、いよいよ確定したる所を
聞くに、先ず駿東郡竹の下村へつなぎ、これより佐野村を経て沼津駅旧城脇なる七反田村
へつなぎ、同駅と原駅の間は三本松村まで往来の北側を通り、同村より往来を横切り海岸
を植田新田迄(此問三十町程)行き、~以下略 前略~機関車の同地へ着せざる前は人足等に
儘々怪我ありしが、先頃該車の到着し字蛇松より木瀬川の上なる字川下迄一里余の所へ鉄
道を布設し、工事用の諸物を運搬せるようになり大いに便利となりたり。等と述べていま
す。これらのことから、蛇松線が明治 20 年に建設され、建設資材の運搬に重要な役割を果
たしたこと、また当時の沼津町民の様子等も判ります。
建設工事には大いに利用された蛇松線ですが、工事が一段落すると殆んど使用されなく
なり放置されていたと想像できます。この状況を見て明治 31 年に岳陽運送株式会社長、真
野佐右衛門らが「蛇松よりの仮線路をして営業線として使用したい」と請願した結果、明
治 32 年(1899)6 月 15 日から蛇松線の貨物の運輸営業が開始されたわけです。
こうして開業した蛇松線は、東海道線と西伊豆方面との貨物中継の役割を担い、沼津と
西伊豆各地の経済発展に大きく貢献しました。
沼津港は狩野川河口から上流にかけて川岸を利用した港でしたが、土砂の堆積等で水深
が浅くなる等の問題があり、昭和 8 年から右岸に新港の建設が始まり、昭和 13 年に完成し
ました。蛇松線は戦後の昭和 21 年 11 月 3 日に新港へ通じる 690 ㍍の分岐線を新設しここ
に沼津港駅を開設し、線名も沼津港線と改称しました。新線が開通してからの旧線は分岐
点近くは入れ換え用に使用されていましたが、終点方面は殆んど使用されなくなりました。
開通当時は町域の西はずれを迂回するようにして建設された蛇松線でしたが、沼津市が
発展するに従って、いつの間にか住宅街を縦断するようになってしまい、昭和 43 年の線路
図で見ると 21 もの踏切ができていました。列車の運行回数が少なかったので、踏切で列車
と行きあうことも滅多にないため通行する側にも警戒心が無く、人や車との接触事故も多
くありました。旧国道一号線の踏切は、列車が一旦停車して誘導掛が自動車を停止させる
手配をしてから通過していましたが、昭和 37 年 9 月 28 日に交通信号機が設置され通過自
動車を停止させるようになりました。
戦後の一定期間は引き続き西伊豆方面との貨物中継の役割を担っていましたが、昭和 40
年代以降の自動車の普及と道路網の整備により、鉄道貨物の役割が低下し昭和 49 年 8 月 31
日を以て営業を廃止しました。
廃止後の蛇松線の跡地は沼津市に払い下げられ、開通当時の終点に至る線路跡は全線が
蛇松緑道として整備され、旧国道一号線との交差部分には吊り橋状の横断歩道橋が設置さ
れました。終点付近には車輪や模型の SL が展示されています。昭和 21 年に開通した新港
へ通じる分岐線の跡地は殆んど道路となってしまい残っていませんが、港近くの歩道の一
部にはレールが残っているところがあります。
ここで蛇松線を走った機関車についてお話しします。
蛇松線に始めて登場した機関車は 5 号機関車です。5 号機関車は、7 号機関車と共にイギ
リス、エボンサイト・エンジン社 1871 年製の機関車で、新橋・横浜間開業時に輸入された
10 両の機関車のうちの 1 両でした。
全長 7797 ㎜車軸配置 1B、動輪直径 1219 ㎜、重量 24.58t 最初は 6 号機関車と名乗って
いましたが、神戸・大阪間開通を機に番号の整理をおこない明治 9 年(1876)5 号と改番され
ました。
この機関車は開業当時に新橋・横浜問で使用された後、明治 18 年(1885)春、日本鉄道に
転用され、中田・宇都宮間の工事列車に使用されましたが、明治 19 年(1886)利根川鉄橋が
開通し、上野・宇都宮間が直通となり工事を終了し返されました。この後、5 号機関車は新
橋工場で煙管の取替えをはじめとした完全修繕を行い、明治 20 年(1887)2 月沼津へ海送さ
れました。
大形船で江ノ浦湾に輸送されてきた 5 号機関車は、バラバラのままハシケに移され、沼
津の通称蛇松に新設された鉄道用材荷揚桟橋まで運ばれ、陸揚げされました。蛇松からは、
2 月に敷設されたばかりの資材運搬用蛇松線を使って、人力で沼津機関庫へ搬入され組立ら
れました。
明治 20 年(1887)3 月 17 日、組立てが完了し、試運転が行なわれ、以降海上輸送されてく
る資材の運搬や工事列車の牽引に従事し、東海道線建設の嚢方として活躍しました。
こうして東海道本線は、明治 22 年(1889)2 月 1 日静岡まで開通し、同年 4。月 16 日、一
番工事が遅れていた静岡・浜松間が開通しますが、この開通式の 5 日前に 5 号機関車が大
事故をおこしています。
明治 22 年(1889)4 月 11 日、静岡県知事の関口隆吉らの一行は、この日名古屋で開催され
る第三師団の招魂祭に出席するため、5 日後に開業予定の東海道線の工事列車を使って名古
屋入りすることになっていました。午前 11 時、静岡停車場を出発した列車は、15 号機関車
を先頭に瀬戸川鉄橋付近で使用する鉄材を積みこんだ貨車に客車を一両連結し、知事らが
乗り込んでいました。現在の静岡市上川原付近のカーブにさしかかった時、前方から 5 号
機関車の牽引する砂利を積んだ工事列車が突進し、そのまま列車は正面衝突しました。こ
の事故によって関口隆吉知事、15 号機関車を運転していた栗田機関方ら 5 名が死亡しまし
た。(静岡県鉄道物語 静岡新聞社)
5 号機関車は工事終了後、再び京浜間にもどり非営業列車に使用されていましたが、明治
34 年(1901)兄弟機の 7 号と共に台湾に送られることになりました。しかし、台湾には 7 号
機関車しか到着しておらず、5 号機関車は行方不明となっています。明治 34 年(1901)10 月
4 日、鉄道用材を積んで神戸港を出た「鶴彦丸」が、五島列島沖を通過中に台風に遭遇し沈
没したという記録が残っており、5 号機関車はこの時海中に没してしまったと思われます。
もう一両の 7 号は無事台湾に到着し、台湾鉄路局 9 号機関車として使用され、現在も台北
の公園に展示保存されています。
明治 32 年に蛇松線の貨物の運輸営業が開始された当時、どのような機関車が使用されて
いたか、はっきりしたことは判りません。一般的には構内入れ替えの機関車が使用されて
いたと考えられますので、各種の資料から明治から大正時代は 1200、1800、1850、2120
等の C タンク機関車が使用されていたと推定できます。
昭和になってからの戦前は 2120、1000、戦後になって 8620、C11 が使用され、昭和 30
年から昭和 43 年まで C50、昭和 42 年から昭和 45 まで C58、昭和 45 から昭和 49 年の営
業廃止までディーゼル機関車の DE11 が使用されていました。
昭和 49 年 8 月 31 日の営業最終日の「さようなら沼津港線」のヘッドマークを付けた記
念列車をけん引したのも DE11 形ディーゼル機関車でした。

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静岡県で最初に蒸気機関車が走った蛇松線の歴史

  • 1. 静岡県で最初に蒸気機関車が走った蛇松線の歴史 2017,7,1 山梨孝夫(国鉄沼津機関区 100 年史編纂委員長) 我が国最初の鉄道は、明治 5 年 10 月 14 日に新橋・横浜間に開業しました。 明治政府は引き続き東京と京都・大阪間を結ぶ鉄道として、中山道を経由する鉄道の建 設を進めましたが、明治 19 年 7 月 19 日に東海道経由に変更する決定が公布されました。 この決定を受けて東海道鉄道の工事でもっとも困難が予想された「箱根越え」の工事拠点 として沼津が選ばれました。 明治 19 年 12 月 1 日沼津機関庫が設置され、翌 20 年に後の蛇松線となる狩野川河口から 沼津に至る延長 2,7km の資材運搬線が建設されました。 海上輸送されてきた 5 号機関車は資材運搬線を経由して機関庫で組み立てられ、明治 20 年 3 月 17 日に試運転が行われました。従って沼津は静岡県で最初に蒸気機関車が走った街 ということになります。 今日はこの蛇松線の歴史についてお話します。 蛇松線が建設された当時のことを示す資料として、逓信省公文書に蛇松線の営業を求め て、明治 31 年 12 月 10 日に地元岳陽運送株式会社社長、真野佐右衛門外 11 名から「蛇松 よりの仮線路をして営業線として使用したい」と請願した文書があります。その中で「旧 きに鉄道開始に当たり用材運輸の為造設せられたる字蛇松より本線へ連絡を通ぜられたる 鉄道の存在するあり」と述べ、さらにこの請願を受けた鉄道局側の上申文書には「蛇松線 は沼津停車場より分岐し同町の南方を迂回し駿河湾を去る数町狩野川に接したる字蛇松に 至り終る延長一哩四十五鎖の線路なり本線路は専ら建築用として使用せられ」と述べてい ます。この請願・上申の結果、明治 32 年(1899)6 月 15 日から蛇松線の貨物の運輸営業が開 始されましたが、これらの文書が蛇松線建設当時の状況を間接的に示しています。 又、「静岡大務新聞」は明治 20 年当時のようすを次のように伝えています。 2 月 16 日鉄道工事沼津駅の部分の模様を聞くに、同所物揚場なる狩野川下流の蛇松河岸 より城内町の北裏なる停車場までの仮線路、及び同停車場より木瀬川筋の本線路は巳にレ ールを敷き終り木瀬川架橋工事最中なり。(同川の工事は東海道の木瀬川橋より凡そ十余町 の上流に位す)停車場の建築も去る十日頃より棟上げに着手したるが、三四軒の官宅は巳に 落成し蓮光寺内に設置ありし鉄道事務所は同官宅へ引移されて事務を取扱い居る由。又停 車場へ通ずる一等往還は、上土町通り警察署を取り払い治安裁判所測候所等を右に、郡役 所旧中学校を左に見て、旧城の土手及び堀を平いらにして一直線に為すとの事なるが、同 停車場の近傍の田畑を宅地になす見込にて、売買を為す者あるが其値段は一坪壱円より壱 円七八十銭なりという。 2 月 18 日四五日前江の浦より沼津停車場へ機関車数両到着せしにつき、今明日頃より鉄 道用材の運搬を始むるとか。又同停車場は間口十二間奥行四間にて前後へ葺きおろす見込 みなりと云う。 3 月 1 日沼津停車場へ機関車数両取寄せられし由は前日の紙上に掲げしが、咋今近村より
  • 2. 見物人をなす程にて停車場最寄りへ露店二三軒を張り飴菓子売る者あり。又同機関車にて 用材を運搬するは両三日のうちなるべしとの事なり。汽笛一声沼津市中一万の夢を覚ます は愉快なる次第なり。 4 月 1 日東海道鉄道線路の小田原以西は是迄模様替えありしが、いよいよ確定したる所を 聞くに、先ず駿東郡竹の下村へつなぎ、これより佐野村を経て沼津駅旧城脇なる七反田村 へつなぎ、同駅と原駅の間は三本松村まで往来の北側を通り、同村より往来を横切り海岸 を植田新田迄(此問三十町程)行き、~以下略 前略~機関車の同地へ着せざる前は人足等に 儘々怪我ありしが、先頃該車の到着し字蛇松より木瀬川の上なる字川下迄一里余の所へ鉄 道を布設し、工事用の諸物を運搬せるようになり大いに便利となりたり。等と述べていま す。これらのことから、蛇松線が明治 20 年に建設され、建設資材の運搬に重要な役割を果 たしたこと、また当時の沼津町民の様子等も判ります。 建設工事には大いに利用された蛇松線ですが、工事が一段落すると殆んど使用されなく なり放置されていたと想像できます。この状況を見て明治 31 年に岳陽運送株式会社長、真 野佐右衛門らが「蛇松よりの仮線路をして営業線として使用したい」と請願した結果、明 治 32 年(1899)6 月 15 日から蛇松線の貨物の運輸営業が開始されたわけです。 こうして開業した蛇松線は、東海道線と西伊豆方面との貨物中継の役割を担い、沼津と 西伊豆各地の経済発展に大きく貢献しました。 沼津港は狩野川河口から上流にかけて川岸を利用した港でしたが、土砂の堆積等で水深 が浅くなる等の問題があり、昭和 8 年から右岸に新港の建設が始まり、昭和 13 年に完成し ました。蛇松線は戦後の昭和 21 年 11 月 3 日に新港へ通じる 690 ㍍の分岐線を新設しここ に沼津港駅を開設し、線名も沼津港線と改称しました。新線が開通してからの旧線は分岐 点近くは入れ換え用に使用されていましたが、終点方面は殆んど使用されなくなりました。 開通当時は町域の西はずれを迂回するようにして建設された蛇松線でしたが、沼津市が 発展するに従って、いつの間にか住宅街を縦断するようになってしまい、昭和 43 年の線路 図で見ると 21 もの踏切ができていました。列車の運行回数が少なかったので、踏切で列車 と行きあうことも滅多にないため通行する側にも警戒心が無く、人や車との接触事故も多 くありました。旧国道一号線の踏切は、列車が一旦停車して誘導掛が自動車を停止させる 手配をしてから通過していましたが、昭和 37 年 9 月 28 日に交通信号機が設置され通過自 動車を停止させるようになりました。 戦後の一定期間は引き続き西伊豆方面との貨物中継の役割を担っていましたが、昭和 40 年代以降の自動車の普及と道路網の整備により、鉄道貨物の役割が低下し昭和 49 年 8 月 31 日を以て営業を廃止しました。 廃止後の蛇松線の跡地は沼津市に払い下げられ、開通当時の終点に至る線路跡は全線が 蛇松緑道として整備され、旧国道一号線との交差部分には吊り橋状の横断歩道橋が設置さ れました。終点付近には車輪や模型の SL が展示されています。昭和 21 年に開通した新港 へ通じる分岐線の跡地は殆んど道路となってしまい残っていませんが、港近くの歩道の一
  • 3. 部にはレールが残っているところがあります。 ここで蛇松線を走った機関車についてお話しします。 蛇松線に始めて登場した機関車は 5 号機関車です。5 号機関車は、7 号機関車と共にイギ リス、エボンサイト・エンジン社 1871 年製の機関車で、新橋・横浜間開業時に輸入された 10 両の機関車のうちの 1 両でした。 全長 7797 ㎜車軸配置 1B、動輪直径 1219 ㎜、重量 24.58t 最初は 6 号機関車と名乗って いましたが、神戸・大阪間開通を機に番号の整理をおこない明治 9 年(1876)5 号と改番され ました。 この機関車は開業当時に新橋・横浜問で使用された後、明治 18 年(1885)春、日本鉄道に 転用され、中田・宇都宮間の工事列車に使用されましたが、明治 19 年(1886)利根川鉄橋が 開通し、上野・宇都宮間が直通となり工事を終了し返されました。この後、5 号機関車は新 橋工場で煙管の取替えをはじめとした完全修繕を行い、明治 20 年(1887)2 月沼津へ海送さ れました。 大形船で江ノ浦湾に輸送されてきた 5 号機関車は、バラバラのままハシケに移され、沼 津の通称蛇松に新設された鉄道用材荷揚桟橋まで運ばれ、陸揚げされました。蛇松からは、 2 月に敷設されたばかりの資材運搬用蛇松線を使って、人力で沼津機関庫へ搬入され組立ら れました。 明治 20 年(1887)3 月 17 日、組立てが完了し、試運転が行なわれ、以降海上輸送されてく る資材の運搬や工事列車の牽引に従事し、東海道線建設の嚢方として活躍しました。 こうして東海道本線は、明治 22 年(1889)2 月 1 日静岡まで開通し、同年 4。月 16 日、一 番工事が遅れていた静岡・浜松間が開通しますが、この開通式の 5 日前に 5 号機関車が大 事故をおこしています。 明治 22 年(1889)4 月 11 日、静岡県知事の関口隆吉らの一行は、この日名古屋で開催され る第三師団の招魂祭に出席するため、5 日後に開業予定の東海道線の工事列車を使って名古 屋入りすることになっていました。午前 11 時、静岡停車場を出発した列車は、15 号機関車 を先頭に瀬戸川鉄橋付近で使用する鉄材を積みこんだ貨車に客車を一両連結し、知事らが 乗り込んでいました。現在の静岡市上川原付近のカーブにさしかかった時、前方から 5 号 機関車の牽引する砂利を積んだ工事列車が突進し、そのまま列車は正面衝突しました。こ の事故によって関口隆吉知事、15 号機関車を運転していた栗田機関方ら 5 名が死亡しまし た。(静岡県鉄道物語 静岡新聞社) 5 号機関車は工事終了後、再び京浜間にもどり非営業列車に使用されていましたが、明治 34 年(1901)兄弟機の 7 号と共に台湾に送られることになりました。しかし、台湾には 7 号 機関車しか到着しておらず、5 号機関車は行方不明となっています。明治 34 年(1901)10 月 4 日、鉄道用材を積んで神戸港を出た「鶴彦丸」が、五島列島沖を通過中に台風に遭遇し沈 没したという記録が残っており、5 号機関車はこの時海中に没してしまったと思われます。 もう一両の 7 号は無事台湾に到着し、台湾鉄路局 9 号機関車として使用され、現在も台北
  • 4. の公園に展示保存されています。 明治 32 年に蛇松線の貨物の運輸営業が開始された当時、どのような機関車が使用されて いたか、はっきりしたことは判りません。一般的には構内入れ替えの機関車が使用されて いたと考えられますので、各種の資料から明治から大正時代は 1200、1800、1850、2120 等の C タンク機関車が使用されていたと推定できます。 昭和になってからの戦前は 2120、1000、戦後になって 8620、C11 が使用され、昭和 30 年から昭和 43 年まで C50、昭和 42 年から昭和 45 まで C58、昭和 45 から昭和 49 年の営 業廃止までディーゼル機関車の DE11 が使用されていました。 昭和 49 年 8 月 31 日の営業最終日の「さようなら沼津港線」のヘッドマークを付けた記 念列車をけん引したのも DE11 形ディーゼル機関車でした。