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代戯館の教師亀里樗翁(ちょおう)
と築山章造
シリーズ 沼津兵学校とその人材 101
明治元年(一八六八)九月に沼津城下の
添地の長屋に開設された代戯館は、移
住早々の旧幕臣子弟を教育するための
仮設学校であり、翌月には閉鎖されたも
のの、その教授や生徒は沼津兵学校附
属小学校へ継承されることとなった。いわ
ば兵学校附属小学校の前身であり、荒筵
を敷いて席を設け、雨戸に墨を塗って黒
板代わりにするといった粗末な設備であ
りながら、四・五名の教員が五・六十人の
生徒に素読・手習・算術を教えた(『沼津
小学沿革史』、『沼津兵学校附属小学校』、
『沼津市誌』下巻)。
代戯館
2
沼津兵学校の教授たちの中には、いまだにその履歴が判明していない人物
がいる。代戯館の教師から附属小学校素読教授方並へと横滑りした亀里樗
翁もその一人であった。『沼津御役人附』といった職員名簿には「樗翁」の名
で掲載されており、その本名(通称)すら従来知られていなかった。今回わずか
ながら彼の前歴がわかったので以下に紹介したい。
頭取西周が書き残した沼津兵学校創立
当初の書類中に、教授を人選するにあ
たってのメモがあり、「小学校手跡教授方
当分出役」として「亀里義之助」の名前が
記されていた(拙稿「西周による沼津兵学
校創立時の記録」『沼津市博物館紀要』
36)。
実際に附属小学校教授に就任した
永井直方・石川東崖らの名前が並
んで記されていることから、義之助
と樗翁が同一人物であることは間
違いないと思われる。西のメモには
「隠居ニ付加俸拾五両 弐拾両」と
もあり、樗翁は隠居してからの号
だったと推測される。
3
樗翁こと亀里義之助は、昌平黌で学び教
えた漢学者だった。文政一一年(一八二
八)に昌平黌学問吟味に甲科で及第した
四名のひとりとして「林大学頭書物方御
用出役弥太郎弟 小貫義之助」という名
があるが(「昌平学科名録(其一)」『江戸』
第三巻第四綴)、それが樗翁である。亀里
姓になる前は小貫姓だったことは、文政
一一年八月に学問所(昌平黌)の世話心
得に採用されて以降の昌平黌の記録
(『昌平坂学問所日記』Ⅰ・Ⅱ)から明らか
で、記事中、天保二年(一八三一)三月ま
では小貫姓、同年八月以降は亀里姓に
変わる。たぶん小貫家から亀里豪の養子
に入ったのであろう。
学問所の世話心得は、生徒の素読
指導にあたるスタッフで、他に世話心
得佐・世話心得取締・世話心得頭取
といった階級があった(倉沢剛「幕末
教育史の研究』一)。昌平黌の日記に
は、文政一二年から天保九年(一八
三八)にかけて生徒の新規入門の
「申込」をたびたび上申していること
が記されているほか、「御座敷講釈
義之助」(天保一二年一月二四日)、
「北楼朝講義之助」(八月一九日)、
「夕講義之助」(八月二九日)、「北楼
朝講義之助」(一三年四月九日)、「御
座敷説書朝義之助」(四月一九日)と
いった具合に、亀里(小貫)義之助の
仕事ぶりが記録されている。天保一
一年七月から一三年(一八四二)まで
は教授方出役をつとめ、納戸番に転
じた(真壁仁『徳川後期の学問と政
治』)。 4
樗翁の兄小貫弥太郎は、御勘定を
つとめた五左衛門の孫、小普請世話
取扱をつとめた五左衛門の子で、文
政四年(一八一二)に父の跡を継ぎ、
天保一四年(一八四三)小普請世話
取扱、弘化四年(一八四七)小十人組、
安政二年(一八五五)新御番という経
歴をたどり、文久三年(一八六三)時
点では七三歳だった。樗翁も明治初
年には高齢だったと思われる。息子
の亀里銕四郎は沼津兵学校附属小
学校附の役職に就いているが、江原
素六率いる撒兵隊の脱走に加わっ
た(第一中隊長差図役頭取「亀里銕
五郎」(拙稿「江原素六の戊辰時脱走
抗戦関係史料」『沼津市博物館紀
要』33、一七頁)と同一人物か。
なお、小貫五左衛門の子で、地誌調
所調方出役並として「新編武蔵風土
記」の編纂に参加した学問所勤番組
頭亀里権左衛門(章)の養子となり、天
保一〇年(一八三九)養父の跡式を継
ぎ、小十人組・御納戸番・同組頭など
をつとめた、高四〇〇俵の「亀里蔵之
助」なる人物がいるが(『江戸幕臣人
名事典』第二巻)、「蔵」は「義」の誤読
であり、これが樗翁のことであろう。
5
樗翁には、「こたひ君の命
蒙らせられてこと国へ舟路
にてゆき玉ひけれは」との
前書きで、江原素六がアメ
リカ視察に旅立つ際に贈っ
た二首が自筆の短冊で残さ
れているので、和歌も得意
だったのだろう。兵学校附
属小学校での同僚の日記
から、樗翁が明治六年(一
八七三)六月二二日に死去
したことが判明する(拙稿
「沼津兵学校附属小学校教
授永井直方の日記」『沼津
市博物館紀要』23)。
6
なお、樗翁とともに代戯館で漢籍を教
えた築山章造(正三郎)は、天保一一
年(一八四〇)西丸御先手組同心仮御
抱入、文久三年二条御城勤番、元治
元年(一八六四)御暇といった経歴をも
ち、明治四年時点で五三歳、一四年
(一八八一)九月三日に没している(築
山確郎「由緒書」他)。安政三年(一八
五六)六月二九日に「御二階稽古」を
願い出たほか、七月一日には「奥六尺
関伝説出席いたし初見致し候」との記
録もあることから(『昌平坂学問所日
記』Ⅲ)、昌平黌で学んだことがわかる。
また、慶応四年(一八六八)一月に実
施された学問吟味の出願者山菅恒(鉢
之丞、後静岡学問所五等教授)は、
嘉永六年(一八五三)一二歳の時に築
山正三郎に入門したという記録がある
ことから(橋本昭彦『江戸幕府試験制
度史の研究』)、弟子を指導する立場に
もあったらしい。
築山は兵学校附属小学校教授に一旦
は就任したものの、西のメモには「七
月十日御免」とあり、すぐに辞職したら
しい。一二月二四日付(明治元年であ
ろう)で西周から「城内学校所」へ出頭
せよとの令状が出されているが、用件
は不明である。息子確郎は生徒になっ
ている。築山家には確郎の顔写真とさ
れるものが残されていたが(拙稿闇地
域史上の沼津兵学校」『沼津市博物館
紀要』10)、写真の古さと被写体の年齢
を勘案すると、写っているは確郎では
なく章造かもしれない。 7
8
築山確郎 一八四七~九六
沼津兵学校附属小学校の前身代戯館
の教官をしていた築山章造(正三郎)の息
子で、旧名を孝之進といった。維新時に
は小筒組差図役下役並であったが、沼津
移住後、沼津兵学校生徒を命ぜられ算
術などを学んだ(もっとも資業生にはなっ
ていない)。廃藩後、前述の永井利三とと
もに原の又進舎に招かれ教員となった。
その後、第一大区副区長(明治十年~)、
駿東郡書記(十二~十五年)などをつとめ、
十五年からは裁判代書業、十六年からは
沼津新聞社員などとして活動した。十八
年(一八五)には、沼津メソジスト教会牧
師橋本睦之から洗礼を受けクリスチャン
になっている。(「沼津市博物館紀要10」
63頁)
参考資料
9
他に代戯館の教師には、漢
籍の石川東崖、洋算の大平俊
章.山内某がいたとされる。兵
学校附属小学校教授になった
石川と兵学校資業生になった
大平については、すでに他の
文献で紹介されているので(拙
著『沼津兵学校の研究』など)、
ここでは繰り返さない。(樋口
雄彦)
(沼津市明治史料館通信通巻
141号 2020年四月発行)
10
地域史上の沼津兵学校―その地元へ
の関与と遺産―樋口雄彦の一章より
11
沼津兵学校附属小学校の入学者
沼津兵学校が基本的に徳川家家臣の子弟にしか入学を許していなかっ
たのに対し、その附属小学校のほうは、「最寄在方町方有志之者は通稽
古御免」というように、一般庶民にも門戸を開放していた。
附属小学校で学んだ生徒は通算で約五百名いたといわれているが、その
内何名が平民身分であったのかは不明である。
現在、山出半次郎の回想や大野虎雄氏の研究成果が唯一の手掛りであ
るが、それも断片的なものでしかないと思われる。
以下、附属小学校の地元出身生徒について現在判明している人物を紹介
してみたい。
12
間宮喜十郎 一八五〇~九五
沼津宿本陣の長男に生まれた。東間門村の西尾麟角や江戸の林大
学頭に書法や漢学を学び、明治元年には代戯館へ、二年には沼津兵
学校附属小学校に入学した。その時すでに十九歳で、他の生徒より
かなりの年長だったわけだが、彼にとっては、従来学んできた漢学な
どの古典的教育内容とは違った、洋学や洋算などの新しい学問に最
初に接したわけであり、その新鮮な体験は彼が本来持っていた向学
心をさらに煽ったようである。 兵学校廃止後も彼は洋学への向学心
を捨て難く、元静岡藩軍事俗務方頭取川口嘉が小田原で開いた塾に
赴き、洋学や漢学を学び、さらに明治六年(一八七三)には東京へ出て
慶応義塾に入学したのであった。彼が慶応義塾に入学するにあたっ
ての身元保証人は、元沼津兵学校三等教授方間宮信行であった。ま
た、彼が慶応在学中に綴った『留学日誌』からは、東京在住の多くの
旧幕臣・沼津兵学校関係者と交際を続けながら洋学を学んでいる様
子を伺い知ることができる。彼の慶応留学は、沼津兵学校での修学の
延長上にあったといってよいと思う。その後、間宮は勉学の途中で郷
里に呼び戻され、小学校の訓導となり、以後沼津の小学校の校長を
歴任した。教師としての間宮は、漢学を素養とした古いタイプの教師で
あったが、郷土教育の導入や統計資料の教材化など教育に対する新
しい工夫を怠らなかった。
13
井口省吾 一八五五~一九二五
井口省吾は、地元出身の沼津兵学校関係
者中の出世頭であろう。上石田村(現沼津
市大岡)の豪農井口幹一郎の子に生まれ
た彼は、十四歳で兵学校附属小学校に入
学した。その後、一時地元の小学校で教員
をやっていたが、まもなく上京、中村敬宇
の同人社、陸軍士官学校に入学した。軍
人となり、日清・日露戦争では参謀として
活躍し、大正五年(一九一六)には大将に
昇りつめた。
14
瀬川又之助 一八五四~七八
三島の出身で、三島神社前で「魚半」という
料亭を営んでいた旧家に生まれた。親戚の我
入道村後藤家へ出掛けた際、たまたま隣家
に下宿していた兵学校生徒島田三郎にその
非凡さを認められ、附属小学校への入学を勧
められたのだという。卒業後は、やはり地元
の小学校の訓導に招かれたが、明治九年に
は上京して陸軍教導団に入った。しかし、翌
十年(一八七七)の西南戦争に出征し、そこで
受けた傷が原因でわずか二十四歳で亡くなっ
た。非常な秀才だったといわれる。詩人木下
杢太郎は彼の甥にあたる。
15
影山秀樹 一八五七~一九一三
富士郡岩本村(現富士市岩本)の豪農
に生まれた。附属小学校で学んだ後は、
甲州の近藤喜則の蒙軒塾に入門し、さ
らに東京へも遊学した。富士郡の殖産
興業や自由民権運動を強力に推進し、
県会議員や衆議院議員をつとめた。自
由党ー憲政党ー立憲政友会の県内に
おける実力者であった。
16
酒井麟馨 一八四九~九五
大野氏の著書には名前が見られないが、
御子孫の所蔵する彼の履歴書には附属小
学校で学んだことが明記されているという。
それによると、駿東郡今沢村(現沼津市今
沢)の医師酒井恭順の子として生まれた彼
は、幕末には沼津藩士渡辺孝に習字・漢学
を学び、明治二年二月から十二月まで「沼
津旧陸軍小学校にて支那学・西洋算を学」
んだといい、その後は上京して中村敬宇の
同人社等で修学したそうである。帰郷後は、
修成舎(今沢)・有斐館(大諏訪)・集慣舎(下
香貫)・三事舎(原)など、沼津周辺の小学
校の校長や訓導を歴任した。
以上の五名は、沼津兵学校附属小学校の生徒であったことを史料的に裏付けできる人
物である。
(「沼津市博物館紀要10」地域史上の沼津兵学校―その地元への関与と遺産―
樋口雄彦 38頁~40頁 昭和61年3月30日発行)
資料
● 「沼津市明治史料館通信通巻141号 2020年四月発行」
シリーズ沼津兵学校とその人材101 樋口雄彦教授
ご清聴有難う御座いました。
令和2年8月15日(土) 市立図書館 講座室
史談会会員 長谷川徹
17
●「沼津市博物館紀要10」 地域史上の沼津兵学校 地元への関与と遺産
樋口雄彦 昭和61年3月30日発行

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