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旧制沼津高等女学校の正門の移設現存に関わる考察の序論(案 ver.1)
渡邉美和*a 長谷川徹*b 奈良部通彦*c
*a 渡邉美和 WATANABE Yoshikazu 沼津史談会会員 沼津市南本郷町 junowat@hi3.enjoy.ne.jp
*b 長谷川徹 HASEGAWAToru 沼津史談会会員・沼津市上本通り商店街理事 沼津市大手町
*c 奈良部通彦 NARABE Michihiko 沼津史談会会員・沼津のたからマスター 沼津市大手町
§1.はじめに
筆者(渡邉)は本稿で言及する静岡県沼津市の沼津市立第四中学校の卒業生である。その同窓生の間では、同校の正門が旧制の静
岡県立沼津高等女学校(現在の静岡県立沼津西高等学校)の正門を移設したものとの噂があった。この噂は特に広く知れ渡っていた
ものではなく、何かの折りに「そういえば」と話題になる程度のものであった。
沼津市の郷土史の関係から、沼津市下香貫に現存する昭和4 年建設の「行幸橋(みゆきばし)」の現地調査を2018 年5 月20 日に
実施した。その後、橋の建設に関係する昭和5 年の、当時の昭和天皇の静岡県行幸に際しての県資料による詳細な予定の発掘(長谷
川による)を踏まえ、行幸の対象となった沼津市立第四小学校に現存し、当時の「玉座」と伝わる椅子、同校に残された「みゆき廊
下」の名称、更に記念碑などを同校の水上美鈴校長のご厚意で同6 月14 日に見学し記録した。なお、この沼津市立第四小学校は、
昭和3 年4 月1 日に沼津市立第四尋常高等小学校として開校している。同校見学に際して、今でも同校の通用門として使われてい
る旧正門と門袖そして一部の塀が、同校に伝わる建設当時の遺構であることが確認できた。高さはそれほどでもないが、コンクリ
ート洗い出しの主門柱2 本と脇門柱2 本の門構えが、現役で小学生たちを出迎えそして送り出している。脇門柱から塀にのびる門
袖は、規模はささやかながら優雅な曲線を描いていて、恐らくは建設当時のアールヌーボーの様式が取り入れられていると見られ
る。
この堂々とした現在の沼津市立第四小学校の旧正門との再度の出合いは、筆者をして沼津市立第四中学校(以下、「沼津四中」と
略)の旧正門に係わる噂の記憶を呼び起こした。また、「行幸橋」が文化財的価値を有しているのではないかという思いも、史料的
価値の再確認の必要性を喚起した。このような契機から予備調査を進めた段階で、学校建設に関わる外構設備(現代的な言い方では
「エクステリア」)の文化史的側面からの体系的な論及が少ないことにも気づかされた。
本稿では、まず、このような経緯を経て生じた、仮説としての沼津四中の旧正門が静岡県立沼津高等女学校(以下、「沼津高女」
と略)の正門を移設したものとの噂を検証するとともに、学校建築での外構設備としての門の意義としての文化史的側面とその中で
明治時代の沼津高女の正門建築の位置づけを考察する。併せて、学校建築での外構設備の社会史文化史的な試みを行いつつ、可能
ならば文化財的価値への論及や建議を行う。これらは本稿で完結するものではなく、更なる議論や論及を踏まえて、逐次、更新し
て論議したい。なお、筆者は建築史などに関しては素人であり、不適切な用語の使用、筋違いな論及などがあった場合にはご容赦
とともに忌憚のないご指摘を頂きたい。
さて、学校の設備については、これまで、その歴史的制度化や特徴ある建物の形態などについての評価が中心であった。
漢人は静岡県磐田市に残る「見付学校」をモデルとしての分析にあたり、その目的を、「地域に残った貴重な文化資源として、あ
るいは文化遺産、歴史的遺産としての学校建築の保存状況や利活用のあり方を検証するとともに、その建物が建てられた時代の人々
の教育に対する想いや、地域の人々の貢献、そして建築資金の基となったであろう地域の産業の状況社会背景や文化状況を調査し、
詳しく知ることを通して、その時代、その地域における教育あるいは学校が果たした役割や、学校設立の社会的な背景を考察する
ことである。」(*1) とした。「建築資金の基となったであろう地域の産業の状況社会背景や文化状況」に言及していることは卓見で
JR 沼津駅
沼津高女(平町)
沼津東高(上香貫)
現沼津西高
沼津四中
旧楊原村
浅間神社
江間
浮島
戸田
井田
西浦 内浦
金岡
大岡原
大平
静浦
図 1 沼津市の位置と関連地名の分布 (地理院地図を利用し加工)
あり、更なる考証が期待される。惜しむらくは、校舎建築という範囲に限られ、構築物としての外構設備への言及はほとんど為さ
れていない。
このテーマは、郷土史の分野が取扱い易い材料でもあり、そして明治初期の学校の制度や建設は、制度の地域展開や背景ととも
に、沼津でも静岡県でも数多い論及がある。例えば、四方は、明治初期から近現代までの中等教育に関する諸問題を、地域社会の
問題としてその基盤のなかで明らかにするために「沼津市域ないしは静岡県内の教育史に関わる論考」として、沼津を中心とした
近代教育制度を分析、その展開と地域社会を論じている(*2)。だが、構築物としての外構設備への論及はない。同様に、沼津とい
う地で旧江戸幕府の後身である静岡藩が創設した沼津兵学校の軍事史分野からの見直しに伴い、教科書やノート、地域・民衆への
影響、他藩・新政府との関係などを考察し、大著を著した樋口雄彦(*3)も、人材輩出などに迫るものの、構築物に関しては及んで
いない。
施設や建築、そして外構などの構築物紹介については、地域的な博物館などにとっては、視覚的にも格好の材料であり、沼津で
も企画展「沼津の学校はじめて物語」(2017 年 7 月 22 日~9 月 24 日)の開催に合わせた図録(*4)が紹介されている。だが、校舎
についてはともかく、外構設備に関しては図録として集録された写真を除くと、分析まで行われる機会は少ない。一方で、同窓会
活動や学校記念誌での個々の論及は設備の推移について多くの参考資料を与えてくれる。たとえば沼津市立第一小学校の記念誌な
ど(*5)は多くの示唆を提供している。ただ、資料としての位置づけや制約から、思い入れの重視が過ぎる点はあり、その論及の方
法には注意が必要である。この点は、地方郷土史での各論展開に当たっても評価に際しては注意すべきである。沼津に関しては、
例えば筆者(渡邉美和)による「小学校算数教育の発祥の地 沼津」(*6)などがあるが、全国との比較によるその特徴の吟味などは地
方郷土史研究の限界を示されることも多い。また、地方郷土史についてはその公知性に難が大きいことも特徴であり、或いは、知
られていない研究分析も多いかもしれない。
学会や業界の動向としては「図説近代エクステリアの歴史-江戸から東京の門塀・街並み・石材-」(*7)の発刊により大きな展
開があった。これは 2018 年 3 月に日本エクステリア学会の編著により刊行されたもので、現在ではエクステリアと呼ばれている
構築物としての外構設備に焦点を当て、その歴史や文化的背景などの体系化を試みたものだ。特に、本稿で検討している明治時代
の学校建築に関わる「洋風の門構え」について次のように論及がある。
「江戸幕府が倒れて明治維新政府が樹立されると、政府は文明開化を積極的に推し進めた。その現れの一つが政府機関の庁舎、
学校、駅舎など公共建築物の洋風化であった。これらは外国人の眼を意識した新生国家日本の首都である東京の洋風化だったが、
もう一方では、国民に文明開化の進展を目に見える形で示すことであった。
公共建築物の門構えは、その多くは石造あるいは煉瓦造の門柱を4 本立て、鉄製の門扉を取り付けたものであった。これは、江
戸時代の大名や上級旗本の門番所のついた門や長屋のような大きな屋根を持つ建築物とは異なり、門柱や門扉という簡略化された
形態であったが、石や煉瓦といった新しい素材で構成された洋風のデザインだった(筆者注;この直後に図番号が示されているが略
す)。
こうした洋風の門構えは、各国の公使館の門構えとしてつくられていることから、外国の例に倣ったものとも考えられるが、詳
しいことはわかっていない(筆者注;この直後に図番号が示されているが略す)。
いずれにしても、明治とはいえ、いまだに江戸の街並みが続く中に、次々と公共建築物としての洋風の建物とその門構えが現れ
たことは、当時の人々に大きなインパクトを与えたことは確かなことと思われる。そして洋風の門構えとはどのようなものかとい
うことも、また広く知らしめる契機になったのである。」(*8)
いみじくも吐露されているように「こうした洋風の門構えは、各国の公使館の門構えとしてつくられていることから、外国の例
に倣ったものとも考えられるが、詳しいことはわかっていない」が、概略の傾向やその根拠について豊富な図版やその事例を示し
ながら論及し、「(明治)新政府は、様々な公共建築を洋風建築に建て替えていく政策を進めると同時に、皇室や宮家の大邸宅という
住宅においても洋風建築すなわち洋館を建てて行く。」「このため、洋館のある大邸宅といえども、門構えは旧大名家の門構えや、
それに準じた和風の門を踏襲することも多く、必ずしも洋風の門構えであったわけではなかった。そこには和風の門の持つ、江戸
時代から続く格式(ステイタスシンボル)が現れていたからである。」だが、「新たな身分制度の下で、華族や圧倒的な財力を持つ実
業家と、士族、平民との差別化が行われて、門構えにも権威を示すステイタスシンボルが求められたのである。」「次第に洋風の門
写真1 行幸橋高欄親柱 2018.8 撮影 写真2 沼津市立第四小学校の旧正門 2018.6 撮影
構えが増えるなかで、洋風の新しい格式を示す形(ステイタスシンボル)がつくられていく。その典型的な形態が『石門鉄扉』とい
われる門のつくり方で、中央に一対の石造の髙い門柱を建て、そこに馬車が通行できるだけの幅をもった鉄製の両開きの扉を取り
付け、さらに両脇にはやや低い石造の門柱を建てて、人の出入りのための片開きの扉を付けた門の構えである」(*9)
これらの記述は、明治初期の洋風建築の造成に伴う門構えの確立とその経緯を明らかにし、体系的な研究分析の基盤を提供し、
非常に価値の高いものである。学校建築の様々設備や様式への言及は不十分であるが、本稿でもこの論及を基に、或いは大きく参
考にしながら、以降の分析を進めたい。
§2. 沼津四中の旧正門が沼津高女の正門を移設したものとの噂の検証
沼津四中に現存する旧正門については、これが沼津高女の正門を移設したものとの噂があった。なお、現在は正門アプローチが
校舎建設で変更されているため、この旧正門は正門としての役割は終了し、門としての機能も果たしていない。
この噂を検証するために、以下のような多面からの資料収集と分析に基づき検証作業を行っている。
①沼津高女での門の動向に関わる情報の収集
沼津高女の後身である現在の静岡県立沼津西高等学校(以下、「沼津西高」と略)に残された写真資料等の収集整理と分析。
②沼津四中側の沼津高女からの門移設に関わる情報の収集
沼津四中資料や卒業生などの関係者からの関連情報の収集
③沼津高女に残された資料と沼津四中旧正門との一致の検証
①で収集された資料と、現存している門柱などの定量的比較。具体的な比較手段については後述する。
④沼津高女側の沼津四中への門移設に関わる情報の収集
卒業生などの関係者からの関連情報の収集
なお、沼津高女と沼津四中の沿革で本稿に関係する事項は次の通りである(*10、*11)。
*沼津高女
明治34 年4 月1 日 私立駿東高等女学校設立許可
明治34 年4 月20 日 沼津町高等小学校寄宿舎を仮校舎として開校
明治36 年6 月14 日 沼津町高等小学校より平町山王台に新築移転
明治39 年11 月 駿豆電気鉄道(三枚橋~三島六反田)に開通
大正8 年5 月1 日 郡立に移管、駿東郡立駿東高等女学校と改称
大正11 年4 月1 日 県立に移管、静岡県立沼津高等女学校と改称
昭和 年 月 勤労動員開始
昭和20 年7 月17 日 戦災により校舎(平町)を焼失、その後高田(大岡)仮校舎へ
昭和23 年4 月1 日 学制改正により新制高等学校となり、静岡県立沼津第二高等学校と改称
昭和23 年5 月26 日 平町から千本松下町に新築移転
昭和24 年4 月1 日 静岡県立沼津西高等学校に改称 (主に静岡県立沼津西高等学校のHP を参照)
*沼津四中
昭和22 年4 月 沼津市立第四小学校校舎の一部を借りて開校
昭和24 年11 月 校舎第一期工事完成、現在地へ一部移転
昭和26 年7 月 校舎第二期工事完成、現在地へ全面移転
昭和59 年4 月 新校舎落成
平成13 年12 月 新体育館落成(正門の新規設置と旧正門の締切はこれ以前か)
2-① 沼津高女での門の動向に関わる情報の収集
沼津高女の後身である現在の沼津西高の記念誌に残された写真資料を収集した結果、先ず以下の2 葉を取得できた。
写真3 戦時下の平町校舎正門 (*12) 写真4 昭和18 年10 月24 日体育錬成大会 (*13)
しかし、写真 3、4 に掲載されている「正門」は、沼津四中に現存している伝「旧沼津高女正門」とは明らかに異なる。写真 4
の女性と比較しても、高さはせいぜい 2mで、沼津四中現存の門と比べると低すぎ、なおかつ幅広である。そこで更に記念誌等を
発掘して得られたのが写真5、6 で、これは伝「旧沼津高女正門」を偲ばせる。
それでは、なぜ正門らしき門が二種類存在しているのか、また、その内の明治年間の写真3 が伝「沼津高女正門」とされている
ものだとしたなら、どのような事情で存在し続けたのかの疑問が呈せられた。
このために構内地図などの資料による傍証検討が必要となったが、幸いなことに大正 11 年の校地・校舎配置図(*16)が発掘でき
た。
これにより、大正 11 年当時には校地に「表門」と「裏門」が併存していたことが分かった。写真 3、4 は表門を、写真 5、6 は
大正年間には「裏門」とされていた明治年間の正門ではないかと考えられた。ただ、「裏門」とされた経緯については、現時点で不
明である。
これらの写真から分かることは、
・平町に校舎が新築されたのは明治36 年であり、写真6 では分かりにくいが明治40 年5 月のスタンプが押印されていることか
ら、この門の設置は明治36~40 年のどこかであろう。ただ、門扉が多少傾いて見えることから、明治40 年には既に経年変化
が生じていたかもしれないこともこの写真に記録されている。
・写真5、6 に写っている生徒などの背の高さと比べると主門柱の高さは約3mか。
・明治期の門は、主門柱・脇門柱を具え、門の門扉は木製ではないかと推察される。主門柱の門扉は内側に観音開きに開かれる
もので、左右の主門柱に向かってなだらかな曲線を描くようなエレガントさも感じられる。
・脇門柱に門扉があるか否か不明。また、門袖も設けられていない。
・門柱の材質は石と見られ、笠木部分と土台を除いてそれぞれの門柱が一本で形作られているように見える。また、表面はかな
り凹凸を残しているように見える。
2-② 沼津四中側の沼津高女からの門移設に関わる情報の収集
2-②-1 文献記録調査
沼津四中でかつて正門として使用され現存している伝「旧沼津高女正門」に関する記録について同校記念誌を精読したところ、
以下の当時の相沢常樹美術教諭の記述が存在した。
写真6 駿東女学校 運動会の写真絵葉書
明治40 年頃か (*15)
写真5 駿東女学校の完成した校舎 (*14)
図2 大正11 年の沼津高女の校地・校舎平面図 (*16)
「昭和 33 年秋、山本駒太郎校長の『安くできる門扉を・・・・・・』の一言で短時間にかいた記憶が蘇った。しかし、石の門柱
は由緒ある名門<沼津高女>のものである。」(*17 )
この記述は、それ以降に続く同校の第二応援歌の作詞作曲の話題ともつながっていて、「かいた記憶」の「かいた」が門扉デザイ
ンを描いたものか、「作詞」として「書いた」ものか判然としない点があるが、この記述を踏まえて、前記の記念誌では、同ページ
に「相沢先生のデザインで作られた門扉は、今でも四中の顔として皆に親しまれている。」として、「S33 年」「S34 年」の門柱だ
けの写真と門扉を具えた写真が対比して掲載されている。
この記述記録から、伝「沼津高女門」の噂は、それなりに正しいものらしいことが分かった。ただし、それ以前から伝「沼津高
女正門」の噂が存在していたものが書き留められたものか、はたまた、この記述記録が元になって噂が形成されたのか、その前後
関係の傍証が現時点で得られておらず、噂の確からしさが高まったにとどまる。記述の中で具体的な指示者により門扉が製作され
たことは確かであったと見られるが、伝「沼津高女門」の移設に関係した記録は得られていない。当時の沼津四中付近の運送業者
にも移設運搬に関しては伝わっていない。前後したが、現状(2018 年 7 月)の沼津四中旧正門(伝「沼津高女正門」)の状況を写真 7
に示す。
前述のように平町時代の駿東女学校(明治40 年か)時の後の沼津高女正門と、この沼津四中旧正門とは、全体的な雰囲気は似
ているが、前者には主門柱と脇門柱に笠木(門柱の上の風雨対策等を兼ねた装飾部分)がある点が大きく異なる。
また、前述の沼津四中の創立五十周年記念誌では、昭和31 年のこととして「女子の制服ができる」とされた項に、当時、これ
をデザインした梶原静子家庭科教諭へのインタビューが掲載されている。その一部は次の通りである(*18)。
Q 今の時代にも十分通用するデザインですが、デザイン面で工夫をされたことは?
A あの頃は、少し奇抜かなと思いましたが・・・・・・
セーラー服で四中の特徴を出したいと思いました。当時セーラー服は、衿に線が入っているのが普通でしたが、四中だからとい
って、衿に線を4 本入れることには抵抗があったので、ネクタイに線を4 本入れて四中を表現しました。リボンでなくネクタイ
にしたのは、当時の沼津高女(現・西高)の制服のイメージが良かったことから真似ました。
このセーラー服制定に関する記述は、当時の沼津四中が沼津高女に親しみを抱いていたことをうかがわせる。同じ校区内に沼津
東高校もあり、同じ旧楊原村村内には沼津工業高校があったが、女子制服の制定に当たってはやはり狩野川を隔てて近い、平町の(平
町地域は、一時、沼津第四校区であった)旧沼津高女が親しみをもって参考にされたのであろう。
写真 8 は昭和 24 年の沼津四中の第一校舎完成祝賀運動会の様子である。ここでは視野の端で分かりにくいが、矢印の指してい
る部分が後に旧正門が設置された場所だ。だが、この当時の写真にはそれらしい様子としては、柱らしきものも見られるものの、
解像度が悪く同定はできない。このことと前述の相沢教諭の回想から、旧正門が当時の沼津四中に設置されたのは、昭和 24 年以
写真7 沼津四中の旧正門(伝「沼津高女門」(筆者撮影)
写真8 昭和24 年の沼津四中の第一校舎完成祝賀運動会(*19)
降で昭和33 年の間のいつかであったと見られる。ただし、搬入の後に保管されていた可能性もある。
2-②-2、現存する沼津四中旧正門の採寸等の現物調査
2018 年7 月19 日に、杉山亘元沼津四中教頭に手を煩わせ、同校の山田健校長を訪ねた。残念ながら、沼津四中にも旧正門に関
する資料は「創立 50 週年記念誌」以外に見当たらないとのことで、同校長に了解を得て現物の採寸等の確認を行った(写真は筆者
撮影、2018 年7 月)。主な寸法は、主門柱;高さ(土台を不含)3000、幅390、土台幅600、脇門注;高さ(土台を不含)2600、幅260、
土台幅600 (単位はmm)である。現地調査からわかったことは次の通り。
・主門柱と脇門柱も含め、土台部と柱を含め、材質は石であり、土台部と柱部はモルタル跡が認められる。
・石の質は、現地の香貫南部から静浦山塊に向かって一般的に見られる凝灰岩と見られる。現地の香貫山北部では安山岩が優勢
で、現地に存在していた石と考えるよりは持ち込まれたものではないかと見られる。ただし、表面の苔や風化から、礫がどの
ように存在しているかなどは不明。
・主門柱と脇門柱には、写真では分かりにくいが、それぞれの東西南北の面に、「江戸切」と呼ばれるデザインとしての直線で
の切り込みが入れられている。その切り込みの内部は各面ともおよそ平面だが、「こぶ出し」と呼ばれる凹凸を示している。
・南側脇門柱の主門柱側の面には、写真8 のような切欠きが長手方向に、土台を含んで存在する。或いは門扉の収納用かとも見
られる。北脇門柱では植栽のため確認できていない。
・主門柱と脇門柱の風化度合いは同じと見られる。
・主門柱の上部断面は写真が撮れていないが、特に穴などはなく、表面の状態は写真と同様である。
・主門柱・脇門柱に、現在の門扉の蝶番具のほかの金属留め具は見られない。但し、北側主門柱に一か所、東面の西から270mm、
土台を除の下からの高さ1660mm から30-40mm 幅で下部に向かって550mm の長さで、何らかの跡が認められる。
・現在の門扉は亜鉛メッキ鋼管を枠として溶接成形し、その内部に唐草模様を直線デザイン化した同材質の板材が溶接され、そ
れらを防錆の銀色塗料で塗装している。記録に残っていたように、この構造なら、当時の沼津で容易に調達製造でき「安価」
に仕上がったと見られる。デザイン的にも時代を彷彿させるものがある。また主門扉は、内側に開く観音開きで、脇門扉は内
側に片側が開く扉となっている。主門扉は、写真に見えるように正面から見て中央がへこんでいるような外観となっている。
・現門扉はあたかも唐草模様を象形化したような直線的な図案で構成され、クレーの絵画をも彷彿させる。
2-③-1、沼津高女以外のルーツに関する可能性検討
並行して、伝「沼津高女正門」以外の可能性を検討するため、明治期に遡ることのできる学校門柱を調査した。
この結果、近在の当時の学校施設に以下のような門が昭和初期以前に設置されていたことが分かった(門の存在が確認できたとい
う意味であり、これら以外は門がなかったとの意ではない。また、中等学校については写真等は後述する)。
写真9 沼津四中 南側主門柱の正面 写真10 同左 南側側面 写真11 同南脇門柱の加工跡
写真12 沼津高等小学校(*20) 写真13 沼津第一尋常小学校(*21) 写真14 沼津第二尋常小学校(*22)
沼津高等小学校の写真は事情で当時の沼津中学の外国人教師住居を転用したもの。第一尋常小学校(撮影時期不明、明治か?)と第
二尋常小学校(同大正期撮影か?)の門構えはよく似ている。
このように概観してみると、沼津四中に現存する旧正門の伝「沼津高女正門」以外の可能性は小さい。
沼津四中に現存する旧正門は、沼津高女時代の笠木以外については、金岡小学校のものとそっくりとも言える程似て見えるが、
残念ながら金岡小学校では脇門柱がなく、両者は同じ時期にそれぞれ存在しているとも見られる。第三尋常小学校の門柱も、一見
すると旧沼津四中正門と似ている。ただこれも脇門柱が見られず、現在は、後述するように第三小学校に一部現存する。
2-③-2、沼津高女旧門と沼津四中旧正門との同一性の検討
沼津高女の旧正門で、その後、裏門とされた門が沼津四中の旧正門に移設されたとの仮説について、残された写真を基にそれが
同一のものであるかどうかを検討する。沼津四中の旧正門については実測値が取れるが、沼津高女旧門については写真からこれを
判定する。ただし、写真からは絶対値が求められないため、ここでは比率によるものとする。このために、
ⅰ)主門柱、脇門柱について、それぞれ正面からみた高さと幅の比を求める。
ⅱ)主門柱と脇門柱の間の、それぞれ正面からみた高さと幅の比を求める。
hs
hw
脇
門
柱
tw
ts
ww
ws
主
門
柱
θ
c
上面図
d b
正面図
写真13 沼津第三尋常小学校(*21) 写真15 金岡小学校(*23) 昭和29 年撮影写真14 大岡尋常小学校(*20)
写真16 内浦尋常高等小学校(*21) 撮影時期不明 写真17 原尋常小学校(*24) 明治41 年撮影
図3 門柱と各寸法の記号 図4 門柱の見かけ幅と実際の寸法
a
前記の図3 でⅰ)について、hs:ws、hw:ww を求め、ⅱ)についてhs:hw を求め比較する。
ところで、図3 の幅については写真などのデータの場合、図4 のような見かけの幅しか得られない。これは、多くの場合、正面
からでなく、図4 のような角度がついていることが多いためである。
本来求めたい幅は図 4 で示した a の長さなのであるが、θという角度がついた写真では、直接には b しか分からないのである。
a、c 及びθが未知の場合、b、d からこれらを導くことはできない。ただし、a=c の場合は次の三角関数で解くことが可能となる。
b/a= cosθ、 d/c= sinθ ∴ d/b= tanθ(ただしθは第一象限)
b は既知、θは上式から得られ、 a=b/ cosθ
既存の印刷物や写真からの位置などの測定に際しては、次に掲げるような本来的に測定に誤差をもたらすような問題がある。
1)光学的収差
レンズなどの光学機器には、本来の映像対象を変形または像の均質性を損ねるような収差と呼ばれる現象が生じる。特に、今回
の測定で問題となるのはそれらの内の「歪曲」と呼ばれるもので、特に広角系レンズなどでは樽型への変形が生じることが多い。
また、単に写真撮影時だけではなく、印画時にも、写真製版に際しても、更にはコピーに当たってもこれらの変形は生じる。
2)物理化学的変形
光学的収差と同様に、あらゆる画像としての取得時には、媒体(フィルム・乾板・印画紙)の温湿度変形や、密着性(たとえばコピ
ーの際のガラス面への密着性)などにわたって変形が生じることがある。また経時変化による画像の変形や退化もある。
3)意図しないデジタル変形
デジタル化された画像が意図せずに変形することがある。たとえばコピー&ペーストの際に、画像の縦横比に変化が生じるもの
だ。こうした作業で、意図せずに、画像が変形する可能性がある。
4)測定誤差
測定誤差には、本来的な測定に関わる系統的な誤差と、測定しにくいことにより生じる誤差がある。例えば既に旧沼津四中正門
の写真でも示したように、門柱の多くは鏡面のような仕上がりではない。「こぶだし仕上げ」と呼ばれる表面の凸凹があり、例えば
その幅を測定する際にもどのように測定すればよいか躊躇される。
このような本来的な差異の取扱に際しては、それらをなるべく生じさせないような方法で、なお且つそれらを最大限に補正でき
るシステムとその情報の確からしさを検証しながらデータとする方法がある。天体写真の位置測定などがまさにそれであり、銀塩
写真の時代にはフィルム(乾板)のカメラへの密着性確保から基準星の位置再現にも収差補正が行われていた。
本稿では、これらの誤差要因が生じることを認識したうえで、測定する場合にはなるべく原版に近い写真版の採用を心がけ、画
像の垂直方向の歪曲に関してはなるべく「目通し」(眼の高さ、および1.5mほど)とすることを基準とし、100 分の5mm 計測のノ
ギスを用い、比率を求める場合の小数点以下の表示はこれらの精度を表す範囲に留めた。また、沼津高女写真に関してはそれぞれ
3 回ずつの計測を行っている。この計測と求めた比率についての結果を以下に示す。
主門柱と脇門柱の高さの比(hs/hw)、主門柱と脇門帳の幅の比(hw/ww)ではほとんど一致した。主門柱の高さと幅の比立(hs/ws)
     hs 主門柱高さ  ws 主門柱幅  hw 脇門柱高さ  ww 脇門柱幅 
     bs 主門柱見かけ幅  ds 主門柱見かけ奥行  bw 脇門柱見かけ幅  dw 脇門柱見かけ奥行 
n bs ds bw dw hs ws hw ww hs/ws hw/ww hs/hw
沼津四中 - - - - - 3000 390 2600 260 7.7 10.0 1.2
沼津高女 S 1 1.75 0.75 1.55 0.70 20.90 1.9 17.25 1.7 11.0 10.1 1.2
2 1.80 0.80 1.35 0.65 21.40 2.0 17.10 1.5 10.7 11.4 1.3
3 1.70 0.85 1.35 0.70 20.95 1.9 17.50 1.5 11.0 11.7 1.2
平均 1.75 0.80 1.42 0.68 21.08 1.9 17.28 1.6 11.1 10.8 1.2
T 1 4.25 2.25 2.90 1.95 41.75 4.8 35.45 3.5 8.7 10.1 1.2
2 4.30 2.20 3.10 1.80 41.00 4.8 35.60 3.6 8.5 9.9 1.2
3 4.60 2.40 3.00 1.85 41.55 5.2 35.40 3.5 8.0 10.1 1.2
平均 4.38 2.28 3.00 1.87 41.43 4.9 35.48 3.5 8.5 10.1 1.2
総平均 3.07 1.54 2.21 1.28 - - - - 9.7 10.6 1.2
注;沼津四中は実測値(単位はmm)
注;沼津高女Sは明治40年からの写真で計測(平均のhs/wsが高いのは小数点の差による) 
注;沼津高女Tは校舎完成時と伝えられている写真から計測
表1 沼津四中と沼津高女の寸法比率の比較
では大きな差が生じている。ただし、沼津高女の2 枚の写真で系統的に差が生じていることから、写真のコントラストやそもそも
の写真のボケなどによる計測のしにくさが特に主門柱に生じている。特にT 写真ではhs/hw 比が、沼津四中の実測値と近い。また
hs/hw 比ことから、曖昧さを残してはいるものの、恐らく同一の門と見られる。
2-④沼津高女側の沼津四中への門移設に関わる情報の収集
2-④-1 卒業生などの関係者からの関連情報の収集
筆者(渡邉)の第四中学校同級生にこの話をしたところ(この同級生は、まったくその門についての言い伝えやうわさなど知らなか
った)、「母親が御幸町在住で沼津高女の出身(90 歳)なので確認してみる、だけど少し認知に支障もあるし、わかるかなぁ」とのこ
とだったが、以下のように情報を得た。
・例の沼津高女の門の写真コピーを出して尋ねてみたところ、即座に(母は)「四中の正門か」といい、(私が)「いや、沼津高女時代
の平町の門」と言ったところ、それ以上尋ねていないのに、(母は)「それなら分かる、四中へ持っていった」と答えた。
ただ、それ以外の「それはだれから聞いた話か?」に対する答えはあいまいだった(2018 年7 月)。
また、同様に、現在 86 歳で沼津高女に入った頃は勤労動員が主だったというやはり御幸町在住の方に、その町内会を通じて確
認して頂いたところ、これも、こちらが言い出す前に「裏門の写真で懐かしい」という反応だったとのことでした。
それ以上の情報はないが、この方は、当時から平町にお住まいになっていて、高女に入る前からが構内に出入りしていたとのこ
とだ(2018 年7 月)。
④-2 関連文献情報
平町(西高・沼津高女では「山王時代」と呼んでいる)から千本松下町に旧沼津高女が新築移転したのは昭和 23 年 5 月 26 日であ
る。それまでの間、昭和20 年7 月17 日に 戦災により校舎(平町)が焼失し、その後は高田(大岡)仮校舎時代があった。昭和23 年4
月 1 日に学制改正により新制高等学校となり、静岡県立沼津第二高等学校と改称、昭和 23 年 5 月 26 日に千本松下町に移転、24
年4 月1 日に静岡県立沼津西高等学校に改称している。
だが、この新しい松下校舎にはまだ門はなかった。同校九十年史によれば、創立50 周年記念事業の一環として昭和25 年に正門
が完成し、校舎戦災復興工事もひと段落したことで式典が開催されたとしている(なお、余談ではあるが「沼津西」と「沼津東」の
改称と位置関係は時期が微妙である。沼津高女の千本松下町への移転決定の前に新制高等学校がスタートしていたなら、現在の「沼
津西高」が沼津東高と称され、現在の沼津東高は「沼津西高」と称されていたかもしれない)。
§3.石材や飾り
旧沼津四中正門が旧沼津高女正門と一致し、それがいつの時期かで移設されたであろうことが確認できた。その石材はどこから
もたらされたのか、そして更に、もともと付加されていたと思われる笠木がなぜ沼津四中に伝わっていないかなどの疑問が生じる。
3-1 門柱の素材
既に、沼津四中の現地調査の劣化述べたように、石の質は、現地の香貫南部から静浦山塊に向かって一般的に見られる凝灰岩と
見られる。ただ、サンプル取得による分析や観察ではなく、苔や表面の風化をタワシにより擦り、一部の表面を観察したにとどま
っている。
門柱や塀などの素材としては、既に「公共建築物の門構えは、その多くは石造あるいは煉瓦造の門柱を4 本立て、鉄製の門扉を
取り付けたものであった。これは、江戸時代の大名や上級旗本の門番所のついた門や長屋のような大きな屋根を持つ建築物とは異
なり、門柱や門扉という簡略化された形態であったが、石や煉瓦といった新しい素材で構成された洋風のデザインだった。」(*25、)
と述べられていたように、明治時代には、それまでの江戸時代とは異なる新たな素材が多く用いられるようになった。しかし、も
ちろん、現在では多用される金属素材のアルミやステンレスはまだ一般化せず、セメントで凝固させた硬化物を使用するコンクリ
ートやそこに鉄筋を組み込む(RC)もまだ登場していない。一般社団法人日本建設技術者協会のweb(*26)によれば、(鉄筋の)「国内
の製造は1901 年(明治34 年)に、八幡製鉄所(現新日本製鐵(株))で始まります。鉄筋コンクリート造の建物が建設されるのはそれよ
り後の1904 年(明治37 年)佐世保にあるポンプ小屋といわれています。」
このために、重く厚く長く大きな木材や石材を用い、何らかの方法で切削等による加工が必要であった。煉瓦を用いたに門柱の
構築も、明治初期にはまだ日本国内では煉瓦焼成が限られていた。重厚長大の素材をなるべく大きく利用することで、多くの労力
や資金力が投入されたことも目に見えて理解され、それが権威づけにも利用されてきた。
この状況は、鉄道による新たな物流網が発達により変化を生じた。というよりもそれまで状況は変わらなかった。前述の日本エ
クステリア学会では、この間の状況の変化を以下のように記している。
「明治以前、石材は重量があるため輸送は水運に限られていた。明治中期になると鉄道輸送が発達し、関東各地から採石された
石材が、需要の大きい東京に運ばれるようになった。その結果、それまでの瀬戸内海周辺からの花崗岩に加えて、茨城県産や山梨
県産の花崗岩が建築の壁面仕上げや門柱として使用されるようになった。」(*27)
「花崗岩の入手が容易になると、門柱にも使用されるようになった。花崗岩の門柱をみると学校など規模の大きいものは鉄筋コ
ンクリート造+張り石タイプのものが多く、住宅では多くが石柱タイプである。住宅では房州石、大谷石などの連続する塀のアク
セントにもなっている。石柱は角を加工した江戸切仕上げとのものが多く見られる(図示-略)。」(*28)
沼津周辺では、旧三島宿周辺の石灯籠、166 基についてもその設置時期と岩質の関係を論じた増島敦の「三島市周辺の石燈籠の
石材と地震被害-ジオツアー三島を通して-」がある。そこでは、「竿」(「常夜燈」などと石刻されている基礎の上の主体となる支え
部分)の部分をその燈籠の「石材」として分類しながら以下のように材質と設置年代をグラフ化している。
このグラフは筆者が改めて同論文から忠実に再現したものであるが、「火山岩類」「深成岩類」として増島が想定しているのは、
「火山岩類」は玄武岩や安山岩など、「深成岩類」とは花崗岩などである。
この節地年代材質分布について、増島は「1758 年までに設置された古い石灯籠11 基9 基は硬い火成岩類である.風化に強く残
りやすかったのだろう.」(*29)と述べ、「江戸時代後半(1762 年以降)になると,現在の伊豆の国市・北江間・横根沢の石切り場で採
石された凝灰岩「江間石=長岡凝灰岩上部層.新生代・第三紀・鮮新世(数百万年前)に海底に退席した火山灰が古結したもの.熱水
の影響を若干受けて褐色を呈す.砂質凝灰岩」を石材とした燈籠が出現し,,以後の設置年代のわかる凝灰岩製石燈籠の殆どは同材
でつくられている./同材は、火山岩に比べると柔らかく加工しやすく,表面の色合いはよくないが,砂質なので、耐久性もあり実
用的で,本地域の石燈籠の主流である.同材を使用した燈籠は昭和9 年(1934),清水町・秀源寺まで確認できた./江戸時代を通
じ,安山岩や玄武岩製の燈籠も数多く製造されているが,硬く手間がかかり工賃も上がるためか,主流ではない./1876 年~1900
年は設置数が極端に少ない.明治維新後の社会情勢が影響したものと思われる.」と石切り場について言及し、更に、「1960 年第前
後は,火山岩類製と花崗岩製が殆どで,伊豆の石切り場から産出した最後の凝灰岩製燈籠は三島市・新谷稲荷社に秀和45 年(1970)
に奉納された小室石製(伊豆の国市の城山の南にあった石切り場から産出)である。/昭和47 年(1972)以降は設置数が急増する.
高度経済成長によるものと思われるが,比較的安価で見栄えの良い,海外産の花崗岩類製が殆どである.」(*30)として、花崗岩製
が最近の傾向であることを明らかにしている(注;文中のスラッシュ/は原文での改行を示す)。
なお、明治、大正ころの沼津周辺での加工石材は近辺で産出する凝灰岩系か安山岩が一般的ともみられる。たとえば、西浦河内
の子聖神社(ひじりじんじゃ)の鳥居と石柱の写真を写真 に掲げるが、この石柱には「明治卅四年■月」と刻されていて、どち
らも凝灰岩系、境内に半ば埋まって点在している石は金冠山由来の安山岩の河原石と見られる(注;■はは不明字)。
また、現在の静岡県立沼津東高等学校に移築保管されているかつての上香貫時代の正門の門柱の材質を観察すると、やや、見に
くいが赤丸を付したところに、レンズ状の何か異物が見ええ、溶結凝灰岩ではないかと推定でき、全体の肌合いや風化の風化の
感じが凝灰岩系を思わせる。黒雲母を含まないことから花崗岩とは見られない。
溶結凝灰岩または凝灰岩だとすると、沼津の近くに産地は多くあり、増島の指摘と重複する部分もあるが、大平、多比、戸田な
図5 三島市周辺の石燈籠の設置年代別の石材と数
写真18 西浦河内の子聖神社の鳥居 筆者撮影 2018.8 写真19 沼津東高校の保管門柱 同左
のどに石丁場がかつてあり、いまでも採石跡を見られる。横山トンネルの脇にも、現在は砕石が主体となっているが、かつては石
丁場であったと見られる。たとえば、戸田と井田の中間の県道沿いの採石場に転がっていた石をサンプルとして示す。溶結凝灰岩
だが、徳倉山の岩石とよく似ていて、白っぽく、見ためは花崗岩のように見える。
なお、現在の沼津四中が存在する上香貫にも石切り場があった。場所は現在の住居表示で南本郷町と宮原町の境界の香貫山直下
である。ここには現在も、採石された加工途中ものと思われる石も残っている。ただし、「楊原村史」にも採石の記載はなく、この
採石場がいつまで遡ることができるかは不明のママである。
こうしてみると、かつて沼津高女の正門として同行に設置された門の石材は、その材質や当時の流通などを考慮すると、増島が
石燈籠で推定したと同様に、江間石である可能性が高い。
3-2 笠木が伝来していない謎
しかし、両者には大きな差異がある。一つは門扉がなかったこと、もう一つは旧沼津高女正門に装飾として付けられていた笠木
が伝えられていない点である。門扉については、もともとの沼津高女に設置された時点では木製だったと見られ、それが経時変化
や社会的変化の中で失われた可能性が高い。一方、笠木が平町時代当初の旧沼津高女正門(当時は前述しているように「裏門」)に
は存在していたことが写真から確認できるが、それが無くなった時期は、不明である。或いは、裏門となった時点から、或いは沼
津四中への移転時、はたまた、何らかの事情でその間に失われたのかもしれない。
その謎を解く一つの鍵となるかもしれない事象が「小さなトンネルを抜けると少年の頃の美しき景色があった。」blog の「浅間
神社の鳥居(沼津)」コラムに見付けられた。同コラムは次のように沼津市浅間町の浅間神社の鳥居の倒壊を記している。
「『三の鳥居』は震災前の明治 41 年 9 月建立だが/『二の鳥居』は震災後の大正 14 年 9 月建立で/刻まれている碑文には/《大正
拾貳癸亥歳九月壹日為大震災倒壊千慈再建之》/大正12 年9 月1 日の大震災で倒壊した鳥居を再建したと記されている。/震災当時
の写真(絵葉書)をみると/『二の鳥居」が柱の根元部分で折れて倒れている。/基礎がしっかり持ち応えたため/柱は揺れの支点箇
所で破壊されている。/上の石灯籠も頭部が崩れ落ちている。
更に『一の鳥居』脇に撤去された鳥居が置かれているが/この鳥居の建立年も大正14 年9 月である。/扁額も一緒に置かれている
ことから/『一の鳥居』のものだったことが推測できる。/また、柱に残る鑿と楔の痕から人為的に撤去されたものだ。
これ等から推測すると
『三の鳥居』は関東大震災にも耐え現在も健在である。/『二の鳥居』は倒壊し大正14 年9 月再建された。/『石灯籠』も倒壊し
大正14 年9 月再建された。/『一の鳥居』も倒壊し大正14 年9 月再建されたが/現在は平成7 年10 月建立されたものだ。
何故再び建て替えられたのだろう。
姉の話では/大正 14 年 9 月再建された『一の鳥居』は/昭和 5 年の北伊豆地震で一部が破損した。/その後経年により破損箇所が
危険な状態になったので/平成7 年10 月建て替えられたということのようだ。」(注;文中のスラッシュ/は原文での改行を示す) (*31)
写真20 戸田付近の溶結凝灰岩 筆者撮影 2018.7 写真21 上香貫(かみかぬき)旧石切り場の石 筆者撮影 2018.8
写真22 「浅間神社の鳥居(沼津)」コラムの倒壊鳥居写真 (*31)
沼津市役所HP の「災害事例 地震」としてはこれらの地震とその被害について、以下のように記述がある。
「1930 年11 月26 日 (昭和5 年) 北伊豆地震 M=7.3
丹那断層を生じた地震で、伊豆北部を中心に大きな被害があった。当地の被害は沼津市で死者1 人、負傷者7 人住家全潰10 戸、
半潰29 戸、原町で負傷者4 人、半潰1 戸、内浦村で半潰8 戸、西浦村で半潰16 戸、大平村で死者1 人、半潰45 戸、浮島村で半
壊 4 戸、静浦村で死者 1 人、負傷者 10 人、全潰 8 戸、半壊 19 戸、大岡村で半潰 20 戸、金岡村で全潰 3 戸、半潰 15 戸、鷹根村
で全潰2 戸、半潰5 戸、合計で死者1 人、負傷者21 人、全壊23 戸、半潰162 戸となっている。震度は5 であった。
1923 年9 月1 日 (大正12 年) 関東地震 M=7.9
東京・横浜を潰滅させた大地震で沼津市で1 人の死者が出たほか、家屋全潰沼津町で2 戸(0.04%)、内浦村で1 戸(0.3%)、金岡村
で 8 戸(1.1%)、大岡村で 2 戸(0.4%)、静浦村で 3 戸(0.3%)、大平村で 1 戸(0.4%)、鷹根村で 3 戸(0.5%)、浮島村で 3 戸(0.5%)の被
害があった。」(*32)
沼津市役所 HP の「災害事例 地震」の事例には浅間神社事例は紹介されていない。もちろん限られた中での周知という点から
は限界もあろうが、浅間神社鳥居倒壊のような市民にとって身近で理解しやすい事例の紹介が欠けているのは遺憾である。
なお、同HP では安政東海地震については次のように記されている。
「1854 年12 月23 日 (安政元年) 安政東海地震 M=8.4
震度は久料 6~7、沼津 6、原・香貫・三津・木負は 5~6、沢田・三津は 5 と推定されている。沼津城内では、御殿・蔵など全
半潰し、城下の旅篭屋町では、まれに残った家も傾いていた。また道路に地割れを生じた。領分村方で4,939 戸の潰家が出た。小
林では民家11 戸大地より5~6 丈震り込み、死者11 人を出した。大岡村では所々より水湧出4~5 尺噴上げたという。原では石鳥
居・石灯・篭は悉く倒れたけれど、潰れは4~5 戸のみで済んだ。」(*32)
また、本調査の過程で西浦小学校の沿革の中の大正11 年4 月26 日記事として「地震のため校舎傾斜」(*33)という記録に気付い
た。この地震は、理科年表の主な被害地震年代表に掲げられた大正11 年(1922)4 月26 日の地震と同じものかとも見られる。マ
グニチュードは M6.8 で「浦賀水道地震」とも呼ばれ、東京湾沿岸に被害があり、東京・横浜で死各 1、家屋・土蔵などに被害が
あったとされている。寡聞にして、この地震と同じ発生年月日の地震被災が現在の沼津市にあったことは知らない。この西浦小学
校情報にも今一度吟味や必要なら対応が求められよう。
さて、この浅間神社鳥居倒壊で想起されるのは、現在の静岡県立沼津東高等学校の上香貫時代にあって、現在は岡宮の同校に移
設保管されている旧正門の背丈が、時代とともに低くなっていると見られることや、現在の沼津市立第三小学校に引き継がれてい
る第三尋常小学校(沼津町とその後の第三尋常小学校が属していた旧楊原村との合併は大正 12 年で、それ以前は「楊原村立の楊
原尋常小学校であった)の門柱である。
静岡県立沼津東高等学校の門柱の推移についてはここではそのような事象があることを指摘するにとどめるが、現在の沼津市立
第三小学校に引き継がれて保存されているかつての楊原尋常小学校の門柱の現況は以下の写真の通りである。
写真 23-1~4 に平成 30 年(2018 年)8 月現在の、沼津市立第三小学校に保存されている 2 本の門柱を示す。写真 23-1 のように、
現在は二宮金次郎像とともに、それを守るかのように設置されている。高さはともに1.5mほどだ。写真23-2 は、南側門柱で、や
や分かりにくいが「大正七年七月」と刻まれている。おそらく旧楊原村立の楊原尋常小学校に初めて設置された年と見られる。写
真 23-3 と 23-4 はそれぞれ、現在の南側門柱と北側門柱の頭部である。写真 23-4 は本来の頭部の状況を残しているが、写真 23-3
では、荒く切削されていて、恐らくは何らかの門柱の切断または破断を示している。
楊原尋常小学校に設置されていた写真に残る門柱の高さは 3mほどと見られ、現在の保存門柱が果たしてもともとの 2 本のそれ
ぞれを残しているのか、はたまたもともとの1 本の長い門柱を2 本に成形し直したのかは不明である。
大正期から昭和期にかけて学校の正門は、その様相を大きく変えた。それは門袖と一体化したより低くて厚みにより荘重さを醸
した形式だ。その変化は素材やその物流の発展からももたらされ、更に自動車の普及も大きな要因となった。それとともに安全へ
の見直しも影響したのではないかと見られる。
静岡県立沼津東高等学校の門柱の形体の推移、沼津市立第三小学校に保存されている楊原尋常小学校時代から低くなった門柱、
写真23-1 筆者撮影 2018.8 写真23-2 同左 写真23-4 同左写真23-3 同左
そして沼津市中に残る沼津高女時代から笠がなくなった門柱など、これまでに文書記録などに至っていないが、このような地震の
被災を取り入れた安全環境への構築があったのかもしれない。
§4.学校の門が語る社会文化史への試み
門と玄関という構築物は、江戸時代まで、庶民にとっては住宅に無縁なものであった。わずかに、町木戸と呼ばれるような、簡
易な木戸が門に近い存在であったが、これは現代でいうエントランスのようなものであり、構えた門ではなかった。ただ、江戸時
代の庄屋階層には長屋門と呼ばれる門構えが存在していた。
武士階層では、その格式に応じて各種の門と玄関があった。それらは、一方で格式を示すものであり、一方で本来の門が備えて
いた防御性を兼ね備えていた。これらのために、門は、騎馬或いは(輿や駕籠などの)乗り物で通行でき、槍などの障碍にならな
いような高さと、そのための構造上の広さや奥行が求められた。格式が高まれば高まるほど、門は大きくなくてはならなかったの
である。こうして、江戸時代の門構えでは、門自体の大きさ、そして脇門と主門の存在、更には屋根の存在がその権威つけとなっ
ていた。簡便的なものとして、格式に応じた門構えも存在し、必要に応じては、必ずしも大きいことだけが求められたものではな
い(例えば城内の防衛用としての門など)。
これに対して、明治期の新たな門構えへの威付けは、外国からもたらされた様式としての屋根の無い門構えが洋風化とともに採
用された。いわば従来の屋根のついた門構えの権威を否定し、新たな時代性を表現したのである。そして、屋根に代わる新たな権
威付けの要素として、石、煉瓦、鉄などの門柱材質の変更や、洋風の笠木や装飾、鉄門扉、更には門灯などが施されることになっ
た。荘重感をもたらすためには、見るからに強固な門構えも求められ、高さに対して幅広な門柱も多い。ただ、高さだけは、洋風
門構えでも必要であった。それは権威の象徴面もさることながら、「貴賓の乗り物による門の通過」という必然性が変わらなかった
ためである。
こうした背景の下に地方に展開された洋風門構えだが、技術的な問題として、鉄や煉瓦での門構えの建設が全国で広く充分に行
えたかどうかは疑わしい。鉄製の門柱の例が限定されることや、木製の門扉採用も首肯できる。ただ、石に関してはその加工技術
も用材も、既に十分に地方でも得られていた。
こうした石や木材を中心とした明治初期の門構えでは、それと似た従来からある構築物との差異を明確にすることも求められた
であろう。既に数多く存在していた、石製又は木製の、鳥居、石灯籠、碑や標(例えば庚申搭)、墓石などとの差別化である。だが、
新たな権威化要求のために、高さの確保が先ずは求められたのかもしれない。
だが、そのような新たな差別化権威化の一方で、既存の権威に依存した形式の導入、いわば既存システムの「焼き直し」も免れ
ない。「木戸」のような簡易的な門構造がなお残ったのであろうか。
4-1 沼津近郊の小学校の門構え
校舎建築の標準化については文部科学省の「学制百年史」の中の「明治初年の学校建築」で次のように述べられている。
「寺子屋式と西洋式との学校建築はしだいに折衷され、西洋式の中廊下式はわが国の気候・風土に適せず、だんだん片廊下式と
なり、寺子屋式の暗いへいや、明るい窓をもった校舎に改良されてきたが、教室の形としては、生徒数によって三間×四間、三間
半×四間、四間×四間半あるいは四間×五間等の種々の形のものがあった。
この間小学校設備準則(明治二十四年四月八日)・尋常中学校設備規則(二十四年十二月十五日)・尋常師範学校設備規則(二十
五年七月十一日)を相次いで公布し、学校建築は大いに推進された。その結果しだいに類型化してきた学校建築は、教育制度の整
備に伴って、建築衛生的な面からの考慮を払うようになった。
ことに片側教室の廊下が南面すべきか、北面すべきかについて活発な議論がなされた。校舎の半分は南廊下、半分は北廊下とし
て実験的に建てられたものもある。この議論はだいたい本州北方地域から漸次北側廊下、南側教室論にかたまってきたが、四国・
九州では議論が沸騰し、三島通良の「校舎衛生上ノ利害調査報告」が官報(三十四年四月八日第五三二五号)に公示されたのは注
目に値する。この報告は南面教室を推賞したもので、ますます学校建築の類型化を促進し、教室の形もほとんど四間×五間の普通
の形のものとなった。」(*34)
しかし、門のような外構設備については、管見の限り、教育行政機関による基準様式の制定に行き当たっていない。明治24年(1901
年)の「小学校設備準則」(*35)、明治24 年12 月15 日文部省令第27 号「尋常中学校設備規則」(*36)にも、門は規定されていない。
とはいえ、まったくないかというと、学制の初期に次のような明治 28 年に文部大臣官房会計課建築掛が編纂した「学校建築図説
明及設計大要編」(*37)には、校舎内建設モデル図面が示されるとともに何かにより囲繞された敷地に、敷地出入り口らしき二本の
門柱のようなものが平面図として描かれている。
資産の価値を統一的な会計基準の下で近代貨幣制度により換算し、それを基に歳入を確保するとともに経済の発展を図るための
近代会計制度の確立とその手段である簿記が導入されたことで、それまでは建物の一部であったと見なされていた門構えは、「建物」
とは別の「構築物」として建物から分離された。このような背景も「小学校設備準則」、「学校建築図説明及設計大要編」などが門
構えに言及していない背景なのかもしれないが、指摘にとどめる。
「学校建築図説明及設計大要編」ではモデルして複数の事例が示されている。その内の現在の岡山県井原市に属す旧川上郡日里
村の学校建築のモデル図面を掲げると次のようになる(*37)。
また、小学校でも既に沼津の事例で見てきたように、学校や地域により、門構えの形式に違いもある。更に、沼津高女のような
中等教育の学校と小学校などの差異もあると見られる。
このために改めて、沼津に残る図面で示された小学校史料や静岡県近在の中等教育機関の例を渉猟した。
沼津に残る図面では、最近まで存在した静浦小学校(現在の静浦小中学校)、大平小学校そして浮島小学校のデータが得られた。
図6 「学校建築図説明及設計大要編」モデルに記載された「門」(*37)
図9 浮島小学校に記載された門」(*40)
図7 静浦小学校に記載された門(*38)
図8 大平小学校に記載された門(*39)
これらと前述の明治期に遡ることのできる小学校の写真などから一覧すると次のようにまとめることができる。
小学校は、歴史や制度の変遷の中で、新設や統合そして移転や増改築も多く、必ずし
も表に掲げた門構えがそれらの初期の形体を伝えているか否かは分かりにくい点もある。
例えば現在の沼津市立西浦小学校の歴史的推移を同校の史料から示すと図 10 のようにな
る。市の中心部に位置する沼津第一小学校などの場合は更に、種々の事情から校地の移転
も多い。
ここからは、沼津近辺の小学校の門構えとして二種類に分けることができる。その一つ
は、笠木のない主門柱2 本が基本的な構造である。その多くは門扉もないか、簡易的な木
造である。そして「こぶだし」と呼ばれる表面の凸凹への「はつり」加工もかなり共通し
ているように見える。いわば、素朴ともいえよう。第三小学校、金岡小学校、静浦小学校、
内浦小学校などで、当時の沼津地域内では主要街道の東海道から比較的はなれた地域だ。
一方、当時の沼津の中心部である第一小学校、第二小学校、そしてその近傍の大岡村や、
かつての東海道で沼津宿と同じ宿場町だった原村に設けられた原小学校などは、主門柱と
脇柱し2 対からなる門構えで、笠木が備わっている場合もあり、これらの中ではデザイン
的にも洗練されている。
直接にこれらには属さないが、大平小学校の冠木門らしき形式は、この間の小学校教育
に関する当時の大平村の行政当局の当惑とも見られる。例示の無い「門構え」の中で、そ
れなりにモデルに近く、当時の社会背景として木戸に近いながら江戸時代の武士階層の門構えの中ではランクの低い「冠木門」が
選択されたのであろうか。その意味では、素朴な門構えに分類できる。
そのような中で、浮島小学校のような、沼津では他に確認できない、門灯を門柱間のアーチ上に備えた形式も注目される。或い
は、根方街道に沿って多くの情報が当時の浮島地区には沼津町と同様に流入していたのかもしれない。当時の浮島村のハイカラさ
が目をひく。
このような小学校の建設に際して、明治政府による制度や建設の許認可などは、地方の出先機関などにより示されていたが、建
設費用捻出などはほとんど地方任せであった。当初は江戸時代から続く寺子屋
形式を母体として近代学校制度が地方に展開され、やがて制度の中で近代小学
校として発達する。子供に対して「教育を受けさせる」制度導入に際して、労
働力の点や経済状況などから、それが一気に進んだのではないが、「学問ノスヽ
メ」を待つまでもなく、明治という新たな時代に対応できる教育を子供に受け
させることができる喜びや次世代に対する期待も大きかっただろうことは容易
に想像できる。
そして、庶民にとっては、門構えのある施設に子どもを通わせることができ
るという、それまでの身分制格式の中では味わうことのできない形式破壊も大
きなインパクトを与えたのではなかろうか。
江戸時代には、まだ子供の死亡率も高かった。子どもを安全に育てたいとい
う願いは変らない。それが鳥居などともある意味で似た石の門柱が結界を示す
学校名* 年* 構成 材質 門扉 笠木 備考
第一小学校 明治初期 主×2、脇×2 石? 不明 有
第二小学校 大正期撮影か? 主×2、脇×2 石? 木製 無
第三小学校 大正七年設置 主×2 石 無 無
片浜小学校 不明
金岡小学校 昭和27年撮影 主×2 石 無 無 ただし設置は昭和27年以前
大岡小学校 昭和2年撮影 主×2 石? 無 有?
静浦小学校 明治19年図 主×2 不明 不明 不明 図では2本柱か?
愛鷹小学校 不明
大平小学校 明治38年図 主×2 不明 不明 不明 図では2本柱冠木門か?
内浦小学校 大正期か? 主×2 不明 不明 有か?
西浦小学校 不明
原小学校 明治41年 主×2、脇×2 石? 鉄? 無
浮島小学校 明治22年図 主×2 不明 不明 不明 図では門柱間にアーチで門灯
戸田小学校 不明
年*   当該写真又は図の門の設置年
学校名*現在の学校名(ただし静浦小学校は現在は中小一貫の「静浦小中学校」)
図10 西浦小学校の変遷(*41)
表2 沼津市内の明治期設置小学校の門構え
図11 日本の原風景か? ©スタジオジブリ(*42)
と受け止められたのかもしれない。
「となりのトトロ」という人気の長編アニメーション映画があるが、その中で、田舎へ引っ越してきた主人公草壁サツキが通う
小学校の門としても、二本の門柱の門が登場する。このアニメの設定は、昭和 30 年代前半の日本で、また、一説では当時の埼玉
県の狭山丘陵の農村地帯がモデルともいう。
いわば日本人の原風景として、その時代の小学校には門扉のない素朴な石柱2 本の門あることが不自然でなかったのである。そ
してこれが、前述の沼津近在の小学校の門の様子と重なる。
4-2 沼津高女旧正門様式の比較
小学校建築の門構えの中に沼津高女旧正門と似た様式も存在することがわかった。
それでは、当時の中等教育機関の中での位置づけはどのようになっているだろうか。ここでは、当時の沼津と近在の中等学校で
得られた資料からその比較を試みる。
写真24 静岡高女(*43) 写真25 静岡英和女学校(*43)
38)
写真26 三島高女(*44)
写真27 沼津中学校 昭和5 年(*45) 写真28 沼津東高香陵会館保存の旧正門 筆者撮影2018.7
写真29 沼津商業学校 明治33 年か 山神道時代(*47)
42)
写真28 駿東農林学校 大正15 年(*46)
写真30 静岡中学校 (*43) 写真32 静岡師範 (*43)写真31 静岡商業学校 (*43)
高女4 校の門構えは、ほぼ一致している。主門柱と脇門柱を具え、門扉はほぼ木製と見られ、門柱上に笠木を置いている。三島
高女の場合は笠木の下部に飾り壇のような模様もついている。明らかに小学校門柱に多い素朴な形式とは違いを生じている。
中学校や実業学校では、鉄製の門扉が増える。なお、沼津農業だけが木製の門柱と門扉になっているが、現在の沼津城北高校の
前身である同校の起源は明治 35 年(1902 年)に設立された片浜村外八箇村学校組合立駿東農林水産学校に遡ることができ、「農林」
という実業が「木製」を選択させている可能性もある。沼津中学では前述したように、門柱の高さが時間の経過とともに低くなっ
ているようにも見え、笠木の形も変化している。現在、沼津東高校で移築保存されている門柱上の笠木はあたかも入母屋造りの伊
勢神宮内宮神楽殿を模したようなもので、この形式の笠木が現存する学校門構えとしては、管見の限りであるが、九州工業大学正
門(旧明治専門学校表門)と奈良女子大学正門(旧奈良女子高等師範学校)がある。沼津東高校の門構えについてはこれに留める。
なお、静岡師範の場合には門灯らしきものが笠木上に認められる。
各地の大学や高校には、更に立派な門構えも数多く残っているが、それらとの比較などは現時点でできていない。今後の課題で
ある。
表2 表3 を概観すると、小学校の門構えはバラエティに富んでいる。第一・第二小学校や原小学校の後の中等学校にひけをとら
ない立派さ、第三小学校や静浦小学校に見られる素朴さ、浮島小学校のハイカラさなど、脇門柱や笠木の有無や柱への装飾そして
門灯の併置など、多種多様である。
一方、中学校などの中等教育機関では素朴な小学校の門柱と比べると、明らかに門構えの荘重さを増し、さらに高等女学校では
木製の門扉が中学校では鉄製多用に変るなどの変化も見せ、ある基準に沿ったかのような統一感がある。沼津高女の当初の門構え
もまさしくこのラインから外れていない。門構えの様式が学校のステイタスシンボルとなっていた様が表3 からはうかがえる。
4-2 社会と学校そして門構え
このような傾向が当時の沼津近郊或いは静岡県の傾向であったかどうかは判然としない点もあるが、それら学校の制度の推移な
どから経時的に眺めてみると、図12 のようになろうか。
門構えの推移からみて注目されるのは、中等教育制度の模索時期である。この模索は、沼津を例にとると、現在の沼津東高校の
前身である沼津中学校の設立以前にも別の沼津中学校が一時期存在していたことなどに現れている。そして、その後の中学校や高
等女学校、実業学校の設立が明治 30~40 年頃に集中していることにも表れている。中等教育の制度化は小学校に比べて遅かった
のである。その理由は教える側の教師が明治時代初期には不足していたことにあった。
明治初期の沼津にあっては「学校」とは「沼津兵学校とその附属小学校」であった。しかし、沼津兵学校の廃止に伴い、沼津で
もそして多くの各地でも、「学校」は、学制発布での「小学校」を意味していた時期が続いた。
初期の明治政府は、財政は充分とはいえなかった。秩禄処分や地租改正などに伴う歳入の増加はあったものの、西南戦争などで
の出費増大などやそれに伴うインフレは、同じころ推進された学制による小学校の建設に注ぎこまれる資金を地方に転化させるこ
とになった。一方で、インフラ建設による内需拡大での経済活性化と地方資金の取り込みも考慮されていたのではないかと思える
が、本稿の論旨からは逸脱するのでこれに留める。
小学校は明治初期には「おらが村の誇り」だったのである。そして、庶民が出入りできる施設建設のチャンスでもあった。もと
より、教育に対する時代の意気込みも背景にあったことは容易に予想される。こうして地方に建設主体を求めた立派な学校の校舎
が相次いで各地に建設されることになる。地方の人々は寄付をもいとわず、学校(小学校)建設を主体的に進めていったのだ。資金
学校名* 年* 構成 材質 門扉 笠木 備考
沼津高女 明治36~40年 主×2、脇×2 石 木製 有
三島高女 大正期撮影か? 主×2、脇×2 石 不明 有
静岡高女 明治37年か 主×2、脇×2 石 木製 有
静岡英和 不明 主×2、脇×1? 不明 鉄? 不明
沼津中学 明治 主×2、脇×2 石 鉄製 有
静岡中学 明治 主×2、脇×2 石 鉄製? 有
沼津商業 明治 主×2、脇×2 石 不明 無
静岡商業 明治 主×2、脇×1? 石 鉄製? 有 門柱間にアーチ門灯らしきもの有
沼津農業 大正15年撮影 主×2 木製? 木製 有 写真28は静岡県駿東農林学校時代
静岡師範 明治 主×2、脇×2 石? 不明 有 門灯らしきもの有
年*   当該写真の撮影時期又は門の設置年
学校名*当時の通称  それらの後身は以下の通り
沼津高女;静岡県立沼津西高校 沼津中学;静岡県立沼津東高校
三島高女;静岡県立三島北高校 静岡中学;静岡県立静岡高校
静岡高女;静岡県立静岡城北高校 沼津商業;静岡県立沼津商業高校
静岡英和;静岡英和女学院高校 静岡商業;静岡県立静岡商業高校
沼津農業;静岡県立沼津北部高校を経て同沼津城北高校
静岡師範;静岡大学教育学部
表3 沼津市及び近在の明治期設置の女学校などの門構え
面の潤沢さの違いも反映しながら、門構えも、多様化した中で各種形式が取り入れられた。その中には江戸時代の格式を残す冠木
門形式もあったのである。この間の小学校建設の経済的背景は前述の漢人の分析でも明らかにされている。
しかし、こうした状況は、中等教育の全国展開とともに変化せざるを得なくなる。中等教育機関やそれ以前から都市には存在し
ていた高等教育機関との位置づけ―格式差である。高等教育機関の無い地域の教育のステイタスは中等教育機関にとって代わられ
たのである。
中等教育機関の門構えは小学校の門構えを越えることになる。一方で、小学校の更新に際しての維持費用の増大への反省などか
ら生じる簡素化の流れともあいまった。素朴な門構えでも結界としては十分であり、小学校については、勤勉・自助・質素などを
具現化した二宮金次郎像建立の動向などとシンクロした形で原風景としての素朴な門柱に転化していった。
このような流れの中で沼津高女の門構えも建設され、それは時代の流れに沿ったものであった。
しかし、再度、大きな変化が及ぼされた。それは新制中学校の義務教育化である。この当時、経過は判然としていないながらも、
新制の沼津四中は沼津高女の旧正門(当時の裏門)引き継ぐことになる。その際、高女のステイタスとしての旧正門というものをど
のように新制中学校に取り入れるかという躊躇があったのではないかと推察する。その結果として、沼津四中は笠木を省き、ただ
図12 明治維新~1940 年頃の学校建築の門構え推移
し脇門柱は備えるという、それまでの小学校門構えに準拠した形で取り入れることにしたのではなかいかとも思えるのである。新
制中学校とそれまでの制度下での小学校の高等科とのバランス感覚が働いていたのかもしれない。小学校の延長なら、笠木は畏れ
多いと考えられたのかもしれないのだ。
また、沼津四中の旧正門が少なくとも昭和 33 年までは門扉のない門柱だけだった。その様式は、既に紹介してきた近在学校の
収集資料の中の、かつての第三尋常小学校や内浦尋常小学校さらには金岡小学校などの素朴な門柱のみの門とイメージが重なる。
それらがどのような関連を持っていたのか、或いは、いなかったのかという点も新たな疑問となった。
なお、学校建築の分類は、漢人も紹介しているが、文部省編の「目で見る教育100 年のあゆみ」や、それに加筆修正した菅野・
佐藤の「日本の学校建築」がある(*48)。図12 からもおおむねそれらと同様な推移が分かる。
また、本稿の趣旨からは逸脱するので詳察は控えるが、明治初期の小学校建設に続く、第二の義務教育施設建設の大きな流れが
前述の新制中学校建設である。当時の種々の情勢から、その建設の多くは地方に資金や労働を求めることになる。この間の経緯に
ついては、古川和人が当時の田方郡西浦村(現在の沼津市西浦)の例を同郡下の各村と対比しながら詳細に分析紹介している(*49)。
ただ、「おらが村の学校」の時代とは様相は異なっていた。既に「学校」は物珍しいものでなく、経済環境としても「農地改革」を
経た新たな土地所有者との調整が必要となっていたのである。
§5.仮まとめと謝辞
明治時代初期には既にポンチ画を含んだ新聞などのメディアも登場していて、東京や或いは静岡などでの洋風建築やその門構え
なども沼津では知られていたと見られる。しかし、沼津とその近傍で庶民が実際に初めて石の門構えを目にしたのは、現在の沼津
市立第一小学校の前身であったろう。
これまで検討してきたように、沼津四中の旧正門が旧沼津高女の正門を移設したものとの噂との仮説は、多面的な検討により、
ほぼ検証された。しかし、まだ不明な点も多い。
これと伴に、学校建築での外構設備としての門の意義を近在の小学校や中等教育施設を対比させ、その推移ともに検討した。こ
の結果、庶民が参加でき、子どもたちへの期待を込めた明治初期の学校建築に伴い、沼津近在では、その土地の唯一の「学校」と
して、門構えも資力に応じて立派に建設され、石というステイタスな材料を用い、一面では江戸時代の格式を踏襲しつつ、子ども
たちに対する結界の意見合いも含みつつ建設されたことがわかった。しかし、その後の維持の困難さや、中等教育機関の設置によ
り、格式差が生じるとともに、石の柱という特殊性の後退、小学校教育での質素倹約、簡略化などから、素朴さに回帰し、それら
の混在の中から、二本門柱の原風景化が進展したと見られる。
このような動向の中で、ほぼ時代的に一斉に進んだ、沼津のような地方での中等教育施設の建設は、前述の格式差を踏まえて標
準的な様式として当時の小学校の門構えの格式を上回る差別化の下で建設されたと見られる。これらの推移が、沼津高女の移転新
築に伴う、その門構えの一部が近隣の新設新制沼津四中へ移設された際の、受け入れ側の様式格差への困惑を伴ったのではないか
とも推察できた。
なお、本稿では大きく触れていないが、学校建設に伴う外構建設の多くは、地方自治体による「建設」の範囲に含まれておらず
自治体予算化や学校債の対象にもならず、地域での寄付や厚意から成立しているようだ。その例は、昭和 49 年の静岡県立沼津商
業高等学校の移転に伴う正門建設でも現れている(*50)。
なお、最近、愛知県は同県内の旧制中等教育施設として残る 13 の学校の門構えを文化財登録している。それらは、工作物とし
て、国土の歴史的景観に寄与しているものなどの基準で選ばれ、その建設年代は明治から昭和にわたる。例えばその一例としては、
昭和13 年(1938 年)に旧愛知県立第一中学校の正門の、現愛知県立旭丘高等学校正門門柱などがある(*51)。
沼津に残る学校門構えや、冒頭の現存する「行幸橋」、更には沼津のたからとしても保存が充分でない旧三津隧道などにもこのよ
うな価値の側面があることを声高に主張したい。また、本稿に関わる調査の過程で沼津市明治史料館に移転保存されている「伝沼
津兵学校門柱」にも出あっているが、これには疑問も多い。なによりも「沼津兵学校」は旧沼津城の御殿を用いたもので、洋式の
門構えの必要性はなかったと見られるのである。恐らくは、その後の明治初期の沼津の公的または準公的な施設の門構えとして製
造設置されたものが、誤って伝えられたものと見られる。その材質は花崗岩であり、本稿でも検討していたように花崗岩は当時の
沼津では入手が難しいものであった。
沼津四中や沼津西高での調査もまだ十分ではなく、沼津高女設立に大きく関わった江原素六のそれに関する調査も十分ではない。
新たな疑問とともに、残された疑問についても今後も引き続き検討する予定であり、本稿ももう少し体をなした論文として、しか
るべく機関からの発行を目指したい。
本稿をまとめるに当たっては多くの協力を得ている。既に本稿中で触れていた以外にも、(以下敬称略)前田泰之、同御母堂、鈴
木栄子、関静子、西川万里、中村和子、中住町昭和会などの方々に多大なる協力を頂き、改めて感謝申し上げたい。
笠木のついていない沼津四中旧正門は、やや不安定な感じも抱かせる。それはあまりに背丈の割に幅の狭いことから生じる。笠
木がついていた場合は、あたかもやじろべぃのような見た目の安定感も生じさせたかもしれない。
硬いイシの下での柔軟な発想が今後も必要とされる状況は変わっていない。
(ver.1 2018.9.8)
§References
(*1) 漢人省三<平成20年度修士論文 (静岡文化芸術大学大学院 文化政策研究科) 「擬洋風学校建築。この不思議な存在!~明治初期の学校建築とその文化的社会的背景
についての考察」、平成20 年度
(*2) 四方一瀰「近代教育の展開と地域社会」梓出版社 2009.9
(*3) 樋口雄彦、「沼津兵学校の研究」吉川弘文館 2007.10
(*4) 企画展「沼津の学校はじめて物語」(2017 年7 月22 日~9 月24 日)図録、沼津市明治史料館編集発行 2017.7
(*5) 沼津市立第一小学校 創立百二十周年記念誌編集委員会編集発行、「追憶 沼津市立第一小学校創立百二十周年記念誌」、1968
(*6) 渡邉美和、「小学校算数教育の発祥の地 沼津」、沼津史談会「沼津ふるそと通信第2 号」2016.12.20
(*7) 日本エクステリア学会/編著、「図説近代エクステリアの歴史-江戸から東京の門塀・街並み・石材-」、建築資料研究社刊、2018 年3 月
(*8) 「図説近代エクステリアの歴史-江戸から東京の門塀・街並み・石材-、(*7」)と同p48
(*9) 「図説近代エクステリアの歴史-江戸から東京の門塀・街並み・石材-、(*7」)と同p48-49
(*10) 静岡県立沼津西高等学校HP、「沿革」、http://www.edu.pref.shizuoka.jp/numazunishi-h/home.nsf/IndexFormView?OpenView
(*11) 「あゆみ」創立五十周年記念誌、沼津市立第四中学校発行、平成9.12
(*12) 「西高七十年史」、静岡県立沼津西高等学校発行
(*13) 「西高七十年史」(*12)と同
(*14) 「高女・西高九十年史」、静岡県立沼津西高等学校発行、平成2.11
(*15) 「高女・西高九十年史」(*14)と同
(*16) 「西高七十年史」(*12)と同
(*17) 「あゆみ」(*11)と同、p38
(*18) 「あゆみ」(*11)と同、p34
(*19) 「あゆみ」(*11)と同、p29
(*20) 「沼津の学校はじめて物語」、(*4)と同
(*21) )「沼津の今と昔」、沼津市役所発行、1963 年
(*22) 「明強舎」(創立百八周年)記念誌、沼津市立第二小学校発行、昭和56.12
(*23) 「写真アルバム 沼津・三島の昭和」、いき出版社刊 2016.11
(*24) 「原」原小学校創立百周年記念誌、沼津市立原小学校発行、昭和61.3
(*25) 「図説近代エクステリアの歴史-江戸から東京の門塀・街並み・石材-、(*7」)と同p48
(*26) 一般社団法人 日本建築構造技術者協会、『鉄筋』- 鉄筋コンクリートに使われる鉄筋 http://www.jsca.or.jp/vol5/p4_4_tec_terms/200710/200710-1.php
(*27) 「図説近代エクステリアの歴史-江戸から東京の門塀・街並み・石材-、(*7」)と同、p134
(*28) 「図説近代エクステリアの歴史-江戸から東京の門塀・街並み・石材-、(*7」)と同、P135)
(*29) 増島 敦、「三島市周辺の石燈籠の石材と地震被害-ジオツアー三島を通して-」、静岡地学第109 号(2014),p7
(*30) 増島 敦、(*29)と同、p30
(*31) 「小さなトンネルを抜けると少年の頃の美しき景色があった。」blog 、http://natukusa-fuyunami.way-nifty.com/top/2013/08/post-afec.html
(*32) 沼津市役所HP の「災害事例 地震」http://www.pref.shizuoka.jp/bousai/e-quakes/shiraberu/higai/saigaishi/sh0010.html
(*33) 「にしうら」西浦小学校創立百周年記念誌、沼津市立西浦小学校発行、昭和51、p152
(*34) 文部科学省の「学制百年史」web の中の「明治初年の学校建築」、http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317687.htm
(*35) 国立国会図書館デジタルコレクション、日本法令索引、「小学校設備準則」)、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788012/483
(*36) 国立国会図書館デジタルコレクション、日本法令索引、「尋常中学校設備規則」、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787984/470
(*37) 国立国会図書館デジタルコレクション、日本法令索引、文部大臣官房会計課建築掛 [編]、「学校建築図説明及設計大要」、明治28 年
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1078704
(*38) 「静浦」沼津市立静浦小学校創立百二周年記念誌、沼津市立静浦小学校発行、昭和63.3、p25
(*39) 「おおひら」創立百周年記念誌、沼津市立大平小学校発行、平成2.11、p47
(*40) 「浮島」沼津市立浮島小学校創立百周年記念誌、沼津市立浮島小学校、平成元11、p37
(*41) 「にしうら」(*33)と同、p152
(*42) スタジオジブリ制作「となりのトトロ」、宮崎駿監督、1988 年(昭和63 年)初映
(*43)「ふるさとの思い出、明治大正昭和写真シリーズ静岡」、小川龍彦編、国書刊行会発行、昭和53.12
(*44)「目で見る「三島の歴史」web、「田方郡立三島高等女学校 (現三島北高校)」、三島市、https://www.city.mishima.shizuoka.jp/websystem/syashsin_rekishi/v41.htm
(*45) 沼津東高同窓会誌昭和47 年3 月発行
(*46) 「70 年のあゆみ」、静岡県立沼津北部高等学校発行、昭和48.10
(*47) 「沼商90 周年記念誌」、静岡県立沼津商業高等学校発行、平成元11、p21
(*48) 漢人省三、(*1)と同、p12
(*49) 古川和人、「戦後占領期における新制中学校独立校舎建設に伴う住民参加型コミュニティ・ファイナンの研究(2)」、東京女子体育大学・東京女子体育短期大学紀要、
第45 号、2010
(*50) 沼商90 周年記念誌、(*47)と同、p39
(*51) 愛知県教育委員会の HP、「登録有形文化財(建造物)の登録について」平成29 年3 月10 日発表
https://www.pref.aichi.jp/soshiki/syogaigakushu-bunkazai/tourokubunnkazaikenzoubutsu.html

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