More Related Content
More from Makoto Ogawa (8)
2014
- 8. 14回に上るイベントの数
• 放射線勉強会「原子力発電のし
くみ」
• 小杉ヤス子(聖母)誕生日
• 田中茂樹を市議にするための
作戦会議!というなの飲み会
• 【鬼はうち、福はそと】あべこべ
節分パーティ
• FC誠組:2月のセッション「他人を
知って、自分に気づく」
• もっと便利にFacebook活用塾
『グループとイベントの活用】
• 超カワイイ放射線測定器無料
貸出説明会
• ガバメント2.0長岡研究会
• 真冬の夜を生き抜く力を養うサ
バイバル
• WordPress構築研究会
- 10. 7回に上るイベントの数 そして
• 本格タイ料理「アノン」駅前店で
ちょっと遅めのランチ会
• 食品・土壌放射能測定講習会
• 小さなプロジェクトにお勧め!ブ
ログの顔を持つSNS雄:【Tumblr
の可能性】
• エコノミカのカードゲームで経済
を理解しましょう
• WordPressを触ってみよう!いじ
くり倒そう!
• 恋チュンダンシング:23日アオー
レ集合(飛び入り歓迎)
• 弥三郎婆流:手打つうどん講座
• ガバメント2.0長岡研究会
• 【脱素人写真塾】モノクロ写真を
極める4つのポイントと1つの鍵
- 43. 即 お帰り下さい。危険です!海外は簡単な処では無いのです!全てに甘い 甘え
てる !
日本では廻りに沢山の友人がいる。海外は居ない! 貴方の存在は日本では認
識されている。海外では? 命懸けで誰にも頼らず 沢山の友人を現地で作り友人
の輪を広げビジネスを展開する。
自分を捨て相手の利益を優先して、自分の口より相手の口に!
約束はどんな些細な事も必ず守る。時間 期日 ルール マナー 全てに。多くを話す
な!
出来ない約束はしない。夢と現実を直視する。
誰が何を言ったは言わない!
誰も意見を言わなく成ります。甘えてる内は国内が安全である。
取り急ぎメールします。
海外なら何かしら変わる変われるのでは?ビジネスもきっと上手く行く全然 違う
自分が変わらなければ 国内で上手く行かないなら? 海外では全く通用しない(人
物 金)日本国内の足下と立ち位置を確立して海外に飛躍する(希望的意見)
海外でビジネスなら思い切り沢山沢山国内で働いてお金沢山 貯めて もっともっと
沢山沢山の海外を見てからが良いかな
今回は海外観光旅行にしてお帰りくださいご苦労様です
Editor's Notes
- 2013年末に小川誠に救いをもたらせた言葉がありました。フューチャーセンター長岡の中で現れた「株式会社自分」。これは、一人一人が独立した会社のように時代を歩こう。このときに、何に向かうか絞れていたのなら、今ある道は違っていたかもしれません。ただし、迷走の幹はすでにあったのです。
- 左上。2014年を示唆するような名刺です。作ってみただけでいかすことはできませんでした。この頃からフューチャーセンター長岡の加藤さんは、「まこちゃんはいいものをたくさん持っているのだけど、活かせてない!」と警鐘をならしてくれていました。今も同じことを言われています。2月。
- 様々な勉強会を開催し、自分の何ができるか探していた2月。展開したイベントの数だけでも14回。今、このときの活動がどれだけ残っていますか?って考えてしまいます。
- このときの取り組みがいくつ残っていますか?2014年思い付きではじめたことがどれだけあったか。でも、しっかりの形として残っているものを探すと思いだすだけで、正直怖いです。
- この頃のFacebookは、ほとんど何もアップされていません。といっても、何もしないで寝ていたわけでもない様子。何かが回り始めた予感を感じていた時なのかもしれません。ただ、この後の流れを考えるに、この時期が迷いを吹っ切って、何かに絞るときだったのではないでしょうか?このときも、2月に引き続きいろいろなことをしています。
- 放射線測定会 恋チュン インターネット 蕎麦大学 写真 ガバメント2.0 と多彩に彩る乱立ぶり。このときの収入のウエイトで考えれば、蕎麦大学に集中するべきであるとはっきりしていたにも関わらず、一番大切にし続けてきた分野で力を発揮しようとしてさらに迷走ぶりを深める結果に
- そして、自ら飛び降りた4月。
- 私に写真家としての自信を取り戻させた渋谷でのストリートスナップ。自分の中に眠っていたフォトグラファーの炎が再び。そこで出会ってしまったのがこの3か月の流れ。結果的にこれが、自分の基盤を揺るがす結果となっていく。
- 私の特徴を切り替えが早いという人がいます。それは、間違いです。「諦めが早い」のです。その上で、いろいろなものに関心が行く。さらに、思ったらすぐに行ってしまう展開力があるがゆえに、あれこれ手を出した結果。何に向かっているかわからなくなる。
- 写真には、2つの関わり方があることを知った日。私の写真は一度死にました。後者の方が圧倒的に大多数であり、そこを無視し続けてきたのが私の写真である事実を知ったからです。写真は私を形成する一番の幹です。その幹が脆くも崩れ落ち、このあと、多くの影を残します。このときに、写真を撮るほうにエネルギーを費やせていれば、空白の時間は生まれなかったかもしれません。しかし、このときに気が付いていなければ、ずっと気が付かなかったかもしれません。そして、5月。
- SideWalkerは、私の勝手な理由で辞めました。それが事実です。しかも、自分で逃げ道を作って逃げ出したのです。そのときに、1月から続けてきた活動の多くも、投げ出したのです。
- 忙しくなんてなかったのです。ただ、何かそぎ落とされた感じの日々でした。それが大きな勘違いであったことは、これを作っている今の今まで気が付いていいなかったのが本音です。この頃。
- NPO法人住民安全ネットワークジャパンのパソコン教室から離れ、上川西のおじいちゃん達と独自に行ってきた上川西パソコンサークルの新緑会なんかをしたり。
- 毎年行われている復興マルシェで、お蕎麦打ち講座を開催しました。これは、その場でお蕎麦の打ち方をレクチャーし、ゆであがった蕎麦を食べてもらうというものです。
- たつもっきりとは、「もっきり」というのが正しいのです。酒蔵でます酒を飲みながら談笑する文化は昔からありました。それが、昭和になり、お酒を売っている酒屋さんの軒先で缶詰などをあてに、売っているお酒を飲んで楽しむようになりました。今ではほとんどありませんが、残っている地方もあるようです。そから派生して、コンビニで買ったお酒で「もっきり」をやるようになったのです。そして、SideWalkerの終わりのとき。
- SideWalkerを逃げ出した理由の前に、SideWalkerを始めた理由。
- 長岡市にも、空き店舗スペースは山ほどあります。そのスペースを有効活用する方法の一つとして曜日替わりでオーナーが代わるお店のモデルケースを考えるのが目的でした。その求めに答えて協力してくれたのがこの二人。
- そして、多くの悔いが残ります。この2店舗を閉店に追いやった直接の原因があるとすれば、私の嫉妬かもしれません。仲間のはずなのに、サポートしてあげなければいけないのに、結局何もしないまま、自分のSideWalkerしか考えずに閉店に追い込んでしまいました。私には、今もそんな思いがあります。相次ぐ2店舗の閉店と暇な時期を乗り切れない体力の無さが、結果的にSideWalkerを逃げ出す要因となりました。6月に入るとのどの渇きは最高潮。
- 寂しくて寂しくて仕方なかったのかもしれません。何をしたいのか、いよいよわからなくなってきた頃です。SideWalkerを自分で切り、蕎麦大学へのエネルギーも仕事にできるほどの体力はなく、惰性の中で目的も目標も見失いかけていた気がします。あれだけ、乱発していたイベントの数も数をひそめ
- この頃、追い立てられるように真夏の恋チュンに向かって走り出していたのです。先を何も見ない盲目の中を走っているような気がしました。そんな矢先にカンボジアの話。
- ネパールで多くを落としてきた私。その落とし物を拾いに行くためのカンボジアだったのかもしれません。ただ、その落とし物はもっともっと重たい落し物として残してかえってきてしまいました。そんな物語は、あとの章で。
- 2014年といえば、真夏の恋チュン。この団体。私は居ない方がいいんじゃないか?と最近つくづく思います。なぜなら、私は自分の形を押し付けているような気がするから。もともと、SideWalkerのお店の中で、ワイワイ踊っていたところからスタートした取り組みでした。
- これでもいいのです。ただ、これでは趣味の活動。これに社会的な意味合いをつけたのが今の恋チュンダンサーズです。それは、「広域災害発生時に備えて、普段の遊びの中から共助の関係をつくる」という防災に対する取り組みです。しかし、メンバーみんながそのような活動だとわかっているわけではありません。わかっている必要もありません。なぜなら、「みんなで踊ったら楽しいよねぇ」ということすべてが、目的に直結しているからです。
- 真夏の恋チュンは、商工会議所からのオファーからはじまりました。準備期間も少なく、予算もない。確定していたのは出演の謝礼5万。これでは、広報をするにも練習場所を確保するにも難しいと考えた結果。クラウドファンディングにチャレンジしようとしたり、助成金を申請したりしながらなんとか当日にこぎつけた感じです。その中で、もともとの恋チュンメンバーの献身的な協力があり、21.5世紀に向けた長岡まつり前夜祭の歴史に残るダンスとなりました。
- 本番直前まで、100人くらいしか集まらないかもしれない!というのが本音のところ。もしかして、大失敗になったとしても、300人集まったと言いはろう!と心にきめていたほど、当日こんなに多くの人が集まるとはおもっていなかったのです。そして、ダンス。
- いろいろな反省もありました。それでも、最後はみんなで満足。それでいいのかなぁ~~と思った真夏の恋チュン。そして、本来の目的である共助の関係つくりが花開いたのが、打ち上げでした。
- アオーレで開催した大打ち上げ。この場で様々な出会いがありました。この出会いが、また次のステージにつながっていくのかもしれません。その後の恋チュンと言えば。
- 恋チュンで声を掛ければ集まるサークルとしてすっかり定着した恋チュンダンサーズ。メンバーそれぞれがそれぞれの分野で様々なダンスイベントに関わり「集合」の一言でみんなが集まって踊る!そんなスタイルが完成されつつあります。
- 恋チュンダンサーズは、極めてユルイ繋がらいの中で、自由な発想と自由は行動力でやっていければよいです。しかし、真夏の恋チュンはそれなりの準備が必要。写真の子。恋チュンダンサーズのメンバーならだれでもが知っているリアルな恋チュンアイドル山村あやかちゃん13歳。彼女、今年の恋チュンでも大人たちを引っ張ってきたリーダー格の逸材。この子をリーダーに大人がサポートしながら、真夏の恋チュンを来年も大成功させます。そして、話はいよいよカンボジア。
- 6月の末に突然、沸いて出てきたカンボジアの話。この時の私は、心の穴を埋める何かをさがしていました。タイミングが良かったのだろうか?悪かったのだろうか?多くの方を巻き込んだカンボジアの真実の話。足りていなかったのは、私の覚悟であり、不要だったのは私のおごりでした。
- 熱烈に歓迎してくれたママ。最初の日に聞かれたのは「本当に引き継ぐ気があるのか?」という問いでした。もちろん、「はい」と答えました。ただ、この数日後まで私は、「頑張って、ママに気に居られれば、必然的にお店はタダでもらえるものだと信じていました」。
- この人の偉大さは、帰ってきた今でも正直よくわかりません。だからこそ、帰るように言われたのかもしれません。
- 朝の食事に関するやり取りでした。ママに密着してママのリズムを吸収するところからはじめようと思っていた私は、このとき、この言葉が刺している意味を何もわからずに「はい」と返事をしていました。
- 市場でのやりとり。見ているつもりでした。表面上の言葉の意味しか捉えていませんした。
- 私が来る!ということで急きょインターネットがつながるようにしてもらったのですが、しょっちゅう断線する。いろいろな要因を考えながら、御国事情なのかと諦めていた私。それに対して、連日ママが私に伝えてきた言葉。最終的にインターネットの件で、ママに言い返したことが原因で帰国することになります。
- このときまで私は、買うとしても、もっと先の話だと思っていたし、もっと低い金額だと思っていた。そんなの集められっこない。なぜなら、渡航費もなくてみんなに協力して送り出してももらったのだから。とはいえ、「無理です」なんていったら、その場で帰れ!と言われそうだったので月末まで保留にさせてもらいました。このころのママが良く私に言ったこと。
- なぜ、そんなに嫌われたのかさっぱりわからない。でも、この子はダメだw!と見られているのは感じていました。それ以上に、自分らしさを何も発揮できる場がないまま、烙印をおされたのではないかという無念さだけが私を包んでいました。この事実に対して、様々な方に相談したのですが、その返信はこのようなものでした。
- 全くその通りです。他にもたくさんご意見いただきました。
- この言葉の意味も、さっぱり解っていなかったということが、今ある現実だと考えています。
- 月末を待たずに、買えないことを伝えたました。その際、3月まで居させてほしいと嘆願したときの言葉です。その後、
- 返す言葉もありませんでした。この返す言葉がないというのが、すべてを物語っていると感じています。
- 帰り際、ママが私の残してくれた言葉です。
- 私のビジョンは、すべて後付の言い訳なのではないだろうか?助成金の申請書のように、後からもっともらしい理由を付けて逃げているだけ。だからこそ、結果に対する執着もない。それが、カンボジアを帰ることになったすべての原因ではなだろうか?
- そして、同じ過ちを繰り返している現実に戻ります。
- そして、同じ過ちを繰り返している現実に戻ります。
- ぽっかりと空いた時間。多くの方を巻き込み、ご迷惑をお掛けしたうえでの帰国。たくさんの焦りの芽がありました。
- 余命の日時を数えるような焦りと不安が私を包み込みます。そして、地に足が付かないままの11月でした。
- すべてをほったらかしにして、旅立ったカンボジア。帰国後、私にはお金もなければ、何も残っていなかった。何ひとつできない日々。そんな焦りの中から、どうにかして小金でも作る手段を考えなければ!という発想が、帰宅困難者避難小屋となっていった。そして、シェアスペースへ。一方、私不在で独自勉強会を繰り返していた上川西パソコンサークルといえば
- 私が、カンボジアに行かなければ、部屋を借りてでも共有スペースを作って、パソコン教室にするつもりだっただけに、どのような復帰のあと、ほったらかしにしていた現状の問題とどう向かい合うかがポイントとなっている。そして、然したる収入源の道もないまま、12月。目に前の焦りの中で、どんどん深みにはまっていく。
- 12月。この1年を振り返るにあたって、上半期と下半期で大きく流れが違うことに気がつきました。
上半期は、グダグダになりながらも蕎麦大学の流れをしっかり捉えて活動していました。しかし、7月以降、恋チュンに向かったのと同時にカンボジアが大きなウエイトをしめて、それまでの蕎麦大学の流れを分断してしまいました。そして、帰国後の2ヶ月。
- 余命の日時を数えるような焦りと不安が私を包み込みます。そして、地に足が付かないままの11月でした。