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今日の予定
朝食 朝食後、チェックアウト
ホテル支払い
スーツケース預ける
Montparnasse-B/
M 4( Clignancourt)→Cite
午前 ① ノートルダム寺院
② Marche des Fleurs
③ サン・シャペル寺院
④コンシェルジューリー
昼食 St-Michel 近辺で軽食
Odeon/M10(Gare d'Austerlitz)
Maubert-Mutualite→
午後 ⑤ パンテオン(中世博物館)
⑥リュクサンブール公園
ホテルに戻りスーツケース
Pick-up してモンパルナス駅へ
18:30
19:00
Montparnasse Bienvenue/M4
→Gare du Nord
Lv.Gare du Nord RER/B に乗車
Ar.CDGT2 、 CDGNavette に乗り換え
Ar.CDG/Termini #1へ
19:30 OZ にチェックイン
買い物、夕食、出国手続き、 Gate
へ
21:20 Lv.Paris/CDG1    OZ-502 便
⑩ 6 月 18 日(水・ mercredi ) パリ最終日(シテ島・カルチェラタン)・帰国
午前 5 時カーテンの隙間からモンパルナスタワー、今日もよ
く晴れそう。
6 月 17 日 ( 水 ) 最終日
朝食をとって、ドアの多い部屋からスーツケースを引っ張り
出しチェック・アウト。ホテル代は前のバスティーユのホテ
ルよりも安いことはないし、朝食の部屋も予約の写真で見た
のと全く期待はずれだった。建物は狭っ苦しいし、良いこと
はなかったが、このホテルに出入りして
いるとお陰様
でモンパルナス
の雰囲気を味わう
ことができたのは
よかった。
まあいいか。
ホテルにスーツケースを預けて、
Montparnasse Bienvenue からシテ島へ向
かう。モンパルナス大通りのいつ
もの道を歩く。結構通勤客が通り
のカフェにでている。
花の市( Marche aux Fleurs )
Cite :月~土 8:00 ~ 19:30
M4 Cite, Place Louis L’Epine
”広場の左手には厳格な外装をもった Hotel Dieu"( オテル
デュー、神の宿の意味)がある。オテル・デューは中
世に入ってから修道士たちの手によって旅の途中で倒
れた巡礼たちや貧しい人々を助ける活動がされた。ホ
スピスの原型。一方でオピタル・ド・ラ・シャリテ
(慈善病院)が16世紀に創られた。それがフランス
革命のナポレオンの頃にオテル・デューと合併されて
、 Des Hospices Civilis 市民ホスピスと呼ばれるようになっ
たのである。その後、今でもデ・ゾスピス・シビルよ
りオテル・デューの方が呼び名として親しまれている。
救急車が出入りする。
地下鉄シテ駅を出ると向かい側は Prefecture
  de Police とあるから、パリ警視庁か?左
手をみると Plais de Justice( 最高裁判所)が
堂々と朝日に輝いて、すぐ左手にサン
ト・シャペル教会の尖塔が見える。
もし、正面がパリ警視庁ならメグレ警部
もルイドフュネスもここに勤めているは
ずなのだが。もっともメグレは前の晩飲
みすぎてまだ出勤してないかもしれない
が。とっても刑事とは見えない連中が身
分証明書を見せながら建物に吸い込まれ
ていく。ノートルダム大聖堂は近い。す
ぐ近くにある。9時前のせいか、大聖堂
の前の広場はまだ観光客の団体バスは見
えない。
Cathedrale Notre Dame de Paris
12 世紀ゴシック建築の最高峰といわれ、パリ 800
年の歴史を見続けてきた大聖堂。アルシェヴェシェ
橋を渡ったセーヌ左岸から見る南側と後陣のパノラ
マは、パリで撮も美しいといわれる代表的景観であ
る。ノートルダムとは“我らが貴婦人 ' という意味
で、聖母マリアのこと。
●正面ファサードの 3 つのポルタイユ(門)、北の
「聖母マリアの門」、中央の「最後の審判の門」、
南の「聖アンナの門」、その上には 28 体の彫像が
一列に並ぶ「諸王の回廊」、中心に直径 10m のバラ
窓があり、高さ 69m の 2 つの塔がそびえる。
● 南塔には重さ 13 ” ”㌧の大鐘 エマニュエル があり、
欄干を飾る怪獣キマイラのユニークな彫像を見なが
ら、シテ島や市街を一望するパリ最古の展望を味わ
いたい。
 パリは紀元前4世紀ごろガリア地方に住むケルト種族の1氏族
パリジ族( Parisi) が、シテ島に集落を形成したことに始まる。シテ
島はセーヌ川を渡る地点であったため交易が発展していたが、
シーザー率いるローマ軍とケルト諸部族連合の総決戦でシーザー
に破れ、以来シテ島から発して渦巻き状に街に発展していった。
約 2000 年前、はるかイスラエルの地でポンテオピラトがイエズス
を裁いていた時代、ガリアではケルトやローマの神々がこの地で
崇拝されており、パリの舟人達は、ジュピターに奉じる祭壇をこ
の地に築いていた。
 このように、シテ島という場所は起源を辿ると、かなり異教的
な歴史も経るが、 6 世紀から 7 世紀にかけて 3 つの教会がキリス
ト教の信仰に基づいて現在のノートルダム寺院の敷地に建てられ
ていた。後にノルマン民族による破壊・略奪を受けたりはしたが
、 9 世紀には再建されていた。
  10 世紀のフランスは、フィリップ・オーギュスト王の支配下に
あり、内的にようやく統一のとれてきた時期であった。フランス
の領土は拡大し、十字軍のようなまるで栄光をもたらさない動き
もあった。 1204 年の十字軍第 4 遠征によってコンスタンチノープ
ルが破壊されると、西洋と東方の教会の仲に暗い影をさしてくる。
その 50 年前、英知に富み、案務的な面で才能のあった 1 人の司祭
モーリス・ド・スッリーが聖母マリアに奉献する新しい大聖堂を
建立することを決定していた。
  1163 年パリ司教シュリーはそこに都にふさわしい大寺院の建造
に着手、 1320 年頃に工事は終了するが、建築途上も完成後も、
数々の歴史的事件の舞台となった。 1239 年には、聖王ルイが「キ
リストの荊冠」などの聖遺物をここに仮安置し、 1302 年にはフイ
リップ 4 世が最初の三部会を開催。また、 1455 年にはジャンヌ・
ダルクの名誉回復裁判、 1572 年にはのちのアンリ 4 世とマルグ
リット王女の宗教内乱平定のための政略結婚がとり行われている。
(サン・バルテレミーの大虐殺の日)。
 宗教的意義より理性が重視された革命時代には、鐘は溶かされ
彫刻も破壊され、内部は飼料庫と化した。受難の時代を経た大聖
堂だが、その後、ナポしオン 1 世がミサを復活させ、さらに自らの
パリはこのシテ島から発展し、この広場はた常にパリの中心で
あった。
現在この広場から西の方向には、サントシャペル礼拝堂、アン
バリードのドーム教会、エッフェル塔が連なり、北西にはパ
レ・ド・ジュステイス、ルーブル博物館、凱旋門、デファンス
と連なる。北の方角にはサントウスターシュ教会、モンマルト
ルの丘のサクレクールがあり、東にはバス ティーユ、東南に
はサンルイ島の向こうにフランス国立図書館、そして南のセー
ヌ左岸には、カルチエラタンの古い家並み、パンテオンが建立
されている。とにかくパリの中心なのだ。
・まずは正面(ファサード)の3門(ポルタイユ)に掘りこま
れた彫刻
  群をじっくり見学しよう。 中に入っては雰囲気を味わい
、3つの
  薔薇窓の写真をとりたい。内部にはいろいろな彫刻や重要
な絵
  画もあるらしいががあまり時間をとらないで、それよりも
 ・鐘楼に登ってパリを一望する。怪物たちを近くで見るのも
楽しみだ。
 ・その他に宝物殿、聖堂前広場の地下の考古学的な納骨堂な
どが
   あるが今回は省略しよう。
  ・ぐるっと回って後陣回廊の外側も見たいのだが時間が許
すか。
ノートルダムの前の広場に到
着
ノートルダムの前の広場にシャルマーニュ大帝
17 世紀の広場(大聖堂で買ったガイドブックか
ら)
広場の地面には、石で造られた標識や昔の道筋の跡が残って
おり、これらによると、ノートルダム寺院の出来た当時の広
場は、現在の広場の 3 分の 1 程の大きさだった。大きくなっ
た現在の広場から、現代の観光客達が大聖堂の正面の全景を
写真に納めることが出来る。広場の地面にフランスのすべて
の道路の出発点の星が示されている。出会いの名所である
ノートダム寺院ではこの星が美しい象徴となっている。
現在は、ノートルダム寺院の広場からセーヌ川の河岸が見え
るが、中世の時代には、大聖堂とセーヌ川の間には建物が立
ち並んでいて、現在の眺めとは違っていた。昔、パリジー族
の町「リュテス」の運命は、自然の保護なくしては、平穏に
保たれることは無かった。
セーヌ川の向こう岸のカルチェ・ラタンは、当時のカト
リック教会が設立した大学の地区である。当初、ノート
ルダム寺院のすぐ傍らに大学を置いたのだが、川の対岸
の方が充分な敷地がとれるという事で、大学をそちらに
移転したものだ。
ノートルダム寺院の正面から見て、広場を挟んだ反対側
に現在の警察庁がある。又、裁判所の裏手に当たるこの
場所は、昔何世紀にも渡って、王宮のあった所である。
しかし、王の聖別式がノートルダム寺院で行われる習慣
は無かった。ルイ 13 世の言葉によると、ノートルダム寺
院は単に「教区の 1 つ」と称されていた。セーヌ川沿い
には、病院 ( オテル・デュー ) が窪てられていた。
正面と2っの塔の建設には 1200 年から 1250 年かけての
半世紀が費やされた。当時(聖ルイ王(ルイ 9 世 ) の母
、カスティーユ女王が治世)、南のトゥールーズ地方で
強い勢力をもった異端者「カタリ派』との戦いが当時最
大の問題であった。
カタリ派の信仰は、「永遠にも、今日にも、不正な人間
と清い人間の 2 種類があり、世界は 2 っに分けられてい
る」というものであった。これに対してノートルダム寺
院は、「非人間的な絶対的信仰とキリスト的信仰には、
何も関係がない」と調和のある信条を貫ぬいた。やがて
、カタリ派はローマ教皇から破門を宣告される。
大聖堂の 1 階部分を占める3っの門は大変大きく見える。
扉は、それ程大きなものではなく門に対して lO 分の1程
度の大きさでしかない。彫刻の施された3つの門は、す
ぺての人々を迎え入れるために広げられた神の両手を思
わせる。
神学的配慮から、正面は町の方を向いて作られた。中央
の門の下方の左右に、人間の理論的、実際的な知識と、
美徳と悪徳を表した彫刻が見られる。左の門の左右、下
から上に、四季、人間の年齢期、そして各月の農作業の
場面カ描かれている。これらの図柄は、西のバラ窓のス
ノートルダムの前の広場
正面の中央の門(ポルタイ
ユ)
「最後の審判の門」
正面の中心の一番主要な門で、最後
の審判の場面を置いて人々に深く考
えさせようとする。栄光のキリスト
が玉座に着いている。しかしキリス
トの栄光は、十字架によるものであ
るから、頭の光輪の後ろには十字架
が見られ、上げた手には釘の痕、脇
腹には槍による傷がはっきりと描か
れている。
左右に居る天使は、十字架と釘、槍
をそれぞれ持っており、キリストの
両側には世の人々のために祈るマリ
アとヨセフが置かれている。弓なり
に上行する彫刻に、男女の聖人達が
それぞれの個性を示しながら並んで
いる。
イエズスとマリア、ヨハネの憐れの
限差しと聖人達の交わりの下方には
一番下:蘇る死者達、
中段:天使ミカエルにより地獄行と
中央の彫刻に、大天使ミカエルが天秤を使って人間
の心を測ろうとしているところが見られる。
左側に居る人々ばアブラハム、イサク、ヤコブと共
にあり、王であるキリストの栄光に参加することの
印の冠を受けた者、つまり天国に行けることになっ
た人々である。
大天使の右側には、地獄につながる鎖にしがみ
ついた人々が描かれている。彼らは、自分の意
志で鎖から手を放しさえすれぱ自由になること
が出来るのだがそれに気付いていない
正面の右手
「聖アンアの門」
「聖アンナの門」には 1160 年頃の大聖堂最古の彫
刻、イエズスの幼年時代の主な場面を表している。
門のすぐ上に(下段)にマリアの父ヨアキムと母ア
ンナの歴史とマリアの婚姻の物語が彫られている。
聖書外の物語である。
中段は、受胎告知から始まり、 3 人の博士の訪問、
キリスト降誕の物語が描かれている。ここにある像
は他の彫刻よりも古い時代のものである。
一番上に聖母子像がある。聖母マリアは、自分の息
子を訪れる人々に顕示している。マリアは、知恵と
神の御言葉によって高められた玉座についている。
ここでマリアは 2 位の天使と 2 人の人間に囲まれて
いるが、一般的な解釈によれば、この 2 人の人物は
ルイ 7 世とノートルダム寺院の創立者であるモーリ
ス・ド・スッリーとされている。
一
下段はマリアの両親の歴
史とマリアの婚姻の話。
中段は、「受胎告知」と
「聖母のエリザベート訪
問」の場面、東方博士の
訪問までを表している。
なぜかここの彫刻だけ古
く、ノートルダムのほか
の彫刻が 13 世紀前半なの
に対して、ここは 12 世紀
…半ば 人物の動きが少な
いのはまだロマネスク様
式を残しておりロマネス
クとゴシックの端境期は
こうなるものらしい。
下は聖アンナの門
の右扉口、木製扉
を飾る鋳物細工。
ここはノートルダ
ムへの入口で、ゾ
ロゾロと並びなが
らなにげなく通り
過ぎるところ‥
中央と左の扉口の
ものは 19 世紀の複
製というのに対し
、この右扉口だけ
は 13 世紀のものと
のこと・唐草に巻
かれる怪鳥たちの
デザインが面白い
。
「聖アンアの
門」
龍を退治する聖マル
セルの像。聖アンナ
の左右の扉の間にあ
る。
聖マルセルは 5 世紀
の人で、同時期の聖
ジュネヴィエーブと
並びフランス革命ま
ではフランス庶民に
人気のある聖人で
あった。2人とも勇
気と決断力に富み、
数々の秘蹟をおこ
なったという。そし
て、ここ聖アンナの
門にも龍を退治する
聖マルセルが訪問者
を歓迎してくれるの
である。
正面の左
「聖マリアの
門」
殉教した聖ドニ
永眠したマリアをキリストが迎えに来て ( 中
段 ) 、
昇天したマリアに戴冠させる場面 ( 上段 )
下段には、マリアの死とマリアの戴冠の栄光の場
面が表わされている。マリアは自分の子、イエズ
上に冠を置いているところである。しかし、マリ
アも天国で戴冠の栄光に与かる前に地上に於て永
遠の眠りについたのだった(中段)。 ( キリスト
教でも死を指して、永遠の眠りと言う ) 。死者は
、眠っているものとされ、最後の審判の日に神に
よって目覚めさせられることになる。キリストも
復活の日
にそうであった。この
為、目覚めという言葉
は又復活を示す。マリ
アの死の場面にも、
旧約聖書の話が想い
起こさせられる。 12 人
の弟子に囲まれたマ
リアの遺体の下には、
律法の石板を入れ
てある、契約の櫃が
ある。
最後の審判の門の左右の扉の
脇の一番下の丸い彫刻は様々
な悪徳( 1210-30 年頃、臆
病・残酷・不和・・・)を表し
、その上は美徳を表わす。
正面の 3 つの門の上側にはマタイ福晋書に記されているイ
エズスの先祖達、すなわちエッセイからヨゼフ迄の 28 代の
人物の像が、左から右に立ち並んでいる。ところが、彫像
が完成した直後、フランス十字軍がエレサレムで覇権を
握ってフランスの王が聖視され始めたため、これらの像は
フランスの王達の像であるとして見られ始めた。そして、
この誤解が延々と続きフランス革命の時に、これらの像は
ことごとく破壊された。
しかし、運命のいたずらか、これらの彫像から切り落とさ
れた頭部分だけが 1977 年再発見され、現在クリュニーの中
世博物館に保管されている。
19 世紀の彫刻家がこれらの像の替わりを作る時、中世の彫
刻をの復元に努力したが、出来映えは全く違ったものだっ
た。
 西正面は、3つある門の上部に、
諸王の階、バラ窓の階、列柱の階
( ( キマイラ/ガルグイユの回
廊 ) 、2本の鐘楼 ( 高さ 69m) が続き
、5層からなっている。
各階を区切る水平線が、柱の力強い
垂直線を抑制し、入口のアーチは優
雅な曲線を描きながら上昇の動きを
見せている。
ゴシック期のフランスの他の大聖堂
に比べて、西正面ファザードに全体
的な上昇の動きは少ない。
28 人の聖人像の上部の左右にアダ
ムとイヴの像があり、中間の西の薔
薇窓の前に、天使とイヴは人類の祖
先であり、イスラエル民族から始
まった救いの歴史が、キリストを頂
点にして完成することを説明してい
る。
悪魔の仕業
正面(ファザード)は
この位にして中に入ろ
う。
これまでストラスブールのカテドラル、パリの
サントースターシュ、サンジェルマン・デ・プ
レなどの教会を見てきたせいか、あまり興味が
わくようなものではないが、高く簡潔でスッキ
リしている。この大聖堂の素晴らしさは、背後
の西、中央からさゆうに見上げるステンドグラ
ス(バラ窓)なので早速ステンドグラスを見る
。
右側から通路を進んでいくと
ローソクが灯されている。金額
の多寡を問わず寄進してローソ
”クをもらい点す。円生の落語 消
”える を思い出す。この壁の十字
架は皇帝ナポレオン3世に贈ら
れたものという。
通路の右手には柱の区切りごと
に小聖堂がある。これは宗教生
活と一般生活がまだ区別されて
いなかった時代に、様々な同業
組合が占有していた。組合が寄
贈した絵が掲げられている。
この並びの一番奥の Sacre-Ceur
では司祭が世界中からやってく
る人の相談を受ける部屋になっ
ている。
中央交差路の内陣
にかかる右角に置
かれた聖母子像と
、南のバラ窓の下
にひっそりとおか
れた聖ジャンヌダ
ルクの像。この聖
母子像はガイド
ブックによれば 19
世紀に他の教会か
ら移し替えられた
ものらしい。 14 世
紀の作品で、その
名も『ノートルダ
ム・ド・パリ ( パリ
の聖母 ) 』と呼ばれ
るシンボルだ。
一段と高い内陣の聖ところでは、一般の信者と見える一群がミサを行っていた。
地元の信者の朝のミサなのだろうか、なんとなく普段着の人々には見えないの
で、それともアメリカとか他国のカトリック信者が特別に頼んでミサを行って
もらったのだろうか。これでは終わるまであまり中にカメラを向けるわけには
いかない。
聖所の両側にある聖職者用座席の背後に掘られ
たマリアの生涯をつづる彫刻。よく見られな
かった。
パリの守護聖者
聖ドニの像
内陣の奥、祭壇
上にわが子キリ
ストの遺骸を抱
いて嘆く聖母マ
リア像がある。
ルイ 14 世 こちらにマリア
に冠を差し出す
ルイ 13 世像があ
る
聖母マリアは裁判のときピラトに「私は王である。し
かし私の国はこの世のものではない」と言っで十字架
に架けられた息子イエスズの身体を膝にかかえている。
その後ろにある十字架は 1993 年に作られたものであ
る。聖母と2王を囲んで 6 位の天使がキリストの受難
の時に使われた茨の冠、十字架の釘、酢を浸した海綿
、罪状書、懲しめの棒、脇腹を貫いた槍を持っている
。
ルイ 13 世には自分の跡継ぎになる男の子がうまれな
”かった。王は聖母マリアに もし男子誕生の暁にはフ
”ランス全土を聖母に奉献します と誓願を立て
た。 1638 年にのちにルイ 14 世となる男子が誕生した。
ルイ 13 世は誓願に報いるためにこの聖所の建て替え
をしたいと考えるが、それが完成したのはルイ 14 世
の死後になる。
ピエタ(嘆
き)
ノートルダム寺院にあるステンドグラスで最も古いのは
1270 年に完成した、西と南北の3つの薔薇窓である。他の
ステンドグラスは 18 世紀になって建物内への採光を更に強
化する運動が起こったときに、多くが取り外されてしまっ
た。理性をたっとぶフランス革命は薄暗いところで行う宗
教儀式を信者をだます古い習慣として改善を求めたのであ
る。絵柄着色のガラスの代わりに無色のガラスを用いるこ
とにより、建物内は益々明るくなる訳である。とはいえ、
ステンドグラスは廃れることなく現代に至る迄、様々なス
タイルに変貌しながら引き継がれている。
バラ窓は、ゴシック建築法による採光皮術の進歩を、より
美しい形で人々に物語る。内陣から振り返ると入口の上に
「西の薔薇窓」を美しく見ることができる。その中には御
子を抱いた聖母の図がある。その周りには人間の行動を示
す美徳と悪徳が表され、更にその外側にには時を表わす1
2ヵ月と、黄道12宮が描かれている。しかしながら、近
づくと下のオルガンが邪魔になる西のバラ窓よりも、中央
の交差路に光を差し込む北と南の薔薇窓のほうが素晴らし
映る。
北と南は 1270 年に完成した。北と南のバラ窓の円の部分も
は 13m ある。特に北のバラ窓は 85% が出来た当初のままと
いう素晴らしいガラスの保存率である。
一方、南のバラ窓は、何度も修腹されてきた。採光が優れ
ているため、素人目には、ステンドグラスにのしかかる建
物の重さを忘れさせてしまうが、実際は過去に 2 回崩れた
ことがあった。修復の度に、破片の中から収拾された再生
可能なガラスは再使用されていて、最近行われた検証に
よって、南のバラ窓のガラスもかなり古いものであること
が証明されている。(ただし、バラ窓の下に並ぷ人物のス
テンドグラスはシャルトル大聖堂のステンドグラスの影響
を受け19世紀に作り直された比較的に新しいものであ
西の薔薇窓 ノートルダム大聖堂のステンドグラス
北の薔薇窓
「ノートルダム」からのコ
ピー
北のバラ窓は、旧約聖書の説明の場と
して当てられていキリストに至る迄の
旧約時代の土師達、預言者、王達と大
祭司達が幼子を抱いたマリアを囲んで
いる。
南の薔薇窓
南のバラ窓は、新約聖書の説明の場となっ
ている。黙示録に描かれる栄光のキリスト
は、
    順序に規則性を持たず、福音の場
面、
         福音者、弟子達、殉教
者、天使
            に囲まれている
。
                南から
射す光は、と
                 りわ
けステンドグラ
                  ス
の緋色と紫色
                  を
強調している
                   
印象を信者に
                   
 与えるという。
マリア・マグダレナ
マリア・マグダレナは復活したイエズ
スを見た時、庭師だと思い、直ぐには
彼であると見分けられなかった。彼女
はイエズスから「マリア!」と呼ぱれ
た時に初めて彼であることに気が付い
た。イエズスを庭師と見たことは、イ
エズスが我々人類の歴史に永遠の命の
木を植えた者であるから、間違いでは
なかったのだ、と説明する。
内陣の壁の両側通路側には Nativity のように壁
画が彫刻されている。右側には「復活したキ
リストの再現」、左側には「キリストの誕生
から最後まで」を彫ってある。右側だけ写真
をとった。
女弟子達
ユダヤの遇越祭が終わり、イエズスの死
から 3 日後、すぺての福音書に伝えられ
る通り、イエズスの友人として彼に付き
従った女性の弟子達が墓を訪れて、そこ
でイエズスに再会した。イエズスは十字
架の付いた旗を持っている。それは、勝
利と集合の印である。これと同じ精神か
ら、教皇パウロ 6 世はロ一マ教皇の杖を
栄光の十字架の形にした。
ペトロとヨハネ
パウロの伝えるところに . よれぱ、イ
エズスの再現が、ペトロに単独に起
こった説と、ペトロとヨハネ2人が層
る所に現れたとする説の2通りがある。
聖書外典にもこの 2 通りの記述がある
。
中世の人々は、外典に表されたこれら
の話を大変好んでいた。別の場面に、
ペドロの重要さが示されている。
エマオの弟子達
イエズスは、エルサレムからの脱出を
図った2人の弟子に合流したが、弟子
達は彼がイエズスであることをすぐに
はわからなかった。エマオの宿でイエ
ズスがパンを分けて弟子達に渡した時
イエズスであることに気が付く。弟子
の 1 人は驚き、もう 1 人は敬虞な表情
でイエズスを見っめている。
最後の晩餐の部屋で
復活祭の夜、弟子違の集まっている場
所にイエズスは現れた。この場面は、
イエズスの復活をより身体的な面から
見せるものである。自分の復活をなか
なか信じてくれない弟子達に向かって
、イエズスは、「何か食ぺ物はない
か」と問う。
トマス
弟子達の中で一番イエズスの復活を
信じられなかったトマスは、イエズ
スの十字架にかけられた時の , 傷痕
に触れる。その後、他の弟子より一
眉簡潔な言葉で、「私の主。私の
神」と信仰を宣言するようになる o
ガラリア湖の畔で
湖の畔でのイエズスと弟子違の再会を 2 っの場面
に分ける。右側ではキリストの同行により奇跡的
な漁がなされた場面で、魚はキリストを信じる大
勢の信者違を象徴する。左には1度は否んだペト
ロがキリストヘの愛を宣言する場面が描かれてい
る。ペドロの体長が他の弟子よりも大きく表され
いることに端を発して、聖ペドロの後継者である
ローマ教皇の権威が、他のどの国の国王にも勝る
、という考え方が始まった。
ガリラヤで
イエズスは、弟子達の真ん中に立って
彼らを宣教に派遣する。イエズスは神
の御言葉を手に持っている。彼を囲む
弟子違の顔は、喜びに満ちている。
昇天の日に
キリストの再現が終わる昇天の日
に彼は、弟子達と最後の食事を共
にした。このように、食事は重要
な意味を持ちキリスト教の典礼の
原型となった。宣教に旅立つ弟子
達の半数は、既に立ち上がってい
る。
外に出て鐘楼に登ろう
天井が高くて石造りの内部が暗く涼しかったせいか、外に
出ると、まさに 6 月の雲一切れもない青空で、ギラギラと
眩しく暑い。大聖堂の上部を見上げると、雨樋の役割を果
たすガーゴイルたちが長首を外に突き出している。
日本の建物には鬼瓦、沖縄のシーサー、中国の屋根には小
さな飾りものがついているが、雨樋に怪物を使うなんてい
う発想は東洋のものとはまったく異なるように思える。雨
樋に動物を形とる発想はギリシャ・エジプト時代からあっ
” ”て、言葉としての ガーゴイル は口やのどを意味するフラ
ンス語の gargouille に由来する( gargouille はラテン語で水が
流れるときのゴボゴボというような音を表す gar から派生
した言葉のようである。
鐘楼へ登る
” ”横の塔への入り口に回ると 並んでいる 。暑い日射しを浴びな
がらじっと並んでいる。まだ入らせていないのだろうかと
待っていると、どうもそうではないらしい。内部に入ってい
る人数を一定数に保っているのだ。出口と連絡をとりあって
、 15 分ごとに出た人数分入らせているのだ。ナルホド。
しょうがない。一遍に多くは入れない。なかなか進まないの
で、子供たちを引率した先生が何度も見にきて、とうとう時
間切れ、説得して連れて行った。可哀想に。
鐘楼階への順路
1)階段aを上ると、北鐘楼 1 の階上部屋1に違し
、そこに はオルガン演奏所がある。この部屋は
交差ヴォー ルト式の天上で、遺物展示に利用され
ています。
2) この部屋の隅にある螺旋階段を更に昇ると、飾り
開口 の尖塔に達し、聖堂の建造のいわれを
展示する。
3) ’さらに階段aからa を上がるとシメールのギャラ
リー2に 達し、そこから素晴らしいパリを一望
できる。ギャラ リー2を散策すると 19 世
紀にデザインされた空想的 な鳥、種の
入り混じった動物、奇妙な海獣などのシ
メール・キマイラ。花形模様、ガーゴイル、しか
め面 の頭像、壁面を覆う数多くの巻葉と芽
をモチーフにし た装飾、など、豊かな装
飾美を堪能できる。シメール のギャラ
リーを支えているのは、下の小円柱ギャラ
リーで、繊細な美しさがある。真下に見える現在
の大 聖堂前広蜴 { は 1860 ~ 1870 年のオス
マンればメロビ ング朝時代のサンテ
ティェンヌ聖堂の跡が解る。
4) 木製の階段bを昇って聖堂で最大の南の鐘塔の間
3に
は「エマニュエル、リュドヴィック、マリーテ
レーズ」の プなどのニックネームを持つプルドン
( 大きな鐘)が 釣り下げられている。 17
世紀に鋳造されたもので 13 ト ンの重さが
ある。掛け金 500kg と鐘楼の軸を含む部分の 1 トン
半を合計すると 15 トンに達します。
5) 鐘楼を見学した後に階段bを戻り、シメールの階
をぐ るっと回って階段cにでて、南の鐘塔 4
の頂上に上る。 この頂上からのセーヌ川
とその橋の素晴らしい眺め を堪能する
ようやく順番がきて登り口に入っ
た。閉所恐怖症ならとても耐えら
れないような暗く狭い階段をやみ
くもに登らないとならない。凱旋
門のらせん階段より遙かにきつい。
階段は大理石なのに塵も積もれば
の通り、もう磨り減っている。ま
だかまだかと頑張ってようやくシ
メールの階にきた。外に出る。
素晴らしい眺めだ。
ノートルダム大聖堂からパリの空の下①
正面にエッフェル塔、左手の金のドームは皇帝
ナポレオンが眠るドーム教会、その前のとんが
り屋根はサンジェルマンデプレ教会
パリの空の下②
一番右手の丘の上に最初に行ったサクレクール寺院、
少し左に行ったこんもりとした林のあたりがモンマル
トル墓地、寺院の下にピガール地区があった。左下の
大きい建物は6月15日の夕方訪れたサントユース
ターシュ教会、やはり大きい。
パリの空の下③
左手(南西)を見るとカルチェラタン( Quarrier Latin) が
広がる。パンテオンのドーム、その右手下の建物群はパリ
大学ソルボンヌ校。お昼食べたらあのあたりを歩こう。
フランス革命時に正面扉口や鐘塔を飾る数多くの彫像が破壊され
、大きな損害を被むった。鐘塔をはじめ聖堂全体は荒廃の著しい
もので、 1845 年になってようやく修復が開始された。 2 人の建
築家ラシュスとヴィオレ・ル・デュックはどういう思いをこめた
のか、現在のように彫刻装飾などが復元された。これらのシメー
ルの中で最も知られているのが真夜霊(ギリシャ語で夜の鳥)で
、その物思いに耽る様子はパリの街の変遷に見入っているかにみ
える。ます
シメール(ギリシャ神話でライオンの頭と山羊の胴体、蛇の尻尾を持つ怪物キマイラのフランス語)たち。
雨樋の役割を持つガーゴイルとは異な
る。
◆ 小説の舞台
1831 年に出版されたヴィクトル・ユゴーの有名な小説「ノールダム・
ド・パリ」はただちに大きな反響を巻き起こしま。当時の人々がいか
に中世とその時代の建造物に高い関心を抱いていたかがわかる。
ユゴーのローマン主義的で絵画的な語り口が、 19 世紀初頭の聖堂の荒
廃ぶりに人々の注意を喚起し、やがて 1845 年から始まる修復工事の大
キャンペーンに大きな影響を与えました。小説の大半がこの鐘塔を舞
台に繰り広げられます。ユゴーはルイ 11 世紀時代のパリと、聖堂を取
り巻く人々の生活を描き出したのです。そして、ノートルダムの鐘と
その鐘突き男「カジモド」が重要な役を果たします。
鐘塔は大聖堂のなかでも最重要な部分として描かれ、ユゴーは「素晴
らしき全体の調和の取れた一部」と形容しています。
グランパレ
ルーブル宮
コンコルド広
場のオベリス
ク
シ
ャ
ン
ゼ
リ
ゼ
丨
凱旋門
シテ島
Pont
Pont Neuf
Pont du Carousel
Pont de la Concorde
La Defense 地区
鐘楼に上がるのは今思い出しても大変だったし、これからまたあの狭い暗闇の階段
を下るのかと思うとやれやれと足が動かなくなるが、ここまで上がってきた甲斐が
あった。こんな青い空の下のパリを見られたのは、この旅で求めた満足に十分答え
るものだった。頑張って降りよう。
◆ 光を求めた創立者のパリ司教スッリー
は、建物に光を多く採り入れることの可能であるとい
う、最近発見された建築法(ゴシック建築法)をパリ
に建設する大聖堂に採用したいと考えた。この建築法
を用いるならぱ、建物の重圧を柱に分散させることで
、従来より壁を薄く出来、すなわち窓を大きくとるこ
とが可能になるのである。イエズスは「私は世の光で
ある」と仰せになった。
◆ ゴシック様式の全盛
高さ 69 メートルを誇るノートルダムの鐘塔は、巨大な
聖堂にすらりとした風格を与えている。ファサード部
は調和様式と呼ばれており、 12 世紀後半以降のほとん
どのゴシック様式の聖堂建築に取り入れられている。
鐘塔を補強する控え壁がファサードの垂直な線を形
作っていて、ノートルダムの鐘塔の複数の階眉が、 13
世紀前半のゴシック様式の特徴をよく示しています。
つまり壁面はどっしりとした平面からなり、ファサー
ドの装飾的要素としてくり抜きや飾り付けの技術が見
られる。
巨大なバラ窓、大きなオジーヴ窓、すらりとした小円
柱ギャラリー、手すりの下に彫り込まれたの四葉飾り
、このような特徴が建造物の上部に軽やかさと透明さ
とを与えており、装飾としての植物を形作った彫刻は
またその立体的な起伏に起因する光と影のたわむれか
ら、鐘塔に生命感を付与している。
◆ ゴシツク様式
12 世紀後半から 16 世紀初頭までのヨーロッバ中世
における聖堂建築を中心にした様式をいう。水平
の線が目立つロマネスク建築(ローマ風 Romanesque)
を継いだこの様式は、垂直性を強調した大規模な
構成を特徴とする。これは肋骨状アーチのリブ
ボールト (ribbed vault) すなわち石の天井と尖塔アー
チ (pointed arch) の採用により、また独自の外観を構
成することになった飛び控え壁 (flying buttress) の成功
によって可能となり、巨大ステンドグラス
(stainedglass) の発達を促すことにもなった。聖堂の内
部が宇宙の象徴であるならば、ボールトは無限の
天空を意味した . 空高くそびえる塔は人類の天への
憧れであった .
このような要素をほぽ完全に伝えるのは 13 世紀フ
ランス中北部で造営されたシャルトル (Chartre) 、ラ
ンス (Reims). アミアン (Ami ㎝ s) などの大聖堂であ
る . バリのノートルダム大聖堂の正面はゴシック特
有の明快な宗教的秩序によって統一された作例と
して有名である。
身廊( nave )部分と側廊( aisle )を
支える飛び控壁( Flying Buttess) 。
裏側に回って見たかったがもう11
時半近いので時間切れ。花の市場に
行く。
花の市 ( Marche aux Fleurs )へ
ノートルダムから戻ったら 11 時すぎてしまった。
来た道を戻り、シテ駅の向こう側に広がる花の市
場に入る。
特段変った花を売っているわけではないが売り方がキ
レイ
店で買ったハーブのカード
花の市場はセーヌ川に突き当たる。見える橋は Au Change 、向こう側はシャトレ広場。
とんがり帽子で目立つ監獄として使われ
たコンシェルジューリー。これからサン
トシャペル教会とコンシェルジューリー
を見に行く。
橋の向こうはシャトレ広場、
川向うの右手に市庁舎がある
。
サントシャペルへ
サント・シャペル( Ste-Chapelle) は
、13世紀の中期、のちの聖王ル
イ(ルイ9世)によって、当時の
王の住まいで治世の本部があった
シテ王宮の真ん中に王家の私的礼
拝堂として建てられたものである
。
入場券はコンシェルジューリーの
建物の一階で買う。コンシェル
ジューリーとサント・シャペルを
合わせて10ユーロで2枚の券が
渡される。
◆ シテ王宮
シテ島の一番西の川岸には、ローマ帝政の時代は県知事の館
があったのだろう、 11 世紀末王フィリップ・オーギュスト
はここに王宮を構え、1226年たった12歳で父ルイ8世
を継いだ孫のルイ9世はやがてここを真の行政の本部として
充実改築することになる。13世紀フランスは着実に国土を
広げ、富を蓄えていた。
1237年東ローマは財政難のためキリスト受難の聖遺物を
ヴェニス商人に売り渡そうとする、その機を西のキリスト教
の権威を高める絶好のチャンスと捉えたルイは、高枚をはた
” ”いてキリストが受難のときにかぶせられていた 茨の冠 や真
の十字架、その他聖母マリアの遺物などを買い、パリに持ち
帰る。
◆ サント・シャペルの誕生
ルイ9世は東ローマ皇帝に倣って王宮内に聖遺物を納め
” ”る記念碑的な 入れ物 が欲しかった。まずそれまでの伝
統的な形式で宮廷礼拝堂が作られ、その上にゴシック様
式の礼拝堂を付け足した。二階式の珍しい構成で、王は
上部に聖遺物を納めて、王と家族専用の招待客用の部屋
とし、下は召使、兵士、使用人に開放し、1246年に
一応完成している。
1630年と1776年に火災にあい数世紀にわたって
蓄積された豊かな調度類は大破損し、フランス革命時代
には古文書倉庫となった。歴史学者や考古学者の運動で
1840年に修復が始まり、1846年から10年をか
けてステンドグラスの修復、補修がなされた。
Eglise Ste. Chapelle
サント・シャペルの前まで行くと入口がない、
Palais de Justice の門を管理しているおまわりに聞く
とここから入れという。同じ敷地にあってセ
キュリティも同じらしい。
ノートルダム大聖堂を見たあとでは教会の周囲も修復
中の石などがころがっていてすっきりしないがとにも
かくにも入ってみる。
中に入ってびっくりする。これまでいろいろな教会を訪
ねたが、入れば当然天井まで20mや30mはある吹き
抜けの大伽藍だと思っていたのに、6mぐらいの高さし
かない。それにサント・シャペルは一面のステンドグラ
スのはずだったのに、ステンドグラスなんか全然ないで
はないか。(頭の中には昭和42年ごろか初めてパリに
行ったときに訪問したイメージしか残っていなかったの
だ。それにどのガイドブックをみてもステンドグラスノ
美しさしか強調していないから、いつの間にか刷り込ま
れたイメージが出来上がっていたのだ。
天井を支える梁がやたら交差しているだけなのだ。(ま
だ、この時点で二階建になっていることは分かっていな
い)。とにかく首をかしげながらぐるっと一周して戻る
と右側に売店があり、ガイドブックや絵葉書を買ってる
と、どうも見学者は入口右手の階段に吸い込まれている。
ここに行ってみよう。
下の礼拝堂はは王宮に勤める使用人や庶民のための礼拝
堂で、聖母マリアを祀っている。高さは 7m ほどしかない
が、ゴシック様式の特徴である交差リブ ( アーチ状の天井
を支える梁〕や柱、壁などを飾る彩色彫刻が美しい。
やっぱりあった。全面ステンドグラスの礼拝
堂
上堂の礼拝堂は王家や特権階級の人々だけが利
用した私的な場所。そこに広がるのは、壁らし
い壁はなく、ほとんど繊細で紫色の美しいステ
ンドグラスに覆われている。
●奥行き 33m 、幅 10.7m 、延べ 600 ㎡に及ぶ光の
窓は、 13 世紀に作られたパリ最古のもので、色
彩や精緻さなどの点からステンドグラスの宝物
といわれている。描かれているのは、旧約、新
約聖書の物語。創世記のアダムとイヴに始まり
、モーゼの出工ジプト記、キリストの幼年時代
、キリストの贖罪と、物語は祭壇に向かって左
から右へと時代順に描かれている。その数は全
部で 1134 場面もあり、約 2/3 が 13 世紀当時のも
の。西側を飾るフランボワイヤン(火焔)様式
のバラ窓はシャルル 8 世が寄贈した 15 世紀のも
の。
● ステンドグラスの用語
タンパンの下のこの
縦に長い1区分を
「ランセット」とい
う。4ランセットで
1 組、後陣回廊は2
ランセットで 1 組に
なっている。
この縦長の頂上
にある丸く囲ま
れた部分を「タ
ンパン」という
。
パネル。四つ葉、ひ
し形、円形、三葉形
、紡錘形など、物語
別に様々デザインさ
れている。
薔薇窓のみ15
世紀に取替えあ
とは13世紀の
もの
後方回廊の2ランセット組。右「エレミ
ヤ書」中「エゼキエル書」。高さ 13.45
m、幅2.1m
入口すぐ左手の4ランセット組み「列王
史」、 129 枚の人物の入ったパネルさむえる、サ
ウル、ダヴィデ、タンパンはソロモン王を語る。
後方回廊手前右手4ランセット組み。「ヘブラ
イの民の女傑英雄ユディットとヨブの苦難の物
右手入り口側の4ランセット組み。最も重要なテー
マ「キリストの受難による聖遺物の購入と移転の物
語」、「真の十字架の発見」などが描かれている。
後方回廊の左側。最左4ランセット組みの「ヨシュ
アの物語」。次いで 2 枚組みの「土師記」(イスラ
エルの 3 代ハジ、ギデオン、エフテ、サムソン)、
「イザヤの生涯」、「聖ヨハネとキリストの幼少
期」。左下の像は不明のようだ。
後方回廊中央。左から、「聖ヨハネとキリストの
幼少期」、「(中央)キリストの受難」、「聖ヨ
ハネと預言者ダニエルの生涯」「預言者エゼキエ
右手中央4ランセット組みに、聖書の中
では最も短い「エステル書」と逸話。
左手後陣回廊手前の4ランセット組み
「ヨシュア記」、戦いやエリコの占拠な
左手中央4ランセット組みの「民数記」で、モー
ゼと民が約束の地を求めて出会う困難の物語。こ
の左は「出エジプト記」でヘブライの民の憂苦の
話。
左手入口側の4ランセット組みの「創世
記」。 91 枚の円形パネルで天地創造、アダムと
イヴ、ノアの話、ちゅうだんいアブラハム、上
段にヨセフの生涯を描く
西正面の裏側(中に入ってところ)の上にある薔薇窓。直径9
m、三つの同心円の火焔デザイン(フランボワヤン)で、中世
末期のステンドグラス芸術の最高峰といわれている。主題は聖
ヨハネの「黙示録」。
バラ窓の中央芯。聖ヨハネが「人間
の息子(キリスト)」の足もとに跪
き、7つのランプと7つのアジアの
教会に囲まれている。
第一の輪は24人の老人や騎士たち
、第二の輪から天使たちが世界の終
りの災禍を告げるシーンが続き、
「天にあるエレサレム」で終了する
。
ステンドグラスばかりに眼を奪われるが、いろいろな絵が金色の
下地にブルーや赤を使って描かれている。西側正面の葉玉殿下に
描かれた「祝福するキリスト」。敬う4天使にかこまれている。
ステンドグラスの下には下のような4つ葉の枠の中に絵が描かれている。44枚あり、すべて聖人の殉教を描く。
44枚の四つ葉の中の絵は、すべて聖人の殉教を描
く。
やっぱり来てよかった。ステンドグラスの紫色の
弱い光が落ちてくる美しさは他にないだろう。ガ
ラスだけで建物の重さを支える技術、1枚1枚が
異なったデザイン、伝説、逸話、聖職者や王たち
ののめりこみ、キリスト教のもつ深さにあらため
Conciergerie
( コンシェルジュリー)
革命の恐怖の象勧と在った旧牢獄
裁判所の北棟にあり、セーヌ右岸のシャ
トレ広場から眺めると、 4 つの塔を持つ
独特の外観が美しい。この側面は、フィ
リップ 4 世によって建てられた、 14 世
紀当時の姿を残すパリで撮も古い景観の
ひとつだ。コンシェルジュリーとは王室
の高官とその管理府という意味で、元々
は王の居住および執務の館だった。すで
に 14 世紀から牢獄として使用されてい
たが、大革命の時にはギロチン台への入
口として、恐怖政治始の象徴にもなった。
マリー・アントワネツトをはじめ、マ
ラーを暗殺したコルデー、ルイ 15 世の
愛人デューバリー夫人、そしてロベスピ
エールと、 1793 年から 94 年の間に、こ
こから処刑台に送られた人物は 2 、 600
人を数える。現在、館内の一部は、その
悲惨な歴史を伝える資料館として公開さ
れている。
● 入□を入ってすぐに広がるのが床面積
1800 ㎡というゴシック様式の大ホール
「衛兵の間」。かつては廷臣たちの食堂
だったが、牢獄時代は男囚の収容所と
なった。上階には独房が並び、大革命時
代の牢獄の様子を紹介する資料室やビデ
オルームがある。また、マリー・アント
ワネットの独房も再現され、彼女が最後
ここ『衛兵の間』は長さ64m、幅
27.5m、高さ8.5mの大広間
で、王宮で働く約2000人の食堂
として使われていました。現在は暗
く冷たくそれでいて優美な所です。
革命、それ以前の王政時代の様子を垣間見ることが出来る。到
着した囚人の名前等を記録をした「受付」、獄内の安全を管理
した「コンシェルジュ」、処刑の場へと送り出される囚人達の
所持品を取り上げた「準備の間」等が、それぞれ、かなり年季
の入ったマネキンを用いて再現されている。中庭は囚人の妻や
母が会話できる女たちの庭、
囚われのマリー・アントワネット
1914年、コンシェルジュリーの刑務所とし
ての機能は廃止された。現在はマリー・アント
ワネットの礼拝堂、死刑になるまで幽閉された
独房などが残っている。
サント・シャペルとコンシェルジュリーに挟ま
れて最高裁判所がある。外見からでは分からな
いが、もし階段を上って中に入ったらと重厚な
雰囲気が漂う法曹界の中心を見られたらしい。
ここを中心にサントシャペルとコンシェル
ジューリーは政府の管理建物になっていて、入
口に警察官がガードしている。
最後にフランスのおまわりの写真を
撮って、サンミッシェルへ向かう。
シテ塔では今度の旅でじっくり
見たいと思っていたノートルダ
ム大聖堂の怪獣たち、それとサ
ントシャペルのステンドグラス
に充分な時間がとれた。昼近く
今日も暑くてだるいが、大聖堂
の鐘楼へ登る螺旋の石段はもう
勘弁、まだその疲れが残ってい
るようだ。サンミシェル橋をわ
たればカルチェラタン地区の入
り口、サンミシェル広場だ。次
の目的地はパンテオンだが、そ
ろそろお昼時だ。
シテ島で 2 本に別れるセーヌの左側に
かかるサンミシェル橋を渡ると、セー
ヌの左岸 Rive Gauche 、学生の町カル
チェラタンだ。橋を渡って振り返れる
と
・サントシャペル教会の尖塔、
・コンシェルジューリーのとんがり屋
根が
見える。
シテ島からセーヌ左岸へ
St-Michel 橋を渡ってカルチェ・ラタン
へ

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旅の設計図 31.ウィーンの天才達,オーストリア / Traveled to Austria - Vienna geniuses (by 沖原/okiha...
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旅の設計図 4.九寨溝,中国四川省 / Jiuzhaigou,China (by 井上/inoue) - 旅の設計図会
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旅の設計図 96.パリを歩く (8)シテ島からセーヌ左岸へ /Walking Paris (8)Château de Versailles - 旅の設計図会