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A Treatise of Human Nature
        David Hume




             1
哲学                               哲学



                     代哲学                                  代哲学                       ㄶㄭ哲学           古代ギリシャ哲学
                                                                                                   古代ギリシャ哲学
                                                                                                     ギリシャ

                         学                                                                                      学
        サ            ハ       フ           キ                ス         ラ   デ                               ア   ア   タ
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        ト            デ       サ           ケ                ノ         プ   ル                               ク   ク       ス
        ル        メ   ガ       ー           ゴ                ザ         ニ   ト                               シ   シ
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                                                            ュ               ッ
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ズ                                                                                                                ス

                                                                        2
年譜

1711年 - 4月26日グレートブリテン王国のスコットランドエディンバラ近郊の別荘でジョーゼ
        フ・ヒュームとキャサリンの次男として生まれる。兄のジョンと姉がいる。
1712年 - ルソー
        ルソー生まれる
1713年 - 父を失う。
1723年 - エディンバラ大学入学。アダム・スミス
                    アダム・
                    アダム スミス生まれる。
1724年 - カント
        カント生まれる。
1725年 - エディンバラ大学退学。哲学以外のことへの興味を持てなかったためとされる。
        以後自宅で哲学の研究に没頭した。
1729年 - 精神を病む。
1730年 - 冬精神状態、回復に向かう
1734年 - ロンドンへ行き「医師への書簡」執筆。ブリストルにある商会で仕事。
        夏退職しフランスに行きパリを経てランスに行く。
1735年 - 秋にラフレーシに行く。『人間本性論』を執筆。24歳。
1736年 - ロンドンで『人性論』出版に努力
1739年 - 『人性論』第1・2篇を出版。当初匿名で出版。学会反応無く極度に失望する。
1740年 - 『人性論摘要』出版。『人性論』第3篇出版
1741年 - 『道徳政治論集』第1篇出版
1742年 - 『道徳政治論集』第2篇出版
1744年 - エディンバラ大学倫理学教授候補となるも宗教的見地から反対される。


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年譜

1745年 - アナンディル侯爵の家庭教師となる。母キャサリン死亡。
1746年 - 家庭教師を辞めロンドンに住む。セント=クレア中将の法務官としてブルターニュ遠征
1747年 - 帰国。セント=クレア中将の副官として、ウイーン・トリノへの軍事使節団に。
        『人間知性についての哲学的試論』出版。年末にロンドンに戻る。
1748年 - ヒュームを高く評価したモンテスキュー
                   モンテスキューとの、定期的な文通が、この時期から始まる
                   モンテスキュー
1751年 - 『道徳原理研究』出版。アダム・スミス
                   アダム・
                   アダム スミスの後任としてグラスゴー大学倫理学教授に推
        薦されるも宗教思想のゆえに反対される。
1752年 - エディンバラ弁護士協会の図書館長。『政治経済論集』出版。
1754年 - 『イングランド史』第1巻出版
1755年 - スコットランド教会にヒューム破門の策動起こる。
1756年 - 『イングランド史』第2巻出版。このころから、彼の名声がようやく確立する。
1757年 - 『四論文集 出版。
         四論文集』
         四論文集
1759年 - 『イングランド史』第3・4巻出版。
1762年 - 『イングランド史』第5・6巻出版。
1765年 - パリでハートフォード卿の正式の秘書官となり、代理大使。ルソーと出会う。
1766年 - ルソー
        ルソーと帰国、保護に尽力。ルソー
                      ルソーを誹謗する印刷物の著者と誤解され絶交される。
                      ルソー
1767年 - 国務大臣次官になる。
1768年 - 次官辞任、翌年エディンバラへ帰る。
1775年 - 『人生論』を自著から除くことを宣言する。アメリカ独立戦争起こる。
1776年 - アダム・スミス
        アダム・スミス『国富論』の出版を喜ぶ。8月死去。アメリカ独立宣言。
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批評

生前よりヒュームは懐疑論者
         懐疑論者、無神論者として槍玉にあがっており、そのためにアカデミック・
         懐疑論者
ポストを望んでいたにもかかわらず終生得ることができなかった。
また、デビュー作『人間本性論』は「印刷所から死産した」と自ら評したほど当代の人々の注目
                           カントは ヒュームが自身の独断のまどろみ
を浴びなかった。後世のドイツ哲学のイマヌエル・カントは、ヒュームが自身の独断のまどろみ
                           カント
を破ったことを告白した
  ったことを告白した
       告白したと共に、「哲学を独断論の浅瀬に乗り上げることから救ったが、懐疑論
という別の浅瀬に座礁させた」と批評している。
バートランド・ラッセル※は、因果関係の必然性を否定したヒュームの懐疑論を克服した哲学は、
カントをはじめとしたドイツ観念論も含め、いまだに現れていないとの見解を示している。
※イギリス生まれ(1872年 - 1970年)の論理学者、数学者、哲学者。ノーベル賞受賞者。
ウィキペディア参考

ヒュームの『英国史』や政治経済に関する評論が生前から高い評価を受けたのに対し、ヒューム
     『英国史』 政治経済に する評論が生前から高 評価を けた
                   評論   から
の哲学は、同時代の哲学者から知識と道徳の基礎を破壊する懐疑論と見なされ、攻撃を受けた。
ヒュームを懐疑論者と見なしながらも、議論の意義を認め、評価したのがカントである。
カントは、『プロレゴメナ』の序説で、「ヒュームの警告が、まさしく、はじめて私の独断的ま
どろみを破り、私の探究にまったく別の方向を与えたものであった」と述べている。
現在では、ヒュームは、人間の心の働きの広範な部分を、広い意味での感受性の働きとしてとら
えようとする自然主義者として評価されている。
伊勢俊彦ー立命館大学HP参考


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(参考1)懐疑論(ウィキペディア「懐疑主義」)
 参考 )懐疑論(ウィキペディア「懐疑主義」)

懐疑主義とは、基本的原理・認識に対して、その普遍性・客観性を吟味し、根拠のないあらゆ
るドクサ(独断)を排除しようとする主義である。懐疑論(かいぎろん)とも呼ばれる。

これに対して、絶対的な明証性をもつとされる基本的原理(ドグマ)を根底におき、そこから
世界の構造を明らかにしようとする立場を独断主義ないし独断論という。

懐疑主義ないし懐疑論は、古代から近世にかけて、真の認識をもたらさない、あるいは無神論
へとつながる破壊的な思想として論難されることが多かった。

これは、懐疑主義が、懐疑の結果、普遍性・客観性のある新たな原理・認識が得られなかった
場合、判断停止に陥り、不可知論
           不可知論と結びつき、伝統的形而上学の保持する神や存在の確かさを
           不可知論
も疑うようになったためである。

しかし近代以降は、自然科学の発展の思想的エネルギー源となったこともあり、肯定的に語ら
れることが多い。




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(参考2)不可知論(ウィキペディア「不可知論」)
 参考 )不可知論(ウィキペディア「不可知論」)

不可知論は、形而上の存在、死後の世界、神の存在など、神学に関する命題の真偽、また客観
的本質的な実存は本質的に認識することが不可能である、とする宗教的、あるいは哲学的な立
場をいう。

宗教的には純粋に「神はいるともいないとも言えないのだ」とする公平な中立的不可知論と、
無神論者であると言明するのがはばかられる場合に用いられる消極的無神論がある。

積極的な無神論者リチャード・ドーキンスは『神は妄想である』の中で、王立協会の会員への
アンケートの結果から、イギリスの知識人集団では97%が無神論か不可知論(あるいは家族や
伝統への忠誠心から宗教的観念を否定しない、実質的な不可知論)に属すると述べた。

不可知論には懐疑論、現象学、実証主義などの立場から現象と実存を区別し、そこから客観的
本質的な実存に対して認識不可能性を導き出す。

不可知論においても客観的実存を絶対のものとして認識を言葉以上のものではないとする極端
な立場があり、また認識不可能性を認めつつも想定することは可能であるという立場がある。



                      7
第1篇本編の結論より抜粋




  私は道徳的な善悪の原理、
  統治の本性と基礎、
  私を活動させ、支配する様々な情念や傾きの原因などを
  よく知りたいという好奇心を抑えることが出来ない

  そして、
  私がいかなる原理をもとに歩んでいるのか知らないでいて
  一つの事象を認め他の事象を非難し、
  一つのものを美しいと呼び他のものを醜いと呼び、
  真と偽、
  思慮と愚かさとを決めているのだ、
  と思うと私は落ち着かない




                   8
『人生論』-序論-
 人生論』 序論-

多くの学問は多かれ少なかれ人間性に関係している
 くの学問は かれ少なかれ人間性に関係している、また、遠くに離れ去ったように見える
   学問        人間性   している
ものでも、いずれかの道筋を通って人間性に立ち戻る事は明らかである。

数学、自然学、自然宗教にしたところでも「人間」の学問に依存している。

これらは人間の審理権、権限、権能によって裁定されるからだ。

諸学問の首都である人間性を手中にすればほかはどこでも簡単に勝利を収められるだろう。

人間性の原理を解明に みることで、諸学問の完全な体系を目指していることになる。
人間性の原理を解明に試みることで、諸学問の完全な体系を目指していることになる。
                             していることになる

ところで、

人間の学自体に して与えうる唯一のしっかりした基礎は経験と観察
人間の学自体に対して与えうる唯一のしっかりした基礎は経験と観察とにおかれる。
              唯一のしっかりした基礎

自然についての問題に適用される実験的方法を哲学にも応用するものである。

但し、自然学とは違い精神学の観察実験は計画し、十分納得できる実験を実施できない不利は
認める。なぜなら計画に際してもそのことが作用し自然の精神的な流れを乱すからである。


                     9
『人生論』-第1篇 知性について-
 人生論』     知性について
            について-

1.知覚及び単純・複合、生得観念について
  知覚及び単純・複合、生得観念について
  知覚及                                          (生得観念なし
                                                生得観念なし
                                                生得観念なし)
人間の心に現れる知覚は2種類                       「印象」なければ
                     情念、感動・・・勢いよく激しい 「観念」なし
①印象・・・心にはじめて現れるときの感覚、情念
                     情念
②観念・・・思考や推論の際の勢いの無いこれら(印象)の心象

               「印象」                               「観念」
          色
          匂い
          味
          など
                        (正確に写し取らない事がある)
                         正確に
                         正確    らない
           1つ1つは
                                              2つに区分
      「単純印象」                      「単純観念」   元の複合印象に対し
                                           「記憶」
  「複合印象」                          「複合観念」
               ×                            ⇒遜色なく活気あり
     (複合観念に対する複合印象は無い場合がある
      複合観念に する複合印象は
      複合観念    複合印象   場合がある)
                       がある                 「想像」
                                            ⇒活気無く拘束されない

神、天国、天使            例えばペガサス
                                  多くの単純印象の結合
                                          結合
                             10
生           知 について

1.知覚及び単純・複合、生得観念について
  知覚及び単純・複合、生得観念について
  知覚及
(補足)「生得観念」が無い理由一例
 ⇒生まれつき盲目の場合、視覚から入る印象(色など)は無く、それに対応する観念も無い。

「印象」のつづき
 2種類に分けることが出来る。
 ①⇒知られない原因から直接心に起こる。         ここ は「感覚」についての   は、
 ②⇒観念に起因するもの。                についての    はなく     、
                               に   る
つまり・・・

 「印象」(①)      <感覚機能を刺激し熱さや冷たさ>⇒<快、苦の印象も同時に起こる>
                                快
  ↓
 「観念」      <印象が消えた後も写し取られる>
  ↓
 「観念(反省)」  <快、苦の観念を心に起こす>
            快
  ↓
 「反省の印象」(②)<欲望や嫌悪、希望や恐れといった新たな印象を生む>
  ↓
 「観念」         <観念として写し取られる>
      ・ ・ ・




                        11
『人生論』-第1篇 知性について-
 人生論』     知性について
            について-

2.「観念」の結合について ~「想像」による観念の結合原理~
  「観念」 結合について ~「想像 による観念 結合原理~
                想像」   観念の
観念の間に何か結び合わせる力(例えば引力のような)がある。
(それが無ければ、観念の結合は偶然でしかなくなる。(偶然自体は否定してない))


①「類似」
  今思い浮かべた観念と類似した観念へと移行しやすい。

②「近接」(時間的、場所的な)
  今思い浮かべた観念に時間的、場所的に近接する観念へと移行しやすい。

③「原因と結果
  原因と結果」
  原因
  ⇒想像において最も強い結合を生じさせる。(別途後述)


「引力」の結果は認められるのに、その原因についてはほとんどわかってない。
これらの力も結局のところ、人間性に本来備わっている性質とみなし、この性質については解
き明かす事はせず結果について探求を進める。




                      12
『人生論』-第1篇 知性について-
 人生論』     知性について
            について-

3.いくつかの「観念」について元になる「印象」を説明
  いくつかの「観念」について元になる「印象」
  いくつかの

 ~「印象」が常に「観念」に先行する~


(1)空間と時間の観念
  ①空間について
    机を見れば延長の観念が与えられる。
    この観念は机を見たときに感覚機能に現れる印象が元になっている。
    それは視覚から入る「色を持った点」の印象。あるいは触れられる触覚の印象。
  ②時間について
    時間がそれだけで現れたり、心に気づかれたりするのは不可能。
    ある変化する対象の知覚しうる継起によって見出される。

(2)存在の観念
  どんな種類の印象・観念でも、我々が意識し、あるいは記憶しているかぎり
  存在するものとして思いいだかれないようなものは無い。
  この意志に存在の観念が起因するのである。思いいだく=存在。
  ※「外的存在」とは概念が異なる。




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『人生論』-第1篇 知性について-
 人生論』     知性について
            について-

4.原因と結果について
  原因と結果について
  原因

(1)因果性とは
  一つの対象の存在あるいは活動から、
  何か別の存在あるいは活動がそれに続いて起こったのだ、
  もしくはそれより前にあったのだと確信させる、そういう結合を生み出すもの
  推論のもとになるもの
  感覚機能を越えてたどることが出来き、
  見もせず感じもせず存在や事象について知らせる唯一の関係。

(2)因果性の観念はどのような印象から来るのか

 原因となる対象、結果となる対象の間にある関係に起因するのではないか
 関係として、3つがあげられる
 ①近接性(原因と結果は常に近接している)。近接していないと見られる場合でもよく見る
  と小さな原因と結果の連鎖により繋がっていることがわかる。
 ②結果に原因が先行していること。
 上記①②だけでは、因果の観念の印象を説明できない。先行しており、近接していても原因
 とならない場合があるから。したがって、第3の関係が必要となる↓
 ③「必然的結合」があるはずである。


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『人生論』-第1篇 知性について-
 人生論』     知性について
            について-

4.原因と結果について
  原因と結果について
  原因

「必然的結合」の本性を捉えるために役立ちうる教示を与える2つの問題を考える
①存在に始まりのあるものは、必然的に原因をもつと明言するのはいかなる理由によるのか
②しかじかの特定の原因は必然的にしかじかの特定の結果を伴わねばならないとするのはなぜか


初めて存在するものには、すべて存在の原因がなければならぬということは、なんらの証明も
与えられずそのまま認められている。

しかしながら、 かでないことを証明できる一つの論拠がある。
しかしながら、確かでないことを証明
               証明

新しい存在、あるいは存在の新しい変容には全て原因があることを論証するには、なにものも
結果を生み出すある原理が無ければいけない。

後のほうの命題を証明できなければ、前のほうの命題も証明できないはずである。

後のほうの命題を論証できないことは次のことを考えればわかる。




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『人生論』-第1篇 知性について-
 人生論』     知性について
            について-

4.原因と結果について
  原因と結果について
  原因

判別できる観念は互いに分離でき、「原因の観念」と「結果の観念」は判別できる
                「原因の観念」  結果の観念」 判別できるのだから、
                                  できる
どんな対象でも、この瞬間には存在しなくても、次の瞬間には存在することを、原因あるいは
生み出す原理といった別個の観念と結び付けなくても思いいだけるだろう。

だから、
「原因の観念」を「存在の始まり」という観念から分離するのは想像にとって明らかに可能
 原因の観念」  存在の まり」という観念から分離するのは想像にとって明らかに可能。
                   観念から分離するのは想像にとって    可能
従って、これらの対象を現実に分離するのも可能。
これについて、単なる観念からのいかなる推論によっても反論できない、反論できないという
ことは、「原因の必然性」を論証するのは不可能である。

よく調べてみれば、原因の必然性を証明するためにこれまで提出されてきた論証はどれも誤
よく調べてみれば、原因の必然性を証明するためにこれまで提出されてきた論証はどれも誤っ
                  するためにこれまで提出されてきた論証はどれも
ており、こじつけである。
ており、こじつけである。

「新しい生成には原因が必要だ」という考えは「知識」から引き出されるのではなく、またい
かなる「学問的推論」からも引き出されない。

ということは、
一つの対象の存在から他の対象の存在を推理できるのは「経験」によってだけである。
 つの対象 存在から
   対象の  から他 対象の存在を推理できるのは 経験」によってだけである。
                    できるのは「

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『人生論』-第1篇 知性について-
 人生論』     知性について
            について-

4.原因と結果について
  原因と結果について
  原因

一方だけが知覚(感覚的印象を受けた時、また観念を抱いた時)されると、もう一方は過去の
                                  もう一方は過去の
                                  もう一方
経験と合致するように われるのである。
経験と合致するように補われるのである。
     するように補

原因と結果の観念は
原因と結果の観念は
しかじかの特定の対象が過去の全ての実例で、決まって互いに伴っていたことを知らせる経験
                                        経験
による。
による。

必然的結合について
両者を観察してもつなぎ合わせる結び目は知覚出来ない。
同じ対象が常に相伴っている事例を観察する。
両者の中の結合を思い抱き一方から他方へ推理を行う。
類似するこれらの積み重ねこそが結合の本質を表し、このような観念が起こる源なのである。
必然性は   にある。
必然性は心の中にある。

「原因」とは他の対象に先行し、かつ近接した対象であり、一方の印象が他方のより生き生き
とした観念を形作るよう心を規定するもの。




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(参考3)現代の因果律(ウィキペディア「因果律」)
 参考 )現代の因果律(ウィキペディア「因果律」)

人は、過去→現在→未来というように時間を感じる。因果律の概念を理解しようとすると、人
間が抱いている「時間」という概念の本質についての考察と切り離して考える事はできないが、
「時間とは何か」という点についてすらも科学的に明白になっているとはいえず、人が抱く因
果律という観念の基盤は実は危うい。

因果に関する認識について問題提起を行った哲学者にディヴィッド・ヒュームがいる。

近世になると機械論的な世界観、因果律の概念は想定されるようになった。
20世紀初期には相対性理論が発表されたが、そこには時空連続体という概念が含まれており、
因果律についても新たな観点が与えられる事となった。

20世紀も半ばになると、確率論、統計学、量子力学も発展をとげ、特に量子力学は、全ての事
象は(先行する物理的状態と結びつけることは困難なしかたで)確率的に起きている、という
ことを実証し、因果律という考え方は後退することになった。
ニールス・ボーア(1885- 1962)も、“因果律”というのは、あくまで人間的なスケールにおい
て限定的に、あたかも成り立っているように見えているにすぎない、近似として成り立ってい
るにすぎない、微視的なスケールでは成り立っていない
       微視的な
       微視的 スケールでは
               では成  っていない、と釘をさした。


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(参考4)帰納の限界(ウィキペディア「帰納」)
 参考 )帰納の限界(ウィキペディア「帰納」)

一般的にいって帰納は、あくまでも確率・確度といった蓋然性
       帰納は
       帰納                蓋然性の導出に留まる。
                         蓋然性

帰納とは、個別・特殊的事実の多さから結論がどのくらい確からしいものかを導くための推理
といえる。これは確証性の原理とも呼ばれ、次のように定式化されている。
「法則に関連する観察が増えれば増えるほど、その法則の確からしさは増大する
                     その法則
                     その法則の からしさは増大する」。
                                増大する

確実性の根拠としての帰納法的証明を みようとすれば
確実性の根拠としての帰納法的証明を試みようとすれば、論理的な困難が生じる
      としての帰納法的証明              困難が じる。
                              困難
帰納法によってなんらかの仮説を(蓋然的にではなく確実的に)正当化する場合、当の証明者
は「全ての物事は、他に事情がない限り、いままで通り進んでいく」という斉一性の原理
                                  斉一性の
                                  斉一性 原理に従
っている。しかし、この原理を正当化するすべは(少なくとも帰納法的証明のうちには)ない。

帰納法が間違う
帰納法が間違う例として、“「ビールには水が入ってる」、「ウィスキーにも水が入ってる」、
「ブランデーにも水が入ってる」、よって「水を飲むと酔っ払う」“ というものがある。
                               ラッセルの作とも言われる。
 また、帰納法の危険性を表現した次のような寓話も知られている。ラッセル
                               ラッセル
ある七面鳥が毎日9時に餌を与えられていた。それは、あたたかな日にも寒い日にも雨の日に
も晴れの日にも9時であることが観察された。そこでこの七面鳥はついにそれを一般化し、餌は
9時になると出てくるという法則を確立した。そして、クリスマスの前日、9時が近くなった時、
七面鳥は餌が出てくると思い喜んだが、餌を与えられることはなく、かわりに首を切られた。

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(参考5)自然の斉一性原理(ウィキペディア「斉一性原理」)
 参考 )自然の斉一性原理(ウィキペディア「斉一性原理」)


自然の斉一性原理とは、科学哲学の世界で用いられる言葉で「自然界で起きる出来事は全くデ
タラメに生起するわけではなく、何らかの秩序があり、同じような条件のもとでは、同じ現象
がくりかえされるはずだ」という仮定。

推論の一種である枚挙的帰納法を成立させるために必要な前提として、18世紀スコットランド
の哲学者デイヴィッド・ヒュームによって導入された概念。




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『人生論』-第1篇 知性について-
 人生論』     知性について
            について-

5.「信念」について
  「信念」

信、不信にかかわらず、観念を抱くことは可能
  不信にかかわらず、観念を くことは可能。
    にかかわらず         可能
鉛は金より思い。信じないが観念(想像)を抱ける。
「信念」はある対象を思い抱く仕方を変えるもの
 信念」はある対象
       対象を    仕方を えるもの。
⇒観念に対して勢いと活気を付け加える。
⇒正確には「現在の印象と関係を持つ、すなわち連合する生き生きとした観念」と定義できる。
この仕方を正確に説明できるぴったりな言葉が無い。

「信念」の原因
 信念」
次のことを人間性の一般原則としてあげておきたい
「なんらかの印象が現れると、この印象と関係を持つような観念へ心を差し向けるだけではな
 なんらかの印象
 なんらかの印象が れると、この印象 関係を つような観念
                印象と        観念へ     けるだけではな
 く、これらの観念に印象の持つ勢いと活気とを伝えもする。」
   これらの観念 印象の
        観念に     いと活気とを伝えもする。
                  活気とを
例)友人を描いた絵を見る⇒友人の観念を思い起こす。友人の観念に勢いと活気がつく。
印象によりいつも引き続いて起こるものを経験するうちに印象が信念の元をなすものになる。

ところで、
新たに推論、断定をまじえず過去の繰り返しから生じるものを「習慣」と呼ぶ。
ある現在の印象に伴って起こる「信念」はもっぱらこの「習慣」に起因
              「信念」はもっぱらこの「習慣」 起因する。



                     21
『人生論』-第1篇 知性について-
 人生論』     知性について
            について-

5.「信念」について
  「信念」

「習慣」は反省の暇も与えず作用する。この移行は経験から来るものであり、観念との間にも
ともと結合があるわけではない。

信念の になる習慣が
信念の元になる習慣が心に作用し活気付ける方法が2つある。
       習慣   作用し活気付ける方法が つある
                  ける方法  つある。
①過去の経験により二つのことが相伴っていた場合。対象の印象が現れた場合、明らかに習慣
 によってたやすくともなう観念に移行する。
②1つの観念だけが頻繁に心に現れると次第に勢いを持って現れるようになり特別な観念となる。

これらは、「教育」の観点から説明できる。
幼児から習慣付けられてきた意見や考えはその人に深く根ざしている。
そして、人類の間に広く抱かれている意見のうち、半分以上が教育に負っている。




                     22
『人生論』-第1篇 知性について-
 人生論』     知性について
            について-

5.「信念」について
  「信念」

おそらく、
信念のような重要な結果がとるに足らぬ原理から起こること、つまり、大部分の推論、および
信念のような重要な結果が
  のような重要
行動と情念が習慣からだけ生じるとは信じないだろう
      習慣からだけ
      習慣からだけ生じるとは信じないだろう。

異論を未然に防ぐため、情念を取り扱うところに移る前に先走って情念について簡単に説明し
ておこう。

人間の心には快や苦の知覚が植えつけられており、活動の主な動機となっている。
快や苦が心に現れる様は2つあり、印象として現れる場合と観念として現れる場合である。
①印象として現れた場合、魂を駆り立てる。(意志に影響をもたらす)。
 印象として現れた場合、
 印象として   場合      てる。
②観念として現れた場合は、印象とは同じ結果を常にもたらすわけではない。
(行動に影響をもたらしたりさほどもたらさなかったり)。

信念の効果は なる観念を印象と しいものにまで高
信念の効果は単なる観念を印象と等しいものにまで高め、情念に対する影響力の点で印象と似
         観念
通ったものを観念に与えるわけである。

信念は情念を呼び起こす。情念もまた信念を生むのに都合がよい。
例)臆病で恐れを抱きやすい人は出会う危険の説明を聞くと簡単にそれに従ってしまう。

                     23
『人生論』-第1篇 知性について-
 人生論』     知性について
            について-

5.「信念」について
  「信念」

原因と結果に関するすべての推論は習慣にのみ起因すること、また、信念はわれわれの本性の
知的部分の働きというよりもむしろ情的部分の働きであること




                     24
『人生論』-第1篇 知性について-
 人生論』     知性について
            について-

5.人格の同一性について
  人格の同一性について
  人格

哲学者の中には「自己」と呼ばれるものを、いつでも親しく意識しているのだと思っている
ものがいる。
自己の完全な同一性、完全な単純性について、論証による明証性以上に確信している
自己の完全な同一性            論証による明証性以上に確信しているのだと
                     論証による明証性以上   している
思っているのである。

自己の観念はいかなる印象に起因するのか。
自己の観念はいかなる印象に起因するのか。
     はいかなる印象   するのか

もし何らかの印象が自己という観念を生じさせるとすると、その印象はわれわれの一生を通
じて変わらずに同じままでなければならない。自己とはそのような仕方で存在するとされて
いるからである。
しかし、恒常的で普遍な印象はない。快や苦、悲しみ喜び、色々な情念や感覚が継起し、決
して全てが同時に存在しない。

私自身と呼ぶものに深く入ってみても出会うとは、愛や憎しみ、快や苦、明るさ暗さ、など
ある特殊な知覚である。
知覚なしに私自身を捉えることは出来ない。知覚以外の何かに気づくことは出来ない。
眠りより知覚が取り去られているとき私は、私自身を感じていない。
死によって私の知覚が取り去られれば、まったく無に帰すだろう。

                       25
『人生論』-第1篇 知性について-
 人生論』     知性について
            について-

5.人格の同一性について
  人格の同一性について
  人格

私は次のように確信してもよいだろうと思う。
「人間とは、思いもつかぬ速さで次々と継起し、たえず変化し、動き続ける様々な知覚の束
 人間とは
 人間とは、 いもつかぬ速さで次  継起し たえず変化
                         変化し    ける様  知覚の
 あるいは集合に他ならない」
 あるいは集合に ならない
     集合

人は「同一性」の観念、「継起」の観念をもっている。相反するものだが一般に混同される
  「同一性」 観念、「継起」 観念をもっている。相反するものだが一般に混同される。
          、「継起    をもっている   するものだが一般   される
その原因
変化しない対象物を想像するのと、関係する対象物の継起を想像するのとでは思考の努力に
違いは無い。「関係」が一つの対象から他の対象への移行をたやすいものにして、あたかも
一つの持続する対象を見つめるのと同じ程度に心の進みを滑らかにする。この類似が誤りの
                                   類似が
                                   類似
原因である。
原因

誤ったことによる不合理を自分自身に弁解するため不可解な原理をこしらえ上げる。

こうして感覚機能の知覚の持続的な存在なるものをこしらえて中断を取り去り、自己といっ
ものに入り込んで変化を取り繕うのである。




                     26
『人生論』-第1篇 知性について-
 人生論』     知性について
            について-

5.人格の同一性について
  人格の同一性について
  人格




 ぬいぐるみのマー君     リボンつけた        片足取れた    目を変えた

厳密に言うと同一性は壊れている。
取るに足らない変化であれば同じクマのぬいぐるみだという。

もし変化が
もし変化が、気づかれぬくらいにゆっくり変化した場合、早く変化したときと同じ結果を物体
  変化   づかれぬくらいにゆっくり変化した場合、
                   変化した場合   変化したときと同 結果を
                              したときと
に帰することは無い。変化がついにわかるほど目立ってくると、同一性を帰するのをためらう。
  することは無  変化がついにわかるほど目立ってくると 同一性を するのをためらう。
            がついにわかるほど目立ってくると、




共通目的や共通な意図への結集を作り出すと同一性を帰する傾向が強くなる。




                        27
『人生論』-第1篇 知性について-
 人生論』     知性について
            について-

5.人格の同一性について
  人格の同一性について
  人格

               タイヤが消耗したので変える。
               アルミホイールに変える。     同じ車だとと感じるか
               エンジンを変える。
               バンパーをカーボンに変える。
   マイカー

               経営陣が変わる。
               株主が変わる。
                                同じ会社と感じるか
               商品が変わる。
               従業員が変わる。
               会社理念・方針の変更。
  ㈱ディビット



               国家、共和国に例えるとわかりやすい。




  われわれが人間の
  われわれが人間の心に帰する同一性は虚構である。
       人間    する同一性は虚構である。
               同一性   である

                        28
『人生論』-第2篇 情念について-
 人生論』     情念について
            について-

1.情念の分類
  情念の
  情念

 印象       原初的     感覚機能から知られるものや「快」や「苦」など


          二次的     情念やその類など
      (反省の印象)
       反省の印象)

               穏やかなもの 「美」「醜さ」「慈愛」「欲望」「嫌悪」・・・


                激しいもの 「誇り」「卑下」「愛」「憎しみ」「悲しみ」「喜び」・・・



                         「快」や「苦」から直接起こるもの
          情念       直接的
                         「悲しみ」「喜び」「望み」「恐れ」「欲望」「嫌悪」・・

                         同じ原理ではあるが、他の諸性質が相伴って生ずる
                   間接的
                         「誇り」「卑下」「愛」「憎しみ」「羨み」「憐れみ」・・



                             29
『人生論』-第2篇 情念について-
 人生論』     情念について
            について-

  間接的情念について
2.間接的情念について
  間接的情念

「誇り」や「卑下」
 ①対象⇒自己(記憶し意識している関係しあう観念や印象の継起)
 ②原因⇒多様にある。例えば誇りの原因として「博識」「勇気」「正義」「機知」・・・
                  卑下の原因として、上記誇りの原因と対立するもの
  少しでも縁があり関係があるものも誇りや卑下の原因となりうる。
  ⇒国、家族、子供、親類、財産、家、庭、馬、犬、衣服・・・
さらに「原因」は
 ②-1.作用する性質
 ②-2.性質が帰せられる主体
例えば「自分で考案し、建てた美しい家を自慢する。」
 対象⇒
①対象⇒自己
 原因⇒自分で考案し てた美しい家
②原因⇒自分で考案し建てた美しい家
      ②-1.性質⇒「美しさ」
          性質⇒
          性質   しさ」
                           どちらかだけでは情念
                           どちらかだけでは情念は生まれない
                                   情念は
      ②-2.主体⇒「自分で考案し建てた家」
          主体⇒ 自分で考案し てた家
          主体

対象は原初的、自然的である。
原因は自然的だが原初的ではなく思いつき、人工の成果、勤労から、好運から‥生じる。

         原因のそれぞれに共通するある事態がありこれに原因の効力が依存している
                       30
『人生論』-第2篇 情念について-
 人生論』     情念について
            について-

2.間接的情念について
  間接的情念について
  間接的情念

共通するものは何か

   それを考えるに於いて
   ①観念の連合(既に述べてきたもの)
   ②印象の連合
    印象の
     悲しみや失望は怒りを生じ、怒りは羨みを、羨みは悪意を、悪意は悲しみを・・・
     喜び⇒愛⇒寛大⇒憐れみ⇒勇気⇒誇り
        観念と じく印象にも引力のようなものがある。
    つまり、観念と同じく印象にも引力のようなものがある。但し印象の場合は「類似」
        観念    印象にも引力のようなものがある   印象の場合は 類似」
    のみである。
    のみ
   ③上記①と②の連合は互いに助け合い、促進する
             互いに助    促進する
                       する。

 対象が個々人を超えることは無い
 快や苦があり(誇りは快、卑下は苦)「快」や「苦」を取れば「誇り」や「卑下」も無い

 自然がこの情念のものとしている対象と関係を持ち
 原因が別個に生み出す気持ちは情念の気持ちと関係を持つ
 こうした観念と印象の二重の関係に情念は起因する
 こうした観念と印象の二重の関係に情念は起因する
     観念



                     31
『人生論』-第2篇 情念について-
 人生論』     情念について
            について-

2.間接的情念について
  間接的情念について
  間接的情念

 喜び(直接的情念)⇒快を与える対象から直接起こる
 誇り(間接的情念)⇒相伴う、快を与える原因と対象である自己

 ①
 宴会に出席している人⇒喜び(満足)
 宴会を催した人(宴会の主人)⇒自慢、誇り
 ②
 特有で少数で共有できるものでなければならない
 健康からの回復は満足を与えるが誇りや自慢は与えない。健康を多くの人が共有している為
 ③
 他人に気づかれることにより増す。
 ④
 原因となるものが変りやすいと影響は低くなる。
 ⑤
 世間一般の規則(慣行、習慣)が情念に影響を及ぼす。




                     32
『人生論』-第2篇 情念について-
 人生論』     情念について
            について-

2.間接的情念について
  間接的情念について
  間接的情念

 最も誇り高く、世間の目にも誇る理由があるような人が最も幸福とは限らず
 最も卑下する人が惨めとは限らない
 悪は
 その原因がわれわれと関係なくても実際はあるかもしれない
 自分だけに特有で無くても実際にはあるかもしれない
 他人に気づかれなくても実際にはあるかもしれない
 不変でなくても実際にはあるかもしれない
 世間一般の規則に当てはまらなくても実際はあるかもしれない
 悪は誇りを弱める傾向は無いがきっとみじめにする
 おそらく、人生で最も切実な最も強固な悪はこういう性質のものである事がわかるだろう




                     33
『人生論』-第2篇 情念について-
 人生論』     情念について
            について-

2.間接的情念について
  間接的情念について
  間接的情念



     「誇り」        「愛」      「快」

                                 印象

     「卑下」        「憎しみ」    「苦」



対象   「自己」     「関係ある他」




            観念                  2つが合わさって
                                「情念」となる

 情念は
 情念は似た情念に移りやすい(印象の引力「類似」)
      情念に りやすい
 想像はおぼろげな観念から生き生きとした観念には行くが、その逆はほとんどない
 (弱い観念⇒強い観念へ移行)自己の方が、関係ある他より観念が強い。
 従って、例えば子供への愛、憎しみ⇒自己への誇り、卑下へと移る。
                         34
『人生論』-第2篇 情念について-
 人生論』     情念について
            について-

3.意志について
  意志について
  意志

意志⇒われわれが何か新たに身体の運動または心の知覚をそうとしって生じさせる時に
われわれが感じ、意識する内的な印象に他ならない。

自由と必然について

外的物体の作用は必然的であること、物体間の運動の伝達、引力、相互の凝集には不確定、
自由の しの形跡
自由の少しの形跡も無いこと、これは広く一般に認められている。
      形跡も いこと、これは広 一般に められている。
したがって、物質の活動は必然的な活動の実例とみなされる。

必然的⇒「恒常的な連結(経験)と心の推理(因果の観念)」⇒必然的と承認。

自由の
自由の説が広く受け入れられている理由
          れられている理由
①われわれが行為を行った後で、特定の意図や動機の影響を認めたとしても、必然によって
                                   必然によって
                                   必然
支配されたのだ ちがったやり方では行為できなかったのだと自分
  されたのだ、          行為できなかったのだと自分に  かせるのは困難
支配されたのだ、ちがったやり方では行為できなかったのだと自分に言い聞かせるのは困難
である。
である。必然性の観念には、無理強いや拘束というのが含まれているように思われるのに、
われわれはそれを感じ取れないから。
「自発性の自由」(無理強いに対立するもの)と「無差別の自由」(必然性とか原因を否定
 自発性の自由
 自発性                    無差別の自由
                        無差別
するもの)を混同している。前者をわれわれは本来保ち続けたいと願っているもの。

                     35
『人生論』-第2篇 情念について-
 人生論』     情念について
            について-

3.意志について
  意志について
  意志

②「無差別の自由」にたいしても偽りの感覚、経験があること。
先行する事象から推理する思考の規定に わない経験
先行する事象から推理する思考の規定に沿わない経験
  する事象から推理する思考        経験⇒規定の欠如⇒偶然とか自由
一つの観念からもう一つの観念に移ったり移らなかったりするときに感じる不安定感

意志がなにものにも支配されてないことを否定され、はたしてそうなのかと試してみても
それは無駄である。どんな気まぐれな行為をしてみようとしても、自由を示したいという
動機がその原因となっているから。

③宗教。宗教は不必要なほど自由に関心を寄せてきた。
ところで、本来「必然性」は宗教にとってもプラスの効果がある。
人の法である「賞罰」は動機として心に影響し良い行為を生み悪い行為を妨げることを基礎
原則としている。
行為がそれをする人の性格や気質などのなんらかのある原因から生じない場合には、行為は
その人に固着せず、したがって、名誉なことも褒められず、悪いことも罰せられない。
自由の仮説に従えば、人は最も恐ろしい罪を犯したあとでも、生れ落ちた最初の瞬間と同じ
ように清らかで汚れもない。




                     36
『人生論』-第2篇 情念について-
 人生論』     情念について
            について-

4.影響を及ぼす意志の動機について
  影響を ぼす意志の動機について
  影響    意志

哲学において
哲学において情念と理性の戦いについて語り、理性を優先させて人々は、理性の命令に従う
  において                           理性の
                                 理性 命令に
限り有徳であると主張することほどありふれたことは無い。
  有徳であると主張することほどありふれたことは
    であると主張することほどありふれたことは無
形而上学的な議論、一般向け演説にもゆとりのある戦いは無い。理性の永遠性、不変性、
神的起源がこの立場にきわめて有利に提示されてきた。

しかし、
 理性だけでは意志の動機とならない
   だけでは意志
①理性だけでは意志の動機とならない
 理性の本来の領域は観念の世界のもの。意志はわれわれを常に実在の世界に置く。
 意志を    理性と情念が対立することはありえない
②意志を導く際に理性と情念が対立することはありえない
「理性は情念の奴隷」、原因と結果に関する判断を正しくする場合の算術などと同じ。
それ以外には一切の影響を及ぼさない。

「非理性的」とよばれるものは、情念ではなく判断。原因と結果についての判断において
誤る場合。

心の強さと呼ばれるものは、穏やかな情念が激しい情念よりも優勢であるという事が含まれる
   さと呼ばれるものは、 やかな情念が しい情念よりも優勢であるという事
                 情念    情念よりも優勢であるという   まれる。




                     37
『人生論』-第3篇 道徳について-
 人生論』     道徳について
            について-

1.道徳的な区別は理性に依存しない
  道徳的な区別は理性に依存しない
  道徳的

徳は理性に合致するとか正、不正の不変的基準があるとか、いろいろ主張する人がいるが

道徳は人の意志に影響を与える。
(不正と考えて行為をとどまる。責務と考えて全うするなど)
与えないのであれば、どんなに教育で道徳を教え込んでも無駄となるだろう。

であれば、先に述べたように、理性は道徳に(意志に)それだけでは影響を与えない。
              理性は道徳に 意志に それだけでは影響を えない
              理性               影響
(※意志は厳密には印象ではあるが情念ではない)

どの道徳体系でも、私は気づいていたのだが、その著者はしばらくは通常の仕方で論及を進め
それから神の存在を立証し、人間に関する事柄について所見を述べる。

ところがこのとき突然「である」「でない」 命題を ぶのではなく、
ところがこのとき突然「である」「でない」で命題を結ぶのではなく、
        突然    」「でない
「べきである」「べきでない」で結ばれることに私は驚く
 べきである」「べきでない」
      」「べきでない   ばれることに私
(なぜそうなるのかその理由を与えるに不十分にもかかわらず。)




                     38
『人生論』-第3篇 道徳について-
 人生論』     道徳について
            について-

2.道徳的な区別は理性に依存しない
  道徳的な区別は理性に依存しない
  道徳的

<前頁の補足>「ソフィーの世界」参考に文作成
 前頁の補足> ソフィーの世界」参考に
「合理主義者や昔の哲学者の多くは、正しいことと正しくないことを見分ける力は理性に宿
 っていると考えた。しかし、ヒュームは感情が決定すると考えた」
「君が困っている人を助けようと決めたら、君の感情がそうさせた訳で、理性ではない」
「助けようと思わなかったら?」
「それも感情がそうさせたんだ。困っている人を助けないのは別に非理性的なことではない」
「でも、これは絶対ってのはあるはず、人を殺してはいけないとか、皆知ってることだし」
「では、なぜ邪魔者を消してはいけないの?」
「ほかの人も命を愛しているから、殺しちゃいけないんだと思う」
「それは論理的?。事実判断から価値判断を引き出した。これはばかげている。「である文」
 から「べきだ文」は引き出されない。」
「『飛行機で旅行をする人が増加している。従って飛行機を増産すべきだ』これって必ず成
 り立つことなんだろうか?」
「環境問題なども有るし、必ずしもそうとは言えない。」
「ナチが何百万人ものユダヤ人を殺したことは知ってるね?ナチの人たちの何が狂っていた
 のだろう。理性かな?それとも感情かな?」
「被災地にボランティアに行くのは感情だ。理性的な頭は人口が増加してる中、減るのはい
 いことじゃないかと・・・」

                     39
『人生論』-第3篇 道徳について-
 人生論』     道徳について
            について-

2.道徳的な区別は道徳感覚に起因する
  道徳的な区別は道徳感覚に起因する
  道徳的

徳と悪徳を区別することの出来るのは、これらが引き起こす印象から起こる
  悪徳を区別することの出来るのは、これらが引
       することの出来るのは        こす印象から起こる。
                            印象から
道徳は判断されるというよりは感じられるというほうが適切
              感じられるというほうが適切
                         適切である。

なぜか、これは有徳である。あるいは悪徳であると感じるのは、それを見た際に、快、不快を
引き起こすからである。

この事情は「美」や「好み」についての判断と同じである。

ところで、この有徳、悪徳を区別する快、不快はどこから来るのか、これは全て、原始的な性
質であるとは考え難い。生まれたときから、全ての善、悪を区分するものが備わっているとは
思えない。従って、いくつかの徳は人為的であり、いくつかの徳は自然的であるだろう。
         いくつかの徳 人為的であり いくつかの徳 自然的であるだろう
         いくつかの     であり、          であるだろう。

※但し、人為的は自然に包括される。人々の意図や計画は、熱さや冷たさと同じく、必然的に
 作用することをすぐに忘れ、自由であると勘違いし、自然と対比させてしまう。
 「自然的」と「人為的」という風に。




                     40
『人生論』-第3篇 道徳について-
 人生論』     道徳について
            について-

3.正義と不正義について
  正義と不正義について
  正義

すでに述べたように、あらゆる種類の徳が自然的なものではなく、人類が置かれている状況や
必要から生じる人為あるいは考案によって快や是認を生むようないくつかの徳がある。
そして、「正義」がこの種のものである。

ある行為を賞賛するとき、行為を生み出した動機
            行為を
            行為    した動機を考える。行為をその印、表示
                    動機     行為をその
                           行為をその印 表示として見る。
(賞賛を生むのは前者であり後者ではないとする。)

ある行為に価値を与える最初の有徳な動機
           最初の
           最初 有徳な動機は決してその行為の徳を考慮する事ではありえず、
                         行為の
                         行為   考慮する ではありえず
                                する事
  別 自然的な動機もしくは原理でなければならない
ある別の自然的な動機      でなければならない。
                でなければならない
行為の徳を考慮し、その行為を生み有徳にする最初の動機とするのは循環論である。

従って、ある有徳な動機がそうした考慮に先行しなければならない。
すなわち、
いかなる行為も、その行為を生むある動機が行為の道徳性についての感覚とは別に人間性のう
ちにあるのでなければ有徳つまり道徳的に善とはなり得ないということである。

これまでのことを正義に当てはめて考えてみると



                     41
『人生論』-第3篇 道徳について-
 人生論』     道徳について
            について-

3.正義と不正義について
  正義と不正義について
  正義

正義の行為
正義の行為、正直な行為に対して「正義」「正直」を考慮するのとは別に、ある動機
               「正義」「正直」 考慮するのとは
                  」「正直    するのとは別    動機を見出さ
                                    動機
なければならない。
それは困難
   困難である。
それは困難
仮に、私的な利害や周りからの関心が全ての正直の動機であるとするならば、その関心がなく
なれば「正直」もなくなってしまう。そして自己愛が気ままに振舞えはそれこそ「不正直」の
源となる。

仮に、動機を公共の利益のためと反論された場合。
それに対して、私は個人に関係のないところで、人類愛のような情念は人間にはないと考える。

たしかに、どんな人間でも、その幸、不幸がわれわれの身近に置かれ、生き生きとした色合い
で示されるときは、ある程度われわれの心を動かすのは事実である。
しかしながら、こうしたことはただ「共感」からのみ起こるのであり、人類へのそうした普遍
                「共感」
的な愛情の証拠にはならないのである。

従って、正義は本来、価値の無いものであり、こじつけ、循環論がある
    正義は本来、価値の いものであり、こじつけ、循環論がある。
    正義                       がある
教育と人間のしきたりから必然的に生じたものであることを認めなければならない。



                     42
『人生論』-第3篇 道徳について-
 人生論』     道徳について
            について-

3.正義と不正義について
  正義と不正義について
  正義

人々の気にさわらぬよう、述べておくが
正義が自然な徳ではないと否定するとき、人為的を自然的に対比させた場合によるもので、
本来、人為的は自然に包括されるため、別の意味にとれば、正義ほど自然な徳はないともい
                  別 意味にとれば 正義ほど自然な はないともい
                      にとれば、  ほど自然
える。
える。

人類は案出することができる。
そして、案出が必要なものであれば思考や反省が入り込まず原初的な原理から生ずるどんな
ものとも同じように、その案出を自然的であると言っても差し支えないだろう。




                     43
『人生論』-第3篇 道徳について-
 人生論』     道徳について
            について-

4.自然な徳と悪徳について
  自然な
  自然   悪徳について

まずは「共感」の本性について
   「共感」 本性
そもそも全ての人は心の作用や感じにおいて相似している。
私が、ある人の声や身振りに情念の結果を読み取ると、私の心はすぐにこうした結果からその
原因へと移って、情念についての生き生きとした観念を形作り、この観念は直ちに情念へと変
わる。
同じように、私がある感動の原因を知覚すると、私の心は結果へと運び移され、似通った感動
      私がある感動の原因を知覚すると、
          感動      すると     結果へと運
                             へと   され、似通った感動
                                       った
    かされる。
で揺り動かされる。
他人の情念が直に私の心に現れるのではなく、ただその原因や結果に気づくだけである。
われわれは、これら原因もしくは結果から情念を推し量り、その結果としてこれらが共感を呼
      これら原因もしくは結果から情念
      これら原因もしくは結果から情念を      その結果としてこれらが共感
                              結果としてこれらが共感を
  こすのである。
び起こすのである。
見知らぬ人の快がわれわれに快を与えるのは共感によってだけである。

正義が道徳的な であるには、ただそれが人類の への傾向を つからである。実際、正義は
正義が道徳的な徳であるには、ただそれが人類の善への傾向を持つからである。実際、正義は
                   人類    傾向
そうした目的のために人為的 案出されたものに ならない。
    目的のために人為的に  されたものに他
そうした目的のために人為的に案出されたものに他ならない。
共感が人為的な徳に対する尊敬の源である。




                     44
『人生論』-第3篇 道徳について-
 人生論』     道徳について
            について-

4.自然な徳と悪徳について
  自然な
  自然   悪徳について

自然な徳と正義との違いは次の点にあるだけ
自然な徳の結果として生じる善は一つ一つの行為全てから起こり、何らかの自然な情念の対象
であるが、
正義の
正義の一つ一つの行為はそれ自体として考えると、しばしば公共の善に反することがありうる
      つの行為はそれ自体として考えると、しばしば公共
        行為はそれ自体として         公共の
のであって、行為の全体的な組織、体系として人類が共同して働くとき初めて、公共の善に資
するようになる、ということである。




                     45

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20110529

  • 1. A Treatise of Human Nature David Hume 1
  • 2. 哲学 哲学 代哲学 代哲学 ㄶㄭ哲学 古代ギリシャ哲学 古代ギリシャ哲学 ギリシャ 学 学 サ ハ フ キ ス ラ デ ア ア タ ル イ ッ ル ピ イ カ ナ ナ レ ト デ サ ケ ノ プ ル ク ク ス ル メ ガ ー ゴ ザ ニ ト シ シ ル ー ル ー ッ マ メ ロ ル ツ ン ネ ポ ド ス デ ン ニ ヘ カ ト ア ア プ ソ ロ リ テ ー ー ン マ ウ リ ラ ク ス ダ ィ チ ゲ ト ス グ ス ト ラ ヴ ェ ル ア ス ト ン テ パ ク テ テ ス ル ィ ィ レ メ レ ト ィ フ ナ ヌ ス ニ ー ヴ ゲ ス ス デ コ ィ ン マ ス シ ス ー ル ト ュ ク ロ タ ス ギリ ヘ ー イ ラ ス ン ヒ バ ロ ド ー ク ュ ッ ゥ ー ク ク レ ル ム リ イ ー ト ズ ス 2
  • 3. 年譜 1711年 - 4月26日グレートブリテン王国のスコットランドエディンバラ近郊の別荘でジョーゼ フ・ヒュームとキャサリンの次男として生まれる。兄のジョンと姉がいる。 1712年 - ルソー ルソー生まれる 1713年 - 父を失う。 1723年 - エディンバラ大学入学。アダム・スミス アダム・ アダム スミス生まれる。 1724年 - カント カント生まれる。 1725年 - エディンバラ大学退学。哲学以外のことへの興味を持てなかったためとされる。 以後自宅で哲学の研究に没頭した。 1729年 - 精神を病む。 1730年 - 冬精神状態、回復に向かう 1734年 - ロンドンへ行き「医師への書簡」執筆。ブリストルにある商会で仕事。 夏退職しフランスに行きパリを経てランスに行く。 1735年 - 秋にラフレーシに行く。『人間本性論』を執筆。24歳。 1736年 - ロンドンで『人性論』出版に努力 1739年 - 『人性論』第1・2篇を出版。当初匿名で出版。学会反応無く極度に失望する。 1740年 - 『人性論摘要』出版。『人性論』第3篇出版 1741年 - 『道徳政治論集』第1篇出版 1742年 - 『道徳政治論集』第2篇出版 1744年 - エディンバラ大学倫理学教授候補となるも宗教的見地から反対される。 3
  • 4. 年譜 1745年 - アナンディル侯爵の家庭教師となる。母キャサリン死亡。 1746年 - 家庭教師を辞めロンドンに住む。セント=クレア中将の法務官としてブルターニュ遠征 1747年 - 帰国。セント=クレア中将の副官として、ウイーン・トリノへの軍事使節団に。 『人間知性についての哲学的試論』出版。年末にロンドンに戻る。 1748年 - ヒュームを高く評価したモンテスキュー モンテスキューとの、定期的な文通が、この時期から始まる モンテスキュー 1751年 - 『道徳原理研究』出版。アダム・スミス アダム・ アダム スミスの後任としてグラスゴー大学倫理学教授に推 薦されるも宗教思想のゆえに反対される。 1752年 - エディンバラ弁護士協会の図書館長。『政治経済論集』出版。 1754年 - 『イングランド史』第1巻出版 1755年 - スコットランド教会にヒューム破門の策動起こる。 1756年 - 『イングランド史』第2巻出版。このころから、彼の名声がようやく確立する。 1757年 - 『四論文集 出版。 四論文集』 四論文集 1759年 - 『イングランド史』第3・4巻出版。 1762年 - 『イングランド史』第5・6巻出版。 1765年 - パリでハートフォード卿の正式の秘書官となり、代理大使。ルソーと出会う。 1766年 - ルソー ルソーと帰国、保護に尽力。ルソー ルソーを誹謗する印刷物の著者と誤解され絶交される。 ルソー 1767年 - 国務大臣次官になる。 1768年 - 次官辞任、翌年エディンバラへ帰る。 1775年 - 『人生論』を自著から除くことを宣言する。アメリカ独立戦争起こる。 1776年 - アダム・スミス アダム・スミス『国富論』の出版を喜ぶ。8月死去。アメリカ独立宣言。 4
  • 5. 批評 生前よりヒュームは懐疑論者 懐疑論者、無神論者として槍玉にあがっており、そのためにアカデミック・ 懐疑論者 ポストを望んでいたにもかかわらず終生得ることができなかった。 また、デビュー作『人間本性論』は「印刷所から死産した」と自ら評したほど当代の人々の注目 カントは ヒュームが自身の独断のまどろみ を浴びなかった。後世のドイツ哲学のイマヌエル・カントは、ヒュームが自身の独断のまどろみ カント を破ったことを告白した ったことを告白した 告白したと共に、「哲学を独断論の浅瀬に乗り上げることから救ったが、懐疑論 という別の浅瀬に座礁させた」と批評している。 バートランド・ラッセル※は、因果関係の必然性を否定したヒュームの懐疑論を克服した哲学は、 カントをはじめとしたドイツ観念論も含め、いまだに現れていないとの見解を示している。 ※イギリス生まれ(1872年 - 1970年)の論理学者、数学者、哲学者。ノーベル賞受賞者。 ウィキペディア参考 ヒュームの『英国史』や政治経済に関する評論が生前から高い評価を受けたのに対し、ヒューム 『英国史』 政治経済に する評論が生前から高 評価を けた 評論 から の哲学は、同時代の哲学者から知識と道徳の基礎を破壊する懐疑論と見なされ、攻撃を受けた。 ヒュームを懐疑論者と見なしながらも、議論の意義を認め、評価したのがカントである。 カントは、『プロレゴメナ』の序説で、「ヒュームの警告が、まさしく、はじめて私の独断的ま どろみを破り、私の探究にまったく別の方向を与えたものであった」と述べている。 現在では、ヒュームは、人間の心の働きの広範な部分を、広い意味での感受性の働きとしてとら えようとする自然主義者として評価されている。 伊勢俊彦ー立命館大学HP参考 5
  • 6. (参考1)懐疑論(ウィキペディア「懐疑主義」) 参考 )懐疑論(ウィキペディア「懐疑主義」) 懐疑主義とは、基本的原理・認識に対して、その普遍性・客観性を吟味し、根拠のないあらゆ るドクサ(独断)を排除しようとする主義である。懐疑論(かいぎろん)とも呼ばれる。 これに対して、絶対的な明証性をもつとされる基本的原理(ドグマ)を根底におき、そこから 世界の構造を明らかにしようとする立場を独断主義ないし独断論という。 懐疑主義ないし懐疑論は、古代から近世にかけて、真の認識をもたらさない、あるいは無神論 へとつながる破壊的な思想として論難されることが多かった。 これは、懐疑主義が、懐疑の結果、普遍性・客観性のある新たな原理・認識が得られなかった 場合、判断停止に陥り、不可知論 不可知論と結びつき、伝統的形而上学の保持する神や存在の確かさを 不可知論 も疑うようになったためである。 しかし近代以降は、自然科学の発展の思想的エネルギー源となったこともあり、肯定的に語ら れることが多い。 6
  • 7. (参考2)不可知論(ウィキペディア「不可知論」) 参考 )不可知論(ウィキペディア「不可知論」) 不可知論は、形而上の存在、死後の世界、神の存在など、神学に関する命題の真偽、また客観 的本質的な実存は本質的に認識することが不可能である、とする宗教的、あるいは哲学的な立 場をいう。 宗教的には純粋に「神はいるともいないとも言えないのだ」とする公平な中立的不可知論と、 無神論者であると言明するのがはばかられる場合に用いられる消極的無神論がある。 積極的な無神論者リチャード・ドーキンスは『神は妄想である』の中で、王立協会の会員への アンケートの結果から、イギリスの知識人集団では97%が無神論か不可知論(あるいは家族や 伝統への忠誠心から宗教的観念を否定しない、実質的な不可知論)に属すると述べた。 不可知論には懐疑論、現象学、実証主義などの立場から現象と実存を区別し、そこから客観的 本質的な実存に対して認識不可能性を導き出す。 不可知論においても客観的実存を絶対のものとして認識を言葉以上のものではないとする極端 な立場があり、また認識不可能性を認めつつも想定することは可能であるという立場がある。 7
  • 8. 第1篇本編の結論より抜粋 私は道徳的な善悪の原理、 統治の本性と基礎、 私を活動させ、支配する様々な情念や傾きの原因などを よく知りたいという好奇心を抑えることが出来ない そして、 私がいかなる原理をもとに歩んでいるのか知らないでいて 一つの事象を認め他の事象を非難し、 一つのものを美しいと呼び他のものを醜いと呼び、 真と偽、 思慮と愚かさとを決めているのだ、 と思うと私は落ち着かない 8
  • 9. 『人生論』-序論- 人生論』 序論- 多くの学問は多かれ少なかれ人間性に関係している くの学問は かれ少なかれ人間性に関係している、また、遠くに離れ去ったように見える 学問 人間性 している ものでも、いずれかの道筋を通って人間性に立ち戻る事は明らかである。 数学、自然学、自然宗教にしたところでも「人間」の学問に依存している。 これらは人間の審理権、権限、権能によって裁定されるからだ。 諸学問の首都である人間性を手中にすればほかはどこでも簡単に勝利を収められるだろう。 人間性の原理を解明に みることで、諸学問の完全な体系を目指していることになる。 人間性の原理を解明に試みることで、諸学問の完全な体系を目指していることになる。 していることになる ところで、 人間の学自体に して与えうる唯一のしっかりした基礎は経験と観察 人間の学自体に対して与えうる唯一のしっかりした基礎は経験と観察とにおかれる。 唯一のしっかりした基礎 自然についての問題に適用される実験的方法を哲学にも応用するものである。 但し、自然学とは違い精神学の観察実験は計画し、十分納得できる実験を実施できない不利は 認める。なぜなら計画に際してもそのことが作用し自然の精神的な流れを乱すからである。 9
  • 10. 『人生論』-第1篇 知性について- 人生論』 知性について について- 1.知覚及び単純・複合、生得観念について 知覚及び単純・複合、生得観念について 知覚及 (生得観念なし 生得観念なし 生得観念なし) 人間の心に現れる知覚は2種類 「印象」なければ 情念、感動・・・勢いよく激しい 「観念」なし ①印象・・・心にはじめて現れるときの感覚、情念 情念 ②観念・・・思考や推論の際の勢いの無いこれら(印象)の心象 「印象」 「観念」 色 匂い 味 など (正確に写し取らない事がある) 正確に 正確 らない 1つ1つは 2つに区分 「単純印象」 「単純観念」 元の複合印象に対し 「記憶」 「複合印象」 「複合観念」 × ⇒遜色なく活気あり (複合観念に対する複合印象は無い場合がある 複合観念に する複合印象は 複合観念 複合印象 場合がある) がある 「想像」 ⇒活気無く拘束されない 神、天国、天使 例えばペガサス 多くの単純印象の結合 結合 10
  • 11. 知 について 1.知覚及び単純・複合、生得観念について 知覚及び単純・複合、生得観念について 知覚及 (補足)「生得観念」が無い理由一例 ⇒生まれつき盲目の場合、視覚から入る印象(色など)は無く、それに対応する観念も無い。 「印象」のつづき 2種類に分けることが出来る。 ①⇒知られない原因から直接心に起こる。 ここ は「感覚」についての は、 ②⇒観念に起因するもの。 についての はなく 、 に る つまり・・・ 「印象」(①) <感覚機能を刺激し熱さや冷たさ>⇒<快、苦の印象も同時に起こる> 快 ↓ 「観念」 <印象が消えた後も写し取られる> ↓ 「観念(反省)」 <快、苦の観念を心に起こす> 快 ↓ 「反省の印象」(②)<欲望や嫌悪、希望や恐れといった新たな印象を生む> ↓ 「観念」 <観念として写し取られる> ・ ・ ・ 11
  • 12. 『人生論』-第1篇 知性について- 人生論』 知性について について- 2.「観念」の結合について ~「想像」による観念の結合原理~ 「観念」 結合について ~「想像 による観念 結合原理~ 想像」 観念の 観念の間に何か結び合わせる力(例えば引力のような)がある。 (それが無ければ、観念の結合は偶然でしかなくなる。(偶然自体は否定してない)) ①「類似」 今思い浮かべた観念と類似した観念へと移行しやすい。 ②「近接」(時間的、場所的な) 今思い浮かべた観念に時間的、場所的に近接する観念へと移行しやすい。 ③「原因と結果 原因と結果」 原因 ⇒想像において最も強い結合を生じさせる。(別途後述) 「引力」の結果は認められるのに、その原因についてはほとんどわかってない。 これらの力も結局のところ、人間性に本来備わっている性質とみなし、この性質については解 き明かす事はせず結果について探求を進める。 12
  • 13. 『人生論』-第1篇 知性について- 人生論』 知性について について- 3.いくつかの「観念」について元になる「印象」を説明 いくつかの「観念」について元になる「印象」 いくつかの ~「印象」が常に「観念」に先行する~ (1)空間と時間の観念 ①空間について 机を見れば延長の観念が与えられる。 この観念は机を見たときに感覚機能に現れる印象が元になっている。 それは視覚から入る「色を持った点」の印象。あるいは触れられる触覚の印象。 ②時間について 時間がそれだけで現れたり、心に気づかれたりするのは不可能。 ある変化する対象の知覚しうる継起によって見出される。 (2)存在の観念 どんな種類の印象・観念でも、我々が意識し、あるいは記憶しているかぎり 存在するものとして思いいだかれないようなものは無い。 この意志に存在の観念が起因するのである。思いいだく=存在。 ※「外的存在」とは概念が異なる。 13
  • 14. 『人生論』-第1篇 知性について- 人生論』 知性について について- 4.原因と結果について 原因と結果について 原因 (1)因果性とは 一つの対象の存在あるいは活動から、 何か別の存在あるいは活動がそれに続いて起こったのだ、 もしくはそれより前にあったのだと確信させる、そういう結合を生み出すもの 推論のもとになるもの 感覚機能を越えてたどることが出来き、 見もせず感じもせず存在や事象について知らせる唯一の関係。 (2)因果性の観念はどのような印象から来るのか 原因となる対象、結果となる対象の間にある関係に起因するのではないか 関係として、3つがあげられる ①近接性(原因と結果は常に近接している)。近接していないと見られる場合でもよく見る と小さな原因と結果の連鎖により繋がっていることがわかる。 ②結果に原因が先行していること。 上記①②だけでは、因果の観念の印象を説明できない。先行しており、近接していても原因 とならない場合があるから。したがって、第3の関係が必要となる↓ ③「必然的結合」があるはずである。 14
  • 15. 『人生論』-第1篇 知性について- 人生論』 知性について について- 4.原因と結果について 原因と結果について 原因 「必然的結合」の本性を捉えるために役立ちうる教示を与える2つの問題を考える ①存在に始まりのあるものは、必然的に原因をもつと明言するのはいかなる理由によるのか ②しかじかの特定の原因は必然的にしかじかの特定の結果を伴わねばならないとするのはなぜか 初めて存在するものには、すべて存在の原因がなければならぬということは、なんらの証明も 与えられずそのまま認められている。 しかしながら、 かでないことを証明できる一つの論拠がある。 しかしながら、確かでないことを証明 証明 新しい存在、あるいは存在の新しい変容には全て原因があることを論証するには、なにものも 結果を生み出すある原理が無ければいけない。 後のほうの命題を証明できなければ、前のほうの命題も証明できないはずである。 後のほうの命題を論証できないことは次のことを考えればわかる。 15
  • 16. 『人生論』-第1篇 知性について- 人生論』 知性について について- 4.原因と結果について 原因と結果について 原因 判別できる観念は互いに分離でき、「原因の観念」と「結果の観念」は判別できる 「原因の観念」 結果の観念」 判別できるのだから、 できる どんな対象でも、この瞬間には存在しなくても、次の瞬間には存在することを、原因あるいは 生み出す原理といった別個の観念と結び付けなくても思いいだけるだろう。 だから、 「原因の観念」を「存在の始まり」という観念から分離するのは想像にとって明らかに可能 原因の観念」 存在の まり」という観念から分離するのは想像にとって明らかに可能。 観念から分離するのは想像にとって 可能 従って、これらの対象を現実に分離するのも可能。 これについて、単なる観念からのいかなる推論によっても反論できない、反論できないという ことは、「原因の必然性」を論証するのは不可能である。 よく調べてみれば、原因の必然性を証明するためにこれまで提出されてきた論証はどれも誤 よく調べてみれば、原因の必然性を証明するためにこれまで提出されてきた論証はどれも誤っ するためにこれまで提出されてきた論証はどれも ており、こじつけである。 ており、こじつけである。 「新しい生成には原因が必要だ」という考えは「知識」から引き出されるのではなく、またい かなる「学問的推論」からも引き出されない。 ということは、 一つの対象の存在から他の対象の存在を推理できるのは「経験」によってだけである。 つの対象 存在から 対象の から他 対象の存在を推理できるのは 経験」によってだけである。 できるのは「 16
  • 17. 『人生論』-第1篇 知性について- 人生論』 知性について について- 4.原因と結果について 原因と結果について 原因 一方だけが知覚(感覚的印象を受けた時、また観念を抱いた時)されると、もう一方は過去の もう一方は過去の もう一方 経験と合致するように われるのである。 経験と合致するように補われるのである。 するように補 原因と結果の観念は 原因と結果の観念は しかじかの特定の対象が過去の全ての実例で、決まって互いに伴っていたことを知らせる経験 経験 による。 による。 必然的結合について 両者を観察してもつなぎ合わせる結び目は知覚出来ない。 同じ対象が常に相伴っている事例を観察する。 両者の中の結合を思い抱き一方から他方へ推理を行う。 類似するこれらの積み重ねこそが結合の本質を表し、このような観念が起こる源なのである。 必然性は にある。 必然性は心の中にある。 「原因」とは他の対象に先行し、かつ近接した対象であり、一方の印象が他方のより生き生き とした観念を形作るよう心を規定するもの。 17
  • 18. (参考3)現代の因果律(ウィキペディア「因果律」) 参考 )現代の因果律(ウィキペディア「因果律」) 人は、過去→現在→未来というように時間を感じる。因果律の概念を理解しようとすると、人 間が抱いている「時間」という概念の本質についての考察と切り離して考える事はできないが、 「時間とは何か」という点についてすらも科学的に明白になっているとはいえず、人が抱く因 果律という観念の基盤は実は危うい。 因果に関する認識について問題提起を行った哲学者にディヴィッド・ヒュームがいる。 近世になると機械論的な世界観、因果律の概念は想定されるようになった。 20世紀初期には相対性理論が発表されたが、そこには時空連続体という概念が含まれており、 因果律についても新たな観点が与えられる事となった。 20世紀も半ばになると、確率論、統計学、量子力学も発展をとげ、特に量子力学は、全ての事 象は(先行する物理的状態と結びつけることは困難なしかたで)確率的に起きている、という ことを実証し、因果律という考え方は後退することになった。 ニールス・ボーア(1885- 1962)も、“因果律”というのは、あくまで人間的なスケールにおい て限定的に、あたかも成り立っているように見えているにすぎない、近似として成り立ってい るにすぎない、微視的なスケールでは成り立っていない 微視的な 微視的 スケールでは では成 っていない、と釘をさした。 18
  • 19. (参考4)帰納の限界(ウィキペディア「帰納」) 参考 )帰納の限界(ウィキペディア「帰納」) 一般的にいって帰納は、あくまでも確率・確度といった蓋然性 帰納は 帰納 蓋然性の導出に留まる。 蓋然性 帰納とは、個別・特殊的事実の多さから結論がどのくらい確からしいものかを導くための推理 といえる。これは確証性の原理とも呼ばれ、次のように定式化されている。 「法則に関連する観察が増えれば増えるほど、その法則の確からしさは増大する その法則 その法則の からしさは増大する」。 増大する 確実性の根拠としての帰納法的証明を みようとすれば 確実性の根拠としての帰納法的証明を試みようとすれば、論理的な困難が生じる としての帰納法的証明 困難が じる。 困難 帰納法によってなんらかの仮説を(蓋然的にではなく確実的に)正当化する場合、当の証明者 は「全ての物事は、他に事情がない限り、いままで通り進んでいく」という斉一性の原理 斉一性の 斉一性 原理に従 っている。しかし、この原理を正当化するすべは(少なくとも帰納法的証明のうちには)ない。 帰納法が間違う 帰納法が間違う例として、“「ビールには水が入ってる」、「ウィスキーにも水が入ってる」、 「ブランデーにも水が入ってる」、よって「水を飲むと酔っ払う」“ というものがある。 ラッセルの作とも言われる。 また、帰納法の危険性を表現した次のような寓話も知られている。ラッセル ラッセル ある七面鳥が毎日9時に餌を与えられていた。それは、あたたかな日にも寒い日にも雨の日に も晴れの日にも9時であることが観察された。そこでこの七面鳥はついにそれを一般化し、餌は 9時になると出てくるという法則を確立した。そして、クリスマスの前日、9時が近くなった時、 七面鳥は餌が出てくると思い喜んだが、餌を与えられることはなく、かわりに首を切られた。 19
  • 21. 『人生論』-第1篇 知性について- 人生論』 知性について について- 5.「信念」について 「信念」 信、不信にかかわらず、観念を抱くことは可能 不信にかかわらず、観念を くことは可能。 にかかわらず 可能 鉛は金より思い。信じないが観念(想像)を抱ける。 「信念」はある対象を思い抱く仕方を変えるもの 信念」はある対象 対象を 仕方を えるもの。 ⇒観念に対して勢いと活気を付け加える。 ⇒正確には「現在の印象と関係を持つ、すなわち連合する生き生きとした観念」と定義できる。 この仕方を正確に説明できるぴったりな言葉が無い。 「信念」の原因 信念」 次のことを人間性の一般原則としてあげておきたい 「なんらかの印象が現れると、この印象と関係を持つような観念へ心を差し向けるだけではな なんらかの印象 なんらかの印象が れると、この印象 関係を つような観念 印象と 観念へ けるだけではな く、これらの観念に印象の持つ勢いと活気とを伝えもする。」 これらの観念 印象の 観念に いと活気とを伝えもする。 活気とを 例)友人を描いた絵を見る⇒友人の観念を思い起こす。友人の観念に勢いと活気がつく。 印象によりいつも引き続いて起こるものを経験するうちに印象が信念の元をなすものになる。 ところで、 新たに推論、断定をまじえず過去の繰り返しから生じるものを「習慣」と呼ぶ。 ある現在の印象に伴って起こる「信念」はもっぱらこの「習慣」に起因 「信念」はもっぱらこの「習慣」 起因する。 21
  • 22. 『人生論』-第1篇 知性について- 人生論』 知性について について- 5.「信念」について 「信念」 「習慣」は反省の暇も与えず作用する。この移行は経験から来るものであり、観念との間にも ともと結合があるわけではない。 信念の になる習慣が 信念の元になる習慣が心に作用し活気付ける方法が2つある。 習慣 作用し活気付ける方法が つある ける方法 つある。 ①過去の経験により二つのことが相伴っていた場合。対象の印象が現れた場合、明らかに習慣 によってたやすくともなう観念に移行する。 ②1つの観念だけが頻繁に心に現れると次第に勢いを持って現れるようになり特別な観念となる。 これらは、「教育」の観点から説明できる。 幼児から習慣付けられてきた意見や考えはその人に深く根ざしている。 そして、人類の間に広く抱かれている意見のうち、半分以上が教育に負っている。 22
  • 23. 『人生論』-第1篇 知性について- 人生論』 知性について について- 5.「信念」について 「信念」 おそらく、 信念のような重要な結果がとるに足らぬ原理から起こること、つまり、大部分の推論、および 信念のような重要な結果が のような重要 行動と情念が習慣からだけ生じるとは信じないだろう 習慣からだけ 習慣からだけ生じるとは信じないだろう。 異論を未然に防ぐため、情念を取り扱うところに移る前に先走って情念について簡単に説明し ておこう。 人間の心には快や苦の知覚が植えつけられており、活動の主な動機となっている。 快や苦が心に現れる様は2つあり、印象として現れる場合と観念として現れる場合である。 ①印象として現れた場合、魂を駆り立てる。(意志に影響をもたらす)。 印象として現れた場合、 印象として 場合 てる。 ②観念として現れた場合は、印象とは同じ結果を常にもたらすわけではない。 (行動に影響をもたらしたりさほどもたらさなかったり)。 信念の効果は なる観念を印象と しいものにまで高 信念の効果は単なる観念を印象と等しいものにまで高め、情念に対する影響力の点で印象と似 観念 通ったものを観念に与えるわけである。 信念は情念を呼び起こす。情念もまた信念を生むのに都合がよい。 例)臆病で恐れを抱きやすい人は出会う危険の説明を聞くと簡単にそれに従ってしまう。 23
  • 24. 『人生論』-第1篇 知性について- 人生論』 知性について について- 5.「信念」について 「信念」 原因と結果に関するすべての推論は習慣にのみ起因すること、また、信念はわれわれの本性の 知的部分の働きというよりもむしろ情的部分の働きであること 24
  • 25. 『人生論』-第1篇 知性について- 人生論』 知性について について- 5.人格の同一性について 人格の同一性について 人格 哲学者の中には「自己」と呼ばれるものを、いつでも親しく意識しているのだと思っている ものがいる。 自己の完全な同一性、完全な単純性について、論証による明証性以上に確信している 自己の完全な同一性 論証による明証性以上に確信しているのだと 論証による明証性以上 している 思っているのである。 自己の観念はいかなる印象に起因するのか。 自己の観念はいかなる印象に起因するのか。 はいかなる印象 するのか もし何らかの印象が自己という観念を生じさせるとすると、その印象はわれわれの一生を通 じて変わらずに同じままでなければならない。自己とはそのような仕方で存在するとされて いるからである。 しかし、恒常的で普遍な印象はない。快や苦、悲しみ喜び、色々な情念や感覚が継起し、決 して全てが同時に存在しない。 私自身と呼ぶものに深く入ってみても出会うとは、愛や憎しみ、快や苦、明るさ暗さ、など ある特殊な知覚である。 知覚なしに私自身を捉えることは出来ない。知覚以外の何かに気づくことは出来ない。 眠りより知覚が取り去られているとき私は、私自身を感じていない。 死によって私の知覚が取り去られれば、まったく無に帰すだろう。 25
  • 26. 『人生論』-第1篇 知性について- 人生論』 知性について について- 5.人格の同一性について 人格の同一性について 人格 私は次のように確信してもよいだろうと思う。 「人間とは、思いもつかぬ速さで次々と継起し、たえず変化し、動き続ける様々な知覚の束 人間とは 人間とは、 いもつかぬ速さで次 継起し たえず変化 変化し ける様 知覚の あるいは集合に他ならない」 あるいは集合に ならない 集合 人は「同一性」の観念、「継起」の観念をもっている。相反するものだが一般に混同される 「同一性」 観念、「継起」 観念をもっている。相反するものだが一般に混同される。 、「継起 をもっている するものだが一般 される その原因 変化しない対象物を想像するのと、関係する対象物の継起を想像するのとでは思考の努力に 違いは無い。「関係」が一つの対象から他の対象への移行をたやすいものにして、あたかも 一つの持続する対象を見つめるのと同じ程度に心の進みを滑らかにする。この類似が誤りの 類似が 類似 原因である。 原因 誤ったことによる不合理を自分自身に弁解するため不可解な原理をこしらえ上げる。 こうして感覚機能の知覚の持続的な存在なるものをこしらえて中断を取り去り、自己といっ ものに入り込んで変化を取り繕うのである。 26
  • 27. 『人生論』-第1篇 知性について- 人生論』 知性について について- 5.人格の同一性について 人格の同一性について 人格 ぬいぐるみのマー君 リボンつけた 片足取れた 目を変えた 厳密に言うと同一性は壊れている。 取るに足らない変化であれば同じクマのぬいぐるみだという。 もし変化が もし変化が、気づかれぬくらいにゆっくり変化した場合、早く変化したときと同じ結果を物体 変化 づかれぬくらいにゆっくり変化した場合、 変化した場合 変化したときと同 結果を したときと に帰することは無い。変化がついにわかるほど目立ってくると、同一性を帰するのをためらう。 することは無 変化がついにわかるほど目立ってくると 同一性を するのをためらう。 がついにわかるほど目立ってくると、 共通目的や共通な意図への結集を作り出すと同一性を帰する傾向が強くなる。 27
  • 28. 『人生論』-第1篇 知性について- 人生論』 知性について について- 5.人格の同一性について 人格の同一性について 人格 タイヤが消耗したので変える。 アルミホイールに変える。 同じ車だとと感じるか エンジンを変える。 バンパーをカーボンに変える。 マイカー 経営陣が変わる。 株主が変わる。 同じ会社と感じるか 商品が変わる。 従業員が変わる。 会社理念・方針の変更。 ㈱ディビット 国家、共和国に例えるとわかりやすい。 われわれが人間の われわれが人間の心に帰する同一性は虚構である。 人間 する同一性は虚構である。 同一性 である 28
  • 29. 『人生論』-第2篇 情念について- 人生論』 情念について について- 1.情念の分類 情念の 情念 印象 原初的 感覚機能から知られるものや「快」や「苦」など 二次的 情念やその類など (反省の印象) 反省の印象) 穏やかなもの 「美」「醜さ」「慈愛」「欲望」「嫌悪」・・・ 激しいもの 「誇り」「卑下」「愛」「憎しみ」「悲しみ」「喜び」・・・ 「快」や「苦」から直接起こるもの 情念 直接的 「悲しみ」「喜び」「望み」「恐れ」「欲望」「嫌悪」・・ 同じ原理ではあるが、他の諸性質が相伴って生ずる 間接的 「誇り」「卑下」「愛」「憎しみ」「羨み」「憐れみ」・・ 29
  • 30. 『人生論』-第2篇 情念について- 人生論』 情念について について- 間接的情念について 2.間接的情念について 間接的情念 「誇り」や「卑下」 ①対象⇒自己(記憶し意識している関係しあう観念や印象の継起) ②原因⇒多様にある。例えば誇りの原因として「博識」「勇気」「正義」「機知」・・・ 卑下の原因として、上記誇りの原因と対立するもの 少しでも縁があり関係があるものも誇りや卑下の原因となりうる。 ⇒国、家族、子供、親類、財産、家、庭、馬、犬、衣服・・・ さらに「原因」は ②-1.作用する性質 ②-2.性質が帰せられる主体 例えば「自分で考案し、建てた美しい家を自慢する。」 対象⇒ ①対象⇒自己 原因⇒自分で考案し てた美しい家 ②原因⇒自分で考案し建てた美しい家 ②-1.性質⇒「美しさ」 性質⇒ 性質 しさ」 どちらかだけでは情念 どちらかだけでは情念は生まれない 情念は ②-2.主体⇒「自分で考案し建てた家」 主体⇒ 自分で考案し てた家 主体 対象は原初的、自然的である。 原因は自然的だが原初的ではなく思いつき、人工の成果、勤労から、好運から‥生じる。 原因のそれぞれに共通するある事態がありこれに原因の効力が依存している 30
  • 31. 『人生論』-第2篇 情念について- 人生論』 情念について について- 2.間接的情念について 間接的情念について 間接的情念 共通するものは何か それを考えるに於いて ①観念の連合(既に述べてきたもの) ②印象の連合 印象の 悲しみや失望は怒りを生じ、怒りは羨みを、羨みは悪意を、悪意は悲しみを・・・ 喜び⇒愛⇒寛大⇒憐れみ⇒勇気⇒誇り 観念と じく印象にも引力のようなものがある。 つまり、観念と同じく印象にも引力のようなものがある。但し印象の場合は「類似」 観念 印象にも引力のようなものがある 印象の場合は 類似」 のみである。 のみ ③上記①と②の連合は互いに助け合い、促進する 互いに助 促進する する。 対象が個々人を超えることは無い 快や苦があり(誇りは快、卑下は苦)「快」や「苦」を取れば「誇り」や「卑下」も無い 自然がこの情念のものとしている対象と関係を持ち 原因が別個に生み出す気持ちは情念の気持ちと関係を持つ こうした観念と印象の二重の関係に情念は起因する こうした観念と印象の二重の関係に情念は起因する 観念 31
  • 32. 『人生論』-第2篇 情念について- 人生論』 情念について について- 2.間接的情念について 間接的情念について 間接的情念 喜び(直接的情念)⇒快を与える対象から直接起こる 誇り(間接的情念)⇒相伴う、快を与える原因と対象である自己 ① 宴会に出席している人⇒喜び(満足) 宴会を催した人(宴会の主人)⇒自慢、誇り ② 特有で少数で共有できるものでなければならない 健康からの回復は満足を与えるが誇りや自慢は与えない。健康を多くの人が共有している為 ③ 他人に気づかれることにより増す。 ④ 原因となるものが変りやすいと影響は低くなる。 ⑤ 世間一般の規則(慣行、習慣)が情念に影響を及ぼす。 32
  • 33. 『人生論』-第2篇 情念について- 人生論』 情念について について- 2.間接的情念について 間接的情念について 間接的情念 最も誇り高く、世間の目にも誇る理由があるような人が最も幸福とは限らず 最も卑下する人が惨めとは限らない 悪は その原因がわれわれと関係なくても実際はあるかもしれない 自分だけに特有で無くても実際にはあるかもしれない 他人に気づかれなくても実際にはあるかもしれない 不変でなくても実際にはあるかもしれない 世間一般の規則に当てはまらなくても実際はあるかもしれない 悪は誇りを弱める傾向は無いがきっとみじめにする おそらく、人生で最も切実な最も強固な悪はこういう性質のものである事がわかるだろう 33
  • 34. 『人生論』-第2篇 情念について- 人生論』 情念について について- 2.間接的情念について 間接的情念について 間接的情念 「誇り」 「愛」 「快」 印象 「卑下」 「憎しみ」 「苦」 対象 「自己」 「関係ある他」 観念 2つが合わさって 「情念」となる 情念は 情念は似た情念に移りやすい(印象の引力「類似」) 情念に りやすい 想像はおぼろげな観念から生き生きとした観念には行くが、その逆はほとんどない (弱い観念⇒強い観念へ移行)自己の方が、関係ある他より観念が強い。 従って、例えば子供への愛、憎しみ⇒自己への誇り、卑下へと移る。 34
  • 35. 『人生論』-第2篇 情念について- 人生論』 情念について について- 3.意志について 意志について 意志 意志⇒われわれが何か新たに身体の運動または心の知覚をそうとしって生じさせる時に われわれが感じ、意識する内的な印象に他ならない。 自由と必然について 外的物体の作用は必然的であること、物体間の運動の伝達、引力、相互の凝集には不確定、 自由の しの形跡 自由の少しの形跡も無いこと、これは広く一般に認められている。 形跡も いこと、これは広 一般に められている。 したがって、物質の活動は必然的な活動の実例とみなされる。 必然的⇒「恒常的な連結(経験)と心の推理(因果の観念)」⇒必然的と承認。 自由の 自由の説が広く受け入れられている理由 れられている理由 ①われわれが行為を行った後で、特定の意図や動機の影響を認めたとしても、必然によって 必然によって 必然 支配されたのだ ちがったやり方では行為できなかったのだと自分 されたのだ、 行為できなかったのだと自分に かせるのは困難 支配されたのだ、ちがったやり方では行為できなかったのだと自分に言い聞かせるのは困難 である。 である。必然性の観念には、無理強いや拘束というのが含まれているように思われるのに、 われわれはそれを感じ取れないから。 「自発性の自由」(無理強いに対立するもの)と「無差別の自由」(必然性とか原因を否定 自発性の自由 自発性 無差別の自由 無差別 するもの)を混同している。前者をわれわれは本来保ち続けたいと願っているもの。 35
  • 36. 『人生論』-第2篇 情念について- 人生論』 情念について について- 3.意志について 意志について 意志 ②「無差別の自由」にたいしても偽りの感覚、経験があること。 先行する事象から推理する思考の規定に わない経験 先行する事象から推理する思考の規定に沿わない経験 する事象から推理する思考 経験⇒規定の欠如⇒偶然とか自由 一つの観念からもう一つの観念に移ったり移らなかったりするときに感じる不安定感 意志がなにものにも支配されてないことを否定され、はたしてそうなのかと試してみても それは無駄である。どんな気まぐれな行為をしてみようとしても、自由を示したいという 動機がその原因となっているから。 ③宗教。宗教は不必要なほど自由に関心を寄せてきた。 ところで、本来「必然性」は宗教にとってもプラスの効果がある。 人の法である「賞罰」は動機として心に影響し良い行為を生み悪い行為を妨げることを基礎 原則としている。 行為がそれをする人の性格や気質などのなんらかのある原因から生じない場合には、行為は その人に固着せず、したがって、名誉なことも褒められず、悪いことも罰せられない。 自由の仮説に従えば、人は最も恐ろしい罪を犯したあとでも、生れ落ちた最初の瞬間と同じ ように清らかで汚れもない。 36
  • 37. 『人生論』-第2篇 情念について- 人生論』 情念について について- 4.影響を及ぼす意志の動機について 影響を ぼす意志の動機について 影響 意志 哲学において 哲学において情念と理性の戦いについて語り、理性を優先させて人々は、理性の命令に従う において 理性の 理性 命令に 限り有徳であると主張することほどありふれたことは無い。 有徳であると主張することほどありふれたことは であると主張することほどありふれたことは無 形而上学的な議論、一般向け演説にもゆとりのある戦いは無い。理性の永遠性、不変性、 神的起源がこの立場にきわめて有利に提示されてきた。 しかし、 理性だけでは意志の動機とならない だけでは意志 ①理性だけでは意志の動機とならない 理性の本来の領域は観念の世界のもの。意志はわれわれを常に実在の世界に置く。 意志を 理性と情念が対立することはありえない ②意志を導く際に理性と情念が対立することはありえない 「理性は情念の奴隷」、原因と結果に関する判断を正しくする場合の算術などと同じ。 それ以外には一切の影響を及ぼさない。 「非理性的」とよばれるものは、情念ではなく判断。原因と結果についての判断において 誤る場合。 心の強さと呼ばれるものは、穏やかな情念が激しい情念よりも優勢であるという事が含まれる さと呼ばれるものは、 やかな情念が しい情念よりも優勢であるという事 情念 情念よりも優勢であるという まれる。 37
  • 38. 『人生論』-第3篇 道徳について- 人生論』 道徳について について- 1.道徳的な区別は理性に依存しない 道徳的な区別は理性に依存しない 道徳的 徳は理性に合致するとか正、不正の不変的基準があるとか、いろいろ主張する人がいるが 道徳は人の意志に影響を与える。 (不正と考えて行為をとどまる。責務と考えて全うするなど) 与えないのであれば、どんなに教育で道徳を教え込んでも無駄となるだろう。 であれば、先に述べたように、理性は道徳に(意志に)それだけでは影響を与えない。 理性は道徳に 意志に それだけでは影響を えない 理性 影響 (※意志は厳密には印象ではあるが情念ではない) どの道徳体系でも、私は気づいていたのだが、その著者はしばらくは通常の仕方で論及を進め それから神の存在を立証し、人間に関する事柄について所見を述べる。 ところがこのとき突然「である」「でない」 命題を ぶのではなく、 ところがこのとき突然「である」「でない」で命題を結ぶのではなく、 突然 」「でない 「べきである」「べきでない」で結ばれることに私は驚く べきである」「べきでない」 」「べきでない ばれることに私 (なぜそうなるのかその理由を与えるに不十分にもかかわらず。) 38
  • 39. 『人生論』-第3篇 道徳について- 人生論』 道徳について について- 2.道徳的な区別は理性に依存しない 道徳的な区別は理性に依存しない 道徳的 <前頁の補足>「ソフィーの世界」参考に文作成 前頁の補足> ソフィーの世界」参考に 「合理主義者や昔の哲学者の多くは、正しいことと正しくないことを見分ける力は理性に宿 っていると考えた。しかし、ヒュームは感情が決定すると考えた」 「君が困っている人を助けようと決めたら、君の感情がそうさせた訳で、理性ではない」 「助けようと思わなかったら?」 「それも感情がそうさせたんだ。困っている人を助けないのは別に非理性的なことではない」 「でも、これは絶対ってのはあるはず、人を殺してはいけないとか、皆知ってることだし」 「では、なぜ邪魔者を消してはいけないの?」 「ほかの人も命を愛しているから、殺しちゃいけないんだと思う」 「それは論理的?。事実判断から価値判断を引き出した。これはばかげている。「である文」 から「べきだ文」は引き出されない。」 「『飛行機で旅行をする人が増加している。従って飛行機を増産すべきだ』これって必ず成 り立つことなんだろうか?」 「環境問題なども有るし、必ずしもそうとは言えない。」 「ナチが何百万人ものユダヤ人を殺したことは知ってるね?ナチの人たちの何が狂っていた のだろう。理性かな?それとも感情かな?」 「被災地にボランティアに行くのは感情だ。理性的な頭は人口が増加してる中、減るのはい いことじゃないかと・・・」 39
  • 40. 『人生論』-第3篇 道徳について- 人生論』 道徳について について- 2.道徳的な区別は道徳感覚に起因する 道徳的な区別は道徳感覚に起因する 道徳的 徳と悪徳を区別することの出来るのは、これらが引き起こす印象から起こる 悪徳を区別することの出来るのは、これらが引 することの出来るのは こす印象から起こる。 印象から 道徳は判断されるというよりは感じられるというほうが適切 感じられるというほうが適切 適切である。 なぜか、これは有徳である。あるいは悪徳であると感じるのは、それを見た際に、快、不快を 引き起こすからである。 この事情は「美」や「好み」についての判断と同じである。 ところで、この有徳、悪徳を区別する快、不快はどこから来るのか、これは全て、原始的な性 質であるとは考え難い。生まれたときから、全ての善、悪を区分するものが備わっているとは 思えない。従って、いくつかの徳は人為的であり、いくつかの徳は自然的であるだろう。 いくつかの徳 人為的であり いくつかの徳 自然的であるだろう いくつかの であり、 であるだろう。 ※但し、人為的は自然に包括される。人々の意図や計画は、熱さや冷たさと同じく、必然的に 作用することをすぐに忘れ、自由であると勘違いし、自然と対比させてしまう。 「自然的」と「人為的」という風に。 40
  • 41. 『人生論』-第3篇 道徳について- 人生論』 道徳について について- 3.正義と不正義について 正義と不正義について 正義 すでに述べたように、あらゆる種類の徳が自然的なものではなく、人類が置かれている状況や 必要から生じる人為あるいは考案によって快や是認を生むようないくつかの徳がある。 そして、「正義」がこの種のものである。 ある行為を賞賛するとき、行為を生み出した動機 行為を 行為 した動機を考える。行為をその印、表示 動機 行為をその 行為をその印 表示として見る。 (賞賛を生むのは前者であり後者ではないとする。) ある行為に価値を与える最初の有徳な動機 最初の 最初 有徳な動機は決してその行為の徳を考慮する事ではありえず、 行為の 行為 考慮する ではありえず する事 別 自然的な動機もしくは原理でなければならない ある別の自然的な動機 でなければならない。 でなければならない 行為の徳を考慮し、その行為を生み有徳にする最初の動機とするのは循環論である。 従って、ある有徳な動機がそうした考慮に先行しなければならない。 すなわち、 いかなる行為も、その行為を生むある動機が行為の道徳性についての感覚とは別に人間性のう ちにあるのでなければ有徳つまり道徳的に善とはなり得ないということである。 これまでのことを正義に当てはめて考えてみると 41
  • 42. 『人生論』-第3篇 道徳について- 人生論』 道徳について について- 3.正義と不正義について 正義と不正義について 正義 正義の行為 正義の行為、正直な行為に対して「正義」「正直」を考慮するのとは別に、ある動機 「正義」「正直」 考慮するのとは 」「正直 するのとは別 動機を見出さ 動機 なければならない。 それは困難 困難である。 それは困難 仮に、私的な利害や周りからの関心が全ての正直の動機であるとするならば、その関心がなく なれば「正直」もなくなってしまう。そして自己愛が気ままに振舞えはそれこそ「不正直」の 源となる。 仮に、動機を公共の利益のためと反論された場合。 それに対して、私は個人に関係のないところで、人類愛のような情念は人間にはないと考える。 たしかに、どんな人間でも、その幸、不幸がわれわれの身近に置かれ、生き生きとした色合い で示されるときは、ある程度われわれの心を動かすのは事実である。 しかしながら、こうしたことはただ「共感」からのみ起こるのであり、人類へのそうした普遍 「共感」 的な愛情の証拠にはならないのである。 従って、正義は本来、価値の無いものであり、こじつけ、循環論がある 正義は本来、価値の いものであり、こじつけ、循環論がある。 正義 がある 教育と人間のしきたりから必然的に生じたものであることを認めなければならない。 42
  • 43. 『人生論』-第3篇 道徳について- 人生論』 道徳について について- 3.正義と不正義について 正義と不正義について 正義 人々の気にさわらぬよう、述べておくが 正義が自然な徳ではないと否定するとき、人為的を自然的に対比させた場合によるもので、 本来、人為的は自然に包括されるため、別の意味にとれば、正義ほど自然な徳はないともい 別 意味にとれば 正義ほど自然な はないともい にとれば、 ほど自然 える。 える。 人類は案出することができる。 そして、案出が必要なものであれば思考や反省が入り込まず原初的な原理から生ずるどんな ものとも同じように、その案出を自然的であると言っても差し支えないだろう。 43
  • 44. 『人生論』-第3篇 道徳について- 人生論』 道徳について について- 4.自然な徳と悪徳について 自然な 自然 悪徳について まずは「共感」の本性について 「共感」 本性 そもそも全ての人は心の作用や感じにおいて相似している。 私が、ある人の声や身振りに情念の結果を読み取ると、私の心はすぐにこうした結果からその 原因へと移って、情念についての生き生きとした観念を形作り、この観念は直ちに情念へと変 わる。 同じように、私がある感動の原因を知覚すると、私の心は結果へと運び移され、似通った感動 私がある感動の原因を知覚すると、 感動 すると 結果へと運 へと され、似通った感動 った かされる。 で揺り動かされる。 他人の情念が直に私の心に現れるのではなく、ただその原因や結果に気づくだけである。 われわれは、これら原因もしくは結果から情念を推し量り、その結果としてこれらが共感を呼 これら原因もしくは結果から情念 これら原因もしくは結果から情念を その結果としてこれらが共感 結果としてこれらが共感を こすのである。 び起こすのである。 見知らぬ人の快がわれわれに快を与えるのは共感によってだけである。 正義が道徳的な であるには、ただそれが人類の への傾向を つからである。実際、正義は 正義が道徳的な徳であるには、ただそれが人類の善への傾向を持つからである。実際、正義は 人類 傾向 そうした目的のために人為的 案出されたものに ならない。 目的のために人為的に されたものに他 そうした目的のために人為的に案出されたものに他ならない。 共感が人為的な徳に対する尊敬の源である。 44
  • 45. 『人生論』-第3篇 道徳について- 人生論』 道徳について について- 4.自然な徳と悪徳について 自然な 自然 悪徳について 自然な徳と正義との違いは次の点にあるだけ 自然な徳の結果として生じる善は一つ一つの行為全てから起こり、何らかの自然な情念の対象 であるが、 正義の 正義の一つ一つの行為はそれ自体として考えると、しばしば公共の善に反することがありうる つの行為はそれ自体として考えると、しばしば公共 行為はそれ自体として 公共の のであって、行為の全体的な組織、体系として人類が共同して働くとき初めて、公共の善に資 するようになる、ということである。 45