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柴崎友香さん
大阪府大阪市大正区出身
【主な受賞歴】
咲くやこの花賞(2006 年) 織田作之助賞大賞(2006 年)
芸術選奨新人賞(2007 年) 野間文芸新人賞(2010 年)
芥川龍之介賞(2014 年)
子供のころ、学校に行く途中にも、友達の家の隣にも工場がありました。
金属のぶつかりあう音が響き渡り、青やオレンジ色の火花が飛び散る。
機械を通すと、金属や木材が形を変えていくのがおもしろくて、
時間も忘れてじっと眺めていることもありました。
その様子は魔法のようで、工場の人たちの手がなにか特別な力を持っていて、
機械が生命を持つようにも思えました。
そうやって生み出されたものが、家やビルの一部になったり、
自動車やまた別の工場に使われたりして、自分たちの生活が形づくられて
いるのだという、確かな実感を、わたしは自然に持つことができました。
ここから、街が作り出されていく。
ここで、暮らしが支えられている。
ここにいる人の手で。
そんな街で育ったことを、誇らしく思います。
発刊によせて
50中村工業 年史
第1章
第2章
第3章
第4章
第5章
第6章
第7章
資料編
中村和郎の生い立ちと
10 代の修行時代
エピローグ
未来に向かって飛翔する
中村工業
職人として独立し長屋の一室で
個人営業を開始
中村工業 50 年の
あゆみ
中村鋼業の創業
平尾へ移転し中村工業に
商号変更
大正区泉尾の現在地に移転し
生産体制を拡張
東京製綱と取引開始業界最大級
のプレス機を導入
事業を長男に継承し現役引退
組合の会長に就任し業界を牽引
5
中村和郎の生い立ちと
10代の修行時代
第 1 章
6 19
 中村工業株式会社創業者の中村和郎は、1942(昭和 17)年 12
月 23 日、薩摩半島の南西端に位置する鹿児島県南さつま市加世田
14511 番地3に生まれた。市の中央内陸部にあたる地域で、和郎が
誕生した時代は、まだ加世田町と呼ばれていた。その後、加世田町は
1954(昭和 29)年に万世町と合併して加世田市になり、2005(平
成 17)年にさらに1市4町が合併して現在の南さつま市になった。
 薩摩半島といえばカツオ漁で知られる枕崎市が有名だが、南さつま
市に隣接する南九州市には、「カミカゼ特別攻撃隊」いわゆる特攻隊
の基地があった「知覧」があり、映画や小説で登場するようになって
からは、こちらの地名の方がよく知られるようになった。
 今では特攻隊基地といえば知覧飛行場というイメージが定着してい
るが、実は南さつま市の吹上浜にも、太平洋戦争末期に設置された最
後の特攻隊の出撃地、万世飛行場があった。そのため戦時中は、町に
軍人の姿が日常的に見られ、物心ついた幼年期の和郎はこうした町の
様子をうっすらと憶えていて、次のように語っている。
「片田舎なのに防空壕がたくさんあって、米軍の爆撃機が焼夷弾を落
とすこともありました。3歳の時、実際に空襲に遭遇し、6歳年上の
兄の孝雄におんぶされて、命からがら防空壕に逃げこんだこともあり
ました。終戦になっても兵隊さんが町のなかをたくさん歩いていて、
米軍の飛行機もよく飛んでいたのを憶えています」
 ベストセラー小説『永遠の0』にも書かれていることだが、戦況が
悪化した大戦末期には、万世や知覧の飛行場は、米軍の空襲で破壊
されてほとんど機能しておらず、特攻の出撃は大隅半島の鹿屋飛行
場が秘密裏に使われていたという。だから、3歳当時の和郎が加世田
鹿児島県南部の片田舎で7人兄弟の5番めに誕生
第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代
中村和郎(中学 3 年 1942 年)
南さつま市
知覧
加世田
万世特攻平和祈念館
20 21
第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代
差し伸べて助けてやりたくなる、そんな生来の “ 徳 ” のようなものを
持っていた。この人徳のおかげで彼は、社会に出た後も人生の節目ご
とに良き人々と出会い、正しい方向へと導かれ、人間的にも事業家と
しても成長していくことになる。
 いったん仕事となると恐ろしいほどの集中力を発揮する和郎だが、
普段はおっとりとしたつかみどころのない人物で、話してみるとどこ
となく愛嬌があって誰からも好かれる、そんなキャラクターは子供の
頃からのものであったようだ。
父親が急逝し 15 歳で大阪へ働きに
 和郎の父親は、地元の日本通運に勤めていたが、後に自転車修理工
として独立。そこから事業を盛り立てて、自動車修理工場を営むまで
になった勤勉実直な男であった。当時としてはまだ贅沢な存在であっ
た自動車を扱う工場を経営していただけに、父親が健在なあいだは、
泉尾の四軒長屋の一室にて(1964 年)
で遭遇した空襲は、万世や知覧の飛行場をたたくために米軍が行っ
た、大戦末期の一連の空襲のひとつだったと思われる。
 ちなみに第一の特攻基地だった知覧では、和郎の叔母、吉見ミノ
氏が、軍指定の宿舎のひとつ「内村旅館」を切り盛りしていた縁で戦後、
「知覧特攻平和会館」の案内ボランティアとして活動していた。彼女
もまた、特攻隊員と最後の別れを惜しむ家族たちとの橋渡しを陰で支
えた “ 特攻の母 ” のひとりであったそうだ。
 そんな九州の南端の町で和郎は、戦中から終戦直後にかけて幼年
期を送った。
 中村一家は、父・中村秀
ひできち
吉と母ミサヲのもと、7人(うち1人は2
歳の時に病没)の兄弟姉妹が暮らす賑やかな大家族であった。和郎
は5番目の子供として誕生
したので、親兄弟からは
末っ子のように可愛がって
もらった。
「小学校の頃は遊んでばか
りで、勉強は大の苦手でし
た。でもまわりにやさしい
友人や兄弟がいて、学業
で困っていると、いつも誰
かが助けてくれました。み
んなのおかげで、学校を
卒業できたようなもんです
(笑)」
 どこか茫
ぼうよう
洋としていて少
し頼りない感じがする和郎
は、困っているとつい手を
秀一
ミサヲ
キリ子
繁
孝雄
たみ子
ミサヲ
秀吉
秀一
和郎の両親(1935 年)
22 23
第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代
に到着した朝のことを今も懐かし
く憶えている。
「弟より2年先に大阪に出てきた
私は、その頃すでに日立造船に
職を得て工員として働いていま
した。大阪の街にも慣れていまし
たが、弟は中学を出たばかりで右
も左もわからない子供です。さぞ
心細いだろうと思って、大阪駅の
ホームまで迎えに行って、とりあ
えず私の下宿に連れていき、大阪
での生活をスタートさせたことを
憶えています」
 この当時、仕事を求めて地方から都市部へとやってくる若者たちが
移動の手段としたのが「集団就職列車」である。戦後の高度成長時代に、
地方の中学や高校を卒業した学生の集団が、都市部に就職する際に運
行された国鉄(現在の JR)の専用臨時列車で、1954(昭和 29)年か
ら 1975(昭和 50)年まで運行されたと記録されている。北海道・東
北地方からは東京の「上野駅」行きが主流で、井沢八郎がヒットさせ
た歌謡曲『あゝ上野駅』は、この列車をテーマに歌ったものだ。
 一方の西日本、九州・中国・四国地方からは「大阪」「名古屋」へ向
かう列車が多かったのだが、和郎は 1957(昭和 32)年、西鹿児島駅
からこの専用臨時列車に乗り込み、まる一昼夜かけて大阪駅に到着し
ている。兄の繁もその2年前に同様の列車で上阪しており、当時の旅
の思い出を懐かしそうに語ってくれた。
「蒸気機関車の旅は、トンネルでは窓を閉めておくのが常識。ところが、
旅慣れていない子供ばかりなので、車窓を楽しもうと窓を開けっ放し
兄 中村繁(20歳 1958年)
比較的裕福な生活ができていたのだが、突然の悲劇が一家を襲う。
 1955(昭和 30)年 12 月、和郎が中学2年 13 歳の時、父親が癌の
ため 48 歳の若さで急逝してしまったのだ。突如、大黒柱を失った一家
の暮らしは暗転。6人もの子供たちを、母親が女手ひとつで育てること
になった。
 父親を亡くした年は、長男の秀一がようやく成人したばかりの 21 歳
で、その下には、次男の孝雄(当時 19 歳)、三男繁(同 17 歳)、長女
キリ子(同 15 歳)、四男和郎(同 13 歳)、次女たみ子(同7歳)と十
代の子供たちが5人も残されていた。一家の経済的な支柱を失った以
上、子供たちも働ける歳になれば、社会に出て自分の食い扶持は稼が
なければならない。
 和郎の4歳年上の兄中村繁は、父親を亡くした後、高校卒業と同時
に大阪に出て働くようになったが、母を少しで
も楽にしてあげたい一心で、十分ではない給料
の中から捻出したお金を毎月仕送りしていた。
繁は当時のことを述懐して語っている。
「父が急逝してからというもの、母は本当に苦
労していました。加世田では仕事がないので、
父が亡くなってから数年後、42 歳の時に大阪
に出てきて、私と同居しながら小さなプレス工
場で働き、家族と子供たちの暮らしを支えてくれました」
 和郎もまたこの繁兄を頼って、加世田中学を卒業した 1957(昭和
32)年 15 歳の年に、大阪へ職を求めてやってきた。大阪での身元引
受人となってくれたのは、大正区に住む叔父であったが、実質的な生
活のことや仕事先のことなど、こまごまと面倒をみてくれたのは、兄の
繁であった。
 繁は、弟の和郎が 24 時間かけて、集団就職列車に揺られて大阪駅
兄 中村繁(取材時)
24 25
第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代
築港の周辺では造船の鋲打ち職工を求める現場が多数あり、そのひと
つに和郎は就労することにしたのだ。
 ところがいざ仕事を始めてみると、これが危険極まりない職場である
ことがわかった。リベットといっても常温の鉄鋲ではなく、真っ赤にな
るまで熱されて軟らかくなった、超高温の金属塊なのである。これを接
合する部材の穴に差し込んで、ハンマーで変形させるのだが、和郎は
真っ赤に焼けたリベットが上から投げられてくるのを、下にいて受け皿
でキャッチする役をやらされたのだ。冗談ではなく、ひとつ間違えば大
やけどという切迫した仕事である。
 実際、和郎が働き始めて間もなく、同じ職場にいた経験の浅い職工
が、頭にリベットの直撃を受けて死亡するというショッキングな事故を
目撃するに至り、さすがに強心臓の和郎も、「こんな仕事を続けていたら、
命がいくつあっても足らん」と、早々に退職を願い出ることにした。
当時の大正区の風景
 大阪での身元引受人であ
る叔父の世話で、大正区の
アパートを下宿先とした和郎
は、叔父の紹介で鋲
びょう
打ち職
工の仕事を始めた。
 現在では、鋼板や鉄骨を
接合するのは溶接が一般的
だが、この当時はまだ、高温
に熱したリベットを部材の穴
に差し込んで、専用の工具で
かしめて接合する鋲打ちが
主流であった。とりわけ大阪
にする人が多い。だから、
翌朝駅のホームに降り
立った乗客の顔がみんな、
機関車の煙で煤けて真っ
黒でした。和郎を迎えに
行った時も、たぶんそう
だったと思います(笑)」
集団就職列車で、いざ大
阪へ、それは 15歳の少
年にとって真っ暗闇のト
ンネルの中へ突進するよ
うなものだった
大阪へ着いた少年・少女達の顔は
すすで真っ黒だった
ゴホ!
  ゴホ!
窓を閉めろ!
にいちゃん
こっちや…
和郎!
どこや!
26 27
第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代
るのだが、いずれにせよ、このスパ
イキさえあればワイヤロープ加工は
できるので、この時代には、ワイヤ
ロープをひんぱんに使用する現場の
作業員などは、自分で手編みできる
者が少なくなかった。現在でも、作
業にワイヤロープが必須の林業従事
者などは、基礎技術として手編み加
工を習うことが多い。
  ここでいま少し、和郎が職業とした
ワイヤロープ加工について、説明を
加えておきたい。
 ワイヤロープ【wire rope】とは、図にあるように数本から数 10 本の
鋼の素線を単層または多層に撚り合わせたストランドを、通常は6本を
心綱のまわりに所定のピッチ(撚りの長さ)で撚
よ
り合わせてつくった鋼
製ロープのことだ。ロープの種類は、ストランドの数と形、ストランド
を構成する素線の数と配置、心綱に使う素材などによって多岐に渡るが、
ここでは最もスタンダードなロープの構成図を例示している。
社名テープ
手編み加工
6×24 IWRC 6×Fi(29)
ワイヤロープ加工の原鋼業株式会社に就職
 次の定職が見つかるまでの間、いろいろな日雇い仕事をこなすうちに、
いつしか季節は夏になっていた。ある日、新聞の求人欄を見ていた兄の
繁が、勢い込んで教えてくれた。
「おい、和郎。同じ大正区に原鋼業というワイヤロープの加工工場が、
工員を募集しているぞ。おまえ、明日にでも面接を受けてこい」
 和郎は、ワイヤロープ加工の職人が何をするのかもわからぬまま、原
鋼業株式会社で面接を受けて入社を認められ、見習工として働くことと
なった。ありがたいことに大正区三軒家東2丁目の工場には従業員寮も
あったので、アパートを引き払って寮に移り、住み込みの職工生活を始
めることにした。
 タイミングよく正社員として就職することができた和郎は、従業員寮
に住み込みながら、ワイヤロープの手編み加工職人としての修行をス
タートさせた。仕事を始めたばかりの頃のことを、和郎は次のように述
懐している。
「まず仕事を覚えることが先決だと思い、職場の先輩に教えを請いなが
ら、必死になって技術を修得しました。先輩たちから可愛がってもらえ
るように、礼儀や態度にも気を配り、一生懸命働きました。中学を出た
ばかりの頼りない少年だったので、先輩もわかりやすく技術を教えてく
れたのだと思います。とはいえ、肉体労働者の世界ですから、そんなに
お上品な教え方ではありません。うっかりしたことをすると、スパイキ
で頭をこづかれたりするのは、日常茶飯事でした(笑)」
 ここで登場した「スパイキ」という工具は、先端に向かって尖った金
属棒のことで、ワイヤロープの手編み加工職人は、これ1本でロープの
端末にアイ(輪っか)をつくっていく。
 当然のことながら、ロープが太くなればスパイキのサイズも大きくな
スパイキ
繊維心 鋼心
印糸
ストランド
素線
28 29
第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代
かかる最大荷重の4倍の安全率があればよいとされていて、加工方法
にも法的規制がないのに対し、玉掛索は、安全率6倍以上が求められ、
現在では「クレーン等安全規則第 219 条」及び「労働安全衛生規則第
475 条」で編み込み回数や編み方などが規定されている。
 玉掛索や台付索の端末加工には、大別して2種類の加工方法がある。
楕円状のアルミ素管をプレス機で圧縮して2本のロープを固定するロッ
ク加工と、ほどいたロープのストランドを手作業で編み込んでいくアイ
スプライス加工の2種類である。
 手編み加工の「アイスプライス」の語源は【eye splice】であり、ス
プライス(=ロープの端を解いて撚り継ぎをすること)によってアイ(=
縄・綱などの端の小環)をつくるという意味である。端末の輪が目のよ
【端末加工の種類】
スプライス
(編み込み)
ロック シングル
ロック
マルチ
ロック
ソケット 溶断
加工
ベケット
加工
クリップ
止め
くさび
止め
アイスプライス加工
ロック加工
 ワイヤロープは、クレーンなどで重量物を吊り上げて運ぶ、物を固定
するといった一般的な用途のほかに、エレベータ、索道、送電線、橋梁、
林業・水産業といったさまざまな産業分野で、なくてはならない工業製
品である。そのためワイヤロープは一般に、“ 産業の命綱 ” と呼ばれて
いる。
 当然のことながらワイヤロープは、工場から出荷された1本綱の状態
のままでは使用できない。重量物を吊り上げたり、引っ張ったり、固定
するなどの用途に応じて、適切な端末加工が必要になる。
 ワイヤロープ加工が発達した現在
では、端末の種類は大別するだけで
も 10 種類以上もあるのだが、なかで
も最もポピュラーな加工法が、重量
物などを吊り上げる時に用いる、「ア
イ」と呼ばれる輪っか状に加工した
「玉
たまかけさく
掛索」である。
 「玉掛け」は、クレーンなどに重量
物を掛け外しする作業のことで、法
令上の正式な専門用語となってい
る。この玉掛け用の端末加工が施さ
れたワイヤロープのことを、一般に
玉
たまかけさく
掛索と呼ぶ。
 物を吊り上げるのに使う玉掛索に
対して、物を固定する時に使うワイ
ヤロープは「台
だいづけさく
付索」と呼ばれ、手
編み加工する際の差し回数、差し方
がクレーン等安全規則でも明確に区
別されている。台付索は、ロープに
玉掛索
アイ
30 31
第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代
 東京製綱が、ロープ径 65mm から 180mm の太径ワイヤロープの
ロック加工技術を確立させるのは、それから 20 年余り後の 1980(昭
和 55)年のことなので、和郎がロープ加工職人としての修行を開始し
た昭和 30 年代は、まさに職人による手編み加工の全盛期であったわけ
だ。
 和郎がこの世界に入ったばかりの頃の大阪市内では、製品需要の多い
ワイヤロープを販売する業者は多数存在したが、ロープ端末の加工専
業で営業している事業者は、原鋼業のほかにはあと1社あるだけだった。
それだけに製品加工の発注は、毎日山のように集まってきた。
 量産のきくロック加工はまだ普及していないにもかかわらず、昭和
30 年代の日本は高度経済成長期に入っていて、“ 産業の命綱 ” と呼ば
れるワイヤロープの需要は、「作れば売れる」と言われたくらいあった。
つまり腕の良い職人を多数抱えて、大量の注文を短納期でさばける販
売店や加工工場が、市場で優位性を発揮できる時代だったのである。
 鼻のきく若手経営者であった原鋼業の原社長は、常時 20 人以上の工
員を雇い、大量の注文をこなせる加工能力を確立させ、その生産力を
武器にして売上を伸ばしていた。15 歳だった和郎は、そんな活気にあ
ふれたワイヤロープ加工会社に、見習い職工として入社したのだった。
うに見えるところから、英語でも「eye」という単語があてられている。
 和郎が原鋼業に入社した当時、日本のワイヤロープ業界は直径9mm
から 16mm 程度の細いロープが主流で、直径 50mm を超えるような太
径ロープは、ごく限られた需要しかなかった。
 端末加工の技術も、職人による手編み加工が存在するだけで、強力
なプレス機でアルミの素管(クランプ管)を締め付けて一気に圧着固定
するロック加工は、この頃はまだ日本では普及していなかった。
 ロック加工は 1944(昭和 19)年に、ドイツ人のハンス・マイゼン(Hans
Meisen)によって発明された。マイゼンは翌年、この加工技術を「タルリッ
ト(TALURIT)」という名称で、ヨーロッパ市場に向けて売り出した。
 タルリット社では、この加工方法を英語で、「mechanical splicing of
wire ropes」と表現している。すなわち「ワイヤロープの機械的な接続」
という意味で、それ以前の手編み加工とは一線を画する画期的な技術
であることが強調されている。
 日本では、国内最古・最大手のワイヤロープメーカー東京製綱が、タ
ルリット社と技術提携をして特許権の譲渡を受け、「トヨロック」の商
品名のもとに加工販売を開始。1957(昭和 32)年頃にようやく実用化
し始めたばかりであった。
原鋼業時代の中村和郎(18歳 1960年)
32 33
第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代
の半分程度の体重の少年が担ぐのである。最初のうちは持ち上げるこ
とさえできなかったが、それでも和郎は、「これができなければロー
プ加工職人にはなれない」という強い決意のもと、歯を食いしばって
約 100㎏の重量に慣れていった。
 当時のワイヤロープは形状安定性が悪く、端末のストランドや素線
がばらけたり、素線が断線(切断)しているものも珍しくなかった。
ばらけたり、断線したワイヤロープを手でつかむと針金の先が突き刺
さるが、和郎たちはこういう状態のロープ束を担いで運ぶのである。
慣れないうちは、両腕がすぐに生傷だらけになって血がにじんだ。
 今の労働基準でいえば、このような劣悪な労働環境は改善されてし
かるべきだが、戦後復興期から高度経済成長時代にかけて、日本の労
働者にとってはこれくらいのことは何ほどのこともなかった。日本人
全員が老若男女を問わず、敗戦で焼土となった国を再建すべく、汗ま
みれになって働いていた時代である。和郎も「生傷くらい、慣れたら
平気だ」という根性で、黙々と仕事を続けた。
「100㎏近いワイヤロープを担いで運ぶのは、確かにきつかったので
すが、自分とたいそう歳も変わらない、同じような小柄な少年が泣き
言も言わずに仕事をこなしているのを見ると、『よし、ぼくも負けら
れない!』という意地がわいてきて、死に物狂いで頑張ることができ
ました。負けられないという強い気持ちがあると、不思議なことに自
然と身体も強く、頑丈になっていきました」
 見習い職工の仕事はこれだけではない。和郎が、加工場でまずやら
された作業は、ロープ端末の「糸巻き」であった。
 当時のワイヤロープはばらけやすく、切断したとたんストランドや
素線が反発してばらけてしまうような扱いにくいものであった。ちな
みに、現在のワイヤロープは、ロープのストランドや素線にあらかじ
めくせ付けして、ロープの反発力を少なくする「形付け」という加工
意地でも負けられない!死に物狂いで頑張った修行時代
 和郎が入社した当時、原鋼業が加工していたワイヤロープの主力
製品は、この当時4号ロープ(6× 24)と呼ばれていた直径 12mm
の定尺商品であった。このロープは安全使用荷重が約1tと憶えやす
く、昭和 30 年代当時、町工場や工事現場、荷役作業現場などで物を
吊り上げたり、荷台に物を固定したりするのにちょうど良い強さと柔
らかさ、そして手頃な価格を兼ね備えたスタンダードなワイヤロープ
であった。
 直径 12mm のワイヤロープを手にとってみても、それほど重量は
感じないが、これが原材料としてドラム巻や丸物(200 m)になって
入荷してきた時には、恐ろしい重さ
になった。
 4号ロープ(6× 24)はこの当時、
「一丸 ( ひとまる )」と呼ばれる一束
200 mのコイル巻き状態で取り引き
されており、流通単位の重量は 200
mの場合、約 100㎏もあった。今の
ようにクレーンやフォークリフトがな
い時代、トラックに積載されて工場
に到着した一丸のワイヤロープを担
いで運ぶのは、見習工である新入り
職工たちの仕事であった。
 まだ 15 歳でやせっぽちだった和郎
にとってこの荷役作業は、慣れない
うちはかなりきついものであった。な
にしろ、約 100㎏のロープ束を、そ
一丸の4号ロープ(約100kg)
4号ロープ(6×24)断面
34 35
第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代
性があり、用途に応じて使い分けるのが原則だが、見習工が最初に手
ほどきを受けるのが、手編み加工の基本中の基本である「丸差し(台
付け)」であった。
 前述したように、荷や物を吊り上げる「玉掛索」に対し、荷や物を
固定する「台付索」は、必要とされる安全率が違うので、アイスプラ
イス加工の方法が違うのだが、玉掛索が法規として規定されたのは
1976(昭和 51)年からのことで、和郎が見習工を始めた時代には、
玉掛索も台付索も加工法に区別はなかった。
 現在では、「台付索」の編み方は、一般的にはワイヤロープの全て
のストランドを丸差しで5回編込み、半差しの部分がないものをいう。
「玉掛策」と「台付策」の違い
が施された「不反発性ロープ」になっている。
 おかげでロープを切断してもばらけないのだが、昭和 30 年代のワ
イヤロープはよくばらけた。そこで新入り工員の仕事となっていたの
が、ばらけたストランドの端末をタコ糸できつく縛ってまとめること
であった。
 ロープ端末がばらけていると編み込み作業ができないので、作業が
始まる前にその日の加工分の糸巻きを済ませておくのが、新人工員た
ちの重要な役割である。ただし、相手は鋼の素線なので、生半可な巻
き方では反発が収まらない。指にタコ糸が食い込むくらい力を加えて、
やっと糸巻き作業は完了する。
 最初の頃は、皮膚が柔らかいので、指の腹に血がにじんで痛みを感
じるほどだったのが、そのうちに皮膚が硬くなってきて、次第に痛み
もなくなってくる。来る日も来る日も、糸巻き作業を続けていた和郎は、
ある日ふと自分の指を見て愕然とした。人差し指の腹に、何かで切り
込んだような深い溝ができているのである。
 よく見ると、タコ糸を引き絞る時にいつも力を入れている部分だ。
すでに皮膚がカチカチに硬くなっていて、作業をしていてもなんの痛
みも感じないのだが、ぱっと見ると、まるで指が半分切れているよう
に見える。
 和郎は、「こんな指になってしまって…」と呆然としながらも、「こ
れでやっとロープ加工職人らしくなってきたな」と、誇らしく思う自
分がいるのを感じていた。
 15 歳の少年にとっては、つらく厳しい下積み生活だが、それでも
和郎にとっては、仕事を覚えていくのが何より楽しい時期でもあった。
下積み仕事をこなしつつ、本職の手編み加工でも和郎は、少しでも早
く先輩たちに追いつこうという意気込みで、毎日の作業に取り組んだ。
ひとくちに手編み加工といっても、加工方法にはいくつかの種類と特
36 37
第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代
きあがらなかった。
 それでも辛抱強く、頑張り屋の和郎は、次第に作業のコツをつかめ
るようになり、数ヶ月後には、商品として出荷できるワイヤロープを
つくれるようになっていった。
この修行時代を振り返って和郎は、「それほど難しい技術ではないの
で、ちょっと頑張れば誰にでも覚えられる仕事」と謙遜まじりに述懐
しているが、あまりの辛さに脱落して、辞めていく工員が少なくなかっ
たのも事実だ。気が付くと、同期で入社した同じ年頃の工員も何人か、
姿を消していた。
 つらい下積み時代を乗り越え、くじけることなくワイヤロープ加工
の仕事を続けられた理由をたずねると、和郎はこう答えてくれた。
「人間の心は弱いものですから、少しでも気弱になったらだめになり
ます。だから、一瞬でもつらい、しんどいと思ったら負けだと、いつ
も自分に言い聞かせていました。同じ年頃の工員で、いろいろと職を
変える人もいましたが、人間は、何かひとつのことをやりきってこそ、
その先に未来が開けるもの。その信念に従い、『自分にはこれしかない』
と思い定めて、一心に働き続けたのです。ロープ加工は、辛抱さえあ
れば誰でもできる仕事。でも今の若者たちは辛抱が続かないから、そ
の前に辞めてしまう。何事も、辛抱なしに大成はあり得ないのですけ
どね」
 仕事となると、驚くほどの集中力を発揮する和郎は、入社して1年
も経つと、一人前のワイヤロープの手編み加工職人として、日々の仕
事をこなすようになっていた。
 この頃、4号ロープ(6× 24)加工の手間賃は、1本編んで数十
円の時代だった。そこで目標としたのが、「1日 100 本編める職人に
なろう」というものだった。100 本も編めば数千円の売上になるので、
会社としても万々歳だが、さすがにそこまで手の早い職人は数少な
一方の「玉掛索」は、
半差し及び編み込み
回数が法規で規定
されていて、ワイヤ
ロープの全てのスト
ランドを3回以上丸
差しで編み込み後、各々のストランドの素線の半数を切り、残りの素
線をさらに2回以上半差しで編み込み、計5回以上編み込むものとす
るとなっている。
 作業としては、半差し加工が加わるよりも、丸差し5回で一気に済
む編み方の方が簡単でスピーディにできる。そのためこの時代には、
より手早く編める「丸差し」で編んだアイで、荷物の固定から吊り上
げまで、全部の仕事をこなしていたのである。
 和郎が手ほどきを受けた「丸差し」の編み方は、今も昔も同じもの
である。まず、「アイ」と呼ばれる輪っかの部分の適正なサイズを確
保した後、ロープ本体の編み込み部分にスパイキで隙間をつくりなが
ら、ばらしたロープ端末のストランドを、その隙間に差していくので
ある。これが「口入れ」と呼ばれる最初の編み込み作業だ。
 ワイヤロープの編込み加工で最も重要なポイントは、1本目の口入
れにどのストランドを選定するかである。このストランドを間違えて
しまうと、アイの口元がゆるんだり、ねじれたりして見た目が悪くなり、
その結果強度も弱くなってしまうからだ。先輩工員からは、「無理な
くすっと入るストランドを選べ」と教えられるのだが、初心者の和郎
には、どれも同じに見えてかいもく見当がつかない。
 また、差し込んだストランドを隙間のないように編み込んでいくの
も、なかなかうまくいかず、修行開始当初は、ガバガバで締りがなく、
加工部分の長さも先輩のものよりも2、3割長い不細工な製品しかで
半差し
外層素線
内層素線
ストランド
38 39
第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代
かった。
 原鋼業に入社した当時の和郎の給料は、月 3,000 円であった。兄
の繁によれば、「大阪の市電が9円、銭湯も9円の時代だったから、
10 代にしてはいい給料だった」と記憶している。
 母親思いの繁は、徹夜仕事で得た 15,000 円の月給の半分を、実家
に仕送りする孝行息子で、和郎にも「月給から 500 円まわしなさい、
自分の分と一緒にして仕送りしてあげるから」と盛んにすすめていた
のだが、和郎はついぞ兄の言うことをきくことはなかった。なぜなら
この当時の和郎は、「パチンコに熱中していて、いつも金欠だったから」
と本人も苦笑しつつ白状している。
 こんなふうに 10 代の頃は、親孝行のことなど気にもかけなかった
和郎だが、母のミサヲが 60 代半ばになった頃、祖母のシオを介護す
るため郷里の加世田に帰りたがっているのを見て、加世田に自宅を新
築してプレゼントするというビッグな親孝行をはたしている。郷里に
戻った母を気遣って和郎が電話をすると、きまってミサヲは、「毎日
がホテル暮らしみたいに快適だよ」と喜んでくれたという。
 母親が逝去したあとの家は、現在では、親族の誰もが里帰りをした
時に気軽に利用できる宿泊拠点として利用されている。いわば、中村
家の心のふるさととして、ファミリーをしっかりと結びつける絆の役
割を果たしているのである。
 だがもちろん、この当時の和郎は、そんな未来が待っていることを
知る由もない、まだまだ駆け出しのワイヤロープ加工職人にすぎな
かった。
てかげん
すんなよ
ウ〜!
先輩達のおか
げで技術も体
力もグングン
つきましたね
がんばれ
中村!
オイオイ
どうした
和郎
人間は、何かひとつ
のことをやりきって
こそその先に未来が
開けるんや
絶対にやり通すぞ!
目標は
一日百本の
ワイヤロープ加工や
41
職人として独立し
長屋の一室で個人営業を開始
第 2 章
43
第 2 章 職人として独立し長屋の一室で個人営業を開始
 前章では、ワイヤロープについて、製品特性や加工法の概要などを
記述したが、ここで大阪とワイヤロープの関係についても、少し説明
を加えておきたい。
 まず、日本におけるワイヤロープの歴史だが、幕末の横須賀にあっ
た海軍工
こうしょう
廠で、フランスの技術を導入して、麻ロープの製造が始まっ
たのがきっかけであった。工場はその後、渋沢栄一らが設立した東京
製綱に払い下げられ、技術研究を重ねた末、同社は 1897(明治 30)
年に東京深川に鋼索工場を設立し、国内初のワイヤロープ製造を開
始した。これが、日本のワイヤロープ製造の嚆
こ う し
矢とされている。
 一方、大阪では 1909(明治 42)年にワイヤロープ工場が設立され、
その後、大正年間に入って生産が本格化したと、大阪府がまとめた産
業資料には記録されている。大阪府下でも、ワイヤロープ工場の一大
集積地となったのが、貝塚市をはじめとする泉州地域であった。その
理由は物流面にあった。
 ワイヤロープの材料は鉄線ではなく、鉄に炭素を化合させた炭素鋼
が一般に用いられるのだが、この炭素鋼は関西では、昭和初期に神戸
の製鉄所で生産がはじまり、陸上輸送は未発達だったため、海上輸送
で岸和田港に運ばれていた。その結果、材料の調達が便利な泉州地
域に、ワイヤロープ工場が集積することになったのだ。
 また、第二次世界大戦の空襲によって、大阪市内に存在したワイ
ヤロープ工場の多くが焼失したことも、泉州地域にワイヤロープメー
カーが集積する要因となった。戦災を契機に、本社や工場を大阪市内
から、泉州地域に移転した企業は少なくない。
ワイヤロープの一大産地だった大阪泉州地域
中村和郎(17歳 1959年)
44 45
原鋼業が突然の倒産
 原鋼業に入社した1年後の 1958(昭和 33)年、ワイヤロープ加
工職人としてのひと通りの技量を身につけた和郎は、4号ロープ(6
× 24)1本の丸差しを5、6分もあれば編めるようになっていた。
 この年、原鋼業の社屋前で、従業員が勢揃いした記念撮影写真が
1枚残されている。当時、人気があった吉本興業の漫才コンビ「秋
田Aスケ・Bスケ」(写真前列左端がAスケで3人目がBスケ)が取
材のために原鋼業に来社し、記念に従業員と一緒に撮影したものだ。
総勢 18 名が居並ぶなか、16 歳当時の和郎は若手社員らしく、最後
列左端の方で緊張した面持ちでカメラを見つめている。
 工場の壁面には、「ワイヤロープ切売加工」という看板文字が見え、
写真左にはロープ径 30mm 前後はありそうなワイヤロープの姿も見
第 2 章 職人として独立し長屋の一室で個人営業を開始
このような歴史を背景にして戦後、泉州地域のワイヤロープ製造業は
活況を呈した。1960(昭和 35)年に結成された大阪鋼線鋼索連合会
は、結成時の会員企業数が 70 社であったが、その数は年々増加し、
1975(昭和 50)年には会員企業数 213 社を数えるに至った。
 この年をピークにして、大阪のワイヤロープ製造業は衰退をたどる
のだが、和郎が原鋼業に入社した 1957(昭和 32)年頃というと、ま
さにこれから業界がピークへ向かおうとする、右肩上がりの時代で
あった。これに高度経済成長という時代性が重なっていただけに、ワ
イヤロープ加工の仕事は、いくらでもあるという黄金期だったのだ。
原鋼業の社員旅行(2列目一番左が和郎 1959年)
原鋼業前にて 秋田Aスケ・Bスケと記念写真(1959年)
46 47
真の運転免許試験場に行って、10 トン車まで運転できる大型免許を
取得した。大きな声ではいえないが、郷里に帰省するたびにこっそり
と車の運転を練習していたので、「実技は楽勝」という腕前だったそ
うだ。
 原鋼業に入社して4年目の 1961(昭和 36)年、19 歳になり技術
と体力を身につけた和郎は、ロープ加工職人としての自信もつき、日々
の仕事をばりばりこなしていた。順風満帆、これからもっと高度な技
術を修得していこうと張り切っていた矢先、「原鋼業倒産」の報が従
業員にもたらされた。工場で働く従業員は皆、一様に我が耳を疑うし
かなかった。
 日々の仕事量はこなしきれないほどあり、倒産の知らせがあった今
も、工場にはお得意さんが、完成品を引き取りにきているのだ。そん
な忙しい会社がなぜ、倒産しなければならないのか?和郎には、わけ
がわからないことだらけだった。
 いったい会社に何が起こっているのか、状況を知りたい従業員たち
は、社長の姿を探すのだが、どこへ消えたのか行方が知れない。事務
所にいた番頭役の専務を問い詰めてみると、驚きの事実が判明した。
原鋼業は、事業そのものは順調だったのだが、社長の放漫経営が原
因で、つねに自転車操業の状態だったのだという。それを聞いて和郎
にも、思い当たるふしがあった。
 原鋼業の社長は、和郎と 10 歳くらいしか年齢が違わない 20 代の
やり手経営者で、とにかく派手好き遊び好きであった。社員旅行で東
京へ出かけるのにも、全社員を飛行機で連れていく豪遊ぶりで、毎日
のようにお客さんや友人・知人を引き連れて飲み歩き、会社の金を湯
水のごとく使っていた。お目付け役の専務が、なんとか綱渡り状態の
資金繰りを続けていたのだが、ここにきてついに不渡手形を出してし
まい、万事が休したというわけだった。
第 2 章 職人として独立し長屋の一室で個人営業を開始
えているので、かなり太径のロープ加工も受注していたようだ。写真
右には、ひと巻き 1,000 mの木製ドラムがあり、「川崎製鉄千葉製鉄所」
の文字が見え、写真左の方には最大手の東京製綱のドラムもあるの
で、相当手広く取引をしていたことがうかがえる。
 ちなみにこの写真が撮られた 1958(昭和 33)年は、インスタント
ラーメンの元祖、日清食品の「チキンラーメン」が発売された年でも
あり、和郎はその思い出とともに、この記念撮影のことをよく憶えて
いた。
「料理のできない男やもめにとって、インスタントラーメンの登場ほ
どうれしいものはなかった。当時、社員寮に下宿していた連中は、チ
キンラーメンを主食のようにして食ってましたよ(笑)。私もチキン
ラーメンで育ったようなもんです。あれだけ食ってきたのに、今でも
たまに、無性に食べたくなるときがあります。私は、生卵を乗せて食
べるのが大好きです」
 翌 1959(昭和 34)年には皇太子様がご成婚、1960(昭和 35)
年には国民所得倍増計画が閣議決定され、日本は高度経済成長時代
を突き進んでいた。18 歳になった和郎は、待ちかねていたように門
ウハ!
ウメー
パチンコに負けて
お金がなかった
ですから、チキン
ラーメンには、お
世話になりました
48 49
現在の藤井組
第 2 章 職人として独立し長屋の一室で個人営業を開始
数々の施行実績を誇る藤井組は、
この当時、法人を設立する数年
前で、日の出の勢いで業容を拡
大させている最中であった。元
同僚から、「わしがクレーンの運
転をするから、中村は助手をし
てくれ」と言われた和郎は、藤
井組に転職することにした。
 この当時の藤井組は、河川・運河・港湾での土木工事や浚
しゅんせつ
渫工事
が多く、早朝からさまざまな現場でクレーン作業の仕事に入っていた。 
 しかし、朝早いのが苦手な和郎は、現場入りの時刻になっても、寝
坊で遅刻することが度々あり、業を煮やしたオーナーが、毎朝四軒長
屋にやってきて、和郎を叩き起こすようになった。
「おはようさん、中村くん、もう朝やで。はよ起きて、現場に行きや!
遅刻ばっかりしとったら、給料減らすで」
 こんなぐうたらした社員を、首にもせずに使い続けてくれた会社も
偉いが、そこまで面倒をみてもらえる和郎の憎めない人柄にも驚かさ
れる。和郎本人は当時を振り返って、「朝から夜遅くまで、いろんな
仕事をしていたから、いつも睡眠不足だった」と語っている。
 藤井組の現場仕事がない時には、自家用車を利用して、住之江競
艇の周辺で白タク営業をすることもあれば、ワイヤロープ加工の下請
仕事をこなす日もあった。「明日までに仕上げてほしい」と頼まれれば、
徹夜をしてでも加工の仕事をこなしていたので、朝起きるのがつらい
日が多かったのだ。
 そんな和郎の、ワイヤロープ加工の確かな腕を見込んで、よく下
請仕事を発注していた取引先の一社に岡
お か そ
聰があった。
 会社の倒産、社長の夜逃げ、専務の自殺と混乱を極めた原鋼業の
工場には、集まる従業員の姿も次第に少なくなっていった。会社が再
生する望みがない以上、一介の労働者としては次の仕事を探すのが、
食べていくための最善の道である。和郎も、どうしたものかと思案に
くれていた。
 そんな矢先に、元同僚だった男から「藤井組で働かないか」と転
職の誘いが入った。土木基礎工事のプロフェッショナル企業として、
土木基礎工事の藤井組に転職
現在の原鋼業跡地にて(2014年7月撮影)
 いち早く倒産を察知した社長は、付き合っていた女性を連れてどこ
かへ雲隠れしてしまい、頼みの専務は、押し寄せる債権者やお得意
さんをなだめるのに精一杯という状況である。自分たちの人生がどう
なるのか、仕事もできず待機しているしかない和郎をはじめとする従
業員は皆、途方にくれた。
 数日後、事態は収束
するどころか、悪化の一
途をたどっていく。連日
債権者に囲まれて吊し
上げ状態が続いていた
専務が、精神的に追い
詰められた挙句、気の
毒なことに自殺してし
まったのだ。残された
従業員も、ただ茫然自
失するしかなかった。
50 51
は、なんぼでも紹介するで」
 藤井組での助手仕事や白タク営業、ワイヤロープ加工の内職と、
どっちつかずの仕事を続けていた和郎は、「やはり、自分の生きる道は、
ワイヤロープ加工しかない」と決心し、吉岡社長の申し出を受けるこ
とにした。
 こうして和郎は、1963(昭和 38)年 20 歳の時に、独立開業の道
を歩み始めた。
 その頃住んでいた姉キリ子の四軒長屋の一室を作業場として使わ
せてもらうことにして、同居する母ミサヲ、妹たみ子にも手伝っても
らいながら、一人親方の仕事を開始した。自分は寝る間も惜しんで働
くつもりだったので、仕事のちょっとした手伝いや食事、洗濯などの
暮らしのあれこれを、母や妹にサポートしてもらうことにしたのだ。
実際、この時期の和郎は、寸暇を惜しんで注文取りからロープ加工、
完成品の配達までをひとりでこなし、猛烈な勢いで働いていた。母や
姉、妹はそんな和郎を、仕事
場や家庭において、陰になり
日向になり支え続けた。
 昭和 30 年代の町工場では、
このようにして家族全員が力
を合わせて家業を支えること
は、当たり前の姿であったが、
それでもひとつ、はっきりと言
えることは、現在の中村工業
があるのは、この時代の母や
姉、妹らの献身的な協力があっ
たればこそ、という事実である。
母や姉妹だけでなく、長兄の
第 2 章 職人として独立し長屋の一室で個人営業を開始
泉尾の四軒長屋(右から2軒目)
 大阪市内では2社しかいないワイヤ
ロープの加工専業者だった原鋼業の倒産
により、ロープの販売を手がける多くの
事業者が困り果てていた。そこで原鋼業
で働いていた腕の良い職人たちが加工専
業者として独立し、それらの仕事をこな
すようになっていった。ある意味では、
原鋼業から巣立っていった何人かの加工
職人が、その後の大阪のワイヤロープ加工の歴史を築いてきたという
ことが言える。
 当時、原鋼業をメインの加工依頼先としていた、ワイヤロープ販売
業者の株式会社岡聰もそうした取引先の1社であった。
 岡聰の吉岡聰
そうきち
吉社長は、有力な加工業者であった原鋼業を失い、
困り果てていた。ワイヤロープを買いたいお客さんはたくさんいるの
に、肝心のロープ加工業者が手薄な状態が続いたままだ。とにかく、
日々の商品が調達できる体制を立て直さなければならない。
 そこで吉岡社長は、原鋼業で働いていた腕の良い職人たちに、個
別に加工の仕事を発注することにした。そのひとりが、和郎であった。
 ただ和郎は、原鋼業倒産後、藤井組に転職していたので、空いた
時間に内職的に岡聰の仕事をこなすだけで手一杯だった。しかし、岡
聰に集まる注文は年々増えていて、このままでは加工の仕事が間に合
わなくなる。そこで吉岡社長は、原鋼業が倒産して1年余り経った頃、
思い切って和郎に一人親方として独立することを薦めた。
「なあ、中村くん。きみ、独立して一人親方になって、うちに納品す
るロープをつくってくれへんか?きみひとり食うていくくらいの仕事
お得意先から独立を薦められて個人営業を開始
吉岡聰吉社長
52 53
値段の風俗史』(朝日新聞社刊)で調べてみると、高卒男子銀行員の
初任給が1万2千円程度、国家公務員上級職が1万 4,200 円であるの
で、和郎の2万円という収入は十分、高額所得者のランクに属してい
たことがわかる。
 独立開業を果たして一気に高給取りの仲間入りを果たした和郎だ
が、それほどお金に執着しないのんきな性格から、人に頼まれれば気
前よく貸してやったりするため、貯金が増えるということはなかった。
義理人情に厚く、仲間が困っているのを見ると、返ってこなくてもい
いというつもりでまとまった金を渡してしまう性格は、貧乏な青年時
代から変わらない、彼の美徳のひとつであった。
第 2 章 職人として独立し長屋の一室で個人営業を開始
秀一も和郎の独立開業を心から応援して
くれた。貯金など持っていない和郎のた
めに秀一は、「独立するのなら、配達用の
車が必要やろ」と、中古の軽四トラックを
気前よく買ってくれた。こうして、なんと
かワイヤロープ加工の仕事をこなす体制
も整い、和郎は岡聰の仕事を請け負うよ
うになった。
 和郎は後年、「岡聰の吉岡社長と出会っ
て、商売や仕事に対する姿勢が変わった。私が伸びていくきっかけを
与えてくれた恩人のひとりです」と語っている。
 その言葉通り、吉岡社長の教えを和郎は今でもよく憶えている。そ
のひとつは、「人にはやさしく、自分には厳しい人間になれ。人の倍
働くなんて当たり前や。人の3倍くらい働く根性がなかったら大成せ
ん」というものだ。
 和郎はこの言葉を肝に銘じて、日々の仕事に打ち込んだ。1日では
捌ききれないほどの注文が来ても、音を上げることなく、徹夜をして
でも納期を守る仕事を続けた。そんな努力は評判となって顧客層の
間に次第に広まり、「困った時には中村さんに頼んだら、なんとか間
に合わせてくれる」という評価が定着していった。
 和郎は独立開業当時のことを次のように語っている。
「4号ロープ(6× 24)の台付け(丸差し)を中心に毎日、必死になっ
て仕事をこなしました。それまでの給料は、いくら働いても月5千円
でしたが、独立したら月に2万円くらいの収入が手元に残るようにな
りました。雇われ職人時代と違って、やればやった分だけ報われるの
がうれしくて、それで余計に一生懸命に働くようになりました」
 和郎が独立した 1961(昭和 36)年当時の社会人の月額給与を、『新・
兄 中村秀一
絶対に
やり通すぞ!
中村和郎
青春真っただ中
21 歳
独立開業
55
第 3 章
中村鋼業の創業
平尾へ移転し
中村工業に商号変更
56 57
第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更
 一人親方として独立して3年も経つと、腕の良い職人に成長した和
郎のもとには、ひとりではこなせないほどの注文が集まるようになっ
ていた。加工済みのワイヤロープや未加工のワイヤロープが、長屋
の仕事場に山積みになり、このままでは作業もままならない状態であ
る。
 おりしも日本国内では、東海道新幹線の開業や東京オリンピックの
開催などで、国内景気がピークを迎えていた。大阪でもワイヤロープ
加工の仕事は、うなぎ登りで増加を続けており、「このチャンスを逃
す手はない」と和郎は感じていた。
「よし、作業場を移転して、従業員も雇い、もっとたくさんの仕事を
こなせるようにしよう」
 そう決心した和郎は、大正区内で手頃な物件を求めて不動産屋を
歩き、大正区千島に、小さな平屋の建物を見つけた。千島は木津川
と大正通にはさまれたエリアで、昔から町工場が集積している地域だ。
建物の中を見学すると、6畳ほどの作業場があった。太径のワイヤロー
プを加工するには手
狭だが、建物の前は
トラックを横付けで
きる道路に面してい
て荷役作業には便利
そうだ。本当は、もっ
と広い工場を借りた
いのはやまやまだが、
家賃を考えると無理
はできない。
大正区千島で中村鋼業を旗揚げ
創業の地 千島の長屋跡地
中村和郎・久美子 結婚式(1969年1月3日)
58 59
第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更
 創業当時の思い出として和郎
の記憶の中に、今も鮮明に残っ
ているのは、黒部ダムに行って
ワイヤロープ加工をしたことで
ある。黒部第4ダムが竣工し
たのは創業前年の 1963(昭和
38)年のことで、世紀の難工
事の末に完成した “ クロヨン ”
の名は、日本中の誰もが知って
いた。
 中村鋼業への依頼は、「物資を搬送する立坑用の 2 本のクレーン
ロープを 1 本につなげてほしい(ロングスプライス加工)」というも
のだった。「ワイヤロープは現地にあるので、加工職人が来てくれれ
ばいい」というので和郎は、スパイキと工具を従業員に持たせて、大
阪駅から電車を乗り継ぎ、1日がかりで黒部ダムまで出かけていった。
 こと細かい経路は憶えていないのだが、「大町ルート」という言葉
を記憶しているので、長野県側の「信濃大町」駅から現地に向かっ
たようだ。「山の中を半日くらいひたすら歩いてたどり着いた」とい
う現場で、立坑の下をのぞくと「見たこともない巨大なトラックが停
車していた」という。そこで、加工するワイヤロープを渡され、指示
通りの寸法でロングスプライスを手編みしていった。
 作業事態は、いつもやっている手慣れたことなので、数時間もかか
らずに仕上げてしまい、現地の作業員たちをうならせて仕事を終えた。
その日は現地に宿泊し、翌日また1日かけて大阪に戻った時にはくた
くたに疲れきっていた。
黒部ダム
黒部ダムの立坑でロープ加工をした思い出も「とりあえず、ここから始めるか!」と決心した和郎は、この物件を借
り受けて、『中村鋼業』を旗揚げすることにした。1964(昭和 39)年、
中村和郎 21 歳の夏のことだった。
 はじめて大阪にやってきた当初、15 歳のやせっぽちの少年だった
和郎も、7年経った今では、楽々とひと丸のワイヤロープを担げる、
筋肉たくましい青年に成長していた。
 さっそく和郎は、ロープ加工職人として従業員数名を雇い入れ、基
本的な「丸差し」の編み方を伝授して、加工作業をスタートさせた。
加工場の壁面に『中村鋼業』の商号を掲げ、いよいよ工場経営の道
を歩み始める覚悟を決めた。
 2014(平成 26)年が現在の中村工業株式会社の創業 50 周年にあ
たるのは、この 1964(昭和 39)年をもって創業年度としているから
である。
 幸い、和郎が雇い入れた従業員は皆、よく働く男たちであった。和
郎より年下の若者もいれば、ヤクザ上がりの男もいるというでこぼこ
ぶりだったが、「みんな親方よりもうまくなろうという意欲を持った連
中だった」。
 岡聰をはじめとして、常時仕事を発注してくれる得意先も増え、こ
なせる仕事量は一気に2倍以上に増えていった。これも、思い切って
従業員を雇用したおかげである。
「さあ、ここからが勝負だ!」
 青雲の志を抱いて起業した和郎の胸のなかは、「これからどんどん
工場を大きくしていき、日本一の会社にしてみせるぞ」という決意が
みなぎっていた。
60 61
 中村鋼業の創業から3年も経つと、安定して注文を出してくれる得
意先が増えていった。当時の得意先は、岡聰、大綱商事(現 大綱)、
藤井組、コンドーテック、内外製綱(現 ナロック)などで、大手のメー
カーが発注をもちかけてくることもあったが、固定客の注文をさばく
だけで手一杯だったため、断ってしまうこともたびたびであった。
 従業員の腕も上がり、中村鋼業の生産性は年々向上していた。その
ためさらに仕事量が増えていき、6畳しかない加工場だけでは足りず、
作業スペースを求めて道路に出て加工をする従業員の姿が日常的に
なっていた。
 自社工場の前とはいえ、公道を私用するのはほめられたことではない
し、近所の人たちにも迷惑になる。ここは思い切って、広い工場に移転
しようと和郎は決心をした。
 不動産屋をたずねて歩くと、大正区の平尾に 30 坪ほどの工場が売
りに出ているという。売値は土地・建物付きで 3,100 万円だった。平
尾は千島の南側に隣接する地域で、土地勘もあるし引っ越しも楽だ。
何より加工スペースが 30 坪もとれるのは、大きな魅力だった。
「ここを製造拠点にすれば、念願の太径ロープの仕事もどんどん受注
することができるぞ」
 そう考えると、どうしてもこの物件を手に入れたい気持ちで、和郎
の頭の中はいっぱいになった。
「なんとかして 3,100 万円を用意して、あの工場を手に入れたい」
 当時、メインバンクとして取引をしていた住友銀行に融資の相談を
すると、「取引実績もない相手にいきなり3千万円もの融資はできな
い」と、にべもなく断られてしまった。すっかり意気消沈した和郎は、
取引先の1社だった大綱商事株式会社の正田武弘社長に、ため息まじ
業容拡大にともない大正区平尾へ移転
第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更
 たった数時間程度の作業のためにまる2日もかけた、くたびれ儲け
の仕事だったが、たとえ小さいながらも自分が納めたワイヤロープが、
世紀の大事業を陰で支えているのかと思うと、少し誇らしげな気持ち
もわいてきた。それと同時に、ワイヤロープ加工という仕事が、社会
に役立つ立派な職業なのだという実感も得ることができた、貴重な体
験となった。
 このような出張加工の依頼は、その後もよく和郎のもとに舞い込ん
できた。有名なところでは、1970(昭和 45)年の大阪万博があげら
れる。和郎はカナダ館での出張加工を依頼され、材木を吊るワイヤ
ロープを現地で加工した。カナダ館は、外観全面がミラーで覆われた、
万博会場の中でもひときわ目立つ外国館であった。
 1997(平成9)年に完成した大阪ドームでも出張加工の依頼を受け、
ドームの屋根を吊り上げるワイヤロープを現地で加工している。また、
2001(平成 13)年に開園したユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)
では、オープン当初最も人気を博したアトラクションのひとつ「ジョー
ズ」のボートで使用するワイヤロープの現地加工を行ったこともある。
大阪市内でワイヤロープ加工を専業とする企業として信頼される中
村工業には、こうした記憶に残るビッグプロジェクトや大規模事業に
おける出張加工の仕事を、数多くこなしてきた歴史がある。
カナダ館(大阪万博)
大阪ドーム USJ
62 63
ことになったので、最終的に平尾時代の工場の敷地面積は、当初の2
倍ほどになった。
 新工場への移転と同時に、心機一転して営業を開始しようと、商号
を「中村鋼業」から『中村工業』に変更。従業員も総勢 10 名程度に
増やし、生産能力は千島時代の2倍以上に強化され、取引先にも大い
に喜ばれることになった。
 ちなみにこの移転から1ヵ月後に知り合った相互信用金庫が、3,100
万円の融資を快く引き受けてくれたので、正田社長に借りた資金を、
わずか1ヵ月で返済をすることができたのも幸運であった。
 大正区平尾に新工場を開設した翌年の 1968(昭和 43)年5月、
和郎は、300万円の資金を投じて泉陽製の300tプレス機を購入した。
「本格的にロック加工を始めよう」というねらいがあったからだ。
ロック加工(圧着加工)とは、強力なプレス機を使ってアルミ製など
の素管(クランプ管)を圧縮することで、ワイヤロープ同士を接続固
定して端末を一気につくる加工法のことだが、ワイヤロープ加工の一
大産地であった大阪でも、昭和 40 年代にロック加工ができる事業者
はまだ少なかった。まして、中小零細の販
売店が集積する大阪では、何百万円もか
けてロック加工を始めようという事業者は
まだいなかった。
 それだけに和郎の周囲にも、設備投資
に不安を持つ者がいないわけではなかっ
た。特に、和郎の6歳年上の兄、孝雄は
猛反対をした。この時期、いずれ鹿児島
300tプレス機を購入し本格的なロック加工に参入
第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更
300tプレス機
りに銀行から融資を断られた一件を
話していた。
 大綱商事の正田社長が「中村くん、
その金、何に使うんや?」とたずね
るので、30 坪の広さがある工場が
売りに出されていることを説明した。
話を聞き終えた社長は、ぽんと胸を
たたいてこう言った。
「よっしゃ、事情はようわかった、中
村くん。そのお金、私が用立ててあ
げる。担保もいらん」
「ええ!?本当ですか!正田さん。そ
うしてもらえたら、ほんとに助かり
ます。長年の夢だった、太径ロープ
も加工できるようになるし、会社をもっと大きくできます」
「そのかわり、ひとつ条件がある」と正田社長は念を押した。無担保
で資金を融資する代わりに、大綱商事の仕事を最優先で引き受けて
ほしいというのだ。
 ワイヤロープ問屋として大阪でトップグループを走っている大綱商
事にとって、たしかな仕事をしてくれる加工職人は何人でも確保して
おきたい。近い将来、ワイヤロープ屋から商社へと脱皮していくため
にも、中村鋼業にはもっと力をつけてほしいというのだ。
 そこまで自分に目をかけてくれる正田社長に感謝をすると同時に、
和郎はこの申し出をありがたく受けた。
 かくして和郎は、大正区平尾に広さ 30 坪の工場を持つことができ
た。6畳1室の加工場で仕事をしていたことを思えば、まるで天国の
ような広さである。この後、業容の拡大にともない、隣家も買い取る
平尾工場の跡地(平尾 47 番地)
正田武弘社長
64 65
が、誰でも簡単にできるようになるはずだった。
 12mm の4号ロープ(6×24)なら手慣れた職人なら1本、5分程
度で加工することができるが、ロープ径が太くなればなるほど、力の
あるベテラン職人でないと加工はできない。24mm ともなれば、中
村工業でもベテランの従業員が、1本 15 分くらいかけてようやく編
み上げる難しさである。
 ところがプレス機があれば、機械の操作さえ覚えれば誰でも加工が
でき、しかも加工時間は 10 分の1くらいに短縮できて、工場の生産性
は一気に向上する。「プレス機を導入すれば、必ず太径ロープ加工の仕
事が増えるはずだ」というはっきりとした読みが、和郎にはあった。
 事実、300tプレス機の導入と同時に、24mm 径のワイヤロープ加
工の仕事が殺到し、「中村工業なら、太径ロープにも素早く対応して
くれる」という評判が広まるにつれ、太径ロープの注文は加速度的に
増えていった。和郎の読みは、見事に的中したのだ。
 これを契機にして、中村工業の業容は一気に拡大していった。和
郎は、「良い仕事をしていれば、仕事は向こうからやってくる」とい
う職人気質でここまでやってきた男だったが、ロック加工を開始して
いよいよその信念はかたくなった。
「創業以来、営業をしたことはなかったのですが、仕事が途切れること
はありませんでした。ロック加工を始めて、太径ロープの加工を次々に
こなすようになると、ますます仕事が向こうからやって来るようにな
り、捌ききれないほどになりました。太径ロープ加工ができる業者が限
られていた時代に、いち早くプレス機を導入した効果は絶大でした」
 ワイヤロープの端末加工を “ 機械化 ” することの威力を目の当たり
にした和郎は、以後、2度にわたってプレス機の増設を図り、日本一
のワイヤロープ加工量を誇る事業者としての礎を築いていった。
第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更
で独立開業するつもりで中村
工業に修行に来ていた兄の孝
雄は、「そんな高い設備を買
うのはやめておけ。手編み加
工だけで十分仕事は回ってい
るじゃないか」としきりに反
対をしたのだが、和郎は断固
として購入する意志を曲げな
かった。
 和郎には、「もっと太径ロー
プ加工の受注を増やして業容を拡大していくには、手編み加工だけ
では限界がある。設備投資をしてでも、ロック加工のできる事業者に
脱皮しないとこの先の成長はない」という読みがあった。導入を検討
していた 300tプレス機があれば、ロープ径 24mm までの端末加工
知覧特攻平和会館 零戦展示室にて
孝雄・和郎・繁(1995 年)
手編み加工より
生産性の高いロック
加工の導入にどこ
よりも早く取り組み
ました
次は 600t
プレス機や
中村工業創業
300t プレス機導入
一国一城の主に
なったがまだ小さい
めざすは日本一の
ロープ加工屋や!
66 67
「大阪に同年代の友達がいないのは寂しいやろ、うちの妹を紹介する
から、休みの日にでも一緒に遊んだらどう?」
 それがきっかけとなって、和郎と久美子は急速に親しくなり、顔を
合わせれば普通に会話ができるようになった。もちろん、この時の和
郎の申し出、「妹を紹介する」というのは嘘も方便で、久美子と仲良
くなりたい一心のでまかせだった。後に和郎自身も、「はっきり言って
下心があった」と白状している。
 そんな出会いがあってからしばらく後の初夏、久美子のもとに呉市
の実家から、「お母さんが病気になったんじゃ。いっぺん帰っといで」
という連絡が入った。急いで帰省してみると、母が末期の癌であるこ
とを知らされ久美子は愕然とした。こうなったからには覚悟を決め、
お母さんの看病を一生懸命しようと久美子は心に誓った。
 大阪に残された和郎は、久美子が母の看病のために郷里に戻ったこ
とを知り意気消沈する。寝ても覚めても久美子の笑顔ばかりが脳裏を
離れず、「このままでは仕事にならん」と思い知った和郎は、「当たっ
て砕けろや、実家に会いに行こう!」と心を決めた。
 8月のお盆を待って和郎は、愛車コロナハードトップを駆って一路
広島を目指した。「実家は呉市の音戸大橋の近く」と聞いていたので、
それだけを目標にして、和郎は国道2号線をひたすら西へ進んだ。
 やがて音戸大橋の姿を見つけた和郎は、近くの公衆電話に飛び込
み、息せき切って久美子の実家に電話をかけた。驚いたのは久美子
の方である。
「え?中村さん!なんで、うちの実家の電話知っとるん?え?いま、広
島にいるん?どこ、音戸大橋のそば、うそじゃろ?」
「ほんとに広島よ。たまたまこっちの方に来るついでがあったから電
話してみたんや。どう、元気にしとった?お母さんの具合はどうや?」
 たまたま呉市までたずねて来る用事など、あるわけがないのだが、
第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更
 この頃、和郎は、一人の女性のことが気
になってしかたなかった。仕事をしていて
も車を運転していても、その女の子のこと
がいつも頭から離れないのだ。和郎は大
阪に出てきて初めて、結婚を考えるほどの
恋をしていた。
 相手は、西区あみだ池の大綱商事に隣
接する合板製造会社で、家事手伝いをし
ている笑顔のまぶしい女の子、当時 19 歳
だった蝉川久美子であった。
 当時の出会いを久美子は、次のように回想している。
「広島県の呉市音戸町から出てきて、親戚である突き板屋さんで家事
手伝いをしながら、お茶やお花を習っていました。その頃、毎日のよ
うに家の前に、汚い軽四トラックを駐めて、お隣の大綱商事さんに入っ
ていく男性がいました。おばさんはその度に憤慨して、『久美ちゃん、
家の玄関前やから車を駐めないように注意しといて』と言ってました。
それが、主人との最初の出会いです(笑)」
 迷惑駐車がきっかけで知り合った2人だが、和郎にとっては、文句
を言われるのも久美子に接触する貴重なチャンスだったので、平気な
顔で軽四トラックを駐め続け、その度に久美子から注意を受けていた。 
 もっと親しくなりたいと考えた和郎は、久美子がお昼頃、向かいの
公園で親戚の子供たちを遊ばせているのを知り、昼の休憩を装って
公園で彼女に声をかけた。年齢を聞くと、和郎の6歳下の妹たみ子と
同年代である。和郎は一計を案じて、久美子に提案をした。
19 歳の女性に一目惚れして広島までプロポーズに
中村久美子
68 69
恐縮している和郎の手をぎゅっと握りしめた叔母は、豆だらけで分厚
くごつごつとした手を見て、感心した様子でこう言った。
「このひとは、仕事師じゃねえ」
 毎日毎日、ワイヤロープを加工する和郎の手は、まだ二十代だとい
うのに豆だらけ傷だらけで、年季の入ったベテラン職人のような手の
ひらをしていた。久美子の叔母はそれを見て、働き者の真面目な男だ
と見抜いたのだ。
「久美ちゃん、この人の手は働き者の手やで。この人と一緒になりゃぁ、
絶対に食いはぐれはないの、私が保証するよ」
 それを聞いた親戚の皆が、口々にはやし立てた。
「こがぁな田舎まではるばる訪ねて来て、よほどあんたのことが好き
なんで。聞けば、四男坊やのにお母さんの面倒を見てる言うし、その
上、仕事師の手ぇしとる。親孝行でええ人みたいじゃけん、お付き合
いしてみんさい」
 人ごとだと思って、親戚や親兄弟までが面白がってけしかけるのを
聞いていて、久美子は少し腹立たしい気持ちになった。しかしそれ以
上に、すっかり親族と打ち解けて、談笑している和郎の姿を見ている
と、妙に心が温かくなるのを感じた。
 学生時代バレーボールに熱中していた久美子は、結婚するのなら、
背の高いスポーツマンタイプの男性と決めていたのだが、この時か
ら、結婚は相手の見てくれだけでするものではないと思うようになっ
ていった。
 数時間後、大阪へ帰ろうとする和郎を久美子は車まで見送った。和
郎は、「今日はもう疲れたし、広島空港に車を置いて飛行機で大阪ま
で帰るわ」と、突拍子もないことを久美子に告げた。
「車はどうする気ぃ?」とたずねた久美子に、和郎は「近いうちにま
た取りに来るわ」と言うではないか。「え?なんで、そがぁな手間な
第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更
そこは和郎の飄
ひょうひょう
々としたキャラクターで、久美子もなんとなく煙にま
かれてしまった。
 そんな2人のやりとりを、そばで聞いていた家族や親戚たちが、俄
然興味を示した。電話を取り次いだ叔母が、「どうも男友達が大阪か
らたずねてきたみたいじゃねえ」とつぶやいたのを聞くや、親族一同
の野次馬根性に火がついた。
「久美ちゃん、せっかく大阪から来てくれたんじゃったら、来てもら
いんさい。わたしらも挨拶くらいしたいしのぉ」
 というやりとりがあって和郎はちゃっかり、久美子の実家に上がり
込むことに成功した。
 母親の看病がてら集まっていた、親兄弟や
親戚一同に挨拶を済ませると和郎は、まるで
自分の実家にいるかのようにすっかりリラッ
クスしていた。
 すると、親戚の中でもリーダー格の叔母が、
「あなたが中村さんかいね、こがいな田舎まで
よう来たねえ」と言って、和郎に握手を求めた。
中村久美子
(高校1年生1964年)
中学時代の中村久美子(2列目右から4番目 1962年 )
70 71
第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更
 1969(昭和 44)年 1 月3日、27 歳の中村和郎と 20 歳の蝉川久
美子は、大阪難波の高砂殿で結婚式を挙げた。仲人は、大綱商事の
正田武弘社長にお願いをした。
 結婚後2人は、和郎の愛車で富士五湖に新婚旅行に出かけ、ドライ
ブを楽しんだ。この時のスナップ写真が何枚も残されているが、2人
とも輝くばかりに若く、本当に幸せそうな表情でカメラに向かって微笑
んでいる。おそらく人生で最も幸せな時間のひとつだったのであろう。
 旅行を終え大阪に戻ると、仕事場にほど近い大正区内のマンショ
ンの2階で、2人は新婚生活を始めた。珠算1級を持っていた久美子
結婚して 3 人の子宝に恵まれることをするん?」という疑問で頭がいっぱいの久美子をよそに、和郎
はいつものマイペースな笑顔を残し、車で去っていった。
 どうしてもまた久美子に会いに、広島に来たいと思った和郎が考え
ついたのが、この時の『車を残して帰る作戦』である。「こうしておけば、
自然なかたちでまた久美子に会いに来ることができる、なんという名
案であろうか」と和郎は自画自賛していたのだが、久美子が親族一同
にこの話をすると、「そりゃぁ、また久美ちゃんに会いにくるための
口実にきまっとるじゃろ。ほんに中村さんは、久美ちゃんのことが好
きなんじゃけんのぉ」とあっさり見破られてしまった。
 皆に言われてみれば、たしかにそのとおりだと久美子は思った。
「マイペースでつかみどころのない人やけど、心から私のことを好い
ていてくれてるのはほんまみたいやし、親思いの人に悪い人はいない
やろから、お付き合いしてもええかな」
 いつの間にか久美子自身も、和郎の一途な気持ちにほだされてい
るのを感じていた。
 行き当たりばったりで、なんとも計画性のない和郎の行動だが、そ
ういうちょっとおちゃめで不器用、純朴なところも、和郎が久美子の親
族に気に入られた理由だった。この実家への突撃訪問をきっかけにし
て、和郎は久美子の結婚
相手として親族から認め
られるようになった。
 その年の冬、久美子
の 母 は 短 い 闘 病 生 活
の末にこの世を去って
いった。最愛の母を失っ
たことで、久美子は和
郎との結婚を決心する。
久美子の実家で結納(1968年) 新婚旅行 富士五湖(1969年)
中村和郎 久美子 結婚式
72 73
第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更
るしかないと覚悟を決めた和郎は、普段は工場の現場仕事をすること
はない妻の久美子にも声をかけ、仕事を手伝ってもらうことにした。
久美子はこの時のことをよく憶えていて、作業の様子を懐かしそうに
語ってくれた。
「平尾時代の工場は 30 坪ほどの広さがあったのですが、13 m角のワ
イヤもっこを編むには全然広さが足りません。それで、工場前の道路
で作業をしようとしたのですが、そこでもまだ道幅が狭くてもっこを
広げられないので、50 mくらい先のもっと広い公道まで出ていって、
そこで従業員総出で作業したのを憶えています。普通に自動車が走っ
ている道路だったのですが、よくそんなところで作業ができたなと、
今思い返しても驚きです(笑)。でもその時は、なんとか早く仕上げ
ないといけないということで、みんな必死で、周りを気にする余裕は
なかったと思います。ワイヤもっこづくりは、手間がかかると聞いて
ワイヤもっこの作業風景
は、中村工業の経理や事務を手伝うようになり、和郎はこれまで以上
にロープ加工の仕事に集中できるようになった。久美子は当時の結婚
生活を、次のように語っている。
「子育てが始まると、そっちの方に手がとられたので、それほど長く
会社の手伝いをしたわけではありませんが、帳簿や事務など少しは手
伝いました。主人は朝から晩まで、仕事一筋の人でしたが、私は地域
のバレーボールクラブに入って、時間があればバレーを楽しんでいま
したね。主人はそれに対して何かいうわけでもなく、自由にやらせて
くれました。そういう意味ではおおらかな人ですね」
 久美子との結婚が良運を呼んだのか、この頃から中村工業に入って
くる仕事の量が増え、依頼される仕事の幅も広がっていった。そんな
ある日、巨大なワイヤもっこをつくってほしいという依頼が飛び込ん
できた。
 ワイヤもっこは、
ワイヤロープを網目
状に編んだもので、
土木現場や荷揚げ作
業などでクレーンに
吊って使用する。吊
り上げる物や荷重、
用途によって、本体
サイズ、網目の大き
さ、吊り手綱の形な
ど、さまざまな種類があるのだが、この時の依頼は、「縦横 13 mの巨
大なワイヤもっこをつくってほしい」というものだった。
 ワイヤもっこを加工すること自体は、それほど難しいものではない
のだが、これまで手がけたことがない大きさだけに、人海戦術で当た
ママさんバレーリーグ戦
74 75
第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更
にした。長屋を少しリフォーム
して住みやすくし、母ミサヲと
妹たみ子と和郎夫婦、それに誕
生したばかりの哲也を加えた一
家5人の暮らしが再開した。以
後、2度ほど引っ越しをしたが、
1982(昭和 57)年に西宮市に
自宅を購入するまでの 10 年余り
を中村一家は、“ 大阪のマンハッ
タン ” と呼ばれる大正区をスイートホームとして愛した。
 長男の哲也は現在、結婚して両親の住まいにほど近い一戸建てに
住んでいるが、子供時分の思い出話を語る時の懐かしそうな笑顔から
は、今も大正区の長屋暮らしの時代を、こよなく愛していることがう
かがえる。おそらく彼が、物心ついた時の原風景は、大正区の路地で
あり、運河を行き交う渡し船だったのであろう。
「私の子供時分は、食卓も質素なもので、肉料理など腹いっぱい食べ
たことはありません。それでいつも、『早く大人になって、お肉をたら
ふく食べれるようになりた
い』と考えていました。少
年野球の帰りに 50 円のお
小遣いで、1串 20 円のホ
ルモン焼きを2串食べて、
残りの 10 円で駄菓子屋に
行くというのが最高の楽し
みでした」
 子供の頃の食べ物のう
らみではなかろうが、中村
哲也(2歳 1972年)
ホルモン焼き
いたのですが、実際に手伝ってみて大
変さを実感しました」
 結婚後も、ほとんど現場の仕事を手
伝うことのなかった久美子にとっては、
数少ない体験としてこのワイヤもっこ
づくりは、思い出深いものがあるようだ。
 結婚の翌年、1970(昭和 45)年
12 月 12 日に、待望の長男が誕生した。
久美子が俳優の渡哲也の大ファンだっ
たことから、「哲也」と命名された。
 大正病院で無事に出産を終え、身も
心も大きな安堵感に包まれていた久美
子のもとへ、仕事場から和郎が駆けつ
けてきた時のことを、彼女は今も鮮明
に憶えている。
「汚い仕事着のままで、のっそりとやってきたかと思うと、生まれた
ばかりの赤ん坊の顔を見て、『ふーん、この子か』という感じで、も
のの5分もしないうちに仕事に戻っていきました。なんという無愛想
な男かと思いましたが、それでもまだ喜びを表に出していた方でした。
だって、長女と次男が生まれた時には、仕事が忙しいからといって、
顔さえ出さなかったのですからね(笑)」
 この当時、それくらい中村工業は忙しかったという証でもあるのだ
が、いずれにせよ和郎のおっとりマイペースな性格を知っている人間
にとっては、さもありなんという長男との初対面シーンである。
 結婚後しばらくはマンションで暮らしていた和郎夫婦だが、長男
を妊娠したことがわかると、「階段の昇り降りは妊婦によくない」と
周囲から言われ、もとの大正区泉尾の四軒長屋の暮らしに戻ること
長男 中村哲也 誕生
76 77
第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更
家族旅行 東京(1980年)
次男和也・長男哲也・長女和美(1980年)
年には、次男が誕生。父和郎と長男哲也の名前からひと文字ずつをとっ
て、「和也」と命名された。
 3人の子供たちは、泉尾の四軒長屋ですくすくと育った。幼年期の
3人が、長屋の前で遊んでいる光景を撮影したスナップ写真が何枚も
残されているが、なんの不安もなく無邪気に遊んでいる子供らの姿か
らは、カメラのファインダーの向こうにいる両親の深い愛情が感じら
れて微笑ましい。おそらく、中村夫妻にとってもこの時期は、忙しく
はあっても幸せな時代だったのであろう。
工業では例年、お盆前と正月前
に、工場の中で大バーベキュー
大会を開催する。従業員やお取
引先とその家族を招き、10㎏余
りの肉を焼いて、酒を飲む懇親
会である。2013(平成 25)年は、
豚の丸焼きをメインイベントに
すえて、豪快な宴を楽しんでい
る。
経営者と従業員というような垣根はなく、大家族のような大らかな絆
を大切にしているのも、中村工業が創業以来大切にしてきた伝統のひ
とつといえる。
*
 長男哲也の誕生の後、中村和郎・久美子夫妻は、2人の子宝に恵
まれた。
1973(昭和 48)年5月 20 日には、長女が誕生し、夫婦の名前をひ
と文字ずつとって、「和美」と命名された。2年後の 1975(昭和 50)
豚の丸焼き(2013 年 8 月)
79
大正区泉尾の現在地に移転し
生産体制を拡張
第 4 章
81
 1972(昭和 47)年、ワイヤロープ加工の技術修得のため、中村工
業で4年間働いていた6歳年上の兄、孝雄が、郷里鹿児島県で独立
開業するため、加世田に帰っていった。孝雄は同年ナカムラ工業を設
立し、ワイヤロープ加工の仕事を始めた。中村工業の DNA を持つ兄
弟会社の誕生である。
 営業地の九州エリアは、ワイヤロープの一大産地大阪と比べ市場
規模が小さいものの、孝雄は立派に事業を軌道に乗せ、現在に至っ
ている。しかし残念ながら、社長であった孝雄は 2010(平成 22)
年に早逝し、現在は長男の中村孝治が事業を引き継いでいる。
 兄が九州で兄弟会社を旗揚げした翌年の 1973(昭和 48)年、日
本経済は「第1次オイルショック」に見舞われ、企業活動は大きな影
響を受けた。政府は年末に、石油緊急対策要綱を閣議決定し、「総需
要抑制策」を掲げた。大型公共事業が一斉に凍結・縮小された結果、
景気は減速。翌 1974(昭和 49)年には、戦後初のマイナス成長に
陥落し、戦後復興期から企業に恩恵をもたらしてきた高度経済成長
はついに終焉を迎えたのだ。
第 4 章 大正区泉尾の現在地に移転し生産体制を拡張
景気が悪くても気迫で乗り越える負けじ魂
ナカムラ工業(鹿児島)
中村和郎(29歳 1971年)
82 83
第 4 章 大正区泉尾の現在地に移転し生産体制を拡張
いれば、なんとか乗り越えていけるものです」
 ワイヤロープ加工の達人・中村和郎は、いつの時代もこの『負け
たらあかん精神』で、ロープ屋稼業をたくましく生き抜いてきた。不
況になるたびに、取引先から不渡手形をつかまされることは再三にわ
たり、「総額にすると億単位にのぼる」ほどの未収金を残してきたが、
和郎はそのたびに、「これくらいの負債、中村工業にとってはなんと
もない」という気迫で乗り越えてきた。
 事実、景気が悪化しても、腕の良い加工職人集団を抱える和郎の
もとには、会社を維持するだけの仕事はつねに集まってきた。たとえ
不渡手形をつかまされようとも、「その穴を埋めるだけの仕事を余計
にすれば良いだけの話だ」という負けん気が、和郎の胸のなかにはつ
ねに宿っていた。
 この和郎の “ 負けじ魂 ” を象徴する決断が、第1次オイルショック
の翌年、1974(昭和 49)年に実行された。なんと和郎は、工場をさ
らに拡張し従業員も増やして、さらなる企業成長を図ろうと、工場移
転を行ったのである。
 国内では、23%ものインフレーションを抑制しようと公定歩合が引
き上げられ、企業の設備投資を抑制する政策がとられているさなかで
あった。中小企業経営者の大半が、じっと我慢の時期と耐えていた年
に和郎は、大正区泉尾に敷地面積 100 坪ほどの工場を見つけ、3,300
万円の資金を投じて工場移転を実行してしまった。逆境になればなる
ほど闘志を燃やす、和郎らしい大胆な行動であった。
 和郎はここで従業員をさらに増やし、総勢約 20 名のロープ加工職
人集団を率いることにした。細径から太径まで、あらゆる注文に臨機
応変に対応していくには、これくらいの従業員数がちょうど良いとい
う現場感覚が和郎にはあったからだ。
 この人員体制が正しかったことを、一時期、和郎の仕事を手伝った
 企業活動が意気
消沈する一方で、消
費 生 活 は “ 狂 乱 物
価 ” に翻弄された。
トイレットペーパー
や洗剤などの買い
占め騒ぎが引き金と
なって、石油価格と
は直接関係のない物
資にまでパニック買
いが広がり、日本の
消費者物価指数は、
1974 年(昭和 49)年には 23% も上昇するという混乱を極めた。
 中村工業を取り巻く風景も、がらりと変わっていた。公共事業の凍
結・縮小は、“ 産業の命綱 ” であるワイヤロープの需要に直結する大
問題であったのだが、それ以上に業界を苦しめたのは、パニックに乗
じて一儲けしようと企む悪徳業者が増えたことであった。市場の混乱
につけこんで少しでも利ざやを多く得ようと、ワイヤロープを売り惜
しみする業者が急増し、中村工業がお得意先に出荷したくてもできな
いという状況が続いたのだ。
 商品が動かないために、中村工業の売上も急激に落ち込んでいっ
たのだが、経営トップの和郎は、泰然自若としていた。
「2回のオイルショックやリーマンショックなど、会社経営にとって厳
しい洗礼を受けてきましたが、だからといってそれがピンチだと思っ
たことは一度もありません。景気が悪くなったから、売上が下がるの
も仕方がないというような弱気になったら、その時点で経営者として
は負け。どんな逆境にも、『負けたらあかん!』という気概でやって
狂乱物価
84 85
第 4 章 大正区泉尾の現在地に移転し生産体制を拡張
腕の良い親方の正しい指導がなければ、一人前の加工技能士はなか
なか育たないからだ。
 中村和郎という名人がいる中村工業では、つねに太径ロープの注文
が入ってくるので、職人として何年か修行を積めば、当然太径ロープ
の加工もやらせてもらえる。名人の親方から指導を受け、経験を積ん
だ先輩加工技能士たちの熟練の技を見て学ぶのだから、中村工業か
ら次々に、太径ロープの加工ができる優秀なロープ加工技能士が誕生
するのは当然の成り行きといえた。実際、和郎は引退するまでに、5
人の独立開業者を育て上げている。
 写真を見てもわかるように、この当時、太径ロープの加工をするに
は、巨大なバイス(万力)を真ん中に据えてロープを固定し、バイス
を金棒で回しながら撚りを取り、ストランドを編み込んでいく方法が
とられていた。しかし工場床に設置したバイスだと、編み込み加工を
する部分がどうしても高くなり、職人の力が入りにくく、ストランド
を差すのも一苦労する労働環境であった。
太径ロープの手編み加工(1974 年)
兄の繁は証言している。
「中村工業は少ない時でも 10 名、多い時は 20 名近い従業員がいたの
で、まとまった注文量が突然きても、短期間での納品が可能でした。
大阪では、数名の職人しかいない中小零細業者が大半で、そんな仕
事に対応できる業者はごく少数です。この加工能力の差が、同業他社
を圧倒する強みとして働いていたと思います」
 兄の繁が指摘するように、一定レベル以上の生産能力を確保するこ
とは、選ばれる業者となるためには重要だという考えが和郎にもあっ
たのは事実だが、彼はそれ以上に、中村工業という企業を、ワイヤロー
プ加工業界の “ オンリーワン企業 ” に育てたいという強い思いを抱い
ていた。
 少数精鋭、どんな仕事でもこなす腕の良い加工職人を育てて、日本
一の加工屋集団をつくることが、和郎が思い描いた中村工業の将来像
であった。年商や企業規模を追求するのではなく、「この加工は中村
工業しかできない」という “ 技術力 ” で知られる、『日本一のロープ加
工屋』になりたいという職人魂が彼の胸の中には燃えていた。泉尾へ
の工場移転は、そのための第一歩であった。
業界でスタンダードになった
太径ロープ加工用設備の普及に一役
 工場移転をしたばかりのこの年、4人の加工職人がロープ径 80mm
のワイヤロープを手編み加工しているモノクロ写真が残されている。
 屈強な男たちが3人一組になり、竹刀ほどの太さのスパイキをロー
プに差し込んで、ストランドを編みこんでいる作業風景だが、このク
ラスのロープ径を手編み加工できる技術者は、現在でもそう多くはい
ない。なぜなら、コンスタントに太径ロープの加工仕事がある工場で、
中村工業50年史
中村工業50年史
中村工業50年史
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中村工業50年史

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中村工業50年史

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  • 9. 柴崎友香さん 大阪府大阪市大正区出身 【主な受賞歴】 咲くやこの花賞(2006 年) 織田作之助賞大賞(2006 年) 芸術選奨新人賞(2007 年) 野間文芸新人賞(2010 年) 芥川龍之介賞(2014 年) 子供のころ、学校に行く途中にも、友達の家の隣にも工場がありました。 金属のぶつかりあう音が響き渡り、青やオレンジ色の火花が飛び散る。 機械を通すと、金属や木材が形を変えていくのがおもしろくて、 時間も忘れてじっと眺めていることもありました。 その様子は魔法のようで、工場の人たちの手がなにか特別な力を持っていて、 機械が生命を持つようにも思えました。 そうやって生み出されたものが、家やビルの一部になったり、 自動車やまた別の工場に使われたりして、自分たちの生活が形づくられて いるのだという、確かな実感を、わたしは自然に持つことができました。 ここから、街が作り出されていく。 ここで、暮らしが支えられている。 ここにいる人の手で。 そんな街で育ったことを、誇らしく思います。 発刊によせて
  • 10. 50中村工業 年史 第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章 第7章 資料編 中村和郎の生い立ちと 10 代の修行時代 エピローグ 未来に向かって飛翔する 中村工業 職人として独立し長屋の一室で 個人営業を開始 中村工業 50 年の あゆみ 中村鋼業の創業 平尾へ移転し中村工業に 商号変更 大正区泉尾の現在地に移転し 生産体制を拡張 東京製綱と取引開始業界最大級 のプレス機を導入 事業を長男に継承し現役引退 組合の会長に就任し業界を牽引
  • 12. 6 19  中村工業株式会社創業者の中村和郎は、1942(昭和 17)年 12 月 23 日、薩摩半島の南西端に位置する鹿児島県南さつま市加世田 14511 番地3に生まれた。市の中央内陸部にあたる地域で、和郎が 誕生した時代は、まだ加世田町と呼ばれていた。その後、加世田町は 1954(昭和 29)年に万世町と合併して加世田市になり、2005(平 成 17)年にさらに1市4町が合併して現在の南さつま市になった。  薩摩半島といえばカツオ漁で知られる枕崎市が有名だが、南さつま 市に隣接する南九州市には、「カミカゼ特別攻撃隊」いわゆる特攻隊 の基地があった「知覧」があり、映画や小説で登場するようになって からは、こちらの地名の方がよく知られるようになった。  今では特攻隊基地といえば知覧飛行場というイメージが定着してい るが、実は南さつま市の吹上浜にも、太平洋戦争末期に設置された最 後の特攻隊の出撃地、万世飛行場があった。そのため戦時中は、町に 軍人の姿が日常的に見られ、物心ついた幼年期の和郎はこうした町の 様子をうっすらと憶えていて、次のように語っている。 「片田舎なのに防空壕がたくさんあって、米軍の爆撃機が焼夷弾を落 とすこともありました。3歳の時、実際に空襲に遭遇し、6歳年上の 兄の孝雄におんぶされて、命からがら防空壕に逃げこんだこともあり ました。終戦になっても兵隊さんが町のなかをたくさん歩いていて、 米軍の飛行機もよく飛んでいたのを憶えています」  ベストセラー小説『永遠の0』にも書かれていることだが、戦況が 悪化した大戦末期には、万世や知覧の飛行場は、米軍の空襲で破壊 されてほとんど機能しておらず、特攻の出撃は大隅半島の鹿屋飛行 場が秘密裏に使われていたという。だから、3歳当時の和郎が加世田 鹿児島県南部の片田舎で7人兄弟の5番めに誕生 第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代 中村和郎(中学 3 年 1942 年) 南さつま市 知覧 加世田 万世特攻平和祈念館
  • 13. 20 21 第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代 差し伸べて助けてやりたくなる、そんな生来の “ 徳 ” のようなものを 持っていた。この人徳のおかげで彼は、社会に出た後も人生の節目ご とに良き人々と出会い、正しい方向へと導かれ、人間的にも事業家と しても成長していくことになる。  いったん仕事となると恐ろしいほどの集中力を発揮する和郎だが、 普段はおっとりとしたつかみどころのない人物で、話してみるとどこ となく愛嬌があって誰からも好かれる、そんなキャラクターは子供の 頃からのものであったようだ。 父親が急逝し 15 歳で大阪へ働きに  和郎の父親は、地元の日本通運に勤めていたが、後に自転車修理工 として独立。そこから事業を盛り立てて、自動車修理工場を営むまで になった勤勉実直な男であった。当時としてはまだ贅沢な存在であっ た自動車を扱う工場を経営していただけに、父親が健在なあいだは、 泉尾の四軒長屋の一室にて(1964 年) で遭遇した空襲は、万世や知覧の飛行場をたたくために米軍が行っ た、大戦末期の一連の空襲のひとつだったと思われる。  ちなみに第一の特攻基地だった知覧では、和郎の叔母、吉見ミノ 氏が、軍指定の宿舎のひとつ「内村旅館」を切り盛りしていた縁で戦後、 「知覧特攻平和会館」の案内ボランティアとして活動していた。彼女 もまた、特攻隊員と最後の別れを惜しむ家族たちとの橋渡しを陰で支 えた “ 特攻の母 ” のひとりであったそうだ。  そんな九州の南端の町で和郎は、戦中から終戦直後にかけて幼年 期を送った。  中村一家は、父・中村秀 ひできち 吉と母ミサヲのもと、7人(うち1人は2 歳の時に病没)の兄弟姉妹が暮らす賑やかな大家族であった。和郎 は5番目の子供として誕生 したので、親兄弟からは 末っ子のように可愛がって もらった。 「小学校の頃は遊んでばか りで、勉強は大の苦手でし た。でもまわりにやさしい 友人や兄弟がいて、学業 で困っていると、いつも誰 かが助けてくれました。み んなのおかげで、学校を 卒業できたようなもんです (笑)」  どこか茫 ぼうよう 洋としていて少 し頼りない感じがする和郎 は、困っているとつい手を 秀一 ミサヲ キリ子 繁 孝雄 たみ子 ミサヲ 秀吉 秀一 和郎の両親(1935 年)
  • 14. 22 23 第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代 に到着した朝のことを今も懐かし く憶えている。 「弟より2年先に大阪に出てきた 私は、その頃すでに日立造船に 職を得て工員として働いていま した。大阪の街にも慣れていまし たが、弟は中学を出たばかりで右 も左もわからない子供です。さぞ 心細いだろうと思って、大阪駅の ホームまで迎えに行って、とりあ えず私の下宿に連れていき、大阪 での生活をスタートさせたことを 憶えています」  この当時、仕事を求めて地方から都市部へとやってくる若者たちが 移動の手段としたのが「集団就職列車」である。戦後の高度成長時代に、 地方の中学や高校を卒業した学生の集団が、都市部に就職する際に運 行された国鉄(現在の JR)の専用臨時列車で、1954(昭和 29)年か ら 1975(昭和 50)年まで運行されたと記録されている。北海道・東 北地方からは東京の「上野駅」行きが主流で、井沢八郎がヒットさせ た歌謡曲『あゝ上野駅』は、この列車をテーマに歌ったものだ。  一方の西日本、九州・中国・四国地方からは「大阪」「名古屋」へ向 かう列車が多かったのだが、和郎は 1957(昭和 32)年、西鹿児島駅 からこの専用臨時列車に乗り込み、まる一昼夜かけて大阪駅に到着し ている。兄の繁もその2年前に同様の列車で上阪しており、当時の旅 の思い出を懐かしそうに語ってくれた。 「蒸気機関車の旅は、トンネルでは窓を閉めておくのが常識。ところが、 旅慣れていない子供ばかりなので、車窓を楽しもうと窓を開けっ放し 兄 中村繁(20歳 1958年) 比較的裕福な生活ができていたのだが、突然の悲劇が一家を襲う。  1955(昭和 30)年 12 月、和郎が中学2年 13 歳の時、父親が癌の ため 48 歳の若さで急逝してしまったのだ。突如、大黒柱を失った一家 の暮らしは暗転。6人もの子供たちを、母親が女手ひとつで育てること になった。  父親を亡くした年は、長男の秀一がようやく成人したばかりの 21 歳 で、その下には、次男の孝雄(当時 19 歳)、三男繁(同 17 歳)、長女 キリ子(同 15 歳)、四男和郎(同 13 歳)、次女たみ子(同7歳)と十 代の子供たちが5人も残されていた。一家の経済的な支柱を失った以 上、子供たちも働ける歳になれば、社会に出て自分の食い扶持は稼が なければならない。  和郎の4歳年上の兄中村繁は、父親を亡くした後、高校卒業と同時 に大阪に出て働くようになったが、母を少しで も楽にしてあげたい一心で、十分ではない給料 の中から捻出したお金を毎月仕送りしていた。 繁は当時のことを述懐して語っている。 「父が急逝してからというもの、母は本当に苦 労していました。加世田では仕事がないので、 父が亡くなってから数年後、42 歳の時に大阪 に出てきて、私と同居しながら小さなプレス工 場で働き、家族と子供たちの暮らしを支えてくれました」  和郎もまたこの繁兄を頼って、加世田中学を卒業した 1957(昭和 32)年 15 歳の年に、大阪へ職を求めてやってきた。大阪での身元引 受人となってくれたのは、大正区に住む叔父であったが、実質的な生 活のことや仕事先のことなど、こまごまと面倒をみてくれたのは、兄の 繁であった。  繁は、弟の和郎が 24 時間かけて、集団就職列車に揺られて大阪駅 兄 中村繁(取材時)
  • 15. 24 25 第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代 築港の周辺では造船の鋲打ち職工を求める現場が多数あり、そのひと つに和郎は就労することにしたのだ。  ところがいざ仕事を始めてみると、これが危険極まりない職場である ことがわかった。リベットといっても常温の鉄鋲ではなく、真っ赤にな るまで熱されて軟らかくなった、超高温の金属塊なのである。これを接 合する部材の穴に差し込んで、ハンマーで変形させるのだが、和郎は 真っ赤に焼けたリベットが上から投げられてくるのを、下にいて受け皿 でキャッチする役をやらされたのだ。冗談ではなく、ひとつ間違えば大 やけどという切迫した仕事である。  実際、和郎が働き始めて間もなく、同じ職場にいた経験の浅い職工 が、頭にリベットの直撃を受けて死亡するというショッキングな事故を 目撃するに至り、さすがに強心臓の和郎も、「こんな仕事を続けていたら、 命がいくつあっても足らん」と、早々に退職を願い出ることにした。 当時の大正区の風景  大阪での身元引受人であ る叔父の世話で、大正区の アパートを下宿先とした和郎 は、叔父の紹介で鋲 びょう 打ち職 工の仕事を始めた。  現在では、鋼板や鉄骨を 接合するのは溶接が一般的 だが、この当時はまだ、高温 に熱したリベットを部材の穴 に差し込んで、専用の工具で かしめて接合する鋲打ちが 主流であった。とりわけ大阪 にする人が多い。だから、 翌朝駅のホームに降り 立った乗客の顔がみんな、 機関車の煙で煤けて真っ 黒でした。和郎を迎えに 行った時も、たぶんそう だったと思います(笑)」 集団就職列車で、いざ大 阪へ、それは 15歳の少 年にとって真っ暗闇のト ンネルの中へ突進するよ うなものだった 大阪へ着いた少年・少女達の顔は すすで真っ黒だった ゴホ!   ゴホ! 窓を閉めろ! にいちゃん こっちや… 和郎! どこや!
  • 16. 26 27 第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代 るのだが、いずれにせよ、このスパ イキさえあればワイヤロープ加工は できるので、この時代には、ワイヤ ロープをひんぱんに使用する現場の 作業員などは、自分で手編みできる 者が少なくなかった。現在でも、作 業にワイヤロープが必須の林業従事 者などは、基礎技術として手編み加 工を習うことが多い。   ここでいま少し、和郎が職業とした ワイヤロープ加工について、説明を 加えておきたい。  ワイヤロープ【wire rope】とは、図にあるように数本から数 10 本の 鋼の素線を単層または多層に撚り合わせたストランドを、通常は6本を 心綱のまわりに所定のピッチ(撚りの長さ)で撚 よ り合わせてつくった鋼 製ロープのことだ。ロープの種類は、ストランドの数と形、ストランド を構成する素線の数と配置、心綱に使う素材などによって多岐に渡るが、 ここでは最もスタンダードなロープの構成図を例示している。 社名テープ 手編み加工 6×24 IWRC 6×Fi(29) ワイヤロープ加工の原鋼業株式会社に就職  次の定職が見つかるまでの間、いろいろな日雇い仕事をこなすうちに、 いつしか季節は夏になっていた。ある日、新聞の求人欄を見ていた兄の 繁が、勢い込んで教えてくれた。 「おい、和郎。同じ大正区に原鋼業というワイヤロープの加工工場が、 工員を募集しているぞ。おまえ、明日にでも面接を受けてこい」  和郎は、ワイヤロープ加工の職人が何をするのかもわからぬまま、原 鋼業株式会社で面接を受けて入社を認められ、見習工として働くことと なった。ありがたいことに大正区三軒家東2丁目の工場には従業員寮も あったので、アパートを引き払って寮に移り、住み込みの職工生活を始 めることにした。  タイミングよく正社員として就職することができた和郎は、従業員寮 に住み込みながら、ワイヤロープの手編み加工職人としての修行をス タートさせた。仕事を始めたばかりの頃のことを、和郎は次のように述 懐している。 「まず仕事を覚えることが先決だと思い、職場の先輩に教えを請いなが ら、必死になって技術を修得しました。先輩たちから可愛がってもらえ るように、礼儀や態度にも気を配り、一生懸命働きました。中学を出た ばかりの頼りない少年だったので、先輩もわかりやすく技術を教えてく れたのだと思います。とはいえ、肉体労働者の世界ですから、そんなに お上品な教え方ではありません。うっかりしたことをすると、スパイキ で頭をこづかれたりするのは、日常茶飯事でした(笑)」  ここで登場した「スパイキ」という工具は、先端に向かって尖った金 属棒のことで、ワイヤロープの手編み加工職人は、これ1本でロープの 端末にアイ(輪っか)をつくっていく。  当然のことながら、ロープが太くなればスパイキのサイズも大きくな スパイキ 繊維心 鋼心 印糸 ストランド 素線
  • 17. 28 29 第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代 かかる最大荷重の4倍の安全率があればよいとされていて、加工方法 にも法的規制がないのに対し、玉掛索は、安全率6倍以上が求められ、 現在では「クレーン等安全規則第 219 条」及び「労働安全衛生規則第 475 条」で編み込み回数や編み方などが規定されている。  玉掛索や台付索の端末加工には、大別して2種類の加工方法がある。 楕円状のアルミ素管をプレス機で圧縮して2本のロープを固定するロッ ク加工と、ほどいたロープのストランドを手作業で編み込んでいくアイ スプライス加工の2種類である。  手編み加工の「アイスプライス」の語源は【eye splice】であり、ス プライス(=ロープの端を解いて撚り継ぎをすること)によってアイ(= 縄・綱などの端の小環)をつくるという意味である。端末の輪が目のよ 【端末加工の種類】 スプライス (編み込み) ロック シングル ロック マルチ ロック ソケット 溶断 加工 ベケット 加工 クリップ 止め くさび 止め アイスプライス加工 ロック加工  ワイヤロープは、クレーンなどで重量物を吊り上げて運ぶ、物を固定 するといった一般的な用途のほかに、エレベータ、索道、送電線、橋梁、 林業・水産業といったさまざまな産業分野で、なくてはならない工業製 品である。そのためワイヤロープは一般に、“ 産業の命綱 ” と呼ばれて いる。  当然のことながらワイヤロープは、工場から出荷された1本綱の状態 のままでは使用できない。重量物を吊り上げたり、引っ張ったり、固定 するなどの用途に応じて、適切な端末加工が必要になる。  ワイヤロープ加工が発達した現在 では、端末の種類は大別するだけで も 10 種類以上もあるのだが、なかで も最もポピュラーな加工法が、重量 物などを吊り上げる時に用いる、「ア イ」と呼ばれる輪っか状に加工した 「玉 たまかけさく 掛索」である。  「玉掛け」は、クレーンなどに重量 物を掛け外しする作業のことで、法 令上の正式な専門用語となってい る。この玉掛け用の端末加工が施さ れたワイヤロープのことを、一般に 玉 たまかけさく 掛索と呼ぶ。  物を吊り上げるのに使う玉掛索に 対して、物を固定する時に使うワイ ヤロープは「台 だいづけさく 付索」と呼ばれ、手 編み加工する際の差し回数、差し方 がクレーン等安全規則でも明確に区 別されている。台付索は、ロープに 玉掛索 アイ
  • 18. 30 31 第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代  東京製綱が、ロープ径 65mm から 180mm の太径ワイヤロープの ロック加工技術を確立させるのは、それから 20 年余り後の 1980(昭 和 55)年のことなので、和郎がロープ加工職人としての修行を開始し た昭和 30 年代は、まさに職人による手編み加工の全盛期であったわけ だ。  和郎がこの世界に入ったばかりの頃の大阪市内では、製品需要の多い ワイヤロープを販売する業者は多数存在したが、ロープ端末の加工専 業で営業している事業者は、原鋼業のほかにはあと1社あるだけだった。 それだけに製品加工の発注は、毎日山のように集まってきた。  量産のきくロック加工はまだ普及していないにもかかわらず、昭和 30 年代の日本は高度経済成長期に入っていて、“ 産業の命綱 ” と呼ば れるワイヤロープの需要は、「作れば売れる」と言われたくらいあった。 つまり腕の良い職人を多数抱えて、大量の注文を短納期でさばける販 売店や加工工場が、市場で優位性を発揮できる時代だったのである。  鼻のきく若手経営者であった原鋼業の原社長は、常時 20 人以上の工 員を雇い、大量の注文をこなせる加工能力を確立させ、その生産力を 武器にして売上を伸ばしていた。15 歳だった和郎は、そんな活気にあ ふれたワイヤロープ加工会社に、見習い職工として入社したのだった。 うに見えるところから、英語でも「eye」という単語があてられている。  和郎が原鋼業に入社した当時、日本のワイヤロープ業界は直径9mm から 16mm 程度の細いロープが主流で、直径 50mm を超えるような太 径ロープは、ごく限られた需要しかなかった。  端末加工の技術も、職人による手編み加工が存在するだけで、強力 なプレス機でアルミの素管(クランプ管)を締め付けて一気に圧着固定 するロック加工は、この頃はまだ日本では普及していなかった。  ロック加工は 1944(昭和 19)年に、ドイツ人のハンス・マイゼン(Hans Meisen)によって発明された。マイゼンは翌年、この加工技術を「タルリッ ト(TALURIT)」という名称で、ヨーロッパ市場に向けて売り出した。  タルリット社では、この加工方法を英語で、「mechanical splicing of wire ropes」と表現している。すなわち「ワイヤロープの機械的な接続」 という意味で、それ以前の手編み加工とは一線を画する画期的な技術 であることが強調されている。  日本では、国内最古・最大手のワイヤロープメーカー東京製綱が、タ ルリット社と技術提携をして特許権の譲渡を受け、「トヨロック」の商 品名のもとに加工販売を開始。1957(昭和 32)年頃にようやく実用化 し始めたばかりであった。 原鋼業時代の中村和郎(18歳 1960年)
  • 19. 32 33 第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代 の半分程度の体重の少年が担ぐのである。最初のうちは持ち上げるこ とさえできなかったが、それでも和郎は、「これができなければロー プ加工職人にはなれない」という強い決意のもと、歯を食いしばって 約 100㎏の重量に慣れていった。  当時のワイヤロープは形状安定性が悪く、端末のストランドや素線 がばらけたり、素線が断線(切断)しているものも珍しくなかった。 ばらけたり、断線したワイヤロープを手でつかむと針金の先が突き刺 さるが、和郎たちはこういう状態のロープ束を担いで運ぶのである。 慣れないうちは、両腕がすぐに生傷だらけになって血がにじんだ。  今の労働基準でいえば、このような劣悪な労働環境は改善されてし かるべきだが、戦後復興期から高度経済成長時代にかけて、日本の労 働者にとってはこれくらいのことは何ほどのこともなかった。日本人 全員が老若男女を問わず、敗戦で焼土となった国を再建すべく、汗ま みれになって働いていた時代である。和郎も「生傷くらい、慣れたら 平気だ」という根性で、黙々と仕事を続けた。 「100㎏近いワイヤロープを担いで運ぶのは、確かにきつかったので すが、自分とたいそう歳も変わらない、同じような小柄な少年が泣き 言も言わずに仕事をこなしているのを見ると、『よし、ぼくも負けら れない!』という意地がわいてきて、死に物狂いで頑張ることができ ました。負けられないという強い気持ちがあると、不思議なことに自 然と身体も強く、頑丈になっていきました」  見習い職工の仕事はこれだけではない。和郎が、加工場でまずやら された作業は、ロープ端末の「糸巻き」であった。  当時のワイヤロープはばらけやすく、切断したとたんストランドや 素線が反発してばらけてしまうような扱いにくいものであった。ちな みに、現在のワイヤロープは、ロープのストランドや素線にあらかじ めくせ付けして、ロープの反発力を少なくする「形付け」という加工 意地でも負けられない!死に物狂いで頑張った修行時代  和郎が入社した当時、原鋼業が加工していたワイヤロープの主力 製品は、この当時4号ロープ(6× 24)と呼ばれていた直径 12mm の定尺商品であった。このロープは安全使用荷重が約1tと憶えやす く、昭和 30 年代当時、町工場や工事現場、荷役作業現場などで物を 吊り上げたり、荷台に物を固定したりするのにちょうど良い強さと柔 らかさ、そして手頃な価格を兼ね備えたスタンダードなワイヤロープ であった。  直径 12mm のワイヤロープを手にとってみても、それほど重量は 感じないが、これが原材料としてドラム巻や丸物(200 m)になって 入荷してきた時には、恐ろしい重さ になった。  4号ロープ(6× 24)はこの当時、 「一丸 ( ひとまる )」と呼ばれる一束 200 mのコイル巻き状態で取り引き されており、流通単位の重量は 200 mの場合、約 100㎏もあった。今の ようにクレーンやフォークリフトがな い時代、トラックに積載されて工場 に到着した一丸のワイヤロープを担 いで運ぶのは、見習工である新入り 職工たちの仕事であった。  まだ 15 歳でやせっぽちだった和郎 にとってこの荷役作業は、慣れない うちはかなりきついものであった。な にしろ、約 100㎏のロープ束を、そ 一丸の4号ロープ(約100kg) 4号ロープ(6×24)断面
  • 20. 34 35 第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代 性があり、用途に応じて使い分けるのが原則だが、見習工が最初に手 ほどきを受けるのが、手編み加工の基本中の基本である「丸差し(台 付け)」であった。  前述したように、荷や物を吊り上げる「玉掛索」に対し、荷や物を 固定する「台付索」は、必要とされる安全率が違うので、アイスプラ イス加工の方法が違うのだが、玉掛索が法規として規定されたのは 1976(昭和 51)年からのことで、和郎が見習工を始めた時代には、 玉掛索も台付索も加工法に区別はなかった。  現在では、「台付索」の編み方は、一般的にはワイヤロープの全て のストランドを丸差しで5回編込み、半差しの部分がないものをいう。 「玉掛策」と「台付策」の違い が施された「不反発性ロープ」になっている。  おかげでロープを切断してもばらけないのだが、昭和 30 年代のワ イヤロープはよくばらけた。そこで新入り工員の仕事となっていたの が、ばらけたストランドの端末をタコ糸できつく縛ってまとめること であった。  ロープ端末がばらけていると編み込み作業ができないので、作業が 始まる前にその日の加工分の糸巻きを済ませておくのが、新人工員た ちの重要な役割である。ただし、相手は鋼の素線なので、生半可な巻 き方では反発が収まらない。指にタコ糸が食い込むくらい力を加えて、 やっと糸巻き作業は完了する。  最初の頃は、皮膚が柔らかいので、指の腹に血がにじんで痛みを感 じるほどだったのが、そのうちに皮膚が硬くなってきて、次第に痛み もなくなってくる。来る日も来る日も、糸巻き作業を続けていた和郎は、 ある日ふと自分の指を見て愕然とした。人差し指の腹に、何かで切り 込んだような深い溝ができているのである。  よく見ると、タコ糸を引き絞る時にいつも力を入れている部分だ。 すでに皮膚がカチカチに硬くなっていて、作業をしていてもなんの痛 みも感じないのだが、ぱっと見ると、まるで指が半分切れているよう に見える。  和郎は、「こんな指になってしまって…」と呆然としながらも、「こ れでやっとロープ加工職人らしくなってきたな」と、誇らしく思う自 分がいるのを感じていた。  15 歳の少年にとっては、つらく厳しい下積み生活だが、それでも 和郎にとっては、仕事を覚えていくのが何より楽しい時期でもあった。 下積み仕事をこなしつつ、本職の手編み加工でも和郎は、少しでも早 く先輩たちに追いつこうという意気込みで、毎日の作業に取り組んだ。 ひとくちに手編み加工といっても、加工方法にはいくつかの種類と特
  • 21. 36 37 第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代 きあがらなかった。  それでも辛抱強く、頑張り屋の和郎は、次第に作業のコツをつかめ るようになり、数ヶ月後には、商品として出荷できるワイヤロープを つくれるようになっていった。 この修行時代を振り返って和郎は、「それほど難しい技術ではないの で、ちょっと頑張れば誰にでも覚えられる仕事」と謙遜まじりに述懐 しているが、あまりの辛さに脱落して、辞めていく工員が少なくなかっ たのも事実だ。気が付くと、同期で入社した同じ年頃の工員も何人か、 姿を消していた。  つらい下積み時代を乗り越え、くじけることなくワイヤロープ加工 の仕事を続けられた理由をたずねると、和郎はこう答えてくれた。 「人間の心は弱いものですから、少しでも気弱になったらだめになり ます。だから、一瞬でもつらい、しんどいと思ったら負けだと、いつ も自分に言い聞かせていました。同じ年頃の工員で、いろいろと職を 変える人もいましたが、人間は、何かひとつのことをやりきってこそ、 その先に未来が開けるもの。その信念に従い、『自分にはこれしかない』 と思い定めて、一心に働き続けたのです。ロープ加工は、辛抱さえあ れば誰でもできる仕事。でも今の若者たちは辛抱が続かないから、そ の前に辞めてしまう。何事も、辛抱なしに大成はあり得ないのですけ どね」  仕事となると、驚くほどの集中力を発揮する和郎は、入社して1年 も経つと、一人前のワイヤロープの手編み加工職人として、日々の仕 事をこなすようになっていた。  この頃、4号ロープ(6× 24)加工の手間賃は、1本編んで数十 円の時代だった。そこで目標としたのが、「1日 100 本編める職人に なろう」というものだった。100 本も編めば数千円の売上になるので、 会社としても万々歳だが、さすがにそこまで手の早い職人は数少な 一方の「玉掛索」は、 半差し及び編み込み 回数が法規で規定 されていて、ワイヤ ロープの全てのスト ランドを3回以上丸 差しで編み込み後、各々のストランドの素線の半数を切り、残りの素 線をさらに2回以上半差しで編み込み、計5回以上編み込むものとす るとなっている。  作業としては、半差し加工が加わるよりも、丸差し5回で一気に済 む編み方の方が簡単でスピーディにできる。そのためこの時代には、 より手早く編める「丸差し」で編んだアイで、荷物の固定から吊り上 げまで、全部の仕事をこなしていたのである。  和郎が手ほどきを受けた「丸差し」の編み方は、今も昔も同じもの である。まず、「アイ」と呼ばれる輪っかの部分の適正なサイズを確 保した後、ロープ本体の編み込み部分にスパイキで隙間をつくりなが ら、ばらしたロープ端末のストランドを、その隙間に差していくので ある。これが「口入れ」と呼ばれる最初の編み込み作業だ。  ワイヤロープの編込み加工で最も重要なポイントは、1本目の口入 れにどのストランドを選定するかである。このストランドを間違えて しまうと、アイの口元がゆるんだり、ねじれたりして見た目が悪くなり、 その結果強度も弱くなってしまうからだ。先輩工員からは、「無理な くすっと入るストランドを選べ」と教えられるのだが、初心者の和郎 には、どれも同じに見えてかいもく見当がつかない。  また、差し込んだストランドを隙間のないように編み込んでいくの も、なかなかうまくいかず、修行開始当初は、ガバガバで締りがなく、 加工部分の長さも先輩のものよりも2、3割長い不細工な製品しかで 半差し 外層素線 内層素線 ストランド
  • 22. 38 39 第 1 章 中村和郎の生い立ちと10 代の修行時代 かった。  原鋼業に入社した当時の和郎の給料は、月 3,000 円であった。兄 の繁によれば、「大阪の市電が9円、銭湯も9円の時代だったから、 10 代にしてはいい給料だった」と記憶している。  母親思いの繁は、徹夜仕事で得た 15,000 円の月給の半分を、実家 に仕送りする孝行息子で、和郎にも「月給から 500 円まわしなさい、 自分の分と一緒にして仕送りしてあげるから」と盛んにすすめていた のだが、和郎はついぞ兄の言うことをきくことはなかった。なぜなら この当時の和郎は、「パチンコに熱中していて、いつも金欠だったから」 と本人も苦笑しつつ白状している。  こんなふうに 10 代の頃は、親孝行のことなど気にもかけなかった 和郎だが、母のミサヲが 60 代半ばになった頃、祖母のシオを介護す るため郷里の加世田に帰りたがっているのを見て、加世田に自宅を新 築してプレゼントするというビッグな親孝行をはたしている。郷里に 戻った母を気遣って和郎が電話をすると、きまってミサヲは、「毎日 がホテル暮らしみたいに快適だよ」と喜んでくれたという。  母親が逝去したあとの家は、現在では、親族の誰もが里帰りをした 時に気軽に利用できる宿泊拠点として利用されている。いわば、中村 家の心のふるさととして、ファミリーをしっかりと結びつける絆の役 割を果たしているのである。  だがもちろん、この当時の和郎は、そんな未来が待っていることを 知る由もない、まだまだ駆け出しのワイヤロープ加工職人にすぎな かった。 てかげん すんなよ ウ〜! 先輩達のおか げで技術も体 力もグングン つきましたね がんばれ 中村! オイオイ どうした 和郎 人間は、何かひとつ のことをやりきって こそその先に未来が 開けるんや 絶対にやり通すぞ! 目標は 一日百本の ワイヤロープ加工や
  • 24. 43 第 2 章 職人として独立し長屋の一室で個人営業を開始  前章では、ワイヤロープについて、製品特性や加工法の概要などを 記述したが、ここで大阪とワイヤロープの関係についても、少し説明 を加えておきたい。  まず、日本におけるワイヤロープの歴史だが、幕末の横須賀にあっ た海軍工 こうしょう 廠で、フランスの技術を導入して、麻ロープの製造が始まっ たのがきっかけであった。工場はその後、渋沢栄一らが設立した東京 製綱に払い下げられ、技術研究を重ねた末、同社は 1897(明治 30) 年に東京深川に鋼索工場を設立し、国内初のワイヤロープ製造を開 始した。これが、日本のワイヤロープ製造の嚆 こ う し 矢とされている。  一方、大阪では 1909(明治 42)年にワイヤロープ工場が設立され、 その後、大正年間に入って生産が本格化したと、大阪府がまとめた産 業資料には記録されている。大阪府下でも、ワイヤロープ工場の一大 集積地となったのが、貝塚市をはじめとする泉州地域であった。その 理由は物流面にあった。  ワイヤロープの材料は鉄線ではなく、鉄に炭素を化合させた炭素鋼 が一般に用いられるのだが、この炭素鋼は関西では、昭和初期に神戸 の製鉄所で生産がはじまり、陸上輸送は未発達だったため、海上輸送 で岸和田港に運ばれていた。その結果、材料の調達が便利な泉州地 域に、ワイヤロープ工場が集積することになったのだ。  また、第二次世界大戦の空襲によって、大阪市内に存在したワイ ヤロープ工場の多くが焼失したことも、泉州地域にワイヤロープメー カーが集積する要因となった。戦災を契機に、本社や工場を大阪市内 から、泉州地域に移転した企業は少なくない。 ワイヤロープの一大産地だった大阪泉州地域 中村和郎(17歳 1959年)
  • 25. 44 45 原鋼業が突然の倒産  原鋼業に入社した1年後の 1958(昭和 33)年、ワイヤロープ加 工職人としてのひと通りの技量を身につけた和郎は、4号ロープ(6 × 24)1本の丸差しを5、6分もあれば編めるようになっていた。  この年、原鋼業の社屋前で、従業員が勢揃いした記念撮影写真が 1枚残されている。当時、人気があった吉本興業の漫才コンビ「秋 田Aスケ・Bスケ」(写真前列左端がAスケで3人目がBスケ)が取 材のために原鋼業に来社し、記念に従業員と一緒に撮影したものだ。 総勢 18 名が居並ぶなか、16 歳当時の和郎は若手社員らしく、最後 列左端の方で緊張した面持ちでカメラを見つめている。  工場の壁面には、「ワイヤロープ切売加工」という看板文字が見え、 写真左にはロープ径 30mm 前後はありそうなワイヤロープの姿も見 第 2 章 職人として独立し長屋の一室で個人営業を開始 このような歴史を背景にして戦後、泉州地域のワイヤロープ製造業は 活況を呈した。1960(昭和 35)年に結成された大阪鋼線鋼索連合会 は、結成時の会員企業数が 70 社であったが、その数は年々増加し、 1975(昭和 50)年には会員企業数 213 社を数えるに至った。  この年をピークにして、大阪のワイヤロープ製造業は衰退をたどる のだが、和郎が原鋼業に入社した 1957(昭和 32)年頃というと、ま さにこれから業界がピークへ向かおうとする、右肩上がりの時代で あった。これに高度経済成長という時代性が重なっていただけに、ワ イヤロープ加工の仕事は、いくらでもあるという黄金期だったのだ。 原鋼業の社員旅行(2列目一番左が和郎 1959年) 原鋼業前にて 秋田Aスケ・Bスケと記念写真(1959年)
  • 26. 46 47 真の運転免許試験場に行って、10 トン車まで運転できる大型免許を 取得した。大きな声ではいえないが、郷里に帰省するたびにこっそり と車の運転を練習していたので、「実技は楽勝」という腕前だったそ うだ。  原鋼業に入社して4年目の 1961(昭和 36)年、19 歳になり技術 と体力を身につけた和郎は、ロープ加工職人としての自信もつき、日々 の仕事をばりばりこなしていた。順風満帆、これからもっと高度な技 術を修得していこうと張り切っていた矢先、「原鋼業倒産」の報が従 業員にもたらされた。工場で働く従業員は皆、一様に我が耳を疑うし かなかった。  日々の仕事量はこなしきれないほどあり、倒産の知らせがあった今 も、工場にはお得意さんが、完成品を引き取りにきているのだ。そん な忙しい会社がなぜ、倒産しなければならないのか?和郎には、わけ がわからないことだらけだった。  いったい会社に何が起こっているのか、状況を知りたい従業員たち は、社長の姿を探すのだが、どこへ消えたのか行方が知れない。事務 所にいた番頭役の専務を問い詰めてみると、驚きの事実が判明した。 原鋼業は、事業そのものは順調だったのだが、社長の放漫経営が原 因で、つねに自転車操業の状態だったのだという。それを聞いて和郎 にも、思い当たるふしがあった。  原鋼業の社長は、和郎と 10 歳くらいしか年齢が違わない 20 代の やり手経営者で、とにかく派手好き遊び好きであった。社員旅行で東 京へ出かけるのにも、全社員を飛行機で連れていく豪遊ぶりで、毎日 のようにお客さんや友人・知人を引き連れて飲み歩き、会社の金を湯 水のごとく使っていた。お目付け役の専務が、なんとか綱渡り状態の 資金繰りを続けていたのだが、ここにきてついに不渡手形を出してし まい、万事が休したというわけだった。 第 2 章 職人として独立し長屋の一室で個人営業を開始 えているので、かなり太径のロープ加工も受注していたようだ。写真 右には、ひと巻き 1,000 mの木製ドラムがあり、「川崎製鉄千葉製鉄所」 の文字が見え、写真左の方には最大手の東京製綱のドラムもあるの で、相当手広く取引をしていたことがうかがえる。  ちなみにこの写真が撮られた 1958(昭和 33)年は、インスタント ラーメンの元祖、日清食品の「チキンラーメン」が発売された年でも あり、和郎はその思い出とともに、この記念撮影のことをよく憶えて いた。 「料理のできない男やもめにとって、インスタントラーメンの登場ほ どうれしいものはなかった。当時、社員寮に下宿していた連中は、チ キンラーメンを主食のようにして食ってましたよ(笑)。私もチキン ラーメンで育ったようなもんです。あれだけ食ってきたのに、今でも たまに、無性に食べたくなるときがあります。私は、生卵を乗せて食 べるのが大好きです」  翌 1959(昭和 34)年には皇太子様がご成婚、1960(昭和 35) 年には国民所得倍増計画が閣議決定され、日本は高度経済成長時代 を突き進んでいた。18 歳になった和郎は、待ちかねていたように門 ウハ! ウメー パチンコに負けて お金がなかった ですから、チキン ラーメンには、お 世話になりました
  • 27. 48 49 現在の藤井組 第 2 章 職人として独立し長屋の一室で個人営業を開始 数々の施行実績を誇る藤井組は、 この当時、法人を設立する数年 前で、日の出の勢いで業容を拡 大させている最中であった。元 同僚から、「わしがクレーンの運 転をするから、中村は助手をし てくれ」と言われた和郎は、藤 井組に転職することにした。  この当時の藤井組は、河川・運河・港湾での土木工事や浚 しゅんせつ 渫工事 が多く、早朝からさまざまな現場でクレーン作業の仕事に入っていた。   しかし、朝早いのが苦手な和郎は、現場入りの時刻になっても、寝 坊で遅刻することが度々あり、業を煮やしたオーナーが、毎朝四軒長 屋にやってきて、和郎を叩き起こすようになった。 「おはようさん、中村くん、もう朝やで。はよ起きて、現場に行きや! 遅刻ばっかりしとったら、給料減らすで」  こんなぐうたらした社員を、首にもせずに使い続けてくれた会社も 偉いが、そこまで面倒をみてもらえる和郎の憎めない人柄にも驚かさ れる。和郎本人は当時を振り返って、「朝から夜遅くまで、いろんな 仕事をしていたから、いつも睡眠不足だった」と語っている。  藤井組の現場仕事がない時には、自家用車を利用して、住之江競 艇の周辺で白タク営業をすることもあれば、ワイヤロープ加工の下請 仕事をこなす日もあった。「明日までに仕上げてほしい」と頼まれれば、 徹夜をしてでも加工の仕事をこなしていたので、朝起きるのがつらい 日が多かったのだ。  そんな和郎の、ワイヤロープ加工の確かな腕を見込んで、よく下 請仕事を発注していた取引先の一社に岡 お か そ 聰があった。  会社の倒産、社長の夜逃げ、専務の自殺と混乱を極めた原鋼業の 工場には、集まる従業員の姿も次第に少なくなっていった。会社が再 生する望みがない以上、一介の労働者としては次の仕事を探すのが、 食べていくための最善の道である。和郎も、どうしたものかと思案に くれていた。  そんな矢先に、元同僚だった男から「藤井組で働かないか」と転 職の誘いが入った。土木基礎工事のプロフェッショナル企業として、 土木基礎工事の藤井組に転職 現在の原鋼業跡地にて(2014年7月撮影)  いち早く倒産を察知した社長は、付き合っていた女性を連れてどこ かへ雲隠れしてしまい、頼みの専務は、押し寄せる債権者やお得意 さんをなだめるのに精一杯という状況である。自分たちの人生がどう なるのか、仕事もできず待機しているしかない和郎をはじめとする従 業員は皆、途方にくれた。  数日後、事態は収束 するどころか、悪化の一 途をたどっていく。連日 債権者に囲まれて吊し 上げ状態が続いていた 専務が、精神的に追い 詰められた挙句、気の 毒なことに自殺してし まったのだ。残された 従業員も、ただ茫然自 失するしかなかった。
  • 28. 50 51 は、なんぼでも紹介するで」  藤井組での助手仕事や白タク営業、ワイヤロープ加工の内職と、 どっちつかずの仕事を続けていた和郎は、「やはり、自分の生きる道は、 ワイヤロープ加工しかない」と決心し、吉岡社長の申し出を受けるこ とにした。  こうして和郎は、1963(昭和 38)年 20 歳の時に、独立開業の道 を歩み始めた。  その頃住んでいた姉キリ子の四軒長屋の一室を作業場として使わ せてもらうことにして、同居する母ミサヲ、妹たみ子にも手伝っても らいながら、一人親方の仕事を開始した。自分は寝る間も惜しんで働 くつもりだったので、仕事のちょっとした手伝いや食事、洗濯などの 暮らしのあれこれを、母や妹にサポートしてもらうことにしたのだ。 実際、この時期の和郎は、寸暇を惜しんで注文取りからロープ加工、 完成品の配達までをひとりでこなし、猛烈な勢いで働いていた。母や 姉、妹はそんな和郎を、仕事 場や家庭において、陰になり 日向になり支え続けた。  昭和 30 年代の町工場では、 このようにして家族全員が力 を合わせて家業を支えること は、当たり前の姿であったが、 それでもひとつ、はっきりと言 えることは、現在の中村工業 があるのは、この時代の母や 姉、妹らの献身的な協力があっ たればこそ、という事実である。 母や姉妹だけでなく、長兄の 第 2 章 職人として独立し長屋の一室で個人営業を開始 泉尾の四軒長屋(右から2軒目)  大阪市内では2社しかいないワイヤ ロープの加工専業者だった原鋼業の倒産 により、ロープの販売を手がける多くの 事業者が困り果てていた。そこで原鋼業 で働いていた腕の良い職人たちが加工専 業者として独立し、それらの仕事をこな すようになっていった。ある意味では、 原鋼業から巣立っていった何人かの加工 職人が、その後の大阪のワイヤロープ加工の歴史を築いてきたという ことが言える。  当時、原鋼業をメインの加工依頼先としていた、ワイヤロープ販売 業者の株式会社岡聰もそうした取引先の1社であった。  岡聰の吉岡聰 そうきち 吉社長は、有力な加工業者であった原鋼業を失い、 困り果てていた。ワイヤロープを買いたいお客さんはたくさんいるの に、肝心のロープ加工業者が手薄な状態が続いたままだ。とにかく、 日々の商品が調達できる体制を立て直さなければならない。  そこで吉岡社長は、原鋼業で働いていた腕の良い職人たちに、個 別に加工の仕事を発注することにした。そのひとりが、和郎であった。  ただ和郎は、原鋼業倒産後、藤井組に転職していたので、空いた 時間に内職的に岡聰の仕事をこなすだけで手一杯だった。しかし、岡 聰に集まる注文は年々増えていて、このままでは加工の仕事が間に合 わなくなる。そこで吉岡社長は、原鋼業が倒産して1年余り経った頃、 思い切って和郎に一人親方として独立することを薦めた。 「なあ、中村くん。きみ、独立して一人親方になって、うちに納品す るロープをつくってくれへんか?きみひとり食うていくくらいの仕事 お得意先から独立を薦められて個人営業を開始 吉岡聰吉社長
  • 29. 52 53 値段の風俗史』(朝日新聞社刊)で調べてみると、高卒男子銀行員の 初任給が1万2千円程度、国家公務員上級職が1万 4,200 円であるの で、和郎の2万円という収入は十分、高額所得者のランクに属してい たことがわかる。  独立開業を果たして一気に高給取りの仲間入りを果たした和郎だ が、それほどお金に執着しないのんきな性格から、人に頼まれれば気 前よく貸してやったりするため、貯金が増えるということはなかった。 義理人情に厚く、仲間が困っているのを見ると、返ってこなくてもい いというつもりでまとまった金を渡してしまう性格は、貧乏な青年時 代から変わらない、彼の美徳のひとつであった。 第 2 章 職人として独立し長屋の一室で個人営業を開始 秀一も和郎の独立開業を心から応援して くれた。貯金など持っていない和郎のた めに秀一は、「独立するのなら、配達用の 車が必要やろ」と、中古の軽四トラックを 気前よく買ってくれた。こうして、なんと かワイヤロープ加工の仕事をこなす体制 も整い、和郎は岡聰の仕事を請け負うよ うになった。  和郎は後年、「岡聰の吉岡社長と出会っ て、商売や仕事に対する姿勢が変わった。私が伸びていくきっかけを 与えてくれた恩人のひとりです」と語っている。  その言葉通り、吉岡社長の教えを和郎は今でもよく憶えている。そ のひとつは、「人にはやさしく、自分には厳しい人間になれ。人の倍 働くなんて当たり前や。人の3倍くらい働く根性がなかったら大成せ ん」というものだ。  和郎はこの言葉を肝に銘じて、日々の仕事に打ち込んだ。1日では 捌ききれないほどの注文が来ても、音を上げることなく、徹夜をして でも納期を守る仕事を続けた。そんな努力は評判となって顧客層の 間に次第に広まり、「困った時には中村さんに頼んだら、なんとか間 に合わせてくれる」という評価が定着していった。  和郎は独立開業当時のことを次のように語っている。 「4号ロープ(6× 24)の台付け(丸差し)を中心に毎日、必死になっ て仕事をこなしました。それまでの給料は、いくら働いても月5千円 でしたが、独立したら月に2万円くらいの収入が手元に残るようにな りました。雇われ職人時代と違って、やればやった分だけ報われるの がうれしくて、それで余計に一生懸命に働くようになりました」  和郎が独立した 1961(昭和 36)年当時の社会人の月額給与を、『新・ 兄 中村秀一 絶対に やり通すぞ! 中村和郎 青春真っただ中 21 歳 独立開業
  • 31. 56 57 第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更  一人親方として独立して3年も経つと、腕の良い職人に成長した和 郎のもとには、ひとりではこなせないほどの注文が集まるようになっ ていた。加工済みのワイヤロープや未加工のワイヤロープが、長屋 の仕事場に山積みになり、このままでは作業もままならない状態であ る。  おりしも日本国内では、東海道新幹線の開業や東京オリンピックの 開催などで、国内景気がピークを迎えていた。大阪でもワイヤロープ 加工の仕事は、うなぎ登りで増加を続けており、「このチャンスを逃 す手はない」と和郎は感じていた。 「よし、作業場を移転して、従業員も雇い、もっとたくさんの仕事を こなせるようにしよう」  そう決心した和郎は、大正区内で手頃な物件を求めて不動産屋を 歩き、大正区千島に、小さな平屋の建物を見つけた。千島は木津川 と大正通にはさまれたエリアで、昔から町工場が集積している地域だ。 建物の中を見学すると、6畳ほどの作業場があった。太径のワイヤロー プを加工するには手 狭だが、建物の前は トラックを横付けで きる道路に面してい て荷役作業には便利 そうだ。本当は、もっ と広い工場を借りた いのはやまやまだが、 家賃を考えると無理 はできない。 大正区千島で中村鋼業を旗揚げ 創業の地 千島の長屋跡地 中村和郎・久美子 結婚式(1969年1月3日)
  • 32. 58 59 第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更  創業当時の思い出として和郎 の記憶の中に、今も鮮明に残っ ているのは、黒部ダムに行って ワイヤロープ加工をしたことで ある。黒部第4ダムが竣工し たのは創業前年の 1963(昭和 38)年のことで、世紀の難工 事の末に完成した “ クロヨン ” の名は、日本中の誰もが知って いた。  中村鋼業への依頼は、「物資を搬送する立坑用の 2 本のクレーン ロープを 1 本につなげてほしい(ロングスプライス加工)」というも のだった。「ワイヤロープは現地にあるので、加工職人が来てくれれ ばいい」というので和郎は、スパイキと工具を従業員に持たせて、大 阪駅から電車を乗り継ぎ、1日がかりで黒部ダムまで出かけていった。  こと細かい経路は憶えていないのだが、「大町ルート」という言葉 を記憶しているので、長野県側の「信濃大町」駅から現地に向かっ たようだ。「山の中を半日くらいひたすら歩いてたどり着いた」とい う現場で、立坑の下をのぞくと「見たこともない巨大なトラックが停 車していた」という。そこで、加工するワイヤロープを渡され、指示 通りの寸法でロングスプライスを手編みしていった。  作業事態は、いつもやっている手慣れたことなので、数時間もかか らずに仕上げてしまい、現地の作業員たちをうならせて仕事を終えた。 その日は現地に宿泊し、翌日また1日かけて大阪に戻った時にはくた くたに疲れきっていた。 黒部ダム 黒部ダムの立坑でロープ加工をした思い出も「とりあえず、ここから始めるか!」と決心した和郎は、この物件を借 り受けて、『中村鋼業』を旗揚げすることにした。1964(昭和 39)年、 中村和郎 21 歳の夏のことだった。  はじめて大阪にやってきた当初、15 歳のやせっぽちの少年だった 和郎も、7年経った今では、楽々とひと丸のワイヤロープを担げる、 筋肉たくましい青年に成長していた。  さっそく和郎は、ロープ加工職人として従業員数名を雇い入れ、基 本的な「丸差し」の編み方を伝授して、加工作業をスタートさせた。 加工場の壁面に『中村鋼業』の商号を掲げ、いよいよ工場経営の道 を歩み始める覚悟を決めた。  2014(平成 26)年が現在の中村工業株式会社の創業 50 周年にあ たるのは、この 1964(昭和 39)年をもって創業年度としているから である。  幸い、和郎が雇い入れた従業員は皆、よく働く男たちであった。和 郎より年下の若者もいれば、ヤクザ上がりの男もいるというでこぼこ ぶりだったが、「みんな親方よりもうまくなろうという意欲を持った連 中だった」。  岡聰をはじめとして、常時仕事を発注してくれる得意先も増え、こ なせる仕事量は一気に2倍以上に増えていった。これも、思い切って 従業員を雇用したおかげである。 「さあ、ここからが勝負だ!」  青雲の志を抱いて起業した和郎の胸のなかは、「これからどんどん 工場を大きくしていき、日本一の会社にしてみせるぞ」という決意が みなぎっていた。
  • 33. 60 61  中村鋼業の創業から3年も経つと、安定して注文を出してくれる得 意先が増えていった。当時の得意先は、岡聰、大綱商事(現 大綱)、 藤井組、コンドーテック、内外製綱(現 ナロック)などで、大手のメー カーが発注をもちかけてくることもあったが、固定客の注文をさばく だけで手一杯だったため、断ってしまうこともたびたびであった。  従業員の腕も上がり、中村鋼業の生産性は年々向上していた。その ためさらに仕事量が増えていき、6畳しかない加工場だけでは足りず、 作業スペースを求めて道路に出て加工をする従業員の姿が日常的に なっていた。  自社工場の前とはいえ、公道を私用するのはほめられたことではない し、近所の人たちにも迷惑になる。ここは思い切って、広い工場に移転 しようと和郎は決心をした。  不動産屋をたずねて歩くと、大正区の平尾に 30 坪ほどの工場が売 りに出ているという。売値は土地・建物付きで 3,100 万円だった。平 尾は千島の南側に隣接する地域で、土地勘もあるし引っ越しも楽だ。 何より加工スペースが 30 坪もとれるのは、大きな魅力だった。 「ここを製造拠点にすれば、念願の太径ロープの仕事もどんどん受注 することができるぞ」  そう考えると、どうしてもこの物件を手に入れたい気持ちで、和郎 の頭の中はいっぱいになった。 「なんとかして 3,100 万円を用意して、あの工場を手に入れたい」  当時、メインバンクとして取引をしていた住友銀行に融資の相談を すると、「取引実績もない相手にいきなり3千万円もの融資はできな い」と、にべもなく断られてしまった。すっかり意気消沈した和郎は、 取引先の1社だった大綱商事株式会社の正田武弘社長に、ため息まじ 業容拡大にともない大正区平尾へ移転 第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更  たった数時間程度の作業のためにまる2日もかけた、くたびれ儲け の仕事だったが、たとえ小さいながらも自分が納めたワイヤロープが、 世紀の大事業を陰で支えているのかと思うと、少し誇らしげな気持ち もわいてきた。それと同時に、ワイヤロープ加工という仕事が、社会 に役立つ立派な職業なのだという実感も得ることができた、貴重な体 験となった。  このような出張加工の依頼は、その後もよく和郎のもとに舞い込ん できた。有名なところでは、1970(昭和 45)年の大阪万博があげら れる。和郎はカナダ館での出張加工を依頼され、材木を吊るワイヤ ロープを現地で加工した。カナダ館は、外観全面がミラーで覆われた、 万博会場の中でもひときわ目立つ外国館であった。  1997(平成9)年に完成した大阪ドームでも出張加工の依頼を受け、 ドームの屋根を吊り上げるワイヤロープを現地で加工している。また、 2001(平成 13)年に開園したユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ) では、オープン当初最も人気を博したアトラクションのひとつ「ジョー ズ」のボートで使用するワイヤロープの現地加工を行ったこともある。 大阪市内でワイヤロープ加工を専業とする企業として信頼される中 村工業には、こうした記憶に残るビッグプロジェクトや大規模事業に おける出張加工の仕事を、数多くこなしてきた歴史がある。 カナダ館(大阪万博) 大阪ドーム USJ
  • 34. 62 63 ことになったので、最終的に平尾時代の工場の敷地面積は、当初の2 倍ほどになった。  新工場への移転と同時に、心機一転して営業を開始しようと、商号 を「中村鋼業」から『中村工業』に変更。従業員も総勢 10 名程度に 増やし、生産能力は千島時代の2倍以上に強化され、取引先にも大い に喜ばれることになった。  ちなみにこの移転から1ヵ月後に知り合った相互信用金庫が、3,100 万円の融資を快く引き受けてくれたので、正田社長に借りた資金を、 わずか1ヵ月で返済をすることができたのも幸運であった。  大正区平尾に新工場を開設した翌年の 1968(昭和 43)年5月、 和郎は、300万円の資金を投じて泉陽製の300tプレス機を購入した。 「本格的にロック加工を始めよう」というねらいがあったからだ。 ロック加工(圧着加工)とは、強力なプレス機を使ってアルミ製など の素管(クランプ管)を圧縮することで、ワイヤロープ同士を接続固 定して端末を一気につくる加工法のことだが、ワイヤロープ加工の一 大産地であった大阪でも、昭和 40 年代にロック加工ができる事業者 はまだ少なかった。まして、中小零細の販 売店が集積する大阪では、何百万円もか けてロック加工を始めようという事業者は まだいなかった。  それだけに和郎の周囲にも、設備投資 に不安を持つ者がいないわけではなかっ た。特に、和郎の6歳年上の兄、孝雄は 猛反対をした。この時期、いずれ鹿児島 300tプレス機を購入し本格的なロック加工に参入 第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更 300tプレス機 りに銀行から融資を断られた一件を 話していた。  大綱商事の正田社長が「中村くん、 その金、何に使うんや?」とたずね るので、30 坪の広さがある工場が 売りに出されていることを説明した。 話を聞き終えた社長は、ぽんと胸を たたいてこう言った。 「よっしゃ、事情はようわかった、中 村くん。そのお金、私が用立ててあ げる。担保もいらん」 「ええ!?本当ですか!正田さん。そ うしてもらえたら、ほんとに助かり ます。長年の夢だった、太径ロープ も加工できるようになるし、会社をもっと大きくできます」 「そのかわり、ひとつ条件がある」と正田社長は念を押した。無担保 で資金を融資する代わりに、大綱商事の仕事を最優先で引き受けて ほしいというのだ。  ワイヤロープ問屋として大阪でトップグループを走っている大綱商 事にとって、たしかな仕事をしてくれる加工職人は何人でも確保して おきたい。近い将来、ワイヤロープ屋から商社へと脱皮していくため にも、中村鋼業にはもっと力をつけてほしいというのだ。  そこまで自分に目をかけてくれる正田社長に感謝をすると同時に、 和郎はこの申し出をありがたく受けた。  かくして和郎は、大正区平尾に広さ 30 坪の工場を持つことができ た。6畳1室の加工場で仕事をしていたことを思えば、まるで天国の ような広さである。この後、業容の拡大にともない、隣家も買い取る 平尾工場の跡地(平尾 47 番地) 正田武弘社長
  • 35. 64 65 が、誰でも簡単にできるようになるはずだった。  12mm の4号ロープ(6×24)なら手慣れた職人なら1本、5分程 度で加工することができるが、ロープ径が太くなればなるほど、力の あるベテラン職人でないと加工はできない。24mm ともなれば、中 村工業でもベテランの従業員が、1本 15 分くらいかけてようやく編 み上げる難しさである。  ところがプレス機があれば、機械の操作さえ覚えれば誰でも加工が でき、しかも加工時間は 10 分の1くらいに短縮できて、工場の生産性 は一気に向上する。「プレス機を導入すれば、必ず太径ロープ加工の仕 事が増えるはずだ」というはっきりとした読みが、和郎にはあった。  事実、300tプレス機の導入と同時に、24mm 径のワイヤロープ加 工の仕事が殺到し、「中村工業なら、太径ロープにも素早く対応して くれる」という評判が広まるにつれ、太径ロープの注文は加速度的に 増えていった。和郎の読みは、見事に的中したのだ。  これを契機にして、中村工業の業容は一気に拡大していった。和 郎は、「良い仕事をしていれば、仕事は向こうからやってくる」とい う職人気質でここまでやってきた男だったが、ロック加工を開始して いよいよその信念はかたくなった。 「創業以来、営業をしたことはなかったのですが、仕事が途切れること はありませんでした。ロック加工を始めて、太径ロープの加工を次々に こなすようになると、ますます仕事が向こうからやって来るようにな り、捌ききれないほどになりました。太径ロープ加工ができる業者が限 られていた時代に、いち早くプレス機を導入した効果は絶大でした」  ワイヤロープの端末加工を “ 機械化 ” することの威力を目の当たり にした和郎は、以後、2度にわたってプレス機の増設を図り、日本一 のワイヤロープ加工量を誇る事業者としての礎を築いていった。 第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更 で独立開業するつもりで中村 工業に修行に来ていた兄の孝 雄は、「そんな高い設備を買 うのはやめておけ。手編み加 工だけで十分仕事は回ってい るじゃないか」としきりに反 対をしたのだが、和郎は断固 として購入する意志を曲げな かった。  和郎には、「もっと太径ロー プ加工の受注を増やして業容を拡大していくには、手編み加工だけ では限界がある。設備投資をしてでも、ロック加工のできる事業者に 脱皮しないとこの先の成長はない」という読みがあった。導入を検討 していた 300tプレス機があれば、ロープ径 24mm までの端末加工 知覧特攻平和会館 零戦展示室にて 孝雄・和郎・繁(1995 年) 手編み加工より 生産性の高いロック 加工の導入にどこ よりも早く取り組み ました 次は 600t プレス機や 中村工業創業 300t プレス機導入 一国一城の主に なったがまだ小さい めざすは日本一の ロープ加工屋や!
  • 36. 66 67 「大阪に同年代の友達がいないのは寂しいやろ、うちの妹を紹介する から、休みの日にでも一緒に遊んだらどう?」  それがきっかけとなって、和郎と久美子は急速に親しくなり、顔を 合わせれば普通に会話ができるようになった。もちろん、この時の和 郎の申し出、「妹を紹介する」というのは嘘も方便で、久美子と仲良 くなりたい一心のでまかせだった。後に和郎自身も、「はっきり言って 下心があった」と白状している。  そんな出会いがあってからしばらく後の初夏、久美子のもとに呉市 の実家から、「お母さんが病気になったんじゃ。いっぺん帰っといで」 という連絡が入った。急いで帰省してみると、母が末期の癌であるこ とを知らされ久美子は愕然とした。こうなったからには覚悟を決め、 お母さんの看病を一生懸命しようと久美子は心に誓った。  大阪に残された和郎は、久美子が母の看病のために郷里に戻ったこ とを知り意気消沈する。寝ても覚めても久美子の笑顔ばかりが脳裏を 離れず、「このままでは仕事にならん」と思い知った和郎は、「当たっ て砕けろや、実家に会いに行こう!」と心を決めた。  8月のお盆を待って和郎は、愛車コロナハードトップを駆って一路 広島を目指した。「実家は呉市の音戸大橋の近く」と聞いていたので、 それだけを目標にして、和郎は国道2号線をひたすら西へ進んだ。  やがて音戸大橋の姿を見つけた和郎は、近くの公衆電話に飛び込 み、息せき切って久美子の実家に電話をかけた。驚いたのは久美子 の方である。 「え?中村さん!なんで、うちの実家の電話知っとるん?え?いま、広 島にいるん?どこ、音戸大橋のそば、うそじゃろ?」 「ほんとに広島よ。たまたまこっちの方に来るついでがあったから電 話してみたんや。どう、元気にしとった?お母さんの具合はどうや?」  たまたま呉市までたずねて来る用事など、あるわけがないのだが、 第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更  この頃、和郎は、一人の女性のことが気 になってしかたなかった。仕事をしていて も車を運転していても、その女の子のこと がいつも頭から離れないのだ。和郎は大 阪に出てきて初めて、結婚を考えるほどの 恋をしていた。  相手は、西区あみだ池の大綱商事に隣 接する合板製造会社で、家事手伝いをし ている笑顔のまぶしい女の子、当時 19 歳 だった蝉川久美子であった。  当時の出会いを久美子は、次のように回想している。 「広島県の呉市音戸町から出てきて、親戚である突き板屋さんで家事 手伝いをしながら、お茶やお花を習っていました。その頃、毎日のよ うに家の前に、汚い軽四トラックを駐めて、お隣の大綱商事さんに入っ ていく男性がいました。おばさんはその度に憤慨して、『久美ちゃん、 家の玄関前やから車を駐めないように注意しといて』と言ってました。 それが、主人との最初の出会いです(笑)」  迷惑駐車がきっかけで知り合った2人だが、和郎にとっては、文句 を言われるのも久美子に接触する貴重なチャンスだったので、平気な 顔で軽四トラックを駐め続け、その度に久美子から注意を受けていた。   もっと親しくなりたいと考えた和郎は、久美子がお昼頃、向かいの 公園で親戚の子供たちを遊ばせているのを知り、昼の休憩を装って 公園で彼女に声をかけた。年齢を聞くと、和郎の6歳下の妹たみ子と 同年代である。和郎は一計を案じて、久美子に提案をした。 19 歳の女性に一目惚れして広島までプロポーズに 中村久美子
  • 37. 68 69 恐縮している和郎の手をぎゅっと握りしめた叔母は、豆だらけで分厚 くごつごつとした手を見て、感心した様子でこう言った。 「このひとは、仕事師じゃねえ」  毎日毎日、ワイヤロープを加工する和郎の手は、まだ二十代だとい うのに豆だらけ傷だらけで、年季の入ったベテラン職人のような手の ひらをしていた。久美子の叔母はそれを見て、働き者の真面目な男だ と見抜いたのだ。 「久美ちゃん、この人の手は働き者の手やで。この人と一緒になりゃぁ、 絶対に食いはぐれはないの、私が保証するよ」  それを聞いた親戚の皆が、口々にはやし立てた。 「こがぁな田舎まではるばる訪ねて来て、よほどあんたのことが好き なんで。聞けば、四男坊やのにお母さんの面倒を見てる言うし、その 上、仕事師の手ぇしとる。親孝行でええ人みたいじゃけん、お付き合 いしてみんさい」  人ごとだと思って、親戚や親兄弟までが面白がってけしかけるのを 聞いていて、久美子は少し腹立たしい気持ちになった。しかしそれ以 上に、すっかり親族と打ち解けて、談笑している和郎の姿を見ている と、妙に心が温かくなるのを感じた。  学生時代バレーボールに熱中していた久美子は、結婚するのなら、 背の高いスポーツマンタイプの男性と決めていたのだが、この時か ら、結婚は相手の見てくれだけでするものではないと思うようになっ ていった。  数時間後、大阪へ帰ろうとする和郎を久美子は車まで見送った。和 郎は、「今日はもう疲れたし、広島空港に車を置いて飛行機で大阪ま で帰るわ」と、突拍子もないことを久美子に告げた。 「車はどうする気ぃ?」とたずねた久美子に、和郎は「近いうちにま た取りに来るわ」と言うではないか。「え?なんで、そがぁな手間な 第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更 そこは和郎の飄 ひょうひょう 々としたキャラクターで、久美子もなんとなく煙にま かれてしまった。  そんな2人のやりとりを、そばで聞いていた家族や親戚たちが、俄 然興味を示した。電話を取り次いだ叔母が、「どうも男友達が大阪か らたずねてきたみたいじゃねえ」とつぶやいたのを聞くや、親族一同 の野次馬根性に火がついた。 「久美ちゃん、せっかく大阪から来てくれたんじゃったら、来てもら いんさい。わたしらも挨拶くらいしたいしのぉ」  というやりとりがあって和郎はちゃっかり、久美子の実家に上がり 込むことに成功した。  母親の看病がてら集まっていた、親兄弟や 親戚一同に挨拶を済ませると和郎は、まるで 自分の実家にいるかのようにすっかりリラッ クスしていた。  すると、親戚の中でもリーダー格の叔母が、 「あなたが中村さんかいね、こがいな田舎まで よう来たねえ」と言って、和郎に握手を求めた。 中村久美子 (高校1年生1964年) 中学時代の中村久美子(2列目右から4番目 1962年 )
  • 38. 70 71 第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更  1969(昭和 44)年 1 月3日、27 歳の中村和郎と 20 歳の蝉川久 美子は、大阪難波の高砂殿で結婚式を挙げた。仲人は、大綱商事の 正田武弘社長にお願いをした。  結婚後2人は、和郎の愛車で富士五湖に新婚旅行に出かけ、ドライ ブを楽しんだ。この時のスナップ写真が何枚も残されているが、2人 とも輝くばかりに若く、本当に幸せそうな表情でカメラに向かって微笑 んでいる。おそらく人生で最も幸せな時間のひとつだったのであろう。  旅行を終え大阪に戻ると、仕事場にほど近い大正区内のマンショ ンの2階で、2人は新婚生活を始めた。珠算1級を持っていた久美子 結婚して 3 人の子宝に恵まれることをするん?」という疑問で頭がいっぱいの久美子をよそに、和郎 はいつものマイペースな笑顔を残し、車で去っていった。  どうしてもまた久美子に会いに、広島に来たいと思った和郎が考え ついたのが、この時の『車を残して帰る作戦』である。「こうしておけば、 自然なかたちでまた久美子に会いに来ることができる、なんという名 案であろうか」と和郎は自画自賛していたのだが、久美子が親族一同 にこの話をすると、「そりゃぁ、また久美ちゃんに会いにくるための 口実にきまっとるじゃろ。ほんに中村さんは、久美ちゃんのことが好 きなんじゃけんのぉ」とあっさり見破られてしまった。  皆に言われてみれば、たしかにそのとおりだと久美子は思った。 「マイペースでつかみどころのない人やけど、心から私のことを好い ていてくれてるのはほんまみたいやし、親思いの人に悪い人はいない やろから、お付き合いしてもええかな」  いつの間にか久美子自身も、和郎の一途な気持ちにほだされてい るのを感じていた。  行き当たりばったりで、なんとも計画性のない和郎の行動だが、そ ういうちょっとおちゃめで不器用、純朴なところも、和郎が久美子の親 族に気に入られた理由だった。この実家への突撃訪問をきっかけにし て、和郎は久美子の結婚 相手として親族から認め られるようになった。  その年の冬、久美子 の 母 は 短 い 闘 病 生 活 の末にこの世を去って いった。最愛の母を失っ たことで、久美子は和 郎との結婚を決心する。 久美子の実家で結納(1968年) 新婚旅行 富士五湖(1969年) 中村和郎 久美子 結婚式
  • 39. 72 73 第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更 るしかないと覚悟を決めた和郎は、普段は工場の現場仕事をすること はない妻の久美子にも声をかけ、仕事を手伝ってもらうことにした。 久美子はこの時のことをよく憶えていて、作業の様子を懐かしそうに 語ってくれた。 「平尾時代の工場は 30 坪ほどの広さがあったのですが、13 m角のワ イヤもっこを編むには全然広さが足りません。それで、工場前の道路 で作業をしようとしたのですが、そこでもまだ道幅が狭くてもっこを 広げられないので、50 mくらい先のもっと広い公道まで出ていって、 そこで従業員総出で作業したのを憶えています。普通に自動車が走っ ている道路だったのですが、よくそんなところで作業ができたなと、 今思い返しても驚きです(笑)。でもその時は、なんとか早く仕上げ ないといけないということで、みんな必死で、周りを気にする余裕は なかったと思います。ワイヤもっこづくりは、手間がかかると聞いて ワイヤもっこの作業風景 は、中村工業の経理や事務を手伝うようになり、和郎はこれまで以上 にロープ加工の仕事に集中できるようになった。久美子は当時の結婚 生活を、次のように語っている。 「子育てが始まると、そっちの方に手がとられたので、それほど長く 会社の手伝いをしたわけではありませんが、帳簿や事務など少しは手 伝いました。主人は朝から晩まで、仕事一筋の人でしたが、私は地域 のバレーボールクラブに入って、時間があればバレーを楽しんでいま したね。主人はそれに対して何かいうわけでもなく、自由にやらせて くれました。そういう意味ではおおらかな人ですね」  久美子との結婚が良運を呼んだのか、この頃から中村工業に入って くる仕事の量が増え、依頼される仕事の幅も広がっていった。そんな ある日、巨大なワイヤもっこをつくってほしいという依頼が飛び込ん できた。  ワイヤもっこは、 ワイヤロープを網目 状に編んだもので、 土木現場や荷揚げ作 業などでクレーンに 吊って使用する。吊 り上げる物や荷重、 用途によって、本体 サイズ、網目の大き さ、吊り手綱の形な ど、さまざまな種類があるのだが、この時の依頼は、「縦横 13 mの巨 大なワイヤもっこをつくってほしい」というものだった。  ワイヤもっこを加工すること自体は、それほど難しいものではない のだが、これまで手がけたことがない大きさだけに、人海戦術で当た ママさんバレーリーグ戦
  • 40. 74 75 第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更 にした。長屋を少しリフォーム して住みやすくし、母ミサヲと 妹たみ子と和郎夫婦、それに誕 生したばかりの哲也を加えた一 家5人の暮らしが再開した。以 後、2度ほど引っ越しをしたが、 1982(昭和 57)年に西宮市に 自宅を購入するまでの 10 年余り を中村一家は、“ 大阪のマンハッ タン ” と呼ばれる大正区をスイートホームとして愛した。  長男の哲也は現在、結婚して両親の住まいにほど近い一戸建てに 住んでいるが、子供時分の思い出話を語る時の懐かしそうな笑顔から は、今も大正区の長屋暮らしの時代を、こよなく愛していることがう かがえる。おそらく彼が、物心ついた時の原風景は、大正区の路地で あり、運河を行き交う渡し船だったのであろう。 「私の子供時分は、食卓も質素なもので、肉料理など腹いっぱい食べ たことはありません。それでいつも、『早く大人になって、お肉をたら ふく食べれるようになりた い』と考えていました。少 年野球の帰りに 50 円のお 小遣いで、1串 20 円のホ ルモン焼きを2串食べて、 残りの 10 円で駄菓子屋に 行くというのが最高の楽し みでした」  子供の頃の食べ物のう らみではなかろうが、中村 哲也(2歳 1972年) ホルモン焼き いたのですが、実際に手伝ってみて大 変さを実感しました」  結婚後も、ほとんど現場の仕事を手 伝うことのなかった久美子にとっては、 数少ない体験としてこのワイヤもっこ づくりは、思い出深いものがあるようだ。  結婚の翌年、1970(昭和 45)年 12 月 12 日に、待望の長男が誕生した。 久美子が俳優の渡哲也の大ファンだっ たことから、「哲也」と命名された。  大正病院で無事に出産を終え、身も 心も大きな安堵感に包まれていた久美 子のもとへ、仕事場から和郎が駆けつ けてきた時のことを、彼女は今も鮮明 に憶えている。 「汚い仕事着のままで、のっそりとやってきたかと思うと、生まれた ばかりの赤ん坊の顔を見て、『ふーん、この子か』という感じで、も のの5分もしないうちに仕事に戻っていきました。なんという無愛想 な男かと思いましたが、それでもまだ喜びを表に出していた方でした。 だって、長女と次男が生まれた時には、仕事が忙しいからといって、 顔さえ出さなかったのですからね(笑)」  この当時、それくらい中村工業は忙しかったという証でもあるのだ が、いずれにせよ和郎のおっとりマイペースな性格を知っている人間 にとっては、さもありなんという長男との初対面シーンである。  結婚後しばらくはマンションで暮らしていた和郎夫婦だが、長男 を妊娠したことがわかると、「階段の昇り降りは妊婦によくない」と 周囲から言われ、もとの大正区泉尾の四軒長屋の暮らしに戻ること 長男 中村哲也 誕生
  • 41. 76 77 第 3 章 中村鋼業の創業、平尾へ移転し中村工業に商号変更 家族旅行 東京(1980年) 次男和也・長男哲也・長女和美(1980年) 年には、次男が誕生。父和郎と長男哲也の名前からひと文字ずつをとっ て、「和也」と命名された。  3人の子供たちは、泉尾の四軒長屋ですくすくと育った。幼年期の 3人が、長屋の前で遊んでいる光景を撮影したスナップ写真が何枚も 残されているが、なんの不安もなく無邪気に遊んでいる子供らの姿か らは、カメラのファインダーの向こうにいる両親の深い愛情が感じら れて微笑ましい。おそらく、中村夫妻にとってもこの時期は、忙しく はあっても幸せな時代だったのであろう。 工業では例年、お盆前と正月前 に、工場の中で大バーベキュー 大会を開催する。従業員やお取 引先とその家族を招き、10㎏余 りの肉を焼いて、酒を飲む懇親 会である。2013(平成 25)年は、 豚の丸焼きをメインイベントに すえて、豪快な宴を楽しんでい る。 経営者と従業員というような垣根はなく、大家族のような大らかな絆 を大切にしているのも、中村工業が創業以来大切にしてきた伝統のひ とつといえる。 *  長男哲也の誕生の後、中村和郎・久美子夫妻は、2人の子宝に恵 まれた。 1973(昭和 48)年5月 20 日には、長女が誕生し、夫婦の名前をひ と文字ずつとって、「和美」と命名された。2年後の 1975(昭和 50) 豚の丸焼き(2013 年 8 月)
  • 43. 81  1972(昭和 47)年、ワイヤロープ加工の技術修得のため、中村工 業で4年間働いていた6歳年上の兄、孝雄が、郷里鹿児島県で独立 開業するため、加世田に帰っていった。孝雄は同年ナカムラ工業を設 立し、ワイヤロープ加工の仕事を始めた。中村工業の DNA を持つ兄 弟会社の誕生である。  営業地の九州エリアは、ワイヤロープの一大産地大阪と比べ市場 規模が小さいものの、孝雄は立派に事業を軌道に乗せ、現在に至っ ている。しかし残念ながら、社長であった孝雄は 2010(平成 22) 年に早逝し、現在は長男の中村孝治が事業を引き継いでいる。  兄が九州で兄弟会社を旗揚げした翌年の 1973(昭和 48)年、日 本経済は「第1次オイルショック」に見舞われ、企業活動は大きな影 響を受けた。政府は年末に、石油緊急対策要綱を閣議決定し、「総需 要抑制策」を掲げた。大型公共事業が一斉に凍結・縮小された結果、 景気は減速。翌 1974(昭和 49)年には、戦後初のマイナス成長に 陥落し、戦後復興期から企業に恩恵をもたらしてきた高度経済成長 はついに終焉を迎えたのだ。 第 4 章 大正区泉尾の現在地に移転し生産体制を拡張 景気が悪くても気迫で乗り越える負けじ魂 ナカムラ工業(鹿児島) 中村和郎(29歳 1971年)
  • 44. 82 83 第 4 章 大正区泉尾の現在地に移転し生産体制を拡張 いれば、なんとか乗り越えていけるものです」  ワイヤロープ加工の達人・中村和郎は、いつの時代もこの『負け たらあかん精神』で、ロープ屋稼業をたくましく生き抜いてきた。不 況になるたびに、取引先から不渡手形をつかまされることは再三にわ たり、「総額にすると億単位にのぼる」ほどの未収金を残してきたが、 和郎はそのたびに、「これくらいの負債、中村工業にとってはなんと もない」という気迫で乗り越えてきた。  事実、景気が悪化しても、腕の良い加工職人集団を抱える和郎の もとには、会社を維持するだけの仕事はつねに集まってきた。たとえ 不渡手形をつかまされようとも、「その穴を埋めるだけの仕事を余計 にすれば良いだけの話だ」という負けん気が、和郎の胸のなかにはつ ねに宿っていた。  この和郎の “ 負けじ魂 ” を象徴する決断が、第1次オイルショック の翌年、1974(昭和 49)年に実行された。なんと和郎は、工場をさ らに拡張し従業員も増やして、さらなる企業成長を図ろうと、工場移 転を行ったのである。  国内では、23%ものインフレーションを抑制しようと公定歩合が引 き上げられ、企業の設備投資を抑制する政策がとられているさなかで あった。中小企業経営者の大半が、じっと我慢の時期と耐えていた年 に和郎は、大正区泉尾に敷地面積 100 坪ほどの工場を見つけ、3,300 万円の資金を投じて工場移転を実行してしまった。逆境になればなる ほど闘志を燃やす、和郎らしい大胆な行動であった。  和郎はここで従業員をさらに増やし、総勢約 20 名のロープ加工職 人集団を率いることにした。細径から太径まで、あらゆる注文に臨機 応変に対応していくには、これくらいの従業員数がちょうど良いとい う現場感覚が和郎にはあったからだ。  この人員体制が正しかったことを、一時期、和郎の仕事を手伝った  企業活動が意気 消沈する一方で、消 費 生 活 は “ 狂 乱 物 価 ” に翻弄された。 トイレットペーパー や洗剤などの買い 占め騒ぎが引き金と なって、石油価格と は直接関係のない物 資にまでパニック買 いが広がり、日本の 消費者物価指数は、 1974 年(昭和 49)年には 23% も上昇するという混乱を極めた。  中村工業を取り巻く風景も、がらりと変わっていた。公共事業の凍 結・縮小は、“ 産業の命綱 ” であるワイヤロープの需要に直結する大 問題であったのだが、それ以上に業界を苦しめたのは、パニックに乗 じて一儲けしようと企む悪徳業者が増えたことであった。市場の混乱 につけこんで少しでも利ざやを多く得ようと、ワイヤロープを売り惜 しみする業者が急増し、中村工業がお得意先に出荷したくてもできな いという状況が続いたのだ。  商品が動かないために、中村工業の売上も急激に落ち込んでいっ たのだが、経営トップの和郎は、泰然自若としていた。 「2回のオイルショックやリーマンショックなど、会社経営にとって厳 しい洗礼を受けてきましたが、だからといってそれがピンチだと思っ たことは一度もありません。景気が悪くなったから、売上が下がるの も仕方がないというような弱気になったら、その時点で経営者として は負け。どんな逆境にも、『負けたらあかん!』という気概でやって 狂乱物価
  • 45. 84 85 第 4 章 大正区泉尾の現在地に移転し生産体制を拡張 腕の良い親方の正しい指導がなければ、一人前の加工技能士はなか なか育たないからだ。  中村和郎という名人がいる中村工業では、つねに太径ロープの注文 が入ってくるので、職人として何年か修行を積めば、当然太径ロープ の加工もやらせてもらえる。名人の親方から指導を受け、経験を積ん だ先輩加工技能士たちの熟練の技を見て学ぶのだから、中村工業か ら次々に、太径ロープの加工ができる優秀なロープ加工技能士が誕生 するのは当然の成り行きといえた。実際、和郎は引退するまでに、5 人の独立開業者を育て上げている。  写真を見てもわかるように、この当時、太径ロープの加工をするに は、巨大なバイス(万力)を真ん中に据えてロープを固定し、バイス を金棒で回しながら撚りを取り、ストランドを編み込んでいく方法が とられていた。しかし工場床に設置したバイスだと、編み込み加工を する部分がどうしても高くなり、職人の力が入りにくく、ストランド を差すのも一苦労する労働環境であった。 太径ロープの手編み加工(1974 年) 兄の繁は証言している。 「中村工業は少ない時でも 10 名、多い時は 20 名近い従業員がいたの で、まとまった注文量が突然きても、短期間での納品が可能でした。 大阪では、数名の職人しかいない中小零細業者が大半で、そんな仕 事に対応できる業者はごく少数です。この加工能力の差が、同業他社 を圧倒する強みとして働いていたと思います」  兄の繁が指摘するように、一定レベル以上の生産能力を確保するこ とは、選ばれる業者となるためには重要だという考えが和郎にもあっ たのは事実だが、彼はそれ以上に、中村工業という企業を、ワイヤロー プ加工業界の “ オンリーワン企業 ” に育てたいという強い思いを抱い ていた。  少数精鋭、どんな仕事でもこなす腕の良い加工職人を育てて、日本 一の加工屋集団をつくることが、和郎が思い描いた中村工業の将来像 であった。年商や企業規模を追求するのではなく、「この加工は中村 工業しかできない」という “ 技術力 ” で知られる、『日本一のロープ加 工屋』になりたいという職人魂が彼の胸の中には燃えていた。泉尾へ の工場移転は、そのための第一歩であった。 業界でスタンダードになった 太径ロープ加工用設備の普及に一役  工場移転をしたばかりのこの年、4人の加工職人がロープ径 80mm のワイヤロープを手編み加工しているモノクロ写真が残されている。  屈強な男たちが3人一組になり、竹刀ほどの太さのスパイキをロー プに差し込んで、ストランドを編みこんでいる作業風景だが、このク ラスのロープ径を手編み加工できる技術者は、現在でもそう多くはい ない。なぜなら、コンスタントに太径ロープの加工仕事がある工場で、