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森喜朗さん
                                                            がんサポート情報センター




                                                                    取材・文:吉田健城
                                                                       撮影:向井 渉
                                                                    (2012 年 05 月号)


                     もり よしろう
                     1937 年生まれ、石川県出身。高校時代はラグビー部の主将として活躍。早稲田大学ではラグビー部に

                     入部するも、体をこわし断念。大学卒業後はサンケイ新 聞東京本社に入社し、1969 年に第 32 回衆議

                     院選挙に無所属で出馬。2000 年に第 85 代内閣総理大臣に就任。現在、日本体育協会名誉会長、日本

                     ラグ ビーフットボール協会会長、東京オリンピック招致委員会評議会副会長などを兼務



                     がんは 1 番望ましくないタイミングで見つかった。森喜朗さんは、内閣総理大臣就
                     任直後に前立腺がんであることがわかったのだ。
                     国家の政治指導者である首相のがんは、政局を左右する重大事項である。国の行
                     く末と自らの病──。森元首相が当時の葛藤する心の内を吐露した。




2000 年 4 月 7 日夕刻、都心にある T 病院に新聞記者の一群が押しかけてきていた。2 日前に首班指名を受け
たばかりの森喜朗首相が検査入院することになったからである。


この日、森さんは衆参両院で所信表明演説を行い、さらに首相経験者などを訪ねて就任にあたっての挨拶を
していた。小渕恵三前首相が激務の中で脳梗塞 に倒れた直後ということもあって、記者たちは森さんも首相
就任前後のあわただしい動きの中で体調を崩したのだろうと思っていた。


しかし森さんの本当の目的は 1 泊の予定で前立腺がんの生検を受けることにあった。


「その数年前から健康診断で PSA マーカーが正常範囲である 4ng/㎖を超えるようになり、2 桁に近い数値が
出ていたので健診センターの院長さんか ら『前立腺がんの可能性があるので、いっぺん生検をされたらどうで
すか』と言われたんです。そこで総理に就任する直前に紹介していただいた T 病院で受ける ことになったんで
す。予約を入れてから小渕さんが脳梗塞で倒れ、はからずもぼくが総理に就任することになったので、いった
んは生検をやめようと思いまし た。でも、また時間をとれるのがいつになるかわからないし、その日がたまたま
金曜日で土、日は休めるので、今受けてしまおうということになったんです」




     株式会社エビデンス社 〒101-0063 東京都千代田区神田淡路町 1-11-8 淡路町 UK ビル3F
     TEL 03-3524-5022 Fax 03-3526-6303 Email info@evidence-inc.jp
森喜朗さん
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数日後、検査の結果が出た。


結果はがんだった。


「生検では 6 カ所から組織を採取したんですが、4 カ所からがん細胞が見つかったそうで、主治医の K 先生から
『間違いなくがんです』と言われました。


ショック?それはなかったです。あっ、そうか、という感じで冷静に聞いていました。私の家はがんの多い家系で、
実の母を小さいときに乳がんで亡くし ているし、父も弟も胃がんをやっていました。そのため常に私もいずれ
体のどこかにがんが出るという思いがあったんです。しかし、首相になったばかりでした から、どう対処するか
悩みました」


告知のあと、K 医師から詳しい説明があり、①前立腺がんは進行が遅いとはいえ周辺のリンパ節や骨に転移
しやすいので早い時期に摘出手術を受けること が望ましいこと、②手術は開腹で行うので、約 1 カ月間入院す
る必要があること、③前立腺がんはホルモン療法( 内分泌療法)が効き、一定期間、がんの進行を抑えられる
こと、などが伝えられた。




ひと通り説明を聞いたあと、まず森さんは、1 番気になっていたことを尋ねた。


「手術をしないと死にますか?」


それに対し K 医師は、


「前立腺がんは、それ自体で死ぬことはほとんどないですが、進行すると必ず骨とリンパ節に転移します。そう
なると痛みが凄くて、最後はモルヒネも効かなくなり、大変苦しむことになります」


と答えた。しかし「早く入院してください」とは言わなかった。森さんとの会話の中で、小渕前首相が脳梗塞で倒
れたばかりなのに森さんまで、がんで入院するような事態は許されないことをよく理解していたからだ。


「総理大臣になられたばかりの方に、『すぐに入院して手術を受けてください』と言っていいものかどうか判断に
迷います。お伝えすべきことは申しましたので、あとはご自分で判断していただくしかありません」




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主治医にそう言われた森さんは、熟慮の末、ホルモン療法でがんの進行を抑えながら、首相の職務に全力投
球する腹を固めた。ホルモン療法は LH-RH アゴニスト剤と抗アンドロゲン剤を併用する形などで行われるが、
前者は注射で投与され、後者は飲み薬である。手術や放射線のように入院や長期通院の必要が ないのが好
都合だった。


しかし、その一方でこの治療は、途中で薬が効かなくなり、再び PSA マーカーの数値が上がりだすことがある。
そうなると根治を目指すには手術を受けなくてはならない。


「就任早々にがんが見つかったので、総理の座に長くとどまる気はありませんでした。私が(総理大臣を)1 年ち
ょっとやると参議院の選挙だったんです よ。戦術として、その直前に辞めて後任にボールを渡すのがいいと思
っていました。政治もラグビーと同じで自分でトライしなくてもいいんです。ボールをつな いで誰かがトライすれ
ば、それでいいので、何とかそこまで引っ張っていこうという気持ちでした」




ホルモン療法は強い副作用が出る人が少なくないが、森さんの場合はどうだったのだろう。


「それはなかったですね。ただ、もともと肉付きがいいのにさらに太りやすくなったし、ゴルフの飛距離も出なくな
りました。しかし、それほどひどいも のはありませんでした。それよりマスコミが四六時中張り付いているので、
注射を打ってもらうときはちょっと苦労しました。病院にはそう簡単に行けないので (医師に)公邸に来てもらっ
たこともあります」


森さんががんのことをはじめて口外したのは辞意を固めた 01 年 3 月下旬のことだ
った。場所はロシアのイルクーツク。プーチン・ロシア大統領との会談の席上だっ
た。


「プーチンさんとはそれまで何度も会っていましたが、ぼくはラグビーで、彼は柔道
をやっていましたから(スポーツをやっていた者同士)、もともとウマが合うんです
よ。北方四島の問題についても、ぼくとあなたで解決しようと言っていたし、そのと
きの首脳会談ではいろいろ意見を交換し、約束もしていたの で、帰国してすぐに
辞任したら、大変失礼なことになる。そこで『実は、がんを患っていることもあって、
帰国したら 10 日後になるか 1 カ月後になるかわから ないが、辞任する腹を固め

ているので、そのことをあなたの腹の中にしまっておいて欲しい。後任の首相に                            学生時代はラグビー部で活躍
                                                                し、現在は日本ラグビーフット
も私がやるのと同じようにやってもらいますから』と 伝えたんです」。                               ボール協会会長でもある森さ
                                                                ん。ユニフォームと一緒に

2001 年 4 月、森さんは退陣、次の首相として小泉純一郎氏にボールを託した。




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                                治療の経過はどうだったのだろう?


                                「その後もホルモン療法をやりながら見ていたんです。ところが
                                PSA の数値が 10ng/㎖台の半ばより下に下がらなくなり、上昇に
                                転じて 38ng/ ㎖まで上がったので、ホルモン療法だけでは無理
                                ということになったんです。そのため 2002 年 7 月に入院して、摘出
                                手術を受けることにしました」


                                永田町は「風邪ががんに、入院が危篤」になる世界である。首相
                                経験者で最大派閥の領袖である森さんが 1 カ月入院することにな
                                ると、さまざまな憶測や風評が飛び交うことになる。それを封じ込
                                めるため、森さんは森派の総会(清和会)で手術を受けることを公
                                表した。


                                総会にはマスコミも多数取材に来ているので、公表した当日、森
                                さんのがんは早くもニュースや記事になった。


すると予期せぬことが起きた。その日の夜から自宅や事務所に、新しい治療法があることを知らせる電話が、
いくつもかかってきたのだ。


「1 番早く電話をかけてくださったのはアフラックの日本法人創業者である大竹美喜さんでした。彼はアメリカで
小線源治療を受けた経験を話し『入院の 必要がなく、朝、病院に行けば昼過ぎには治療が終わるので、アメリ
カに 3 日間行きましょう。私も一緒についていきますから』って言うんですよ。『そんな簡 単にできる治療なんて
あるの?』って聞いたら『あります。日本ではまだ認可されていないけど(当時)、アメリカでは普及していて、私
自身も受けていますか ら』と言うので、いい話を聞かせてもらったと思いました」


ほかにも重粒子線、IMRT(強度変調放射線治療)などを勧める人もいて、森さんはいろいろな治療法があるこ
とを知った。そんな中で、1 番魅かれたのは、内視鏡による手術( 腹腔鏡下前立腺摘除術)だった。


「1 週間の入院で済むというし、開腹手術に比べて体に与えるダメージが少ない点も魅力でした。私の場合、1
番困るのは肉が落ちて年寄りっぽく見えることなんです。腹腔鏡下手術ならその心配も無いですから、これは
いいと思いました」




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ただ森さんは腹腔鏡下手術に心を動かされていたものの、いった
ん決めた開腹手術をやめて、腹腔鏡下手術にかえる踏ん切りが
なかなかつかなかった。そ れまで親身に面倒を見てくれた T 病
院と K 医師に申し訳ないという気持ちを払拭できなかったことや、
当時は今ほど腹腔鏡下手術が行われていなかったため、意 見
を求めた医師の中に、腹腔鏡下手術に否定的な意見を述べる人
がいたからである。そうした医師は、内視鏡手術はモニター画面
を見ながら行うので高度な技術 が必要であり、開腹手術に比べ
てがんを取り残すリスクも高いのでは、と指摘していた。


「内視鏡による手術を勧めてくれたのは中川秀直君(第 2 次森内
閣の官房長官)だったんですが、彼が『中国訪問が終わって、夜、
成田空港に着いたら、 その足で、K 大学病院に行ってください』と
言うんですよ。行ったら医学部長や病院長が待っていて『うちでは、
腹腔鏡下手術のエキスパートがいるので安全に できるし、入院
も 1 週間ですみます』と言うんです。自信を持っていることが感じ
取れたので、K 大学病院で腹腔鏡下手術を受けることに決めたんです」


その後森さんは T 病院の K 医師の自宅に赴いて「本当に申し訳ないんですが」と頭を下げ、K 大学病院で腹腔
鏡下手術を受けることに決めたことを伝えた。


「そしたら『セカンドオピニオンを受けるのは当然のことです。お気になさらずに』と快く了承してくれたので、ホッ
としました」




K 大学病院での腹腔鏡下手術は 2002 年 7 月、経験豊富な N 医師の担当で行われ、無事終了した。


「ストレッチャーに乗せられて病室から手術室に向かうときは、誰かわからないように死体のように顔に布を被
せられて運ばれたんですよ(笑)。手術室 に入ったあと、すぐに麻酔を打たれたんですが、気がついたのは午
後 4 時ごろだったと思います。『手術はまだやっていないんですか?』って聞いたら『もう終 わりました。あまり
よく寝ておられるので、そのままにしておいたんです』と言われました(笑)」


術後の経過は順調で、森さんは予定通り 1 週間入院しただけで退院することができた。



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その後は 3 カ月に 1 度、ホルモン注射を受けながら PSA マーカーをチェックしているが、再発の兆候が見られ
ないまま現在に至っている。


「PSA 値は 0.2~0.3ng/㎖のことが多く、安定した状態が続いています。ただ私の家はがんの多い家系です。
ほかのがんがいつ出るかわかりませんから、油断はしていません」




最後に前立腺がんの経験者として政治家の立場から、このがん
の検診受診者を増やすにはどのような視点が必要か尋ねると、
選挙民の事情によく通じた政治家らしいユニークな答えが返っ
てきた。


「奥さま方への啓発が必要だと思っています。僕は後援者のご
婦人に『ご主人が就寝後トイレに 2 回以上行くようになったり、小
用を足したあとトイレの まわりが汚れるようになったりしたら切
れが悪いのですから、前立腺肥大などの病気の可能性がある
から PSA 検査をお受けになってください』と言っているん です。
どこの家でもトイレの掃除をするのはたいてい奥さんですからね。
男性は、『もしかしたら前立腺の病気かもしれない』と思っても、
怖いし、場所が場所 ですから、いざとなると検査に行かない人
が多いんです。でも、奥さんがその兆候に気がついて『パパ、前
立腺の検査を受けて』って言えば、行くきっかけにな るでしょう。
健康診断では PSA 検査は通常の検査項目ではなくオプションに                      患者数が増えている前立腺がん。本人はもとより、
                                                     奥さんたちへの啓発が今後前立腺がんの早期発見
なっていることが多くて、意外と検査されていないんです。『今度                       へのキーになってくると守さんは話す

の健康診断のと き、それを加えてね』と奥さんが旦那さんに言う
だけでも、全然違うと思いますよ」


正面から攻めず搦め手からいく──老練な政治家らしい現実を見据えた発想である。永田町における森さん
の影響力は依然大きなものがある。前立腺がん は患者数が右肩上がりで増えており、2020 年までに患者数
は 7 万 8 千人になると予測されている。幅広い啓発活動が必要な段階にきている前立腺がん。今後 は政治的
なアプローチも、森さんに期待したい。




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森元首相闘病記

  • 1. 森喜朗さん がんサポート情報センター 取材・文:吉田健城 撮影:向井 渉 (2012 年 05 月号) もり よしろう 1937 年生まれ、石川県出身。高校時代はラグビー部の主将として活躍。早稲田大学ではラグビー部に 入部するも、体をこわし断念。大学卒業後はサンケイ新 聞東京本社に入社し、1969 年に第 32 回衆議 院選挙に無所属で出馬。2000 年に第 85 代内閣総理大臣に就任。現在、日本体育協会名誉会長、日本 ラグ ビーフットボール協会会長、東京オリンピック招致委員会評議会副会長などを兼務 がんは 1 番望ましくないタイミングで見つかった。森喜朗さんは、内閣総理大臣就 任直後に前立腺がんであることがわかったのだ。 国家の政治指導者である首相のがんは、政局を左右する重大事項である。国の行 く末と自らの病──。森元首相が当時の葛藤する心の内を吐露した。 2000 年 4 月 7 日夕刻、都心にある T 病院に新聞記者の一群が押しかけてきていた。2 日前に首班指名を受け たばかりの森喜朗首相が検査入院することになったからである。 この日、森さんは衆参両院で所信表明演説を行い、さらに首相経験者などを訪ねて就任にあたっての挨拶を していた。小渕恵三前首相が激務の中で脳梗塞 に倒れた直後ということもあって、記者たちは森さんも首相 就任前後のあわただしい動きの中で体調を崩したのだろうと思っていた。 しかし森さんの本当の目的は 1 泊の予定で前立腺がんの生検を受けることにあった。 「その数年前から健康診断で PSA マーカーが正常範囲である 4ng/㎖を超えるようになり、2 桁に近い数値が 出ていたので健診センターの院長さんか ら『前立腺がんの可能性があるので、いっぺん生検をされたらどうで すか』と言われたんです。そこで総理に就任する直前に紹介していただいた T 病院で受ける ことになったんで す。予約を入れてから小渕さんが脳梗塞で倒れ、はからずもぼくが総理に就任することになったので、いった んは生検をやめようと思いまし た。でも、また時間をとれるのがいつになるかわからないし、その日がたまたま 金曜日で土、日は休めるので、今受けてしまおうということになったんです」 株式会社エビデンス社 〒101-0063 東京都千代田区神田淡路町 1-11-8 淡路町 UK ビル3F TEL 03-3524-5022 Fax 03-3526-6303 Email info@evidence-inc.jp
  • 2. 森喜朗さん がんサポート情報センター 数日後、検査の結果が出た。 結果はがんだった。 「生検では 6 カ所から組織を採取したんですが、4 カ所からがん細胞が見つかったそうで、主治医の K 先生から 『間違いなくがんです』と言われました。 ショック?それはなかったです。あっ、そうか、という感じで冷静に聞いていました。私の家はがんの多い家系で、 実の母を小さいときに乳がんで亡くし ているし、父も弟も胃がんをやっていました。そのため常に私もいずれ 体のどこかにがんが出るという思いがあったんです。しかし、首相になったばかりでした から、どう対処するか 悩みました」 告知のあと、K 医師から詳しい説明があり、①前立腺がんは進行が遅いとはいえ周辺のリンパ節や骨に転移 しやすいので早い時期に摘出手術を受けること が望ましいこと、②手術は開腹で行うので、約 1 カ月間入院す る必要があること、③前立腺がんはホルモン療法( 内分泌療法)が効き、一定期間、がんの進行を抑えられる こと、などが伝えられた。 ひと通り説明を聞いたあと、まず森さんは、1 番気になっていたことを尋ねた。 「手術をしないと死にますか?」 それに対し K 医師は、 「前立腺がんは、それ自体で死ぬことはほとんどないですが、進行すると必ず骨とリンパ節に転移します。そう なると痛みが凄くて、最後はモルヒネも効かなくなり、大変苦しむことになります」 と答えた。しかし「早く入院してください」とは言わなかった。森さんとの会話の中で、小渕前首相が脳梗塞で倒 れたばかりなのに森さんまで、がんで入院するような事態は許されないことをよく理解していたからだ。 「総理大臣になられたばかりの方に、『すぐに入院して手術を受けてください』と言っていいものかどうか判断に 迷います。お伝えすべきことは申しましたので、あとはご自分で判断していただくしかありません」 株式会社エビデンス社 〒101-0063 東京都千代田区神田淡路町 1-11-8 淡路町 UK ビル3F TEL 03-3524-5022 Fax 03-3526-6303 Email info@evidence-inc.jp
  • 3. 森喜朗さん がんサポート情報センター 主治医にそう言われた森さんは、熟慮の末、ホルモン療法でがんの進行を抑えながら、首相の職務に全力投 球する腹を固めた。ホルモン療法は LH-RH アゴニスト剤と抗アンドロゲン剤を併用する形などで行われるが、 前者は注射で投与され、後者は飲み薬である。手術や放射線のように入院や長期通院の必要が ないのが好 都合だった。 しかし、その一方でこの治療は、途中で薬が効かなくなり、再び PSA マーカーの数値が上がりだすことがある。 そうなると根治を目指すには手術を受けなくてはならない。 「就任早々にがんが見つかったので、総理の座に長くとどまる気はありませんでした。私が(総理大臣を)1 年ち ょっとやると参議院の選挙だったんです よ。戦術として、その直前に辞めて後任にボールを渡すのがいいと思 っていました。政治もラグビーと同じで自分でトライしなくてもいいんです。ボールをつな いで誰かがトライすれ ば、それでいいので、何とかそこまで引っ張っていこうという気持ちでした」 ホルモン療法は強い副作用が出る人が少なくないが、森さんの場合はどうだったのだろう。 「それはなかったですね。ただ、もともと肉付きがいいのにさらに太りやすくなったし、ゴルフの飛距離も出なくな りました。しかし、それほどひどいも のはありませんでした。それよりマスコミが四六時中張り付いているので、 注射を打ってもらうときはちょっと苦労しました。病院にはそう簡単に行けないので (医師に)公邸に来てもらっ たこともあります」 森さんががんのことをはじめて口外したのは辞意を固めた 01 年 3 月下旬のことだ った。場所はロシアのイルクーツク。プーチン・ロシア大統領との会談の席上だっ た。 「プーチンさんとはそれまで何度も会っていましたが、ぼくはラグビーで、彼は柔道 をやっていましたから(スポーツをやっていた者同士)、もともとウマが合うんです よ。北方四島の問題についても、ぼくとあなたで解決しようと言っていたし、そのと きの首脳会談ではいろいろ意見を交換し、約束もしていたの で、帰国してすぐに 辞任したら、大変失礼なことになる。そこで『実は、がんを患っていることもあって、 帰国したら 10 日後になるか 1 カ月後になるかわから ないが、辞任する腹を固め ているので、そのことをあなたの腹の中にしまっておいて欲しい。後任の首相に 学生時代はラグビー部で活躍 し、現在は日本ラグビーフット も私がやるのと同じようにやってもらいますから』と 伝えたんです」。 ボール協会会長でもある森さ ん。ユニフォームと一緒に 2001 年 4 月、森さんは退陣、次の首相として小泉純一郎氏にボールを託した。 株式会社エビデンス社 〒101-0063 東京都千代田区神田淡路町 1-11-8 淡路町 UK ビル3F TEL 03-3524-5022 Fax 03-3526-6303 Email info@evidence-inc.jp
  • 4. 森喜朗さん がんサポート情報センター 治療の経過はどうだったのだろう? 「その後もホルモン療法をやりながら見ていたんです。ところが PSA の数値が 10ng/㎖台の半ばより下に下がらなくなり、上昇に 転じて 38ng/ ㎖まで上がったので、ホルモン療法だけでは無理 ということになったんです。そのため 2002 年 7 月に入院して、摘出 手術を受けることにしました」 永田町は「風邪ががんに、入院が危篤」になる世界である。首相 経験者で最大派閥の領袖である森さんが 1 カ月入院することにな ると、さまざまな憶測や風評が飛び交うことになる。それを封じ込 めるため、森さんは森派の総会(清和会)で手術を受けることを公 表した。 総会にはマスコミも多数取材に来ているので、公表した当日、森 さんのがんは早くもニュースや記事になった。 すると予期せぬことが起きた。その日の夜から自宅や事務所に、新しい治療法があることを知らせる電話が、 いくつもかかってきたのだ。 「1 番早く電話をかけてくださったのはアフラックの日本法人創業者である大竹美喜さんでした。彼はアメリカで 小線源治療を受けた経験を話し『入院の 必要がなく、朝、病院に行けば昼過ぎには治療が終わるので、アメリ カに 3 日間行きましょう。私も一緒についていきますから』って言うんですよ。『そんな簡 単にできる治療なんて あるの?』って聞いたら『あります。日本ではまだ認可されていないけど(当時)、アメリカでは普及していて、私 自身も受けていますか ら』と言うので、いい話を聞かせてもらったと思いました」 ほかにも重粒子線、IMRT(強度変調放射線治療)などを勧める人もいて、森さんはいろいろな治療法があるこ とを知った。そんな中で、1 番魅かれたのは、内視鏡による手術( 腹腔鏡下前立腺摘除術)だった。 「1 週間の入院で済むというし、開腹手術に比べて体に与えるダメージが少ない点も魅力でした。私の場合、1 番困るのは肉が落ちて年寄りっぽく見えることなんです。腹腔鏡下手術ならその心配も無いですから、これは いいと思いました」 株式会社エビデンス社 〒101-0063 東京都千代田区神田淡路町 1-11-8 淡路町 UK ビル3F TEL 03-3524-5022 Fax 03-3526-6303 Email info@evidence-inc.jp
  • 5. 森喜朗さん がんサポート情報センター ただ森さんは腹腔鏡下手術に心を動かされていたものの、いった ん決めた開腹手術をやめて、腹腔鏡下手術にかえる踏ん切りが なかなかつかなかった。そ れまで親身に面倒を見てくれた T 病 院と K 医師に申し訳ないという気持ちを払拭できなかったことや、 当時は今ほど腹腔鏡下手術が行われていなかったため、意 見 を求めた医師の中に、腹腔鏡下手術に否定的な意見を述べる人 がいたからである。そうした医師は、内視鏡手術はモニター画面 を見ながら行うので高度な技術 が必要であり、開腹手術に比べ てがんを取り残すリスクも高いのでは、と指摘していた。 「内視鏡による手術を勧めてくれたのは中川秀直君(第 2 次森内 閣の官房長官)だったんですが、彼が『中国訪問が終わって、夜、 成田空港に着いたら、 その足で、K 大学病院に行ってください』と 言うんですよ。行ったら医学部長や病院長が待っていて『うちでは、 腹腔鏡下手術のエキスパートがいるので安全に できるし、入院 も 1 週間ですみます』と言うんです。自信を持っていることが感じ 取れたので、K 大学病院で腹腔鏡下手術を受けることに決めたんです」 その後森さんは T 病院の K 医師の自宅に赴いて「本当に申し訳ないんですが」と頭を下げ、K 大学病院で腹腔 鏡下手術を受けることに決めたことを伝えた。 「そしたら『セカンドオピニオンを受けるのは当然のことです。お気になさらずに』と快く了承してくれたので、ホッ としました」 K 大学病院での腹腔鏡下手術は 2002 年 7 月、経験豊富な N 医師の担当で行われ、無事終了した。 「ストレッチャーに乗せられて病室から手術室に向かうときは、誰かわからないように死体のように顔に布を被 せられて運ばれたんですよ(笑)。手術室 に入ったあと、すぐに麻酔を打たれたんですが、気がついたのは午 後 4 時ごろだったと思います。『手術はまだやっていないんですか?』って聞いたら『もう終 わりました。あまり よく寝ておられるので、そのままにしておいたんです』と言われました(笑)」 術後の経過は順調で、森さんは予定通り 1 週間入院しただけで退院することができた。 株式会社エビデンス社 〒101-0063 東京都千代田区神田淡路町 1-11-8 淡路町 UK ビル3F TEL 03-3524-5022 Fax 03-3526-6303 Email info@evidence-inc.jp
  • 6. 森喜朗さん がんサポート情報センター その後は 3 カ月に 1 度、ホルモン注射を受けながら PSA マーカーをチェックしているが、再発の兆候が見られ ないまま現在に至っている。 「PSA 値は 0.2~0.3ng/㎖のことが多く、安定した状態が続いています。ただ私の家はがんの多い家系です。 ほかのがんがいつ出るかわかりませんから、油断はしていません」 最後に前立腺がんの経験者として政治家の立場から、このがん の検診受診者を増やすにはどのような視点が必要か尋ねると、 選挙民の事情によく通じた政治家らしいユニークな答えが返っ てきた。 「奥さま方への啓発が必要だと思っています。僕は後援者のご 婦人に『ご主人が就寝後トイレに 2 回以上行くようになったり、小 用を足したあとトイレの まわりが汚れるようになったりしたら切 れが悪いのですから、前立腺肥大などの病気の可能性がある から PSA 検査をお受けになってください』と言っているん です。 どこの家でもトイレの掃除をするのはたいてい奥さんですからね。 男性は、『もしかしたら前立腺の病気かもしれない』と思っても、 怖いし、場所が場所 ですから、いざとなると検査に行かない人 が多いんです。でも、奥さんがその兆候に気がついて『パパ、前 立腺の検査を受けて』って言えば、行くきっかけにな るでしょう。 健康診断では PSA 検査は通常の検査項目ではなくオプションに 患者数が増えている前立腺がん。本人はもとより、 奥さんたちへの啓発が今後前立腺がんの早期発見 なっていることが多くて、意外と検査されていないんです。『今度 へのキーになってくると守さんは話す の健康診断のと き、それを加えてね』と奥さんが旦那さんに言う だけでも、全然違うと思いますよ」 正面から攻めず搦め手からいく──老練な政治家らしい現実を見据えた発想である。永田町における森さん の影響力は依然大きなものがある。前立腺がん は患者数が右肩上がりで増えており、2020 年までに患者数 は 7 万 8 千人になると予測されている。幅広い啓発活動が必要な段階にきている前立腺がん。今後 は政治的 なアプローチも、森さんに期待したい。 株式会社エビデンス社 〒101-0063 東京都千代田区神田淡路町 1-11-8 淡路町 UK ビル3F TEL 03-3524-5022 Fax 03-3526-6303 Email info@evidence-inc.jp