三枚橋城と4人の武将
- 1. 三枚橋城と 4 人の武将
城の歴史と武将の生涯に迫る
NPO 法人海風 47 による郷土学習講座
「沼津あれこれ塾」の第 12 回が先月、市立
図書館講座室で開かれた。市歴史民俗資料
館の鈴木裕篤館長が「三枚橋城主列伝」と
題し、現在の大手町にあった三枚橋城の歴
史と、城を治めた四人の武将の生涯につい
て話した。
城誕生と上杉謙信 三枚橋城は、戦国時
代末期の天正七年(一五七九)に武田信玄の
子の武田勝頼によって築かれた。それまで
城のなかった地に新たに城が築かれた背景
には、上杉謙信の死が大きく関わっている
という。
天正六年(一五七八)三月、越後(新潟県)の
上杉謙信が病死すると、景勝(かげかつ)と景
虎(かげとら)という二人の養子による跡目
争いが発生した。「御館(おたて)の乱」と呼
ばれるこの争いには、武田氏と小田原の戦
国大名北条氏が介入し激しく対立。
争いは武田氏が支援した景勝派の勝利に
終わったが、それまで同盟関係にあった武
田氏と北条氏の仲は破綻し、一転して緊張
関係となった。
当時、駿東地方では、黄瀬川を境界とし
て武田領と北条領が隣り合っていた。勝頼
は北条側への備えとして国境近くの地に三
枚橋城を築いた。当時の常識では、国境近
くに城を築くことは敵対宣言と見なされて
いたことから、武田氏と北条氏は戦闘状態
に入った。北条氏は三枚橋城に対抗するた
め、現在の内浦地区に長浜城を築いた。
①春日信達 完成した三枚橋城の指揮官
に選ばれたのが春日信達だった。高坂源五
郎という別名でも知られる信達は、信玄家
臣の名将として知られる高坂昌信の子で、
兄の昌澄が長篠の合戦で戦死したため、後
を継いでいた。
春日氏(高坂氏)の一族は、川中島の戦い以
来の宿敵である越後の上杉氏への備えとし
て信濃(長野県)北部の海津城(長野市)を守
っていた。しかし、御館の乱で武田氏が支
援した景勝が当主となり両者は和解。信達
は新たな敵となった北条氏への備えとして
三枚橋城に派遣された。
駿東地方における武田と北条の戦いは、
北条側の戸倉城(清水町徳倉)が城ごと武田
側に寝返るなど、武田側の優勢で推移して
いたが、天正十年(一五八二)二月に織田信長
が武田氏への攻撃を開始すると、状況は一
変する。
信達は三枚橋城を放棄して甲府の勝頼の
もとへ向かうが、疑われて合流を拒否され
たため、かつての本拠地だった海津城へと
退去した。勝頼が自害して武田氏が滅亡す
ると、旧武田領は織田氏や徳川氏によって
分割され、海津城周辺の地は織田家臣の森
長可(もり・ながよし)の領地となった。
信達は長可の家臣となるが、ここで再び
状況が一変する。数カ月後の同年六月に本
能寺の変が起きて織田信長が急死すると、
旧武田領の織田氏の勢力は後ろ盾を失って
大混乱となった。長可も本拠地の美濃(岐阜
県)への避難を決意し、信達のような旧武田
氏系勢力による報復を恐れて人質を取りな
がら美濃へと回かった。この時、信達など
春日一族や他の旧武田家臣らは一斉に立ち
上がって長可の帰国を妨害し、長可は戦い
ながら帰国を果たして人質を処刑した。信
達の子は、この時に殺されている。
織田氏の勢力が信濃から消滅すると、北