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フルダ・ミニストリー 平成27年 2月 月報
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第232号 平成27年1月30日
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ペルシャ王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシャの王
クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。「ペルシャ王クロスは言う。
『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建て
ることを私に委ねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその宮とともにおられる
ように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサ
レムにおられる神である。残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても…銀、金、
財貨、家畜をもって援助せよ…ユダとベニヤミンの敵たちは、捕囚から帰って来た人々が、イスラエルの神、主
のために神殿を建てていると聞いて、ゼルバベルと一族のかしらたちのところに近づいて来て、言った。「私た
ちも、あなたがたといっしょに建てたい。私たちは、あなたがたと同様、あなたがたの神を求めているのです。
アッシリヤの王エサル・ハドンが、私たちをここに連れて来た時以来、私たちはあなたがたの神に、いけにえを
ささげてきました。」しかし、ゼルバベルとヨシュアとその地のイスラエルの一族のかしらたちは、彼らに言っ
た。「私たちの神のために宮を建てることについて、あなたがたと私たちとは何の関係もない…私たちだけで、
イスラエルの神、主のために宮を建てるつもりだ。」すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の
気力を失わせ、彼らをおどした。さらに、議官を買収して彼らに反対させ、この計画を打ちこわそうとした。こ
のことはペルシャの王クロスの時代からペルシャ王ダリヨスの治世の時まで続いた。エズラ記 1:1-4、4:1-5
今日、エルサレムの神殿の丘には、イスラム教の岩のドームとアル・アクサモスクが建っており、管理、立
ち入り、発掘を巡って、ユダヤ人とイスラム教徒との間では千三百年以上に亘る紛争が続いています。マスコミ
は競って、そこに起こる暴力沙汰を報道しますが、紛争の原因になっている歴史的背景については、ほとんど語
りません。イスラエルとパレスチナとの紛争についても、大衆受けする情報に焦点が当てられ、先入観や偏見に
とらわれない立場からの真相はほとんど語られていないようです。今月は、神殿の丘に焦点を当て、今日信憑性
が歴史的、科学的にますます立証されてきている聖書、「神の言葉」に基づいて、考察することにしましょう。
聖書は、今からほぼ三千年前、イスラエルの王ダビデの時代、神殿の丘がイスラエル人の所有となったこと
を明記しています。サムエル記第二 24章と歴代誌第一 21章には、ダビデ王がエブス人アラウナ(オルナン)の
打ち場を金六百シェケル(6.8㎏相当)で買ったことが記されています。アラウナは、風の吹きぬける山の峠を大
麦、小麦を脱穀する「打ち場」として用いていましたが、ダビデは御使いに、そこに「祭壇を築くように」と命
じられたので、アラウナからその地を買い取ったのでした。ダビデの死後、ダビデの子ソロモンがここに神殿を
築きましたが、この場所は、ダビデ王より千年前に、アブラハムが神の御命令に従順に従い、ひとり子イサクを
捧げようとした、あの「モリヤの地」の「一つの山の上」でした。我が子を捧げようとしたまさにそのとき、神
のご介入で、身代わりのいけにえ、すなわち、ほふるべきいけにえの子羊が備えられたことから、アブラハムは
その場所を預言的洞察で「アドナイ・イルエ…主の山の上には備えがある」と呼んだのでした(創世記 22章)。
ソロモンが建てたエルサレム第一神殿は三百七十年以上も神殿の丘に建てられていましたが、586BCE に、
バビロン王ネブカデネザルによって破壊されました。その後バビロンを征服したペルシャ王クロスは、538BCE
にユダヤ人に自分たちの地に帰還して神殿を再建するようにとの勅令を出し、その二年後、指導者ゼルバベルと
祭司ヨシュアによって再建が始まりました。ところが敵による熾烈な再建妨害が始まり、神殿の礎を築いただけ
で、工事は頓挫してしまいました。しかし、戦いは外部からの敵だけでなく、自分自身との戦いでもありました。
本国帰還を許されたユダヤ人たちは、最初、廃墟と化した外壁もないエルサレムで、身を守るすべもなく、命令
一下、従順に神殿再建に取りかかったのでした。しかし、彼らを待ち受けていたのは、民の捕囚期間中に現地に
住むようになっていた異邦人の嫌がらせや脅しで、帰還直後から彼らの攻撃に悩まされる一方で、建築資材すら
十分調達されない状態が続き、ユダヤ人の残りの者たちの最初の熱意は急速に失われ、作業は中断されたのです。
冒頭にその一部を引用したエズラ記の 1-6 章には、十六年に亘る頓挫の期間の出来事が詳細に記されてい
ます。このように、ユダヤ人に対する神殿再建反対や妨害は、今日に始まったことではなく、すでにこの時代の
ユダヤ人も経験したことでした。神殿の丘にユダヤ人が自らの主導権の下、神殿を建てることに、ユダヤ人では
ない近隣の異邦人たちは不快感、警戒心を抱いたのです。状況を冷静に悟ったゼルバベルとユダヤ人指導者たち
は、「私たちは、あなたがたと同様、あなたがたの神を求めているのです…私たちはあなたがたの神に、いけに
えをささげてきました」と、友好と霊的一致を装って近づいてきた敵に、きっぱり「私たちだけで、イスラエル
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の神、主のために宮を建てるつもりだ」とモーセの掟に則った原則を提示し、妥協を許さなかったのでした。案
の定、敵は脅しと買収の二本立てで挑み、ペルシャの王ダリヨス一世が、先代のクロス王の勅令を発見し、再び
神殿再建の勅令を出すという、明らかな神のご介入があるまでは、ユダヤ人は忍耐を強いられたのでした。神殿
再建は 520BCEに、預言者ハガイと預言者ゼカリヤの励ましで再開し、ついに 516BCEに奉献されました。第二
神殿は、第一神殿に比べれば見劣りするものでしたが、実質的には五百年以上も持ちこたえ、近隣の諸外国、列
強に脅かされながらも、神殿の丘が引き続きユダヤ人の所有権下に置かれていたことは間違いありませんでした。
ヘロデ大王は、19BCEに神殿域を二倍に拡大、改造し、キリストの時代、金箔で豪華に飾られたエルサレム
神殿は、都の誇り高き象徴でした。しかし、66CE に、ローマの課税や圧政に苦しめられていたユダヤ人熱心党
の者たちが謀反を起こし、ローマ市民に危害を加えたことのしっぺ返しに、ローマ軍は神殿を略奪、何千という
ユダヤ人を殺害し、その後紛争が続き、ついには 70CE に、ローマの将軍タイタスによって都は神殿もろとも陥
落したのです。国家、都を失ったユダヤ人は世界中に散らされ、1948年にイスラエル国家が承認されるまで、ユ
ダヤ人は放浪の民となったのでした。さて、363CEに、キリスト教に背を向けたローマ皇帝ユリアヌスは、政治
的目的から、ユダヤ人に神殿建設の許可を与えました。このころまでに、ユダヤ教とキリスト教は完全に分裂し
ており、キリスト教徒は、取り壊された神殿を、キリスト教がユダヤ教にまさっていることを象徴するものと捉
えていたのでした。このときは、いくつかの要因が重なって、ユダヤ人による神殿建築は実行に移されなかった
のですが、610CEに、サーサーン朝ペルシャ帝国が再びユダヤ人に神殿再建の許可を与え、今度は完成するかの
ようでした。しかし、勢力がビザンティン帝国に移ったため完成に至らず、聖所は取り壊されたのでした。
その後 638CE に、モスクを建立する地を探していたイスラム教のカリフ(ムハンマドの後継者)、オマール
がエルサレムを選んだことにより、神殿の丘を取り巻く情勢は一変します。イスラム教の正典『コラーン』の 7
章には、「遠くのモスク」への言及があり、「アル・ハラムモスクからアル・アクサモスクに夜間、そのしもべを
連れていった者は高められる」と書かれていますが、これは、ムハンマドと彼の有名な「夜の旅」について語っ
ている箇所とされているところです。書中では、アル・ハラムモスクの所在地はメッカとあるのですが、アル・
アクサモスクの所在地には言及されておらず、不明です。しかし、イスラム教の伝説では、ムハンマドの目的地
はエルサレムの、しかも、神殿の丘であったとされ、預言者ムハンマドは夜、天のろば「アル・バラク(稲光の
意)」に乗ってエルサレムまで行ったと、伝えられるようになったのです。女の顔をして、ももから突き出した翼
のあるろばでエルサレムまで来たムハンマドは光のはしごで天に上り、そこでアラーから特別な指示を受け、ま
た地に戻ったとされています。しかし、彼らの主張に証拠はないのです。ムハンマドの死の二十年後に書かれた
『コラーン』にはどこにも、ムハンマドの目的地がエルサレムであったとは書かれていないのに、そこに漠然と
記されている「遠くのモスク」を、一体何を根拠に「エルサレム」と主張するのかに説明ができないのです。
しかし、イスラム教徒たちは、その鍵はイスラム史の口述集『ハディース』にあるといいます。なるほど、
そこには、ムハンマドの夜の旅についてもっと詳しく書かれています。擬人化されたろばやその名、エルサレム
の名も「遠くのモスク」として、そこには書かれています。しかし、この口述集はムハンマドの死後二百年経っ
た九世紀まで、成文化されてはいませんでした。何よりも大きな矛盾は、現在、神殿の丘に建っているアル・ア
クサモスクが建てられたのは、ムハンマドが亡くなって八十三年後の715CEで、ムハンマドが目指したはずの「遠
くのモスク」はそのときには神殿の丘に建っていなかったという点です。また、エルサレムがイスラム教にとっ
て決して重要な聖地ではなかったことは、ムハンマドの死後、イスラム軍が最後に占領した町の一つにすぎなか
ったことからもうかがえます。1977 年刊行の書『これがエルサレム』のイスラム教の箴言の中に、「メッカでの
一つの祈りは一万の祈り、メディナでの一つの祈りは一千の祈り、エルサレムでの一つの祈りは五百の祈りに匹
敵する」という句があるそうですが、エルサレムとメッカを比べるなら、エルサレムはメッカの 5%の価値とい
うことになるのです。イスラム教の二つの最も聖なる地メッカとメディナを支配していたカリフは、記録による
と、カリフ、エル・マリクのライバルでした。そこで、エル・マリクは、この政治的競争者に挑んで、691CEに
岩のドームを建てたといいます。その後、アル・アクサモスクも建てられたことにより、エルサレムはイスラム
教徒にとってへんぴで、さして重要ではない町だったのが、第三番目に聖なる地に昇格したのでした。
イスラエム教徒はその後さらに四百年間、神殿の丘を支配しましたが、1099CE、最初の十字軍遠征で、キリ
スト教徒が占領し、アル・アクサモスクの中に「キリストとソロモンの神殿の貧しい騎士団」と呼ばれた新しい
聖職を開き、この聖職は後に、「テンプル騎士団」と呼ばれるようになりました。このように、ユダヤ人で始まっ
た神殿の丘の借地権はイスラム教徒からキリスト教徒に移り、今日に至るまで、世界で最も聖なる地に数えられ
る神殿の丘の所有権争いは依然として続いています。今月は、その背後の歴史を考察してみました。イスラム教
徒はいつも祈りの中で「アラー アクバル(神、あなたはもっと偉大なり)」を繰り返しています。彼らは、自分
たちの神が、アブラハムの神をも含め、他のどの神々よりもはるかに優れていると信じ、全知、全能、絶対者で
最大であるがゆえにご自分の掟を破ってでも、何でも望むことをすることのできる方とみなしています。昨今の
イスラム国の非人道的、暴力的、傍若無人な主張には、彼らが従うこの神の性質が反映されているのです。

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  • 1. フルダ・ミニストリー 平成27年 2月 月報 huldahministry.blogspot.jp huldahministry.com 1 第232号 平成27年1月30日 ∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽ ペルシャ王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシャの王 クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。「ペルシャ王クロスは言う。 『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建て ることを私に委ねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその宮とともにおられる ように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサ レムにおられる神である。残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても…銀、金、 財貨、家畜をもって援助せよ…ユダとベニヤミンの敵たちは、捕囚から帰って来た人々が、イスラエルの神、主 のために神殿を建てていると聞いて、ゼルバベルと一族のかしらたちのところに近づいて来て、言った。「私た ちも、あなたがたといっしょに建てたい。私たちは、あなたがたと同様、あなたがたの神を求めているのです。 アッシリヤの王エサル・ハドンが、私たちをここに連れて来た時以来、私たちはあなたがたの神に、いけにえを ささげてきました。」しかし、ゼルバベルとヨシュアとその地のイスラエルの一族のかしらたちは、彼らに言っ た。「私たちの神のために宮を建てることについて、あなたがたと私たちとは何の関係もない…私たちだけで、 イスラエルの神、主のために宮を建てるつもりだ。」すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の 気力を失わせ、彼らをおどした。さらに、議官を買収して彼らに反対させ、この計画を打ちこわそうとした。こ のことはペルシャの王クロスの時代からペルシャ王ダリヨスの治世の時まで続いた。エズラ記 1:1-4、4:1-5 今日、エルサレムの神殿の丘には、イスラム教の岩のドームとアル・アクサモスクが建っており、管理、立 ち入り、発掘を巡って、ユダヤ人とイスラム教徒との間では千三百年以上に亘る紛争が続いています。マスコミ は競って、そこに起こる暴力沙汰を報道しますが、紛争の原因になっている歴史的背景については、ほとんど語 りません。イスラエルとパレスチナとの紛争についても、大衆受けする情報に焦点が当てられ、先入観や偏見に とらわれない立場からの真相はほとんど語られていないようです。今月は、神殿の丘に焦点を当て、今日信憑性 が歴史的、科学的にますます立証されてきている聖書、「神の言葉」に基づいて、考察することにしましょう。 聖書は、今からほぼ三千年前、イスラエルの王ダビデの時代、神殿の丘がイスラエル人の所有となったこと を明記しています。サムエル記第二 24章と歴代誌第一 21章には、ダビデ王がエブス人アラウナ(オルナン)の 打ち場を金六百シェケル(6.8㎏相当)で買ったことが記されています。アラウナは、風の吹きぬける山の峠を大 麦、小麦を脱穀する「打ち場」として用いていましたが、ダビデは御使いに、そこに「祭壇を築くように」と命 じられたので、アラウナからその地を買い取ったのでした。ダビデの死後、ダビデの子ソロモンがここに神殿を 築きましたが、この場所は、ダビデ王より千年前に、アブラハムが神の御命令に従順に従い、ひとり子イサクを 捧げようとした、あの「モリヤの地」の「一つの山の上」でした。我が子を捧げようとしたまさにそのとき、神 のご介入で、身代わりのいけにえ、すなわち、ほふるべきいけにえの子羊が備えられたことから、アブラハムは その場所を預言的洞察で「アドナイ・イルエ…主の山の上には備えがある」と呼んだのでした(創世記 22章)。 ソロモンが建てたエルサレム第一神殿は三百七十年以上も神殿の丘に建てられていましたが、586BCE に、 バビロン王ネブカデネザルによって破壊されました。その後バビロンを征服したペルシャ王クロスは、538BCE にユダヤ人に自分たちの地に帰還して神殿を再建するようにとの勅令を出し、その二年後、指導者ゼルバベルと 祭司ヨシュアによって再建が始まりました。ところが敵による熾烈な再建妨害が始まり、神殿の礎を築いただけ で、工事は頓挫してしまいました。しかし、戦いは外部からの敵だけでなく、自分自身との戦いでもありました。 本国帰還を許されたユダヤ人たちは、最初、廃墟と化した外壁もないエルサレムで、身を守るすべもなく、命令 一下、従順に神殿再建に取りかかったのでした。しかし、彼らを待ち受けていたのは、民の捕囚期間中に現地に 住むようになっていた異邦人の嫌がらせや脅しで、帰還直後から彼らの攻撃に悩まされる一方で、建築資材すら 十分調達されない状態が続き、ユダヤ人の残りの者たちの最初の熱意は急速に失われ、作業は中断されたのです。 冒頭にその一部を引用したエズラ記の 1-6 章には、十六年に亘る頓挫の期間の出来事が詳細に記されてい ます。このように、ユダヤ人に対する神殿再建反対や妨害は、今日に始まったことではなく、すでにこの時代の ユダヤ人も経験したことでした。神殿の丘にユダヤ人が自らの主導権の下、神殿を建てることに、ユダヤ人では ない近隣の異邦人たちは不快感、警戒心を抱いたのです。状況を冷静に悟ったゼルバベルとユダヤ人指導者たち は、「私たちは、あなたがたと同様、あなたがたの神を求めているのです…私たちはあなたがたの神に、いけに えをささげてきました」と、友好と霊的一致を装って近づいてきた敵に、きっぱり「私たちだけで、イスラエル
  • 2. フルダ・ミニストリー 平成27年 2月 月報 huldahministry.blogspot.jp huldahministry.com 2 の神、主のために宮を建てるつもりだ」とモーセの掟に則った原則を提示し、妥協を許さなかったのでした。案 の定、敵は脅しと買収の二本立てで挑み、ペルシャの王ダリヨス一世が、先代のクロス王の勅令を発見し、再び 神殿再建の勅令を出すという、明らかな神のご介入があるまでは、ユダヤ人は忍耐を強いられたのでした。神殿 再建は 520BCEに、預言者ハガイと預言者ゼカリヤの励ましで再開し、ついに 516BCEに奉献されました。第二 神殿は、第一神殿に比べれば見劣りするものでしたが、実質的には五百年以上も持ちこたえ、近隣の諸外国、列 強に脅かされながらも、神殿の丘が引き続きユダヤ人の所有権下に置かれていたことは間違いありませんでした。 ヘロデ大王は、19BCEに神殿域を二倍に拡大、改造し、キリストの時代、金箔で豪華に飾られたエルサレム 神殿は、都の誇り高き象徴でした。しかし、66CE に、ローマの課税や圧政に苦しめられていたユダヤ人熱心党 の者たちが謀反を起こし、ローマ市民に危害を加えたことのしっぺ返しに、ローマ軍は神殿を略奪、何千という ユダヤ人を殺害し、その後紛争が続き、ついには 70CE に、ローマの将軍タイタスによって都は神殿もろとも陥 落したのです。国家、都を失ったユダヤ人は世界中に散らされ、1948年にイスラエル国家が承認されるまで、ユ ダヤ人は放浪の民となったのでした。さて、363CEに、キリスト教に背を向けたローマ皇帝ユリアヌスは、政治 的目的から、ユダヤ人に神殿建設の許可を与えました。このころまでに、ユダヤ教とキリスト教は完全に分裂し ており、キリスト教徒は、取り壊された神殿を、キリスト教がユダヤ教にまさっていることを象徴するものと捉 えていたのでした。このときは、いくつかの要因が重なって、ユダヤ人による神殿建築は実行に移されなかった のですが、610CEに、サーサーン朝ペルシャ帝国が再びユダヤ人に神殿再建の許可を与え、今度は完成するかの ようでした。しかし、勢力がビザンティン帝国に移ったため完成に至らず、聖所は取り壊されたのでした。 その後 638CE に、モスクを建立する地を探していたイスラム教のカリフ(ムハンマドの後継者)、オマール がエルサレムを選んだことにより、神殿の丘を取り巻く情勢は一変します。イスラム教の正典『コラーン』の 7 章には、「遠くのモスク」への言及があり、「アル・ハラムモスクからアル・アクサモスクに夜間、そのしもべを 連れていった者は高められる」と書かれていますが、これは、ムハンマドと彼の有名な「夜の旅」について語っ ている箇所とされているところです。書中では、アル・ハラムモスクの所在地はメッカとあるのですが、アル・ アクサモスクの所在地には言及されておらず、不明です。しかし、イスラム教の伝説では、ムハンマドの目的地 はエルサレムの、しかも、神殿の丘であったとされ、預言者ムハンマドは夜、天のろば「アル・バラク(稲光の 意)」に乗ってエルサレムまで行ったと、伝えられるようになったのです。女の顔をして、ももから突き出した翼 のあるろばでエルサレムまで来たムハンマドは光のはしごで天に上り、そこでアラーから特別な指示を受け、ま た地に戻ったとされています。しかし、彼らの主張に証拠はないのです。ムハンマドの死の二十年後に書かれた 『コラーン』にはどこにも、ムハンマドの目的地がエルサレムであったとは書かれていないのに、そこに漠然と 記されている「遠くのモスク」を、一体何を根拠に「エルサレム」と主張するのかに説明ができないのです。 しかし、イスラム教徒たちは、その鍵はイスラム史の口述集『ハディース』にあるといいます。なるほど、 そこには、ムハンマドの夜の旅についてもっと詳しく書かれています。擬人化されたろばやその名、エルサレム の名も「遠くのモスク」として、そこには書かれています。しかし、この口述集はムハンマドの死後二百年経っ た九世紀まで、成文化されてはいませんでした。何よりも大きな矛盾は、現在、神殿の丘に建っているアル・ア クサモスクが建てられたのは、ムハンマドが亡くなって八十三年後の715CEで、ムハンマドが目指したはずの「遠 くのモスク」はそのときには神殿の丘に建っていなかったという点です。また、エルサレムがイスラム教にとっ て決して重要な聖地ではなかったことは、ムハンマドの死後、イスラム軍が最後に占領した町の一つにすぎなか ったことからもうかがえます。1977 年刊行の書『これがエルサレム』のイスラム教の箴言の中に、「メッカでの 一つの祈りは一万の祈り、メディナでの一つの祈りは一千の祈り、エルサレムでの一つの祈りは五百の祈りに匹 敵する」という句があるそうですが、エルサレムとメッカを比べるなら、エルサレムはメッカの 5%の価値とい うことになるのです。イスラム教の二つの最も聖なる地メッカとメディナを支配していたカリフは、記録による と、カリフ、エル・マリクのライバルでした。そこで、エル・マリクは、この政治的競争者に挑んで、691CEに 岩のドームを建てたといいます。その後、アル・アクサモスクも建てられたことにより、エルサレムはイスラム 教徒にとってへんぴで、さして重要ではない町だったのが、第三番目に聖なる地に昇格したのでした。 イスラエム教徒はその後さらに四百年間、神殿の丘を支配しましたが、1099CE、最初の十字軍遠征で、キリ スト教徒が占領し、アル・アクサモスクの中に「キリストとソロモンの神殿の貧しい騎士団」と呼ばれた新しい 聖職を開き、この聖職は後に、「テンプル騎士団」と呼ばれるようになりました。このように、ユダヤ人で始まっ た神殿の丘の借地権はイスラム教徒からキリスト教徒に移り、今日に至るまで、世界で最も聖なる地に数えられ る神殿の丘の所有権争いは依然として続いています。今月は、その背後の歴史を考察してみました。イスラム教 徒はいつも祈りの中で「アラー アクバル(神、あなたはもっと偉大なり)」を繰り返しています。彼らは、自分 たちの神が、アブラハムの神をも含め、他のどの神々よりもはるかに優れていると信じ、全知、全能、絶対者で 最大であるがゆえにご自分の掟を破ってでも、何でも望むことをすることのできる方とみなしています。昨今の イスラム国の非人道的、暴力的、傍若無人な主張には、彼らが従うこの神の性質が反映されているのです。