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共同売店写真展用解説パネル

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2015年修正、文・宮城能彦

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共同売店写真展用解説パネル

  1. 1. 共同売店の誕生と歴史 奥で生まれた「シマ」の知恵と心 近代化への防衛  今から 100 年以上前の 1906(明治 39)年 4 月、沖縄本 島北部国頭村の奥集落で雑貨商を営んでいた糸満盛邦は、 その利益を奥の人々に還元する方法を模索した結果、店を 提供してむらの共同事業として経営していくことを思いつき ました。  さっそく、宮城親孝、糸満盛弘、宮城文勝を発起人として むらに提案し承認され、常任事務員3人と監督(理事)若干 名をおいた「奥共同店」が発足しました。初代主任には糸満 盛守が選ばれています。  奥の共同店が設立された 1906 年は、日露戦争(1904〜5 年)直後、そして明治政府が沖 奥共同店の創設者、糸満盛邦氏 (奥共同店百周年記念誌)
  2. 2. 縄で近代的な土地制度と租税制度を行うために実施し た「土地整理」(1899〜1903 年)が完了したわずか 3 年後という、沖縄の人々の生活の基盤が時代の大きな 流れの中で大きく揺れ動いていた年でした。共同店の設 立は、そういった近代化、資本主義化の大きな流れの中 での本能的な自己防衛であったのかも知れません。 戦前の全盛期  奥共同店は山原船 3 隻を所有して、その後順調に経 営を続け、創立後 3 年で銀行からの借入金 6 百円を返済した上に、資本金 1500 円、建物 300 円を有するまでに発展しました。そして 1911(明治 44)年、奥の主な生産物である薪、木 炭、材木などの林産物を共同店が収集、出荷し、生産者から 15 パーセントの「税」(手数料)を 徴収することを始めました。  これは、「山は我々の祖先が子孫のために築いてきた遺産であり、山稼ぎをする人のみに利 益を与えることは祖先の意に添うものではなく、不公平である」(『字誌・奥のあゆみ』)という 考えからでした。1914(大正 3)年頃、奥共同店は戦前の全盛期を迎えます。 昭和 10 年頃の奥共同店と主任の宮城久善氏  (奥共同店百周年記念誌) 
  3. 3. 危機を乗り越えて復活  しかし、奥共同店の歩みは決して平坦なもの ではありませんでした。1914(大正 3)年、産業 組合運動が沖縄県に広まり、国頭村の指導に基 づいて奥共同店を解散し、「無限責任奥販売購 買信用組合」を発足させました。ところが、産業組 合はうまくいかず多くの借金を抱えてしまったの です。その後、1916(大正 5)年 11 月、共同店を 復活させ、翌年には負債も整理することができま した。  沖縄戦によって奥共同店は灰燼に帰し、一度解散しています。しかし 1947(昭和 22)年 4 月 7 日に「奥生産組合」という名で復活しました。驚くことに、奥では終戦の翌年にはむらの復 興に欠かせない製材所を設置、さらに 1950(昭和 25)年に酒工場を建設し、奥の泡盛を生産 しています。与論沖で座礁し廃棄された米軍の船から命がけでエンジンを運び出し、発電所や 製材所の動力として使ったというエピソードもあります。それらの施設は 1953(昭和 28)年に 共同店に統合されました。 昭和 22 年頃の勘定書と預金通帳
  4. 4. やんばるから沖縄全域へ  1906 年に奥共同店が発足して以降、大正期には近 隣の集落でも奥に倣って「共同店」が開設されていきま す。隣の楚洲(そす)集落と東村の有銘が 1914(大正 3)年、19 16年には安田、辺野喜、1918 年以降に宇嘉、 宜名真、謝敷、辺土名、佐手など、その広がりは沖縄本 島中南部や離島までおよび、かつては南風原町兼城や 八重瀬町具志頭にも共同売店がありました。  戦後も沖縄本島北部の多くの集落で共同売店は復 活し、1980 年頃には、沖縄本島北部に 86、中部7、南部 10、宮古3、八重山10、合計 116 の共同売店がありまし た(『沖縄大百科』)。興味深いのは、戦後石垣島開拓で 移住していった大宜味村の人たちが、伊野田、星野、大里、明石、久宇良において、郷里と全く 同じ形で「共同売店」を開設していることです。 薪の出荷風景(昭和 60 年頃)
  5. 5. 過疎、超高齢化の波  しかし、1972(昭和 47)年のいわゆる「本土 復帰」以降、沖縄でも過疎化、超高齢化が進み ました。奥集落の場合、現在の人口は約 180 人、戦後最も人口が多かった時代の 6 分の1、 100 年前の共同店創設当時の 4 分の 1 以下 でしかありません。  そして何よりも、道路交通網の整備等によっ て、例えば名護市にある大型量販店まで北部の どの地域からも 1 時間ほどで買い物に行くこと ができるようになりました。石垣市でも同じです。 そのため、共同店の利便性は失われ、経営は困難になり、多くの共同売店が廃止されていきま した。  共同売店が存続している地域は中核都市から比較的遠く、集落の人口が比較的多いとこ ろに限られつつあります。要するに、交通の便がよくなるほど共同売店の立地条件は悪くなる のです。 現在の奥共同店(2006 年撮影)
  6. 6. 共同売店はなくならない  ところが、現在においても奥共同店をはじめ、沖縄本島北部の国頭村、東村、大宜味村、名 護市旧久志村・旧屋我地村地域、恩納村、伊平屋島、伊是名島、宮古島、石垣島東北部、西 表島、波照間島において共同売店は確かに存続しています。採算だけを考えれば、共同売店 が存続していることの方がむしろ不思議に思えてきます。共同売店はなぜ今なお少なからず存 在しているのでしょうか。  それは、共同売店が、車の運転ができないお年寄りの日常品の買い物の場であり、ゆんたく =情報交換、社交の場、そして何よりお互いに助け合って生活している共同体の象徴だからで す。もちろん、村落共同体における相互扶助は甘いものではなく、そこには厳しいルールが存 在しています。  共同売店の運営も、「皆が助け合っていけば」というレベルでは継続不可能であり、その直 接の関係者の献身的な努力と構成員との信頼関係の積み重ねがあってこそ、現在まで存続 できているのです。共同売店はどこも厳しい状況にあります。しかし、みんな頑張っています。共 同売店はむらの象徴であり指標でもあります。共同売店を元気にしていくということは、むら自 体を元気にするということだと思います。 参考文献:『字誌・奥のあゆみ』(1986、奥区事務所発行)、『国頭村史』(1967、国頭村役場発行)

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