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大森の歴史とビール 〜大森はなかなかすごい町だったんだ〜

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境界線をなくしたい。

大人と子ども、男と女、先生と生徒、ステージと客席、
できるとできない、ありとなし・・・

全てをなくすことはできない、
それぞれの役割もあるし、今のシステムを動かしているものだから。
だけど、このビールを目の前にした時、
このビールがある場だけは、その境界線を取っ払いたい。

その境界線を越えて出会えるものを大事にしたい。
僕らが作りたいものはビールを通してできる、その空間。
境界線のない空間を作ることを目的にビールを作ります。

大森・山王ビールプロジェクト

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大森の歴史とビール 〜大森はなかなかすごい町だったんだ〜

  1. 1. 大森の歴史とビール 〜大森はなかなか すごい町だったんだ〜 大森山王ビールプロジェクト 町田 佳路
  2. 2. 明治9年 大森駅の開通 はじめに 境界線をなくしたい。 大人と子ども、男と女、先生と生徒、ステージと客席、 できるとできない、ありとなし・・・ 全てをなくすことはできない、 それぞれの役割もあるし、今のシステムを動かしているものだから。 だけど、このビールを目の前にした時、 このビールがある場だけは、その境界線を取っ払いたい。 その境界線を越えて出会えるものを大事にしたい。 僕らが作りたいものはビールを通してできる、その空間。 境界線のない空間を作ることを目的にビールを作ります。 大森・山王ビールプロジェクト
  3. 3. <1部> 明治〜大正でみる 大森の歴史
  4. 4. 明治初期 明治9年 大森駅の開通 明治中期 明治20年〜 別荘地と しての隆盛 明治後期 明治35年〜 温泉地の発展 大正初期 大正1年〜 望翠楼ホテル OPEN 大正後期 大正13年〜 関東大震災 明治〜大正 大きなポイント
  5. 5. 明治9年 大森駅の開通 明治初期 1)大森駅の開通 明治5年、新橋〜横浜間で鉄道が開通。 電車を走らせるためのあらゆる技術はイギリス人に頼っていたが、 その技師たちが大森近辺に住むようになり、 その影響で明治9年6月12日に 「大森駅」が開設された。 『当地の如きは当時猶純然たる農村で、停車場開設の如き殆ど問題に上がらなかったが、当地には測量着手の始めよ り相当の地位にある傭英国人奇遇し、鉄道従事外人の出入りも頻繁なるのみならず、これらの為今の停車場南寄りの 位置に、その休息所を建設して置いた等の関係で、開通以来数年間は鉄道従業員往復乗車降の便宜上臨時該休息所付 近に列車を停めつつあったが、明治9年6月12日先づ前記外人休息所を假用して、即ち新井宿に停車場を置かれるこ とになり、之を大森駅と命名し、始めて一般の運輸取り扱いを為すに至った。』(『東京市大森区役所』昭和14年2 月刊) 「東京蒸気車鉄道一覧之図」猛齋(歌川芳虎)版元・沢村屋清吉 明治4年(1871) 国立国会図書館デジタル化資料蔵
  6. 6. 明治9年 大森駅の開通 明治初期 1)大森駅の開通 ちなみに、近隣だと、 蒲田駅:明治37年(28年後) 大井町駅:大正3年(48年後) 渋谷駅、新宿駅:明治18年(9年後) POINT1 とても早い時期に大森駅はできていた 鉄道開通から、乗客は裕福な日本人か外国人であった。 彼らは品川に近く風光明媚であった大森の台地に別荘を造っ た。その一人、ウイリアム・モースは車中から貝殻が堆積す る地層を発見した、大森貝塚である。 ちなみに、発見は明治10年(1877年)の6月17日。 大森駅開通から約1年後。 引用:古くから暮らしが営まれていた大森・蒲田 〜 大 森・蒲田 | このまちアーカイブス | 不動産購入・不動 産売却なら三井住友トラスト不動産
  7. 7. 明治9年 大森駅の開通 明治中期 2)別荘地としての隆盛 明治17年、梅の名所「大森八景園」が出来上がる。 郊外随一の遊園地として有名になる。 1902(明治35)年には皇后(後の昭憲皇太后)も 行啓された。 引用:フォト蔵:ヤスフロンティアさん 現在の「大森駅」山王口前の「池上通り」の坂道からはかつて、遠くは房総ま で一望できたという。 「笠島夜雨、鮫洲晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、 池上晩鐘」という八つの美しい風景が見えることから「八景坂」と呼ばれてい た。坂の上には源義家が奥州平定に立ち寄った際に鎧をかけたと伝えられる 「鎧掛松」があったといい、歌川広重の浮世絵にも描かれている。【画像は 1856(安政3)年頃】 引用:住宅街へ発展した景勝地・山王| このまちアーカイブス | 不動産購入・不動産売却な ら三井住友トラスト不動産
  8. 8. 明治9年 大森駅の開通 明治中期 2)別荘地としての隆盛 明治20年、東京で最初の海水浴場が大森海岸(通称:八幡海岸)に 出現する。 当時海水浴場は大磯海岸にしかなかったので、 東京近郊の海水浴場として大森海岸の名は有名になっていく。 引用:大田区ホームページより タイトル:八幡海岸海水浴場 撮影年月日:昭和24年 撮影場所:大森本町一丁目
  9. 9. 明治9年 大森駅の開通 明治中期 2)別荘地としての隆盛 明治22年、「大森射的場」が、本郷向ヶ丘から移転される。 敷地内には会員家族用のテニスコートも設置される(大正12年)。 引用:ピチョリWebサイト(Pichori website) 現在も残る大森テニスクラブ
  10. 10. 大森白木屋 正面パース(「石本建築事務所50年の軌跡」より) 明治9年 大森駅の開通 明治中期 2)別荘地としての隆盛 1889(明治22)年に東海道線が全線開通すると、この頃からさらに、 山王や大森に別荘・住宅を建てる外国人に始まり、 政治家、実業家、高級官吏、高級将校などが増えた。 この大森という地は、目先の馬込エリアの牧歌的な風景と高台からは 海が近く、梅がきれい、つまり風光明媚であったこともあり、 その価値を高めていく。 ちなみに、銀座の支店も多く設置された。 (例えば亀屋、白木屋、不二家・・・) POINT2 国際色豊かな文化度の高い別荘地が 出来上がっていた
  11. 11. 明治中期 2)別荘地としての隆盛(参)) 例えば、大森にゆかりのある政治家で言うと、下記のような人が。 伊藤博文もいます。 ■西園寺公望 第12・14代内閣総理大臣。「最後の元老」。 フランス留学による帰国から13年経った明治26(1893)年12月頃から6年ほど住み、 その邸を望緑山荘と言った。現在望緑山荘の一部は大森郵便局となっている。 ■加納久宜 政治家。都内最古の入新井信用組合設立。日本人による初の馬券付き競馬を、 東京大森の池上競馬場にて開催。 現在の山王公園の前に屋敷(明治33年頃)があった。 ■井上馨 明治初期の閣僚を歴任した政治家、実業家。「元老」。 山王小学校は井上馨の別荘のあった土地を譲り受けて1925(大正14)年に開校。
  12. 12. 明治9年 大森駅の開通 明治後期 3)温泉街、花街の出現 明治34年には、京急電気鉄道(現:京浜急行)、 大師駅(川崎大師)ー大森停車場駅が開通。 明治35、6年、大森町の先に東京23区最古の温泉と言われる 「森ケ崎鉱泉」付近に温泉宿が出来上がり、保養地、臨海行楽地として栄え てきた。 △絵葉書 森ヶ崎鉱泉 旅館 寿々元 引用:明治・大正名所 探訪記
  13. 13. 明治9年 大森駅の開通 明治後期 3)温泉街、花街の出現 当時は山谷駅(現:大森町駅)から人力車が出るなどしていた。 明治末には芸者を置く、旅館が十数軒も出来、大正になるとさらに増えてい き、 多くの文士が執筆なのか、一夜の清遊なのか、遊びに来るようになる。 (染谷孝哉『大田文学地図』) この街をこよなく愛し、享楽地への変貌を書き取ったのが、 作家の尾崎士郎であった。 ※尾崎士郎の随想風の作品『京浜国道』(昭和32年、朝日新聞社)には、 彼自身の交遊の背景として、品川から横浜にいたる東京湾岸の花街が描かれ、 一種の風俗文学としても読むことができる。 POINT3 別荘地と並行する様に文化人などが 休める、遊べるまちが出来上がった
  14. 14. 明治9年 大森駅の開通 大正初期 4)望翠楼ホテルの設立 大正1年、東京でも本格的なホテルが珍しい頃に、望翠楼ホテルが出来上が る。 各室バストイレ完備の、天井高い洒落たホテル。 ホテルをきっかけに、様々な文化的交流が始まる。 ・「木原会」・・・大正5年〜8年 日本画、油絵、水彩、版画などジャンルの違う作品が一堂に展示された 画期的な展示会。 ・「大森丘の会」・・・画家と詩人のサロン。 ここには川崎龍子(日本画)の姿も。 このような形で文化的交流を育むコミュニティも出来上がってくる。 POINT4 名声を集めている芸術家が 集まり始めてきた
  15. 15. 明治9年 大森駅の開通 大正後期 5)関東大震災〜文士村 尾崎士郎、宇野千代夫妻は大正12年5月、馬込に新居を構える。 その年の大正12年9月1日に「関東大震災」が起きる。 POINT4 <その後の流れ> ・勤労者を中心に郊外へ移住機運高まる (郊外とは山手線の外側) ↓ ・文士や芸術家も例外ではなかった ↓ ・特に文士や芸術家が多く集まった街を 後世「文士村」と呼んだ 「人に愛されすぎるのが唯一の欠点のような男」の名に恥じず、尾崎士郎・宇 野千代夫妻は多くの文士を大森に呼び、それ以前から住む文士や芸術家と新た に移ってきた文士や芸術家が交流するようになる。
  16. 16. 明治9年 大森駅の開通 大正後期 5)関東大震災〜文士村 交流は、酒を飲みつつの文学談義に始まり、ダンスパーティーに麻雀、さら には恋愛。その中心にあったのが、尾崎士郎宅で、たくさんの人が集まり、 情報が集中・誇張伝達されるため「馬込放送局」と呼ばれた。 例えば、ここに居た文士で言うと、 萩原朔太郎、川端康成、室生犀星、山本周五郎、北原白秋など POINT4 川端康成 「細君連中が相次いで断髪し、ダンスが流行し、恋愛事件が頻出し、大森の文士連中 のハマりはなんだか熱病に浮かれたようであった。とにかく賑やかで面白かった。私 までが宇野千代氏と方々歩いたので、恋人と誤解した人もあったらしい。(現代語訳 「文学的自叙伝」)」 宇野千代 「若い女が髪を短く切って断髪にすることが流行し始めていた・・私は勇気を振り起 して髪を切った・・「わああ、大変だ。宇野千代が髪を切って、7歳も若く見えるよ うになった」と言って、馬込中が大騒ぎになった。すると気の良い萩原稲子が、たち まち私の真似をして髪を切った。川端康成の妻も切った。一大異変が起こったので あった・・萩原稲子は自分よりうんと年下の、まだ18歳にしかならない若い学生と恋 に落ちて、一緒に駆け落ちした。(一部現代語訳「しあはせな話」)」
  17. 17. 明治9年 大森駅の開通 大正後期 5)関東大震災〜文士村 そんな形で、様々なジャンルを超えた、文士や芸術家が集まり、 色々なコミュニティを形成していった。 そして世界でも珍しい女流作家の活躍。この時代、多くの女流作家の活躍が 見られるのは世界でも英国と米国を除いては日本しかもこの馬込文士村だけ である。 宇野千代のほか、村岡花子、柳原白蓮、 さらには、その奥さんたちもサロンを形成していた。 POINT4POINT5 関東大震災の流れがあって、多くの文 士や芸術家なども住むようになった 村岡花子 日本の翻訳家・児童文学者。児童文学の翻訳で知られ、モンゴメリの著作の多くと、 エレナ・ポーター、オルコットなどの翻訳を手がけた。 代表作は「赤毛のアン」で、2014年、NHKで「花子とアン」が放送された。
  18. 18. 大正期〜戦前〜戦後 5)関東大震災〜文士村 と、ここまでが大森の明治〜大正期の文士村が出来、繁栄するまで。 その後、昭和に入り、戦争が激しくなると疎開したり、交流が一旦止まるが、 戦後、文士たちはその頃は大物になり、家を構えたりとまた戻ってくる。 戦後にもこのようなコミュニティが復活し、 有名なのが三島由紀夫コミュニティ。 そしてこの三島にも影響を与えた一人が書いた、 ある作品の舞台が大森であった。 文士村の歴史資料からは見つけられない、 何かがあったのではないか?ということで、ここからは後編。
  19. 19. 参考 5)関東大震災〜文士村 そんなこれまでの歴史は、下記のようなところで見ることができます。 ■山王会館 ■大田区立郷土博物館 ■尾崎士郎記念館 ■龍子記念館
  20. 20. <2部> 大森はハイカラだった
  21. 21. 大森はハイカラだった 関東大震災から1年後の大正13年(1924年)に 発表された谷崎潤一郎「痴人の愛」。 谷崎潤一郎38歳の頃、もう文壇的地位は獲得していた頃。 「痴人の愛」
  22. 22. 大森はハイカラだった カフェーの女給から見出した15歳のナオミを育て、いずれは自分の妻にしよ うと思った真面目な男が、次第に少女にとりつかれ破滅するまでを描く物語。 小悪魔的な女の奔放な行動を描いた代表作で、「ナオミズム」という言葉を 生み出した。 ■文章冒頭 私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私達夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正 直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思います。それは私自身に取って忘れ がたない貴い記録であると同時に、恐らくは読者諸君に取っても、きっと何かの参考資料となるに 違いない。殊ことにこの頃のように日本もだんだん国際的に顔が広くなって来て、内地人と外国人 とが盛んに交際する、いろんな主義やら思想やらが這入はいって来る、男は勿論もちろん女もどし どしハイカラになる、と云いうような時勢になって来ると、今まではあまり類例のなかった私たち の如ごとき夫婦関係も、追い追い諸方に生じるだろうと思われますから。 〜「痴人の愛」あらすじ〜 ハイカラだと自ら語るほどの舞台になるのが「大森」。話 の中に、先の海岸や料亭、洋館などが出てくるが、このハ イカラをイメージされるくらい、当時(大正後半)の大森 とはとても最先端の場所であったのではないだろうか。 POINT1
  23. 23. 大森はハイカラだった ハイカラを表すのに「大森」であったのは歴史からわかるが、 他にも理由があるのでは?と言うことで探してみると、 一人の哲学者が浮上。 それは実際に大森に一時期住んでいた「和辻哲郎」(大正元年〜4年)。 ともに若かりし頃、「新思潮」を創刊(明治43年)。 「ニーチェの哲学」を書いたのがこの大森であった。 なぜ大森を舞台にしたのか?
  24. 24. 大森はハイカラだった 二人を表すエピソード。和辻の方が3歳年下。 オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の原書(英語)を、和辻が 谷崎に貸したのですが、あちこちアンダーラインが引いてあった。返す時谷 崎は、 「君がアンダーラインを引いたところ以外が面白かった」と言う。 これを機に和辻は谷崎との差を感じ、文学の道を諦め、日本倫理学の祖を築 いていく。 なぜ大森を舞台にしたのか?
  25. 25. 大森はハイカラだった ハイデッガーや西田幾多郎の哲学を参照しつつ、「間柄」と言う概念を展開し、日本 の倫理を正統化しようとする試みがなされている。が、難しい。。。 内容は言ってしまえば価値の再燃。 つまり西欧重視された日本の中で、日本のこれまでを意味づけすることで価値化した。 ・本居宣長「もののあはれ」 →宣長以降は誰もふれてこなかった話題を再燃。九鬼周造は、この和辻の開示があったから、 「いき」をめぐる仕事にとりかかる気になれたと言っている。 ・ 『鎖国』では誰もが目を伏せて語っていた鎖国に積極的な意味を持たせた。 ・奈良は1500年の古都ではない。むしろ奈良は、何度にもわたる焼亡をへて再建 され、再興されたのだと書いた。 日本倫理学とは? 編集者松岡正剛は、和辻哲郎を「無知や孤立や絶望そのこ とを問題にしない。それらから立ち上がろうとしたときの 人間を問題にする。再興し、再燃するものこそが倫理なの である。」と称した。 POINT2
  26. 26. 大森はハイカラだった 「再興し、再燃するものこそが倫理(人間)なのである。」 和辻・谷崎からビールへ 編集者松岡正剛は、和辻哲郎を「無知や孤立や絶望そのこ とを問題にしない。それらから立ち上がろうとしたときの 人間を問題にする。再興し、再燃するものこそが倫理なの である。」と称した。 POINT2 100年前、確かにハイカラな街であった「大森」。 今も決して衰えたわけではないけど、 その時の誇りは今も残っているはずである。 大森は他の町と同じように駅ビルに始まり、 ドンキやニトリやイトーヨーカドーなど大手チェーンが多々あるが、 今でも海があり、山があり、谷があり、置屋があり、多種多様な町である。 そんなこの街の魅力をもう一度再燃することができないか。 大森の魅力をもっと伝えたい、そしてそれをビールに託したい。
  27. 27. 大森はハイカラだった 和辻・谷崎からビールへ 編集者松岡正剛は、和辻哲郎を「無知や孤立や絶望そのこ とを問題にしない。それらから立ち上がろうとしたときの 人間を問題にする。再興し、再燃するものこそが倫理なの である。」と称した。 POINT2 色々な大森の人の話を聞いていく中で、ある年配の女性が評した 「大森は色気と田舎臭さのまち」 和辻・谷崎の残した文章から察するにハイカラとは「色気(=グローバル)」と 「田舎臭さ(=ローカル)」の融合のことではないだろうか。 単にグローバルだけを目指すのではなく、 その土地でしか味わえないローカルも大事にする。 それは境界線のない世界。 「グローバルとローカルの融合」が谷崎と和辻の主張であったのではないだろうか。 当時の進む近代化一本主義に対して谷崎は文学で、和辻は倫理学で示した。 それがこの「大森」をきっかけにして生まれ、舞台にして描かれた。 100年経った今でも重要なテーマである「グローバルとローカル」。 それを先んじて表現してきた大森だからこそ、今もそんなまちでありたい。 羽田に近い大森がそんなまちであってほしいという願いを込めて。
  28. 28. 大森はハイカラだった 編集者松岡正剛は、和辻哲郎を「無知や孤立や絶望そのこ とを問題にしない。それらから立ち上がろうとしたときの 人間を問題にする。再興し、再燃するものこそが倫理なの である。」と称した。 POINT2 ということで、これから 大森山王ハイカラビール を出していきます。 5月末には色々と発表できるかと思いますので、 楽しみにしていてください!!
  29. 29. 何か新しいものを初めて観察することではなく、 古いもの、古くから知られていたもの、 あるいは誰の目にもふれていたが 見逃されていたものを、 新しいもののように観察することが、 真に独創的な頭脳の証拠である。 -フリードリヒ・ニーチェ-
  30. 30. 参考文献ほか ビールのデザイン<協力> 馬込文士村継承会 <参考文献> 「痴人の愛」谷崎潤一郎 「若き日の和辻哲郎」勝部 真長 「風土」和辻哲郎 「馬込文士村誕生の背景」馬込文士村継承会 「馬込文士村の誕生と発展」馬込文士村継承会 <参考サイト> 松岡正剛の千夜千冊 wikipedia 古くから暮らしが営まれていた大森・蒲田 〜 大森

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